オランダ東インド会社とインドネシアの王たち

オランダが三百年にわたりインドネシアを「東インド領」として支配していたことは、わざわざ言うまでもない。インドネシアにはオランダ東インド会社、イギリス東インド会社がともに商館を所有していたが、1623年のアンボイナ事件でイギリス東インド会社の商館員たちはオランダ東インド会社の商館員たちによって皆殺しにされ、当該地域でのオランダの覇権が確立される。

徳川幕府はカトリックのスペインやポルトガルに対しては強い警戒感を持ち拒絶していたが、西欧の新教の国に対しては比較的寛大で、オランダは新教の国であったから交易も行っていた。イギリスはヘンリー8世が英国教会を創設した以降、新教の国の一つとして数えることができたが、徳川幕府がイギリスと交易しなかったのは一重にオランダによって駆逐されたからだと言える。ドイツ語圏の国やフランスはまだ東洋に進出するだけの実力はなく、結果として東アジアではオランダの一人勝ちの時代がしばらく続いた。台湾も一時植民地化されている。ついでに言うとなぜ徳川幕府が新教に対して寛大だったかと言うと、カトリックが東西両インドへの布教に熱心だったのに対し、新教は自分たちの信仰の自由さえ確保できればそれでよかったので、布教することに関心がなかったからだ。

さらについでになるが、東インドは本物のインドからインドシナインドネシアあたりまで。西インドはアメリカのこと。コロンブスがアメリカ大陸に辿り着いた時、喜望峰を通らない地球の裏側へ行くコースでインドに辿り着いたと信じたため、しばらくは東インドと西インドという名称が用いられるようになった。しばらくたって東インドから入って来る情報と西インドから入って来る情報があまりに違い過ぎて何かがおかしいということになり、アメリカがインドの西ではなく全く別の大陸だということに西洋人が気づくことになる。アメリゴ・ベスプッチという人物が西インドは新大陸だと指摘したためにアメリカと呼ばれるようになった。

今回、私が関心を持って述べたいと思っているのはオランダに支配されたインドネシアの王たちの物語である。インドネシアではオランダ支配が始まった後もオランダに忠誠を誓うスルタン王国が連立していた。インドネシアの普通の人々にとってはオランダとスルタンの両方の支配を受けていたということもできるし、オランダから見ればわりと支配しやすい間接支配というスタイルをとったということもできる。

これらの諸侯国はオランダ支配を受け入れ、子息をオランダに留学させるなどして積極的にオランダ化しようとした面もあるように見えるのだが、私の知る限り2人だけ例外がいる。探せばもっといるのだろうけれど、私が知っているのは2人だけである。

1人は1908年にオランダ軍によるジャワ侵攻の際に最後まで抵抗したクルンクン王国の王デワアグンジャンベ2世である。包囲された国王は最後の手勢とともに突撃し戦死したが、最期を見届けたで王族たちは集団自決をしたと言う。鎌倉の北条氏を連想させる壮絶な歴史の一幕とも言えるが、オランダのスルタンには敗れれば集団で自決するという考え方があったようだ。

もう1人はジョグジャカルタのスルタンであるハメンクブウォノ9世だ。第二次世界大戦が終わった後、日本軍は降伏していなくなり、再びオランダの支配が始まろうとしたが、一度オランダの敗退を見てしまったインドネシア人は以前と同じように従うということをよしとせず独立戦争を挑み、スカルノがその先頭に立った。各地の諸侯国のスルタンは依然としてオランダへの忠誠を誓い、独立戦争を妨害する立場をとったが、ハメンクブウォノ9世は独立に協力する立場をとった。おそらくはスルタンの多くがオランダの庇護の下で既得権を守ろうとしたのだと想像できるが、ハメンクブウォノ9世は世の中がどちらに動くかよく見極めができる人物だったのだろう。イギリスが当初オランダ支配の復活に協力していたが、途中であきらめて撤退しただけでなく、イギリスはマレーシアからもビルマからもインドからも引き上げて行くことになる。その姿を見て、ヨーロッパのアジア支配は終わるのだなと悟ったのではなかろうか。独立を果たしたインドネシアは共和国になったが、ジョグジャカルタのスルタンだけは現在に至るまで存続している。ハメンクブウォノ9世の戦略勝ちのような面があるように私には思え、やはり王とか君主とかという立場の人でもその立場に安穏とせず、時代の潮目を見る目を養う必要があるという際立った一例と言えるのかも知れない。今回の話題とは関係ないが、昭和天皇もマッカーサーを抱き込んだという点で潮目を見極めるのがうまい人だったとも私には思える。



昭和史63‐日本型植民地とオランダ型植民地

昭和15年8月15日付のとある情報機関の機関紙に、台北帝国大学の浅井恵倫教授がオランダの植民地政策がどういうものかを論じる原稿を寄せていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。この浅井教授という人がどういう人なのか検索をかけてみたところ、オランダに留学してライデン大学で台湾原住民の言語の研究で博士号を取得した人で、その後台湾で教授になり、戦後もしばらく中華民国のために台湾で仕事をした人であったことが分かりました。要するにオランダと台湾のプロということになりますから、オランダの植民地政策と日本の植民地政策の違いを論じるのにうってつけの人物と言えるかも知れません。で、当該の記事によると、オランダのような小国がどうしてインドネシアのような広大な地域を支配し続けることができているのかという点について、当該地域の王族を優遇し、王族を通じて現地の人を間接支配をしたからだということらしいです。このことについて、浅井教授の原稿では

王族を通じて一般土民(ママ)は自由に操縦され、飽くなき搾取に搾取は繰り返され、蘭印民衆の永久に立つことのできない様に、仕組んでしまったのである。その仕打ちたるや正に悪辣といふか、非人道的と言ふか、これを台湾の植民地政策と比較対照した時、まさに雲泥の差があるといはなければならない。そこには、東洋と西洋に於ける、自らの民族的見解の差があるのではあるが、一は精神的同化を目指し、一は物質的搾取を目的とする、東西の両極端をよく表現してゐるものと言へよう。

としています。日本帝国の敗戦後、日本の皇民化は内心の自由を奪おうとしたという観点から批判されるわけですが、当該の原稿では日本の植民地政策は精神的な合一、即ち愛情があるのに対して、オランダの植民地政策には単なる物理的な搾取があるのみで、現地の人を幸福にしようとか、そういうものは全然ないという批判をしています。

現代人の観点に立つとすれば、半分当たっていて半分当たっていないという感じではないかと思います。日本帝国が台湾の開発に大変に熱心であったことはよく知られています。良いか悪いかは別にして農業を振興させ、資源を開発し、現地の人に義務教育を施し、工業化も目指しました。長い目で見れば植民地が農工業で発展している方が、帝国の収支は良くなるという意味で帝国にとっては優良資産になりますし、現地の人にとっても生活の向上につながります。李登輝さんが総統をしていた時代にはよくこういった点が良い評価がなされていました。ですが一方で、皇民化という取り組みは「私は何者なのか」という大切な内心な問題に介入し、日本人だと信じ込むように誘導したという点では、やはり必ずしも高く評価することはできないのではないかとも思えます。戦後の日本国憲法では内心の自由を重視しますから、その憲法下で教育を受けた戦後世代としては内心の自由を侵す皇民化は問題視せざるを得ません。ですので、浅井教授の指摘は半分は当たっているけど半分は外れていると言う結論になってしまいます。

尤も、当時は日中戦争の真っ最中に情報機関のプロパガンダ紙に原稿を書くわけですから、浅井教授としても日本の帝国主義を批判するわけにはいかなかったでしょうから、先に引用したような内容にならざるを得なかったとも思えます。当時は「日本人になれること=良いこと」を大前提にしないと原稿が書けなかったでしょうから、上のような体裁にするしかなかったのかも知れません。

当該の原稿では最後の方で「来たるべき日のために」という、なかなか意味深長な言葉も含まれています。当時既にオランダ本国はナチスドイツの支配下に入っており、やがてアンネフランクが隠れ家で後に世界が涙する日記を書くことになるわけですが、オランダ領インドネシアは本国のバックアップなしに経営を続けなければならないという逼迫した状態に置かれていたわけで、当該の記事では今こそ現地住民が立つことができるという趣旨のことを述べています。日本帝国はインドネシアの現地の人々を助けることができるし、台湾は南進政策の重大な拠点なので、その持つ意味は大きいという趣旨のことも述べられています。「大東亜共栄圏言説」なるものがどういうものかがよく分かると記事だと言うこともできるようにも思います。大東亜共栄圏は結果としては失敗でしたし、日本人にとって何らメリットはなく、戦後も批判の対象になるわけですが、当時の日本人が「大東亜共栄圏」にどういうイメージを持っていたかを感じ取れたような気がしなくもありません。

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昭和史12‐日中戦争とオランダ領インドネシア

日本帝国時代、とある情報機関が発行した機関紙の昭和13年1月11日付の号では、オランダ領インドネシアでの情勢が伝えられています。曰く、オランダ領インドネシアは格別に成功した植民地で多様な生産物が産出される一方で、在住日本人が極めて少なく、その反対に在住中国人が非常に多いが、オランダ当局が中国人による排日運動に目を光らせているため、そんなに酷いことにはなっていないと簡単に言うと述べています。どうも当該情報機関は各地に調査員を派遣して現地の模様を報告させているようなのですが、以上のような状況はイギリス領マレー半島と同じ構図かも知れません。

とはいえ、今回読んだ報告では現地のメディアの状況も伝えられており、その面はなかなか興味深いのではないかと思います。曰く、現地のメディアは非常に親中的であり、日本軍の蛮行を誇大に喧伝しているというのです。在住日本人は隠忍自重しつつ、東京、台北、大連あたりから放送されてくる「正しい」情報をラジオで聴いて知っているため、日本軍優勢を理解しており、現地メディアの意地悪な報道に対してやはり「隠忍自重」しているというわけです。

一方で、当該の報告書では「唯一の邦字新聞東印度日報が四項の小新聞ながら事変に関する限り大体網羅し以て戦況を正確に伝へて居る」と同時に「スマラン市で邦人の発行している馬来語月刊雑誌『アストラ』が宣伝機関として微力ながら」がんばっていると述べています。

ハワイやロスアンゼルスあたりでは、日系人を使ったスパイ網の構築をしようとしていたという話を読んだことがありますが(なので、ちょっと語弊を恐れずに言うと、当時のアメリカ当局による日系人収容所送りは半分は人種差別、半分は現実の防諜目的と言えるのではないかとも思えます)、東南アジアでも同様の諜報・情報ネットワークを築こうとしていたのかも知れません。ただ、私がこれまでに読んだ限りでは、宣伝にはわりと熱心、植民地での神社の増設のようなちょっと的外れなことも含んでかなり熱心なのですが、一方では諜報は必ずしもがんばれていなかったように思いますので、結果としては大した効果は生まなかったのではないかという気もしなくもありません。

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グロティウス‐法の支配、人の支配、神なき世界

ヨーロッパの中世の思想は神の存在証明にその力が入れられ、また近代の入り口においては人とは何かに関して考えることに力が入れられたものの、神の存在が絶対的な前提でなければ語ることができず、例えばデカルトのように人と神と対比して人のことを考察しつつも神の存在も同時に証明するという議論の手法がとられました。

その点、神の存在を前提としない議論を展開したオランダ人のグロティウスはメルクマールとして記憶されるべき人物ではないかと思えます。グロティウスは『戦争と平和の法』という著書の中で、神が存在するかは問題ではなく、たとえ神が存在しなかったとしても、人は相互に信義を重視し、人道を重視し、関係性を構築していかなければならないと考えました。神が存在するかどうかはともかく、或いはいかなる神を信じるかどうかもともかく、または神に対する信仰のあり方が宗派によって違ったりすることはともかくとして、人はまず第一に自然法の問題として人を殺してはいけないなどの議論の余地のないほどに明確な人道は、たとえ法律に書かれていないとしても、重視されなくてはいけないと考えたわけです。

これこそまさしく、いわゆる法の支配の基本的な考え方と言うことができ、法の支配とは即ち神ではなく人による支配であり、その後の近代ヨーロッパにおける思想哲学の基礎へと発展していく第一歩になります。神を信仰したい人は信仰すればいいし、信仰したくない人は信仰しなければいいけれど、信仰に対する考え方が違うということで相争う必要はなく、それとは別に人間的なルールを確立しましょうということですから、現代の我々の価値観とも矛盾しないものであると思えます。ヨーロッパにおける長い宗教戦争に於ける殺し合いの歴史に飽き飽きしてしまった、いい加減そいうことは止めにしたいという、当時の社会的な雰囲気もあったのかも知れません。

グロティウスは近代自然法の父とも呼ばれます。信仰に対する考え方を超えた国際法の枠組み作りを提唱しており、国際法の始まりと言われる後のウエストファリア条約に通じるもの言えると思います。

台湾近現代史5 鄭芝龍

中国の福建省で生まれた鄭芝龍は十代で父を亡くし、マカオの叔父を頼るようになり、マカオで商売を学んだほか、宣教師からカトリックの洗礼を受けています。その後、李旦という豪商に使えるようになり、日本、中国、台湾、その他東南アジアとの貿易に関わる関係で李旦について平戸で暮らすようになり、李旦の死後、鄭芝龍は平戸の中国系商人のトップに立ちます。平戸の地で平戸藩士の娘のマツと知り合い、二人の間に鄭成功が生まれます。鄭成功は幼少期を平戸で過ごしますが、後に父と共に中国へ渡ることになります。

当時の貿易商と言っても半分は海賊みたいなものですから、鄭芝龍は貿易+海賊業でそれなりの軍事力を持つ存在に成長し莫大な富を得ていたといいます。李自成の乱で明が滅亡し、清が政権を打ち立てると、明朝は各地で亡命政権を打ち立て、独自の皇帝を擁立するなどをしていきます。鄭芝龍も明朝の復活を期して明朝に仕え、オランダ東インド会社のハンス・プットマンスに相当な被害を与えたとされています。ですがやがて清朝からの降伏勧告を受け入れ、清に服従するようになります。

一方、息子の鄭成功は飽くまでも明朝の臣下として振る舞い、清朝も手を焼いたことから鄭芝龍に鄭成功の説得を命じますが、息子は頑として応じず、台湾で勢力を伸ばし続けたこともあり、鄭芝龍は北京で斬首されるという顛末を迎えてしまいます。

鄭芝龍は弘光帝に使え、弘光帝が清朝に捉えられると降武帝に使えるのですが、隆武帝の元に行ったあたりからその他の明の遺臣との関係が複雑なものになっており、清朝に乗り換えたようです。乗り換えた先で殺されるのですので、仕える先を乗り換えるのには相当なリスクがあるというのは現代にも通じる教訓かも知れません。

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台湾近現代史4 浜田弥兵衛事件

江戸時代初期、まだ鎖国政策が始まる前、日本の貿易商はアジアの各地に進出しており、台湾もその進出先の一つでした。オランダ人が台南にゼーランディア城を築いて拠点とし、寄稿する商人の取引に10パーセントの関税をかけるようになります。浜田弥兵衛という長崎から来た商人がこれを拒否。オランダサイドではピーテル・ノイツという人物を同地の行政長官に任命し、日本に渡り徳川家光への謁見を試みます。要するに関税10パーセントを請願し、徳川家光から許可を取れば、弥兵衛のような日本人商人はそれに従わざるを得ないと踏んだわけです。

それを知った浜田弥兵衛は原住民十数名を連れて帰国し、彼らとともに江戸へ行き、こちらも徳川家光への謁見を果たそうとします。台湾(当時は高山国という名称で認識されていた)の住民は既に将軍への服従の意思を示しているので、関税は免除されてしかるべきという論法を組み立てようとしたわけです。弥兵衛は非公式ながら謁見に成功し、お土産の品をいただいた上にノイツの謁見妨害にも成功します。

これによって浜田弥兵衛は意気揚々と再び台湾に渡りますが、妨害を受けたノイツが激怒して弥兵衛を武力解除して台湾への渡航禁止の挙に出ようとします。ところが弥兵衛がノイツの掴みかかって拘束し、オランダ人が弥兵衛を拘束するものの、ノイツが人質にとられているので手が出せないという事態に立ち至ります。

双方歩み寄り、双方が別々に人質を乗せた船で長崎へ行き、長崎でそれぞれに人質を解放することで合意に至ります。ところが実際に長崎についてみると、弥兵衛の側からすればホームですので強気に出てノイツを監禁するという展開を見せます。

その後、オランダ側から使節が訪れてノイツは解放されますが、弥兵衛の雇い主である末次平蔵は獄中で謎の死を遂げたとしており、オランダとのもめ事を嫌った老中が一計を案じたのではないかとの憶測もあります。

いずれにせよこのような複雑経過を辿って一件落着しますが、その後オランダ人は鄭成功によって台湾を追われることになりますので、そもそもの関税10パーセントというのもなんとなく虚しい話だったようにも思えなくもありません。

浜田弥兵衛は日本統治時代に入ると軽く功労者扱いになり、従五位の官位が贈られ、顕彰する碑も立てられましたが、国民党の時代になって碑文が変えられており、浜田弥兵衛の情報は全然残っていないようです。

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ナポレオン戦争とフェートン号事件

長崎の出島にイギリス船籍の軍艦が入港し、オランダ人商館員を一時拘束するという前代未聞の事件が、江戸時代後期の1808年に起き、江戸幕府の関係者が右往左往するという事態に陥ります。

この事件はナポレオン戦争と直接絡んでおり、また、長崎の出島がヨーロッパ人の目からどう見えていたかということが分かるという意味でも興味深い出来事ではなかったかと思います。

フランス革命の後の1794年、フランスはネーデルランド連邦(オランダ)に侵攻し、同地ではフランスの衛星国のバタヴィア共和国が樹立されます。1798年に、フランスではナポレオンによるクーデターが決行され、ナポレオンは統領政府を樹立し、第一統領(または第一コンスルとも)に就任します。コンスルとは古代の共和制ローマの執政官のことで、ナポレオンが古代ローマを強く意識していたことが分かります。

1804年にナポレオンは自身がフランス皇帝であると宣言し、続く1806年にはバタヴィア共和国を廃止して同地にホラント(オランダ)王国を樹立して弟のルイ・ボナパルトを国王に即位させます。

この時点でオランダ本国及び世界中のオランダの植民地がナポレオンの影響下に入ったことになります。ネーデルランド連邦共和国の統領を世襲していたオラニエ=ナッサウ家のウイレム5世はイギリスに亡命し、海外のオランダ領がフランスに接収される前にイギリスの方で押さえてほしいと要請します。イギリスから見れば千載一遇のチャンスですので、おおいに乗り気で、世界再征服戦争のようなことが始まります。

日本との貿易を独占していたオランダ東インド会社は1794年に解散しており、当時の長崎の出島はほぼ孤立した状態に陥っていましたが、一応はオランダ国旗を掲げ、ナポレオンに屈従したわけではないということを示していました(当時の日本人にとってはおよそ感知しないことではありました)。

そしていよいよ、フェートン号事件が発生します。イギリス海軍のフェートン号が、ウイレム5世の依頼というこれ以上ないくらいまっとうな大義名分で長崎へ入港します。長崎の出島は日本の江戸幕府の視点からすれば、オランダ人を隔離・管理する目的で設置された場所ですが、ヨーロッパ人の目から見れば、オランダの海外領土という風に理解されていたことが分かります。

しかしその手口は、入港時、オランダ国旗を掲げて偽装し、2人のオランダ商館員が小舟で近づいてきたのを拘束するという荒っぽい方法で、フランスからの解放を大義名分としているにも関わらず、これでは解放者なのか侵略者なのかさっぱり分からんという展開になってしまっています。更に、オランダ商館員の返還を求めた長崎奉行所に対しては水、食料、燃料の提供を要求し、さもなくば長崎港に停泊中の船を焼き払うという脅迫を行います。これでは海賊と同じです。

当時、長崎港の警備は鍋島藩が担当していましたが天下泰平の世の中で「どうせ大したことは起きない」と高をくくっており、イギリス軍艦に対抗するだけの戦力がありません。長崎奉行は周辺の各藩に軍の出動を命じますが、それらの軍が到着する前に長崎奉行所が要求された品物を提供することで解決し、フェートン号はオランダ商館員を解放して悠々と引き揚げたのでした。

実際に人を拘束して脅迫したという意味では、ペリーの黒船来航以上にショッキングな事件で、ペリーがいかに紳士的であったかを理解できるとすら言えそうです。

このことで、鍋島藩は大いに面目が潰れましたが、教訓となり、鍋島藩はその後、いち早く産業の促進と軍備の増強に着手するようになり、逼迫する藩の財政に関しても思い切った構造改革を実施して、幕末にはやたらめったら強い藩に生まれ変わっていくことになります。

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イギリス東インド会社と江戸幕府

イギリス東インド会社は16世紀にイギリスによって設立された国策会社ですが、短期間ではあるものの、江戸幕府が施政する日本と貿易を行っていた時期がありました。

1611年、当時のイギリス国王ジェームス1世の国書をともにジョンセーリスが来日し、徳川家康と謁見し、家康の許可も得て平戸にイギリス商館が開かれ、リチャードコックスが商館長として仕事をすることになります。

リチャードコックスの在任中、平山常陳という人物がカトリックの宣教師を乗せた朱印船をマニラから日本に向けての航海中にイギリス・オランダの商戦艦隊の襲撃を受け、平戸に曳航されるという事件が起きており、江戸幕府は既に切支丹に対する禁令を出していたことから、その後の切支丹迫害に拍車がかけられていくことになります。

この事件からは1620年の段階では、ヨーロッパのカトリック系国家と新教系国家の間の東洋貿易に関する覇権争いが激しく、同じ新教の国であるイギリスとオランダの船が協力してカトリック系の排除に動いているということが分かります。イギリスとオランダとの間の貿易競争も激しかったようですが、少なくともカトリックに対する態度としては一致していたという理解の方がより真相に近いかも知れません。

1623年にはオランダ人がインドネシアのアンボイナのイギリス商館を襲撃し、商館員が全員殺害されるというアンボイナ事件が発生します。この事件をきっかけに、平戸のイギリス商館は閉鎖され、ヨーロッパの対日貿易はオランダ独占するという状況になります。

1673年にイギリス船籍のリターン号がチャールズ2世の国書を携えて長崎に入港しますが、チャールズ2世がカトリックの国であるポルトガルのカタリナ王女と結婚していることを問題視し、通商を拒否し、イギリスは対日貿易からは完全に締め出されることになりました。

江戸幕府はオランダ商館長からのオランダ風説書によってチャールズ2世とカタリナ王女との結婚を知っていたということですが、飽くまでも政略結婚だと思えば、カタリナがカトリックの国の出身者かどうかは江戸幕府にとってはあまり関係なさそうにも思え、どうでもいいような気もしますし、対日貿易の独占を狙うオランダが、カタリナ王女との結婚をことさらに大袈裟に取り立てて徳川幕府を煽ったという一面もあるのではないかという気がしなくもありません。一方で、カトリック宣教師たちは実に熱心かつ勇敢に日本に渡ってきていますので、カタリナ王女を通じてイギリスに渡りがつくのなら、それをツテにしてやはり日本上陸を狙う可能性も確かにあり、カトリックを「完全に排除したい」と考えるならば、江戸幕府の判断は妥当なものだったのかも知れません。

その後、イギリスはインド経営に軸足を移すようになり、日本からインドネシアまでのラインはオランダが握るようになりますが、情勢はゆっくりと逆転してゆき、19世紀に入るとナポレオンがオランダを自身の版図に組み入れることによってオランダに対するハプスブルク家の影響力が排除されるようになり、反ナポレオン勢力がイギリスにオランダの海外植民地の接収を依頼し、イギリス船籍のフェートン号が長崎に姿を現すというフェートン号事件が起きます。

1600年代は戦国時代の名残もあってか江戸幕府は強力で、イギリスの船を一方的に拒絶することができましたが、フェートン号事件では防衛担当の藩兵や長崎奉行所の役人が右往左往しており、時代の変化を感じさせられます。

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