アニメ映画『GODZILLA-怪獣惑星』のやれることは全部やってる感

アニメ版の『GODZILLA-怪獣惑星』は、とにかくやれることは全部やってる感が強く、私はなかなか満足することができました。まず第一に「終末後」の世界という設定がなかなかいいように思えます。過去、ゴジラは何度となく日本列島に上陸して来ましたが、人間サイドが多大な知恵と努力を注ぎ込み、原則的にゴジラは撃退されてしまいます。赤坂憲雄先生が指摘していらしたようにゴジラは太平洋で戦死した日本兵のメタファーであるとすれば、日本人が繁栄を楽しみ俺たちのことを忘れるということは受け入れがたいと異議申し立てをするかのようにして上陸してきたとしても国土を完全に破壊し尽くすことなく、皇居を破壊することもなくギリギリのところでゴジラは撤退せざるを得なかったと言うことになります。ゴジラは終末的危機をもたらすことはあっても終末は必ず回避されていたわけです。

ところが今回の作品では、ゴジラをして地球の頂点に立たしめ、なぜかわからないが狙い撃ちされる地球人は大急ぎで地球を撤退。あてどない宇宙への放浪の旅に出ます。時代は既に終末後になっています。地球人を宗教的に支えている宇宙人が登場しますが、背の高い美しい金髪の人々で、オカルトの世界では金星人などの宇宙人はブロンドの美少女などの説がありますから、そういった都市伝説も入れ込みつつ、主人公の榊大尉はイケメンで、彼を慕う部下にはきちんと美少女が配されており、キャラ設定にもぬかりないといった感じです。IT技術があほみたいに進歩していて宙に画面が浮かび上がりAIのおかげでいかなる複雑な状況も瞬時に分析可能です。人々がとるものもとりあえず避難宇宙船にはスタートレックや2001年宇宙の旅、またはスペースコロニーを想起させるものがあり、再び意を決してゴジラと対決する人類の武器はモビルスーツならぬパワードスーツで、要するにイケメン、美少女、陰謀、勇気、未知のテクノロジーなどが詰め込めるだけ詰め込んであり、地球で人が頂点に立てないというのは猿の惑星みたいな感じもありますから、そういう要素も取り込んで、作り手がやりたいことは全部やっている、やれることは全てした感に溢れています。ゴジラ撃滅を企図して上陸した地球の地上はもはや得体の知れない植物と有毒がガスで満ちており、もはやナウシカといった様相すら呈しています。更に言うと一体しかいないはずの強敵ゴジラを倒したら、次にもっとでかいラスボス風ゴジラが登場するというのは、永遠にもっと強い敵が出てくるドラゴンボールみたいな感じになっていて、アニメファン、SFファンともに楽しめる内容になっていると思います。

さて、この三部作の続きが果たしてどうなるのか、ここまでいっぱいに広げた風呂敷をどうやってしまいこむのかに注目せざるを得ませんね。



映画『ダンケルク』とゴジラ

第二次世界大戦では、前半では枢軸国側の圧倒的優位に物事が進んで行きます。近代戦争は「資本力」が物を言いますから、冷静に考えれば資本力に劣る日本・ドイツが、世界一金持ちのトップ2を争うアメリカ、イギリスと戦争して勝てるわけはないのですが、少なくとも前半に於いては気合や戦術、集中力みたいなもので枢軸国が圧倒し「もしかしたら、日独が勝つかも」という幻想のようなもの、または不安のようなもの(立場によって違うでしょう)が世界に広がっていったと言えます。

そのドイツ圧倒的優位を象徴的に示すとともに、ゆくゆくはドイツの敗北をも予言することになった戦いが、ダンケルクの戦いです。フランスのダンケルク海岸に英仏が追い詰められ、逃げ場がなくなるわけですが、ドイツ軍がじわじわと包囲網を縮小していく中、海を渡ってイギリス側へと撤退する、史上最大規模の撤退戦であったとも言えます。ドイツ軍にとっては包囲戦で、英仏軍にとっては撤退戦なわけです。

で、ダンケルクの戦いでのイギリスまでの撤退作戦をダイナモ作戦と呼ぶわけですが、映画『ダンケルク』では、この撤退戦の難しさ、厳しさ、そして最後の鮮やかな成功を描いています。この映画をみて気づいたのは、英仏にとっての敵であるドイツ兵が全く、ほぼ完全に登場しないことです(最後にちらっと物語の展開上、やむを得ず、人影程度に、個性を感じさせない程度にドイツ兵が映りますが、それだけです)。

過去、第二次世界大戦関連の映画は何度となく制作され、とりわけドイツ軍の将兵を如何に描くかというのが演出の腕の見せ所のような面があったように思います。たとえば『バルジ大作戦』では、ナチスが理想とした金髪の沖雅也みたいに顔立ちの整った将校と、彼の身の回りの世話をする老兵の姿は、それぞれに個性を持ち、人間的感情を持っていることを表現することに演出サイドは力を入れていることが、一回でも見ればわかります。ナチスの将兵は時に冷酷に、時に人間的に、時に滑稽に、場合によっては優しい人として描かれたことも少なくはありません。どのように描くかは、演出の考え方次第ですが、ナチスという強烈なイメージを残した歴史的事象であるだけに、腕の見せ所でもあったと言えます。

ですが、ダンケルクでは彼らの姿は先ほど述べたように、ほとんど描かれません。ドイツ軍の飛行機は出てきます。Uボートも話題としては出てきます。ドイツ軍の砲弾の雨あられは描かれます。そのようなメカニックなものはふんだんに描かれるわけですが、人間としては登場しません。

このような演出には、実際には見えない敵が迫っているという不安を表現するのに効果があるように思えますが、敢えて言えば、ジョーズやジェイソンのような得体の知れない存在、日本の場合で言えば人間ではない敵という意味でゴジラのような素材としてドイツ軍を使っているという見方もできるのではないかと思います。尤も、ゴジラは鳴き声に哀切が籠っており、既に指摘されているようにゴジラは南太平洋で死んだ日本軍将兵たちのメタファーと捉えられるのが一般的ですから、ゴジラが必ずしも相応しいたとえではないかも知れないのですが…。

さて、ゴジラをたとえに出すのが正しいのかどうかはともかく、私はこの映画が戦争映画として成り立つのだろうかという疑問を若干持ってしまいました。戦争映画は敵と味方がそれぞれに人間であると描くことに、ある種の見せ場のようなものがあるのではないかという気がしてならないからです。ガンダムでも人気があるのは連邦軍よりもむしろザビ家の人間関係やシャアとセイラの兄妹愛の方にあるように思えますし、『スターリングラード』では冷酷で凄腕なドイツ軍将校が最後に負けを認める際に帽子を脱いで死を受け入れるというある種の騎士道精神を挟み込んでくるわけですし、『風の谷のナウシカ』でもクシャナの人物像は大きなウエイトを占めているわけです。

そう考えると『ダンケルク』という映画は戦争映画ではなくアクション映画なのではないか、或いはある種のサイコホラーなのではないかと言う気がします。それが悪いというわけではありません。確かに見応えのある映画ですから、一回は見てもいい映画だと思います。ただ、戦争映画としてはちょっと物足りないかなあと思ってしまいます。



ゴジラと能

能の演目に『鉄輪』というものがあります。

京都の北東にある貴船神社に丑の刻参りを続けた女性が、神職から「三本の足のある鉄輪を頭につけ、火をともすと鬼女になって復讐を達することができる」との「神託」を得ます。夫が他の女性と一緒になり棄てられたことへの怨念を晴らすため、女性は鬼の形相になって舞台に姿を現します。

前の妻から呪われている夫は「最近夢見が悪い」と陰陽師の安倍清明に相談すると、清明は「呪われているので今夜にも命を失う」と告げます。助けを求められた清明は陰陽の術を用いて鬼女を撃退するという内容です。

鬼女は「また時機を得て目的を果たす」として立ち去って行きます。

私はこの物語の存在を知った時、最初に頭に浮かんだのはゴジラでした。赤坂憲雄先生が『ゴジラとナウシカ』で、ゴジラは太平洋戦争で戦死した日本兵たちだという指摘をしていたのを思い出したのです。赤坂先生は天皇と戦死した兵士の対立軸を述べておられますが、私にはそこまで踏み込んだ解釈をするべきかどうかは判断できません。

いずれにせよ、平和と繁栄を楽しむ人々に対して「このままでは済まさない。忘れたとは言わせない」という兵士たちとゴジラの哀切な鳴き声を重複させてみることは充分に可能というか、説得力があると思いますし、私の母方の祖父はサイパン島で戦死していますので、単なる歴史解釈を超えて心に響くものがありました。

能の『鉄輪』の物語の鬼女もまたゴジラと似た叫びを抱えています。新しい妻と楽しくやっている夫に対して「このままでは済まさない。忘れたとは言わせない」という気迫を漂わせます。

ゴジラが東京で撃退されるのと同様に、鬼女は清明の術により撃退されますが、観客の側には一抹の拭い去れない消化しきれない感情が残ります。本当にこれで「めでたしめでたし」なのかという疑問が残ります。ゴジラがもし戦死した日本兵を象徴しているとすれば、死者に対して「生きている人間をわずらわさないでほしい。我々は今を生きて幸福に暮らしたいのだ。思い出したくない過去のことはなかったことにしたいのだ」として生を続けることへの罪悪感かも知れません。また能の『鉄輪』の場合では、前の妻の恨みや言い分はもっともなことであり、とりあえず夫の今の生活を守るというのは理解できるとしても、それで正しいと済ませることには抵抗を感じます。或いは観客の中には身に覚えのある人もいるかも知れませんし、そういう人にとっては『鉄輪』の内容は身につまされるものに違いありません。

「荒ぶる神」は古今東西にその例を見ることができます。ユダヤ教の神はいけにえを要求し、時にはヤコブの息子までをもいけにえとして差し出す覚悟があるかを問うてきます。古事記であればヤマタノオロチが出てきますし、ヤマタノオロチを退治するスサノオもまた高天原では荒ぶる神の役割を負っています。

クレタ島のミノタウロスや古代マヤ帝国でのいけにえの儀式など枚挙にいとまがないかも知れないほどですが、池澤夏樹さんの『マシアスギリの失脚』で登場する巨大で貪欲な水棲生物はそのような荒ぶる存在の心の中の哀しみも描いており、言うなれば人は今の生活を優先するために過去の不都合なことを忘れることができる生き物であることで古今共通しており、その後ろめたい心理的な問題を処理するために荒ぶるものとその退治というプロットが各地で生まれて来たのかも知れません。そういう意味では荒ぶる神は同時に同情や憐みを必要とする存在であり、いけにえはその同情や憐みを実際に目で見える形で提示する役割だったのかも知れません。

ちょっとつらつらとした感じで結論らしい結論もないのですが、『鉄輪』という物語の鬼女の悲しみを考えるとゴジラを思い出したので備忘のために書いてみました。

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シン・ゴジラとナウシカ

赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ』の戦後

ゴジラは怖い存在ですが、切なく、悲しい存在でもあります。自分のネイチャーに従い、ただ上陸したいから上陸しただけなのに忌みものとして憎まれ、攻撃され、映画を終わらせなければならない関係上、撃退されます。ネイチャーに従っているだけなのに排除されるという意味では『リロ・アンド・スティッチ』と同じであり、一応、首都を狙ってやってくるという意味ではエヴァンゲリオンの使徒とも共通していると言えるかも知れません。実相寺昭雄監督のウルトラマンの怪獣たちが、ただ存在するというそれだけの理由で排除されるのと同様の哀しみを帯びた存在です。

『ゴジラとナウシカ』では、著者はゴジラは太平洋戦争で戦死した兵隊たちの化身だと指摘しています。死んだ兵隊たちのことを忘れ、復興に忙しい日本人に何かを訴えたくてゴジラとなり、敢えて東京を狙ってくるのです。それゆえにゴジラの鳴き声はかくも切実なのだとも言えるかも知れません。また、ゴジラは原子力を象徴しています。これはもはや言うまでもないことです。「原子力の平和利用」が説かれる中、過去を忘れるなかれとゴジラは訴えてきているとも言えそうな気がします。

著者はアメリカ版のゴジラのことも取り上げますが、決して日本人にとってのゴジラとは相いれないと指摘します。何故なら日本人には空襲の記憶があり、日本人にとってそれは東日本大震災と同じく無力に立ち尽くし言葉を失くす他ない体験と同じものであるのに対し、アメリカ人にとってのゴジラものは単なるSFや娯楽の類にすぎず、決してゴジラの秘めたメッセージを受け取る、または再現することはできないとの指摘です。

風の谷のナウシカに登場する巨神兵もまた原子力を象徴しています。漫画版のナウシカでは巨神兵はナウシカを母親だと信じて慕い、ナウシカは巨神兵に命じて新しいけがれなき人類の卵を破壊させます。けがれを背負って生きる。或いはけがれを持つからこそ命と言える、そういうメッセージがナウシカにはあると思いますが、もう一歩進めて言うならば、新しい人類の卵を破壊したナウシカはある種の原罪を抱えることになり、人という存在そのものを代表しています。

ゴジラと巨神兵はともに人の原罪を背負う哀しみと切なさを全身に刻まれた存在だということで共通していると言うこともできるかも知れません。

著者の赤坂憲雄さんの文章は透徹していて無駄がなく、それでいて情感に充ちていて美しいです。読みやすいのですらすらと読んでしまいますが、敗戦と東日本大震災を経験した日本人にとって軽々には片づけられない思いテーマを扱っていますので、読む側が意識して立ち止まり、考え、また読み進めるということをしなくてはいけません。こんな文章が書ける著者を素直に尊敬します。


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クシャナの後ろ姿

シン・ゴジラとナウシカ

夏休みの話題をさらったシンゴジラでしたが、おもしろかったです。ゴジラシリーズのことはよく知りません。白黒時代のものは、はっきり言うとリアルタイムでみた人以外にとっては多分しょぼいと感じるでしょうし、最近のものもわざわざみたいと思うことはありませんでした。テレビで放送されたのを何度かみたことがあるくらいです。

ただ、今回は評判があまりにいいので、観てきました。官邸内の会議の様子とか、部外者は絶対に見ることができませんから「ふーん、こんな感じなのかぁ」というのも収穫としては大きいです。自衛隊の動きのかっこよさときたら、ああ、庵野先生、実写でエヴァンゲリオンをやるってことですね。と思いましたが、見応えがあります。

現代の国内政治と国際政治をなるべくリアルに描こうとしているのは、むしろそういうのが観たいんだという人にとっては、ニーズに応えてくれていると思います。ドイツはいい国で、フランスは打算的、アメリカは諸刃の剣というスタンスで、「なるほど。なるほど。そういう見方になっているのか」という感想です。

ゴジラは伝統的に放射線の影響による突然変異体として登場します。今回もそうだたと言っていいと思います。子どものころ「ゴジラは放射線と一緒に襲いかかってくるアメリカを象徴しているんだよ」と聞かされたことがあり、どういうことなのか今一つよく理解できませんでしたが、今回のゴジラは原子力発電所を象徴してることは理解できました。

登場人物たちのチームワークと知恵によって、見事に問題がクリアされるのですが、問題解決までの経緯によって訴えられているのは日本人の核に対する本能的とも言えそうなほどの嫌悪感です。やっぱり日本は敢えて再び原子力エネルギーの開発なんかしなくてもいいのではないかなあと、そう思っている人はいいのではないかなあという感想を得ました。原子力を否定するメッセージを観て納得してしまう自分がいましたので、私も深い部分から原子力はよした方がいいと思っているのかも知れません。

原子力について警告を鳴らし、アメリカは諸刃の剣だと表現している部分はナウシカと共通しています。ナウシカの風の谷もトルメキアの集団安全保障の枠組みに入らなければ独立は保てませんが、その枠組みに入るとトルメキアの戦争を一緒にしなくてはいけません。瘴気が放射線を表しているのは言うまでもありません。

シンゴジラでは、アメリカの集団安全保障の枠組みから独立するというメッセージが強いです。日本のことは日本人が自分で決める。したがって、日本で生じた問題は日本人が解決する、という価値観が鮮明に出ています。難しい議論のあることなので、ここではこれ以上深追いしません。英語が下手で物怖じするという感じも出しません。『ブラックレイン』でガッツ石松が「英語がわかんねえんだよ」というような面白いことは起きません。堂々と渡り合う、という印象を観客に与えます。

東京の風景の再現がすばらしいです。『巨神兵東京に現る』を思い出します。『巨神兵東京に現る』がとても好きなので、2時間それをみせてもらえたような気分になれたのもとてもよかったです。

最後のスタッフロールのところでは、取材協力に小池百合子さんの名前があることを確認し、映画館を出ました。小池百合子さんの名前の隣には、枝野幸男さんの名前も出ていたと思います。小池さんには防衛大臣の仕事について取材し、枝野さんには震災対策の時のことを取材したのだろうなあと思います。