シンドラーはなぜ号泣しなくてはならなかったか

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は、あまりに安易に人がナチスに殺害される場面が連続して続くため、観客はそれが実話に基づいているだけに驚愕せざるを得ない。人命があまりにも軽く扱われていたこと、一部の人間をただ、それその人がその人であるという理由だけで死に追い込まれたこと、人間に対する罪の重みに考えさせられるし、日本人の観客であれば自分の祖父母の世代はこの連中と手を組んでいたという目をそむけたくなるような事実にも向き合わなくてはならない。

そのよう深刻な映画作品の中で、救いになるのはシンドラーという男の存在である。軽妙な会話とウイットに富み、金持ちで、敗戦へまっしぐらという絶望的な時代状況の下で贅沢な暮らしを楽しみ、女性にもてる。羨ましいご身分であり、その気楽な感じに安心感をついつい持ってしまうのだが、そのように彼が軽快に人生を楽しんでいるにもかかわらず、1000人を超すユダヤ人を強制収容所から救い出し、死の恐怖から解放したという人間としての功績もまた賞賛に値するものである。しかも、強制収容所から救い出す理由が軍需工場の強制労働者が必要だと言う偽悪的なものであるために、シンドラーからは偽善の嫌らしさを感じることもない。様々な意味で完璧な主人公だ。

しかし、映画の最後のあたりでシンドラーは号泣することになる。シンドラーが号泣したことについては、「興覚め」という意見もあったし、私もそう思った。果たして何故に、スピルバーグはシンドラーに号泣させたのだろうか。ナチスのユダヤ人迫害を憎むスピルバーグの立場からすれば、明るく楽しくユダヤ人の命を救ったシンドラーを、そのまま明るく楽しい人生を軽妙に生きる男として最後まで描いてもさほど問題はないはずのように思えてならなかった。

しかし、スピルバーグはシンドラーに号泣させることにした。私はその理由について何年も考え続けてきたが、最近改めて見直して、シンドラーは号泣しなければならなかった、シンドラーの号泣は二つの意味で必然であると考えるようになった。以下にその理由を述べる。
まず、シンドラーにとって人を救うことは道楽だった。道楽であろうと何であろうと人を救うことは賞賛すべきことだし、別に道楽でやってもいいではないかとも思えるが、シンドラーはナチスのユダヤ人迫害に対して、一人の分別のある人間であれば、敢然と戦わなくてはならなかったはずである。道楽でやるということは無理してまでは救わなかったとも言える。人の生き死にを神でもない人間が道楽で、自分のできる範囲でリストアップするという行為の恐ろしさに彼は気づかなくてはならなかった。彼はユダヤ人を工場労働者として連れてこさせるために金品を用いたが、それは徹底したものではなかった。彼はしっかり自分が贅沢できるだけの資金は残しておいたし、楽しい人生を犠牲にしてまで人助けをするつもりはなかった。そしてそれは罪深い。人の命を救助する際、それは道楽ではなく自分の存在を危うくさせることがあったとしても、それでも覚悟を持って尚取り組むべき「正義の戦い」でなければならない。シンドラーはそれをしなかった。映画として完結するためには、シンドラーはその罪深さに気づく必要があったに違いない。シンドラーが身に着ける様々なぜいたく品をナチスの担当者に渡せば、もっと救えたのである。金品よりも遥かに大切なものをシンドラーは救うことができたはずである。そのことに、敗戦が決まってから、もはやそうしなくてもよくなってから彼は気づいた。言い方を変えるならば気づくのが遅すぎたのである。スピルバーグはシンドラーを評価しながらも、気づくのが遅かったということの罪を糾弾している。そのため、シンドラーは興味深い男ではあっても英雄にはなれないのである。
 だが、単に糾弾の対象にするためにシンドラーが号泣する場面を挿入したというわけでもないと私は思う。シンドラーの人間的成長も描かれなければならなかったのではないかと私には思える。シンドラーは道楽で人助けをして悦に入っていたが、人助けは道楽でするものではない、もっと真剣に覚悟を決めてやるべきものでなくてはならなかったということに敗戦を迎えてから気づいたシンドラーにできることは号泣することしかなかったのである。しかし、たとえそれがユダヤ人を助けるという意味では遅すぎたとしても、一人の人間の魂の向上という点から見れば遅すぎるということは決してあり得ない。この作品はファシズムが特定の人間を迫害することの犯罪性を糾弾するだけでなく、同時にシンドラーという一人の男の人間的成長という二つの目的を持って制作されたと考えることができる。

それ故、スピルバーグのシンドラーに対するまなざしは決して冷徹なものではない。たとえ道楽とはいえ、ユダヤ人の救済に努力した男としてそれなりに賞賛しているし、更に人間的な成長の瞬間を迎えたのだから、その点に於いてシンドラーを祝福しているとも言えるのである。人が、その人の行動や考え方を変化させる瞬間に立ち会う時、それはたとえ日常生活でもある種の感動を伴うことがある。ナチスドイツの犯罪性を糾弾しつつ、シンドラーという男の成長物語も描いたスピルバーグはやはり言うまでもないが天才なのである。


『ファイナル・イヤー』‐オバマ大統領の壮大なイメージビデオ

オバマ政権最後の一年をカメラが追いかけ続けた『ファイナル・イヤー』は、オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないイメージビデオになっており、オバマ大統領が嫌いな人にとっては「かっこつけやがって」と別の意味で見ていられない作品と言えるかも知れません。

登場するのはオバマ氏とケリー氏、その他彼を支える周囲のスタッフたちなわけですが、マスメディアの見ていないところでカメラが回っているため、もうちょっと突っ込んだあたり、どのようにして彼らが意思決定をしているのか、どんな会話をしているのかというあたりを見ることができるのは興味深いです。ホワイトハウスの中がどうなっているのかも、僅かながら見て取ることも可能です。もちろん、見せられないところはカメラは回ってないでしょうから、歴史の評価を待たなくてはいけないとも思えます。

さて、とにかく彼らは走ります。走りながら意思疎通をしています。かっこいいの一言に尽きるいい場面が次々と出てきます。人が走る姿は見る人に感銘を与えます。なぜかは分かりませんが、人が走っている姿には何らかの感動的なものがあります。箱根駅伝をみんなが一生懸命見るのも、オリンピックのマラソンをみんなが一生懸命見るのも、なぜか分からないけど人が走るという姿に感動するからです。

で、この映画では大統領のスタッフたちが走るだけではありません。真剣な表情で議論を積み重ねる様子が撮影されています。世界の平和のために真剣な表情で議論を重ねる彼らの姿はもちろんとても絵になります。そしてなんと言ってもオバマ大統領の絵になることと言ったら文句ありません。高く評価されるスピーチ力、苦悩し、重大な決断を迫られる際の表情、どれも決まっています。

お決まり、お約束と言ってもいいですが、世界中を訪れて、人種、民族、宗教を越えてオバマ大統領が親しく話をする場面、特に子供たちとコミュニケーションする場面はこれでもかというくらいに登場します。子どもとコミュニケーションをする人はいい人と決まっているようなものですから、この映画のオバマ大統領いい人アピール大作戦は大いなる成功を収めていると言ってもいいでしょう。

シリアの深刻な問題についてはわりと突っ込んだところまでこの作品で論じていますが、一方で東アジアの難しい問題は基本的にほぼ無視。唯一、オバマ大統領が広島を訪問したところだけは丁寧に撮影されています。

そして最後の方では大統領選挙でトランプ氏が勝利する場面。民主党勝利を確信していたはずの大統領スタッフたちが文字通り言葉をなくしている様子が撮影されます。こればっかりはかっこよく撮影するわけにはいかず、同情的な雰囲気を漂わせるほかありません。

個人的にちょっと気づいたのはケリー氏がこれでもかというくらいに登場するわりにヒラリーさんが全然出てきません。この映画だけ見ると、ヒラリーっていう人、本当にいたっけ?と思ってしまうほどです。オバマとヒラリーは仲が悪いんだと主張する人の動画を見たことがありますが、意外と本当にそうだったのかも知れません。

いずれにせよ、オバマ大統領が去る前の一年を撮り続け、結果として身内で楽しむ壮大なファミリービデオみたいになっています。オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないことでしょう。


マーティンスコセッシ監督『沈黙』の西洋人の視点

遠藤周作さんが原作の『沈黙』が、巨匠のマーティンスコセッシ監督によって映画化されたことで話題を集めています。私は原作30回くらい繰り返し読んだので、原作との違いがどんな風に出るのかな、それとも意外と原作に忠実な作り方をしているのかなというあたりに関心を持って鑑賞しました。

キチジローは一身に「くず」キャラを背負っているわけですが、映画では窪塚洋介がやっているので、なんかかっこいい感じが漂っており、そこまでくずっぽくありません。海に投げ込まれる切支丹のモニカは原作ではわりとおばちゃんな感じがするのですが、映画では美人なので、更に痛々しさを増しているように思えます。ガルペ司祭とロドリゴ司祭はそれぞれはまっているというか、いい感じに雰囲気が出ていると思えました。

あと、陰の主役とも言えるフェレイラの役をリーアムニーソンがやっており、現実を受け入れて適度に腹黒く、適度に計算高く、適度に諦めている感じが非常にはまっており、これも良かったのではないかと思います。

台湾でロケしたとのことですが、自然がやたらと美しく、美しいが故に切支丹迫害の場面が際立っており、原作を何度読んでもイメージできなかった部分を今回は映像で補ってもらうことができたという感じもします。

ぐっと印象的なのは、原作ではエピローグ的な扱いになっているロドリゴの後半生をわりとしっかり描いているというあたりではないかと思います。もちろん、原作でもエピローグはかなりエネルギーが注がれていますので、確かに省略するわけにはいかない場面とも言えるかも知れません。

ただ、私の手前みそな解釈ですが、原作のロドリゴ司祭は遠藤周作さんの内面にある「西洋人神父」が仮託された存在であり、ある部分に於いては教条的であり、または典型的な宣教師というイメージで創作されているとも思えるのですが、今回の映画では、それがより西洋人による西洋人の描き方に近づいた感じに仕上がったのではないかなあと思えます。というのも、原作ではロドリゴ司祭が遂に踏み絵を踏み、鶏が夜明けを告げる鳴き声を上げる場面が文句なしのクライマックスになるわけですが、映画ではその後のロドリゴの人生がわりと時間をかけて描かれており、どういう心境でその後を生きたのかが観客にもそれなりに想像できる、掴みとれるような描かれ方になっています。むしろ、踏み絵を踏んだ後のロドリゴの人生こそがこの映画で語りたかったことなのではないかとすら思えてきます。

私たち日本人の受け手にとっては、ロドリゴは究極的にはよその人でしかないのですが、スコセッシ監督の立場からすればより身内になりますので、その後の人生、大きなターニングポイントを迎えた後の人生、その心境に関心が向いたのではないかという気がします。ロドリゴ司祭のモデルは新井白石が尋問したイタリア人宣教師のシドッチとされていますが、シドッチが使用人に宗教儀式を授けていることが発覚した後、一年ぐらいで彼は死んでしまいます。まず間違いなく拷問などで衰弱死したと推理できますが、ロドリゴ司祭の場合は天寿を全うします。心の中ではイエスキリストを深く信仰しつつ、表面的にはそんなことは一切忘れたという風にして生きていく姿が映画ではわりと淡々と語られています。この辺り、やはり西洋人が作った映画ですので、自分の物語のような語りになっていたのではないかなあ、そこが原作と映画の違いなのではなかろうかという気がします。

ショッキングな場面も多いので、わりと暗い気持ちで映画館を後にしたのですが、映画を観た後に悶々と考えるのも映画鑑賞の楽しみの一部だと思えばいいのかも知れません。

スポンサーリンク


アメリカ映画『ザ・マスター』のアメリカの傷

太平洋戦争から帰還したアメリカ人の兵隊が写真屋さんを始めますが客と喧嘩をしてしまい、写真屋さんを続けられなくなります。次にファーマーになりますが、そこでも喧嘩をして居場所を失くしてしまいます。ごくシンプルに言えば社会不適合を起こしてしまいます。深刻なアルコール依存症にも陥ってしまっています。化学合成のこつのようなものをよく知っていて、塗料や現像液のようなものから錬金術のようにアルコールだけを抽出して飲んだくれます。そういう才能があるとも言えます。

居場所も行き場所もなくしたその男がこっそり自己啓発系の団体の会場に忍び込みます。手癖が良くなく、自分に権利が与えられていないものを盗み取りたりという衝動があり、それは性に関しても同じような衝動を持っています。普通だったら叩きだされるはずですが、自己啓発系団体の会長のザ・マスターに気に入られ、その団体に寄生するようにして男は暮らしますが、そこでの生活で様々な自己啓発系のワークを受けていきます。そのマスターは退行催眠などのワークで人の心のトラウマを癒すとの評判でなかなかの人気を博しています。

この作品は特定の新興宗教というか自己啓発系団体というか民間の心理療法系の集団というか、そういうところをモデルとしていると話題になり、そういったことへの批判が込められているという話なのですが、個人的にはむしろ好印象で、社会不適合を起こした男が曲がりなりにもネクタイを締めて他人と握手をして挨拶をしたり礼を述べたりできるようになるのですから、むしろそれなりに効果があるのではとすら思ってしまいました。

アメリカではいわゆる『引き寄せの法則』を夫婦で講演してアメリカ中を旅する人がいたり、バシャールみたいにトランス状態になって宇宙人と交信して人々にアドバイスを与えたりするのが流行ったりしますが、その背景には太平洋戦争だけでなく、朝鮮戦争やベトナム戦争などの帰還兵の心の傷の問題や、もう一歩踏み出して考えれば大競争に不安にさらされている人々の存在があることが、この映画から感じ取れます。むしろそのようなセミナー系の団体が流行るのは、そういう心の傷を抱える人々を大勢生み出す社会の仕組みの方に問題があるからだとこの映画は言っているように思えます。

19世紀の末ごろからヨーロッパではフロイト心理学が流行し、「無意識」にアプローチすればかつては魔女と呼ばれたり悪魔祓いの対象になったりする人が治癒されるのだというある種の期待が膨れ上がって、例えばドイツ映画の『カリガリ博士』はそういうスタンスで制作されています。しかし、この映画の冒頭では男が軍のメンタルケアサービスを受けても一向に良くならない様子が描かれ、紋切り型の手法ではどうにもならないパターンがあるということが察せられるように作られていると思えます。

あるいはトランプさんが支持を集めたのは、このように今までであれば忘れられていた層、または忘れたふりをされた層の揺り返しだったのではと思うと、映画と政治が繋がっているとも言えそうです。

21世紀に入ってからのアメリカ映画には基本、美男美女が重要な役をやりません。どちらかと言えば普通に見える人が主役をはったりします。ちょっと前のアメリカ映画は美男美女ばっかりで、観客にひと時の夢を見させるものが多かったように思いますが、そういうのは多分トムクルーズくらいまでで、今はこの映画のようにぱっと見た感じ普通に見える人の個性が現れるものが多いように思います。これも時代の変化と捉えることができるかも知れません。

映像がきれいですが音楽もいいですが過度な作りこみがなく、その点も好感が持てる映画です。一方で、一瞬映る世界地図はアフリカの西半分くらいがフランス領で、細部に時代考証が宿っています。

スポンサーリンク

アメリカ映画『ミリオンダラーベイビー』のアメリカ的価値観

クリントイーストウッドという人はアメリカ的な価値観が本当にそれでいいのかを何度も何度も問いかける人です。なんでそこまでやるのかと首を傾げたくなることもしばしばです。『アメリカンスナイパー』では、正義の戦争しているはずの優秀なアメリカ軍の狙撃手が深く心を病んでいく様を描き、アメリカにとって絶対に絶対に正義の戦いだったはずの太平洋戦争についてはアメリカ的栄光の絶頂ともいえる硫黄島で星条旗がはためく写真に水をさすような映画を撮り、太平洋戦争中の日本兵に感情移入させる映画も撮っています。

私は日本人ですから、彼の映画のメッセージに異議を唱える必要は特にありませんが、民主党的でも共和党的でもない彼なりのアメリカに対する疑問を作品を通じて繰り返す問うことへの動機は気にならなくもありません(本人曰く共和党支持だそうです)。

『ミリオンダラーベイビー』は、不遇な過程で育った三十過ぎの女性がボクシングを始め、運と努力とコーチとのチームワークで頂点へ上り詰めようとする映画です。まさしくアメリカンドリームと呼ぶにふさわしく、彼女は正統な手段によって名声と大金を手にします。しかし、チャンピオンシップの試合で相手の卑怯な攻撃によって首から下が動かなくなるというアクシデントに見舞われ、彼女は死を願うようになり、下を噛んで自分の命を絶とうとします。コーチ役のクリントイーストウッドが彼女の強い意思を知り、延命装置を外し、彼女の願いを叶えてどこへとも知れずに立ち去ります。アメリカンドリームの負の部分、即ち「挫折」とどう向き合うかという重苦しい問題が登場人物たちの人生に重くのしかかります。アメリカンドリームはガッツのある人物に「夢」は約束しますが、結果は約束できません。また、弱い者が切り離される、見捨てられる、忘れられるという栄光に対する影の部分は語りがりません。この映画はそこに向き合おうというか、観客に負の部分をしっかり見せようとしています。

クリントイーストウッドはその決心をする前に教会の牧師さんに相談しますが、もちろん、絶対だめだと言われます。クリントイーストウッドは毎週教会に通うマジメな信徒ですが牧師さんは「それまでの敬虔な信仰の全てを台無しにする」とまで言って認めてはくれません。それでもクリントイーストウッドは決心して、彼女の願いを叶える行動をとるわけですが、教会の救いに対してすら疑いを持っていると受け取ることができ、世界一キリスト教徒的な社会と言えるアメリカに対して深い疑問を突き付けているとも言えそうです。「教会の牧師さん」としましたが、設定ではクリントイーストウッドはアイルランド人ということになっているらしく、もしかするとカトリックの神父さんかも知れません。アメリカではカトリックとプロテスタントの溝には深いものがあるので、もしカトリックだとすれば、更に複雑な要素が映画に組み込まれていると言うこともできるかもしれません。

アメリカ映画では黒人はいい人で描かれるのが黄金パターンですが、この映画ではいい黒人さんも悪い黒人さんも登場します。私にはクリントイーストウッド流の人種差別の克服法のようにも思えます。

トランプさんを応援した支持層にウケる映画のようにも見える一方で、トランプさんを支持する層にこそ「そこにお前らの問題がある。気づけ」と言っているようにも見えます。考えれば考えるほど複雑です。考えるのが好きな人にはお勧めの映画ですから、一回でも観るとああでもないこうでもない、ああかもしれないこうかもしれないその日一日ぐるぐると考えてみるのもいいかも知れません。

スポンサーリンク

アメリカ映画『ツリーオブライフ』の父親と浄化

ショーンペンが少年時代を回想します。少年時代の彼の父親はブラッドピットです。映画の前半では宇宙の始まりや生命の進化を表現する映像にわりと時間をかけていて、軽く『2001年宇宙の旅』を連想させます。映画のタイトルが『ツリーオブライフ(生命の樹)』ですから、地球の誕生があって、恐竜とか魚類とかいろいろな生き物が登場して、やがて人類が登場し、その生命の樹の末端に我々がいるのだということを表現したいのだろうと私は受け取りました。卑近な言い方で恐縮ですが、禅寺に行って「あなたが生まれるまでに、どれほどの多くのご先祖様がいたのか考えたことがあるのか」と言われるの発想のものかも知れません。

ブラッドピットはマジメでかつかなり恐い父親です。アメリカの田舎の方へ行くと、そういう家庭は決して珍しくはありません。日本よりも家父長制が根強く残っているのではないかと私は考えていますが、お父さんが厳しい家庭というのは、言い換えるとアメリカの普通の家庭であるとも言えます。

ただし、ショーンペンはその父親に対してエディプスコンプレックスを抱くようになっていきます。母親への性的な関心が生まれたことを示唆する場面も入っていますので、母親を独占する父親に対して反抗心を持つという古典的なフロイト心理学を題材に扱っていると考えることもできるかも知れません。

大人になったショーンペンはオフィスで働いているらしいのですが、何の仕事をしているのかは分かりません。いつも憂鬱な表情をしているので、仕事はそんなに順調ではないのかも知れません。そうは言ってもショーンペンが映画に出る時は大体いつも憂鬱そうな表情をしていますし、この映画の監督は『シンレッドライン』でも登場人物がやたらと憂鬱な表情を浮かべる場面が多いので、監督の傾向みたいなものがそこに現れていると言うこともできなくもなさそうです。

『ツリーオブライフ』でも登場する人はみな憂鬱そうな表情をしています。笑顔を見せることもありますが、それはまるで憂鬱な出来事の前ぶれのような役割を担っているかのようであり、笑顔はすぐに憂鬱な現実へと引き戻されていってしまいます。

そういう意味では観ていて暗くなる、憂鬱な映画です。ショーンペンがエレベーターに乗って降りると、この世ならざる空間へと誘われます。そこには彼の少年時代の人々が待っていて彼を迎え入れてくれます。なぜエレベーターに乗ったら過去の人々と会えるのかという説明は一切ありません。そこは観客の想像に任されています。任されているというか、「心の中で起きた出来事なんだから真実だ」で監督は押し切る覚悟なのかも知れません。

私は父親と過ごしたことがほとんどなく育ったので、まともなエディプスコンプレックスを持っていません。或いは気づいていないだけで、周囲の目上の男性に対してエディプスコンプレックスを持っているのかも知れず、その自覚が足りないだけかも知れません。なので、この映画の主題に対しても私個人は一知半解という感じです。

いずれにせよ、宇宙、地球、恐竜のCGなどはどれも美しく、音楽も荘厳であり、それらの映像と音楽によって、この映画は現実生活を描くことを目的としているのではなく、人間の内面にある魂の浄化であるということを示しているように感じられます。少年時代の懐かしい人々と短い時間を過ごした後、イタリア映画の『ひまわり』みたいに、画面いっぱいにひまわりが咲いている風景が映し出されます。私にはそれが魂の浄化がなされたことを示すのではないかと思えます。繰り返しになりますが、なぜエレベーターに乗って上に行ったら魂が浄化されるのかについての説明はありません。

しかしながら、過去の自分のトラウマやコンプレックスが浄化されることは生きとし生ける全ての人にとっての人生の課題であるとも思えますから、この映画にはそういう意味での意義があるのかも知れません。ここにエレベーターに乗っただけで魂が浄化される人物がいる以上、我々にもそれはまた可能であるというメッセージが込められているのではなかろうかと私には思えました。

スポンサーリンク

アメリカ映画『ミニオンズ』の1968年

アメリカのアニメ映画『ミニオンズ』は1968年に設定されています。

考えてみると、1968年は世界的に激しい年だったと言えるかも知れません。日本では東大闘争があり、アメリカではベトナム反戦運動が盛り上がりを見せ、フランスでも学生運動があり、ベトナム戦8争の戦地ではソンミ村事件が起き、アポロ計画はまだ月に上陸していませんが、アポロ8号が月を周回しています。『ミニオンズ』という映画では、そういう時代性を意識して作られている気がします。

ついでに言うと『カリオストロの城』も1968年に設定されているそうです。

そんな風に思うと、ミニオンたちがスカーレットに命じられて王冠を盗みに行った時、地下へ降りていく場面はなんとなく『カリオストロの城』を連想させます。エンタメへの造詣がとても深い人たちによる制作でしょうから、カリオストロの城を知らないはずがありません。きっと、分かって、分かる人には分かるようにそう制作されているのではないかと思えます。

王冠を守るご老人が「何十年もここで盗人が来るのを待っていた」と言う台詞がありますが、これは『インディジョーンズの最後の聖戦』で何百年もキリストの聖杯を守り続けた騎士を連想させるものです。

エリザベスII世の王冠を盗むという物語ですから、ところどころ荘厳な音楽が流れる場面があり(短いですが)、これはやはり映画『エリザベス』を意識しているのではないかとも思えて来ます。

この他、アポロによる月上陸場面の撮影スタジオが登場したり、アビーロードでビートルズと思しき人物たち(足だけ)が登場したりと、時代性、都市伝説、各種エンタメへのオマージュが満載されています。ぱっと見子ども向けの作品ですが、実は大人も楽しめる仕掛けがたくさん込められていると言っていいかも知れません。音楽にもいろいろ凝っていますが、私は洋楽がよく分からないので、詳しい人が見ればきっと分かる、『バックトゥザフューチャー』でマイケルJフォックスが最初はノリノリで、後の方で激しくエレキギターを弾きますが、それと同じように、洋楽に詳しい人には「あー、分分かる!」という感じに作られているのだろうなあと思います。

悪玉は女性のスカーレットであり、善玉はイギリスのエリザベス二世女王ですので、まさしく女性の時代です。悪い人も良い人も女性がメイン、女性が主役です。私は男ですが、大学生の時にフェミニズムを叩き込まれていますので、「女性が主役の時代」を普通に受け入れることができます。

作画も凝っており、ウォーレスとグルミットみたいな感じに制作されている部分もありますので(どの程度CGで、どの程度手作りかは素人の私には判別不能)、アニメを見るのが好きな大人には絶対にお薦めできると思います。ニューヨークとロンドンの街の描写もいいです。素敵です。あー、ニューヨークかロンドンに住みてえなー、とついつい思います。

スポンサーリンク

アメリカ映画『トリフィドの日(人類SOS)』のマッチョな冷戦

60年代らしい、レトロな感じのSF映画です。

ある日の夜、流星群が夜空いっぱいに飛び散ります。翌日になると、流星群を見た人は全て失明しています。目の手術のために包帯をしていた主人公の男性ビルは朝になって包帯を解いてもらうはずが誰も来ないので自分で包帯をとります。世界は一変しており、街を歩く人は盲目の人ばかりです。文明が機能しなくなり、人々の規律が失われていきます。ネヴィルシュートの『渚にて』では人類が滅亡するその瞬間まで矜持を守り抜く人々の姿が描かれますが、この映画ではそんなことはありません。ここぞとばかりに悪さをする人もたくさん登場します。

トリフィドという肉食の植物が各地で繁殖し、人を襲います。植物なに動きます。まるで動物ですが植物という設定になっています。各地で人が襲われ、瞬く間に人がいなくなっていきます。

主人公のビルは荒れたロンドンで女の子に出会います。学校から逃げ出して貨車に隠れて夜を過ごしていたために流星群を見ておらず、失明していません。二人はロンドンから離れてボートでフランスに逃れます。棄てられた自動車がたくさんありますから自動車に乗ってパリに行き、パリも全滅状態だということを知ります。ラジオでは「こちら東京、街が火事です」みたいなことも流れています。日本人の役の人は全然日本語が言えていませんので「こちら東京、街が火事です」は私の好意的な解釈です。

フランスの田舎の方で目の見える人に出会います。目の見えない人たちを助けている屋敷へと誘われます。ですが屋敷には流星群を見なかったので失明から逃れることができた受刑者たちが、文明の崩壊をいいことに脱走し、屋敷でどんちゃん騒ぎをしています。なんじゃこりゃと思っているうちにも周囲は肉食植物のトリフィドに囲まれています。

慌ててビルと女の子と屋敷に住んでいた女性との3人で脱出します。残された目の見えない人々は受刑者ともどもトリフィドの餌食です。途中で馬車に乗り換えますが、他の車が見つかると馬も放棄です。わりと簡単に「現実的に」いろいろ見捨ててスペインを目指します。スペインの米軍基地ならなんとか助けてもらえるかも知れないからです。ラジオ放送はほとんど流れなくなっていますが、それでも周波数が合うとアメリカ軍の救援に関する放送を聴くことができます。潜水艦に乗っていた人たちは流星群を見なかったので問題なく行動できるため、生きている人はアメリカ軍基地へ来いと言っています。

最終的にはビルと女の子と屋敷にいた女性は見事危機を切り抜けて、途中で出会ったスペイン人夫婦と生まれたばかりの赤ちゃんも一緒にアメリカ軍に助けてもらうことができます。

灯台で研究生活している夫婦が海水をかけるとトリフィドが溶けることを発見してめでたしめでたし。人々が神に感謝して終わります。

60年代のアメリカらしく、主人公のビルはソフトマッチョな中年男性です。力が強く、喧嘩に強く、知恵と見識があり、いろいろな道具を使いこなせます。ラジオも発電機も修理できます。私のように手先の不器用な男にとってはうらやましい限りです。第二次世界大戦後のアメリカの理想の男性像という雰囲気です。舞台はヨーロッパですが、主人公のマッチョな感じが「this is amerca」という感じです。病室でタバコを吸う場面がありますが、今では考えられません。時代を感じます。

冷戦という時代背景も見逃せません。流星群が核兵器だとすれば、トリフィドなる奇怪な肉食植物は敵のスパイか工作員、或いは敵軍の上陸を連想させます。意思を持って拡大していく様子からナウシカの腐海にもちょっと似ているかも知れません。。最後にアメリカ軍の潜水艦に助けられるというのもそういう意味ではよく考えられています。ヨーロッパまで助けに来てくれる兵隊さんありがとうという感じになっています。『風が吹くとき』の老夫婦が静かに核戦争後の誰もいなくなった世界で死を受け入れていくことを思うと、この映画はそのような危機もアメリカンスピリットで乗り越えることができるぜ、という感じです。

レーガンとゴルバチョフの会見で冷戦が終わったと知った時、少年だった私は「ああ、これからの世界は平和になるのだ。しかも日本は西側で勝った側だから気分いい」と思ったものです。しかし世界はそんなに簡単ではなかったということはその後の歴史を学べば明らかと言えるかも知れません。やがてシン・ゴジラが制作されるのだと思うと、SFから時代を読み取ることもできそうです。

スポンサーリンク

アメリカ映画『シンレッドライン』とナウシカとキリスト

ガダルカナル島の戦いを描いたアメリカ映画である『シンレッドライン』は戦場のヒロイズムを完全に拒否する内容の映画です。そのうえで、人間が殺し合う中で、人は如何にあるべきかを問いかける内容になっています。

主人公の男性はガダルカナルと言う南の島に来て、その自然に魅せられ、自然を愛し、土地の人々をも愛しています。また、部隊の仲間を愛し、敵(日本兵)を憎むと言うことがありません。基本的には自然や子どもと戯れることを好みますが、戦場に立てば率先して危険な任務を引き受けます。嫌味を言う上官にも反感を持ちません。

戦場では人間性が失われていくことが常だと思います。私は戦場に行った経験がありませんから、想像するしかないですが、普通の感覚、善良で良識を持つ市民の意識はバランスを失い崩れて行くとしても、不思議ではないだろうと思います。

ガダルカナル島に上陸し、見えない日本軍からの攻撃に怯えて前進するアメリカ兵の姿はまるでベトナム戦争の映画を観ているのではないかと思うほど、恐怖と苛立ちに満ちています。オリバーストーンの『プラトーン』は私には多少悪趣味なところがあると感じられるのですが、『シンレッドライン』ではそういう印象は受けませんでした。

多くの戦友が死に、死闘を超えてようやく日本軍のトーチカを陥落させた時、投降する日本兵を殺害するという明らかな国際戦時法違反の場面もありましたが、これもヒロイズムを拒否する制作者の姿勢を示すものだと思います。日本兵がバラバラと出てくるところはちょっとカッコ悪いと言うかどんくさい感じがして、『グレムリン』が日本兵をイメージして作られたという話を思い出したりもしましたが、後半ではわりとちゃんとしていて、喜怒哀楽を持つ普通の人間として、または感情的にならずに降伏を勧告するまともな軍人として日本兵が描かれており、憎むべき敵を倒してやっぱりアメリカ最高だぜ、映画を観るなら『インディペンデンスデイ』か『トップガン』だぜ的なものとは完全に一線を画しています。

主人公の男性は戦友が死に行く時に微かな笑顔をみせます。優しい表情で看取る、寄り添うという感じです。捕虜になって落胆する日本兵に対しても同様の優しい表情を向けます。憎むということがありません。

斥候として3人1組で前進した時に日本軍に発見されます。1人が撃たれて倒れたとき「自分がここで食い止めるから、急いで部隊に帰って知らせるように」と残りの一人に促します。そして今にも死にそうな戦友に寄り添います。

私はここまで観て、ああ、ナウシカと同じなのだと感じました。勇敢であり、自己犠牲的であり、死に行く者や弱い者に限りない優しい眼差しを向ける。男女の性別の違いがあるだけで、その理想とするところ、制作者が描こうとしているものは同じなのだと感じることができました。

最後は一人で日本軍に取り囲まれます。降伏を勧告されますが、彼は銃を取り、その当然の結果として撃ち殺されます。これはイエスキリストを象徴していると考えるのが妥当ではないかと思います。諸々の人間の罪と弱さを全身で引き受けて、死んで行きます。自分の命で贖います。

しかしながら、主人公の彼は福音書に書かれているようなイエスキリストとは違い、奇跡を起こすことはありません。無力で、ただ目の前に存在する自然と人を愛し、人間の罪を命で贖う姿は遠藤周作さんのイエスキリストイメージとも一致するように思えます。

最後の方で、上官役のショーンペンが、「自分の目で見ることによって創造している」という主旨のことを言います。「見えるものは全て自分が創造しているもの」と言い換えてもいいかも知れません。ユーミンの「目に見える全てのことはメッセージ」にも近いものだと思います。「天国はあなたの心の中にある」という聖書の言葉にも通じる考え方であり、もうちょっと敷衍するとすれば、ある意味では形而上学的であり、さらに踏み込んで言えば宗教というボーダーを超えた人間学的な要素があり、心理学的な要素もあると言えると思いま

大変に深い映画です。戦場で燃えさかる火がとても美しく映し出されます。人の死んで行く姿と南国の美しい自然の対比があります。また、主人公の男性の深い優しい表情は、演技であれができるのはほとんど詐欺師に近いのではないかと思えるほど美しく、普段でもあんな感じだとすれば、本物の神様なのではないかと思ってしまいそうなほどに神々しいです。繰り返して見るべきとてもいい映画だと思います。『わが青春のマリアンヌ』の主人公の男の子も鹿とか犬とか寄ってくる神様キャラですが、どっちがより神様キャラかと問えば、『シンレッドライン』の勝ちと思います。

スポンサーリンク

アメリカ映画『ハードキャンディ』の狂気

ローティーンの女の子をネットでナンパして、場合によっては殺害に至ってしまうろくでもない30代の男を、簡単に言えば主人公の少女が成敗するという内容の映画です。

男はカメラマンで、ローティーンの女の子を連れ込んではいかがわしい写真を撮影したり、もっと酷いことをしたり、命を奪うところまでやってしまうというとんでもないやつです(本人は殺害現場にはいたが、殺害していないと主張しています)。これだけでも充分に狂気をはらんでいますが、成敗する少女も充分に狂気ではないか思います。

その女の子はエレンペイジがやっています。独特の輝きと影の両方を持つ、凄い人ですが、彼女が彼の「カモ」を装い、ネットで男と知りあうと、うまくひっかけられたふりをして目論み通りに男の家に入り込みます。スタンガンで電気ショックを与えて男を動けなくし、男だとちょっとこれは見ていられないという心境になる、酷いリンチをする場面もありますが、そこはそうとして、彼女は男が少女の殺害を記録した写真を男の自宅で発見することに成功します。

更に、男の過去の恋人を呼び出します。その女性は男にとっては忘れられない、その生涯でおそらく唯一真剣に惚れた相手で、その女性と別れたことがきっかけでローティーン少女ナンパを始めたのですが、この期に及べば、殺害の証拠まで握られているわけですから、その最愛の女性が来たら、刑事罰を受けることを心配する前に、真剣に惚れた女性に自分が変質的かつ悪質な犯罪者だとばれてしまうことを恐れます。

さあ、どうする?とエレンペイジがたたみかけ、取引は成立。男は自らを罰する(自分で死ぬ)ことを選び、エレンペイジは男の犯罪は秘密にしてやるということになります。男が飛び降りた瞬間、かもね、みたいなことを言う、残酷な演出までついています。

ローティーンを狙う犯罪者に自らけじめをつけさせるという意味でエレンペイジは正義の味方であり、その目的遂行のために自分が囮になって敵地に飛び込むという意味ではまさしく英雄です。しかし、やり方を間違えれば自分が殺される可能性があるわけですから、たった一人でそれをするにはある種の狂気が主人公の少女の中に必要なのではないかという気が私はしました。そう考えると、もし現実だったら末が恐ろしいです。

エレンペイジという女優さんにはそういう狂気を感じさせるものが微かにあるように私は思いますので、この役ができる人は他にいなかったのではないかという気もします。ナタリーポートマンではかわいすぎます。エマワトソンでは高貴すぎます。リブタイラーだと全然違う話になってしまいそうです。エレンペイジにしかできません。この役を引き受けるこの人は凄いです。

エレンペイジは赤いパーカーを着て男に会いますが、これは狼をやっつける赤ずきんちゃんという意味だそうです。考えてみると赤ずきんちゃんという童話はかなり怖いです。一応ハッピーエンドになってますが、現実だとして考えてみると青ゲットの男事件なみに怖いです。

スポンサーリンク

関連記事
アメリカ映画『アメリカンクライム』の虐待の連鎖と心理