スコセッシ監督『タクシードライバー』の運命の分かれ道

マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』では、ニューヨークの若きタクシー運転手をロバート・デ・ニーロが演じている。デニーロは大統領選挙の候補者の事務所で働く女性をナンパし、デートに連れ出すことに成功するが、結局のところはフラれてしまい、自分がもてないことを世の中のせいにする、よくある若者のように銃を購入し、それを使用するチャンスを伺おうとする。そして一旦は彼をふった女性の勤務先の大統領選挙候補者の演説場所まで出かけるが、政治家のボディガードに目をつけられてしまい慌ててその場を逃走する。

このシークエンスと並行しつつ、デニーロと12歳の少女との出会いが進行していく。12歳の少女の役はジョディフォスターが演じていて、びっくりするくらいかわいいのだが、映画では家出した彼女は体を売ることで生計を立てており、彼女を買いたい場合は仲介人を通さなくてはならない。仲介人とそのボス、そして彼女の生活の場兼サービスの提供場であるホテルの経営者が絡んでおり、要するに彼女はそのような悪い奴らに食い物にされているという構図になる。

政治家の暗殺を諦めたデニーロはジョディフォスターを救出することに目標を変更し、仲介人とそのボス、そしてホテルの経営者を撃ち殺し、ジョディフォスターはめでたく実家へ帰ることになる。彼女の両親からはデニーロに感謝の手紙が届き、彼は3人も殺害しているにもかかわらず、少女を救出するという英雄的な動機による行動であることから免責され、以前と同様にタクシードライバーの職を続けるという流れになっている。

さて、ローティーンの少女を利用した管理売春はゆるされる行為ではない。まず管理売春がゆるされないし、ローティーンの少女にそれをやらせているということもゆるされない。当然、そんな奴らは罰せられなければならないと言えるだろう。だがここで、敢えて比較衡量してみたいのだが、果たしてローティーンの少女の管理売春を終わらせるという行為と3人の男に対する裁判なしのリンチ死刑はつり合いのとれるものだろうかということだ。感情的なことを言えば、家出娘を食い物にする3人の男たちが殺されても全く心は痛まない。よくやったデニーロということになるし、そういう前提で映画も作られている。しかし、ちょっと冷静になった場合、本当に3人も殺しておいて無罪放免でいいのかという疑問が私には残る。もちろん、映画に法理法論を持ち込んでも仕方がないので、飽くまでも考える材料としてではあるが。

あと疑問に残るのは、デニーロは闇の組織の人間を3人殺しているのだから、組織から報復を受けないのだろうかという疑問も私の内面では何度も浮上した。ニューヨークで以前の通りに生活していたら、殺されるのではないだろうか。

ついでに言うと、デニーロは3人殺した後にジョディフォスターの部屋で警察に発見されるのだが、破壊力の強いマグナムみたいなのを持ってローティーンの女の子の部屋にいる男であれば、問答無用で現場で警官に撃ち殺されるのではないだろうかという疑問も残るのである。

もちろん映画なので、そのような疑問を持つことにもしかするとあまり意味はないのかも知れない。だって映画なんだから。ではこの映画の一番の考えどころは何かと言えば、女性にフラれて世の中に恨みを持った男が銃を購入した後の、銃の使い道である。デニーロが最初に考えたことは政治家の暗殺だった。幸いなことにボディガードに目をつけられて現場を逃げ去るということで彼はそのような明白な犯罪を犯さずに済んだのである。もしボディガードがちょっと抜けているような場合であれば、彼はその犯行を成し遂げただろうし、その後は確実に逮捕されるかその場で撃ち殺されるかのどちらかになっていたはずである。繰り返しになるが彼は幸運にもその犯行に失敗し、次のターゲットとして選んだのがローティーンの少女を食い物にする悪いやつらで、デニーロは英雄になることができた。スコセッシ監督は禍福は糾える縄の如しというようなものを描きたかったのかも知れない。デニーロが犯罪者になるか英雄になるかは紙一重だったのである。突き詰めれば政治家のボディガードがたまたま優秀だったという一点にかかっていたとも言えるだろう。

ショーン・ペンの出ている『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画と『タクシー・ドライバー』が私にはダブって見える。ショーン・ペンの場合、空港の職員が優秀ではなかったので銃を持ったまま飛行機に乗り込み、そこで犯行を犯した彼は撃ち殺されてしまう。デニーロがショーン・ペンみたいな末路を迎える可能性もあったわけで、私には『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画は、『タクシー・ドライバー』のデニーロがもし途中で方向転換しなかったらどうなっていたかを描こうとしたのではないかという気がするのである。デニーロもショーン・ペンも人生が思うようにいかず世の中を恨んでいるという点で一致しているし、銃を手に入れて世の中に復讐してやろうと考えるところまでも一致している。しかし、ショーン・ペンの方は運悪く途中まで目論見通りに進んでしまったので撃ち殺され、デニーロは幸運にも最初から目論見通りにいかず、英雄になったというわけだ。教訓としては、人生にはいろいろなことがあるし、世の中を恨みたくなるようなこともあるかも知れないが、だからと言って他人を傷つけるようなことを考えたり、実行しようとするのはよした方がいいということになる。デニーロも運が悪ければどこかの段階で殺されていたかも知れないのだ。世のため人のため、真面目に誠実に生きていれば、きっといいことがあるはずだ。

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プライベートライアンと捕虜の問題

スピルバーグの『プライベートライアン』という映画では、主要な話題の一つとして捕虜をいかに処遇するかという問題が描かれている。

何度か観れば気づく(一回観ただけで気づく人もいるかもしれない)のだが、降伏の意思を示したドイツ兵、または戦闘意欲を失ったと見られるドイツ兵に対し、躊躇なく銃弾が浴びせられ、殺される場面が複数回映画の中で登場する。それは画面の端の方で起きていたり、短い時間しか割かれていないため、見落としがちなことだと思うのだが、作り手は当然、意識して気づく人には気づくようにそれを入れ込んでいると私は思っている。

単にそのようにさりげなく入れこまれているだけではなく、ライアン二等兵を探しに行く小部隊が敵と遭遇し、銃撃戦の末に一人のドイツ兵を捕虜にする場面がある。部隊員たちは戦闘直後で戦友を失ったこともあり気が立っていて、ドイツ兵に対する強い殺意を持っており、自分の墓穴を掘らせるということまでしている。自分のための墓穴を掘らせるのは、捕虜に対する侮辱行為とも言えるので、この段階で既に国際法違反の疑いは濃厚なのだが、墓穴を掘らせるということは、その後の処刑を暗示するのに充分であり、それもまた国際法違反になるはずだが、もし本当に命を奪えば疑いなく国際法違反である。しかし、小部隊と捕虜一人なのだから、密かに始末したとしてもバレる可能性は低い。先に述べたように感情的には激しい憎悪を抱いているのだから、展開としてはこのまま殺すのだろうか?という疑問を持ちつつ観客はことの推移を見守ることになるのだが、通訳として参加していた兵士が隊長のトムハンクスに国際法の順守を強く主張し、トムハンクスもそれも確かに言えているという感じで処遇に悩む姿が描かれる。現実的な問題としても数名の小部隊なのだから捕虜を管理する能力を備えているわけではなく、前進しなければならない任務も負っているため、捕虜の後送も現実的ではないし、捕虜が自分で歩いて連合軍の後方の基地へ向かい投降することは考えにくい。戦友が殺されたことへの憎悪がある一方で、捕虜は命乞いをしており、命乞いをする捕虜の命を奪うことは、人間的感情の面からも受け入れがたい。という悩ましい状況に陥るのである。

結果、トムハンクスは捕虜の解放を決心し、目隠しをしてこのまま1000歩まっすぐ歩いてここから立ち去れという指示を出し、命からがら助かった捕虜は言われた通りにして姿を消す。だが、当該のドイツ兵は改めてドイツ軍に復帰し、トムハンクスの部隊と交戦する。このドイツ兵は頑強な兵士として描かれており、なかなかに強く、トムハンクスの部下も倒すし、銃撃でトムハンクスをも倒す。国際法の順守を訴えた通訳兵とも遭遇するのだが、ドイツ兵にとっては命の恩人でもあるので、通訳兵のことは見逃し、彼は戦闘を続行する。戦況的にはドイツ軍優位で進むように見えるのだが、終盤になって連合軍の航空戦力が応援に駆け付け、ドイツ兵は抗戦不可能を悟り、降伏する。通訳兵はそもそも戦闘に参加するだけの勇気がなく、隠れていたのだが、この時になってドイツ兵の前に銃を向けて登場する。ドイツ兵は命を助けてもらった恩義があるので、親愛の情を見せようとするのだが、彼がトムハンクスを倒すところを物陰から見ていた通訳兵は、そのドイツ兵を撃ち殺す。既に投降の意思を見せている以上、明白な国際法違反であり、戦争犯罪だ。

だが、映画の全体の構成から言えば、命を助けたドイツ兵が隊長のトムハンクスを倒したのだから、「弱虫」の通訳兵が勇気を振り絞ってついに自分の意思で立ち上がり、隊長の仇をとったことがある種のクライマックスとして描かれている。

このような映画の構成から我々は何を読み取ることができるだろうか。複数回登場する、無抵抗のドイツ兵の殺害場面には一切の情けは感じられない。そしてそれを批判する論調も映画からは感じ取れない。また、命乞いをするドイツ兵が結果としてトムハンクスを倒したという事実は、情けをかけた相手に仇で返されたとも言え、通訳兵が飛び出して来てそのドイツ兵を倒すことが英雄的な場面として描かれているということを考えれば、私には結論は一つしかないもののように思える。即ち、ドイツ兵と言えば国際法的にも認められた正規の兵士とも言えるが、ナチスまたはその協力者である。そして、ナチスに情けは一切無用という問答無用の信念をスピルバーグが持っているということではないかということだ。ドイツ兵に国際法は無用ということだ。

スピルバーグはユダヤ人で、幼少年期には収容所から生還した人から腕に刻まれた囚人番号の入れ墨を見せられるなどの経験をして育ったと読んだことがある。そのため、ナチスを批判的に描くことには積極的であり、決して情けをかけようとはしない。たとえばインディジョーンズでドイツ兵はわりとよく登場するが、彼らが人間的な要素を持っているという描写は絶対にないし、インディジョーンズ本人も彼らは殺してもいいという確信を持っていると言ってもいいように思える。『シンドラーのリスト』では、ナチス党員でありながらユダヤ人の命を救ったシンドラーを顕彰している面はあると言えるが、道楽で人助けをしたことへの後悔を号泣するという形で表現しており、たとえシンドラーであっても完全に免罪されるとは言い難いという思いがスピルバーグの内面にはあるのではないだろうかと私には思える。

もちろん、私もナチスドイツには賛成しないし、ホロコーストは当然に批判されなくてはならないし、それは徹底批判されて当然であるとも思う。なので、スピルバーグの作品作りに異論はない。先日『ターミナル』を観て、私は爆笑し、感動した。スピルバーグは天才だと思った。『ターミナル』もまた、主人公は亡国の民である。スピルバーグの作品を掘り下げて考えれば、常にそこに辿り着いていくのかも知れない。日本はナチスと同盟していたことがあったが、『太陽の帝国』では日本人を人間的に描いてくれているので、そういったことには感謝したい。

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ビューティフルマインドの逆転人生を考える

プリンストンの天才ナッシュ教授はいつのころからか統合失調症を発症し、ありもしないソビエト連邦のスパイ網の暗号コードを新聞や雑誌から読み解き始める。彼には親友もいるし国家機密級の仕事のための相棒もいる。しかし、親友も相棒も実は彼の脳が生み出した幻覚であり、彼は精神病院に強制的に入院させられることになる。

その後退院するが、毎日服用する薬の副作用で頭が充分に働かなくなり、天才的な数学者だったはずが、まったく仕事ができない日々を送るようになる。妻が仕事をし、家族の生活を支えるのだが、当然に重苦しい日々を送らざるを得なくなる。妻は時に彼の症状に付き合い切れなくなるからだ。

だが、やがて彼はかつてのライバルでプリンストンの教授になった友人に頭を下げ、社会適応のために図書館へ出入りする許可をもらうことができ、長い長い日々を図書館通いで過ごすのである。幻覚の親友と相棒はついてまわるが、彼は意を決して彼らを無視する。このまま人生を終えてもおかしくはないのだが、とある学生に質問をされ、それに答えるうちに私的なゼミのようなものを開くようになり、やがて教鞭を取るところまで社会的に回復し、最後の最後でなんと若いころに書いた論文の成果が認められノーベル賞を獲るというジェットコースターのような人生を描いた映画が『ビューティフルマインド』だ。

彼の人生を俯瞰すれば、全体として成功しているように見えるが、病気との格闘は絶望的な心境に彼を陥れたに違いなく、それ以前の経歴があまりに素晴らしすぎるからこそ、療養生活を送らざるを得ないことは堪えたに違いない。

果たして彼を救ったのはなんだったのだろうか。私は二度この映画を観たが、もし自分だったらと我が身を振り返らざるを得ない。妻が彼を見棄てなかったことは大きい。人生で最も辛い時の同伴者が彼の妻だった。そのようなパートナーがいる人は幸福だ。そして若いころ、すでに発症していたが、本人も周囲も気づいていないような時に仕上げておいた仕事が彼を社会的な復帰に大きな助けになった。

私は、私のようなコミュ障が彼と同じ境遇になった時に自分を支えてくれるパートナーを得られるかと自問したが自信はない。また、今仮にそういう境遇になった時にそれでも自分を助けてくれるだけの仕事の蓄積があるかと自問しても自信はない。

しかし、彼が彼自身を救うことができたのは、発症以前の栄光だけによるものではないことも繰り返しみると分かってくる。彼はまず、自分が病人であることを認めることにより、症状に苛まれなくなった。正確に言うと症状は続いたが、幻覚に自分の行動が影響されなくなる程度にまでコントロールできるようになった。自分が病人だと認めなければ、症状をコントロールすることもできない。彼は重篤な病人だったし、社会的な居場所を一時的には失ったが、病人だということを自覚した上で、友人に頭を下げ、じょじょに社会適応し、やがて社会復帰を果たしたという側面は否定しがたい。彼は不運な病によって人生の敗北者だと感じたかも知れないが、人生の敗北者だということを認めることにより一歩ずつ回復へと歩いて行ったのだと言える。

この作品から我々のような凡人が得られる教訓は、自分がもし何らかの理由で不愉快な立場に転落してしまった時、過去の栄光にすがろうとせず、自分の現状を素直に認め、真摯に取り組むことで、人生をやり直すことではないかという気がする。

私にも他人には言いにくい深い挫折の経験がある。そしてその挫折から今日に至るまで、苦しみ続けてきたが、一歩ずつ、社会的にも人間的にも回復を重ねて来た。そのため、ナッシュ教授の人生を完全な他人事と片付けることができない。私は挫折したばかりのころはそれを受け入れることができず、今も完全に受け入れることができているかは分からないが、少しずつ挫折を認め、挫折した自分という立ち位置を認め、そこから回復するためのプランを練り、そのプランの全てが実現したわけではないが、ある程度は実現したので再び自分の人生を歩いているという実感はある。挫折した時、挫折したことを認めることが人生をやり直す第一歩になると言えるのかも知れない。

もう一つ得られる教訓としては、人生一寸先は闇であり老若男女問わず、いつどこで何が自分の身に起きるかわからないが、それまでに積み重ねて来たものが身を助けるということが言える。ナッシュ教授は入院させられる前に学位も獲り、実績も残したことがその後の人生の回復に役立った。我々がナッシュ教授ほどの大成果を残すことは難しいかも知れないが、それでも、もしものことが起きたとき、それまでに積み重ねてきたものが自分を助けるのだとすれば、日々の行いや精進、真摯な取り組みが大切だということは言えるだろう。いつ何があるかわからないからこそ、何事にも真摯に取り組むべきだ。真摯に取り組んだことの全てにいい結果が出るとは限らないが、取り組まなければ結果は決して出ない。それに、案外、自分で気づいていないだけで、自分の取り組みはそれなりに報われているのかも知れない。

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シンドラーはなぜ号泣しなくてはならなかったか

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は、あまりに安易に人がナチスに殺害される場面が連続して続くため、観客はそれが実話に基づいているだけに驚愕せざるを得ない。人命があまりにも軽く扱われていたこと、一部の人間をただ、それその人がその人であるという理由だけで死に追い込まれたこと、人間に対する罪の重みに考えさせられるし、日本人の観客であれば自分の祖父母の世代はこの連中と手を組んでいたという目をそむけたくなるような事実にも向き合わなくてはならない。

そのよう深刻な映画作品の中で、救いになるのはシンドラーという男の存在である。軽妙な会話とウイットに富み、金持ちで、敗戦へまっしぐらという絶望的な時代状況の下で贅沢な暮らしを楽しみ、女性にもてる。羨ましいご身分であり、その気楽な感じに安心感をついつい持ってしまうのだが、そのように彼が軽快に人生を楽しんでいるにもかかわらず、1000人を超すユダヤ人を強制収容所から救い出し、死の恐怖から解放したという人間としての功績もまた賞賛に値するものである。しかも、強制収容所から救い出す理由が軍需工場の強制労働者が必要だと言う偽悪的なものであるために、シンドラーからは偽善の嫌らしさを感じることもない。様々な意味で完璧な主人公だ。

しかし、映画の最後のあたりでシンドラーは号泣することになる。シンドラーが号泣したことについては、「興覚め」という意見もあったし、私もそう思った。果たして何故に、スピルバーグはシンドラーに号泣させたのだろうか。ナチスのユダヤ人迫害を憎むスピルバーグの立場からすれば、明るく楽しくユダヤ人の命を救ったシンドラーを、そのまま明るく楽しい人生を軽妙に生きる男として最後まで描いてもさほど問題はないはずのように思えてならなかった。

しかし、スピルバーグはシンドラーに号泣させることにした。私はその理由について何年も考え続けてきたが、最近改めて見直して、シンドラーは号泣しなければならなかった、シンドラーの号泣は二つの意味で必然であると考えるようになった。以下にその理由を述べる。
まず、シンドラーにとって人を救うことは道楽だった。道楽であろうと何であろうと人を救うことは賞賛すべきことだし、別に道楽でやってもいいではないかとも思えるが、シンドラーはナチスのユダヤ人迫害に対して、一人の分別のある人間であれば、敢然と戦わなくてはならなかったはずである。道楽でやるということは無理してまでは救わなかったとも言える。人の生き死にを神でもない人間が道楽で、自分のできる範囲でリストアップするという行為の恐ろしさに彼は気づかなくてはならなかった。彼はユダヤ人を工場労働者として連れてこさせるために金品を用いたが、それは徹底したものではなかった。彼はしっかり自分が贅沢できるだけの資金は残しておいたし、楽しい人生を犠牲にしてまで人助けをするつもりはなかった。そしてそれは罪深い。人の命を救助する際、それは道楽ではなく自分の存在を危うくさせることがあったとしても、それでも覚悟を持って尚取り組むべき「正義の戦い」でなければならない。シンドラーはそれをしなかった。映画として完結するためには、シンドラーはその罪深さに気づく必要があったに違いない。シンドラーが身に着ける様々なぜいたく品をナチスの担当者に渡せば、もっと救えたのである。金品よりも遥かに大切なものをシンドラーは救うことができたはずである。そのことに、敗戦が決まってから、もはやそうしなくてもよくなってから彼は気づいた。言い方を変えるならば気づくのが遅すぎたのである。スピルバーグはシンドラーを評価しながらも、気づくのが遅かったということの罪を糾弾している。そのため、シンドラーは興味深い男ではあっても英雄にはなれないのである。
 だが、単に糾弾の対象にするためにシンドラーが号泣する場面を挿入したというわけでもないと私は思う。シンドラーの人間的成長も描かれなければならなかったのではないかと私には思える。シンドラーは道楽で人助けをして悦に入っていたが、人助けは道楽でするものではない、もっと真剣に覚悟を決めてやるべきものでなくてはならなかったということに敗戦を迎えてから気づいたシンドラーにできることは号泣することしかなかったのである。しかし、たとえそれがユダヤ人を助けるという意味では遅すぎたとしても、一人の人間の魂の向上という点から見れば遅すぎるということは決してあり得ない。この作品はファシズムが特定の人間を迫害することの犯罪性を糾弾するだけでなく、同時にシンドラーという一人の男の人間的成長という二つの目的を持って制作されたと考えることができる。

それ故、スピルバーグのシンドラーに対するまなざしは決して冷徹なものではない。たとえ道楽とはいえ、ユダヤ人の救済に努力した男としてそれなりに賞賛しているし、更に人間的な成長の瞬間を迎えたのだから、その点に於いてシンドラーを祝福しているとも言えるのである。人が、その人の行動や考え方を変化させる瞬間に立ち会う時、それはたとえ日常生活でもある種の感動を伴うことがある。ナチスドイツの犯罪性を糾弾しつつ、シンドラーという男の成長物語も描いたスピルバーグはやはり言うまでもないが天才なのである。

『ファイナル・イヤー』‐オバマ大統領の壮大なイメージビデオ

オバマ政権最後の一年をカメラが追いかけ続けた『ファイナル・イヤー』は、オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないイメージビデオになっており、オバマ大統領が嫌いな人にとっては「かっこつけやがって」と別の意味で見ていられない作品と言えるかも知れません。

登場するのはオバマ氏とケリー氏、その他彼を支える周囲のスタッフたちなわけですが、マスメディアの見ていないところでカメラが回っているため、もうちょっと突っ込んだあたり、どのようにして彼らが意思決定をしているのか、どんな会話をしているのかというあたりを見ることができるのは興味深いです。ホワイトハウスの中がどうなっているのかも、僅かながら見て取ることも可能です。もちろん、見せられないところはカメラは回ってないでしょうから、歴史の評価を待たなくてはいけないとも思えます。

さて、とにかく彼らは走ります。走りながら意思疎通をしています。かっこいいの一言に尽きるいい場面が次々と出てきます。人が走る姿は見る人に感銘を与えます。なぜかは分かりませんが、人が走っている姿には何らかの感動的なものがあります。箱根駅伝をみんなが一生懸命見るのも、オリンピックのマラソンをみんなが一生懸命見るのも、なぜか分からないけど人が走るという姿に感動するからです。

で、この映画では大統領のスタッフたちが走るだけではありません。真剣な表情で議論を積み重ねる様子が撮影されています。世界の平和のために真剣な表情で議論を重ねる彼らの姿はもちろんとても絵になります。そしてなんと言ってもオバマ大統領の絵になることと言ったら文句ありません。高く評価されるスピーチ力、苦悩し、重大な決断を迫られる際の表情、どれも決まっています。

お決まり、お約束と言ってもいいですが、世界中を訪れて、人種、民族、宗教を越えてオバマ大統領が親しく話をする場面、特に子供たちとコミュニケーションする場面はこれでもかというくらいに登場します。子どもとコミュニケーションをする人はいい人と決まっているようなものですから、この映画のオバマ大統領いい人アピール大作戦は大いなる成功を収めていると言ってもいいでしょう。

シリアの深刻な問題についてはわりと突っ込んだところまでこの作品で論じていますが、一方で東アジアの難しい問題は基本的にほぼ無視。唯一、オバマ大統領が広島を訪問したところだけは丁寧に撮影されています。

そして最後の方では大統領選挙でトランプ氏が勝利する場面。民主党勝利を確信していたはずの大統領スタッフたちが文字通り言葉をなくしている様子が撮影されます。こればっかりはかっこよく撮影するわけにはいかず、同情的な雰囲気を漂わせるほかありません。

個人的にちょっと気づいたのはケリー氏がこれでもかというくらいに登場するわりにヒラリーさんが全然出てきません。この映画だけ見ると、ヒラリーっていう人、本当にいたっけ?と思ってしまうほどです。オバマとヒラリーは仲が悪いんだと主張する人の動画を見たことがありますが、意外と本当にそうだったのかも知れません。

いずれにせよ、オバマ大統領が去る前の一年を撮り続け、結果として身内で楽しむ壮大なファミリービデオみたいになっています。オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないことでしょう。

マーティンスコセッシ監督『沈黙』の西洋人の視点

遠藤周作さんが原作の『沈黙』が、巨匠のマーティンスコセッシ監督によって映画化されたことで話題を集めています。私は原作30回くらい繰り返し読んだので、原作との違いがどんな風に出るのかな、それとも意外と原作に忠実な作り方をしているのかなというあたりに関心を持って鑑賞しました。

キチジローは一身に「くず」キャラを背負っているわけですが、映画では窪塚洋介がやっているので、なんかかっこいい感じが漂っており、そこまでくずっぽくありません。海に投げ込まれる切支丹のモニカは原作ではわりとおばちゃんな感じがするのですが、映画では美人なので、更に痛々しさを増しているように思えます。ガルペ司祭とロドリゴ司祭はそれぞれはまっているというか、いい感じに雰囲気が出ていると思えました。

あと、陰の主役とも言えるフェレイラの役をリーアムニーソンがやっており、現実を受け入れて適度に腹黒く、適度に計算高く、適度に諦めている感じが非常にはまっており、これも良かったのではないかと思います。

台湾でロケしたとのことですが、自然がやたらと美しく、美しいが故に切支丹迫害の場面が際立っており、原作を何度読んでもイメージできなかった部分を今回は映像で補ってもらうことができたという感じもします。

ぐっと印象的なのは、原作ではエピローグ的な扱いになっているロドリゴの後半生をわりとしっかり描いているというあたりではないかと思います。もちろん、原作でもエピローグはかなりエネルギーが注がれていますので、確かに省略するわけにはいかない場面とも言えるかも知れません。

ただ、私の手前みそな解釈ですが、原作のロドリゴ司祭は遠藤周作さんの内面にある「西洋人神父」が仮託された存在であり、ある部分に於いては教条的であり、または典型的な宣教師というイメージで創作されているとも思えるのですが、今回の映画では、それがより西洋人による西洋人の描き方に近づいた感じに仕上がったのではないかなあと思えます。というのも、原作ではロドリゴ司祭が遂に踏み絵を踏み、鶏が夜明けを告げる鳴き声を上げる場面が文句なしのクライマックスになるわけですが、映画ではその後のロドリゴの人生がわりと時間をかけて描かれており、どういう心境でその後を生きたのかが観客にもそれなりに想像できる、掴みとれるような描かれ方になっています。むしろ、踏み絵を踏んだ後のロドリゴの人生こそがこの映画で語りたかったことなのではないかとすら思えてきます。

私たち日本人の受け手にとっては、ロドリゴは究極的にはよその人でしかないのですが、スコセッシ監督の立場からすればより身内になりますので、その後の人生、大きなターニングポイントを迎えた後の人生、その心境に関心が向いたのではないかという気がします。ロドリゴ司祭のモデルは新井白石が尋問したイタリア人宣教師のシドッチとされていますが、シドッチが使用人に宗教儀式を授けていることが発覚した後、一年ぐらいで彼は死んでしまいます。まず間違いなく拷問などで衰弱死したと推理できますが、ロドリゴ司祭の場合は天寿を全うします。心の中ではイエスキリストを深く信仰しつつ、表面的にはそんなことは一切忘れたという風にして生きていく姿が映画ではわりと淡々と語られています。この辺り、やはり西洋人が作った映画ですので、自分の物語のような語りになっていたのではないかなあ、そこが原作と映画の違いなのではなかろうかという気がします。

ショッキングな場面も多いので、わりと暗い気持ちで映画館を後にしたのですが、映画を観た後に悶々と考えるのも映画鑑賞の楽しみの一部だと思えばいいのかも知れません。

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アメリカ映画『ザ・マスター』のアメリカの傷

太平洋戦争から帰還したアメリカ人の兵隊が写真屋さんを始めますが客と喧嘩をしてしまい、写真屋さんを続けられなくなります。次にファーマーになりますが、そこでも喧嘩をして居場所を失くしてしまいます。ごくシンプルに言えば社会不適合を起こしてしまいます。深刻なアルコール依存症にも陥ってしまっています。化学合成のこつのようなものをよく知っていて、塗料や現像液のようなものから錬金術のようにアルコールだけを抽出して飲んだくれます。そういう才能があるとも言えます。

居場所も行き場所もなくしたその男がこっそり自己啓発系の団体の会場に忍び込みます。手癖が良くなく、自分に権利が与えられていないものを盗み取りたりという衝動があり、それは性に関しても同じような衝動を持っています。普通だったら叩きだされるはずですが、自己啓発系団体の会長のザ・マスターに気に入られ、その団体に寄生するようにして男は暮らしますが、そこでの生活で様々な自己啓発系のワークを受けていきます。そのマスターは退行催眠などのワークで人の心のトラウマを癒すとの評判でなかなかの人気を博しています。

この作品は特定の新興宗教というか自己啓発系団体というか民間の心理療法系の集団というか、そういうところをモデルとしていると話題になり、そういったことへの批判が込められているという話なのですが、個人的にはむしろ好印象で、社会不適合を起こした男が曲がりなりにもネクタイを締めて他人と握手をして挨拶をしたり礼を述べたりできるようになるのですから、むしろそれなりに効果があるのではとすら思ってしまいました。

アメリカではいわゆる『引き寄せの法則』を夫婦で講演してアメリカ中を旅する人がいたり、バシャールみたいにトランス状態になって宇宙人と交信して人々にアドバイスを与えたりするのが流行ったりしますが、その背景には太平洋戦争だけでなく、朝鮮戦争やベトナム戦争などの帰還兵の心の傷の問題や、もう一歩踏み出して考えれば大競争に不安にさらされている人々の存在があることが、この映画から感じ取れます。むしろそのようなセミナー系の団体が流行るのは、そういう心の傷を抱える人々を大勢生み出す社会の仕組みの方に問題があるからだとこの映画は言っているように思えます。

19世紀の末ごろからヨーロッパではフロイト心理学が流行し、「無意識」にアプローチすればかつては魔女と呼ばれたり悪魔祓いの対象になったりする人が治癒されるのだというある種の期待が膨れ上がって、例えばドイツ映画の『カリガリ博士』はそういうスタンスで制作されています。しかし、この映画の冒頭では男が軍のメンタルケアサービスを受けても一向に良くならない様子が描かれ、紋切り型の手法ではどうにもならないパターンがあるということが察せられるように作られていると思えます。

あるいはトランプさんが支持を集めたのは、このように今までであれば忘れられていた層、または忘れたふりをされた層の揺り返しだったのではと思うと、映画と政治が繋がっているとも言えそうです。

21世紀に入ってからのアメリカ映画には基本、美男美女が重要な役をやりません。どちらかと言えば普通に見える人が主役をはったりします。ちょっと前のアメリカ映画は美男美女ばっかりで、観客にひと時の夢を見させるものが多かったように思いますが、そういうのは多分トムクルーズくらいまでで、今はこの映画のようにぱっと見た感じ普通に見える人の個性が現れるものが多いように思います。これも時代の変化と捉えることができるかも知れません。

映像がきれいですが音楽もいいですが過度な作りこみがなく、その点も好感が持てる映画です。一方で、一瞬映る世界地図はアフリカの西半分くらいがフランス領で、細部に時代考証が宿っています。

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アメリカ映画『ミリオンダラーベイビー』のアメリカ的価値観

クリントイーストウッドという人はアメリカ的な価値観が本当にそれでいいのかを何度も何度も問いかける人です。なんでそこまでやるのかと首を傾げたくなることもしばしばです。『アメリカンスナイパー』では、正義の戦争しているはずの優秀なアメリカ軍の狙撃手が深く心を病んでいく様を描き、アメリカにとって絶対に絶対に正義の戦いだったはずの太平洋戦争についてはアメリカ的栄光の絶頂ともいえる硫黄島で星条旗がはためく写真に水をさすような映画を撮り、太平洋戦争中の日本兵に感情移入させる映画も撮っています。

私は日本人ですから、彼の映画のメッセージに異議を唱える必要は特にありませんが、民主党的でも共和党的でもない彼なりのアメリカに対する疑問を作品を通じて繰り返す問うことへの動機は気にならなくもありません(本人曰く共和党支持だそうです)。

『ミリオンダラーベイビー』は、不遇な過程で育った三十過ぎの女性がボクシングを始め、運と努力とコーチとのチームワークで頂点へ上り詰めようとする映画です。まさしくアメリカンドリームと呼ぶにふさわしく、彼女は正統な手段によって名声と大金を手にします。しかし、チャンピオンシップの試合で相手の卑怯な攻撃によって首から下が動かなくなるというアクシデントに見舞われ、彼女は死を願うようになり、下を噛んで自分の命を絶とうとします。コーチ役のクリントイーストウッドが彼女の強い意思を知り、延命装置を外し、彼女の願いを叶えてどこへとも知れずに立ち去ります。アメリカンドリームの負の部分、即ち「挫折」とどう向き合うかという重苦しい問題が登場人物たちの人生に重くのしかかります。アメリカンドリームはガッツのある人物に「夢」は約束しますが、結果は約束できません。また、弱い者が切り離される、見捨てられる、忘れられるという栄光に対する影の部分は語りがりません。この映画はそこに向き合おうというか、観客に負の部分をしっかり見せようとしています。

クリントイーストウッドはその決心をする前に教会の牧師さんに相談しますが、もちろん、絶対だめだと言われます。クリントイーストウッドは毎週教会に通うマジメな信徒ですが牧師さんは「それまでの敬虔な信仰の全てを台無しにする」とまで言って認めてはくれません。それでもクリントイーストウッドは決心して、彼女の願いを叶える行動をとるわけですが、教会の救いに対してすら疑いを持っていると受け取ることができ、世界一キリスト教徒的な社会と言えるアメリカに対して深い疑問を突き付けているとも言えそうです。「教会の牧師さん」としましたが、設定ではクリントイーストウッドはアイルランド人ということになっているらしく、もしかするとカトリックの神父さんかも知れません。アメリカではカトリックとプロテスタントの溝には深いものがあるので、もしカトリックだとすれば、更に複雑な要素が映画に組み込まれていると言うこともできるかもしれません。

アメリカ映画では黒人はいい人で描かれるのが黄金パターンですが、この映画ではいい黒人さんも悪い黒人さんも登場します。私にはクリントイーストウッド流の人種差別の克服法のようにも思えます。

トランプさんを応援した支持層にウケる映画のようにも見える一方で、トランプさんを支持する層にこそ「そこにお前らの問題がある。気づけ」と言っているようにも見えます。考えれば考えるほど複雑です。考えるのが好きな人にはお勧めの映画ですから、一回でも観るとああでもないこうでもない、ああかもしれないこうかもしれないその日一日ぐるぐると考えてみるのもいいかも知れません。

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アメリカ映画『ツリーオブライフ』の父親と浄化

ショーンペンが少年時代を回想します。少年時代の彼の父親はブラッドピットです。映画の前半では宇宙の始まりや生命の進化を表現する映像にわりと時間をかけていて、軽く『2001年宇宙の旅』を連想させます。映画のタイトルが『ツリーオブライフ(生命の樹)』ですから、地球の誕生があって、恐竜とか魚類とかいろいろな生き物が登場して、やがて人類が登場し、その生命の樹の末端に我々がいるのだということを表現したいのだろうと私は受け取りました。卑近な言い方で恐縮ですが、禅寺に行って「あなたが生まれるまでに、どれほどの多くのご先祖様がいたのか考えたことがあるのか」と言われるの発想のものかも知れません。

ブラッドピットはマジメでかつかなり恐い父親です。アメリカの田舎の方へ行くと、そういう家庭は決して珍しくはありません。日本よりも家父長制が根強く残っているのではないかと私は考えていますが、お父さんが厳しい家庭というのは、言い換えるとアメリカの普通の家庭であるとも言えます。

ただし、ショーンペンはその父親に対してエディプスコンプレックスを抱くようになっていきます。母親への性的な関心が生まれたことを示唆する場面も入っていますので、母親を独占する父親に対して反抗心を持つという古典的なフロイト心理学を題材に扱っていると考えることもできるかも知れません。

大人になったショーンペンはオフィスで働いているらしいのですが、何の仕事をしているのかは分かりません。いつも憂鬱な表情をしているので、仕事はそんなに順調ではないのかも知れません。そうは言ってもショーンペンが映画に出る時は大体いつも憂鬱そうな表情をしていますし、この映画の監督は『シンレッドライン』でも登場人物がやたらと憂鬱な表情を浮かべる場面が多いので、監督の傾向みたいなものがそこに現れていると言うこともできなくもなさそうです。

『ツリーオブライフ』でも登場する人はみな憂鬱そうな表情をしています。笑顔を見せることもありますが、それはまるで憂鬱な出来事の前ぶれのような役割を担っているかのようであり、笑顔はすぐに憂鬱な現実へと引き戻されていってしまいます。

そういう意味では観ていて暗くなる、憂鬱な映画です。ショーンペンがエレベーターに乗って降りると、この世ならざる空間へと誘われます。そこには彼の少年時代の人々が待っていて彼を迎え入れてくれます。なぜエレベーターに乗ったら過去の人々と会えるのかという説明は一切ありません。そこは観客の想像に任されています。任されているというか、「心の中で起きた出来事なんだから真実だ」で監督は押し切る覚悟なのかも知れません。

私は父親と過ごしたことがほとんどなく育ったので、まともなエディプスコンプレックスを持っていません。或いは気づいていないだけで、周囲の目上の男性に対してエディプスコンプレックスを持っているのかも知れず、その自覚が足りないだけかも知れません。なので、この映画の主題に対しても私個人は一知半解という感じです。

いずれにせよ、宇宙、地球、恐竜のCGなどはどれも美しく、音楽も荘厳であり、それらの映像と音楽によって、この映画は現実生活を描くことを目的としているのではなく、人間の内面にある魂の浄化であるということを示しているように感じられます。少年時代の懐かしい人々と短い時間を過ごした後、イタリア映画の『ひまわり』みたいに、画面いっぱいにひまわりが咲いている風景が映し出されます。私にはそれが魂の浄化がなされたことを示すのではないかと思えます。繰り返しになりますが、なぜエレベーターに乗って上に行ったら魂が浄化されるのかについての説明はありません。

しかしながら、過去の自分のトラウマやコンプレックスが浄化されることは生きとし生ける全ての人にとっての人生の課題であるとも思えますから、この映画にはそういう意味での意義があるのかも知れません。ここにエレベーターに乗っただけで魂が浄化される人物がいる以上、我々にもそれはまた可能であるというメッセージが込められているのではなかろうかと私には思えました。

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アメリカ映画『ミニオンズ』の1968年

アメリカのアニメ映画『ミニオンズ』は1968年に設定されています。

考えてみると、1968年は世界的に激しい年だったと言えるかも知れません。日本では東大闘争があり、アメリカではベトナム反戦運動が盛り上がりを見せ、フランスでも学生運動があり、ベトナム戦8争の戦地ではソンミ村事件が起き、アポロ計画はまだ月に上陸していませんが、アポロ8号が月を周回しています。『ミニオンズ』という映画では、そういう時代性を意識して作られている気がします。

ついでに言うと『カリオストロの城』も1968年に設定されているそうです。

そんな風に思うと、ミニオンたちがスカーレットに命じられて王冠を盗みに行った時、地下へ降りていく場面はなんとなく『カリオストロの城』を連想させます。エンタメへの造詣がとても深い人たちによる制作でしょうから、カリオストロの城を知らないはずがありません。きっと、分かって、分かる人には分かるようにそう制作されているのではないかと思えます。

王冠を守るご老人が「何十年もここで盗人が来るのを待っていた」と言う台詞がありますが、これは『インディジョーンズの最後の聖戦』で何百年もキリストの聖杯を守り続けた騎士を連想させるものです。

エリザベスII世の王冠を盗むという物語ですから、ところどころ荘厳な音楽が流れる場面があり(短いですが)、これはやはり映画『エリザベス』を意識しているのではないかとも思えて来ます。

この他、アポロによる月上陸場面の撮影スタジオが登場したり、アビーロードでビートルズと思しき人物たち(足だけ)が登場したりと、時代性、都市伝説、各種エンタメへのオマージュが満載されています。ぱっと見子ども向けの作品ですが、実は大人も楽しめる仕掛けがたくさん込められていると言っていいかも知れません。音楽にもいろいろ凝っていますが、私は洋楽がよく分からないので、詳しい人が見ればきっと分かる、『バックトゥザフューチャー』でマイケルJフォックスが最初はノリノリで、後の方で激しくエレキギターを弾きますが、それと同じように、洋楽に詳しい人には「あー、分分かる!」という感じに作られているのだろうなあと思います。

悪玉は女性のスカーレットであり、善玉はイギリスのエリザベス二世女王ですので、まさしく女性の時代です。悪い人も良い人も女性がメイン、女性が主役です。私は男ですが、大学生の時にフェミニズムを叩き込まれていますので、「女性が主役の時代」を普通に受け入れることができます。

作画も凝っており、ウォーレスとグルミットみたいな感じに制作されている部分もありますので(どの程度CGで、どの程度手作りかは素人の私には判別不能)、アニメを見るのが好きな大人には絶対にお薦めできると思います。ニューヨークとロンドンの街の描写もいいです。素敵です。あー、ニューヨークかロンドンに住みてえなー、とついつい思います。

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