心理的な傷から如何にして立ち直るか

心理的な傷は時間軸で言えば短期的なものと長期的なものに分けることができる。そしてその立ち直り方は消極的なものと積極的なものに分けることができる。心に傷を一切負わずに人生を終えることができる人はおそらく皆無である。私も自分の心理的な問題を解決するために様々な努力をしてきたし、現在もそれは継続中だと言える。ここでは、私なりに心理的な傷から立ち直るために実践したことや学んだこと、その効果などを手短にまとめてみたい。

まず、心理的な傷の短期的なものというのは、たとえば誰かに批判されたり、ちょっとしたことで相手の怒りを買ったり、仕事でミスをしてしまったり、飲み過ぎてしまったりして落ち込んでしまった場合のようなものを指している。そして長期的な傷というのは主として幼少年期にたとえばイジメにあったとか、虐待されたとか、或いは事故にあったなど人格形成期に於ける傷が生涯にわたってその人の心を苛むような類のものを指している。短期的な心の傷を受ける要因は主として普段は忘れるようにしている長期的な心の傷の再生みたいなできごとであるため、短期的な心の傷も突き詰めれば長期的な心の傷が起因しているということができるため、突き詰めれば長期的な心の傷を如何にして治癒させるかということが課題になる。ただし、長期的な心の傷の治癒には積極的な療法を長期間断続的に行わなくてはならないため、これを読んですぐに解決するようなものではない。場合によってはさっき傷ついたからその治癒の方法をこの記事で知りたいと思う人もいるはずであるため、先に短期的な問題、直近の問題について取り扱い、続いて長期的な解決について取り扱いたい。

短期的な問題、たとえば誰かに嫌なことを言われたり、仕事をミスをしたりという場合、消極的な治癒方法はそれなりに有効である。消極的な治癒方法とは簡単に言えば時間が解決するということだ。私の場合、激しく落ち込んだ場合も二週間もすればどうにか気力を取り戻すことができる。経験的にマックスに落ち込んでも二週間程度で回復できるため、傷つくようなことが起きても「二週間の辛抱だ」と思うことにしている。実際、数日前にちょっとここでは言えないくらいショッキングなことが起きたが(そのことについて私が悪いとはちょっと思えないようなことだった)、今は次第に回復基調に入りつつあり、個人的な経験測として「二週間もあればだいたい大丈夫」という考えがあるため、結果としては「いつまでこの苦しみが続くのか」という不安からは解放されやすく、その分、心理的な立ち直りは楽にできるようになってきた。これは最近そうなってきたのであって、何度もショッキングなことを経験するうちにようやく気付くことのできた私の心の内側での現象であると言える。短期的な問題についてはその他にとりあえず寝るとか、お酒などの嗜好品にとりあえず逃げ込むとか、週末は自宅に引きこもってyoutubeやnetflixを視聴して何も考えないようにするなど、消極的ではあるが、ある程度の積極性(お酒を飲んだり、何かを視聴したりするのでなにがしかの行動は伴っている)を持っているが、これは耐え難いと思える経験が生じたとき、自分を現実から一旦切り離すことで痛みが軽減するのを待つという方法になる。短期的な心理的な傷に対する積極的なアプローチはカウンセラーに電話するということを私個人は今でも時々やっている。心の痛みを軽減するために他人に話すということは効果があるが、友人にいちいち相談することは、度が過ぎると友人を遠ざけることになりかねないし、自分の恥ずかしい面を友人を見せる場合もあるため、私はわりと慎重である。カウンセラーであれば、他人に話せないことを話せる上に、自分との相性が合う相手であれば適切な意見交換を行うことにより、痛みをかなり軽減させることも可能だ。心理的なショックを受けた場合、私の場合、何が起きているのか理解できない、私が悪いのか悪くないのかも判断できない、原因も分からないという軽いパニックを起こすことになるのだが、いい大人が「パニックだ」と騒いでも信用を落とす以外の効果はないため、とりあえずその場はぐっと耐え、時間を見つけてカウンセラーに電話することにしている。当然後で料金を払わなくてはならないが、一時的にとはいえパニックになっている場合、それこそ死んでしまいたいと思うこともあるから、自分の生命に比べればカウンセリング費用はむしろ衣食住同様の必要経費と言ってもいいと私は考えている。死ぬより金を払う方が断然いいに決まっているからである。カウンセラーを話すことによって、自分の身に何が起きたのか、何が原因で、善処する方法はあるかということについて考えることができるようになるため、無用な危機を避けることもできる。ショッキングなことが起きれば数日間は見た目には普通でも頭の中はパニックになっているため適切な判断ができない状態になっている可能性があり、それでも仕事をしたり日常の選択をし、社会的に行動しなくてはならない。パニック状態のままそれらを遂行すれば無用に傷口を広げることも起きかねないので、私はカウンセラーに頼ることはリスクコントロールの面を有するとも思っている。著名人になればなるほどお抱えの占い師がいたり、宗教的なものに頼ったりする傾向があると聞いたことがあるが、それは、そういったことがリスクコントロールになり、例えば逆ギレするなどの本来なくていいはずのカタストロフを避けることになるのだと言える。

では、長期的な問題について考えたい。よく時間が薬というが、長期的な心理的な傷は時間では解決しない。放置しておけば生涯にわたり本人を苛み続ける。上に述べたように短期的なショックの由来も長期的な心の傷に由来しているため、明朗な人生を送るためには長期的な心の傷に対して戦略的なアプローチを考えなくてはいけない。高額なセミナーに行ってある程度良くなるという人もいるかも知れないから、完全に否定はしないが、個人的にはおそらくそういったアプローチは短期的な効果しか持たず、根源的な治癒には至らないのではないかと考えている。長期的な心の傷は、その人の認知と行動に影響する。人は心の傷によって認知と行動がある程度決定されてしまい、それを繰り返し、その人自身という人格が作り上げられていくことになる。そのため、長期的な心の傷の治癒のためには認知と行動を忍耐強く変えるように努力し、最終的には自分は別人格になるくらいの覚悟も必要になる。認知を行動を変えるというのは、たとえば「私はいつも嫌われる」という認知がある場合、それは幼少期にイジメを受けたりしたことからそういう認知が生まれるわけだが、「必ずしもそうではない」「場合によっては好かれる」という認知へと変化させていくよう自己内対話を行うことになる。この自己内対話が上手にできるようになるためにカウンセリングを利用することは有効かも知れない。自己内対話が上手にできるようになれば、自分できるためカウンセラーの力は必ずしも必要ではない。カウンセラーにはクライアントの根本的な心理的問題を解決することはできない。経験を積んだカウンセラーであればそのことはよく知っている。新人のカウンセラーはカウンセリングで人を救うことに無限の可能性を感じている場合があり、その場合はカウンセラー本人も自分の心の傷を治癒するためにカウンセリング技術に頼りたいという願望があるため、クライアントに対しても「絶対治癒できる。治癒させよう」という姿勢で臨むが、私の経験で言うと、カウンセラー本人にそのような力はない。内科医は患者に薬を投与したり安静にするよう命じることはできるが、病気そのものはその人の生命力で治癒していくのに似ている。ただし、たとえば風邪は自然治癒する可能性が高いが、心理的な傷はそうではないため、「うつは心の風邪」のような楽観視はできない。「うつは心の癌」だと私は捉えており、放置すればキルケゴールの言うように死に至る病になる場合もある。

ここまでに長期的な治癒の手段として自己内対話を上手に行うことで認知を変化させるということを述べたが、自己内対話を理屈抜きで強引に良い方向へもっていこうとするのがいわゆるアファメーションと呼ばれるものであると私は考えている。たとえば斎藤一人氏の「愛してます、ついてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、ゆるします」であったり、「私は愛と光と忍耐です」のような「天国言葉」を毎日繰り返し唱えなさいという教えは、現実が如何に望ましくないものであったとしても、強引に自分に今の現実は素晴らしいと認知させることで、即ち認知を変えることで行動が変化し、結果として人生も良くなるとする考えが基本になっている私は理解している。斎藤一人氏については賛否あると思うが、アプローチとしては正しいと言える。自己内対話によって認知を変化させることには限界があるからだ。人にはどうしても「こうとしか考えられない」という認知がある。そのため、自己内対話をどれだけ深めても突き詰めたコアな部分の認知を変化させることは難しく、そこまでで納得するか諦めるかをせざるを得ない。しかし、斎藤一人氏のようなアファメーション方式では、理屈抜きで認知を変える言葉を自分の頭に強引に押し込んでいくため、自己内対話の壁を超える可能性はある。認知が変われば行動が自ずと変わるため、得られる結果も自動的に変わってくる。高額な心理療法、たとえば前世療法や催眠療法などの手段で認知を変えることはあり得るが、アファメーションは無料でできるため、金銭的にもお得と言える。ただし、忍耐強くやらなくてはならない。コアな部分の認知は何十年も保たれ、その人の人格そのものになっているため、アファメーションもある程度のところまでいくと固い壁を破るのに相当な根気を要することになる。自我が抵抗するのだと言い換えることもできる。ではどうするかというと、私の場合、カウンセリングとアファメーションの双方を利用することにしている。カウンセリングで自分の抱える問題を整理し、アファメーションをするのである。この場合、問題の核になる部分の整理ができた状態で行うため、自我の抵抗を受けにくくなるからだ。

私の経験に基づくものだが、以上述べたことを生活に取り入れるだけでも人生は良くなるはずだし、心理的な苦しみは相当に軽減される。しかし、それだけでも完全な解決ということには至らない。人は結果を良くすることにこだわってしまうからだ。「私は人に嫌われる」という認知を「必ずしもそうではない」と変えることができたとしても、人に必ず好かれるとは限らない、嫌われることはあるし、或いは実際に嫌われているとは言えなくても嫌われたと判断せざるを得ないようなことも起きる。そのようなことはアファメーションをしていても起きるため、アファメーションには効果がないと落胆することも起きるだろう。

ここを乗り越えるのが最大の難関であると言える。「私は人に嫌われる」という認知を矯正しても嫌われることがあるため、人に好かれているという実感を得たいという効果を求め続ける限り、「やっぱり嫌われた」の堂々巡りに陥る危険がある。ここでようやく自分を別人格に変化させる、或いは昇華させるという次元の問題に取り組まなくてはならない。それは「私は人に嫌われても大丈夫」という信念を自分で創造できるかどうかということであり、これはカウンセリングやアファメーションだけで乗り越えられるかどうかは疑問である。カウンセリングは無理にクライアントを変えようとはしない。また、アファメーションは自我の抵抗に合う。また、人は自我を守りたがる。そこを越えられるかどうかは、今の私にとっても課題であるため、ここでこうすればいいという結論を出すことはできない。しかし、ここに気づくことができている以上、そのように自分を昇華させることはできるのではないかとも考えている。「私は人に好かれているか嫌われているかを問題にしない」という信念を確立することができた場合、私は純粋に他人の意見を無視して自分のやりたいことに取り組むことができるし、自分を活かした人生を実感することができるかも知れない。繰り返しになるが、そこまでたどり着くための方法論を私はまだ確立していない。ここまで来ると言語化できる方法論が存在しないため、瞑想や座禅という、ちょっとワープした手法へ移行せざるを得ないかも知れないし、過去の偉人たちの多くが瞑想や座禅にたどり着いたのも同じ理由ではないかと察せられる。

しかし、問題の整理ができていないまま瞑想をしたところで過去の心の傷から解放されるわけではない。問題は頭の中を堂々巡りするだろう。カウンセリングとアファメーションと瞑想を日常に取り入れていくことで「私は大丈夫だし他人にも愛を持って接することができる」という心境に入れるのではないかと思う。この場合、私は他人に愛されなくても大丈夫だという信念を確立しているため、他人が私を愛するかどうかは関係なく他人を愛することができるようになるはずである。ここまでくれば仙人の領域かも知れないし、一生かけて辿り着けるかどうかは分からないが、目指す価値はある。目指してみたい。真実にその領域に辿り着いた時、過去の心の傷は治癒したというよりは問題ではなくなるはずなので、結果として治癒したことになると言えるかも知れない。

不遇の時期をどう過ごすか

須田慎一郎氏の自己プレゼンテーション

最近は見なくなったんですが、ネット配信で『そこまで言って委員会』をよく見ている時期がありました。で、多分、私が最後に見た回だと思うのですが、パネラーに「自分は何に依存していると思いますか?」という緩めの質問があり、その時に須田信一郎氏が「ネオン症候群」と答えていたことに私は衝撃を受け、人生についてより一歩深く考えることになってしまいました。

ネオン症候群とは要するに夜になるとネオン街へ行きたくなってしまって自分でもコントロールするのが難しいということなのだと思いますが、須田慎一郎氏曰く、「男を磨く」ために夜の街、要するにホステスさんのいるようなお店へ行くのだということらしいのです。

それは私にとって衝撃でした、私は誘われたりして何度か行ったことはありますが、面白いとも何とも思えず、なんだかよく分からん…という心境で帰宅した思い出しかなく、自発的に行きたいとは思わないからです。ですから無駄遣いをするためにでかけるように思えてしまいます。しかし、おそらく想像ですが、客としての気合の入り方が違うのではないかという気がしました。私のような普通の人間の場合、ホステスさんと話しをして「わーきれいな人と話せてよかったな」と思わせるというのがこういうお店のサービスだと思うわけですが、須田氏の場合はそうではなく、本来、従業員として働いているホステスさんが話を合わせてくれるような場所で、客としての自分が気を使い、ホステスさんを楽しめ、結果として人間性を高めるという、そういう場所だと認識しているのではないかと私は考えました。

そのように考えると他の番組で須田氏が出て来た時のアドリブの瞬発力は夜の街で磨かれたものなのではないかという気がしてきます。須田慎一郎氏は顔はめちゃめちゃ怖いです。お会いしたことはないですが、男の私がお会いしてもびびるのではないかという気がします。しかし、彼がテレビで見せているような「おちゃめ」感、自虐もちょっとやってみる感のギャップを彼は意図的に演出していて、目の前の人の心を捉えるというストラテジーを持っているように思えます。こわい顔の人がおちゃめぶるということにどの程度の効果が見込めるのかは正確には分かりませんが、効果の上がる相手がいることは間違いないはずで、そのように思うと、自己投資として夜の街へ出かけていく須田慎一郎さんは凄い人だと私には思えてきます。

人格磨きと呼ぶべきなのか、それとも自己プレゼンテーションの訓練と呼ぶべきかは微妙なところはありますが、人間関係に於ける自己プレゼンテーションがうまくなれば、単に女性相手だけでなく、磨き込むことによって男性相手でも人の心の機微に入り込むことができるようになるのではないかと私は想像します。人格磨きという点では私は大学で学生相手にかなり揉まれています。教師は偉いから学生相手は楽だということは全然ありません。教育サービスを真剣に受けたい学生と楽に単位を取りたい学生の両方がいて、彼らはみな気まぐれで、気に入らなければ授業にも出てきません。強制できませんから、授業に来たいと思ってもらえる内容作りに私は心身をすり減らし、これは人間性の訓練であり、職業人としての試練でもあると思って努力しています。なので、須田さんも私も同じなのだと強引に結論して自分を安心させることにします。きっと他の人も、みんなそうです。職場や学校で人格磨きをして、人としても職業人としても向上の努力をしていくしかありません。いつの日か「あーむくわれたなあ」と思えるかどうか。努力しなければ思える日は来ません。がんばりまっす。


【自己訓練】目の前の仕事にきちんと集中する

人には大抵の場合、やりたい仕事があります。「やりたい仕事がない」という人も中にはいるかも知れないのですが、そういう人でもやりたい仕事を見つけていかなくてはいけません。どの場合であったとしてもある程度の年齢に達すれば職業を持たなくてはいけません。希望する職に就ける人もいれば、そうでない人もいるでしょうし、希望する職ではあるけれど、条件が希望通りではなかった、向いていないことに気づいたなどなど、いろいろな理想と現実のはざまで心が動いてしまうものです。

ただし、職業に貴賤はありません。正規・非正規は条件や待遇の違いであって、貴賤とは関係がありません。よりよい人生を得るためには職種や条件にあまりこだわりすぎず、目の前にある仕事をしっかりこなすということが、賢明なのではないかと思います。スタートラインは人さまざまです。有名大学から有名企業に入り、順調に出世するという場合もあるでしょうけれど、大学は出たもののぱっとしない、有名企業に入ったものの窓際だ、反対に無名の企業で給与もよくないけれど、楽しい、やりがいを感じるなどの場合もあるに違いありません。

どのような条件であったとしても目の前の仕事に対してきちんと集中して仕事をしていると、上のような諸条件に負けず、やがて人生で得るべきものが手に入るようになってきます。希望していた職種に就くことができなかったとしても、その仕事に集中してきちんと仕上げていれば、周囲からいろいろな助けや声がかかるようになります。そしてやがて、気づくと望む環境を手に入れていることができるようになっていきます。非正規であったとしても、出来栄えのよい仕事をしていれば、先方から正規になってほしいと声をかけてくるかも知れません。望む職種でなかったとしても、出来栄えの良い仕事をしていると、声望が集まり、組織の中での信用が高まって行けば、次第に自分の関心のある領域に手を出すことができるようになっていきます。もちろん、そこには壁があり、時として勇気とともに一歩を踏み出さなくてはいけない場合もあります。それまでの仕事が認められていたとすれば、新しい一歩は周囲から歓迎を受け、やりやすいものになるでしょう。逆にやりたくない職位だったからという理由で明らかな手抜きが多い場合は新しい一歩を応援してくれる人に出会いにくいので、そういう場合には苦戦せざるを得なくなってしまいます。

チャンスについても同じことが言えます。理想的なチャンスは来ません。頭で思い浮かべる諸条件が整った理想的なチャンスが来ることは一生に一回あるかないかではないかと思います。ですから、理想通りのチャンスでなかったとしても、懸命に取り組むことはよりよい人生を得やすくなる心構えではないかと思います。一歩一歩を歩き、一手一手を撃ち続けていけば、そのうちかなり理想へと近づいていきます。自分の限界も見えてきますから、自分の限界を受け入れるということも大切にはなってきます。しかし、相当に理想に近づくことができれば、そうでない人生よりも遥かに充実した感覚を得ることができるのではないかと思います。

ただし、極端に条件が悪かったり、性格上どうしても無理な仕事や、倫理的に受け入れることができない仕事をさせられることもあるでしょうから、そこを見極め、時にはきっぱり辞めるという勇気も必要です。いつでも辞めてもいいんだという心境になれば、かえって続けられるものでもあるとは言えそうですが。

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【自己訓練】将来を心配しすぎない

将来には不安がつきまとうものです。ですから、将来に備えて人は様々な予防策を講じます。保険に入る、貯金する、資産を購入する、健康食品を食べる、運動する、勉強する、スキルを身に着ける。などなど、将来のために何かをしている人は多いでしょう。何もしていない人の方が少ないかも知れません。しかし、将来を心配し過ぎることは必ずしも賢明な生き方とは思えません。なぜなら、将来がどうなるか、一分一秒先がどうなるかは、誰にも分からないからです。ある程度の見通しは立ちます。ある程度の想像はできます。しかしそれは飽くまでも想像であって、現実ではありません。「将来」という現実はまだ来ていないのです。その将来のために思い悩み、思い煩う人がいるとすれば、それはとてももったないことです。

もちろん、人は将来を心配しやすいように生まれついています。最悪を予想して、最善を尽くすことで人は自己保全の確立を高めることができます。しかし、最善を尽くすためには将来を心配し過ぎることは逆効果になりかねません。将来の未だ起きていないことを想像することに頭脳のエネルギーを使う分、最善を尽くす力がそがれてしまいかねません。

また、将来への不安が過度になると、それに振り回されてしまい、何が最善の手なのかを考える余裕がなくなってしまいます。最善のはずだと思って、悪手を選んでしまったという経験は誰にでも一度や二度はあるのではないかと思います。私もしょっちゅうです。冷静な判断をするためには、過度な不安から自分を解放しなくてはいけません。

不安は抑え込もうとすると反発力が強くなり、人はかえって不安に飲み込まれてしまうものではないかと私は思っています。ですから、抑え込むのではなく、解放するのです。完全な解放は人間の性質上あり得ませんし、全く将来について考えないと言うのもよくありませんが、不安がもたげてきたときに、意識して「気にしない気にしない」と軽く首を振ってみる。不安で押しつぶされそうになったら深呼吸をしてみる。散歩をする。おいしいものを食べる。などをしてちょっと不安を忘れてみるのです。技術的な問題です。自己訓練です。いったん不安を手放すと、次に不安がやってきたとしても自分を不安にさせている要因について多少距離を置いて考えることができるようになります。冷静に分析し、判断し、そこでようやく最善と思える手が思いつくのです。それの積み重ねによって結果として振り返った時、充実した時間を過ごしていたことに気づくことができるかも知れません。将来は大切ですが、将来は今の積み重ねです。今を充実させることにエネルギーを使ってみることが賢明と思えます。

今を充実させると言っても、湯水のようにお金を使って不安をごまかすとか、そういうことではありません。心を静めて美しい絵画や景色を見る。目を閉じる。今、取り敢えず目の前にあることをきちんとこなす。深呼吸する。そして落ち着いた状態でほしいものを買ったり、食べたりするのがいいのではないか、結果として仕事や人間関係のクオリティがあがり、飽くまでもその結果として人生が充実するのではないかと思えます。

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【自己訓練】嫌いなことはやらない勇気を持つ

「自己訓練」と言えば、人のやらないことをやる。みたいなことがぱっと頭に思い浮かびます。そういう雑巾がけのようなことももちろん大切ですし、徳を積むという意味ではいいかも知れません。しかし、それでもやるべきではないと思えることもあります。どうしても嫌いな仕事、或いは自分を過度に酷使してしまう仕事です。

どうしても好きになれない仕事とはどういう仕事でしょうか。意味があると思えない仕事などはやはりやりたくないでしょう。雑巾がけ的な仕事とは少しニュアンスが違います。雑巾がけ的な仕事は社会的公益に叶う、または組織の仲間に貢献できるという意味がある場合、それは積極的にやるべきです。しかし、意味があるとは思えなず、単に辛いだけの仕事をするのは、やらない勇気を持つこともよりよい人生を送るためには大切なことではないかと思います。

たとえお金がもらえるとしても、嫌いなことをしていると自分が疲弊していきます。疲弊している中、大切なことに取り組むとミスが増えます。やりたいことをやる時間を削り、ミスをカバーすることになるので、人生から豊かさのようなものが消えてしまい、悪い循環へと落ち込んでしまいます。

これも自己訓練です。やるべきなのにやりたくないことなのか、それとも雑巾がけと思い、下積みのつもりでやるべきことなのか、それとも本当に嫌いなのかを見分ける目を養わなくてはいけません。そして、これが「嫌いなことだ」と気づいたときに、それを辞めるという勇気も持たなくてはいけません。辞める勇気がないとだらだらといつまでもやり続けてしまい、結果として心には何も残らず、疲弊だけがずっしりと肩にのしかかっていたということにもなりかねません。

上ようなことを見極める目を持つこと、見極めがついたらやるべきこととそうでないことを分け、そうでないものを断捨離する、辞めるという勇気を持つことも自己訓練と思います。もちろん、すぐには判断がつかないということも多いでしょう。ただ、上に述べたことを意識するだけで、多少なりとも大切な人生から無駄を省くことができるようになるのではないかと思えます。

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多くの人には「有名になってみたい」というわりと子供っぽい憧れがあるのではないでしょうか。「有名人」にカテゴリーされると、どこへ行っても注目されていい気分。アイドルや映画俳優になって、注目を浴びたい、或いは本を何冊も出版して著名人と呼ばれたいという願望は私にもないわけではありません(最近は諦めてますが…)

ただし、この世に生まれてきた人の大半の人は有名にならずに人生を終えていきます。有名にならないことが普通なのです。ですから、有名にならなくては幸せになれないという思い込みがあると大抵の場合は不幸への道を歩むことになりかねません。

そのため、「無名でも幸せだ」と思うように自己訓練することは、よりよい人生を得るために有効なことと思えます。もちろん、有名になることを目指すなというわけではありません。有名になることだけを願い、それだけを目指して動くというのはバックボーンや信念が軽佻浮薄なため、有名になったとしても短期間、場合によっては些細なことで足元をすくわれて表舞台から去っていくことにってしまうことも珍しいことではありません。

むしろお勧めしたいのは、有名になることを目指すのではなく、自分の仕事をこつこつしっかりとやることではないかと思います。人生では何回か追い風が吹いてくることがありますから、その追い風に乗って著名人と呼ばれる人になることは充分にあり得ます。しかも、自分の仕事をしっかりやってきたという基盤の上の名声ですから、少々のことで揺らぐことはありません。

そのような追い風、神風を味方につけるためには、やはり今目の前にある仕事にしっかりこつこつ取り組むことではないかと思います。それはアルバイトであったとしても、普通の社員の人であったとしても、自由業、自営業であったとしても同じだと私は考えています。目の前の仕事にしっかりこつこつ取り組む以外の生き方はないのではないか、その結果、様々な実を結ぶ。それ以外にはないと私は思います。そうしている人だけが追い風に乗るだけの力がつくし、追い風が吹いたときにワンステップ上に行けるのではないか、人生とはそういうものではないかと思います。それまでは焦らずじわじわです。

さて、今日もがんばりますか。

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お金は大切なものですから、あまりにも気前よくパッパッと使うことは慎まなくてはいけません。で、難しいところですが、あまりにケチりすぎてもよくありません。使う時にはきれいに使うということがより豊かな人生を送るために有効なことではないかと思います。要するに生きたお金の使い方をするということです。

生きたお金の使い方の一例として、お昼ご飯を他人に奢るというのがあるのではと思います。夕ご飯を他人にごちそうするのは、ちょっと財布にとっても厳しいですが、ランチ程度なら財布にも優しいですし、運が良ければ相手は奢ってくれたことを覚えていてくれて、他人にもいい評判を語ってくれるかも知れません。

もしかすると相手はそんなことを忘れてしまうかも知れませんが、何回か奢ってあげれば自然と人間関係的な優劣が生まれ、奢る側は心理的には楽な立場でいられます。変な言い方をすればお金で心理的な楽を手に入れるとも言えますが、とはいえ、気持ちよく人間関係を送るには、ちょうどいい投資ではないかと思います。

生きたお金の使い方として、よく自己投資と言われます。スキルアップや見分を広めるために投資するわけです。ですが、究極には人間関係への投資ということが言えなくもないように思えます。豊かな人生を感じるためには豊かな人間関係があってこそです。ですので、究極の自己投資は周囲の人への投資ということが言えますし、お昼ご飯なら相手にとっても奢られてもいい程度の金額ですし、自分にとっても負担をあまり感じません。

多少、年齢を重ねると年下の人は目下の人と食事をする機会も増えてきます。その場合など、きれいに気分よく奢らないと、相手からの敬意を失うことにもなりかねません。それでもお財布にとって厳しいという場合、回数を減らして奢るのです。独身の人なら孤独な食事の回数が増えるというデメリットはありますが、少ない回数で印象を良くしておくほうがベターに決まっています。

よく、友達と旅行するのは要注意と言われます。長時間一緒にいると相手の悪い部分が見えてしまいますし、自分の悪い部分も見られてしまいます。ある人は「友達と旅行に行くなら、全部こっちが奢る」と断言していました。そうすることで人間関係の摩擦を減らすことができるというわけです。損して得取れというわけです。

旅行となれば大変ですが、昼食程度で好印象を得られるのならお得もお得、大お得です。私も友人と昼食する際は「僕が奢るよ」と言うことが多いです。その場合、なるべく安いランチを選びますが、それで人間関係が円滑に進むのであれば、安いものです。

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人生にはうまくいかないこと、計画通りに進まないこと、期待通りにならないこと、不遇の時期、いろいろな不愉快なことに出会います。それは毎日のように起きるとすら言ってもよく、嫌なことを数え上げるときりがないとすら思えます。

時にそれは他人のせいにしてしまいたくなる時もありますし、場合によっては本当に他人のせいという場合もあるかも知れません。運、不運ということもありますから、自分に責任があるとは思えないようなことで不愉快できごとに出会うということも決して少なくはありません。

しかし、自己訓練のつもりで、勇気をもってその不愉快なことに向き合うことはより人生を得るために重要なことではないかと思います。他人のせいのことに向き合ってどうするのか?単なる不運と思えることに向き合うこととはどういうことか?という疑問を持つ人もいるかも知れません。ですが、そういったことでも向き合い方というものはあるはずです。つまり、自分のできることをやるということです。それはできれば復讐などの否定的な入り方をしないことが理想的です。むしろ、自分のできる範囲の中で何をどうすれば事態が改善するかについて頭を使い、考え、知恵を絞るのです。

そうすれば、環境のせいと思えることであっても、他人のせいと思えることであっても、或いは運の問題と思えるようなことであっても、何かが必ず改善するはずです。そしてそれは時には突破口にすらなり得ます。自分が変われば他人が変わるとよく言いますが、無理に自分を変えることは感情的に自分を殺してしまうことになりかねませんから、必ずしも一番いい方法とまでは思えません。ただ、できる範囲で改善するということなら誰でも、どんな人でもいくつでもできることはあるはずです。できる範囲のことから改善すればよいのですし、真摯に人生を生きることになるのではないかと思えます。

ただ、やりすぎは禁物です。何事も無理は禁物と思います。できる範囲のことをコツコツと改善することにって気づいたときに小さな芽が出ている、それでも奢らずに続けていくと、小さな花が咲き、運がよければ大輪の花が咲くこともありません。できることをしていない人に花が咲くことはありません。仮に咲いてもちょっとした雨や嵐で散ってしまいます。こつこつと自分にできることを無理なく改善していくことは、少々の雨にも嵐にも負けない財産になることでしょう。繰り返しになりますが、無理してはいけません。自分に無理をかけることは長続きしません。それに、無理したことには必ず反動が来ます。無理なくゆっくり焦らず改善する、そのための努力をすることは人生という長いスパンで眺めた時に効果的で真摯な生き方を言えるのではないかと思えます。

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【自己訓練】自分より凄い人に対して、卑屈にならず、かつ反発せずに、自分が劣っていることを認める

生きてると、必ず自分より凄い人、優れた人に出会います。それは仕事の能力や勉強の面で優れている人かも知れません。或いは社交性、金銭力、家柄、学歴、容貌などなど、自分より優れている人は大勢います。

そういう人と出会った時、人はどのような反応を示すものでしょうか。ある人は反発します。「あの人はお金を持っているかも知れないけど、人間性では劣っている」とか、「あの人は勉強しかできないんだ」とか、あの人が成功したのは悪いことをしたからだ。或いは所詮〇〇だ。など、反発するための方便はいくらでも生み出すことができます。これをしていては人間的成長がありません。負けを認めるというのも必要なことです。負けを認めれば、敗因を分析し、自分を改善することへとつなげていくことができます。

一方で、負けを認めたからと言って卑屈になっていけません。卑屈はダメな自分を認めているという点では潔いかも知れませんが、改善する努力へとつながっていきません。自己改善の努力をせずに、ちょっとした小賢しさで得をしようとしたり、「卑屈な笑顔」で相手を丸めこもうとします。そういう人は魅力的ではありません。当然、人間的成長にもつながりません。

大切なことは自分より優れた人に出会ったときに負けを認め、どうすれば自己改善できるかについて考え、実践することです。これもまた自己訓練です。人の自然な心の動きに任せていては、反発心を正当化して自分を守ろうとするか、卑屈な態度で自分を守ることだけを考えるようになります。ですから、自分を訓練して、自分より優れた人に対して確かにそうだと認め、敬意を払い、自分もそれに近づけるように改善点を見つけ出していくことを心掛けることが、より魅力的な人格者になり、よりよい人生を送るために効果的ではないかと思います。自戒も込めていますので、私もまだまだ道半ば。これからも自己訓練を続けたいと思います。

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【自己訓練】弱い人を守るという意思を持つ

弱い人を守るというのはある種の憧れの姿だと私は思っています。弱いものを助けるために颯爽と登場し、戦い、黙って去っていくヒーローのイメージ。一つの人間の理想像です。しかし、本当にそれができているかどうかと自分に問いかけた時、必ずしもそのようにできていると自信を持ってイエスと答えることはできません。大抵の人も私と同じではないかと想像します。なぜなら、1弱い人は誰のことを言うのかが考え方によって違ってくるので判断に迷う 2自分が弱い側の人間だと思って怒りを感じる(場合もある) 3何かに忙殺されたりしていて弱い人を守っているだけの余裕がない(場合もある)ということは誰にでもあることのように思うからです。

それらのような難しい問題を含みますから、弱い人を守るということを完全に実行することは無理かも知れません。しかしそれでも、自分の日常生活の中でできることはあるはずですから、それを忘れずに実行していくということを、せめて時々思い出して実践するということは人間的な成長にとって有効ではないかと思えます。

例えば子供は現代では貴重な存在です。その上、通常、子供は大人よりも弱い立場です。ですから、まずは子供を守るということを意識するのもいいかも知れません。自分の子供がいるという人は自分の守るということを考えるでしょうし、それはそれでもちろんいいのですが、他人の子供であっても必要があれば守るという意識を持つことは人格を高めていく上で有効ではないでしょうか。

また、「イジメ」が起きる要因は弱いものイジメをしている人にその自覚がないからではないかと私は考えています。何らかの大義名分を振りかざして弱いものイジメをしていないかどうか、時々でいいので自分に問いかけてみるのは効果的と思います。意外とやっているかも知れません。自分の内面を点検し、もし、そういう面があればそこを改める努力をする。これも自己訓練です。完全にはできないかも知れないけれど、努力することはできるはずです。

では最後に、イジメられている人、またはイジメられた経験のある人はどうすればいいでしょうか。イジメに遭えば、人生で損をした心境にならざるを得ません。どこかでバランスを取らなくては、復讐しなくてはやっていられないという心境にもなるはずです。飽くまでも人格向上のための自己訓練と考え、人生をよりよくするためのテクニカルな問題として考えるならば、イジメられた経験については損切りする覚悟を持つべきではないかと思います。これは簡単なことではないはずです。酷い目に遭わされたことを恨みに思い、心の奥深くに閉じ込めている人は多いかも知れません。或いは誰でも多かれ少なかれ、そういうものを閉じ込めているかも知れません。私にももちろんあります。ですが、そこを損切して恨みに思わない。相手を赦す。せめて自分はそういう被害に遭うことの苦しさや無念さを知っているのだから、自分は他人には同じことはしない、そういう場面に遭遇すれば、イジメられている人の味方をする勇気を持つ。というような努力をすることは、人格的な向上、人間的な成長に大きな効果を持つのではないかと思います。正しい正しくないの前に、自己訓練として上に述べたような努力は価値のあることではないかと私は思います。イジメられた経験のある人が、その恨みを棄てる覚悟を持ち、復讐のパワーを自覚的に利他の精神に切り替えることができた時、真実に慈愛のある人格者的な行動が実践できるのではないか、むしろイジメられた経験のある人にはそのようになれる特権を持つという意味で選ばれた人なのではないかと私には思えます。

人間関係、仕事、お金、恋愛などは以上のような人格的向上のための自己訓練を経た結果、自然についてくるものなのではないかと私は思いますので、自戒も込めて、実践していきたいと思うのです。

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