リットン報告書は受け入れてもよかった

1931年に発生した満州事変が石原莞爾と関東軍による画策で行われたということについては、もはや議論の余地はないように思います。思想信条がいわゆる右の人であろうと左の人であろうと、そこは一致するのではないでしょうか。で、この事件は蒋介石の中華民国政府が国際連盟に訴え出て、国際公論の場でなんとかしてもらおうと考えます。軍事力では日本に対抗し難いので、国際世論に助けてもらおうというわけです。この辺り、私は蒋介石はなかなか考えたというか、戦略的思考のできる人だと思います。

さて、日本は満州事変によって誕生した満州国がウッドローウイルソンの提唱した民族自決の趣旨にそったもので、満州地域の住民が自発的に望んで独立したのだと主張したわけですが、蒋介石も第一次世界大戦以降の世界的な平和志向の流れに沿う形で、満州が中国の主権の及ぶ範囲であり、まあ、力による変更は認めないと真っ向から対立します。

で、イギリス人のリットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団が日本、満州、北京と歩いてその報告書を提出します。リットン報告書です。一般的なイメージでは、リットン報告書は日本の主張を厳しく批判し、日本を糾弾するものだったかのように受け止められていると思うのですが、内容は全然そんなことはありません。リットン卿は北京で書いたとする報告書の中で、満州国は関東軍の実力行使の結果生まれたもので、現地住民の意思なんか全然反映されてないし、民族自決とは関係ないと壟断していますけれど、一方でその解決策としては中国の主権の及ぶ範囲であると認めつつ、現実的には当該地域の自治と日本の利権を認め、日本を中心とした国際管理を提案しています。即ち、中国には名を与え、日本には実を与えるというなかなかに現実主義的なプラグマティックで実現可能、双方の言い分をそれなりに取り入れた内容になっているように思えます。

しかしながら、日本の代表の松岡洋右はリットン報告書を受け入れるようにとする国際連盟の勧告に強く反発して国際連盟脱退するという悪手を選んでしまいます。この辺りに関するものはどの書物を読んでも非常にがっかりする場面で、読めば読むほどがっくししてしまうのですが、仮にプラグマティックに考えるのであれば、中国には名目上の主権はあるものの、満州に日本主導下の自治政権が立ち上がるわけですからその実をとり、スペードのエースともいえる溥儀を抱えているわけですから、溥儀に満州族の独立の必要性を訴えさせ、少しずつ満州国の既成事実化を図るという選択肢はあったはずです。リットン報告書は日本にとって全然損な話ではなく、受け入れ可能なものでした。にもかかわらず、日本側の主張を全て認めないのであれば脱退するという、残念ながらかなり一方的な外交が行われたことは、慚愧に耐えないとすら思えてしまいます。しかも、イギリス側からは国際連盟とは別のテーブルでみんなで仲良く満州で列強がおいしいおもいができるようにしませんか?という提案すらなされているのに、それをも拒絶しています。なんじゃこりゃ!と言いたくなってしまいます。イギリスの提案にのっかれば、リットン報告書を最低条件にして更に上乗せした条件で交渉できたでしょうから、こんなにいい話は本当はないはずです。それを断るというのは「世間知らず」というものです。

一応ことわっておきますが、日本がどうすれば満州を手に入れることができたかを考えたいわけではありません。「満州は日本の生命線」という当時の言説そのものがプロパガンダみたいなものですし、そもそもアメリカを仮想敵としたから後顧の憂いを断つために満州を手に入れたいという願望が湧いてきたわけですけれど、アメリカを仮想敵にする必要はありませんでしたから、満州は最初から日本人にとって必要のない土地なのだと私は思います。あくまでも当時の政治の責任者たちがどうしても満州に影響力を持ちたいというのなら、違った戦略的思考を持つべきだったのでは?ということです。

近年の研究では内田康哉が松岡に対して「脱退せよ」との訓令を出し、松岡が「外交は腹八分目でなくてはならない」と返信したという発見があったみたいなのですが、この時の内田の発想法は国際連盟から脱退すれば、国際連盟の勧告に従う必要はないという場当たり的で大局観のないもので、このやり取りを見る限り、松岡の方が真人間に見えてきます。松岡は国際連盟の脱退を失敗だったと考えていたようですが、帰国すると国民からは拍手喝采で、日本が大きく道を誤った大きな要因として新聞による世論の誘導は無視できないだろうと思えます。その後、松岡はおそらくは相当に悩みぬいて国際連盟を軸とする世界秩序に対抗するために日独伊枢軸であったり日ソ中立条約であったりというものを構想していきます。近衛文麿内閣の東亜新秩序更にその後の大東亜共栄圏構想というのも、国際連盟による世界秩序に対抗する軸としてどんどん関係者の頭の中で膨らんでいったものなのだろうと思います。結果として日本は敗戦し、今も敗戦国民の地位にいるわけで、本当に後世の日本人の一人としては、なにやってんだよ…としょんぼり突っ込みたくなってしまうのです。


斎藤実内閣‐事件を呼ぶ首相

犬養毅が515事件で倒れた後、朝鮮総督を二度務め、シーメンス事件で失脚していた斎藤実が後継首相として西園寺公望に指名されます。

西園寺は荒木貞夫から「陸軍は政党政治には協力しない」と告げられており、昭和天皇からは「ファッショな人物は絶対にNG」と言われていたため、海軍出身でかつリベラルと目されていた斎藤実で双方の意見をまとめたという印象です。西園寺は政党政治志向の持ち主であったと考えられていますが、軍部が執拗に非政党政治を追及してくることをかわし切れなかったという感じで理解しています。

斎藤実はとにかく事件と一緒に生きた人という印象が強いです。朝鮮総督時代には爆弾テロに遭遇し、ドイツの企業から海軍の幹部に贈賄があったとされるシーメンス事件で失脚し、斉藤実内閣自体も平沼騏一郎の陰謀説がある帝人事件で総辞職し、226事件で非業の死を遂げます。新聞記者の世界には事件を呼ぶ新人というのがあって、その人物が配属された先ではやたらと事件が起きるという伝説みたいなものがありますが、斎藤実もまた、事件を呼ぶ軍人だったのかも知れません。

斎藤内閣では日満議定書を結んだほか、運命の国際連盟脱退をしています。1930年代の政権は一つ一つの選択がまるで狙ったように国際的孤立と最終的な滅亡へと着々と進んでいるようにも見え、やはり、日本はそういう運命だったのか…と思わなくもありません。

近年では日本全権として国際連盟の総会に臨んだ松岡洋右は国際連盟の脱退を避けたいと考えていたことが分かっているようです。天皇もしくはその側近から国際連盟の脱退は避けてほしいと内々に伝えられていたと言います。私は松岡洋右はとんでもない帝国主義者なのではないかという印象を以前は持っていましたが、最近の研究が正しければ、まっとうな常識人だったと言えるかも知れません。

ヨーロッパの総会で松岡が孤軍奮闘している時、関東軍は熱河作戦を行い、更に占領地を広げていきます。この難しいタイミングで関東軍は一体何をしているのか…とため息をつきたくなりますが、関東軍の作戦地域の拡大により、松岡は更に厳しい立場に追い込まれていきます。イギリスが本音ベースで話し合おう(列強でおいしいところを分け合おう)と持ちかけ、松岡はそれを渡りに船と考えたようですが、東京では「国際連盟を脱退すれば、満州のことで経済制裁を受けずに済む」という考えが持ち上がり、松岡に「脱退せよ」との訓令が届きます。松岡は後に「脱退したことを激しく後悔した」という主旨のことを書き残していますが、以上のような経緯を見れば、確かに後悔するであろうと思える展開です。松岡が東京を説得してイギリスの提案に乗ることができれば、太平洋戦争は起きなかったかも知れません。

ただ、陸軍はまるで過食症の患者のようにどこまでもどこまでも拡大し続けようとしていましたから、日本という国が当時の陸軍という組織を抱えている限り、どこかで日本は破綻したのではないかという気がしなくもありません。

斎藤実内閣の次は、岡田啓介内閣で226事件が発生します。誰か陸軍を止めてくれ…。

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