映画『ゲッベルスと私』を観て愕然とした件

岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリーを観た私は愕然とした。ゲッベルスの「元秘書」とされる女性は、敢えて言えば平凡な人だという印象を受けたので、そのことでは愕然とすることはなかった。ただ、映画の作り手は証言と交互して様々な史料映像を挿入しており、それらの映像の凄惨さに私は愕然としてしまったのだ。

特に私が恐怖を感じたのは、アメリカ軍によるナチスが作った収容所内のガス室の検証映像だった。ガス室の壁には人の手の跡やひっかいたような跡が無数に残されていた。それらはそこで殺された人たちが最後の瞬間にもがき苦しんだか、なんとか脱出生き延びようとしたか、或いはその両方が起きたことを、しかも繰り返し繰り返し起きたことを示していた。

私は以前、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス(ヒトラーの副総統でイギリスにパラシュート降下した人物とは別人)が書き残した手記を読んだことがある。ルドルフ・ヘスはもちろん戦後に処刑されたが、人の歴史で最もたくさん人を殺した男であり、今後も、少なくとも私が生きている間に同じことをする人は現れないだろうと思う、というか思いたいのだが、私がガス室について具体的に知っていることは限られていて、ルドルフ・ヘスの手記に拠れば、シャワーを浴びるという理由で閉じ込めた人々を彼は見下ろすことができる位置に立っており、人々は彼を見た瞬間、やはり騙されて殺されるのだと知り、憎悪と怨みの叫びを上げたということらしかった。彼は何度となくそこに立ち、怨みながら死んでいく人たちを見たことになる。私のガス室に関する知識はこの程度のものでしかなかった。

今回、この映画を観て、壁に残された無数の手の跡は、当時の状況をより具体的に私に教えてくれるものになった。恐ろし過ぎて愕然としてしまったのである。

一方で、ゲッベルスの元秘書とされる女性は、ナチス政権誕生から敗戦の少し前の時期に至るまで、それなりに生活をエンジョイしていたことを話している。恋人がいて、ゲッベルスの演説にしびれ、宣伝省の給料の良さに満足していた。そしてホロコーストが行われていたことを「知らなかった」と彼女は言い切り、「私に罪はない。ドイツ全国民に罪があると言うのなら別だけれど、自分たちが選んだ政権なのだから」と述べる。民主主義の手続きを踏んでナチス政権は誕生したため、有権者全員にそれなりの責任はあると言えるが、選んだ政権が悪いことをした場合の有権者の責任は限定的で観念的なものだ。日本の首相が失政をやらかした場合に、有権者の責任を問うのは限界があるのと同じだ。

だが、この映画では、彼女のそのような証言と交互に凄惨な映像が挿入されるため、「知らなかったで済むのか?」という疑問を抱くように構成されている。知らなかったから悪くないと言うには、事態はあまりに重大すぎるからだ。アメリカ軍がドイツ市民向けに作ったフィルムも挿入されており、そこでは「知っていたのに止めなかった責任」を問うていた。私個人の想像になるが、あれほど大規模に熱心に継続的に行われていたのだから、多かれ少なかれ、憚れるようなことが行われていたことには気づくのではないだろうかと思う。現代でも自分の属する組織がどういう状況なのかということは私のような下っ端でも何となくわかることもあるし、噂も流れてくる。そのため、彼女が「知らなかった」と言い切ったとしても簡単に信じることができない。尤も、彼女の証言を嘘だと言い切るだけの証拠を私が知っているわけでもなんでもないのだが。

以下は全て私の想像になるが、彼女は何十年もの間、何度となく記憶を整理し、反芻し、自分の受け入れやすい物語を作り上げたに違いないという気がする。人は誰でもそうするので、彼女もそうせざるを得なかったに違いない。彼女は戦争が終わってから5年間抑留されていたと述べていた。その5年間は屈辱的な経験、人に話せないような酷い目に遭わされたであろうことも想像はつく。そのため、戦争が終わる前の記憶がより美化され、それなりにエンジョイできたという物語が形成されたのではないだろうか。彼女の本音は、ホロコーストに直接かかわったわけでもないし、戦争の意思決定に加わったわけでもないのに、5年も抑留されて酷い目に遭わされた。充分に責任は取った。というところにあるのではないだろうか。これはとても難しい問題で、責任がどこまで及ぶのか線引きができる人はいないだろう。そのことについては、今後、私も反芻して考えることになると思う。この映画を観てしまったら、考えないわけにはいかない。

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映画『イーダ』のおばさんの罪と罰

ポーランド語の映画『イーダ』は、修道院でつましく禁欲的な生活を送るイーダという若い女性が元検察官で裁判官の親戚のおばさんに呼び出され、修道院長の許可を得てイーダは世俗の世界を見て、考えようによっては人間的な成長をし、修道院の世界へと帰っていくという作品だ。

イーダが実はユダヤ人で、家族の大半がナチスのホロコーストによって失われたという事実と、イーダが酒とたばこと男を覚えてそれでも修道院への生活へと帰っていくというシークエンスに注目してしまう作品なため、おばさんのことが少し霞んでしまうが、そもそもイーダが酒とたばこと男を試してみるのもおばさんに影響されてのことなので、作品理解の上で絶対に外せないのがこのおばさんの存在だと言える。

おばさんは超絶エリートで検察官を経て裁判官にまで上り詰めるが、酒浸りでたばこはいつもふかしているし、男癖も悪い。なぜかくも社会的に成功した人物がそんなだらけた生活に堕ちてしまっているのかについては大きく二つの理由が存在する。一つはホロコーストの結果、息子が行方不明なことと、政治犯を二度死刑に追い込んだことが彼女を苛んでいる。

彼女はイーダを連れて息子の行方を確認する旅をするが、やがて詳細が明らかになり、息子の遺体が埋められた場所も確認し、生きているとも死んでいるとも知れなかった息子がやはり、予想されたこととは言え、死んでいたことがはっきりし、自ら死を選ぶ。もし、息子の死を確認したことからの絶望感により彼女は死を選んだのだと考えるのだとすれば、それは少しだが作品理解が充分だとはおそらく言えない。彼女は政治犯を二度、死に追い込んでいる。息子が生きていないことを確認した後、彼女はおそらく自分が死に追い込んだ政治犯と息子にどのような違いがあるかを考えたのではなかろうか。息子が死んだ理由はユダヤ人だからという意外にはない。言うまでもないことだが、ユダヤ人であることは罪ではないし、ホロコーストは正当化できない。だが、政治犯の場合も、果たしてそれが死に値する罪だっただろうかと言えば、考え方の問題に過ぎないので、死罪は比較衡量の観点から言っても重すぎるに決まっている。つまり、理不尽な死を与えられたという意味で彼女の息子と政治犯は共通しているのである。彼女は、息子に死を与えた者は決して赦されないと考えたに相違なく、その帰結として政治犯に死を与えた自分も赦されざる罪を犯したと認識し、自らを裁き、死を宣告し、また自らそれを執行したのである。彼女は自分の息子を死に追い込んだものを非難する権利を担保するために、自分が政治犯を死に追い込んだ罪を引き受けたのだとも言える。そう思うと、この作品はイーダが主人公ではあるが、むしろおばさんの心境をどれだけ想像できるかによって理解が違ってくる作品なのだと言うことができるだろう。

おばさんが自ら命を絶った後、イーダはおばさんの来ていた服を着て、酒とたばこと男を試してみる。ホロコーストの結果、家族を失ったという点ではイーダもおばさんも間違いなく被害者なのだが、おばさんがずっとそうしていたように、酒とたばこと男でその心の苦しみから逃れ得るものなのかどうか、実験してみたと捉えるのが正しいのではないかと思える。そして彼女は酒とたばこと男のような享楽的な手段では解決できないと結論し、修道院の生活へ戻る方を選んだと説明できるのではないかと私には思えた。

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スタンフォード監獄実験で証明されたものは何か

スタンフォード大学で行われた有名な心理実験。学生アルバイトを集めて適当に看守役と囚人役に分け、看守役が囚人役に対して激しい罵倒を浴びせたり、理不尽なお仕置きをしたりを続けた場合、看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくという仮説を証明しようとした。一般に、看守役の囚人役に対する暴虐な態度があまりに酷く、予定の二週間を大幅に繰り上げて実験は終了したが、見かねて中止しなければならないほどに看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくことが証明されたとされている。

ナチスドイツがユダヤ人に対するホロコーストをなぜ成し得たか、なぜ起こり得たかについて考察手掛かりになるとも理解されているだろう。

だが、私はこの監獄実験について多少の情報を集めてみた結果、看守がより看守らしく、囚人がより囚人らしくなるということは全く証明されなかったのではないかと思える。なぜなら、囚人役はあまりに耐え難い場合はドロップアウトすることが認められ、ドロップアウトしない囚人役はアルバイト料をもらうために囚人役を続けていたに過ぎず、看守が看守に徹し、囚人が囚人に徹することができた理由は、繰り返しになるがアルバイト料をもらえるという相応の理由があったからだ。

たとえある人物が有罪判決を受け、自分もその罪を認めている場合、監獄に閉じ込められることには相応の理由があるということを本人も理解しているため、囚人らしい行動を要求された場合、それに応じるだろう。囚人役の学生がアルバイト料のために囚人役をするのと同じである。看守も仕事である。

従って、この実験はナチスドイツがホロコーストを成し得た理由の証明にはならないのではないかと私は思う。ホロコーストの犠牲者は、相応の理由がないにもかかわらず、犠牲になった。ホロコーストの実行者は相応の理由がないと知りつつ、実行したのだから、スタンフォード監獄実験では説明のつかない全く異質な現象だったと考えるべきなのではないかと私には思える。

翻って言うと、スタンフォード監獄実験は、相応の理由がなければ人は囚人に徹しないということを証明したと言うこともでき、ナチスドイツのホロコーストは全く次元の違う視点を持たなければ説明できないということを証明したのではないだろうか。私が過去に見聞した範囲で言えば、ホロコーストという現象の一端を一番よく説明しているのは『ファニア歌いなさい』という映画だと思う。繰り返しみたいとはとても思えないトラウマ映画なため一回観ただけの感想にはなるが、別次元で人が壊れていく様子が描かれていると感じられた。私見です。

プライベートライアンと捕虜の問題

スピルバーグの『プライベートライアン』という映画では、主要な話題の一つとして捕虜をいかに処遇するかという問題が描かれている。

何度か観れば気づく(一回観ただけで気づく人もいるかもしれない)のだが、降伏の意思を示したドイツ兵、または戦闘意欲を失ったと見られるドイツ兵に対し、躊躇なく銃弾が浴びせられ、殺される場面が複数回映画の中で登場する。それは画面の端の方で起きていたり、短い時間しか割かれていないため、見落としがちなことだと思うのだが、作り手は当然、意識して気づく人には気づくようにそれを入れ込んでいると私は思っている。

単にそのようにさりげなく入れこまれているだけではなく、ライアン二等兵を探しに行く小部隊が敵と遭遇し、銃撃戦の末に一人のドイツ兵を捕虜にする場面がある。部隊員たちは戦闘直後で戦友を失ったこともあり気が立っていて、ドイツ兵に対する強い殺意を持っており、自分の墓穴を掘らせるということまでしている。自分のための墓穴を掘らせるのは、捕虜に対する侮辱行為とも言えるので、この段階で既に国際法違反の疑いは濃厚なのだが、墓穴を掘らせるということは、その後の処刑を暗示するのに充分であり、それもまた国際法違反になるはずだが、もし本当に命を奪えば疑いなく国際法違反である。しかし、小部隊と捕虜一人なのだから、密かに始末したとしてもバレる可能性は低い。先に述べたように感情的には激しい憎悪を抱いているのだから、展開としてはこのまま殺すのだろうか?という疑問を持ちつつ観客はことの推移を見守ることになるのだが、通訳として参加していた兵士が隊長のトムハンクスに国際法の順守を強く主張し、トムハンクスもそれも確かに言えているという感じで処遇に悩む姿が描かれる。現実的な問題としても数名の小部隊なのだから捕虜を管理する能力を備えているわけではなく、前進しなければならない任務も負っているため、捕虜の後送も現実的ではないし、捕虜が自分で歩いて連合軍の後方の基地へ向かい投降することは考えにくい。戦友が殺されたことへの憎悪がある一方で、捕虜は命乞いをしており、命乞いをする捕虜の命を奪うことは、人間的感情の面からも受け入れがたい。という悩ましい状況に陥るのである。

結果、トムハンクスは捕虜の解放を決心し、目隠しをしてこのまま1000歩まっすぐ歩いてここから立ち去れという指示を出し、命からがら助かった捕虜は言われた通りにして姿を消す。だが、当該のドイツ兵は改めてドイツ軍に復帰し、トムハンクスの部隊と交戦する。このドイツ兵は頑強な兵士として描かれており、なかなかに強く、トムハンクスの部下も倒すし、銃撃でトムハンクスをも倒す。国際法の順守を訴えた通訳兵とも遭遇するのだが、ドイツ兵にとっては命の恩人でもあるので、通訳兵のことは見逃し、彼は戦闘を続行する。戦況的にはドイツ軍優位で進むように見えるのだが、終盤になって連合軍の航空戦力が応援に駆け付け、ドイツ兵は抗戦不可能を悟り、降伏する。通訳兵はそもそも戦闘に参加するだけの勇気がなく、隠れていたのだが、この時になってドイツ兵の前に銃を向けて登場する。ドイツ兵は命を助けてもらった恩義があるので、親愛の情を見せようとするのだが、彼がトムハンクスを倒すところを物陰から見ていた通訳兵は、そのドイツ兵を撃ち殺す。既に投降の意思を見せている以上、明白な国際法違反であり、戦争犯罪だ。

だが、映画の全体の構成から言えば、命を助けたドイツ兵が隊長のトムハンクスを倒したのだから、「弱虫」の通訳兵が勇気を振り絞ってついに自分の意思で立ち上がり、隊長の仇をとったことがある種のクライマックスとして描かれている。

このような映画の構成から我々は何を読み取ることができるだろうか。複数回登場する、無抵抗のドイツ兵の殺害場面には一切の情けは感じられない。そしてそれを批判する論調も映画からは感じ取れない。また、命乞いをするドイツ兵が結果としてトムハンクスを倒したという事実は、情けをかけた相手に仇で返されたとも言え、通訳兵が飛び出して来てそのドイツ兵を倒すことが英雄的な場面として描かれているということを考えれば、私には結論は一つしかないもののように思える。即ち、ドイツ兵と言えば国際法的にも認められた正規の兵士とも言えるが、ナチスまたはその協力者である。そして、ナチスに情けは一切無用という問答無用の信念をスピルバーグが持っているということではないかということだ。ドイツ兵に国際法は無用ということだ。

スピルバーグはユダヤ人で、幼少年期には収容所から生還した人から腕に刻まれた囚人番号の入れ墨を見せられるなどの経験をして育ったと読んだことがある。そのため、ナチスを批判的に描くことには積極的であり、決して情けをかけようとはしない。たとえばインディジョーンズでドイツ兵はわりとよく登場するが、彼らが人間的な要素を持っているという描写は絶対にないし、インディジョーンズ本人も彼らは殺してもいいという確信を持っていると言ってもいいように思える。『シンドラーのリスト』では、ナチス党員でありながらユダヤ人の命を救ったシンドラーを顕彰している面はあると言えるが、道楽で人助けをしたことへの後悔を号泣するという形で表現しており、たとえシンドラーであっても完全に免罪されるとは言い難いという思いがスピルバーグの内面にはあるのではないだろうかと私には思える。

もちろん、私もナチスドイツには賛成しないし、ホロコーストは当然に批判されなくてはならないし、それは徹底批判されて当然であるとも思う。なので、スピルバーグの作品作りに異論はない。先日『ターミナル』を観て、私は爆笑し、感動した。スピルバーグは天才だと思った。『ターミナル』もまた、主人公は亡国の民である。スピルバーグの作品を掘り下げて考えれば、常にそこに辿り着いていくのかも知れない。日本はナチスと同盟していたことがあったが、『太陽の帝国』では日本人を人間的に描いてくれているので、そういったことには感謝したい。

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シンドラーとファニア

ナチスによるホロコーストに関する映画はたくさんある。ただ、今後の世界に語り継がれ、観続けられる映画をその中から選ぶとすれば『シンドラーのリスト』と『ファニア歌いなさい』ではないかと思える。二つの映画はともにホロコーストを糾弾することを目的とした映画だが、作り方は全く違っている。『シンドラーのリスト』では恐ろしい場面は多く登場するが、『ファニア歌いなさい』ではそのような場面はそう多くはない。しかし、映画を観た後により強い恐怖が頭の中に残るのは、『ファニア歌いなさい』ではないかという気がする。

『シンドラーのリスト』は分かりやすい。スピルバーグはナチスに対して容赦がない。一切の敬意を払う必要がないと彼はきっと考えているはずだし、『プライベートライアン』では降伏の意思を示したドイツ兵が殺害される場面が複数回あるが、スピルバーグが意図的に入れていることは間違いないと確信できるし、それが国際法違反だとしても、だからどうした?という彼の意思を感じる。ナチスは国際法によって守られる必要すらないと確信しているのではないかと私は思う。そのため、インディジョーンズも含んで、スピルバーグの描くナチスは単純であり、分かりやすく、簡単に言うと敢えて幼稚に描いている。いい年をした大人であっても人間的成熟ができておらず、総じて愚か者である。だからなのか、『シンドラーのリスト』には文脈がある。ナチスの人間に聡明さや成熟、人間的な愛情、そういったものは一切ない。ナチス党員もシンドラーも幼稚な人間である。ただ、シンドラーに限ってはホロコーストからユダヤ人を救ったという功績があることは認めるので、ある程度免罪する。ただし、映画の最後で号泣しなければならない。ざっくりとにはなってしまったが『シンドラーのリスト』には、そういう文脈があるので、観客はこの映画が何を言いたいのか理解することができる。

一方の『ファニア歌いなさい』にはそういう文脈がない。あらゆるステレオタイプが破壊されているので、観客は誰に感情移入していいのかも分からなくなっていく。強制収容所に入れられている人間の中にも碌でもないのがいて、小さな利益のために平気で人を裏切る。しかし、そのような心理が働いてしまうことが観ている側にとっても全く理解できないわけではない。強制収容所に入れられていた人たちは被害者であることに違いはないが、被害者の中でも加害者になる側を選ぶ人間が出てくる。この段階で、すでに二時間余りの長さの映画としては難解になってくる。描かれるドイツ人の姿もこの映画をより難解にしている。女性ナチス将校は、囚人から幼い子供を奪い、その子を慈しみ、愛し、育てようとする。この段階で既に難解である。ナチスの医者も登場するが、真面目であり、教養人であり、そして普通のおじさんである。アイヒマンを連想しなくもないが、ドイツという豊かな音楽と哲学を育んだ教養深い人々の住む国で、ナチスが台頭したという事実が如何に難解なことなのかをこの映画は敢えて描こうとしたのではないかとも思える。従って、台詞のやりとりにはそれぞれ意味はあるに違いないのだが、総じてバラバラであり、まとまっておらず、登場人物たちはただ、頭に浮かんだことをそのまま口に出しているだけで、正しいまとまりのある意味を持った言葉のように受け取ることができない。観続けるに従い、意地の悪いクロスワードパズルの答え合わせをしているような心境になってくる。若い女性たちが栄養視聴で痩せ細り、頭を剃られ、楽器の練習をしたり、お葬式をしたりする姿は異様であり、これが実話に基づいているということを思い出し、改めて恐怖が深まる。収容所に入れられている人たちに人間性と狂気の両方があるのと同様、入れる側のドイツ人にも人間性と狂気の両方がある。しかもそれは相互に描かれるのではなく、同時に描かれる。一緒くたになっていて、作品は観客に苦しむことを要求している。私も苦しみながらこの映画を観た。私は日本人なので、自分の祖父母の世代がアドルフヒトラーと同盟していたことを残念に思う。その残念さが加わることで、私の混乱は深まったし、映画が終わった時、私は自分が愕然としていることに気づいた。

『シンドラーのリスト』を観れば涙が出る。『ファニア歌いなさい』は愕然とする。もし、いい映画の条件の一つが、観客に考えこませることだとすれば、『ファニア歌いなさい』の方がいい映画なのかも知れない。もちろん、二つの映画作品に優劣をつけることは好ましいことではないのは当然なのだが、私の文章力ではこのようにでもしなくては自分が受けたショックを整理できないのだ。

私は最近、何度か繰り返し『この世界の片隅に』を観て、その都度愕然とした。なぜ愕然とするのか自分でもよく分からなかったのだが、繰り返し観ることで、多少は整理ができてきた気がするので、機会を見つけて書いてみたい。