昭和史73‐南部フランス領インドシナ進駐とアメリカの経済制裁

昭和16年7月下旬、日本軍は既に北部フランス領インドシナに進駐していましたが、更に南部フランス領インドシナへの進駐も開始します。当時、フランス本国はヴィシー政府という親ドイツ政権が一応、正統政府ということになっていて驚くなかれイギリスと戦闘状態に入っていました(そのカウンターパートとしてドゴールの亡命政府である自由フランス政府があり、戦後、ドゴールの政権が「戦勝国」としての立場を得ることになります)から、日本とヴィシー政権は友好国の関係になっており、進駐そのものは平和的に行われました。もちろん、フランス領インドシナのフランス人社会にとっては、日本軍の進駐はおもしろくなかったはずですが、力関係的にしぶしぶ受け入れざるを得なかったという感じだったのではないかと思います。この進駐エリア拡大は、同年7月2日の御前会議で決められた国策に素直に従って行われたものであり、官僚的に粛々と既定路線を歩んだようにも見え、無限の拡大は必ず滅亡をきたすと思えば官僚に指示する立場の政治家の資質に疑問をもたざるを得ないとも思えます。

当時の日本帝国としては援蒋ルートを全て遮断することに情熱を注いでおり、それを実際に実行するには重慶政府を完全包囲するという遠大な構想を持っていたようです。単に陸路を塞いでも空路で援助が届きますから、この包囲網を完成させるには、インドも含む飛行機でも届かない程度の広大なエリアを手中に収める他なく、これは太平洋戦争が終わるまで実現することはありませんでしたし、戦争の末期になって無理に無理を重ねて強行したインパール作戦が如何に無残な結果になったかは後世を生きる私たちのよく知るところです。

さて、アメリカは日本の南部フランス領インドシナ進駐に対して敏感に反応し、日本に対する経済制裁、在米日本資産の凍結、石油の禁輸を打ち出します。私の手元の資料にある9月1日付の号では、「米国恐る々に足らず、我に不動の覚悟あり」という勇ましい記事が掲載されており、「わが国では数年前からかうなることを予想して、あらゆる対策を講じて」いるから驚く必要はないし、アメリカには強力な日本軍と戦う覚悟はないから不安はないというような主旨のことが述べられています。当時、既にオランダ領インドネシアとの協商が模索され、交渉に失敗した後なのですが、当該記事の著者が誰かは不明なものの、その念頭には武力によるオランダ領インドネシアへの侵攻によりパレンバン油田の石油を手に入れるという構想があったのではないかと思います。

アメリカが日本と戦争する覚悟がなかったという一点に於いて、情勢分析は正しかったかも知れません。真珠湾で鮮やかに勝ちすぎてアメリカ人は日本に対する復讐を誓い、覚悟を決めることになったわけですから、真珠湾攻撃さえなければアメリカも大戦争みたいな面倒なことは避けて、どこかで適当な折り合いをつけようとしたかも知れません。当該の資料では「ドイツを見よ」というような言葉も書かれており、日本帝国が如何にドイツ信仰を強くしていたかも見て取れるのですが、アドルフヒトラーがいるから大丈夫という実は薄弱な根拠が、日本帝国を強気にさせたのだと思うと、やりきれなくなってきます。松岡洋右がドイツ、イタリアの了解を得て日ソ中立条約を結び、ドイツもソビエト連邦と不可侵条約を先に結んでいたにもかかわらず、ドイツはバルバロッサ作戦でソビエト連邦への侵攻を始めたわけですから、遅くともこの段階で、アドルフヒトラーはおかしい、信用できない、ヒトラー頼みで国策決定をすることは危ないと気づいていなければいけません。

真珠湾攻撃まであと少し、ため息をつきつつ、引き続き資料を読み進めるつもりです。

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昭和史66‐「反米」言説

とある情報機関が発行していた昭和15年11月15日付の号では、「あわてだしたアメリカ、日本の南進をねたむ」という記事が登場します。昭和12年ごろの分から一冊づつ読み続けて愈々来たなという感じです。当該記事によると、ドイツとイタリアがヨーロッパに新秩序を打ち立て、日本も東亜に新秩序を打ち立てようとしているにもかかわらず、アメリカがその新秩序を乱そうとしていてけしからん、みたいな内容になっています。日本の北部フランス領インドシナの進駐と日独伊三国同盟が結ばれた時期がほぼ重なっているのですが、それに対してアメリカは「いやがらせ」をすべく日本に屑鉄の輸出を禁止したとしてまず現状を述べています。続いて今後の予測としてアメリカは日本に石油を売らなくなるかも知れないとも書かれていますが、それはかえってアメリカが困ることになるとも述べています、アメリカで産出される大量の石油の一番の買い手は日本なのだから、日本の石油を売らなくなればアメリカの石油業者が困るだけでなく、東南アジアは枢軸国側が抑えているのだから、東南アジアの資源がアメリカに輸出されなくなり、アメリカは干上がるという議論の組み立てになっています。

その後の歴史の展開を知っている現代人としては、上のような見方は非常に甘いもので、日本帝国はこてんぱんにぼこぼこにやられて終了してしまうわけですが、それはあくまでも結果論ですから、当時の人間になってこの記事を考えた場合、半分正しいくらいの評価を与えてもいいのではないかと思います。というのは、実際に当時のアメリカは日本に輸出することで儲けていたわけで、時間が経てばアメリカの内部で日本に輸出させろ、でなければ商売あがったり困るじゃないかという声が出ることはある程度予想可能なことだからです。

とはいえ、第一に日本はナチスドイツと手を結んでしまいましたから、アメリカに於ける日本に対する「敵」認定は既に済んでおり、やるならやるぞと言わんばかりに太平洋艦隊は西海岸からハワイへと移動していきます。場合によってはグアム、フィリピンあたりまで主力艦隊が進出してもおかしくないかも知れないという事態へと展開していくわけですが、この段階でアメリカとしては、日本なんて資源のない国はちょっといじめてやれば膝を屈するに違いないという、あちらはあちらでちょっと甘い見通しがあったようにも思えます。

その後、連合艦隊が鮮やかに真珠湾奇襲を行い、ワシントンDCの日本大使館では寺崎英也氏の転勤パーティを前日に行って宣戦布告文の手交が予定より遅れてしまい、宣戦布告前の奇襲攻撃ということになってしまい、アメリカ人をして日本への復讐を誓わせることになってしまいます。ちょっと幻的ではあるもののアメリカが満州国を承認して、日本は蒋介石から手を引くという日米諒解案が実を結ぶ可能性もなかったわけではなく、これを松岡洋右が潰してしまうのですが、或いは真珠湾まで出かけていかなくても日本が一番ほしかったのはインドネシアのパレンバン油田ですから、直接パレンバン油田だけ狙えばよかっただけだったかも知れません。アメリカは元々モンロー主義で、世論は戦争に介入することには否定的だったわけですが、真珠湾攻撃という悪手で日本帝国は自分で生存の可能性を潰したと言えなくもないように思えます。

当該記事の重要な点は、この段階で日本でもアメリカを「敵」認定しますよというある種の宣言みたいなところだと思うのですが、当時はフランスを倒して「最強」に見えたナチスドイツと同盟を結び、ソビエト連邦ともうまくやって松岡洋右は自分の外交が成功していると確信していた時機でしょうから、アメリカに対しても強気でいられたのかも知れません。その後の歴史を知る現代人としては、今回紹介した記事に潜む危うさが目に付いてしまい、このようにして国が滅びていくのかと思うと目も当てられない、見ていられないという暗澹たる心境にならざるを得ません。

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昭和史64‐フランス領インドシナと援蒋ルート

とある情報機関が発行していた昭和15年9月15日付の機関紙で、フランス領インドシナについて紹介する記事がありましたので、ここでちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事では、インドシナ半島の風土や気候のようなものを紹介した後で、フランスが領有するに至った経緯が書かれています。そんなに難しいことや裏情報みたいなものは特になく、一般知識の範囲でフランスが徐々に当該地域を領有していった様子が書かれています。ちょっと興味深いのは、当時のフランスがあてこんだ流通ルートと援蒋ルートが同じものだという指摘がされている点です。更にその記事の最後の方では、フランス本国が「衰弱」したので、今後の展開は違ったものになるだろうというような意味の言葉で締めくくられています。

昭和15年の段階では、フランスには親ナチス的なヴィシー政府が成立しており、フランス領インドシナもヴィシー政府の治下に収まっていましたから、日本としては南進という国策がある上に、「東亜経済ブロック」拡大という野心的な視点からも獲れそうな場所であり、同時に援蒋ルートを断ち切るためにもほしい場所であったということが、当該の記事からうっすらと見えてくるように思えます。おそらく財界はマーケットという意味で欲しがり、陸軍は援蒋ルートの遮断という意味で欲しがり、当時の近衛文麿内閣は統制経済、全体主義を是とし、ナチスを理想とする今から見ればとんでもない政権でしたが、統制経済が必要になってくるというのははっきり言えば物資不足の裏返しなので、統制経済をやりたい政治サイドとしてもインドシナ半島の資源があれば助かるという意味で欲しがっていたのかも知れません。

その後日本は同意の上で北部フランス領インドシナに進駐し、更には南部フランス領インドシナに進駐します。南部に進駐する前、アメリカのルーズベルト大統領が、もし日本が南部フランス領インドシナに進駐すれば経済封鎖すると明確に警告していたにもかかわらず、フランス本国がナチスに握られている間に多分大丈夫だろう的な発想で進駐してしまうわけですが、そのような行動に出てしまった背景には、上に述べたように軍、財界、政治家がこぞってそこを欲しがっていて日本の中で残念なことにコンセンサスが取れてしまったことに要員があるように思えます。そしてルーズベルトは警告通りに経済封鎖を始めるわけです。

少し長めのスパンで言えば、日本帝国は満州事変での対応を誤って滅亡への第一歩を踏み出したと言えますが、もう少し短めのスパンで言えば、この南部フランス領インドシナへの進駐が日本の命取りになったとも思えますから、何をやっているのだか…とため息をつくしかありません。

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昭和史57‐南進論とフィリピン

フィリピンは長年スペインの植民地下にありましたが、米西戦争の結果、アメリカ領になります。ただ、フィリピンではスペイン時代から独立運動、抵抗運動が根強く、アメリカ領になってからもその抵抗は続き、しかも宮崎滔天のようなアジア主義者がフィリピン独立運動に協力する動きも見せていましたから、アメリカも相当に手を焼いたようです。結果としては、アメリカの議会でもフィリピン分離論が盛り上がり、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代にフィリピン独立法が成立し、第二次世界大戦後の1946年に既定路線通りにフィリピンは独立を果たします。

日清戦争の結果、日本が台湾を領有して以降、西洋列強は日本が更に南に位置するフィリピンに対して領土的野心を持っているのではないかと警戒していたようですが、1905年に桂・タフト協約でアメリカのフィリピンに対する権益を日本が犯さないと約束し、日本が朝鮮半島に対する権益をアメリカは認めるという交換協定のようなものが結ばれ、双方、手出しをしないという状況が続きます(上述したように、宮崎滔天のような民間人はいろいろ動いていたようですが…)。1908年には高平・ルート協定というものが結ばれ、日本はアメリカのハワイ・フィリピンに対する権益を犯さないと約束し、アメリカは日本の朝鮮半島及び南満州の権益を黙認するという協定が結ばれます。アジア太平洋地域に於ける勢力図の再確認のようなものだったと言っていいかも知れません。

ですが、日本国内では南進論が根強く、第一次世界大戦の結果、フィリピン東方の南洋諸島が日本の委任統治領になったことから、フィリピンは日本の領域に囲い込まれたアメリカ領という、ちょっと難しい位置になってしまうことになりました。

さて、先にも述べたように、フィリピンが1946年に独立することは30年代から既定路線になっていたわけですが、日本側が不安に感じたのはフィリピンに米海軍基地が存続するかどうかということだったようです。私が追いかけているとある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年1月11日発行の号では、フィリピン独立法について述べられており、しかしその後もアメリカ海軍基地が存続するかどうかについての懸念が述べられています。当該記事では「比律賓の永久中立の問題」と「米軍海軍根拠地の問題」があると指摘しています。当時、この記事が出た段階では、日本帝国は広田弘毅首相の時代に五相会議で南進が決定された後なわけですが、それは云わばこっそり五人の大臣でそういうことにしようと相談して決めた程度のもので、具体的に南進論が閣議で正式に決定されるのは1940年7月、近衛文麿内閣でのことです。当該記事は同じ年の1月という微妙な時期に出されたことになるわけですが、独立後のフィリピンの「永久中立」を求めるというのは、日本の南進にアメリカ海軍が脅威になるという認識があったからに相違なく、もうちょっと踏み込んで言えば、南進論が国策になっている以上、そのうちフィリピンも獲りたい、控えめに言っても「大東亜共栄圏」構想にフィリピンを取り込みたいという狙いが背景にあったことは間違いないように思えます。欧米列強が自国の植民地が日本に獲られるのではないかと警戒したのは、読みとしては正しかったとも言えますし、結果的にこの国策が日本帝国を滅ぼすことになったとも言えるため、何もわざわざ遠い南国を獲りに行かなくても良いものを…という残念な心境になってしまいます。

日本の南進論が具体的に発動するのは北部仏印進駐からで、その後アメリカ側からは日本に対し、もし日本帝国が南部仏印にまで手を出したら経済制裁をすると警告を出していたにもかかわらず、南進の国策通り、日本帝国は南部仏印にまで進駐を始めます。フランス本国がナチスドイツに降伏した後なので、おそらくは渋々ではあったではあろうものの、日本のインドシナ進駐は平和的に行われました。ナチスドイツがフランス本国を抑えてくれていたおかげで楽にインドシナを獲れたという意味ではラッキーだったわけです。ただし、それが結果としては太平洋戦争への引き金へと発展していくわけですから人間の運勢と同じく、国運という言葉がついつい頭をよぎります。当時は、自国のブロック経済圏を持たなければやられてしまうという強迫観念のようなものがあったのではないかとも思えてきます。

太平洋戦争で山本五十六が真珠湾攻撃に出たのも、帝国海軍が如何にアメリカ海軍を脅威に感じていたかを示すもので、フィリピンにアメリカ海軍基地が存続するかどうかは当局者にとっては重大な関心事であったに違いありません。アメリカ軍は蛙飛び作戦で重要な島だけを獲って日本本土へ迫る方針で臨みますが、当初フィリピンは無視していいのではないかとの議論があったのに対し、マッカーサーが良心の観点からフィリピンは奪還しなければならないと主張した背景には、アメリカがフィリピン独立を約束していたということでより説得力を持ったのかも知れません。フィリピンでの戦いでは関東軍の主力が投入され、ほぼ全滅という悲惨な結果になりますが、更には関東軍の主力が不在になっていたために終戦直前になってソビエト連邦の侵攻がより容易になったと思うと、日本帝国がひたすら負のスパイラルへと落ち込んで行ったことが分かります。

フィリピンもインドシナも満州も日本から遠く離れた土地で、それらの地域が誰の主権に収まろうと日本人としては知ったことではないとも言えますが、その遠い土地を巡って何百万人もの日本人が命を落としたと思うと、いったいあの戦争はなんなのだと首をかしげざるを得なくなってしまいます。

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昭和史45‐太平洋戦争の前哨戦-コロンス島事件

日中戦争で日本軍は厦門の占領を果たしますが、厦門沖の小さな島であるコロンス島(中国語では鼓浪嶼と言うらしいです)は、列強の租界になっており、日本軍も手を出さずにいました。対日協力者の洪立動という人物が暗殺されたことがきっかけで日本軍が揚陸艇を出して上陸し、英米仏連合軍も上陸を辞さずとする事件が起きます。この事件について多少資料を探したり、検索もしたのですが、ほとんど情報がないので、詳しいことは分かりません。ただ私が追いかけている情報機関の機関紙の昭和14年6月21日付の号では多少のことは書かれているのですが、当該機関紙は日本軍にとって都合の悪いことは書かないので、果たして戦闘があったかどうかも定かではないですが、どうも本格的な衝突になることを回避するために日本軍が撤退するという顛末だったようです。一歩間違えば戦争になっていたわけですから、太平洋戦争の前哨戦だったと位置づけることも可能と思えます。

当該機関紙では、日本軍は租界に手を出すつもりはなく、真犯人とその背後の組織を摘発することが目的だと説明したのに、英米仏が軍を出動させるとはなにごとか、そもそも工部局(コロンス島の行政・治安を担当していた部署)が仕事をしないからこういうことになるのだと怒りを爆発させています。当該の記事では各国でどのような報道があったかも紹介しており、中国の新聞は「日本軍が英米仏に屈した」と大見出しで盛り上がり、オランダ領インドネシアの新聞では「英米が連合し、アメリカの太平洋艦隊が展開するようになった場合、まさかドイツ・イタリアと同盟して対抗する」などのような愚かなことはしないだろうと論じており(実際には、その後、当該記事の通りになったわけですが)、イギリスではモンロー主義のアメリカも、日本に対抗することについては手を引かないことを示したとの評価をし、英蘇連携も進むだろうとの見方も出しています。アメリカの新聞では「日本が租界を奪取するという前例を作らせなかった」この意義を強調しており、まあ、はっきり言えば、日本は英米仏中と戦争する寸前まで行っていたわけで、世界的に完全に孤立していたことが浮き彫りにならざるを得ません。ドイツとイタリアがいたではないかとの指摘もあるかも知れませんが、ドイツ、イタリアは太平洋、東南アジアにはほとんど影響力がありませんから、事実上の意味は全くないと言っていいとも思えます。

それらの報道について当該記事では「日本側に云はせれば却って極東に於ける日本の勢力を日々不安焦燥の目で眺めていた諸外国が(略)日本をおどさうとしているのではないか、(略)強硬である日本の態度に驚きあわてふためゐてゐる英米仏の強がりも面白いではないか」と結んでいます。日本がどれだけ危ない橋を渡っているのかについての自覚が全くないことに愕然としてます。情報部を収集したり、プロパガンダをすることはできてもインテリジェンスができない、諜報ができない日本帝国の脆弱さを見せつけられてしまった思いで、orzとしか言えません。

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ナポレオン3世‐何かが足りなかった人

ナポレオン戦争が終わった後、ナポレオンの甥であったルイ・ナポレオンは長い亡命生活を強いられます。1830年の7月王政の時は、もしかするとフランスに帰国できるかとの期待も持ったようなのですが、新国王ルイ・フィリップはブルボン家の外戚みたいなものですから、ブルボン王朝の脅威になるかも知れないナポレオンの血筋が帰ってくることを赦しませんでした。そういう意味では、人生の前半はあまり恵まれたものとは言えないかも知れません。

1836年にはストラスブールで武装蜂起することを計画しますが、失敗し、内乱罪なわけですから死刑になってもおかしくはないですがアメリカへ追放されるというわりと穏便な処置で終わっています。アメリカで放蕩生活を送りますが、フランスへ密入国して再度の武装決起を図り、今度は逮捕されて牢獄につながれます。死刑になってもやはりおかしくないのですが、そのあたり、やはり運が味方したのかも知れません。彼が獄につながれている間に、彼のサンシモン的な思想に基づいて書かれた著作が巷間に流布するようになり、彼の知名度も上がり、支持者も増えていきます。皇帝という重しがある上での自由主義という論理の内容だったようですが、これが当時のルイ・フィリップ王政に疑問を持っていた人たちに影響を与え、ナポレオン時代は確かにフランスは強かったという夢の再現みたいなところもあって、そういう幻影みたいなものも彼を後押しする力になったようです。その後、彼は脱走しイギリスで時機を待ちます。相当な浪費家だったようですが、それでもどこからか金が入る上に、金がなくなったら庇護者も現れるという点で不思議な運命の持ち主であり、一回手相を見てみたいくらいです。

1848年、諸国民の春の第一歩となった2月革命でルイ・フィリップが失脚したことで、ルイ・ナポレオンは遂に帰国を果たし議員選挙に当選して、次いで大統領に当選します。著作のおかげで知名度も高く、ナポレオンお血筋ということですから得票率も上々で、国民的人気は相当に高かったのでしょう、大統領任期中には反対派に対する血の粛清も行っていますが、それでも世襲制である皇帝に民主的な選挙で選ばれます。フランス第二帝政の始まりで、そりゃあもちろん、選挙を有利に運ぶために言論に圧力をかけたりするなど小細工はいろいろとなされたであろうことは想像に難くはありませんが、袁世凱のようなやらせ丸出しというわけでもなくて、それなりの国民的はある程度確かにあった上での皇帝即位だったは言えるのではないかと思います。

彼は内政面ではサンシモン的な傾向の強い政策を採用し、その肝となるのは自由放任、レッセフェールなのですが、これがなかなかに上手く循環に入り、レッセフェールうまくいくときとそうでないときがあると私は思うのですが、この時はうまくいったらしく経済政策面ではそれなりの成功を収めます。また、パリ市の改造に着手し、現在の花の都パリの景観はナポレオン3世の時代にデザインされたものです。そういう意味ではそこそこのレガシーを残したと言えるのかも知れません。

しかしながら、外交では必ずしも大きな成果を残したとも言い難し…という面があります。当時のヨーロッパの王侯貴族からはしょせんは成り上がりものという目で見られてあまり相手にされていなかったらしく、メキシコ遠征の際にはオーストリア皇帝の弟にメキシコ皇帝に即位するよう頼み込み、メキシコ皇帝マクミミリアン1世に即位させますが、アメリカは独立戦争以来ヨーロッパ政治が新大陸に介入することを極度に嫌っており、アメリカの圧力とメキシコ国内の反発にたじろいだフランス軍は撤退し、マクミリアンは取り残されて銃殺刑にされてしまいます。フランス国民にとってはどうということはないかも知れませんが、ヨーロッパ王侯社会でのナポレオン3世の信用はがた落ちであり、マクシミリアン1世を連れて帰ってきたならまだしも、放置して死なせたわけですから、もともとのいい加減な性格でボロが出たと言えなくもなさそうです。ハプスブルク家はフランスには何度も煮え湯を飲まされていますから、マリー・アントワネットの次はマクミリアンか…と更に恨みを深くしたのではないかとも思えます。

フランス植民地帝国の建設に意欲的であり、ルイ・フィリップの時代に植民地化されたアルジェリアのみならず後にフレンチアフリカを呼ばれる広大な地域を植民地にします。また、東アジアではベトナムの阮王朝を屈服させその植民地化に先鞭をつけます。フランス領インドシナが形成されていき、マルグリット・デュラスの『愛人‐ラ・マン』の舞台になっていくわけです。英仏は競い合うようにして海外領土を広げていきますが、イギリスと競り合うとだいたいフランスが負けており、幕末日本はイギリスが支持する薩長連合とフランスが支持する徳川慶喜との間で英仏代理戦争になっていきますが、そこでも敗退しており、清仏戦争でもフランス軍だけが全滅しかけていますから、やっぱりちょっと何かが足りない、何かに欠けている、やろうとしていることに対して器が足りないという感想を持たないわけにはいきません。

ナポレオン3世失脚の決定打となったのは普仏戦争で、プロイセンのビスマルクはやる気まんまん挑発的な態度にびしびしと出てきており、一方でフランスはメキシコやインドシナのことで疲れ切っており戦争をやったら絶対敗けると分かりつつ、挑発されても反撃しなければ国民世論が納得しないという板挟みになってしまい、彼はついにプロイセンとの戦争を始めます。数と装備の双方の点で有利なプロイセン軍がフランス軍を圧倒し、ナポレオン3世は包囲されて孤立し、とうとう捕虜になってしまいます。彼の妻は「もし夫が敗戦して帰ってくれば皇帝制度は廃止になるが、もし戦死したならば息子がナポレオン4世としてその治世を受け継ぐ」と考えいたらしく、ぱーっと散って来てくださいみたいな内容の手紙も送ったようですが、ナポレオン3世はプロイセンの捕虜となることを選び、パリ・コミューンも経てに第二帝政は崩壊します。

晩年の彼はイギリスで生活し、それなりに不自由なく暮らしたと言われています。息子のナポレオン4世はイギリス軍人とアフリカに行って戦死しており、それで系統は絶えたとも言われますが、傍系の子孫の人が今もナポレオン家を継承しておりフランスきって名門として現代に至っているそうです。

ナポレオン3世はフリーメイソンのメンバーだったそうですが、もしナポレオン3世の皇帝専制的民主主義もフリーメイソンの「陰謀」だったとすれば、ナポレオン3世の件については失敗したとも言えるわけでも、フリーメイソンの陰謀万能説への反論材料になる気がしなくもありません。

諸国民の春‐1848年革命

ナポレオン戦争の後始末をつけるために行われたウイーン会議ではタレーランが敗戦国でありながら旧秩序回復を大義名分としてブルボン王朝の復活に成功させました(フランス分割でもおかしくなかったところを、タレーランがふんばったといったところです)。一方で、ナポレオンによって消滅させられた神聖ローマ帝国の復活はなく、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国が失われた分、一歩後退なうえに、そもそも大事なお姫様であるマリーアントワネットがフランス革命で殺されていますので、かなり憤懣が残ったのではないかとも思えます。しかしながら、ハプスブルク家の代理人みたいな立場になっていたメッテルニヒががんばったおかげで、少なくともオーストリア帝国は維持できた、という言い方もできるかも知れませんが、この積もり積もった怨念のようなものが第一次世界大戦にまで持ち越されますので、人の恨みというのは甘く見てはいけないものかも知れません。

さて、その第一次世界大戦が起きる前に、ヨーロッパでは「諸国民の春」と呼ばれる大動乱を経験しています。フランスでは王政復古後にルイ18世、更にはシャルル10世というブルボン家の国王が二代続きましたが、ルイ18世の治世の後半から絶対王政の復活を志向するようになり、国民が「なめとんのかああっ」と1830年に7月革命を起こします。シャルル10世国外に逃亡し、オルレアン公ルイ・フィリップが王位に就きます。オルレアン家はブルボン家とは親戚関係にはなりますが、シャルル10世が海外に亡命したことでその本家筋は終了し、分家筋がその間隙に割って入った感じです。ルイ・フィリップは立憲君主制を標榜し、国民の王ともてはやされ、表面的にはフランスの民主革命の一環のようにも見えますが、なんとなくルイ・フィリップが裏でいろいろ画策したのではないかという気がしなくもありません。7月革命でパリの主要な地域が革命派によって占領された後、国民的人気の高かったラファイエットと一緒にパリ市庁舎のベランダに登場するという、いかにもあざとい演出は、むしろルイ・フィリップ陰謀説を強化する材料になるのではないかとすら思えてきます。しかしながら、1848年2月、改革について議論する「改革宴会」と呼ばれるものが当時流行っていたようなのですが、それを規制しようとして国民の反発を買い、2月革命が勃発します。ルイ・フィリップはイギリスに逃れ、そこで生涯を終えることになりました。民主主義に対する規制をかける者に対しては暴力で対抗するというフランス革命の精神はフランス史やフランス政治、或いはフランス人を理解する上で知っておくべきであるようにも思え、それだけ民主主義を大事にする国なのだということは私は評価できるのではないかという気がします。

さて、この2月革命によってナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンが大統領に選ばれますが、この革命の勢いがオーストリアに飛び火します。民主化を求める学生運動が議会に侵入するという事態が起き、あたかも1968年の世界的な学生運動や、最近台湾で起きたひまわり学生運動を想起させるできごとですが、宰相だったメッテルニヒが辞任し海外へ亡命します。一般的にはこれでウイーン体制が崩壊したと言われます。有能なメッテルニヒが突然いなくなったことで国を運営するものがいなくなり、各地で反乱が頻発し、4月には皇帝一家はウイーンを離れるという展開を見せます(後に復帰しますが、オーストリア帝国解体の兆しであったと言えるようにも思えます)。

このような動きはフランスとオーストリアだけで起きたのではなく、同じ年の3月にはハンガリーでも革命運動が起き、それまでハプスブルク家の大帝国の完全な一部であったハンガリーは自治権を獲得し、オーストリア帝国はオーストリア・ハンガリーの同君連合に体制が移行します。ドイツでも政権と国民の衝突が起きています。

他にもヨーロッパ各地で革命・暴動が広がっており、ヨーロッパ全域が王や皇帝による支配から、立憲制度に基づく立憲君主制または共和制という価値観が共有されるようになり、同時に民族自決という価値観も持たれていくようになっていきます。フリーメイソン陰謀説が当然あると思いますが、民主主義には賛成ですから、ヨーロッパはよりよい方向に向かったと言ってもいいのではないかという気がしなくもありません。もっとも、英仏帝国主義がその後に全盛期を迎えますので、なにやっとんじゃいという感想も同時に持ってしまうわけですが…。



タレーラン‐戦争で敗けても外交で勝つ

フランス人外交家のタレーランと言えば、ナポレオン戦争でフランスが敗戦国になってにもかかわらず、何も失わずに上手にウイーン会議を乗り切ったことで、つとに有名です。ヨーロッパで外交をした人の中ではとりわけ優れた人として知られています。

もともとは司教の道を歩んでいたというちょっと一味違う出発点を持っている人なのですが、政治に対する関心が強く、フランス革命の後に国民議会の議員に選ばれた後でローマ教皇ピウス2世から破門されています。フランスではユグノー戦争などがあったように、カトリックとプロテスタントのせめぎ合いが激しく、タレーランとしてもローマ教皇に付き従うような人生を歩むことには疑問があったのかも知れません。

ロベスピエールの恐怖政治時代は、言いがかりで断頭台に送られてはたまらないとアメリカに亡命していましたが、後に帰国し、ナポレオンのクーデターを共謀。ナポレオンが政権を取ってからはその腹心としてかいがいしく仕えたらしいものの、ナポレオンにとっては必ずしも「居心地の良い相手」とも言えなかったようです。ナポレオンが皇帝に即位した後はその侍従長まで努めますが、ナポレオンが失脚するとあっさりブルボン家の利益を代表してウイーン会議に参加していますから、腹の中ではナポレオンに対してはタレーランの方でもいろいろ考えるところがあったのかも知れません。ロベスピエールの時代にアメリカに亡命していたことや、ブルボン家の復活に貢献していたことなどを考えると、ナポレオンなどは所詮はフランスの主権の簒奪者、用が済んだらさようなら。という感じがどことなく漂っていたとしても不思議ではないようにも思えます。

ナポレオンが追放された後に行われたウイーン会議は「会議は踊る、されど会議は進まず」と揶揄する言葉が残されていたように、ようするにだらだらとやって細かいことをぐちぐちとやって、タレーランが諸方を懐柔していたようです。「悪いのはナポレオンなわけですから、全部元に戻せばそれでいいじゃありませんか。あ、そうだ、イギリスとは同盟国になりましょう。互いに戦争しないと決めれば安心じゃありませんか。あっはっは」というようなことをおそらくは熱心にかつしつこく言って歩いたのではないかと想像すると、お主やるな、という言葉がついつい頭に浮かびます。

オーストリアのハプスブルク家からすれば、ハプスブルク家のお姫様であるマリーアントワネットは殺された上に、神聖ローマ帝国の消滅という衝撃的なことまでフランスにやらかせてしまったわけですから、この際、フランスを分割してバラバラにしてしまいたいくらいに思っていたはずですが、本気でそれを実行しようとすればまた面倒な戦争を何回かやらなくてはいけなくなるかも知れません。ハプスブルク家の利益を代表するメッテルニヒが現実的な協調路線で話をまとめようとしたことも、タレーランにとっては幸いしたように思えます。イギリスは百年戦争以来、ヨーロッパ大陸に対する領土的野心みたいなものが萎えてしまっていましたから、タレーランのアイデアに乗ってフランスと同盟しておけば、少なくともヨーロッパからちょっかいを出される心配はなくなるというわけで、フランスにとってはイギリスがこっちについてくれたならオーストリア皇帝もロシア皇帝も無理は言うまいという、ちょうどいい感じのバランスオブパワーが成立したという感じでしょうか。敗戦国でありながら、フランスのヨーロッパ政治の主要プレイヤーとしての地位を守り抜いたタレーラン、恐るべし。かも知れません。

タレーランの尽力により、諸国はブルボン王家の復活を認め、ルイ18世が新しい王として君臨することになります。ただし、タレーラン本人はルイ18世のことをあまり好きではなかったようです。ルイ18世はルイ16世夫妻が危機に陥っていた際にはドイツに亡命し、ルイ17世がタンプル塔で死ぬまで虐待された時には安全な場所に居ながら摂政を自称し、ルイ17世が亡くなったという知らせを受けるとルイ18世(つまり、王位継承請求権者)を名乗ったあたり、確かに狡猾でエゴイスティックに思えなくもありません。想像ですがタレーランは古き良きブルボン王朝を理想としつつも、時代は市民社会へと移行する最中であり、せっかく復活させたブルボン王朝もルイ18世のような欲深おじさんに継承させざるを得なかったという点はやむを得ない…納得できないが満足すべし。と思ったのかも知れません。

タレーランとメッテルニヒの共同作業で誕生したとも言えるウイーン体制は、その後にヨーロッパが革命の季節を迎えたり、第一次世界大戦になったりして必ずしも続いたとも言えませんが、ヨーロッパ域内のことだけとは言え、国際協調のモデルがだんだん形作られて行ったという意味で意義深いのではないかとも思えます。


ナポレオン戦争‐旧秩序の破壊者

フランス革命が発生した後、国政の実権はロベスピエールたちジャコバン派が政権を握ります。彼らがルイ16世を処刑した後、ヨーロッパ諸国が対フランス大同盟を組み、フランス包囲網が作られます。周辺諸国は当時はまだ君主制が普通ですから、フランス型共和制の理念が自国に及ぶことに強い懸念を持っていたはずですし、国王処刑というショッキングなできごとに対する人間的な怒りというものも感じていたかも知れません。このような国難に対し、ロベスピエールは粛清に次ぐ粛清ということで国内を引き締めることで対応しようとしますが、嫌疑があればすぐ断頭台という恐怖政治の手口は結果的には多くの政敵を作ることになり、彼は議会から追放され、市役所に逃げ込むも議会が「ロベスピエールに味方する者は法の保護を受けることはできない」と宣言したことで周囲から人が離れてゆき、ロベスピエールは自殺しようとするものの失敗してしまい、翌日には断頭台へと送られます。テルミドールのクーデターと呼ばれる事件です。ロベスピエール派たちが最後の晩餐をした場所が残っていますが、そこはマリーアントワネットが最後の日々を過ごしたのと同じ場所で、盛者必衰、諸行無常を感じざるを得ません。この時、一軍人だったナポレオンはロベスピエールのオーギュスタンと親交があることが危険視され、予備役編入されてしまいます。

ロベスピエール派を粛清した国民公会は絶対に自分たちが選挙に負けない法律を成立させたが、当時は国民公会の人気がなく、王党派も多く残っていたために暴動が起きます。ヴァンデミエールの反乱と言います。国民公会がナポレオンを起用したところ、散弾の大砲で王党派を蹴散らしてしまい、このことでナポレオンは再び表舞台に登場することになります。市民に向けて殺傷力の強い散弾の大砲を使うわけですから、そんじょそこらの人物とは訳が違います。勝てる方法が分かっているのなら、それをやるという、彼の単純かつ明快な論理がそこにあったのではないかと思います。

ロベスピエールが死のうと生きようと、フランスに対する外国からの脅威は消えていません。得に、マリーアントワネットの実家のハプスブルク家のオーストリアはかなりの敵意を燃やしています。国民公会はドイツとイタリアの方面に軍を送ってオーストリアを包囲する戦略をとりますが、ドイツ方面では苦戦したのに対し、イタリア方面の指揮を任されたナポレオンは連戦連勝で単独で講和まで勝ち取り、ここに第一次フランス包囲網は崩壊することになります。外交までやってしまうところに「躊躇しない」という彼の性格が良く出ているように思えます。

しかし、当時、イギリスが強敵としてまだ立ちはだかっていたのですが、ナポレオンはイギリス優位の理由をインドの領有にあると見て、中継点になっていたエジプト征服戦争に出かけます。実は戦争でナポレオンは苦戦を強いられ、兵を見捨てて徳川慶喜ばりに側近だけを連れて脱出し、フランスへ帰還します。そしてブリュメールのクーデターを起こし、フランス政治の実権を握るわけです。帰還したナポレオンは国民から歓喜で迎えられたと言われていますが、残された兵たちが帰還してくればナポレオンの敵前逃亡がばれてしまうため、その前に手を打ったと思えなくもありません。

国際社会は再びフランス包囲の大同盟を組んでフランスを圧迫しようとしますが、ナポレオンがオーストリア軍に大勝利し、あっけなくこの大同盟は瓦解します。1804年、ナポレオンはなんと国民投票によって皇帝に選ばれ、しかもそれはナポレオンの子孫が皇帝の地位を世襲するという内容のもので、そんなことが投票によって可能になるとは目に見えない力がナポレオンを後押ししていたのではないか、神が彼に肩入れしていたのではないかとすら思えてきます。

当時、イギリスとオーストリアが気脈を通じ合っており、またしてもフランス包囲網が形成されます。ナポレオンはオーストリア及び
神聖ローマ帝国連合を東正面に、西正面には大英帝国という難しい局面に於かれた上、イギリス上陸を目指して行われたトラファルガーの戦いではイギリスのネルソンの艦隊にフランス艦隊が破られるという大きい失点をしてしまいます。反対に、東正面ではアウステルリッツの戦いで、神聖ローマ帝国及びロシア皇帝の同盟軍を破り、神聖ローマ帝国は解散・消滅の運命を辿ることになりました。フランスにとってはハプスブルクこそ主敵であり、ハプスブルクの権威の象徴である神聖ローマ皇帝を消滅させたことは、かなり大きな意味を持ったかも知れません。

ナポレオンはブルボン王朝の人間をスペイン王から外し、弟をオランダ王に即位させ(フェートン号事件の要因になった)、ベルリンまで兵を送りプロイセン王は更に東へ脱出し、ナポレオンはヨーロッパ内陸部の主要な地域をその支配下に置きます。スペインにはブルボン朝の王がいましたが、それも自分の兄に交代させています。ナポレオン大帝国の完成です。ナポレオンはイギリスを主敵とするようになり、トラファルガーの戦いの怨念もありますから、大陸封鎖令を出してイギリスに商品が入らないように工作し始めます。島国イギリスを兵糧攻めにするというわけですが、ロシア帝国はイギリスへの小麦の輸出は経済的に是非とも続けたいことであり、ナポレオンにばれないようにイギリスへの輸出を続けます。これを知ったナポレオンがロシア遠征を決意し、ここが運命の別れ道となってしまいます。

ナポレオン軍はモスクワ占領までは漕ぎつけますが、ロシア側は焦土作戦で対抗します。こういう場合は持ってる土地が広い方が有利です。ロシア政府政府からの講和の要請は待てど暮らせど届きません。トルストイの『戦争と平和』でも見せ場と言っていい場面です。広大なロシアを延々と東征することは現実問題として不可能であり、しかも冬が到来すればフランス兵がバタバタと死んでいくことは明白で、ナポレオンは冬の到来の直前に撤退を決意しますが、撤退戦は戦いの中でも特に危険なもので、コサック兵の追撃を受ける破目になり、出征時60万人いたナポレオン軍の兵士で帰還できたのは僅かに5000人だったと言います。ほぼ完全に全滅、太平洋戦争のレイテ戦以上に酷い有様となってしまったと言えます。

新たなフランス大同盟が迫り、遂にパリは陥落し、フォンテーヌブローでナポレオンは退位させられます。彼は地中海のエルバ島に追放され、国際社会はナポレオン後の秩序構築のためにウイーン会議を開き、タレーランが「ナポレオン以前の状態に戻ればいいじゃあありませんか、あっはっは」とルイ18世の王政復古を議題に上げ、フランスが敗戦国かどうかよく分からないようにしてしまい、「悪いのはナポレオンですよね」で乗り切ろうとします。

ところがナポレオンがエルバ島から脱出。パリに入って復位を宣言します。ヨーロッパ諸国はナポレオンの復位を認めず、フランスを袋のネズミにするように各地から進軍が始まり、有名なワーテルローの戦いでナポレオン軍はほぼ完全に破壊され、彼は海上からの脱出も図りますが、世界最強の英艦隊に封鎖され、遂に降伏。大西洋の絶海の孤島であるセント・ヘレナへ流されて、そこで側近たちとともに面白くもなんともない生活を送り最期を迎えます。晩年のナポレオンはあまりにもお腹がでっぱり過ぎていたことから肝硬変が腹水が溜まっていたのではないかとする病死説と、フランスに送り返されたナポレオンの遺体がまるで生きているかのような状態だったことから、ヒ素による毒殺説までいろいろあり、今となっては分かりません。ナポレオンの棺は今も保存されており、巨大な棺の中で彼は今も眠っているはずですが、敢えて蓋を開いて調べようとする人もいないようです。

そのような墓暴きみたいなことがされないのは、今も畏敬の念を持たれていることの証であるとも思えますし、ワーテルローで降伏した後、裁判にかけられて処刑されてもおかしくないのに、絶海の孤島に島流しで済んだというのはナポレオンの強運が普通ではないということの証明なのかも知れないとも思えます。

振り返ってみれば、ナポレオンは暴れるだけ暴れて、果たして何を残したのか…という疑問はありますが、神聖ローマ帝国の消滅は、ハプスブルク家の凋落を目に見える形で示したものであったとも言えますから、少し長い目で見れば、ヨーロッパ秩序を大きく変えたということは言えるように思います。秩序を破壊する人と新秩序を構築する人は別の人、というのが普通なのかも知れません。


フランス革命‐ルイ16世とマリーアントワネットはなぜ死んだのか

18世紀、たとえばルソーのような人物による啓蒙思想がフランスで流行しました。王侯貴族や教会だけが豊かな生活を送り、残り大多数の一般の国民の生活が貧しいという状態は人間の本来あった自然な状態ではないため、それを是正しなければならない。簡単に言えばそういう思想です。個人的には人間は集団で生きる生き物ですから、自然な状態から既に序列があり、不公平があり、不正もあったのではないかと思いますが、文字時代ない時代のことは確認しようがありませんが、少なくともルソーはそのように考えたわけです。そういう意味では、「王侯貴族を打倒するのが正義である」というような風潮が世の中に広がっていたことは、最終的ルイ16世とマリーアントワネットが断頭台によって命を奪われることを是とする、そうしてもいいではないかという空気も広がっていたのではないかと思えます。

もちろん、ブルボン王朝はアメリカの独立戦争に絡んでみたり、ルイ14世の時代にはオランダ継承戦争やスペイン継承戦争などに戦費を費やし、対して成果も挙げられないということも続いており、財政的な逼迫が著しく、そこはブルボン王朝の問題点ではあったと思いますが、ルイ16世はご先祖様のやらかしたことの後始末をつけさせられたという側面があるように思え、そこは気の毒としか言いようがないのではないかと思います。

一般に、フランス革命はバスチーユ監獄の襲撃から始まったとされています。バスチーユには政治犯が大勢収容されており、これぞブルボン王朝の悪政の象徴だと考えられていたからなのでしょうけれど、実際には監獄に収容されていたのは7人で、少なくともそのうち2人は普通の刑事犯であったようです。それから、もし厳密に考えるのであれば、バスチーユ監獄を襲撃するための武器は、退役軍人のための養老院みたいになっていたインバリッドを襲撃して手に入れたものだということらしいので、とすれば、インバリッド襲撃が革命の契機とする方が正しいのではないか、という気もします。ついでにいうとインバリッドにはいろいろな軍事記念品が今も展示されていて長州藩が外国船に大砲を打ちまくったことで始まった四か国戦争でフランスが長州から鹵獲した大砲が今も中庭に展示されているそうです。更に言えば、ナポレオンの棺も公開されています。インバリッドはパリ市の南西側にあり、バスチーユはパリ市の東の端の方にありますから、民衆はそこまで歩いたのでしょうけれど、半日あれば歩ける距離ですから、問題なく歩いて辿り着くことができたのでしょう。

それはともかく、民衆がちょっとばかり騒いだくらいで何ができるこということもありません。通常、王は強大な実力組織と王権神授説のようなものに支えられた輝かしい権威がありますから、びくともしないと思うのが普通です。ところが、バスチーユ監獄襲撃から3か月後、国民がベルサイユ宮殿まで行進し、スイス人傭兵が殺され、国王一家はパリ市内のテュイルリー宮殿に連行され、監視された生活を送ることになります。私にはこの辺りがどうもうまく理解できません。民衆が少々の武器を持っていたところで、組織され、訓練された軍隊が守っていれば、どうということはありません。フィリピン革命やリビアの革命的事件が成功したのは、背後でアメリカが資金なり武器なりを供給していたからだというのは、もはやわざわざ議論しなくても誰でも知っていることであり、リビアでの場合はカダフィ大佐の軍があまりに強いので、むしろ訓練されたプロというのはそう甘い相手ではないのだということを見せつけた感があり、フランス革命の場合も国王を守る軍はヨーロッパで戦争をやりまくって練磨された集団であったはずですから、そう簡単にやられてしまうというのは、不自然に思えてなりません。ロシア革命に於いても、軍が皇帝を見放したというのが主たる成功要因とも思えますから、民衆の情熱や団結だけではやっぱり革命というのは難しいのではないかと思えてしまいます(民衆の情熱や団結は長期間続かないからです)。王位簒奪を目論むオルレアン公ルイ・フィリップ黒幕説というのもあって、ルイ・フィリップ本人は王位を狙っているという理由で後に断頭台で命を落としますが、ルイ・フィリップが黒幕であったかどうかはともかくとして、誰かが何かを画策したのではないか、という気がどうしてもしてしまいます。ルイ・フィリップはフリーメイソンのメンバーだったそうですから、フリーメイソン黒幕説も仮説としては無くもないかも知れないのですが、だとすれば、ルイ・フィリップが後に断頭台に消えたことは、フリーメイソンも失敗していたということになり、この辺りは大変に複雑に思えます。

さて、失敗の種は常に内側にあるということが本当だとすれば、ルイ16世とマリーアントワネットにもその種は潜んでいたはずです。ルイ16世は国民に対して宥和的であり、なるべく譲歩しようとしていたフシがあり、一方で貴族からは見放される傾向にありました。軍の将校や司令官クラスは貴族によって占められていたでしょうから、軍が大事なところで国王を見放した要因をそこに見出すこともできるかも知れません。ルイ16世はそういう意味では温厚で、国王として国民のために貢献しなくてはならないと本気で考えていたフシすらあり、それが仇となって特権階級と国民の板挟みに合い、結果として双方から生贄にされてしまったという面があったのではないかとも思えてしまいます。一般的には宥和的で譲歩の姿勢を見せれば、相手も宥和的になり譲歩し、双方平和的に丸く収まるという気がするのですが、国王の譲歩がかえって国民に「押せばやれる」という感覚を抱かせ、押しに押しまくり遂には監禁して死刑の議決を下すという流れになってしまったのではないかと思えます。

ベルサイユ行進からルイ16世が処刑されるまでには4年ほどの期間があり、国民も今後ルイ16世とその一家どう扱うかについて迷っていたようにも思えます。マリーアントワネットの実家であるオーストリアのハプスブルク家からは、もし国王一家に危害が及べば戦争するという脅しもそれなりに効いたかも知れないのですが、国王一家はオーストリアのハプスブルク家を頼るべく密かにチュイルリー宮殿を抜け出し、オーストリアへ向かいます。世に言うヴァレンヌ事件です。このヴァレンヌ事件で国王夫妻がオーストリアと通牒しているということになり、連れ戻された夫妻は断頭台へ送られるわけですが、ヴァレンヌ行きは馬車でゆっくりと移動し、途中で休憩も含み、しかも一泊していたわけですから、大変に悠長なものであったように思えます。ルイ16世一人なら、メッテルニヒのように洗濯物の馬車に紛れて逃げ出すこともできたかも知れないのですが、確かに女性のマリーアントワネットと幼い男の子と女の子の4人の逃避行ですから、無理できないという気持ちは分かります。しかし、あの場合であれば何としても非常線突破の覚悟を持つべきであったとも言え、やはり、絶対に脱出するという覚悟に欠けていたのではないかという気がしないわけではありません。やはり、一度決心したら振り返ってはいけないということなのかも知れません。

国王一家に同情的な内容で書き進めましたが、ルイ16世とマリーアントワネットに殺されなければならないほどの罪があったとは個人的には思えず、息子のルイ17世はタンプル塔で虐待死していることも合わせて考えれば、同情的にならざるを得ません。

フランス革命はその後、ジャコバン派の独裁があり、ジャコバン派も粛清され、ナポレオンが登場し、ナポレオンが失脚した後にタレーランの外交で王政復古へと辿り、結果としては何が何だかよく分からない、何が変わったかもよく分からない、はっきりしているのは国王一家は無駄に殺されたことだけのように思え、ちょっと追悼文みたいになってしまいました。『ラセーヌの星』では、国王夫妻の二人の子供は実は脱出したという設定されていますが、作者の心情は私にはよく理解できる気がします。