イタリア詩人、ジャコモ・レオパルディの近代

19世紀イタリアにジャコモ・レオパルディなる詩人が存在したことについて、東洋人の我々の中で知っている人はほとんど居ないだろう。私も最近になって知ったのである。イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じていた彼はそれら古典の教養を存分に生かしながら、新しい時代のための詩を書いた人物であるらしい。その作風は悲観的だが、ある程度無視論的な響きを持ち、それだけある程度自由主義的な響きを持っていたそうだ。当然、ナポレオン戦争と関係があるし、長い目で見れば社会主義とも関係があると言えるだろう。

ナポレオン戦争に影響を受けた芸術家として個人的にぱっと思い当たるのはベートーベンだ。第九交響曲の『歓喜の歌』は王侯貴族のためではなく一般のドイツ人のために書かれたもので歌詞もイタリア語ではなくドイツ語で書かれている。ちょっと前の世代のモーツアルトがドイツ語で戯曲を書くことについては相当揉めたらしいのだが、ベートーベンがドイツ語の楽曲を作るということで揉めた話というのは聞いたことがない。もしかするとちょっとはあったのかも知れないが、ベートーベンのドイツ語歌曲はわりとすんなりと受け入れられた。

モーツアルトとベートーベンの違いは生まれた時代の違いに拠る。モーツアルトはフランス革命とナポレオン戦争の最中に活躍したが、ベートーベンの時代にはナポレオン戦争は一応だいたい終わっていて、タレーランが戦争に敗けても外交で勝つという巧みな政治活動を行った時期と大体重なる。

さて、ベートーベンはともかく、レオパルディである。レオパルディは神なき時代の救いなき悲観主義を描いたらしいのだが、もう一つ重要な点として国民を描こうとしたという点は見落とされるべきではない。ナポレオン戦争は各地で国民意識を覚醒させるという効果をもたらした。フランス軍はもちろん自由平等博愛の普遍的理念で押しまくったわけだが、たとえばドイツのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という演説で民族主義を説いて歩いたように、ナポレオンに対する反作用としてヨーロッパ各地で民族と国家というものが強く認識された時代でもある。

ここで注意しなければいけないのは王侯による支配と国民国家は全く別のものであるということだ。たとえばドイツ語圏で乱立した王侯国家は国王の私有物であり、軍は国王の私有財産によって傭兵が雇われて機能した。それに対して国民国家では、国民はその国の人間だというだけで国家の戦争に対して責任を負う。21世紀の現代人の我々にとって、それは必ずしも正しいこととは言えなくなっているが、当時は王侯貴族の支配から脱却し、国民または市民による共和政治の理想がヨーロッパ社会に広がり、その旗頭がナポレオンだった。

レオパルディはそのような時代の空気を思いっきり感じて生きたイタリア人詩人であったため、国民という言葉にロマンを与えたと言われている。レオパルディ流の国民国家という近代との接点であると言えるだろう。私はイタリア語もラテン語もギリシャ語もできないので、一般的な解説に+して私の個人的な見解を述べることしかできないのだが、ナポレオン戦争を境にロマン主義的国家主義がヨーロッパに広がったことは事実であり、レオパルディはその新しい思潮を胸いっぱいに吸い込んだに違いないことは想像できる。彼は古典的なローマカトリックや王侯支配に対するアンチテーゼとして「国民」を重視し、国民を中心とした社会づくりを夢見た。残念なことに30代半ばで病死してしまったため、彼は国民という概念の行くつく先に普仏戦争が起きたことを見ることはできなかったし、それがエスカレートした結果としての第一次世界大戦を見ることもなかった。古典的な支配体制を崩すために国民という概念を創造することに彼は役立ったかも知れないが、その結果を見ることはなかったことが良かったのか悪かったのか。

ただ、彼個人は潔癖で真面目で勤勉で生き方ば不器用だったらしい。ちょっと私に似ている。どこが似ているのかというと、勤勉であるにもかかわらず、それがすぐにお金に直結しないところである。お金に関するセンスさえあれば、レオパルディも私も勤勉にお金を儲けていたのではないかと思わなくもない。フランスのロートレックみたいに…一応付け足すが、ゴーギャンは遊びたいだけなので、勤勉でもなければお金のセンスも持ち合わせていない。ただの付言になってしまいましたが….あ、ゴッホもか…



ナポレオン戦争‐旧秩序の破壊者

フランス革命が発生した後、国政の実権はロベスピエールたちジャコバン派が政権を握ります。彼らがルイ16世を処刑した後、ヨーロッパ諸国が対フランス大同盟を組み、フランス包囲網が作られます。周辺諸国は当時はまだ君主制が普通ですから、フランス型共和制の理念が自国に及ぶことに強い懸念を持っていたはずですし、国王処刑というショッキングなできごとに対する人間的な怒りというものも感じていたかも知れません。このような国難に対し、ロベスピエールは粛清に次ぐ粛清ということで国内を引き締めることで対応しようとしますが、嫌疑があればすぐ断頭台という恐怖政治の手口は結果的には多くの政敵を作ることになり、彼は議会から追放され、市役所に逃げ込むも議会が「ロベスピエールに味方する者は法の保護を受けることはできない」と宣言したことで周囲から人が離れてゆき、ロベスピエールは自殺しようとするものの失敗してしまい、翌日には断頭台へと送られます。テルミドールのクーデターと呼ばれる事件です。ロベスピエール派たちが最後の晩餐をした場所が残っていますが、そこはマリーアントワネットが最後の日々を過ごしたのと同じ場所で、盛者必衰、諸行無常を感じざるを得ません。この時、一軍人だったナポレオンはロベスピエールのオーギュスタンと親交があることが危険視され、予備役編入されてしまいます。

ロベスピエール派を粛清した国民公会は絶対に自分たちが選挙に負けない法律を成立させたが、当時は国民公会の人気がなく、王党派も多く残っていたために暴動が起きます。ヴァンデミエールの反乱と言います。国民公会がナポレオンを起用したところ、散弾の大砲で王党派を蹴散らしてしまい、このことでナポレオンは再び表舞台に登場することになります。市民に向けて殺傷力の強い散弾の大砲を使うわけですから、そんじょそこらの人物とは訳が違います。勝てる方法が分かっているのなら、それをやるという、彼の単純かつ明快な論理がそこにあったのではないかと思います。

ロベスピエールが死のうと生きようと、フランスに対する外国からの脅威は消えていません。得に、マリーアントワネットの実家のハプスブルク家のオーストリアはかなりの敵意を燃やしています。国民公会はドイツとイタリアの方面に軍を送ってオーストリアを包囲する戦略をとりますが、ドイツ方面では苦戦したのに対し、イタリア方面の指揮を任されたナポレオンは連戦連勝で単独で講和まで勝ち取り、ここに第一次フランス包囲網は崩壊することになります。外交までやってしまうところに「躊躇しない」という彼の性格が良く出ているように思えます。

しかし、当時、イギリスが強敵としてまだ立ちはだかっていたのですが、ナポレオンはイギリス優位の理由をインドの領有にあると見て、中継点になっていたエジプト征服戦争に出かけます。実は戦争でナポレオンは苦戦を強いられ、兵を見捨てて徳川慶喜ばりに側近だけを連れて脱出し、フランスへ帰還します。そしてブリュメールのクーデターを起こし、フランス政治の実権を握るわけです。帰還したナポレオンは国民から歓喜で迎えられたと言われていますが、残された兵たちが帰還してくればナポレオンの敵前逃亡がばれてしまうため、その前に手を打ったと思えなくもありません。

国際社会は再びフランス包囲の大同盟を組んでフランスを圧迫しようとしますが、ナポレオンがオーストリア軍に大勝利し、あっけなくこの大同盟は瓦解します。1804年、ナポレオンはなんと国民投票によって皇帝に選ばれ、しかもそれはナポレオンの子孫が皇帝の地位を世襲するという内容のもので、そんなことが投票によって可能になるとは目に見えない力がナポレオンを後押ししていたのではないか、神が彼に肩入れしていたのではないかとすら思えてきます。

当時、イギリスとオーストリアが気脈を通じ合っており、またしてもフランス包囲網が形成されます。ナポレオンはオーストリア及び
神聖ローマ帝国連合を東正面に、西正面には大英帝国という難しい局面に於かれた上、イギリス上陸を目指して行われたトラファルガーの戦いではイギリスのネルソンの艦隊にフランス艦隊が破られるという大きい失点をしてしまいます。反対に、東正面ではアウステルリッツの戦いで、神聖ローマ帝国及びロシア皇帝の同盟軍を破り、神聖ローマ帝国は解散・消滅の運命を辿ることになりました。フランスにとってはハプスブルクこそ主敵であり、ハプスブルクの権威の象徴である神聖ローマ皇帝を消滅させたことは、かなり大きな意味を持ったかも知れません。

ナポレオンはブルボン王朝の人間をスペイン王から外し、弟をオランダ王に即位させ(フェートン号事件の要因になった)、ベルリンまで兵を送りプロイセン王は更に東へ脱出し、ナポレオンはヨーロッパ内陸部の主要な地域をその支配下に置きます。スペインにはブルボン朝の王がいましたが、それも自分の兄に交代させています。ナポレオン大帝国の完成です。ナポレオンはイギリスを主敵とするようになり、トラファルガーの戦いの怨念もありますから、大陸封鎖令を出してイギリスに商品が入らないように工作し始めます。島国イギリスを兵糧攻めにするというわけですが、ロシア帝国はイギリスへの小麦の輸出は経済的に是非とも続けたいことであり、ナポレオンにばれないようにイギリスへの輸出を続けます。これを知ったナポレオンがロシア遠征を決意し、ここが運命の別れ道となってしまいます。

ナポレオン軍はモスクワ占領までは漕ぎつけますが、ロシア側は焦土作戦で対抗します。こういう場合は持ってる土地が広い方が有利です。ロシア政府政府からの講和の要請は待てど暮らせど届きません。トルストイの『戦争と平和』でも見せ場と言っていい場面です。広大なロシアを延々と東征することは現実問題として不可能であり、しかも冬が到来すればフランス兵がバタバタと死んでいくことは明白で、ナポレオンは冬の到来の直前に撤退を決意しますが、撤退戦は戦いの中でも特に危険なもので、コサック兵の追撃を受ける破目になり、出征時60万人いたナポレオン軍の兵士で帰還できたのは僅かに5000人だったと言います。ほぼ完全に全滅、太平洋戦争のレイテ戦以上に酷い有様となってしまったと言えます。

新たなフランス大同盟が迫り、遂にパリは陥落し、フォンテーヌブローでナポレオンは退位させられます。彼は地中海のエルバ島に追放され、国際社会はナポレオン後の秩序構築のためにウイーン会議を開き、タレーランが「ナポレオン以前の状態に戻ればいいじゃあありませんか、あっはっは」とルイ18世の王政復古を議題に上げ、フランスが敗戦国かどうかよく分からないようにしてしまい、「悪いのはナポレオンですよね」で乗り切ろうとします。

ところがナポレオンがエルバ島から脱出。パリに入って復位を宣言します。ヨーロッパ諸国はナポレオンの復位を認めず、フランスを袋のネズミにするように各地から進軍が始まり、有名なワーテルローの戦いでナポレオン軍はほぼ完全に破壊され、彼は海上からの脱出も図りますが、世界最強の英艦隊に封鎖され、遂に降伏。大西洋の絶海の孤島であるセント・ヘレナへ流されて、そこで側近たちとともに面白くもなんともない生活を送り最期を迎えます。晩年のナポレオンはあまりにもお腹がでっぱり過ぎていたことから肝硬変が腹水が溜まっていたのではないかとする病死説と、フランスに送り返されたナポレオンの遺体がまるで生きているかのような状態だったことから、ヒ素による毒殺説までいろいろあり、今となっては分かりません。ナポレオンの棺は今も保存されており、巨大な棺の中で彼は今も眠っているはずですが、敢えて蓋を開いて調べようとする人もいないようです。

そのような墓暴きみたいなことがされないのは、今も畏敬の念を持たれていることの証であるとも思えますし、ワーテルローで降伏した後、裁判にかけられて処刑されてもおかしくないのに、絶海の孤島に島流しで済んだというのはナポレオンの強運が普通ではないということの証明なのかも知れないとも思えます。

振り返ってみれば、ナポレオンは暴れるだけ暴れて、果たして何を残したのか…という疑問はありますが、神聖ローマ帝国の消滅は、ハプスブルク家の凋落を目に見える形で示したものであったとも言えますから、少し長い目で見れば、ヨーロッパ秩序を大きく変えたということは言えるように思います。秩序を破壊する人と新秩序を構築する人は別の人、というのが普通なのかも知れません。


トルストイ『戦争と平和』とナウシカ

トルストイの『戦争と平和』は、ナポレオン戦争を背景に、ロシアの貴族から農民に至るまでの幅広い人々の人生、愛、嫉妬、欲望、寛容、赦し、絶望と希望を描いた大作としてよく知られています。

ロシアがナポレオンとの講和要件を反故にしたことで、ナポレオンは大軍を擁してロシア域内に進軍しますが、補給が思うようにはかどらず、ナポレオン軍は次第に衰退していきます。ベルリン、ワルシャワ、モスクワあたりは何にもない大平原が延々と続くようなエリアで、馬で走れば結構早く移動できるらしいのですが、馬の速度に補給が追い付かず、モスクワを目指す征服者はどうしても補給で苦しむと言われています。ナポレオンしかり、アドルフヒトラーしかりといったところでしょうか。

ロシア軍が戦略的に撤退することで、ナポレオンはモスクワ入城を果たしますが、ロシア側の焦土作戦によりフランス軍は更に衰弱し、補給が届かないまま冬を迎えることを恐れたナポレオンは撤退します。これを境にナポレオンは転落への運命を辿っていくことになりますので、彼の人生を考えると、天才とは運であるとしみじみ思はざるを得ません。ナチスドイツの場合、モスクワ入城には届きませんでしたが、スターリングラード戦では、ドイツ軍はソ連軍の戦略的撤退に引き込まれるようにしてスターリングラード入城を果たし、包囲され、事実上の全滅へと追い込まれていきます。ロシアはその広大な領土が強みであり、ちょっとぐらい相手に譲っても、最終的にはへばらせて勝つという肉を切らせて骨を断つ戦略が可能な国であると言えます。

『戦争と平和』はこういう壮大なスケールの話に人間の心の機微を乗せるという神業をしているわけですが、この作品を読んで風の谷のナウシカを想起しないわけにはいきません。風の谷のナウシカの漫画版では、ナポレオン戦争よろしくトルメキア軍がドルク帝国域内に深く侵入し、聖都シュワを目指しますが、進軍する過程で激しく消耗し、兵隊の数はみるみる減っていきます。またドルク帝国側は蟲を用いた焦土作戦で国土を犠牲にしながら敵を消耗させるという、なかなかやぶれかぶれな戦略で対抗しますが、この構図はナポレオン戦争を想起しない方が無理と思えるほど酷似しているように思えます。もちろん宮崎駿さんのことですから、意図的に意識してそうしているに違いありません。

戦場で無償の愛の行為を実践し、悩み傷つくナウシカの姿に大きな感動を得る人は多いと思いますが、漫画版ナウシカもトルストイなみにスケールの大きな話と人の心の機微、生きる意味、死ぬ意味、幸せとは何かみたいなことをいろいろと考えさせてくれますので、21世紀に生きる我々は、幸いに両方読むことができますから、是非、現代人両方読むべきなどと思ってしまいます。

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クシャナの後ろ姿

ヘーゲル‐かくして自由と理想は達成される

ヘーゲルは弁証法によってより高次の理想が達成されると考えました。即ちテーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったとき、それを克服するための第三の道が見つけ出され、より高次のものへとつながっていくというわけです。このようにより高次のものへと上昇していくことをアウフヘーベンと呼び、テーゼとアンチテーゼがぶつかり合ったときにアウフヘーベンが起きると考えたわけです。

アウフヘーベンが起きた後、新しいテーゼ、ジンテーゼが生まれますが、やがてそのジンテーゼに対するアンチテーゼが登場し、ぶつかり合ってアウフヘーベンが起きます。それは人類の不断の営みと呼べるものですが、いずれはジンテーゼが限界に達します。それはアンチテーゼの生まれようのない理想的な世界であり、理想が達成された極相に到達したと考えることができます。

このようなテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いで分かりやすいのは技術革新で、それこそAI開発の研究者や技術者たちはこの繰り返しをしているに違いないのですが、ヘーゲルの場合は、同じことが人類の歴史に於いても起きると考えました。

ヘーゲルは自由と善が達成された社会を理想としており、市民社会では自由はある程度達成されたと言えますが、各人が自己の欲求の追求に邁進するために必ずしも善が達成されるとは限りません。ヘーゲルはそのような状態で国家が善を達成すると考え、またそのように善を達成し得るものが国家として相応しいと考えました。

時代背景的にフランス革命からナポレオン戦争へと続くヨーロッパが壮大な転換点を迎えていたことと、ヘーゲルが以上のようなことを考えたことは当然に大きな相関関係があるように思えます。ヘーゲルはフランス革命が起きた時、友人と記念の植樹をして祝ったと言いますが、その後のナポレオンの姿を見て「世界精神が行く」と言ったとも言われています。即ち、ヘーゲルにとってフランス革命はテーゼとアンチテーゼのせめぎ合いの結果発生したアウフヘーベンであり、その後に登場したナポレオンはジンテーゼそのものであり、自由平等博愛を旨とするフランス革命がナポレオンに輸出されることは是であり、フランス革命的自由に彼は夢や理想を感じたに違いありません。アウフヘーベンが繰り返されればいずれは人間の歴史もその極相に達すると考えた背景には、稀に見る歴史的転換点に彼が触れることができたからなのかも知れません。

ヘーゲルの弁証法によって東西冷戦の終結を説明しようとしたのがフランシスフクヤマの『歴史の終わり』であるわけですが、ヘーゲル的な考え方によって全てが説明できるかどうか、何とも言い難いところは残ります。奢れる平家は久しからず、盛者必衰の理を表すとする東洋的な輪廻の世界観では、ヘーゲル的弁証法によってアウフヘーベンが極限まで達した結果、理想の世界が達成されるとする一直線且つ不可逆な世界観を受け入れることは容易なことではありません。実際、今の世界のいろいろな出来事には、東西冷戦時代の方がまだ整然としていてましだったのではないかと思えることも多いため、フランシスフクヤマの著作は少々勇み足であったのではないかとも思えます。

世界が不可逆の方向へ進むという思想はヘーゲルしかり、マルクスしかりですが、マルクスの対極にあるはずのキリスト教でもそうであり、やはりヨーロッパに伝統的に続いている、いずれ世界は終わるという思想と無関係には理解できないのかも知れません。

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ナポレオン戦争とフェートン号事件

長崎の出島にイギリス船籍の軍艦が入港し、オランダ人商館員を一時拘束するという前代未聞の事件が、江戸時代後期の1808年に起き、江戸幕府の関係者が右往左往するという事態に陥ります。

この事件はナポレオン戦争と直接絡んでおり、また、長崎の出島がヨーロッパ人の目からどう見えていたかということが分かるという意味でも興味深い出来事ではなかったかと思います。

フランス革命の後の1794年、フランスはネーデルランド連邦(オランダ)に侵攻し、同地ではフランスの衛星国のバタヴィア共和国が樹立されます。1798年に、フランスではナポレオンによるクーデターが決行され、ナポレオンは統領政府を樹立し、第一統領(または第一コンスルとも)に就任します。コンスルとは古代の共和制ローマの執政官のことで、ナポレオンが古代ローマを強く意識していたことが分かります。

1804年にナポレオンは自身がフランス皇帝であると宣言し、続く1806年にはバタヴィア共和国を廃止して同地にホラント(オランダ)王国を樹立して弟のルイ・ボナパルトを国王に即位させます。

この時点でオランダ本国及び世界中のオランダの植民地がナポレオンの影響下に入ったことになります。ネーデルランド連邦共和国の統領を世襲していたオラニエ=ナッサウ家のウイレム5世はイギリスに亡命し、海外のオランダ領がフランスに接収される前にイギリスの方で押さえてほしいと要請します。イギリスから見れば千載一遇のチャンスですので、おおいに乗り気で、世界再征服戦争のようなことが始まります。

日本との貿易を独占していたオランダ東インド会社は1794年に解散しており、当時の長崎の出島はほぼ孤立した状態に陥っていましたが、一応はオランダ国旗を掲げ、ナポレオンに屈従したわけではないということを示していました(当時の日本人にとってはおよそ感知しないことではありました)。

そしていよいよ、フェートン号事件が発生します。イギリス海軍のフェートン号が、ウイレム5世の依頼というこれ以上ないくらいまっとうな大義名分で長崎へ入港します。長崎の出島は日本の江戸幕府の視点からすれば、オランダ人を隔離・管理する目的で設置された場所ですが、ヨーロッパ人の目から見れば、オランダの海外領土という風に理解されていたことが分かります。

しかしその手口は、入港時、オランダ国旗を掲げて偽装し、2人のオランダ商館員が小舟で近づいてきたのを拘束するという荒っぽい方法で、フランスからの解放を大義名分としているにも関わらず、これでは解放者なのか侵略者なのかさっぱり分からんという展開になってしまっています。更に、オランダ商館員の返還を求めた長崎奉行所に対しては水、食料、燃料の提供を要求し、さもなくば長崎港に停泊中の船を焼き払うという脅迫を行います。これでは海賊と同じです。

当時、長崎港の警備は鍋島藩が担当していましたが天下泰平の世の中で「どうせ大したことは起きない」と高をくくっており、イギリス軍艦に対抗するだけの戦力がありません。長崎奉行は周辺の各藩に軍の出動を命じますが、それらの軍が到着する前に長崎奉行所が要求された品物を提供することで解決し、フェートン号はオランダ商館員を解放して悠々と引き揚げたのでした。

実際に人を拘束して脅迫したという意味では、ペリーの黒船来航以上にショッキングな事件で、ペリーがいかに紳士的であったかを理解できるとすら言えそうです。

このことで、鍋島藩は大いに面目が潰れましたが、教訓となり、鍋島藩はその後、いち早く産業の促進と軍備の増強に着手するようになり、逼迫する藩の財政に関しても思い切った構造改革を実施して、幕末にはやたらめったら強い藩に生まれ変わっていくことになります。

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イギリス東インド会社と江戸幕府

イギリス東インド会社は16世紀にイギリスによって設立された国策会社ですが、短期間ではあるものの、江戸幕府が施政する日本と貿易を行っていた時期がありました。

1611年、当時のイギリス国王ジェームス1世の国書をともにジョンセーリスが来日し、徳川家康と謁見し、家康の許可も得て平戸にイギリス商館が開かれ、リチャードコックスが商館長として仕事をすることになります。

リチャードコックスの在任中、平山常陳という人物がカトリックの宣教師を乗せた朱印船をマニラから日本に向けての航海中にイギリス・オランダの商戦艦隊の襲撃を受け、平戸に曳航されるという事件が起きており、江戸幕府は既に切支丹に対する禁令を出していたことから、その後の切支丹迫害に拍車がかけられていくことになります。

この事件からは1620年の段階では、ヨーロッパのカトリック系国家と新教系国家の間の東洋貿易に関する覇権争いが激しく、同じ新教の国であるイギリスとオランダの船が協力してカトリック系の排除に動いているということが分かります。イギリスとオランダとの間の貿易競争も激しかったようですが、少なくともカトリックに対する態度としては一致していたという理解の方がより真相に近いかも知れません。

1623年にはオランダ人がインドネシアのアンボイナのイギリス商館を襲撃し、商館員が全員殺害されるというアンボイナ事件が発生します。この事件をきっかけに、平戸のイギリス商館は閉鎖され、ヨーロッパの対日貿易はオランダ独占するという状況になります。

1673年にイギリス船籍のリターン号がチャールズ2世の国書を携えて長崎に入港しますが、チャールズ2世がカトリックの国であるポルトガルのカタリナ王女と結婚していることを問題視し、通商を拒否し、イギリスは対日貿易からは完全に締め出されることになりました。

江戸幕府はオランダ商館長からのオランダ風説書によってチャールズ2世とカタリナ王女との結婚を知っていたということですが、飽くまでも政略結婚だと思えば、カタリナがカトリックの国の出身者かどうかは江戸幕府にとってはあまり関係なさそうにも思え、どうでもいいような気もしますし、対日貿易の独占を狙うオランダが、カタリナ王女との結婚をことさらに大袈裟に取り立てて徳川幕府を煽ったという一面もあるのではないかという気がしなくもありません。一方で、カトリック宣教師たちは実に熱心かつ勇敢に日本に渡ってきていますので、カタリナ王女を通じてイギリスに渡りがつくのなら、それをツテにしてやはり日本上陸を狙う可能性も確かにあり、カトリックを「完全に排除したい」と考えるならば、江戸幕府の判断は妥当なものだったのかも知れません。

その後、イギリスはインド経営に軸足を移すようになり、日本からインドネシアまでのラインはオランダが握るようになりますが、情勢はゆっくりと逆転してゆき、19世紀に入るとナポレオンがオランダを自身の版図に組み入れることによってオランダに対するハプスブルク家の影響力が排除されるようになり、反ナポレオン勢力がイギリスにオランダの海外植民地の接収を依頼し、イギリス船籍のフェートン号が長崎に姿を現すというフェートン号事件が起きます。

1600年代は戦国時代の名残もあってか江戸幕府は強力で、イギリスの船を一方的に拒絶することができましたが、フェートン号事件では防衛担当の藩兵や長崎奉行所の役人が右往左往しており、時代の変化を感じさせられます。

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ナポレオンの棺

フランスのパリのアンバリッドは元々は退役軍人が生活するために準備されたものですが、今は軍事博物館などが置かれた公開の場になっています。馬関戦争の時に長州藩から鹵獲した大砲も展示されているとのことなのですが、私が訪れたときは気づくことができませんでした。(残念!)

しかし、ここで誰もが関心を惹かれるのはナポレオンの棺なのではないかと思います。1821年にセントヘレナ島で亡くなり、後に遺体が掘り返され、1840年にフランスに送られ、この写真のような巨大な棺に納められます。空気の流れはほぼないでしょうから、今もそのままの状態で遺体が残っているかも知れません。

とはいえ、1821年に亡くなって1840年に現在の場所に安置されたのだとすれば既に20年の歳月を経ているわけですから、白骨化していると考えるのが自然です。しかし、掘り返された時は遺体にほとんど劣化が見られなかったことから、現在もヒ素による暗殺説がまことしやかに囁かれています。ヒ素は遺体の保全に効果があるため、イギリスがナポレオンを暗殺したのだとも、ある説ではナポレオンが最後の日々を過ごした建物の材料に使われていたのだとも言われています。

ナポレオンは最後の日々は人生に対する無力感や大西洋の孤島で暮らすことへの心労が激しかったとも言われており、また、亡くなる直前にスケッチされた彼の絵からは相当にお腹が膨らんでいることから、肝硬変を患っていたとする説もありますが、公式には胃癌だったということになっているようです。

あるいは、肝硬変と胃癌の両方を患っており、更にヒ素をもられたということもあるかも知れません。

不世出の天才で栄誉栄華を極めた人物の最期がかくも悲しいものだったということは、人生とは何かについて考えずにはいられません。ナポレオン本人の場合は、いわば、自分が負けたのだから仕方がないという考え方もできるかも知れませんが、一緒に島流しにされた側近たちの心情は非常に辛いものだったに違いありません。

ちなみに、ここの博物館では第二次世界大戦に関する展示も多く、当時の日本でルーズベルトのことを故意に怖そうに描いた漫画雑誌の表紙も展示されていましたので、写真に収めてきました。
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(写真は二枚とも筆者がフランスを訪問した際に自分で撮影したものです)