帝政ドイツ‐短命の帝国

ナポレオン戦争が終わった後、タレーランとメッテルニヒによってウイーン体制が確立しますが、その新体制ではナポレオンによって消滅に追い込まれた神聖ローマ帝国が復活することはありませんでした。ドイツは30以上の小さな君主国と幾つかの自由都市に分かれた状態(神聖ローマ帝国がそもそも諸王国を従える連邦国家でした)になり、バラバラな状態になっていたと同時に、その統一も模索されるようになります。

オーストリアも同じドイツ語圏なのですが、オーストリア皇帝のハプスブルク家は神聖ローマ皇帝も握っていたため、神聖ローマ皇帝の存在しないドイツ人の統一にはそもそも不同意であり、しかもオーストリア帝国にはハンガリーも含まれるため、「民族的統一」という点で難が残りってしまう問題もありました。オーストリア帝国を除くドイツ諸邦で最も協力だったのがプロイセン王国で、ドイツ諸邦はプロイセン王国に吸収される形で統一が進み、その帰結として、ハプスブルク家とホーエンツォレルン家のプロイセン王国が睨み合うという状況が生まれます。プロイセンではオーストリア帝国を除いた小ドイツ主義で帝国を作るべしとする意見と、オーストリア帝国も飲み込む大ドイツ主義で帝国を作るべしとの意見の対立が起きます。アドルフヒトラーがオーストリアを併合したのは、この時の議論を根拠としているとも言えますし、当時破竹の勢いのアドルフヒトラーをオーストリア市民が歓喜して迎えたのも、20世紀前半のナショナリズムの高揚によりオーストリアの人々が大ドイツ主義へと傾いていたことも要因と言っていいのではないかと思います。

1866年にプロイセンとオーストリア帝国の間で行われた普墺戦争でプロイセンが勝利し、ビスマルクが北ドイツ連邦を成立させ、ここでオーストリア抜きのドイツ統一を目指すという方針がはっきりと示されることになります。その後、1870年の普仏戦争ではフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜になるという事態に至り、プロイセンがフランスを圧倒します。プロイセン軍はパリ入場を果たし、プロイセン国王がなんとベルサイユ宮殿でドイツ皇帝宇ウイルヘルム1世に即位し、ドイツ帝国の成立が宣言されるに至ります。

ウイルヘルム1世のビスマルクに対する信任は厚かったようなのですが、ビスマルクの外交政策の大方針はフランスの無力化であり、そのため、オーストリア皇帝とロシア皇帝に対しては領土的野心がないことを明確にする三帝同盟を結び、東の不安を取り除きます。この段階ではフランスが敗戦国ですから、西の脅威も当面はないということになり、ビスマルク外交の大きな勝利と呼ぶことができるのではないかと思います。しかしながら、この三帝同盟はさほど長くは続きません。三者それぞれに利害の対立があり、民族的な問題も微妙な絡みを見せ、この穏健な同盟関係はほどなく終了します。正確には何度も復活しては終わるというのを繰り返しますが、事実上機能しなくなっていきます。

ビスマルクの最大の方針はフランスの封じ込めであったため、フランス包囲網を築くべく、イタリア、イギリス、スペイン、更には孤立を恐れるオーストリア帝国も取り込んで、言わば非フランス同盟のようなものができあがります。これを一般にビスマルク体制とも呼びます。ドイツ人の側からすれば、神聖ローマ帝国を滅亡させたフランス憎しであり、フランス人の側からすれば普仏戦争でこてんぱんにやられた上にアルザスロレーヌ地方も奪われて『最後の授業』みたいなことになってしまった上に、その後も包囲網が築かれていくわけですから、フランス人としてもドイツ憎しという感情になるというのは、第三者の目から見れば、確かにお互いそうなるだろうという気はします。双方の怨念が半端ないのが当然だということはヨーロッパの歴史をつらつらと追っていくだけでもよく分かりますし、今日、独仏が強調しているのは歴史的に見れば奇跡的、あるいは感動的とも思えますから、フランスからEUから出る出ないみたいな話は単に経済政策がどうとか、移民問題がどうとかという直近の問題だけではなく、EUから出るということはドイツと再びことを構える覚悟があるのかくらいの大事だということも見えてくるように思います。

ビスマルクの主導により帝政ドイツは瞬く間にヨーロッパ政治の主役へと躍り出て来たと言うことができますし、伊藤博文にビスマルクが眩しく見えたというのもなんとなく分かる気がしなくもありません。伊藤はドイツ憲法を参考にして明治憲法を作ったと言われていますが、ドイツが新興国の帝政国家でであったということも、明治日本がやはり新興の帝政国家であったという点で似通っており、確かにドイツをお手本にしようと思うというのもまたよく理解できるのではないかと思えます。

このように輝かしい時代を迎えた帝政ドイツですが、ウイルヘルム1世が崩御した後、ウイルヘルム2世が皇帝に即位すると、新皇帝が親政を欲したためにビスマルクは首相の辞表を提出させられることになります。その後、第一次世界大戦の末期にドイツ革命が起きてドイツの帝政は終了するのですが、この教訓から学べることは近代という複雑なシステムと高度な知識、迅速かつ的確な判断が必要とされる時代に皇帝や王様の親政は不向きであるということではないかと思います。権威による支配より有能な人物による効率的な支配、機能的な支配ということが求められるようになりますので、ウイルヘルム2世に関して言えば、ちょっと生まれる時代が違ったのではないかなあという気がしてしまいます。

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第二次桂太郎内閣

第二次桂太郎内閣は3年あまり続きましたが、中身は結構濃い内閣だったと言えるかも知れません。まず明治天皇の詔書を引き出し、国家国民一致して維新創業の心を思い出せ的な発破をかけます。

日露戦争の結果、儲かった資本家もいたと思いますが地方の疲弊が激しくなっており、その辺りの不満がいろいろ出てきます。孝徳秋水の大逆事件も第二次桂太郎内閣の時に起きています。孝徳秋水が本気で明治天皇の暗殺を考えていたとはちょっと思えないのですが、天皇暗殺謀議がたとえ冗談半分とは言え半分くらいは本気で考えられていたとも言え、戦争に勝ったわりには世の中が殺伐としており、桂太郎はパワーでそういったものを押しつぶしていこうとしたように見えなくもありません。特に大逆事件では関係ないとしか思えない寺の坊さんや、金持ちの気まぐれ的に社会主義を気取って慈善活動をしていたお医者さんまで逮捕されて処刑されていますので、明らかにやりすぎで、当時の官憲の方を持つ気にはなれません。

足利尊氏と後醍醐天皇の時代は南朝と北朝のどっちが正統かという南北朝正閏問題が取り沙汰されるようになり、そんな当時から見ても500年も前のどっちでもいいようなことについて本気で議論がされるというあたり、頭でっかちなイデオロギーが歪な形で噴出しているように見えますが、これも世の中の矛盾を明治天皇の「みんな仲良く一致団結」詔書を引き出して、その威光を借りる形で物事を進めようとした結果の副作用と言えるかも知れません。更に日韓併合もこの内閣の時に押し切っていますので、本当にこの内閣が西園寺公望と気脈を通じていたのかと首を傾げざるを得ません。

第二次桂太郎内閣時代に伊藤博文がハルビンで暗殺されていますので、ある意味では重しがとれたとも言えますが、反対の見方をすれば、明治維新を実務的に引っ張った伊藤博文がいなくなったことへの不安も感じていたのではないかと思えます。

一方で小村寿太郎とタッグを組み不平等条約改正を成し遂げていますので、そこは評価して良いのではないかとも思います。条約改正に成功した裏には、日本が一人前の列強というか、帝国主義の国として認められたという面もあると言えますから、この辺り、切り離して考えるわけにはいきませんので、果たしてどう評価するかは難しいところにはなると思います。

大逆事件で揺れていた第二次桂太郎内閣は条約改正の仕事を終えると、西園寺公望と「情意統合」しているという理由で、つまり仲良しだからという理由で、西園寺公望に首相の座を譲り、第二次西園寺公望内閣が登場します。リクルート事件の「竹馬の友」をちらっと思い出さないでもありませんが、当時は桂太郎のような国権派と西園寺公望のような政党政治派が持ちつ持たれつでやっていたことが分かります。

西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通が維新第一世代とすれば、伊藤博文、山県有朋が維新第二世代と言え、桂と西園寺は維新第三世代と言ったところですが、大正デモクラシーというある種の結実の時代、原敬内閣登場の時代まではあともう少しと言ったところです。原敬内閣は民主主義の成熟や成功という意味でよく引き合いに出されますが、原敬は同時に政党政治の腐敗はどういうものかをよく示した人でもあり、国民の政党への熱が急速に冷め、西園寺も同じように冷めて軍部独裁の時代へと入って行くことになってしまいます。

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第一次西園寺公望内閣

西園寺公望という人物をもし、簡単にまとめて表現するならば「開明的なお公家さん」というのが適切かも知れません。戊辰戦争では実際に戦線に立ったという経験を持ち、若いころは軍人志望でしたが、後にフランス語を勉強し、パリにも10年ぐらい留学してお金も充分にもらった上での楽しい前半生を送ります。フランスで自由主義的な空気に触れたことで、社会主義的な傾向を持っていた人という印象も多少は受けますが、イギリス型立憲君主制を理想としていたと言われています。

帰国した後はぶらぶらしたり、新聞社の立ち上げに乗っかったりなどしていますが、やがて伊藤博文に見出され、おそらくはフランス語の翻訳・通訳が助かるというのも大きく働いたと思いますが、政治の世界に入って行きます。伊藤博文が立ち上げた立憲政友会の創設メンバーの一人であり、日露戦争中は長州閥の桂太郎内閣に協力しますが、日露戦争が終わった後にいわば見返りとして次の首相の座を得ます。政治家として原敬を育てますが、原敬はわりと性格が激しかったため、西園寺に詰め寄るということもあったらしく、途中から西園寺と原敬は険悪な雰囲気になったとも言われています。

第一次西園寺内閣は主たる仕事は日露戦争後のいわば新秩序の形成で、日露協約、日仏協約を結ぶことで幕末以来の不平等外交を実質的に終わらせたというのは注目に値すると言っていいかも知れません。既に保護国化していた大韓帝国に対しては韓国統監の権限強化を認めさせる第三次日韓協約を結んでおり、日本の帝国主義を一歩進めたという面もあったとすることも可能かも知れません。

当時は日露戦争の戦勝で日本の帝国主義が自信を持ち始めていた時期と重なるため、韓国を日本の植民地にするべきだという意見も出始めており、伊藤博文は保護国の状態で結構という立場で、西園寺公望としてはそのバランスをとるのに苦慮せざるを得なかったという面もあったことでしょう。

山県有朋が西園寺公望のリベラル志向を警戒して西園寺下ろしを始めたことに気づくと、西園寺はさっさと首相を辞めてしまいます。後ろ盾になってくれたであろう伊藤博文が韓国統監になって中央政治との距離があったことも陰に陽に影響していたかも知れません。

政権は再び桂太郎に移り、第二次桂太郎内閣が組織されますが、当面は西園寺と桂がキャッチボール風に政権をやりとりする桂園時代が続くことになります。

西園寺公望は政党政治の確立に積極的でしたが、昭和に入ると政党政治に絶望するようになっていき、自らの手で政党政治を終わらせていきます。


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日露戦争をざっくりがっつりと語る

日清戦争によって日本は「やったー!朝鮮半島は日本の勢力下だ!」と一瞬湧きましたが、三国干渉で遼東半島の租借は諦めなくてはいけなくなります。李王朝の高宗と閔妃は清があまり頼りにならないということが分かると、親ロシアへと傾いていきます。朝鮮宮廷内で身の安全が確保できないと感じるとロシア公使館に避難してそこで政治を行ったりするようになります。

ロシア公使館から夫妻が戻ると、日本の兵隊やゴロツキみたいなのが集団になって朝鮮王宮に乱入し、閔妃を殺害するという常識ではとても考えられない事件が起きます。背後に在朝鮮公使の三浦梧楼がいたと言われています。当時は閔妃と大院君が本気の殺し合いをしていたので、日本軍を手引きしたのが大院君ではなかったかという説もあるようです。まず第一に日本の兵隊は閔妃の顔を知らないので女官に紛れると誰が閔妃なのか分かりません。閔妃の写真とされるものがあったという説もありますが、過去に閔妃の写真であったと言われていたものほは現在では別人のものだとも考えられるようになっており、大院君の手引きがなければ閔妃の殺害は難しかったのではないかということらしいです。いたましい事件であることは間違いありませんので、あんまり適当なことは言えませんが、いずれにせよ閔妃は亡くなってしまい、朝鮮の親ロシア派の勢力が大きく打撃を受けることになります。

ロシアは朝鮮半島各地に軍事拠点を作り始め、李鴻章を抱き込んで露清鉄道を建設し、大連まで引き込んでくるということになり、シベリア鉄道の複線化工事にも着手され、それらの鉄道網が完成すればヨーロッパからいくらでも兵隊と武器を運べるようになりますので、こうなっては日本は手出しができなくなるとの焦りが日本側に生じます。

小村寿太郎がイギリスと話をつけて日英同盟を結びます。これはどちらかの国がどこかの国と戦争になった場合は中立を守るという、「同盟」と呼ぶわりにはパンチ力に欠ける内容で、日本とロシアが戦争することを前提に、イギリスはロシアと戦争しなくてすむという免責事項みたいなものですが、日本とイギリスが同盟関係にあるということは有形無形に日露戦争で優位に働きます。

日本とロシアの交渉で、北緯39度を境に朝鮮半島を日本とロシアで分け合うという提案がされますが、ロシア側は難色を示します。ニコライ二世が皇太子時代に日本を訪問した際に巡査に殺されそうになったことで、日本嫌いが強かったという説もありますが、開戦ぎりぎり直前にニコライ二世から明治天皇に宛てて譲歩の意思を示す親書を送るはずが極東総督が握りつぶしたという話もあり、ちょっとはっきりしません。

戦争はまず日本側が旅順のロシア旅順艦隊に砲撃を浴びせるという形で始まります。児玉源太郎は朝鮮半島に上陸した後に北進して満州にいたクロパトキン軍を全滅させてヨーロッパから援軍が来る前に講和に持ち込むという構想を持っていたようですが、想定外の難題が持ち上がります。

日本の連合艦隊が旅順港を包囲していましたが、ヨーロッパからロシアバルチック艦隊が出撃し、半年くらいで日本まで攻めて来るということになり、連合艦隊は旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちに遭う恐れが生じ、早期に旅順艦隊を叩きたいのだけれど旅順艦隊は旅順港に閉じこもって出て来ない、日清戦争の時に北洋艦隊の母港を陸戦で攻略したのを同じように旅順を攻略してほしいと言う話が湧いて出ます。連合艦隊が挟み撃ちに遭って全滅したら、対馬海峡の制海権がロシア側に移りますので、兵站が途切れてしまい、大陸の日本軍は立ち枯れして日本終了のお知らせになってしまいます。ちなみに清は局外中立を宣言し、好きにしてくれわしゃ知らんという立場を採ります。

ロシアは旅順港を取り巻く山々に堅固なコンクリートの要塞を築いていましたが、児玉源太郎は別に放っておけばいいと思っていて、旅順要塞の攻略をあまり重視しておらず、乃木希典の第三軍を送り込んだものの「突撃でばーっとやったら旅順要塞も陥落するだろう」という甘い考えで対処します。

気の毒なのは乃木希典の方で、コンクリートと機関銃でがちがちに固めてあるところに「突撃でばーっとやって、何とかしろ」と言われたのでその通りにやってみたら大量に戦死者が出るという展開になってしまいます。普通に考えてそれは無理というもので、司馬遼太郎さんは乃木希典が無能だったからだという観点から『坂の上の雲』を描きましたが、私は乃木希典が悪いというよりも「突撃でばーっとやれ」と言った児玉源太郎の方に問題があるのではないかというように私には思えます。

旅順要塞そのものを獲れるかどうかは戦略的な観点からははっきり言えばどちらでもよく、どこか一か所でもいいから旅順港が見える高台を奪取して砲撃で旅順艦隊を撃滅するのがいいということが分かって来たので、乃木希典の第三軍は旅順港を望見できる203高地に攻撃の軸足を変えます。ここもなかなか手ごわいですが、内地から送られてきた巨大な大砲でバンバン撃ち込みながら兵隊もどんどん突撃させて、味方の弾で兵隊がちょっとぐらい死んでもいいという無慈悲な作戦では203高地はようやく陥落。旅順艦隊を砲撃して同艦隊は全滅します。連合艦隊はこれで安心して佐世保に帰り、艦隊をきちんと修理してバルチック艦隊との決戦に臨むことになります。

次の問題はバルチック艦隊がどのルートで来るのかよくわからないということで、対馬海峡ルート、津軽海峡ルート、宗谷海峡ルートが想定され、討ち漏らしたら大変だと秋山真之参謀はのたうち回るように悩み抜きますが、バルチック艦隊のような巨大な船の集団が安全に通ろうと思えば充分な深さと幅のある対馬海峡を選ぶに違いなく、ここは東郷平八郎長官の見立てが正しかったと思えます。

有名な日本海海戦は秋山参謀の考えた丁字作戦でバルチック艦隊を全滅させたということになっていますが、最近の研究ではどうもぐねぐねに回りこんだりしていたようです。いずれにせよ稀に見る圧勝で海の方は心配なくなります。

陸の方では奉天の会戦でクロパトキンのロシア軍が北へと撤退します。日本が勝ったというよりもクロパトキン的には日本をどんどん北へおびきよせて兵站を疲れさせるという作戦で、日本軍が疲れ切るころにはヨーロッパからも兵隊がどっさり来て日本軍全滅でやっぱり日本終了のお知らせになるという予定でしたし、実際、奉天会戦で日本軍は疲れ切り大砲の弾もろくに残っていないという状態になってしまいます。

弾がないということがバレる前に何とか講和しないと、繰り返しになりますが日本終了のお知らせになるのですが、伊藤博文が金子堅太郎をアメリカに送り込み、セオドアルーズベルトに頼み込んで講和の仲介をしてもらえることになり、ポーツマス会議が行われます。

ポーツマス条約では賠償金はもらえませんでしたが、ここで戦争が終わっただけでも御の字で「賠償金が獲れてない!」と新聞が煽ったことで日比谷焼き討ち事件が起きますが、それは無理難題というものです。

このように見ていくと、現場の努力が多大であったことは間違いないないと思いますが、戦争が更に長期化していれば、日本軍の全滅は必至だったと言えること、高橋是がアメリカとイギリスで公債を売りまくって借金まみれで財政的にも限界が見えていたこともあり、アメリカとイギリスが日本に対して好意的で、戦争がやめられるように話をつけさせてくれたという天祐のおかげで体裁上「勝てた」ということが分かってきます。運が良かったからと言うこともできますが、そこが神話化されて後の世代では太平洋戦争が行われることになりますので、勝って兜の緒を締めよという意味のことを秋山真之が述べていますが、実際、その通りだということを40年後に身を以て示すことになってしまいます。
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第一次桂太郎内閣

第一次桂太郎内閣

桂太郎は戊辰戦争に参加したいわば歴戦の勇士みたいな人ですが、維新後短期ドイツに留学し、帰国後に大尉クラスで陸軍に入り、山県有朋派で軍歴を積んだ人です。

第四次伊藤博文内閣が政党政治運営をしようとして行き詰まり、次の首相の成り手がいない中で「桂にでもやらせよう」みたいなノリで首相に選ばれますが、結果としては政治の世界の世代交代につながった上に、桂太郎と西園寺公望が交代で首相になるという桂西時代を作っていくことにもなります。

発足当初は伊藤博文の立憲政友会が議会で小村寿太郎に協力しないというまさかの嫌がらせにも遭っており、よく見てみると伊藤と山県のつばぜりあいの道具に桂が使われていた側面があったようにも思えます。桂は立憲政友会側の西園寺公望を次の首相に推すという密約をすることで、政局をどうにか乗り切ったと言われており、桂と西園寺の仲介をしたのが原敬だという話もあるようです。

桂太郎内閣では小村寿太郎が外務大臣になり、日英同盟の締結に成功した他、日露戦争でも勝利し、小村寿太郎がポーツマス条約でどうにかぎりぎり日本が勝ったと言える内容に持ち込んだと言うのも桂太郎内閣の功績と言えるかも知れません。

日英同盟が結ばれたのは、ロシアの東洋進出を妨害したいイギリスと進出される側の日本の思惑が一致したからと言えますが、当時から火中の栗を日本が拾わされるのだという揶揄もあったものの、日清戦争が始まると議会が一致して伊藤博文に協力するという展開になったこともあったように、結果としては対外戦争によって国が一致団結し政権が国内的に安定するという効果があったように見え、そういう意味では明治憲法時代の内閣には潜在的に戦争を許容するというか、場合によっては戦争で内閣が延命できるという無言の法則ができたというような、戦争に親和性の高い内閣が作られやすくなっていったという側面あったのではないかという気がしないわけでもありません。

日露戦争では局地戦では日本が連戦連勝と言っていい成果を収めたものの、ポーツマス条約ではいろいろ難航してしまい、南樺太という当初は両国民雑居の地として主権が曖昧だったところを日本がどうにか手に入れることができた他、日清戦争によって得た当然の権益をロシアに横取りされたと当時の人が考えていた遼東半島の租借権を得ただけで、賠償金はなしということで話を収めたことから、桂太郎に非難が集まり、というか新聞が煽って市民が激昂して日比谷焼き討ち事件も起きて、桂太郎は西園寺公望に首相の座を譲ることになります。ただ、その後は桂と西園寺が交代で政権を担うようになり、伊藤・山県時代が少しずつ終わっていくことになります。


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第四次伊藤博文内閣

政府が議会を抑えなくては物事を前に進めることができないと悟った伊藤博文たちが立憲政友会という政党を立ち上げたのに対し、「人気投票で選ばれた政党政治家に権力が運営できるものか」と考える超然内閣思想の山県有朋が「やれるものならやってみな」という形で伊藤博文に下駄を預けて始まったのが第四次伊藤博文内閣です。

伊藤博文の立場からすれば、政党政治が本当にできるかどうかの実験してみるという要素が強かったでしょうし、明治天皇と伊藤博文はある種の盟友関係にあったと私は思いますので、明治天皇も不安だったのではないかと思えます。

第四次伊藤博文内閣ではさっそく井上薫の大蔵大臣人事で紛糾し、星亨が収賄疑惑で逓信大臣を辞任させられるという、なかなかに踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂的な展開を見せて行きます。衆議院は伊藤の立憲政友会が過半数を抑えていましたので予算を通過させることができましたが、貴族院の方で予算が通りません。予算に関しては衆議院に先議権があり、貴族院で予算が通らないというのは必ずしも内閣の致命傷になるとは言い難いですが、貴族院はその性質上、政党政治には不賛成な立場であり、明治維新の元勲であるはずの伊藤博文が政党政治志向に切り替えたことへの反発があり、ある種の嫌がらせみたいな状態になってしまったと言えます。

そこへ鉄道公債問題が浮上してきます。政友会の政治家たちはもっと急いで鉄道を作ってほしいとせっついてきます。自分の選挙区に鉄道を伸ばしてほしいのです。今と同じです。井上薫の大蔵委大臣人事をご破算にさせて大蔵委大臣のポストに収まった渡辺国武が財政緊縮派の人で、当時は鉄道建設は全て鉄道公債で費用が捻出されていましたが、「今後は公債による鉄道建設は不可(鉄道は当面は作らない)」と言い出して紛糾します。無駄な公共インフラは慎まれなければいけませんが、必要なインフラはやらなくてはいけません。現代のインフラ整備に関する議論と全く同じものを見ている気がしてしまい「100年前から何も変わっていないのか…」とちょっとため息をつきたくなります。

事態の収拾に限界を感じた伊藤博文は首相を辞任。井上薫を次の首相にするという話が持ち上がりましたが、井上薫は大蔵大臣に渋沢栄一を、陸軍大臣に桂太郎を据える人事を構想したものの両者に断られ、首相就任を辞退します。結果、桂太郎が元老たちから推薦され、第一次桂太郎内閣という長期政権が登場することになります。


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第一次大隈重信内閣が内部崩壊同然の形で終了し、山県有朋が再び首相の座に就くことになります。困った時の伊藤博文は「ちょっとしばらく自由にやらせてほしい」感が強く、薩摩閥の首相は絶対こけるという経験則みたいなのがなんとなく積まれてきて、政党政治家に首相をさせると、おそらくは当時の感覚としては「やっぱり…(現代の感覚としては政党政治家が首相になるのは当然ですが)」という失望感があって、残っているのは山県か…という消去法的な感じだったのではという気がしなくもありません。

山県は薩長が日本のエスタブリッシュメントになって「愚民どもを導いてやる」という意識の強い人だったようですので、内閣は当然議会におもねらない超然内閣。思想的な運動や労働運動の集会に規制をかける治安警察法を通したり、一番やってはいけない軍部大臣現役武官制を導入したりと、日本帝国滅亡の種を懇切丁寧に蒔いた人と言えなくもないように思います。

しかし、そのような内閣では議会とうまくいくはずがありません。議会がごねれば予算が通らないという重い代償がついてきます。これはやはり内閣に協力する与党がどうしても必要だという認識が生まれ、まあ、ようやく理解したのかという感じですが、伊藤博文を総裁にした立憲政友会が星亨や金子堅太郎たちと一緒に立ち上げられるという展開になります。地主、資本家、三井財閥などがその支持層ということだったらしいので、戦後の自民党みたいなものだとも言えるように思います。

明治天皇はそんなの作って大丈夫なのかと不安に感じたようなのですが、そういう疑問を持つというのは、やはり薩長エスタブリッシュメントが日本をリードするのがあるべき姿だと信じていたという証左と言えるかも知れません。

トクヴィルが『アメリカの民主政治』という本で、責任の重い政治家が国民の人気取りに忙殺されることへの疑義を呈していましたが、おそらくは当時の政府の内側の人たちにも「国民の頭を下げて、おべんちゃらを言うことばかり考えている人間に政治ができるか」と思っていたのかも知れません。立憲政友会の発足には貴族院も反発していたようです。

とはいえ、投票によって選ばれた政治家が責任を負うというのが民主主義の基本理念ですので、そこは乗り越えなければならない壁であり、まあ、そこは何とか乗り越えて、やがて原敬のような人も登場してくることになります。

山県有朋は立憲政友会を作った伊藤博文に対して「政党政治、やれるものならやってみな」という感じで伊藤を四度目の首相に据える形で首相の座から降りることになります。

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第二次松方正義内閣が衆議院を解散した日に辞任するというどたばた劇を兎にも角にも収集するために伊藤博文が三度目の組閣をします。とりあえずは選挙管理内閣としてスタートしたと言っていいかも知れません。

選挙結果では板垣退助の自由党が第一党となり、大隈重信の進歩党が僅か一議席の差で第二党となります。この時代になると官の政党は影も形もないありさまとなっており、議会で政府をつつきまくってきた大隈なり板垣なりの協力がないと政策が全然通らないという状況になっていきます。

伊藤博文は外交面では対ロシア融和策をうまくこなしており、日清戦争後の日露対立を避けることに一応は成功していますが、内政面ではなにしろ反政府の大隈と板垣の二大政党で三分の二を獲っている状態ですので増税もできなければ選挙制度改革もできず、伊藤は衆議院解散をうちます。自由党と進歩党が合併して憲政党結成して伊藤に対抗しようとしますが、嫌気がさしたであろう伊藤は辞任し、清・朝鮮半島への旅に出てしまいます。

政権の担い手がいなくなり、首相を推薦する元老会議で「大隈重信で行こうか」という話になり、第一次大隈重信内閣が誕生しますが、大隈と板垣の間で亀裂が生まれ、要するに「なぜ大隈重信が総理大臣で板垣退助が内大臣なのか」というポストの問題で感情的な溝が深まり、憲政党は分裂するというカオスった状態が生まれて行きます。

第一次大隈重信内閣は日本の憲政史上初の政党内閣と位置付けられており、それは確かに意義のあることのように思いますが、一方でゴネれば順番が回ってくるという悪い循環が生まれたようにも思えますし、それまで文句を言っていれば仕事していることになっていたのが責任のある立場になってブーメラン現象に見舞われるというお決まりのパターンもこの時から生じていたように思えます。

この時期、清では康有為や梁啓超などによる明治維新をモデルにした戊戌の変法運動とその瓦解という政変が起きており、最近の研究では国内政治を投げ出して外遊中だった伊藤博文が一枚噛んでいたらしいという説もあるようです。その説によると、康有為と伊藤博文が協議して英米日清の合邦を光緒帝に奏上したということらしく、それが本当なら清は戦わずして外国の植民地になってしまう恐れがあり、それを知った西太后が待ったをかけて愛国ゆえの血の粛清を行ったということになるらしいです。私にはそれを否定する根拠はありませんが、伊藤が独断で外国との合併を進めたというのはちょっと話ができすぎのような気がしなくもありません。


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日清戦争の「勝因」

李氏朝鮮王朝への影響力の拡大を目指す日本は、李王朝が長らく朝貢していた清との対決を覚悟していくようになります。ごく個人的な意見ですが、明治初期から日本では「征韓論」が湧いては消えていくので、よちよち歩きの新政府が外国に攻めて行くという発想事態がよく理解できませんし、朝鮮半島、遼東半島、南満州へと利権を拡大したことがやがては日本帝国の滅亡へとつながっていきますので、短期的には良かったかも知れませんが長期的には大陸進出は怪我の素と言えなくもない気がします。

それはともかく、日本はまず李王朝が清朝に朝貢するという伝統的なスタイルを保とうとすることを嫌がり、なんだかんだと楔を打ち込んでいこうとしますが、福沢諭吉の金玉均の明治維新をモデルとした改革を目指したクーデターに絡んだ第一回目の軍事衝突は日本側の敗退で終わります。これで落胆としたいうか、憤慨したというか、すっかり嫌になってしまった福沢諭吉が『脱亜論』を時事新報に掲載するという流れになります。

この結果、天津条約が結ばれますが、日本敗者として交渉に臨まざるを得なかったものの、今後は朝鮮半島に出兵する際には日清が同時に出兵するという何故か不思議と日本に有利な取り決めがなされ、後日に発生した東学党の乱では李王朝が鎮圧のために清に軍の派遣を要請すると、天津条約を盾に日本軍も出兵します。両軍本気の出兵ですので、一触即発、開戦必至の状況に至ります。

日本軍は宣戦布告前に朝鮮王宮を占拠するという、はっきり言えば暴挙に出たと私は思いますが、その後に清に宣戦を布告し、正式に戦争状態に入ります。宣戦布告の前に朝鮮王宮を占拠した動機としては、清に宣戦布告すると李王朝も一緒に日本に宣戦布告する可能性もあり、アクターが2対1になることを恐れ、それを阻止するのが狙いだったのではないかと思えます。

清は兵隊の数では文句なしですし、大砲はドイツのクルップ社から買った鉄製の大砲が標準装備。それに対して日本軍は国産の青銅の大砲です。鉄の大砲の方が丈夫ですので、射程距離も伸びやすく、ぶっちゃけ清の圧倒的有利です。よくこの状態で伊藤博文は戦争をやる気になったものだと首を傾げてたくならなくもありません。しかも国内では衆議院選挙の真っ最中、対外戦争が起きれば国内がまとまった政局的にも有利という判断はあり得ますが、ちょっと方向性を間違えれば全部瓦解しますので、博打も博打。大博打です。

ところがいざ戦端が開かれると各地で日本軍が圧勝します。どこへ行っても激戦があった翌日には清軍が撤退しているというのが続きます。袁世凱が決戦を避けたからだという説明もありますが、私個人としてはこれは袁世凱の深刻なサボタージュだと思えます。温存した兵力を結局は辛亥革命に使いますので、この人一体何なんだというか、内部にこんなのがいれば、そりゃあ勝てません。大事な時に裏切る兵隊100万人よりどこまでもついてきてくれる200人です。

海戦では結論としてはなかなか勝負がつきません。当時の北洋艦隊は定遠と鎮遠というこれもドイツ製の世界最大最新の戦艦を二隻持っていましたが、日本の連合艦隊はそもそも戦艦がありません。速力と操艦技術で北洋艦隊は撤退しますが、よくもまあこんな海戦をやるつもりになったなあと驚愕します。

その後北洋艦隊が閉じこもってしまい、じっと我慢の包囲作戦になるわけですが、陸戦で日本軍が旅順、威海衛を陥落させたことでいよいよ講和という話になっていきます。陸軍部内には北京まで行って直隷決戦を主張する人もいたようですが、そんなことをすれば光緒帝は熱河、更にどっか遠くへと避難して、そのうち日本軍の兵站が疲弊してしまうという日中戦争と同じ展開になってしまいますので、直隷決戦をやらなくて本当に良かったです。

このように見ていくと清の陸海軍ともに戦意に乏しかったことが日本の勝因であり、そこには李鴻章が戦力を温存した状態で列強の介入による講和という筋書きがあったとも言われますが、頼みにする予定の列強の介入がなされる前に決着がついたわけで、李鴻章の読みが外れたとも言え、敵失という天祐で戦争に勝てたのだということが分かります。

日露戦争も天祐だらけで第一世界大戦も日本だけにとっては天祐みたいな棚ぼた的な展開を見せますが、日本は天祐で勝利を重ねることができたということをだんだん理解できなくなっていった人たちが運命の太平洋戦争に突入したとも言えますので、確かに勝ったことは勝ったわけですが、素直に喜ぶわけにもいかない複雑な心境で見ざるを得ない日本帝国のデビュー戦です。

第二次伊藤博文内閣



松方正義が立ち往生する形で辞任した後を受け、伊藤博文は陸奥宗光、大山巌、黒田清隆山県有朋ら重鎮を閣僚として集めたいわばドリームチーム内閣を目指します。

しかし、当時は議院内閣制ではないため、議会の方は反政府で勢いづいており、政権運営はそう簡単なものではなかったようです。陸奥宗光が列強との不平等条約の改正に尽力していましたが、議会の反政府政党からは全面的な平等条約以外は認められないとの突き上げがあり、じょじょに妥協していくならともかく、安政の五か国条約を一挙に完全平等にするというのはハードルが高すぎて不可能とも言えますので、議会で官側の政党が少数派であったこともあり、早々に行き詰まりを見せて伊藤博文は衆議院の解散に打って出ます。

反政府と見られた各会派は政府の圧力によって議席を伸ばすことができなかった一方で、伊藤との連携の可能性を含んでいた自由党は議席を120まで伸ばします。一方で政府系政党は議席を激減させますが、自由党と合わせれば過半数を抑えられるというところまで持っていきます。政府の圧力で議席が伸びたり伸びなかったりするあたり、相当に裏とか闇とかそういった深かったに違いなく、現代の我々の価値観から言えばおよそ公正とはほど遠い選挙が行われていたに違いないことを伺わせるものです。

野党各派は自由党の星亨攻撃に狙いを定め、旧中村藩主の相馬家のお家騒動で星亨が贈収賄に絡んだという疑いで責めあげられ、衆議院議長不信任案が可決し、伊藤博文は更にもう一度衆議院の解散の挙に出ます。与党が少数だと何も決まらないという見本みたいなことが繰り返されている感が強いです。

ところがこの選挙期間中に日清戦争が勃発し(選挙期間中を狙って伊藤が始めた)、広島で臨時に行われた帝国議会では各会派一致して日清戦争を支持します。

第二次伊藤内閣を語る上で日清戦争は欠かせませんが、陸戦では連戦連勝、開戦の方では軍艦の大きさの違いが日清双方では歴然としており清の北洋艦隊の圧倒的優位のはずでしたが、関門海峡で幕府軍と接近戦をした経験がものを言ったのか、黄海海戦でも接近戦と小回りの利く動きで北洋艦隊は威海衛に撤退します。日本海軍が威海衛を包囲していたところで陸軍が陸伝いに威海衛を制圧し、北洋艦隊は降伏。提督の汝昌が自決するという展開を見せます。

陸奥宗光と共に李鴻章と交渉した下関条約で日本の勝利が確定し、台湾の領有、遼東半島の租借、賠償金二億テールという交渉面でも完全勝利を収め、第二次伊藤博文内閣はそれまでバタバタと倒れていた黒田、山県、松方の政権と比べて長期の政権運営に成功します。

議会の協力がなければ政権運営はできないと悟った伊藤博文は黒田清隆以来の議会と政府は別であるとする超然主義を捨て、自由党の板垣退助と進歩党の大隈重信を閣内に取り込んで挙国一致状態を戦後も続けようとしますが、板垣退助と大隈重信が宿敵化して激しく対立し、伊藤はこりゃ無理だと判断して辞任へと至ります。

いろいろ裏が真っ黒であるにせよ、議会の存在感を政府が理解するようになったという点では日本の民主主義がそれだけ前進したと考えることもでき、そういう意味では憲政の常道への一歩を踏み出したという意義をこの内閣から見出すことも可能なように思います。

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