ウッディ・アレン『マンハッタン殺人ミステリー』のニューヨークの中間層よりちょっと上の人々

大学生のころ、ウッディ・アレンが大好きだという女子が何人かいた。私は何作か試し見てみたことがあるが、別におもしろいとも何とも思わなかったし、なぜ、ああまで女子がウッディ・アレンの作品に心を奪われるのかよく分からなかった。なんでさえない中年おじさんが主役を演じる映画が楽しいのか、長年の謎だったと言える。

最近になってウッディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』をみて。ああ、なるほど。そういうことかと私は理解することができた。彼女たちはウッディ・アレンのニューヨーカーな生活に憧れを感じていたのだ。正確に言うと、ニューヨークの中間層よりちょっと上の生活をしている人々のアーバンでアダルティでライトだけど知的生活という感じのものだ。

この映画のストーリーそのものは別に大したことはない。火曜サスペンス劇場と大差ない程度のミステリーで、日本の洗練された『このミス大賞』ほどに験算されたものからはほど遠い(従ってストーリーのあらすじは割愛する)。

しかし、この作品の重点はストーリーの展開にあるのではなく、登場人物の知的で洗練されていてユーモアのセンスもちょっとはあるという生活を表現することにあると言える。というかウッディ・アレンの映画は大体全部そうだと言ってもいい。それが悪いというわけではなくて、そうだったのか。それが女子を惹きつけていたのかということに気づき、驚いているのである。

主人公のウッディ・アレンは出版社の編集者で、従って作家たちと仲がいい。夜はオペラに映画にミュージカルとお洒落で知的な生活を送っている。「殺人ミステリー」なので、一応、本当に殺人事件は起きるのだが、それは言わばそのようなニューヨーカーの様々な生活の一局面に於けるちょっとしたアクシデントや思い出話みたいなものだと言っていいのかも知れない。

そういう意味では村上春樹作品とよく似ている。ハルキストは作品のストーリー展開に期待しているのでもなければ、エンディングに感動するわけでもない。ハルキ作品を読んでいる間、その洒脱な雰囲気に耽溺できることを楽しんでいるのであり、できれば自分もそんな風な生活を送りたいと夢想して楽しんでいる。ハルキ作品をよく読めば、父親との葛藤が通底していることが分かるが、読者にとってそれはあまり重要ではなく、洒脱に適度な努力で最大の効果を得る主人公たちの人生をみて楽しんでいるのだから(例えば『ねじ巻き鳥クロニクル』では、主人公は念力で敵を倒すと。なんとお手軽なことか)。

ウッディ・アレンも同じである。彼の作品は雰囲気だけを提供していると言っていいが、その雰囲気に浸り切ることを楽しむ人は一定の割合でこの世に存在するのである。ウッディ・アレンの何がいいのか理解できたという意味で、今回この作品を観たことは価値があったと思う。

繰り返しになるが中間よりちょっと上の生活がミソである。あんまりいい生活をしていると、ドナルドトランプと同じような人種だと思われてしまう。かと言ってニューヨークでミドルクラス以下の生活は多分、あまり絵にならないので観客を魅了することはできない。『レオン』のような例外はあるが、あの作品はナタリーポートマンで引っ張っている作品なので参考にはならないように思う。後は『ミーンストリート』や『ゴッドファーザー』のようなパターンもあるので、映画に於けるニューヨークの描かれ方は一つの研究的視点にはなり得るかも知れない。

私は一度だけニューヨークを旅行したことがあるが、確かに「これが世界で一番有名な都市か…」というため息のようなものはあった。ただ、怖かったので夜間は外出せず、食事は主としてやたらと高いホットドッグだったので、そんなにいい想いはしなかった。個人的にはロンドンに行った時の方が印象はいい。

まあ、それはともかく、ウッディ・アレンは中年男の生き方としていい見本になる。ウッディ・アレン方式であれば、中年男は存在価値を認めてもらえる可能性は残されている。私もウッディ・アレンを見習おうと思う。



スコセッシ監督『タクシードライバー』の運命の分かれ道

マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』では、ニューヨークの若きタクシー運転手をロバート・デ・ニーロが演じている。デニーロは大統領選挙の候補者の事務所で働く女性をナンパし、デートに連れ出すことに成功するが、結局のところはフラれてしまい、自分がもてないことを世の中のせいにする、よくある若者のように銃を購入し、それを使用するチャンスを伺おうとする。そして一旦は彼をふった女性の勤務先の大統領選挙候補者の演説場所まで出かけるが、政治家のボディガードに目をつけられてしまい慌ててその場を逃走する。

このシークエンスと並行しつつ、デニーロと12歳の少女との出会いが進行していく。12歳の少女の役はジョディフォスターが演じていて、びっくりするくらいかわいいのだが、映画では家出した彼女は体を売ることで生計を立てており、彼女を買いたい場合は仲介人を通さなくてはならない。仲介人とそのボス、そして彼女の生活の場兼サービスの提供場であるホテルの経営者が絡んでおり、要するに彼女はそのような悪い奴らに食い物にされているという構図になる。

政治家の暗殺を諦めたデニーロはジョディフォスターを救出することに目標を変更し、仲介人とそのボス、そしてホテルの経営者を撃ち殺し、ジョディフォスターはめでたく実家へ帰ることになる。彼女の両親からはデニーロに感謝の手紙が届き、彼は3人も殺害しているにもかかわらず、少女を救出するという英雄的な動機による行動であることから免責され、以前と同様にタクシードライバーの職を続けるという流れになっている。

さて、ローティーンの少女を利用した管理売春はゆるされる行為ではない。まず管理売春がゆるされないし、ローティーンの少女にそれをやらせているということもゆるされない。当然、そんな奴らは罰せられなければならないと言えるだろう。だがここで、敢えて比較衡量してみたいのだが、果たしてローティーンの少女の管理売春を終わらせるという行為と3人の男に対する裁判なしのリンチ死刑はつり合いのとれるものだろうかということだ。感情的なことを言えば、家出娘を食い物にする3人の男たちが殺されても全く心は痛まない。よくやったデニーロということになるし、そういう前提で映画も作られている。しかし、ちょっと冷静になった場合、本当に3人も殺しておいて無罪放免でいいのかという疑問が私には残る。もちろん、映画に法理法論を持ち込んでも仕方がないので、飽くまでも考える材料としてではあるが。

あと疑問に残るのは、デニーロは闇の組織の人間を3人殺しているのだから、組織から報復を受けないのだろうかという疑問も私の内面では何度も浮上した。ニューヨークで以前の通りに生活していたら、殺されるのではないだろうか。

ついでに言うと、デニーロは3人殺した後にジョディフォスターの部屋で警察に発見されるのだが、破壊力の強いマグナムみたいなのを持ってローティーンの女の子の部屋にいる男であれば、問答無用で現場で警官に撃ち殺されるのではないだろうかという疑問も残るのである。

もちろん映画なので、そのような疑問を持つことにもしかするとあまり意味はないのかも知れない。だって映画なんだから。ではこの映画の一番の考えどころは何かと言えば、女性にフラれて世の中に恨みを持った男が銃を購入した後の、銃の使い道である。デニーロが最初に考えたことは政治家の暗殺だった。幸いなことにボディガードに目をつけられて現場を逃げ去るということで彼はそのような明白な犯罪を犯さずに済んだのである。もしボディガードがちょっと抜けているような場合であれば、彼はその犯行を成し遂げただろうし、その後は確実に逮捕されるかその場で撃ち殺されるかのどちらかになっていたはずである。繰り返しになるが彼は幸運にもその犯行に失敗し、次のターゲットとして選んだのがローティーンの少女を食い物にする悪いやつらで、デニーロは英雄になることができた。スコセッシ監督は禍福は糾える縄の如しというようなものを描きたかったのかも知れない。デニーロが犯罪者になるか英雄になるかは紙一重だったのである。突き詰めれば政治家のボディガードがたまたま優秀だったという一点にかかっていたとも言えるだろう。

ショーン・ペンの出ている『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画と『タクシー・ドライバー』が私にはダブって見える。ショーン・ペンの場合、空港の職員が優秀ではなかったので銃を持ったまま飛行機に乗り込み、そこで犯行を犯した彼は撃ち殺されてしまう。デニーロがショーン・ペンみたいな末路を迎える可能性もあったわけで、私には『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画は、『タクシー・ドライバー』のデニーロがもし途中で方向転換しなかったらどうなっていたかを描こうとしたのではないかという気がするのである。デニーロもショーン・ペンも人生が思うようにいかず世の中を恨んでいるという点で一致しているし、銃を手に入れて世の中に復讐してやろうと考えるところまでも一致している。しかし、ショーン・ペンの方は運悪く途中まで目論見通りに進んでしまったので撃ち殺され、デニーロは幸運にも最初から目論見通りにいかず、英雄になったというわけだ。教訓としては、人生にはいろいろなことがあるし、世の中を恨みたくなるようなこともあるかも知れないが、だからと言って他人を傷つけるようなことを考えたり、実行しようとするのはよした方がいいということになる。デニーロも運が悪ければどこかの段階で殺されていたかも知れないのだ。世のため人のため、真面目に誠実に生きていれば、きっといいことがあるはずだ。


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