2020年中国が台湾に侵攻する説を考える

インターネットで中国、台湾、2020と検索すれば、中国がその年に台湾を侵攻するとする説でもちきりなのが分かる。中国語のブログなども参考にしてざっくりとしたことを述べると、軍拡に熱心な中国は2020年には台湾に侵攻しても他国の干渉を排除できるだけの体制を整えることができると台湾の防衛白書に書いてあるらしいのである。

仮にそのようなことが書かれてあるとしてその真実性について考えてみたい。

中国の台湾に実質的な施政権を及ぼしたいという念願は強く、最優先の国策国是になっていると言ってもいい。そのため、現在の共産党政府が存続する限り、台湾を吸収編入しようとする努力は続けられると考えていい。だとすれば問題は、①中国共産党政権が存続し続けるか ②存続し続けるとして、彼らは台湾編入をなし得るかということになる。まず①から考えたい。

中国経済の衰退の兆候は様々に見られる。しかし、現在までに破綻や衰亡のような危機的状況に至っているかといえば、そうとは言いがたい。中国経済の指標には嘘やデタラメ、インチキが多いという指摘は多いし、もしかするとそれは当たっているかも知れない。たとえばソビエト連邦が崩壊した後、彼らが相当にデタラメな数字を使って実際には火の車の経済を糊塗していたことが分かってきたため、中国共産党政府も同じ運命をたどるのではないかと言う指摘があることも確かである。しかし現状、共産党政府が崩壊する外形的な兆しはない。経済的な衰退と言っても前ほど伸びなくなったというだけであり、日本に比べれば羨ましいほどの成長力は今も備わっていると見るべきだ。あるいは帳簿が二重だったり、数字がごまかされていたり、約束の不履行が次々と明るみになるということはあり得るが、我々が生きている間に、それらの綻びが共産党政府を破綻させるに至るほどのものになるかどうかは分からないし、当面はなさそうに見える。中国共産党政府は当面存続するだろうし、台湾編入の努力は引き続き熱心に行われることだろう。

では、彼らは果たして本当にそれをなし得るかということが議論されなくてはならない。台湾が中国に吸収される日は本当に来るのだろうか?2020年に外国の干渉をゆるさないほどに強力な軍事力を整えるということは、一言で言えばアメリカよりも強くなるということだ。アメリカは今も世界の覇権国だが、近い将来中国がアメリカに取って代わるかどうかは今のところは何とも言えない。取って代わるかも知れないと思えるほどに中国は巨大である。ただ、アメリカが衰退しているわけでもない。アメリカの世界経済に対するプレゼンスが下がっているのは確かだが、アメリカ経済そのものは堅調であり、他の地域、特に中国が急速に発展したためにアメリカのプレゼンスが相対的に下がったということでしかない。そのため、アメリカが中国よりも更に強い軍事的なパワーを維持したいと考えているとすれば当面の間、それは可能だし、台湾を西側の砦として守り抜くというアメリカの姿勢が崩されることは、これも当面の間はなさそうである。

とすれば、将来的に中国かアメリカのどちらかが台湾を諦めるまでこの紛糾は続くということになり、また、どちらが諦めるかを見届けることは最終的にどちらかが勝ったかを見届けることにもなると言えそうだ。

それはある程度遠い将来のことかも知れないが、意外と近い将来にそれを占うことができそうな外交日程がある。米朝首脳会談は実現の可能性が相当に高まってきているし、本当に実現すれば米朝平和条約も雲をつかむような話ではなくなってくる。その場合は中身が問題になってくるわけだが、先日行われた南北首脳会談では朝鮮半島の非核化を目指すことが声明されており、北朝鮮が核放棄をする見返りに在韓米軍は撤退することを目指したものだと言って良い。北朝鮮のリーダーは必ずしも世間で言われているほど愚かな人間ではないことは最近になってはっきりしてきた。中国にも二度に渡って訪問しており、背後には強力な味方がついていることをアピールしたからだ。アメリカに対しては北朝鮮は甘くないというメッセージになっただろうし、中国に対しては北朝鮮は従順であるというメッセージになった。

即ち、米朝首脳会談は実際には米中の駆け引きとせめぎ合いであり、どちらが外交達者かを見極められる舞台になるはずだ。トランプ大統領が適当に折り合いをつけ、例えば限定的な核査察しか行われないのにそれを認めたり、在韓米軍も撤退とまではいかなくとも縮小することに同意したりすれば、中国は台湾に関しても同じように駆け引きができると考えるだろう。そうなれば俄然、台湾の中国への編入は現実味を帯びてくることになる。反対にトランプ大統領がかなりの強硬姿勢で完全な核査察の実現にこだわり、在韓米軍も撤退しないということで話がつくのであれば、中国は台湾に関することでもアメリカがどういう態度で臨んでくるかを予想することができるため、台湾を強引に編入することには躊躇することになるはずだ。

尤も、中国が台湾を武力的に襲撃して占領するということは考えにくい。そのような目立つやり方をすれば世界から警戒され非難されるということは議論するまでもないことだ。そのため、台湾人の自発的な統一への意思に沿うという体裁で統一を進めて行くはずである。私が当局者であれば、台湾で国民党政権が返り咲くのを待つし、国民党政権復活のために協力できることをやろうとするだろう。そして国民党政権下で躊躇なく統一の手続きを進めようと考えるはずだ。国民党の中にも統一を良しとしないグループは存在するため、そのことにも手を打たなくてはならないが、説得するか粛清するか利益誘導するかして何とかするということになるはずだ。

昨今の2020年に中国が台湾に侵攻する説は、台湾の独立を志向するグループから広められたのではないかと私には思える。蔡英文総統の二期目があるかどうかは意外と不透明で、独立派はまずは蔡英文氏の二期目の当選を確かなものにしたいからだ。2020年というリアルな時間軸は、危機感を煽ることで蔡英文氏が選挙戦で有利になることを狙っているのではないかと考えることができる。私の想像、推測、憶測である。

しばらくは米朝首脳会談の結果を待つしかなさそうだ。会談が実現するかどうかもまだ分からないのだ。直前のキャンセルもあり得るのだから。


昭和史71‐植民地と総力戦

日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。

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昭和史63‐日本型植民地とオランダ型植民地

昭和15年8月15日付のとある情報機関の機関紙に、台北帝国大学の浅井恵倫教授がオランダの植民地政策がどういうものかを論じる原稿を寄せていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。この浅井教授という人がどういう人なのか検索をかけてみたところ、オランダに留学してライデン大学で台湾原住民の言語の研究で博士号を取得した人で、その後台湾で教授になり、戦後もしばらく中華民国のために台湾で仕事をした人であったことが分かりました。要するにオランダと台湾のプロということになりますから、オランダの植民地政策と日本の植民地政策の違いを論じるのにうってつけの人物と言えるかも知れません。で、当該の記事によると、オランダのような小国がどうしてインドネシアのような広大な地域を支配し続けることができているのかという点について、当該地域の王族を優遇し、王族を通じて現地の人を間接支配をしたからだということらしいです。このことについて、浅井教授の原稿では

王族を通じて一般土民(ママ)は自由に操縦され、飽くなき搾取に搾取は繰り返され、蘭印民衆の永久に立つことのできない様に、仕組んでしまったのである。その仕打ちたるや正に悪辣といふか、非人道的と言ふか、これを台湾の植民地政策と比較対照した時、まさに雲泥の差があるといはなければならない。そこには、東洋と西洋に於ける、自らの民族的見解の差があるのではあるが、一は精神的同化を目指し、一は物質的搾取を目的とする、東西の両極端をよく表現してゐるものと言へよう。

としています。日本帝国の敗戦後、日本の皇民化は内心の自由を奪おうとしたという観点から批判されるわけですが、当該の原稿では日本の植民地政策は精神的な合一、即ち愛情があるのに対して、オランダの植民地政策には単なる物理的な搾取があるのみで、現地の人を幸福にしようとか、そういうものは全然ないという批判をしています。

現代人の観点に立つとすれば、半分当たっていて半分当たっていないという感じではないかと思います。日本帝国が台湾の開発に大変に熱心であったことはよく知られています。良いか悪いかは別にして農業を振興させ、資源を開発し、現地の人に義務教育を施し、工業化も目指しました。長い目で見れば植民地が農工業で発展している方が、帝国の収支は良くなるという意味で帝国にとっては優良資産になりますし、現地の人にとっても生活の向上につながります。李登輝さんが総統をしていた時代にはよくこういった点が良い評価がなされていました。ですが一方で、皇民化という取り組みは「私は何者なのか」という大切な内心な問題に介入し、日本人だと信じ込むように誘導したという点では、やはり必ずしも高く評価することはできないのではないかとも思えます。戦後の日本国憲法では内心の自由を重視しますから、その憲法下で教育を受けた戦後世代としては内心の自由を侵す皇民化は問題視せざるを得ません。ですので、浅井教授の指摘は半分は当たっているけど半分は外れていると言う結論になってしまいます。

尤も、当時は日中戦争の真っ最中に情報機関のプロパガンダ紙に原稿を書くわけですから、浅井教授としても日本の帝国主義を批判するわけにはいかなかったでしょうから、先に引用したような内容にならざるを得なかったとも思えます。当時は「日本人になれること=良いこと」を大前提にしないと原稿が書けなかったでしょうから、上のような体裁にするしかなかったのかも知れません。

当該の原稿では最後の方で「来たるべき日のために」という、なかなか意味深長な言葉も含まれています。当時既にオランダ本国はナチスドイツの支配下に入っており、やがてアンネフランクが隠れ家で後に世界が涙する日記を書くことになるわけですが、オランダ領インドネシアは本国のバックアップなしに経営を続けなければならないという逼迫した状態に置かれていたわけで、当該の記事では今こそ現地住民が立つことができるという趣旨のことを述べています。日本帝国はインドネシアの現地の人々を助けることができるし、台湾は南進政策の重大な拠点なので、その持つ意味は大きいという趣旨のことも述べられています。「大東亜共栄圏言説」なるものがどういうものかがよく分かると記事だと言うこともできるようにも思います。大東亜共栄圏は結果としては失敗でしたし、日本人にとって何らメリットはなく、戦後も批判の対象になるわけですが、当時の日本人が「大東亜共栄圏」にどういうイメージを持っていたかを感じ取れたような気がしなくもありません。

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昭和史62‐皇民化と教育

とある情報機関の発行する昭和15年5月21日付の号では「皇民化と教育」という、日本型帝国主義研究の畑としてはそのものずばりとも言えるタイトルの記事があったので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該記事の著者は今井盛太郎という人で、台北第二中学校の校長先生をしている人であるとのことです。今井盛太郎さんという人のことについては検索をかけてもよく分かりませんでしたが、台北第二中学校について検索をかけてみたところ、現在の中正区という高級繁華街のエリアに属する地域に存在したということで、抗日運動をする人物を多く輩出したとwikipediaの中国語版には書かれてありました。日本語のバージョンは存在していません。抗日運動の面々についてwikiを深く掘り下げていけばもうちょっといろいろ分かるかも知れないですが、今回は当該の記事に照準を合わせたいと思います。

この記事では、皇民化という言葉は以前からあったが、数年前まではそんなに熱心には言われていなかった。とし、以前は台湾の学生が学校でも平然と台湾語を使っていたが、最近はそういうことはなくなって隔世の感があるし、家庭でも日本語を意識的に使うようになってなかなかめでたいみたいなことが書いてあります。次いで、そもそも「皇民化」とはということについて、日本帝国の人は全員が皇民なのだけれど、使用する言葉、生活習慣、更には血統までもが「内地」と同じになる状態と定義し、過去の例としてなんと坂上田村麻呂の東北遠征を挙げています。即ち、東北の人だって、今では疑いようのない皇民なんだから、台湾の人もそういう風になれるはずとしているわけです。その目玉になるのが創氏改名で、日本風の名前を持てることは台湾人にとって大変な栄誉としたうえで、新しい名前が見ればすぐに台湾人と分かるようなのでは意味がないから、そういう風にならないように、如何にも日本人という感じの名前を持たなくてはいけないとしています。最後のまとめの辺りでは、日本人と台湾人の関係を姑と嫁の関係に例え、嫁は婚家の習慣風習によく馴染むように努力しないといけないが、姑の方も何かといじめるようなことがあってはいけないとしています。

現代人の感覚から言えば、皇民化という政策はわりとナンセンスというか、何のためにそんなことをするのかと訝しく思ってしまいますが、この今井さんという校長先生は大変熱心にこのことについて考えていたらしく、「本島人」を受け入れている学校として、ここまで日本語化が進んだのは結構苦労したみたいなことも書いており、一部には今まで日本語化・皇民化が進んでいなかったことへの批判があるが、そんなに簡単なものじゃねえと言う趣旨のことも書いています。嫁姑の関係に例えて、台湾人をいじめるようなことがあってはいけないという趣旨のことを書いているのは、教師として学生を思う心情がつい吐露されているようにも思え、帝国主義・皇民化政策と学生に嫌な思いはさせたくないというアンビバレントがこの人内面にあったのかも知れません。ただ、当時は皇民化=絶対いいこと。なので、学生の将来を思い願う真っ直ぐな教師として、ゆっくりでもいいから皇民化してくれよという願いがあったようにも思えます。現代の我々の価値観から言えば当然NGですが、今井さんの良心のようなものもちょっと評価してあげたいような気もしなくもありません。

当該の号ではドイツ軍のマジノ線突破(実際には迂回)、チェンバレン首相辞任、満州港皇帝「陛下」日本訪問決定などの情報も入っており、第二次世界大戦がいよいよ本番に入って来たことが分かります。ドイツのポーランド侵略に対しイギリス・フランスが宣戦布告をしたものの、西部戦線ではフランス軍とドイツ軍がにらみ合うだけの「幻の戦争」とも言われましたが、実際の作戦行動に出て、文字通り戦闘状態に入ったわけで、これから、はっきり言えば恐ろしい状態へと突入していくことになります。当時の資料を読むのは精神的なダメージが大きいですが、今後も当面続けたいと思います。

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昭和史58‐創氏改名

日中戦争期の資料を読み続け、とうとう創氏改名のところまでたどり着くことができました。私の手元にある資料の昭和15年2月11日付の資料では、皇紀2600年行事についてや、皇紀2600年記念ポスター展覧会のことなど、華々しく「どうだ。皇紀2600年だぞ」という文字が躍っていますが、同時にちょっと厳かな感じで『本島人の内地式姓名変更に就いて』という記事が掲載されています。ここで言う本島人とは台湾人のことです。当該記事によると、姓名変更は明治38年から定められていたものの、昭和15年に至ってようやく実施するに至ったとのことです。

ですが、誰でも創氏改名できるというわけではなく、一定の条件がクリアされていなければならないとされています。それは1、国語常用の家庭(日本語を日常的に使用している家庭)2、日本精神を充分に有し、熱意ある人物という条件設定がされています。なんとなく不明確な、アバウトな基準であることのようにも思えますが、台湾人の人から創氏改名は地元の名士に限られていたという話を聴いたことがありますので、ある程度、エリートでなければなかったのかも知れません。昭和15年初期の段階で日本語教育の台湾での普及率は50%程度だったらしく、それまで台湾総督府が必ずしも熱心に日本語教育を進めていたようにも見受けられません。蒋介石との戦争が始まって、慌てて植民地の人々の日本人化(皇民化)に取り掛かったといったところではないかと言う気がします。日本語を常用している家庭というのは即ち学校教育を受けられる生活環境に居た人たちと言い換えることもできるでしょうから、やはり地元の名士、或いはエリートに限られざるを得ないのかも知れません。条件2の日本精神を充分に有しているかどうかは審査する側の主観に委ねられると思えますが、ここは想像になるものの、行政サイドである程度候補を絞り、「日本精神を充分に有している」ということにして審査を通したといったところではないかと思います。

さて、創氏改名は今に至るまで悪名高い制度で、一般的なイメージとしては日本帝国が強引に嫌がる植民地の人々を日本人化させたという文脈で語られることが多いように思えますが、そのイメージは半分正しく、半分間違っていると言うのが本当のところではないかと思います。上に述べたように、名士、エリートだけが創氏改名できるとすれば、日本式の姓名を名乗ることが「許可」されることは、自分が名士・エリートであるということの証明であり、当時は日本帝国滅亡とか誰も考えていませんから今後のことを考えれば日本風の姓名が使えることはいろいろ有利という意識もあったのではないかと思えます。一方で、行政の側から「あなた、創氏改名しませんか?」と、いわばスカウトされて、もし断ると有形無形の嫌がらせがあったという話も聴いたことがありますから、お上の意向には逆らえないという感じの圧力や目に見えない強制性はあったと言うこともできなくはないと思えます。

そうは言ってもここに来ての創氏改名は、それまで軍夫の志願者を募集したり、徴用令で労働させたりと言った次元を超えて、正真正銘の日本人だという自意識をもたせることは徴兵にも応じさせようという布石にようにも思えます。実際に全面的徴兵が行われるのは昭和20年に入ってからのことで、既にフィリピンも陥落しており、そもそも兵隊をどこかへ送る船を出したら即撃沈されるという滅亡必至の状況下で行われましたから、海外侵略のための徴兵ではなくて良く言えば台湾防衛のため、悪く言えば台湾を焦土にして本土決戦までの時間稼ぎのためと理解することができると思います。太平洋戦争で台湾が焦土になることはありませんでしたが、その理由が蒋介石の意向に拠るものなのかどうか私は知りません。アメリカ軍はそもそもフィリピンも素通りしてもいいのではないかと考えていたくらいですから、疲れるだけの台湾上陸には関心がなかったのかも知れません。それに対して沖縄については米軍は本気で攻略にかかっていましたから、明暗を分けたとも思え、運命という言葉が頭をよぎります。沖縄で戦争に関する資料をいろいろ読んだことがありますが、それは壮絶なものでブログのような場所で簡単に語れるものとも思えませんが、沖縄には「特別の高配」あってしかるべしと個人的には思います。

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昭和史54‐東亜経済ブロック‐遅れて来た帝国

昭和14年10月ごろの資料の読み込みをしたのですが、一方で「来年は紀元は2600年」と華々しく書き立てつつ、物資の不足に相当に悩んでいたことも見えてきます。「日本帝国」は内地の他に千島、南樺太、北海道、沖縄、台湾、朝鮮半島、関東州、南洋と諸方面に広がっていただけでなく、満州国、汪兆銘政権という傀儡政権も作っていたので、影響力を及ぼした範囲はかなり広いため、私もその全てを追いかけることは、まあ、そもそも無理と思ってはいるのですが、植民地の一つである台湾では電力供給の調整、物価の統制、米の消費の抑制の呼びかけ、国債購入の奨励と、これだけ挙げただけでもどれだけ物資に困っていたかが分かります。全て一重に蒋介石政府と戦争するためにここまで国力をつぎ込み、国民には我慢を呼び掛けているわけですから、これでアメリカと戦争をしようというのもそもそも無茶な話と言えますが、もう一歩踏み込んで言えば、アメリカの経済制裁のきっかけになった南仏印進駐の主たる動機は蒋介石包囲にあり、ハルノートを受け入れたくなかったというのも、突き詰めれば蒋介石との戦争を止めるよりはアメリカと戦争した方がまだましだという発想があったと言え、どうしてそこまで、国を潰す覚悟で蒋介石と戦い続けようとしたのか、個人的にはさっぱり理解に苦しむところです。

とある昭和14年10月21日付の情報機関の発行した機関紙では「日満支ブロック」という言葉が出てきます。イギリスやフランスが自分たちの植民地を囲い込んで、そこでうまく回しているのだから、日本も帝国の領域+満州国+汪兆銘政権で友好親善経済ブロック確立というわけです。但し、上述したように物資の確保に汲々としていたわけですから、はっきり言えば、満州国と汪兆銘政権の支配地域の資源も日中戦争の続行のために使用したいというのが本音のように思えます。「紀元2600年」に合わせて東京夏季オリンピック、札幌冬季オリンピック、更には東京万国博覧会まで誘致して盛り上げようとしていたわけですが、それは全てリソース不足のために中止されるという、がっくしな事態に陥って行くわけですから、読んでるこっちががっくしです。当該の機関紙には、帝国の植民地で暮らす華僑の人たちの汪兆銘政権支持の声明のようなものも出されており、果たして華僑の本音がどこにあったのか、本音では蒋介石を支持しつつ、帝国に慮って汪兆銘政府を支持することにしていたのか、或いは一部には本気で汪兆銘を支持して「日満支」親善友好を願っていたのか、もはや永遠の謎ですが、やはりどうしても、そこまでして蒋介石と戦い疲弊しなくてはならなかったのかが、繰り返しにはなりますが、理解に苦しんでしまうのです。当該の機関紙では、何度か蒋介石がコミンテルンで組んでいるから、コミンテルンの拡大を抑えるために、要するに防共のために蒋介石と戦わなくてはならないと書いていたことがあるのですが、その前から日本帝国と蒋介石は戦争状態に入っていたため、順序が逆ということになってしまいます。もうちょっと言うと、一方で防共と言いつつ、ノモンハンでえらい目に遭わされて、その後は日ソ不可侵条約へと発展し、あれほど目の敵にしていたソビエト連邦を友邦と見做して、ソ連が参戦してくるまではソ連の仲介による太平洋戦争の講話を模索するという本末転倒へと日本帝国の運命は流れて行ってしまいます。いろいろなものを読めば読むほど、読みつつ考えれば考えるほど、日本帝国の末路が意味不明なものに思え、日本人として結論としては「がっくし」となってしまうわけです。


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昭和史53‐「日華親善」言説

私が追いかけているとある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年11月1日付の号では、表紙の裏のページに「日支親善団体共栄会」という団体が製作したポスターを学童が見ている写真が掲載されています。当該ページに書かれた説明によると、『時局南支展』に共栄会が出品したポスターだということが記されていました。

日中戦争の真っ最中に「日支親善」って、あれ?と思ってしまいますが、ここで言う「支」とは汪兆銘政権のことです。近衛文麿の「国民党を相手とせず」の声明以降、日本帝国は蒋介石政府打倒に情熱を傾ける一方で、傀儡の汪兆銘政権を正統な中国政府であると主張し、その後は同政権と日本との親善を強調する、日華親善の言説が多用されるようになります。

『時局南支展』が如何なる展覧会であったかは検索をかけてもはっきりとしたことは分かりませんでしたが、華南地方を日本軍が占領した後に、その地方が平和に発展し、親日的な社会が建設されているとの宣伝がなされていましたので、当該の展覧会もそういう趣旨のプロパガンダの類のものであろうことが想像できます。

東京外語大学の博士論文で、日本の南進論が国策化された後、台湾総督府がそれに対して重要な役割を果たしたこと、南進には広東地方も含まれていたことを研究しているものを発見したのですが、当時の帝国としては華南経営に並々ならぬ熱意を持っていたことは間違いなかったようです。

日華親善言説は台湾でも盛んに用いられていたらしく、何義麟という先生の研究によると、日華親善というある種の熱気に便乗して台湾の外で発展しようとした台湾人、一方で日華親善という言説を論拠に日本帝国支配に抵抗しようとしたグループも存在し、そのグループの人々の代表的な人物として林献堂、蔡培火のような人物の名前が挙げられています。

即ち、日本帝国としては日華親善の名の下に汪兆銘政権を使いたいと言う思惑があり、一方で同じ言説を用いて海外発展したい人々、帝国支配に抵抗したい人々に分類できるとも言え、「日華親善」という言葉は一つでも、その意味については多様な解釈が存在したことが分かります。

で、上に述べた共栄会に戻りますが、共栄会については検索をかけてもどういう人が参加していたのか、どんな活動をしていたのかということはさっぱり分かりませんでした。ただ何義麟先生の研究によると松井石根(!)を会長とする大亜細亜協会なる団体が存在し、それが台湾にも支部を構えて「日華親善」言説を流布させていったという構図があったようです。この大亜細亜という言葉も、一方では日本の帝国主義の拡張に利用したいという思惑の人もいれば、一方ではアジアの国々の親善共栄を素朴に善意で信じていた人もいたように思えますし、植民地の人たちからすれば「大亜細亜」の理想を掲げるならば、支配者と被支配者の壁をなくしてくれよと言う言葉も出てきそうな、多様な解釈が可能なように思えます。これを突き詰めていけば頭山満、宮崎滔天、孫文あたりの話まで繋がって行きそうで、知れば知るほど、考えれば考えるほど奥の深いもののように思えます。この複雑な言説の密林を前にして私はちょっと立ちすくんでしまっているのですが、めげずに追って行きたいと思います。


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昭和史52‐国民徴用令‐「徴用」か「強制労働」か

昭和14年、近衛文麿内閣に於いて国家総動員法が成立しますが、国家総動員法の第四条に基づき、同年7月に国民徴用令という「勅令」が出され、実際に徴用が実施されます。一応、国家総動員法の第四条の内容を確認しておきたいと思います。

国家総動員法 第四条
政府ハ戦時二際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令の定ムル所二依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務二従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズ

となっています。簡単に言うと、勅令によって国民に強制的に労働させることができるが、兵隊さんになる人は別枠という感じに捉えていいのではないかと思います。で、国民を徴用するためには前提として「勅令」が必要になります。その勅令が「国民徴用令」ということになります。この徴用が強制労働なのか、奉仕活動みたいなものなのかで今も果てしない論争が続けられていて、ちょっとブログで書くのも怖い気がするのですが、私が把握できている範囲で書いてみたいと思います。

この徴用令によって同年7月から内地での徴用が始まるわけですが、徴用は事前に日本全国津々浦々にどんな人がどんな技能を持っているかを行政が把握し、必要に応じて技能を持つもの(または体力があると認められるもの)を呼び出してお国のために仕事をしてもらうということになるわけですが、問題は植民地の人たちを徴用したケースということになります。検索をかけた範囲で分かったことは、朝鮮半島では昭和19年8月から徴用が始まり、終戦の直前まで人材が必要なところに送られたようです。尤も、終戦直前のころはアメリカ軍の潜水艦や飛行機が日本列島周辺をうようよしていたため、人員の輸送そのものが困難になったようですが、そうなる前に内地に送り込まれた人たちは、徴用された先で終戦を迎えたことになります。

私の追いかけている資料の昭和14年10月11日付の号では、同年10月から台湾でも徴用が始まるという内容のことが書かれてありました。その実施の方法については、やはり事前にどこにどんな技能を持った人材がいるかを各地の行政が把握しておき、総督府が必要な人材を地方行政機関に求めた場合、事前の調査に基づいて人材を選び、必要な場所に送り込むという流れになっていたようで、徴用された人の旅費については行政が負担するということも明記されてありました。ただ、気がかりなのは、朝鮮半島では昭和19年から徴用が始まったのに対し、台湾では昭和14年から徴用が始まったというこの時間的な差異の意味するところです。案外、日本帝国は朝鮮半島には遠慮があったのかも知れません。当時の日本帝国の感覚としては台湾は日清戦争の戦利品ですから、わりと好きに使っていいと思えた反面、朝鮮半島は実質的には植民地でも名目上は対等合併で、嫌がる相手を無理やり嫁さんにしたみたいな感覚があって、ちょっと後ろ暗いところがあったのではと、とついつい想像してしまいます。私は朝鮮半島の事情には明るくないので、言い切ってしまうことには不安があるのですが、台湾の方が帝国による支配の期間が長いですから、行政の「管理」が行き届き、いろいろやりやすかったのかも知れません。ただ、私が読んだ当該の資料では、細部にすいては現在も「考究中」とも書かれてあったので、制度としては作っても、実際に機能したかどうかまでは確認できているわけではありません。資料を読み進めるうちに、その辺りも分かるようになるかも知れませんから、しばらくは当該の資料に目を通し続けたいと思います。

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昭和史47‐興亜展覧会

昭和史49‐時局ポスター・慰問品展示会

とある情報機関の発行していた機関紙の9月21日付の号によると、昭和14年8月21日から23日まで台北公会堂で『時局ポスター及び慰問品展示会』が行われたと記されています。気になる内容ですが、

1、ポスターの展示 事変の原因及び終局の目的 4枚(排日教育、排日宣伝、東亜新秩序建設、世界平和)、事変日誌絵画23枚(昭和12年7月7日盧溝橋事件より同14年6月21日まで)、日本軍人の姿4枚(大和魂‐盲目の伝令、日本武士の情け‐敵の幼児を抱く、梅林機、工兵隊の人権)、日本婦人の姿4枚(最後の授乳、軍国の花嫁、歓送、陰膳、銃後美談(軍夫の妻、愛国少年)、軍事援護事業8枚(授産と託児、慰安会、座談会、傷痍軍人の恩典、育英扶助、医療扶助、遺族会に対する恩典、遺族住宅)、軍馬、軍用犬の活用、戦争と馬(ジオラマ)一組、軍用犬の陣中美談1枚、勤労奉仕1枚(勤労実況)、防諜2枚(流言飛語、恐るべきスパイ網)、南支事情紹介2枚(海南島見取り図、最新広東市街大地図)、支那事変と日露戦争の戦線比較対照表1枚、戦局大写真33枚(台湾日々新報社出品)、皇軍占領地図1枚となっています。ミリオタにはたまらん内容と言えるかも知れません。

その他、どんな慰問品がこれまでに戦地に送られたかが紹介され、戦地から帰って来た軍人さんから、どんな慰問品がより求められているかについての座談会も行われたようです。

で、時局映画も上映されたとされています。どんな映画が上映されたかというと、『武漢攻略』『聖戦』『赤の脅威』『必勝の信念』『肉弾一等兵』というラインナップになっていたようです。内容は全然分かりません。また改めて探してみたいとは思いますが、どこに残っていることやら…。

展覧会もまたプロパガンダの一つです。大変に熱心に行われていたことが分かります。引き続き、当該の機関紙を追っていく予定です。

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昭和史48‐記録映画『興亜の華』

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年8月21日付の号では、当該情報機関が製作した記録映画『興亜の華』を紹介する記事が掲載されていましたので、紹介したいと思います。記事に曰く

本映画は支那派遣軍からの依頼によって広東訪日婦人団の一行が状況の途次台湾に立ち寄った際の観察見学等の状況を、総督府情報部が映画に収録したものであって日華親善の促進と廣く台湾の文化、産業、特に皇民化運動の実情を合わせて紹介したものである。(略)この皇化潤ふ台湾の麗はしい姿は対内、外の宣伝材料として最も効果的なものである。尚本映画は広東語を録音してあり、全編優美な録音によって行動が運ばれてゐるが南支方面各地に於て映写されると同時に島内に於ても公開される予定である

とのことです。この記事から言えることは、近衛文麿の「国民政府を相手とせず」の方針通り、汪兆銘政権を正式な中国の政権として認め、それに従う人々とはたとえば広東の女性たちが日本を訪問したりするように、「日華親善」が進んでいることをアピールしたいという狙いがあったということだと思います。

当該の号では、台湾在住華僑の国防献金を賛美したり、台湾に留学してがんばっている中国人の学生を紹介したりと日華友好のアピールに力を入れています。敵は蒋介石であって、中国人ではないというわけです。

ついでに言うと、当該の号では高砂族の身体検査が進んでいるという記事(台湾原住民の運動神経がなみなみならぬものであることに当局は注目していたわけですね)、皇民化を進めるために各地の中華風のお寺を日本風のものに変えて、きちんと仏教を教える講話会を開くなどの記事も載せられています。

驚くべきは最後のページで事変国債販促記事が載っており、日の丸と五色旗(汪兆銘政権の旗)が並んで描かれ中国人風の顔つきをした男の子がその両方の旗を笑顔で持ち上げる絵が描かれていることです。汪兆銘政権支配地域の中国人にも国債を買ってもらおうというわけです。国債を濫発すれば通貨はその価値が下がります。ですから、物資はインフレに転じます。しかも鉄や石油のような軍需品は輸入するしかありませんから、如何に国債を販売しようとも円の暴落により集めた分は吹っ飛んでしまいます。当局は民間物資を統制することによって軍需物資の不足を補おうとしましたが、結果としては経済のアンダーグラウンド化、いわゆるヤミ市化が進み、更なる物資不足へ陥るという悪循環に陥っていたことをそれらの記事から垣間見ることができます。政府は金の保有量を高めようと民間に金を政府に売却することを奨励しますが、金を維持することによって円の信用を何とか支えたいと考えていたに違いなく、ついでに言うと、太平洋戦争中は金の先物取引で戦費を米ドルで調達するというちょっとした離れ業までやっています。

その後の日本帝国の敗戦を知る我々としては、ちょっと涙ぐましい努力のようにも思えてきます。

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