伊丹万作『戦争責任者の問題』を読んで考える敗戦国民の矜持

たまたま、映画監督で伊丹万作という人(伊丹十三さんの親父さん)が『戦争責任者の問題』という文章をは1946年に発表していたことを知り、インターネットで探してみると青空文庫で読むことができたので、どういう内容のものか読んでみた。15年戦争の失敗にどのような意味を与えるかは戦後を生きる日本人にとって簡単には答えの出せない難しい問題だが、私が漠然と考えていたことと同じことが書かれてあったので、私は自分の言いたいことを代わりに言ってくれている人が70年も前にいたのだと知って驚き、感動もしたので、ちょっとここで論じてみたいと思う。

伊丹万作氏は、「自由映画人集団」が文化運動をするというから参加してみたところ、かなり実践的な政治活動グループだと悟り脱退することにしたというのが、この文章の骨幹みたいなもになると思うのだが、興味深いのはその理由である。私は自由映画人集団がどんなことをしていたのかよく知らないので偉そうなことは全然書けないのだが、要するに戦争責任者をあぶりだして徹底的に懲らしめよう、追放しようという運動をしていたらしい。で、伊丹万作氏は、戦争責任者がいるとすれば、その軽重はあるにしても日本国民全員(子どもを除く)に及ぶのだから、他人の責任を追及する前に自分の責任を反省するのが先ではないかという趣旨のことを述べている。

実は私も前からそう思っている。これは私の人生観にもかかわって来るが私以外の誰かが悪い、私以外の何かが悪い、他の何者かの責任だと言っている間、人間は成長しない。自分にも責任があると認めた時、人は自分がどのように行動するかを考え、思慮深くなり、慎み深くなり、他人の貢献するということを考えるようになるのではないかと私は思っている。そのため、一部の戦争犯罪人とか戦争責任者だけに全てを押し付けてしまうのは、日本人にとって良くないと、一人の日本人として思うのだ。敗戦国民の矜持みたいなことを私はよく考える。潔く敗けたのだから、その敗けについて反芻し、新しい未来を切り開く糧にする、みたいなことだ。

もちろん、罪の軽重はあるから、場合によっては重い刑を科せられることはあるだろうし、反省の意思を持っただけで赦されていい場合もあると思う。

東京裁判はそういう意味ではいろいろな意味で微妙な裁判だと私には思える。裁判することによっていつどこで誰が、どんな意思決定をしたのかある程度は明らかにされたと思うが、一方で裁判にかけられなかった人たち全員に対して推定無罪の効果が生まれるし、多分、当時の人々は自分は悪くない。悪いのは他の〇〇だ。と言うことによって心理的な安全を担保することができた。しかし結果として、一部の人たちだけが悪く、他の人たちは反省しなくていいという構造も生まれたように思える。

私は日本が好きだし、日本人に生まれたことを嬉しく思っているが、今日まで続く思想的対立の根底には伊丹万作氏が指摘したような内省の不在があるのではないかという気がしてならない。私はどちらか一方に与したくはないのだが、どちらにも、或いは多方面に及ぶ内省の不存在は前々から気になっていたし、私はそのような議論に疲れてしまうこともあった。だが、日本人の良いところはきちんと内省するとそこから学んで真っ直ぐに道を歩くところにあると思うし、内省は一回すればいいものではなくて常に行われるべきものだとも思うから、そういうところから議論を始めると、もうちょっと何かが融合するのではないかという気がする。私がここで述べている内省の不存在とは、丸山眞夫が指摘した「無責任の体系」とだいたい同じような意味だとも思うので、そういう意味では丸山眞夫みたいな超絶有名人が既に指摘しているのに、そこはみんながスルーするか上手に解釈を変えているのだろう。それはともかく、良い戦争などというものは存在しないと思うので、なぜ悪い戦争をしたのかについて考えることは意味があると思うし、仮にあの戦争を悪い戦争だと思わない人がいるとしても、敗けたことは事実なので何故敗けたのかを考えることも新しい発見につながるのではないだろうか。『失敗の本質』みたいなことは常に考えておいて損はない。人は失敗から学ぶのだから。