イギリスで今起きているのは、民主主義と功利主義の板挟み

イギリスのEU離脱に関する離脱案が議会で与党の大量の造反を伴う形で否決されたことは、メイ首相を国民投票の結果を実現するという民主主義の本質に関わる問題と、本当に離脱していいのだろうかという不安の板挟みに追い込んでいるように見える。

イギリスでは功利主義と呼ばれる哲学というか思考体形のようなものが発達した。ヨーロッパで神の存在証明とか、神が存在するとして神の意思に沿う行動は何かなどの抽象的で役に立たない哲学が発展していった中で、そんなことはどうでもいいので実際に人間の役に立つことを考えよう、目の前にある問題を解決しようとする思考体形、思考パターンのようなものだ。これは産業革命という大きな副産物を生み、世界を変えることになった。

やや乱暴な議論になるかも知れないが、アダム・スミスが神の見えざる手によって導かれて市場が形成されるので、自由放任でいいのだという議論は、民主主義の本質にも当てはまるように私は思う。民主主義もまた、個々人の自由な意思表示が結果として最適解へとたどり着くことができるはずという人間への希望を土台にしているように思えるからだ。もちろん民主主義には責任が伴う。主権在民とは責任も民にあるということだ。

で、イギリスでは今、二つの相矛盾する民主主義のプロセスが進んでいる。一つはブレグジットに関わる国民投票の結果であり、もう一つは議会の意思決定だ。議会もまた民主主義を実現する場所であり、国民投票の結果と議会の意思決定が矛盾してしまうと、身動きが取れなくなる。

このようにこの期に及んで議会が及び腰になったのには、そもそものブレグジットの議論が、残るのがお得か、出て行くのがお得かという金額の勘定に焦点が絞られてしまったことにある。要するに残るのと出て行くのとどちらが功利主義的なのかという思考体形の中で問題が矮小化され、お金のことだけが話題になってしまった。様々なメディアや専門家が計算し、拠出金を出さなくていいから〇〇ポンドぐらいお得になる。みたいな話で溢れた。もしも短期的なお金だけの問題を議論するならお安い方がいいに決まっている。ボリスジョンソンのような政治家はそのように言い立てて国民を大いに煽ったと言うことができるだろう。人々は悩みに悩み抜いた結果、出て行った方がややお得という理由が僅差で離脱に賛成という形で表されることになった。

イギリス人が後悔し始めたのは、投票結果が出た翌日からのことだ。欧州議会のイギリス人の議員がとあるテレビ番組に出演していた。彼は離脱派として鳴らし、ボリスジョンソンと一緒になって離脱をアジテートとしていた人物だった。テレビのキャスターが彼に「これでEUに支払うお金が国民の福祉に回されるということでいいのか」と質問したのに対し、彼はあっさりと「そうとは言えない」と言ってしまったのだ。その時の女性キャスターの固まった表情を私は今もよく覚えている。彼の発言そのものは意味が通っており「EUに支払うお金をちゃんと国民の福祉に回るように予算を組まなくてはいけない」という話ではあるのだが、一発目の返答が「そうとは言えない」に、彼の本音が出ていたのではなかろうかと思う。離脱派は本当に離脱することになってびびってしまったのだ。当該の議員は時を経ずして引退を表明した。ボリスジョンソンはメイ首相に外務大臣に氏名されたが彼は敵前逃亡した。

自信満々で離脱を煽っていた人々が敵前逃亡する姿をみて、人々は驚愕した。自分たちはアジテーターに騙されていたのではないかと考え始めたのだ。ここまで来ると、果たして離脱と残留のどちらがお得なのかも判断がつかない決心できない心理状況に追い込まれていると言うこともできるかも知れない。短期的な金銭を考えると、離脱した方がお得かも知れない。また、長期的なヨーロッパの衰退の可能性を考えると、やっぱり沈んでいく船から逃げ出すのがお得と言えるかも知れない。しかし一方でEUはお金で計算できない価値を持っていることも否定できないだろう。互助の精神、平和の維持、一体感と友愛、関税同盟という目に見える形の経済的恩恵もある。このように突き詰めて行けば、どちらがお得なのかは判断できなくなるだろうし、そもそもEUは損得勘定だけで成立しているわけではなく、違った価値観も含んでいる連合体だということも忘れてはならない。

まあ、もう、ここまで来れば私だったら疲れて政権を投げ出してしまうと思うが、メイ首相はまだがんばっている。日本とイギリスの民主主義の違いを語れるほど私は立派な人間ではないが、これがもし日本で起きていることなら衆議院解散をやって白黒つけるのがいいのではないかと思う。間接民主主義を直接民主主義よりもやや優先するのが立憲君主制の意思決定に沿うように思えるからだ。そして多分、議会選挙で離脱か残留かを争点にした場合、残留派が勝つだろう。そしてイギリスのEU離脱という話はお流れになるかも知れない。









昭和史76‐太平洋戦争は何故起きたのか(結論!)

資料を読み続けてきましたが、一応、手元に集めたもの全てに目を通しましたので、ここで一旦、昭和史については終えることにしますが、そこから私が得た知見を述べたいと思います。太平洋戦争は何故起きたのか、私なりに結論を得ることができました。

1、蒋介石との戦争に固執し過ぎた

日本軍、特に陸軍は蒋介石との戦争は絶対に完遂するとして、一歩も引く構えがありませんでした。しかし、情報・宣伝・調略戦の面では蒋介石が圧倒的に有利に展開していたということに
気づきつつもそこは無視してとにかく重慶を陥落させるということに固執し、空爆を続け、蒋介石のカウンターパートとして汪兆銘を引っ張り出し、新しい国民政府を建設し、蒋介石とは
対話すらできない状況まで持ち込んでいきます。情報・宣伝・調略の面では、蒋介石はソビエト連邦を含む欧米諸国を味方につけており、しかも欧米諸国はかなり熱心に蒋介石を援助していましたから、長期戦になればなるほど日本は疲弊し、国力を消耗させていくことになってしまいました。フランス領インドネシアへの進駐も援蒋ルートの一つを遮断することが目的の一つでしたが、それがきっかけでアメリカからの本格的な経済封鎖が始まってしまいます。アメリカから日本に突き付けた要求を簡単にまとめると、「蒋介石から手を引け」に尽きるわけで、蒋介石から手を引いたところで、日本に不利益はぶっちゃけ何もありませんから、蒋介石から手を引けばよかったのです。それで全て収まったのです。更に言えば、日本帝国は満州国と汪兆銘政権という衛星国を作りますが、味方を変えれば中国の国内の分裂に日本が乗っかったとも言え、蒋介石・張学良・汪兆銘・毛沢東の合従連衡に振り回されていた感がないわけでもな
く、汪兆銘と満州国に突っ込んだ国富は莫大なものにのぼった筈ですから、アメリカと戦争する前に疲弊していたにも関わらず、それでもただひたすら陸軍が「打倒蒋介石」に固執し続けた
ことが、アメリカに譲歩を示すことすらできずに、蒋介石との戦争を止めるくらいなら、そんな邪魔をするアメリカとも戦争するという合理性の欠いた決心をすることになってしまったと言っていいのではないかと思います。

2、ドイツを過度に信頼してしまった

日本が蒋介石との戦争で既に相当に疲弊していたことは述べましたが、それでもアメリカ・イギリスと戦争したのはなぜかと言えば、アドルフヒトラーのドイツと同盟を結んだことで、「自分たちは絶対に勝てる」と自己暗示をかけてしまったことにも原因があるように思います。日本だけでは勝てない、とてもアメリカやイギリスのような巨大な国と戦争することなんてできないということは分かっている。だが、自分たちにはドイツがついている。ドイツが勝つ可能性は100%なので、ドイツにさえついていけば大丈夫という他力本願になっていたことが資料を読み込むうちに分かってきました。確かにドイツは技術に優れ、装備に優れ、アドルフヒトラーという狂気故の常識破りの先方で緒戦に勝利し、圧倒的には見えたことでしょう。しかし、第一次世界大戦の敗戦国であり、植民地もほとんど持たなかったドイツには長期戦に耐えるだけの資本力がありませんでした。更にヨーロッパで二正面戦争に突入し、アメリカがソビエト連邦に大がかりな援助を約束してもいますから、英米はドイツはそろそろ敗けて来るということを予想していたとも言われます。日本帝国だけが、ドイツの脆弱性に気づかなかったというわけです。ドイツは絶対に勝つ神話を広めたのは松岡洋右と大島駐ベルリン大使の責任は重いのではないかと思えます。

3、国策を変更する勇気がなかった

昭和16年7月2日の御前会議で、南進しつつ北進するという玉虫色的な国策が正式に決定されます。フランス領インドシナへの進駐もその国策に則ったものですし、構想としてはアジア太平洋エリア丸ごと日本の経済圏に組み込むつもりでしたから、その後も南進を止めることはできなかったわけで、南進を続ければそのエリアに植民地を持つイギリス・アメリカとは必ず衝突します。アメリカとの戦争を近衛文麿が避けたかったのは多分、事実ですし、東条英機も昭和天皇からアメリカとは戦争するなという内意を受けていたのにも関わらず、国策に引っ張られ、国策を決めたじゃないかとの軍の内部からも突き上げられて戦争を続けてしまったわけです。

以上の3つが主たる原因と思いますが、どれもみな、日本人が日本人の意思としての選択であったと私には思えます。蒋介石との戦争に必然性はありませんから、いつでも辞めてよかったのです。ドイツを信用するのも当時の政治の中央にいた人物たちの目が誤っていたからです。国策だって自分たちで決めることですから、自分たちで変更すれば良かったのです。そう思うと、ほんとうにダメダメな選択をし続けた日本帝国にはため息をつくしかありません。私は日本人ですから、日本が戦争に敗けたことは残念なことだと思います。しかし、こりゃ、敗けるわなあとしみじみと思うのです。

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昭和史74‐ABCD「S」包囲網

太平洋戦争が始まる直前のころ、日本に対して行われた経済封鎖を一般にABCD包囲網と言います。Aがアメリカ、Bがイギリス(ブリテン)、Cが蒋介石(チャイナ)、Dがオランダ(ダッチ)というわけですが、私の手元にある昭和16年10月15日付の資料では、「ABCDS包囲網」と表現されています。新たにSが加わっているわけですが、このSはスターリンのことを意味しています。

当該記事では、

ABCDS同盟とは、英国、米国、蒋介石政権、蘭印(オランダ領インドネシア)、ソビエトなどが互に政治、軍事、経済あらゆる面に於て深いつながりを保ち、日本の南方発展をおさへつけて、戦争を長びかせることによって、ABCDS同盟の勝利に導かうとする策動

と説明されており、状況認識としては完全に正しいと言えます。戦争が長引けば物量に於いて劣る枢軸国に不利になることは明らかで、この段階では既に枢軸国側の限界が様々な点で露呈されて始めていた時期であったとも言えますから、「戦争を長びかせる」ことによって勝利を得ようとする策動という見方は的確であるとすら言えます。昭和16年10月の段階であれば、アドルフヒトラーの予定では既にモスクワは陥落していたはずであり、そろそろ冬将軍の不安が湧き始めていたはずです。日本についてはこれまでも辿ってきましたが既に物資不足に喘いでおり、生活用品の鉄の供出までさせなければならない状態で、限界が見え始めていたと言えます。

当該記事ではABCDSなる包囲網への警戒せよと呼びかけているわけですが、このようにインテリジェンスの現場が的確な現状把握をしているにもかかわらず、中央の意思決定機関ではごねごねごちゃごちゃと優柔不断を続けており、ドイツがソビエト連邦に侵攻した段階で、国際信義を裏切ったドイツを切るか、利益優先でソ連と戦争するかの二択になってしかるべきで、譲歩してでも蒋介石と手打ちに持ち込むのが理想なわけですが、そういったことは一切できずに、あろうことかアメリカと戦争しようかという話になっていくわけですから、どうしてこのように大局を見誤ってしまったのかといつもながらがっくししてしまいます。日本は蒋介石打倒、大東亜共栄圏建設、更に南進という複数の国家目標によって自縄自縛に陥って矛盾が生じたらどうしていいかわからない、見通しと違うことが起きても変化に対応できないという意思決定機関は思考停止に陥っており、ドイツがなんとかしてくれるだろうという幻想にしがみつき、軍がとことんやり抜くと言い張るのでそこに対しては身内意識で譲歩して、惨めな滅亡へと向かっていきます。

私の読んでいる資料も残り少なくなってきましたから、昭和史シリーズも近く一旦終了する予定ですが、読めば読むほど暗澹たる心境になっていきます。早く読み終えたい…

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昭和史71‐植民地と総力戦

日中戦争が泥沼化していく中、植民地では志願兵制が導入されていきます。私の手元の資料では植民地の人の健康管理、体力増進をやたら強調していますので、将来的には徴兵制に対応できるように整えようとしていた意図があったようにも思えます。

朝鮮半島での志願兵制は少し早かったようですが、昭和17年には台湾でも志願兵制が施行されることになり、それに先駆けて皇民報公会なるものも組織されることになったと、手元にある資料の昭和16年7月1日付の号で述べています。

で、この皇民報公会が何をするのかというと、台湾全島民を組織化し、皇民化を徹底し、お国へのご奉公をいつでもやれる組織にするということらしく、これまで「総力戦」という言葉は何度も当該資料で出てきましたが、ここにきてそれを実際にやろうというわけです。とはいえ、既に経済警察が置かれて経済の仕組みは統制経済、近衛文麿が大政翼賛会を作って政治的にも政党政治が死に絶え、蒋介石との戦争に莫大な戦費を使っていますから、とっくの昔に総力戦は始まっているとも言えますし、もうちょっとつっこんだことを言うとすれば、全島民ということですから女性、子供、老人も組織化するとしても、一体、それが戦争にどういう役に立つのか私にはちょっとよく理解できませんし、そういうことをやろうとするというのは日本帝国に焦りがあったことの証明のようにも思えます。

台湾は南進論の拠点と位置づけられており、当時既に東南アジア進出(侵略?)は既定路線になっていたわけが、当時、それらの地域はほぼ全域が欧米の植民地だったので、欧米諸国と戦争するつもりが充分にあったということも分かります。当該の号では、アメリカ、イギリスの民主主義・自由主義の体制に対抗して民族生存の戦いが行われるという趣旨のことが書かれてありますから、やなりわりと早い段階でアメリカとの戦争は想定されていたと言えると思いますが、一方でよく知られているように、中央ではぎりぎりまで本当にアメリカと戦争するべきかどうかで悩みぬき、憔悴していたとすら言える印象がありますし、ぎりぎりのところで近衛文麿が思いとどまろうとして東条英機の反発に遭い、首相の座を投げ出すあたり、政治家は迷っていたけれど、官僚は準備万端整えつつあったと見てもいいのかも知れません。もちろん、官僚は目の前の仕事に力を尽くしたのだと思いますが、大局的な判断するべき閣僚たちが右往左往の状態に陥っていたと見るべきなのかも知れません。

ここは想像になりますが、中央の意思決定関係者たち(政局関係者たち)、軍、官僚、植民地官僚、外交官がそれぞれにある人はアメリカとの戦争は困ると言い、ある人は蒋介石打倒のためなら世界を相手に戦争すると言い、ある人は戦争以外の手段で東南アジアを自分たちのブロックを確立しようとし、全体としては大東亜共栄圏という国策がある以上、周囲との軋轢、摩擦、対立は避けられないとも思えるものの、その国策はやめてしまおうという勇気のある人はいなかった。それが結果としては滅亡への悲劇につながったのではないかという気がします。


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昭和史70‐日ソ中立条約

昭和16年4月、日本の松岡洋右外務大臣と、ソビエト連邦のモロトフ外務人民委員が署名し、日ソ中立条約が成立します。内容としては日ソ相互不可侵、満州国とモンゴルの領土保全、第三国と戦争になった場合は中立を守るというもので、当時は松岡洋右の外交の大勝利と言われたようです。松岡はベルリン、モスクワ、満州、汪兆銘南京政府、日本帝国にわたる広大な地域が協力関係を結ぶことによりアメリカに対抗するという構想を考えていたと言われており、それはたった一つの誤算を除いて概ね正しい考え方だったかも知れません。ヨーロッパ戦線ではドイツはイギリス上陸こそ阻まれたものの、優勢であることには変わりなく、日本はソビエト連邦と戦争する心配がなくなったので安心して南進に専念できるというわけです。

しかし、たった一つの誤算によってその構想は結果としては大破綻へと繋がって行ってしまいます。私の手元にある資料の昭和16年5月1日付の号では、松岡は先にヒトラーとムッソリーニの諒解を得たうえで日ソ中立条約を結んだとされていますし、実際、ドイツとソビエト連邦が不可侵条約を結んでいて、このことで防共を国策にしていた平沼騏一郎首相が欧州事情は複雑怪奇と首相を辞任するという状態でしたから、日ソ中立条約で松岡洋右がユーラシア大集団安全保障ができあがったと考えたとしても不思議なこととは言えません。ただ、まさかアドルフヒトラーが独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に攻め込むとは考えていなかったというのが唯一の誤算であり、いろいろな意味で命取りの誤算だったとも言えるように思えます。

イギリス・アメリカはヒトラーのソビエト連邦侵攻は既に予想しており、その予想については松岡の耳にも届いていたとも言われています。ヒトラーはバイエルン地方の山荘に大島駐ベルリン大使を招き、ソビエト連邦へ侵攻する意思を伝えるということもありましたから、松岡が上に述べた大安全保障構想はそれが成立する前から既に破綻する方向に向かっていたのかも知れません。欧州事情、正しく複雑怪奇です。真っ直ぐで正直、誠実を美徳とする日本人が策士を気取って動き回れるような甘いものではなかっとも言えそうです。

ナチスドイツがヤバい集団だということは当時も多くの人たちが気づいていたはずですし、日本人にも見抜いていた人はいたに違いないと思いますが、アメリカを脅威に感じる不安によって現実を歪んだ形で理解されるようになってしまったのかも知れません。ドイツがバルバロッサ作戦でソビエト連邦に侵攻したのは、松岡構想の破綻を意味しますし、本来であれば国際信義を無視するナチスを見限ってこそ正解になるはずですが、日本帝国の中枢では大島大使の情報が正しかったことに驚き、その後大島大使から主観と願望が入り混じったドイツ必勝の確信の電信を信じ込んだというのは、現代人から見れば、この点に関しては同情する気にもなれず、がっくしするしかありません。ドイツからは日本も極東ソ連に侵攻するように矢のような催促があったと聞いたことがありますが、日本帝国はそれでも律儀に日ソ中立条約を順守し、最後の最後でスターリンにはしごを外されるという無残な終焉を迎えます。

日本はヒトラーに騙されてスターリンにも騙されるという、まるで滑稽なピエロのようなものだったわけですが、日本人として情けなさ過ぎて涙も出ません。ただただ、がっくしです。アドルフヒトラーには彼個人の妄想があり、日本帝国には打倒蒋介石という別の妄想とアメリカに対する恐怖心があって頭がいっぱいになっており、日本とドイツの同盟は同床異夢の感を拭うことができません。日本はドイツと単独不講話の約束もしており、これはドイツだけ講話して日本だけはしごが外されてはたまらないという不安を払拭するためにした約束ですが、太平洋戦争が始まった後、シンガポール陥落後に講和への努力をしなかったのは、ドイツとの約束が足かせになっていたからで、騙されまくりながらも自分たちは律儀に約束を守り、結果として滅亡するわけですから、目も当てられないというか、資料を読みながら「見ていられない」という絶望感に打ちのめされます。

当該の資料では、他にヒトラーユーゲントに着想を得て植民地の若者に体験入営させるたという内容の記事もあり、当時の日本のドイツ信仰が如何に強力だったかを思い知らされます。宮崎駿さんが「日本人は戦争が下手だから、戦争はやらない方がいい」と言っていた動画を見たことがありますが、私も全く同感です。

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昭和史69‐アメリカは参戦しない?

昭和16年4月1日に発行されたとある情報機関の機関紙では、アメリカの事情が座談会形式で紹介されています。当時官僚だった人がアメリカに渡航して帰ってきて、アメリカ近況を雑感のような感じで話しているのですが、アメリカ人の対日感情は頗る悪化している一方で、アメリカの海軍力は日本の帝国海軍に比べて劣っており、戦闘機の性能も日本の方が高く(『風立ちぬ』みたいにとことん研究し抜いて世界一軽い飛行機を作ったわけですから)、アメリカにはとても参戦する準備ができていないと述べられています。そのため、日本には経済的な圧迫を加え続ける必要があると考える人が多いとも述べています。

また、もしアメリカがヨーロッパの戦線に参戦するとしても、それはアメリカがドイツに勝てるという目途が立つなら参戦するだろうけれど、ドイツが圧倒的有利な情勢なので、アメリカは参戦しないだろうとも述べています。更にアメリカはいわゆるモンロー主義の国なので、戦争にそもそも消極的なので、やっぱり参戦はないというわけです。で、話題はドイツ軍のイギリス上陸はどうかという方向に向かい、これは結構難しいかも知れないから、今どうするべきか検討中。

というような内容でした。ざっと読んだ感想としては状況の分析は非常に正しいとも思えます。日本側から真珠湾への一発がなければアメリカ世論は戦争には賛成しなかったでしょうし、当時はまさか日本から真珠湾攻撃をやるとは誰も知らない(山本五十六は既に何度も頭の中でシミュレーションしていたことでしょうけれど)状況ですから、アメリカの参戦はないと考えるのは「常識的」と言ってもいいかも知れません。また、ドイツ軍のイギリス上陸はそんなに簡単ではないという見方も正しいと言えます。結果としてはイギリスの海軍力がドイツのそれを圧倒し、アドルフヒトラーはイギリス上陸を断念することになったわけですから、ほとんど無謬と言ってもいいほど正鵠を射た分析とも思えます。ドイツがバルバロッサ作戦を始めるのはこの年の6月ですし、ドイツとソビエト連邦は不可侵条約を結んでいたことも考えれば、まさかドイツが二正面作戦をやるとは誰も考えていなかったわけで、繰り返しになりますが、本当に正しい分析としか言いようがありません。

ただ、やはりこの世は一寸先は闇と言うべきかも知れないのですが、イギリス攻略を断念したヒトラーがソビエト連邦に矛先を向けてから状況が一変したことを現代人である私たちは知っています。二正面戦争で手が回らなくなり、ナチスドイツは滅亡していくという運命を辿ります。そのドイツを頼みにしていた日本帝国も道連れに滅亡するわけです。日本帝国も資本、物量では劣っており、昭和15年の東京オリンピックも東京万博も開催できなかったわけですから、枢軸国サイドは資本・物量で敗けており、長期戦になれば勝てないということは、考えてみれば歴然としていたと言ってもいいかも知れません。

ナチスドイツはプロパガンダに於いて大変に成功していたと言われています。日本帝国もナチスのプロパガンダに引っかかってしまったような気がしなくもありません。古い資料は推理小説を読んだりするほど面白いわけではないですが、当時の人の考えていたことがよく見えてきますし、当時の空気、教科書には書かれていない細部についても見えてきますので、それが醍醐味と思います。もうしばらく、この資料を追いかけていくつもりです。

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昭和15年11月30日、日満華共同宣言というものが出されます。同日、南京で日華基本条約も結ばれています。ここで言う「華」とは、汪兆銘政権のことを指します。当該の共同宣言では、日本と満州国、汪兆銘の中華民国の相互承認及び日満華経済ブロックの確立、更に防共をうたっているわけですが、私の手元にあるとある情報機関の昭和16年1月1日号(新年号)では、当該情報機関がその後の展開をどう考えていたかがよく分かる(つまり、日本帝国の考えていた方向性がよく分かる)記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。

当該の記事では日満華は「共同の理想」があるとし、その共同の理想とは「アジア人によるアジアの解放」であり、「大東亜広域共栄圏」の確立としています。「大東亜共栄圏」ではなく、「大東亜広域共栄圏」としているあたり、いわゆる大東亜共栄圏構想がまだはっきりとは定まっていない、手探りの段階だったことを示すのではないかとも思えてきます。

続いて、当該の記事では日本と蒋介石政権との戦争は単にその二つの勢力の戦いではなく、蒋介石を支援する英米を中心とした列強との闘いであるとも強調されています。即ち、遅くとも昭和16年初頭の段階で日本帝国は世界を敵にして戦う決意を固めつつあったということが見えてきます。言うまでもないことですが、世界を敵にして戦って勝てるわけがありませんから、その後、日本帝国が滅亡の過程を辿って行ったのは当然の帰結と言うことができるかも知れません。当該記事ではフィリピンに於いてアメリカの航空勢力が拡充されている点に警戒感を示し、オランダ領インドネシアでは排日運動が盛んになって、嫌がらせされていることへの嫌悪感も書かれており、やはり世界を相手に戦争をする気がまんまんであったということが分かります。

もちろん、このように強気の姿勢で事態に臨むことができたのは日本にはドイツのアドルフヒトラーがついているということが自信の根拠となっていたわけなのですが、さすがにアドルフヒトラーと組むという悪手を選んでしまったことに、21世紀の現代を生きる日本人としてはがっくりするしかありません。ドイツの技術力は見事なものだったらしいのですが、資本力の底力みたいなものの点では英米に対しては各段に劣っており、長期戦になれば資本力がものを言うわけですから、アメリカ、イギリスサイドではさほど悲観的ではなかったようです。イギリスでは既にチェンバレンが退き、チャーチルが首相の座に就いていましたが、チャーチルはアメリカの参戦を心待ちにしており、ルーズベルトは日本に先に一発撃たせることで国内のモンロー主義を一掃し、英米世界秩序みたいなものを維持しようと考えていたという話は随所にありますから、日本がアドルフヒトラーをどんなに頼りに思っていても、アドルフヒトラーは実はそこまで強くなかったという現実に気づいていなかったというのが日本帝国の悲劇なのかも知れません。ドイツと同盟していなければ日本の政治家や軍人がここまで強気になることはなかったでしょうから、かえすがえすもがっくし、残念、何をやっているのだか…と辛い心境にならざるを得ません。私の手元にある資料は昭和17年までありますので、もう少しの間、資料の読み込みを続けたいと思っていますが、どうしても暗い心境になってしまいます。

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昭和史67‐ビルマルート爆撃

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和15年12月1日付の号では、ビルマの援蒋ルートを日本軍が爆撃したことに関する記事が掲載されていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事によると「イギリスをはじめアメリカやロシアは飛行機、自動車、弾丸、鉄砲を重慶に売り込んで蒋介石の後押し」をしていると述べられており、イギリス、アメリカ、ロシアの真の目的は日本と蒋介石政府の双方を弱らせて東洋の土地を奪うことだとしています。

で、メコン川の遥か上流のヒマラヤ山脈を伊豆の踊子の如く九十九折りになって重慶へと向かうトラックを足止めするために、ヒマラヤ奥地の橋を爆撃したという武勇談が述べられているわけですが、この段階でイギリス、アメリカをはっきりと「敵認定」していることが分かるほか、当該記事ではソビエト連邦も敵認定していることが感じ取れます。

爆撃した橋は「功果橋」と呼ぶらしく、その橋が果たして誰の所有なのか、イギリス領ビルマの範囲内なのか、それともチベットなのか或いはちょっと見当のつかない場所なのかは検索をかけてみてもわからなかったのですが、蒋介石政府にたどり着く前の地点を攻撃しているわけですから、既にイギリスとは戦闘行為が始まったと受け取ってもいいくらいの事態に昭和15年末頃の段階で発展していたということが分かります。

日中戦争が始まった当初、アメリカはモンロー主義で、芦田均の『第二次世界大戦外交史』ではイギリス、フランスオランダは当初日本と事を構えて東南アジアの植民地を失うことを恐れていたとも書かれてありましたから、そもそも欧米と事を構えることを日本帝国の当局者も想定していなかったのではないかと思います。早々に戦争を終わらせていれば、太平洋戦争になることはなかったかも知れません。ところが、延々といつまでも戦争が終わらず、近衛文麿はここぞとばかりにそもそもの持論である全体主義的統制経済をやり始め、軍需品が必要ですから民生品が品薄になり物資不足で資金も不足という深刻な事態に陥りつつある中で、愈々欧米諸国とも事を構える決心を堅めつつあるあたり、読んでいる現代人の私としては背筋が寒くなる思いです。

当該の情報機関は当初は台湾とその対岸の広東、南京あたりの情報収集及び戦果の宣伝みたいなことをしていたのですが、だんだん手を広げるようになり、フィリピンインドネシアインドシナと範囲が拡大して今回とうとうビルマまで手を出したという感じです。「東亜共栄圏」なる言葉が公然と使われ始め、日満支(汪兆銘政権)だけでなく、東南アジア全域を含む日本経済ブロックを作ろうとしていたわけですが、どうも当初からそのような想定をしていたわけではなく、どこかの時点で「行けるところまで行こう」という発想になったように思えます。行けるところまで行こうとすれば、必ず欧米の大国と戦争になるまで突き進むことになりますから、そういう決心をした段階で日本帝国滅亡フラグが立ったも同然とも思え、かえすがえす「馬鹿なことを…」と思はざるを得ません。広田内閣の五相会議で南進が採用され、近衛内閣の閣議で南進が改めて正式に国策として採用されたことから、官僚主義的に深く考えずに国策通りに進んだのかも知れません。一旦決まった政策について臨機応変できないあたり、今ももしかするとあまり変わらないのではないかという気もします。援蒋ルートを断ちたい陸軍と日本経済ブロックを作りたい政治家と、宮崎滔天や頭山満みたいな民間の大アジア主義がぐちゃっと混ざって肥大したという感もなくもありません。精工に練られた構想というわけではなく船頭多くして船山に登る式の場当たり的、ご都合主義的な拡大主義が見て取れます。

一重に蒋介石との戦争に勝つために遠いビルマまで爆撃に出かけ、英米と険悪になり対抗策としてドイツのアドルフヒトラーと結ぶという悪手を選び、滅亡への坂道を転げ落ちようとしている日本帝国の姿を追うのは心理的なダメージが強いですが、取り敢えず手元の資料は全部読む覚悟で読み進めています。

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昭和史56‐ドイツ必敗予言‐次期大戦の経済的研究

とある情報機関の機関紙の昭和14年12月11日付の号で、ポール・アインチヒという人物の『次期対戦の経済学的研究』について言及されている記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。ポール・アインチヒという人物について検索してみたところ、彼はルーマニア出身で後にフィナンシャルタイムスの記者になり、英国に帰化した人物のようです。で、当該の記事に曰く

先づ「英国は戦闘には敗けるかも知れないが、戦争にはきっと勝つであらう」と云ひ又、「ナチス・ドイツの恐るべき戦闘力に、たとひファシスト・イタリーの援助があったにしても、民主主義国が必ず勝つといふことは、戦争の結果が大いに経済的理由によって左右されるものである限り、疑ひに一点の余地もない」と断じまして最後に左の如く結んでおります。
「若しも第二次世界大戦が始まるならば、それは必ずや長期戦になるであらうが、長期戦に於ては経済的理由が勝ち負けを決する極めて重要な要素であるから、英吉利のやうな金準備が豊かであり、之によって豊富な食料品や原料品を得られる国は、独逸のやうな金が少く又、食料品や原料品の乏しい国に対し、必ず最後の勝利を得る事が出来る事は、前大戦の時と同じである」と言うて居るのであります。

と紹介しています。後の歴史の展開を知っている我々から見れば、ポール・アインチヒのドイツ必敗の予言はその理由も含めて完璧に的中したということが分かりますが、当該記事の筆者は、「必ずしもそうとは思はない」としながらも、「近代戦」が経済戦であることは認めています。次いでアドルフ・ヒトラーの著作である『我が闘争』の内容を紹介し、ヒトラーがドイツが第一次世界大戦で敗けたのは、銃後の国民が節約に徹しなかったからだと述べているとして、日本も蒋介石との長期戦に勝つためには、国民が隠忍自重し、我慢を重ねて贅沢をせず、節約して経済戦に勝たなくてはならないとしています。当時の段階は、英米の蒋介石政権への肩入れは明らかで、何せ世界の大国であるアメリカとイギリスが蒋介石に存分に援助を与えているわけですから、経済戦の面でも昭和14年の段階で、緒戦で連勝しながらも実は日本の側が窮していたわけで、当該記事の著者もその事情ははっきりしすぎるくらいによく分かっていたようで、筆致からは焦燥感のようなものを感じ取ることができます。当時の日本はすでに経済戦でも敗けていて、国際世論は日本に味方せず、東南アジア華僑も蒋介石支持でしたから情報戦でも敗けていたと言わざるを得ないように思えます。また「大東亜共栄圏」という理念も、要するに植民地をたくさん持っているイギリスは何かと有利なので、日本もそうしたい、或いはそうしないと世界に追いついていけないという焦燥感と表裏一体、不離不足だったということ、イギリスみたいになるためには、遅れてきた日本のような帝国も経済ブロックを持たなくてはいけないという、切実さのようなものも感じ取れます。

結果としては日本帝国は植民地の維持だけでも大変で、更に満州国や汪兆銘政権への援助で手いっぱいになり、太平洋戦争が始まると占領地が広すぎてどうしていいか分からないというところまで追い込まれていきますから、石橋湛山の言うところの「小日本主義」が正しかったと言えますし、戦後の日本が繁栄したのも、小日本主義に徹したからと言えるようにも思います。いよいよ昭和15年、アメリカとの開戦前夜の息詰まる危機感と焦燥感のある記事がどんどん出てくるはずですから、日本人の私としては歴史に関心があるという意味では、多少わくわくもしますが、同時に日本帝国の滅亡へのまっしぐらを辿るわけですので、何ともやりきれない心境にもなってしまいます。


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昭和史46‐東亜ブロック経済

私が追いかけている情報機関の機関紙の昭和14年7月21日付の号では、東亜ブロック経済の建設の必要性が主張されています。簡単に内容を説明すると、イギリスは大英帝国でブロック経済をやっている。フランスもまたしかり、ソヴィエト連邦もまたしかりである。これら欧米列強は既に自分たちが多くの植民地を得てブロック経済をうまく回しくいうことができるのに対し、日本はそうではないから、台湾を拠点に、現在占領しつつある、海南島、広東地方、南洋諸島とも連携してブロック化していくべきだという内容になっています。実は日本は常に物資不足、戦費不足に悩んでいましたから、満州でもどこでもアメリカ資本を呼び込んでマージンをとるような商売をした方が早いと私は思うのですが、時代が時代というか、自分たちの植民地を持たなければ安心できない。さあ、みなさん、日本帝国ブロック経済のために邁進しましょうというわけです。当該の文章では、蒋介石が中国を半分植民地みたいにして列強にうまみをもたせる、要するに「売国」することで欧米からの援助を得て日本の進撃を阻んでいるのでますます許せんというわけです。

ブロック経済は要するにその地域内だけで自給自足し、盟主(イギリス、フランス、または日本)が儲かる仕組みを作るというわけですが、当該の号で一つ関連記事と思えるものがあったので、それも紹介したいと思います。台湾在住華僑たちによって排英運動が起きているというのです。

同年7月18日に排英運動の華僑大会が開かれたとされています。要するに、上に述べたようなブロック経済の推進を台湾在住華僑も賛成していて協力的だぞと言っているわけですね。同大会では東亜秩序を見だし、搾取を続けるイギリスは許せんとする宣言を採択し、英大使に対する勧告電として「事変以来、英国ノ援蒋政策ハ東亜ヲ乱スモノニシテ、恨骨髄二徹スルモノアリ 時既二至レリ、速カニ援蒋政策ヲ放棄シ正義日本ト協力セヨ、サモナクバ東亜ヨリ撤退スベシ」という文章も掲載されています。台湾在住華僑の人たちの心境は非常に複雑なものがあったでしょうから、この声明文のどこまで本音なのか、見抜くことはなかなかに難しい作業です。中華系の人にも対日協力者がいたことは間違いのないことと思いますから、あるいはそういう人が熱心に進めたのかも知れませんし、あるいは日本帝国域内で暮らす華僑にとってはとにかく身の安全というものを図らなくてはならないという不安もあったでしょうから、その不安を解消するためだったのかも知れません。そのあたりは、もはや神のみぞ知るところかも知れません。

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