ナポレオン三世と徳川慶喜



幕末の日本はイギリス人のグラバーの支援を受ける薩長同盟軍とフランスが肩入れしている徳川軍とに分かれ、英仏の代理戦争が日本で行われたかの感があります。

特にフランス公使のロッシュの場合、国の方針を越えて徳川慶喜に個人的に相当肩入れしていたらしいと言われています。ロッシュは徳川慶喜にフランス産の馬を送った他、ナポレオン三世からの贈り物として皇帝服も送られており、慶喜が皇帝服を着て撮影した写真も残されているほどです。また、幕府はフランスから240万ドルの支援を受けて横須賀製鉄所の設立の計画にも着手しており、ここだけを見ると徳川幕府とフランス公使のロッシュとの関係は相当な浅からぬものであったと考えるべきでしょう。

ナポレオン三世は世界中に影響力を及ぼす壮大な構想を描き、クリミア戦争でも辛うじて勝利した側につくことでいけいけどんどんではありましたが、アルジェリア植民地政策の強化、中国、ベトナムへの侵略的進出、メキシコへの出兵など野心に燃えた人物であり、ナポレオン三世と深くかかわると、下手をすると日本にも口実をつけて大量に兵を送り込み植民地にしてしまおうという野望をもち、しかもそれを実行しかねないという懸念のある人物でしたので、ナポレオン三世から大金を借りることは日本にフランスの橋頭保を築かせる格好の口実にすらなり得、なかなか楽観できるものではありませんでした。

ただ、徳川慶喜が完全にロッシュべったりだったかと言うと怪しい点が残っており、大政奉還後に薩長による武力的京都占領に伴い、大坂に撤退した徳川慶喜でしたが、大坂ではロッシュとだけでなくイギリス公使のパークスとも面談し、「今後も日本の外交を司るのは自分だ」と宣言しています。そういう意味では慶喜はフランス一辺倒というわけではなく、イギリスともある程度わたりをつけた等距離外交を目指していたと見ることもでき、イギリスに対して意地悪な見方をするとすれば、薩長に肩入れしつつも、勝ち馬に乗るために幕府と薩長の両方と気脈を通じていたという言い方もできるのではないかと思います。

勝海舟の回想によると、江戸開城について西郷隆盛と話し合った際、慶喜の助命をどうしても西郷隆盛が受け入れない場合にはイギリス公使パークスの手引きで徳川慶喜をイギリスに亡命させる手筈を整えていたということですから、いざいよいよという時には、ナポレオン三世よりはイギリスの方が信用できると踏んでいたのかも知れません。

当のロッシュは慶喜の江戸帰還後も徹底抗戦を訴えており、それは単にナポレオン三世の意図というものだけでなく、個人的に慶喜への親愛の情が強かったからだともいわれています。慶喜はフランス式陸軍連隊を創設させており、ジュール・ブリュネというフランス人軍事顧問は函館戦争まで旧幕府軍と行動を共にしていますので、利害だけでなくもうちょっと親愛の情で幕府とフランスが結ばれていたという可能性も捨てきれません。

徳川慶喜に結構、肉迫していたともいえるナポレオン三世ですが、肩入れしていた江戸幕府は潰れる、メキシコに置いた傀儡皇帝のマクシミリアンは殺される、挙句の果てには普仏戦争で自身が捕虜になってしまい、国民の支持も失った彼はイギリスに亡命して晩年を送ります。

ナポレオン三世はそういう意味では武運があまり味方していない人で、自分がプロイセンと戦って捕虜になり失脚しただけでなく、メキシコ皇帝として担いでいたハプスブルク家の血を引くマクシミリアンは最期には銃殺されており、かかわった人はことごとくエライ目に遭わされているという印象が強いです。徳川慶喜の場合は水戸で謹慎させられ、その後は静岡県でおとなしく隠居生活をさせられることになりますが、ナポレオン三世と手を結んだ人のわりには穏便な余生をそういことができたと言うことができるかも知れません。

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