エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』とナチズム

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』はあまりに有名すぎて私がここでどうこう言うまでもないことかも知れません。「社会心理学」という分野にカテゴライズされてはいますが、基本的にはフロイトやアドラーの近代心理学の基礎を踏まえ、それを基にドイツでナチズムが勃興した理由を考察している超有名な著作です。

内容の大半はサディズムとマゾヒズムに対する一般的な説明に終始しており、まさしく心理学の解説書みたいな感じですが、サディズムとマゾヒズムが対立項として存在するのではなく、同時に同一人物の内面に存在するとする彼の指摘は我々が普段生きる中で意識しておいた方がいいことかも知れません。

曰く、サディズムを愛好する人物は相手から奪い取ることに満足を得ようとすると同時に、権威主義的であるが故により高位の権威に対しては進んで服従的になり、自らの自由を明け渡すというわけです。ですので、ある人物は自分より権威のある人物に対しては服従的なマゾヒストであり、自分より権威の低い(と彼が見做した)人物に対してはサディストであるということになります。人はその人が社会的にどの辺りの地位に居ようと、権威主義的である限り、より高次なものに対して服従し、より低次と見做せるものに対しては支配的になるということが、連鎖的、連続的に連綿と続いていることになります。

この論理は私にはよく理解できます。誰でも多かれ少なかれ、そのような面はあるのではないでしょうか。権威は確かに時として信用につながりますが、権威主義に自分が飲み込まれてしまうと、たとえサディズム的立場に立とうと、マゾヒスト的立場に立とうと、個人の尊厳と自由を明け渡してしまいかねない危険な心理構造と言えるかも知れません。

フロムはアドルフ・ヒトラーを分析し、彼自身が大衆の先導をよく心得ていたことと同時に権威に対して服従的であったことを明らかにしています。イギリスという世界帝国に対するヒトラーの憧憬は、チェンバレンがズデーデン地方問題で譲歩した際に、軽蔑へと変化します。なぜなら如何に抗おうととても勝てないと思っていた相手に対して持っていてマゾヒスト的心理が、相手の譲歩によって崩れ去り、なんだ大したことないじゃないかと意識が変化してサディズム的態度で臨むようになっていくというわけです。

自由都市はドイツ発祥です。ですから、本来ドイツ人は自由と個人の尊厳を愛する人々であるはずですが、第一次世界大戦での敗戦とその後の超絶なインフレーションと失業により、絶望し、他人に無関心になりヒトラーというサディストが現れた時、喜んでマゾヒスト的に服従したともフロムは指摘しています。ドイツ人のような自由と哲理の伝統を持つ人々が、自ら率先してナチズムを支持し、自由を明け渡し、文字通り自由から逃走したことは、単なる過去の奇妙かつ異例なできごととして片づけることはできず、如何なる人も状況次第では自由を明け渡し、そこから逃走する危うさを持っていることがこの著作を読むことによってだんだん理解できるようになってきます。

私はもちろん、自由と民主主義を支持する立場ですから、フロムの警告にはよく耳を傾けたいと思っています。簡単に言えば追い詰められすぎると自由から逃走してしまいたくなるということになりますから、自分を追い詰めすぎない、自由から逃走する前に、自分の自由を奪おうとする者から逃走する方がより賢明であるということになるのかも知れません。





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ユング‐無意識に人の可能性がある

ユングがフロイトの弟子だったことは有名ですが、同時にフロイトと袂を分かったこともよく知られています。両者は無意識が存在することでは一致していましたが、無意識とは何かということについて大きく異なる見解を持っていました。

フロイトは無意識には碌なものが存在しないと考えていました。心の傷であったり、破壊衝動であったり、性に対する衝動であったりと一般的な社会通念からは望ましくないものばかりが入っていると考えたのです。通常、人間は意識で無意識を抑え込んでおり、人に迷惑をかけないとか暴力を振るわないとか、トラウマが刺激されてできないことに対して「大丈夫、怖くない」とか言って自分を励まして紳士淑女として社会生活を送ります。しかし、たとえばお酒に酔っ払うなどのような状態になった時に、意識のコントロールが弱まり、無意識の衝動が湧き上がってきてしまい、普段ならやらないことをやってしまうという困ったことが起きてしまいます。フロイト的にはそういった困った無意識をどうやって制御するかが肝要であるということになります。

一方でユングはフロイトとは全く異なる観点から無意識を理解していました。無意識には人間の可能性が充ちていると考えたのです。たとえば芸術作品は計画して作るものとは限りません。ある種の閃き、天から降りて来るメッセージのようなものを受け取り、それを絵画にしたり彫刻にしたり文芸作品にしたり、或いは音楽にしたりと昇華させ、人々の楽しみや喜びに貢献することができます。そのため、ユングの発想法から行けば、無意識は抑え込んだり制御したりするものではなく、大いに解放することで人々の幸福度は更に大きくなると考えたわけです。

ユングとフロイトのどちらが正しいということはなく、どちらにも正しい面があると思えます。芸術が時にアウトローだったりするのは、ユング的な要素とフロイト的な要素の双方が表出した結果と捉えることができますし、芸術とは得てして諸刃の剣だったりもすると思えます。

ユングは更に、人には集合無意識があると考えました。世界各地の神話や民話に共通点が多いこと(洪水などの大災害から生き延びるなど)に着目し、人は祖先より受け継いだ膨大な記憶をそれぞれに蓄積しており、遡れば遡るほど祖先は共通していきますし、現代を生きる人もそれを受け継いでいるわけですから、我々は大きい全体の枠組みとして多くのものを共有していると言え、それが集合無意識であるとしたわけです。人々がある時、渦のように革命を起こしたり、或いはとあるトポスに支配的な空気が生まれたり、選挙で特定の政党が大勝ちしたりするのも、この集合無意識の視点から説明することも可能と思えます。

夢野久作の『ドグラマグラ』もユングの精神分析を基礎にしてその作品を書いたと言っていいと思いますし、当時としてはまさしく最先端のヨーロッパの心理学を採り入れた作品と言えます。現代風に言えば量子論小説を書くくらいの試みではなかったかと思えます。

ユングの集合無意識の理論はエーリッヒフロムの社会心理学にも応用可能と思えますし、ユングの考え方は現代も受け入れられているものですから、大変に興味深く、世の中の動きを考える際にユング的な「集合無意識」の視点から考えるのも面白いかも知れません。

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フランクフルト学派‐何ゆえにナチスは台頭したか

フランクフルト大学の社会学研究所に集まった錚錚たるたる面々が深刻に考えをめぐらしたのは、ナチスが台頭したことの理由を探るためでした。ドイツ人はいたって真面目な人が多く、真面目だということは理性的であるとも言え、なぜそんな理性的な国民性でありながら、ナチスのような不逞の輩と変わらないグループに心酔し、積極的に支持したのかということは、なおざりにできない重大な問題であったわけです。

特にフランクフルト学派の第一世代は実際に第二次世界大戦を経験し、目を背けたくなる残虐な現象を見聞した世代であり、ということは同時に祖国が廃に帰するのを目撃した人々でしたから、そのような問いは大変に重いものにならざるを得なかったとしても不思議なことではありません。日本人が日本はなぜアメリカと戦争をしたのか、そういう指導者の登場をゆるしてしまったのかについて自問し続けるのと同じ感じなのかも知れません。

ホルクハイマーはアドルノとともに『啓蒙の弁証法』を発表し、上のような悲惨な経験をするに至った理由として、「道具的理性」に問題があったのだと指摘します。真理や善の存在を忘れ、利得があればよしとする堕落した理性があったからではないかというわけです。アメリカのプラグマティズムに対するさや当てもないわけではないようにも思えますが、彼らによると人が道具的理性的な堕落した状態になると、ナチスのようなマインドコントロールの上手い連中が出て来た時に抵抗力を失ってしまうということになるようです。

私個人はホルクハイマーとアドルノの指摘がどの程度正しいかについて判断するほど優秀ではないのですが、ナチスに関することについては、エーリッヒフロムの『自由からの逃走』の方がよりよく説明してくれているのではないかと思えます。フロムはまず第一に、第一次世界大戦後に社会が混乱したことで若い世代が伝統や習慣、受け継がれた道徳を信用しなくなったということを挙げ、続いてワイマール的な自由という責任に耐え切れなくなり、自由から逃避したいという願望が高まった時にナチスという甘言を用いるグループに全てを預けて楽になりたいという心理が働いたと指摘しています。私にはこちらの説明の方がより説得的であるように思えます。

もちろん、ホルクハイマー、アドルノとエーリッヒフロムのどちらが優れているかを比較することが適切なのではなく、両者は交流もあって互いに補完する作用を持っていたとも思えますから、双方を総合することで、より深くナチス台頭という現象について理解できるのだと言えるのかも知れません。アドルノは「権威主義的パーソナリティ」という言葉を用い、権威に盲目的に従う人々が増えたことがナチス台頭の要因と考えましたが、これはフロムの考えにとても近いものだと言うことができるようにも思えます。

フロムは『愛するということ』という著作で1950年代のアメリカ人の恋愛結婚について、「愛がマーケットになっている」と批判しています。誰もが自分をより高く売りつけようと考え、より条件の良い相手と契約を結ぼうとしているというわけで、これは愛ではなく経済行為であるというわけです。これも大変に説得的な部分があるように思えます。『愛するということ』の英題は「The Art of Love」で、愛を実践するための指南も書かれています。尤も、結論は「自分で実践する以外にはない」という突き放した感じなのですが、確かに愛は自分で実践する以外にはありませんので、大変に深い内容と言えるようにも思います。フロムという愛とは隣人愛であり、隣人愛は実践できているようで、案外と難しいものですから、私も忘れずに努力したいと自省する際の教科書にしています。何十回も読んだので、今は手にとって読むことはなく、内容を思い出して反省するわけですが…。


サルトル‐私は何かは私が決める

サルトルは「人間は自由という刑に処されている」と述べました。なんとなく、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と対比関係にあるのではないかという気もしてきますが、要するに自由には責任が伴うため、自由に生きることには責任相応の苦痛も引き受けなくてはいけません。それができないのであれば、フロムが言ったように自由から逃走せざるを得ず、ホッブスのレヴァイアサンか風の谷のナウシカの巨神兵に全てを預けてしまい、主体性をなくしてうことになってしまいます。

サルトルはそれを赦されることではないと考えました。人間は生まれて来た時はまだ内面が確立されてはいないけれど、やがて成長するに従い、内面が確立し、自分が実際に存在すると感じることができる、実存を獲得します。

問題はここからであり、実存を獲得した人間には当然に選択の自由が与えられており、私がいつ誰と何をどのように行おうと、それは私の勝手というものなのですが、やる以上は責任を持たなくてはいけません。法律論的にそうだという議論も可能でしょうし、道徳的な観点からそうだということも可能でしょうし、あるいは特定の選択をした自分に対して責任があるというような言い方もできるはずです。

それをもう少し敷衍して考えるとすれば、私が何者であるかは私自身で決めると言ってもいいかも知れません。慈悲深い人間である私、或いは悪徳な私、清貧な私、または欲深い私、信心深い私、または無神論者の私、そういったものは全て自分で選んで決めることができますし、選んだ以上は責任が生まれるのです。それはもう「自由という刑」が執行されている状態であり、人としての尊厳を保つためにはこれは受け入れなければならない刑だというわけです。

このような考え方はやはりニーチェの超人を源とするのではないかと思えます。超人とは何かを考えた時に、それはサルトルの示したような自由という刑を受け入れるだけの覚悟を持つ人間のことであり、それはおそらくはアドラー的人間観とも共通するはずです。人は何にでもなれるとアドラーは言いましたが、サルトルはそれを実行せよと私たちに迫ります。責任を持つ主体として何かを選び取ることは、その行為自体が社会参加であり、それをアンガージュマンと言うそうですが、それは個々人が世界に対して責任を負うという厳しい考え方であり、猛々しく颯爽としていますが、果たしてサルトル本人がどこまでそれを実践できたかについてはやや微妙な気がしないわけでもないですねえ。

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ハイデガー-私は必ず死すべき存在である

ハイデガーは20世紀で最も著名な哲学者とも呼ぶべき人物かも知れません。しかし、ナチスの勃興期に於いて支持を表明したことが、戦後に於いて彼に追放されるという不運をもたらします。

それまでとは全く違う、新しい何かが登場した時、それはとても魅力的に見え、それ以前の伝統とか習俗とかそういったものは古臭い、陳腐なものに見えてしまいがちです。たとえばニーチェが神はんだと言ったことの背景には、19世紀の燃料機関の発達というとんでもなく画期的で、かつそれが人間の手によって生み出されたという驚きがあったからです。神の手によらず、人の手によって作られた燃料機関に魅了され、ニーチェは神よりも人に可能性を感じたのだと言ってもいいかも知れません。

ハイデガーがナチスに出会った時、ニーチェが機会文明と出会ったようなときめきを覚えたのでしょうか。それはあり得ないようなことではないかも知れません。エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、ナチス勃興期に於いて特に顕著に彼らを支持したのは若者たちであったと述べています。ナチスの制服やポーズや行進がいかした感じに見え、小さな商店を開いているような父親たちの姿が古臭い、陳腐で威厳のないものに見えたことが、ナチスに対して若者が熱狂した理由なのだとしています。ですから、ハイデガーもそういった陶酔に引っかかってしまったとしても、不思議なことではなかったのかも知れません。「ナチスのような集団を支持するなんて信じられない。ばかじゃね」という態度を取るよりも、「ナチス的なものは歓喜や興奮、熱狂や陶酔とともにくる。自分にそれを見定める力があるかどうかは常に自問されなければならない」という態度を保つことの方が賢明のように思えますが、時として賢明であることは熱狂することより遥かに難しくなるはずです。熱狂と陶酔は恋愛と同じで気持ちいいですから、人はそちらへ流れやすいものではないかという気がしてしまいます。

そうとして、ハイデガーは人は自分が死ぬということをよく自覚して生きるべきと説きました。これを「死の先駆的決意性」と呼ぶらしいのですが、要するに死を覚悟して今を生きろということに尽くされるのではないかと思えます。そういったことを日々の習慣とか、或いは日常生活、いわゆる終わりなき日常にかまけて死を忘れ、己の天命を忘れることなく生きよ。というような感じでしょうか。だとすれば、それはやはりニーチェに共通する部分があるように思えます。ニーチェは超人という概念は提示しましたが、超人と言っても人は人ですので、必ず死ぬという運命から逃れることはできません。その上で、「行きて汝のなすべきことをなせ」と要求することは、ハイデガー流に言えば「死の先駆的決意性」と言い換えることができるかも知れないですし、アドラー的な過去にとらわれず今を生きろということにも通じるのではないかという気もします。

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ホッブスと巨神兵と自由からの逃走

イギリス人のホッブスは、人間には自然権があると考えました。自然権とは即ち自分の存在を保護する権利、ホッブス的な考えて言えば、自分の生存を保護するためなら何をやってもいいという権利とも言い換えることができるかも知れません。現在の我々の法体系でも、完全にホッブスと同じと言っていいかはともかく、人間には自分を守る権利がある、即ち自然権があるということを大きく認めていると言えると思います。一方で、個人が自然権を主張した場合、他者の自然権と対立することが決してないわけではありません。その場合、自己保存の権利を行使するという理由から殺し合いになるということは場合によってはあり得ます。そういう意味では自然権には本質的に限界があるとも言え、今日においてもよく「公共の福祉に反しない限り〇〇する権利がある」みたいに言われますので、自然権には限界が内在していると言ってもいいのかも知れません。

そのため、ホッブスは「人間にはやっていいことと悪いことがある」という前提を考え、議論する余地もないくらいにやってはいけないことについては法律に書いてるあるとかないとか関係なくにやってはいけないとし、それが自然法であるとしました。グロティウスの考え方に共通する部分もあるように思えます。

さて、そうは言っても人間には自然権があるわけですから、有名な「万人の万人に対する闘争」状態が起きる余地は残されており、「自然法なんか知るか!それより俺の自然権が優先じゃぁっ!」という人が絶対に出てくるでしょうから、そこを何とかするために、レヴァイアサンという架空の絶対的に優越した力を持つ存在を想定し、人間は国家の統治をレヴァイアサンみたいな恐ろしい存在に委任することによって、平和と安定が保たれると結論しました。

人間の自由の根本中の根本とも言える自然権を認める前提から出発しながら、最終的にはレヴァイアサンに委任するというのは本末転倒のようにも思えなくもないのですが、ホッブスは清教徒革命でフランスに亡命していますので、国王の主権なり強権なりを肯定するような結論にしたいという政治的な動機なり理由、または背景があったのかも知れません。

「人間には自然権があるけど、自然法を守れるほど賢明ではないので、強権に委任したい」というのは、なんとなくエーリッヒフロムの『事由からの逃走』を連想させます。フロムはこの著作でナチスドイツがワイマール憲法下で合法的に政権を獲得したのは何故か、何故人々はナチスドイツを支持したのかということについて考察しました。人には強権に委任したい、強権に委任することで自分個人の意思決定という責任から逃れて楽になりたという願望がもしかしたらあるのかも知れず、それはたとえば戦後にアメリカで行われたアイヒマン実験でもある程度は実証されたことだとも言えるかも知れません(アイヒマン実験には再現性に乏しいという理由で批判する人もいるそうなので、当該の実験が絶対に正しいと言い切ることもできないかも知れませんが)。

そのようなレヴァイアサンを連想させるものとしては、『風の谷のナウシカ』の巨神兵を忘れることはできません。漫画版のナウシカでは、絶対的な叡智とパワーを持つ裁定者である巨神兵が、人工物であるにもかかわらず神の如き存在として振る舞い、不正義に対しては鉄槌を加えます。巨神兵を創造したのが誰かは明示されてはいませんが、そうでもしなければ人は殺し合わざるを得ないと考える絶望的な人間観があり、それは著作者の宮崎駿さんの人間観なのかも知れません。