『火垂るの墓』をもう一度みて気づく「無責任の体系」

高畑勲監督が他界されたことを機に、『火垂るの墓』についてよくよく考える日々が続き、もう二度と見たくないトラウマ映画だと思っていましたが、やっぱりもう一回見ないと何とも言えない…というのもあって、改めて見てみました。ネットで広がる清太クズ論は私の内面からは一掃され、それについては完全否定するしかないとの結論に達しました。

父も母も家もない状態で、清太は妹を守ることに全力を尽くしており、金にものを言わせようとした面はありますが、最後に頼れるのはお金と思えば清太が金を使うことは正しく、更に言えば盗みをするのも妹と生き抜くためにはやむを得ません。それこそ非常時です。空襲で家を焼かれなかった人の数倍、清太個人にとってはとても支えきれない大非常時と言えます。

西宮のおばさんが悪いのでしょうか?私は自信をもって西宮のおばさんが悪いと断言できますが、悪いのは西宮のおばさんだけではないというのがこの作品のミソではないかと思います。とはいえ、まずは西宮のおばさんを糾弾するところから始めたいと思います。確かにおばさんにとっては、清太と節子の兄妹は厄介者です。しかし、親を亡くして焼け出された兄妹に対し「疫病神」だのなんだのと言っていびり倒すのは間違っています。印象的なのは清太が決心して節子とともにこっそり西宮のおばさんの家を去ろうとした際におばさんと不意に遭遇してしまった時の様子です。おばさんは「気いつけて」「せっちゃん、さようなら」と言い、心配そうに二人の後ろ姿を見送ります。おばさんは大人なのです。出て行こうとする二人に対して「何をバカなことを考えているのか。二人で野宿でもするのか。いいから家にとどまってこれからのことをよく考えなさい」と説諭してしかるべきです。しかし、心配そうに見送るだけなのです。いびり倒した上に心配そうに見送るだけのおばさんに非があって当然です。おばさんの家には少なくとも三畳間が余っているわけですし、食料がないと言っても清太と節子の食料の配給もあったのです。二人は野宿者となり、配給すら受け取れない状態へと自滅していく様子がおばさんにはありありと見えたはずです。にもかかわらず、心配そうに見送るだけしかしない大人の責任とは問われなくてはいけません。

この作品では大人の「無責任」が随所で強調されています。たとえば清太が盗みを働いた農家の男は清太を殴り倒し、おさない妹がいることを知りながら「自分が受けた被害」だけに憤慨して警察に突き出します。西宮のおばさんは「助け合い」を清太に強調しましたが、おばさんも所属する大人の世界は我が事のみを考える世界だったわけです。警察官は清太に優しいですが、水を飲ませるだけで今後の二人を助けるきっかけを与えようとまでは考えません。警察官も無責任なのです。清太が母親の着物やお金と交換に食料をもらいに行っていた農家のおじさんも清太にお金がないと分かった瞬間に食料の提供を拒み「うちではそんなに余っていない」「お金や着物のことを言っているのではない」「おばさんに頭を下げろ」と米のおにぎりを食べながら諭しますが、はっきり言えば交換できる物のないやつに与える飯はねえというわけです。

節子が亡くなって荼毘にふすために必要な材料を買いに行ったとき、お店の人が呑気そうに「今日はええ天気やなあ」と言いますが、その表情が実に幸せそうであり、清太にとって重大事である節子の死に対する慎ましい態度というものを見せようとする気遣いすらありません。

高畑勲監督が『火垂るの墓』は反戦映画ではないと言っていましたが、今回改めて見てよく分かりました。これは戦争の悲惨さを描く作品なのではなく、丸山眞男が唱えた「無責任の体系」を描く作品だったのです。ですから、美しい日本とか、助け合いの日本とか、公共道徳に優れた日本とか言ってるけど、お前らみんな、清太と節子を見捨ててるじゃん。と監督は言いたかったのではないかと私には思えます。丸山の無責任の体系のその中心に天皇がいるという議論には私は賛成しかねます。天皇制があるから戦争中の日本人が無責任だったのだという議論そのものが無責任だと私には思えるからです。新聞が煽り、国民も多いに沸いて主体的に戦争に関与し、ある人は儲けも得て、戦争に敗けたら〇〇が悪いと言い立てて自分には責任がないと言い張ろうとする姿こそ無責任です。そしてそれは少なくとも『火垂るの墓』が制作されたその時に於いても同じなのだと高畑監督は主張したかった。だから最後に現代のきらびやかな神戸の夜景のシーンを入れたのではないかと私は思います。

余談というかついでになってしまいますが、統制経済を導入し食料を配給制にして、隣組に入っていないと配給すら受けられないとする、ちょっとでもコースから外れたら即死亡という体制翼賛的国民総動員社会を作ったのは近衛文麿です。国民総動員の名のもとに国民の自由意思を制限し、全てをお国に捧げざるを得ないように仕向けた結果、戦争も敗戦も自分には何の責任もないというロジックが生まれたとすれば、敢えて私は清太と節子が死んだのは、近衛文麿がせいだと言いたいです。

トラウマ映画の『火垂るの墓』ですが、今回は初見ではなく節子が死ぬことは最初から分かってみていましたし、いろいろな情報を得て感情面でも中和してみることができましたから、心理的ダメージは少なくて済みました。もう一回見たいかと問われれば、もう二度と見たくありません。

アニメ映画『GODZILLA-怪獣惑星』のやれることは全部やってる感

アニメ版の『GODZILLA-怪獣惑星』は、とにかくやれることは全部やってる感が強く、私はなかなか満足することができました。まず第一に「終末後」の世界という設定がなかなかいいように思えます。過去、ゴジラは何度となく日本列島に上陸して来ましたが、人間サイドが多大な知恵と努力を注ぎ込み、原則的にゴジラは撃退されてしまいます。赤坂憲雄先生が指摘していらしたようにゴジラは太平洋で戦死した日本兵のメタファーであるとすれば、日本人が繁栄を楽しみ俺たちのことを忘れるということは受け入れがたいと異議申し立てをするかのようにして上陸してきたとしても国土を完全に破壊し尽くすことなく、皇居を破壊することもなくギリギリのところでゴジラは撤退せざるを得なかったと言うことになります。ゴジラは終末的危機をもたらすことはあっても終末は必ず回避されていたわけです。

ところが今回の作品では、ゴジラをして地球の頂点に立たしめ、なぜかわからないが狙い撃ちされる地球人は大急ぎで地球を撤退。あてどない宇宙への放浪の旅に出ます。時代は既に終末後になっています。地球人を宗教的に支えている宇宙人が登場しますが、背の高い美しい金髪の人々で、オカルトの世界では金星人などの宇宙人はブロンドの美少女などの説がありますから、そういった都市伝説も入れ込みつつ、主人公の榊大尉はイケメンで、彼を慕う部下にはきちんと美少女が配されており、キャラ設定にもぬかりないといった感じです。IT技術があほみたいに進歩していて宙に画面が浮かび上がりAIのおかげでいかなる複雑な状況も瞬時に分析可能です。人々がとるものもとりあえず避難宇宙船にはスタートレックや2001年宇宙の旅、またはスペースコロニーを想起させるものがあり、再び意を決してゴジラと対決する人類の武器はモビルスーツならぬパワードスーツで、要するにイケメン、美少女、陰謀、勇気、未知のテクノロジーなどが詰め込めるだけ詰め込んであり、地球で人が頂点に立てないというのは猿の惑星みたいな感じもありますから、そういう要素も取り込んで、作り手がやりたいことは全部やっている、やれることは全てした感に溢れています。ゴジラ撃滅を企図して上陸した地球の地上はもはや得体の知れない植物と有毒がガスで満ちており、もはやナウシカといった様相すら呈しています。更に言うと一体しかいないはずの強敵ゴジラを倒したら、次にもっとでかいラスボス風ゴジラが登場するというのは、永遠にもっと強い敵が出てくるドラゴンボールみたいな感じになっていて、アニメファン、SFファンともに楽しめる内容になっていると思います。

さて、この三部作の続きが果たしてどうなるのか、ここまでいっぱいに広げた風呂敷をどうやってしまいこむのかに注目せざるを得ませんね。

『火垂るの墓』の清太の戦略ミス

世界に名だたるトラウマアニメ映画『火垂るの墓』についてここ数日、考え抜きました。高畑勲監督が他界されたのでいろいろ話題にもなりましたし、私も映画館で鑑賞して愕然として「なぜ自分はこのような絶望的な心境にならなければならないのか」というやり場のない苦しさを感じた一人ですから、いったい何が悪かったのか、どうすれば良かったのかということを考えざるを得なかったのです。以下、清太と節子はどうすれば生き延びることができたのかについて、結論をまず述べ、次いでその理由、続いて補足的な意見を述べたいと思います。

まず結論ですが、清太と節子は神戸の自分たちの家のあった焼け跡にバラック小屋を建てて寝起きしていれば助かったに違いない。です。

では理由を述べます。清太は西宮のおばさんのところに居候し、随分と嫌味を言われ現代の価値にして1000万を超える金銭を頼りに独立。田園と山の間みたいなところの「横穴」に棲みついて、最終的には兄妹共倒れの結末へと至ります。この過程が残酷すぎるのでトラウマ映画と呼ばれ、二度と見たくないと言う人続出で私も本当は二度と見たくありません。ネットでは清太が西宮で居候させてくれているおばさんに対する態度が悪く、お手伝いもせず、節子とごろごろしているだけのごくつぶしでしかないのに、プライドばかりが高くおばさんに頭を下げるくらいなら出て行ってやると大見栄を切って自滅へと突き進んだ清太の性格への批判が強いようです。また、高畑監督も社会との関係性を失ってはいけないというメッセージを込めているつもりで、現代の若者に共感してほしいという趣旨の発言をされていますが、ネットの意見も高畑監督のメッセージも清太にとっては酷でしかありません。

清太の家が空襲で焼けるのが昭和20年の6月で、清太が亡くなるのは9月です。僅か三カ月で考え方や生き方を改めなければ即死亡という無理ゲーをさせられた清太が気の毒に思えてなりません。清太の人生に対する敗因は私は決して西宮のおばさんに対して妥協しなかったからだとは思いません。高畑監督のメッセージは生きるためには嫌味を言われいびられる生活にも隠忍自重せよということで、現代の恵まれた若者はそういうことができていないというわけですから、要するに『火垂るの墓』は手の込んだ「近頃の若者は」という議論なのです。しかも高畑監督は若者に共感してほしいと述べていましたが、「近頃の若者は」論に共感する若者は皆無に等しいと私は思います。ところが戦争・空襲・敗戦という普通なら滅多に遭遇しない大災難という舞台設定を活用し、見るものが降参せざるを得ない作画の作りこみ、節子というイノセントな存在の徹底利用を行うことで、観たものはトラウマレベルのダメージを受けながらも「泣ける映画だ。凄い映画だ」とうなづかざるを得ないところまで追い込まれてしまいますので、実は高畑監督の「近頃の若い者は」という実はありがちな言い分に気づくことができないというか、節子の死を心理的に解消するのにエネルギーを使ってしまい、観客はそれ以上考えることに困難を感じるようになり、何をどう理解していいか分からなくなり、混乱するのです。

清太が自滅した最大の要因は自分と節子が戦死したエリート軍人の子女たちであるというメリットを活用しなかったことに求められると私はよくよく考えた末に結論するに至りました。ネットなどでは清太がエリート軍人の息子であったが故に無駄にプライドが高く、自滅したと語られていますし、高畑監督もその線で作ったように私は思います。しかし、逆なのです。エリート軍人というのは値打ちがあるので、しかも戦死しているのですからますます当時としては値打ちがあったに違いないのです。仮に以前住んでいた焼け跡にバラック小屋を建てて暮らしていたらどうなるでしょうか。血縁はなくとも地縁がありますから、「あそこの息子さんは海軍の偉い人の息子さんだ」ということをみんな知っています。そして、ここからが重要になるのですが、神戸市内の都市空間で生きていれば必ず誰かが「役所へ行って相談しなさい」とか「水交社を訪ねてみなさい」と助言してくれるはずです。或いはどこからかそういう情報が入ってきます。役所が戦死した軍人さんの子女を放っておくわけがありません。海軍の互助組織である水交社が無視するわけがありません。公的な支援を受けられる可能性は高く、海軍つながりでいけばお金持ちの支援者が現れる可能性も充分にあります。単に生意気中学生清太一人だけではないのです。幼い、誰が見ても何とかしないといけないと思わせる節子という存在がいます。兄妹セットで救おうとする社会のあらゆる要素を利用することができたに違いないのです。清太はエリート軍人の息子というプライドを維持しつつ成長し、将来は周囲の支援で大学に進学し順調な人生を得たかも知れません。当時の日本の状況から言えば、終戦直後から後はあれよあれよという間に経済発展していきますから、あのクリティカルポイントさえしのぎさえすればそれで良かったわけで、充分に可能性のあるシナリオです。

しかしながら、清太はまず西宮のおばさんという閉じた空間へ逃げ込み、次いで次に山と田園の間みたいなところにある横穴へと逃走するわけです。これではいけません。水交社を訪ねなさいと言ってくれる助言者に出会うことができません。兄と妹は資金力で生命を維持しようとしますが、農家のおじさんからは「お金の問題じゃない」と忠告されます。三宮のおばさんに頭を下げろというわけです。そんなことを要求する方が酷です。しかし残念なことに農家のおじさんにはその程度の知恵しかなかったのです。

神戸市内でバラックを建てるのは難しくなかったはずです。廃墟の焼け残りを利用して簡単なものを作ればよかったはずです。都市部なら炊き出しもあり、終戦後は米軍の救援物資もやってきます。清太が自滅したのは海軍エリート軍人の息子というプライドを捨てられなかったからではありません。自分は海軍エリート軍人の息子だというプライドを思い出させてくれる神戸の自宅跡を放棄したことにその要因があると私は思います。補足しますが、当時はお金を持っていても役に立たなかったという意見もネットにはありましたがそれも間違いです。国家が経済統制している裏側では闇マーケットが完全な市場原理で成立していました。物はあったのです。インフレはしたでしょうが、1000万を3カ月で使い切るということは考えにくいですし、新円切り替えはもうちょっと後のことです。新円切り替えと同時に貯金は紙くずになった可能性はありますが、そのぐらいの時期まで生き延びれば、繰り返しになりますが戦死者遺族への支援を受けられたと思料できます。清太クズ論がネットで見られますが、清太がクズだったのではなく、出会う大人に知恵がないのが悪かったと言えますし、なぜ知恵のある大人に出会えなかったのかと言えば、これには清太の戦略ミスがありますが、都市空間を避けた閉じた生活に入ってしまったからですね。

アニメ映画『打ち上げ花火上から見るか下から見るか』は大人が見ても勉強になるはず

『打ち上げ花火上から見るか下から見るか』という作品は、私の学生が「とても良かった」と言っていたので一度見てみようと思っていたのですが、最近ちょっとチャンスがあってようやく見ることができました。

絵もきれいですし、思春期のなんとも言えない心の動きが描かれるという点では凄いなあと、さすがは岩井俊二さんだとも思うわけですが、もう一回見たいと思うかどうか、何度も見たいと思うかどうかは、なずなというヒロインにリビドーを感じるかどうかによるのではないかという気がします。

ヒロインのなずなは学校の制服、スクール水着、白いワンピースと次々と着せ替え人形のように衣装を替えていくわけですが、それぞれ違った雰囲気があり、実年齢よりちょっと大人っぽく見えるという設定もなかなかにくいものがあって、こんな感じの女の子に魅かれるという人がいれば、ばっちりはまるというか、繰り返して見たくなる、その都度、わーーーと心の中が混ぜっ返されるみたいになってとりとめをなくしてしまうのが心地よくてまた見るという循環に入ることができるのではと思います。

意地悪な見方をすれば色仕掛けに引っかかっているわけですが、映画やアニメで色仕掛けにかかるくらいどうということもありません。好きな人にはたまらないのではないかと思います。

この作品が凄いなあと思うところはターゲットをティーンエイジからヤングアダルトに絞りきり、それ以外の鑑賞者については顧慮しない、大人が見たくないのであれば見なくていいという徹底した態度ではないかと思います。なずなはお母さんの再婚に強い反発心を持ち家出することを企図します。もちろんお母さんは容赦ありません。実の親ですし、同性の親子です。なずなが何をしようと泣き叫ぼうと、引きずってでも断固家に連れ帰そうとするわけです。お母さんの再婚相手のおじさんもお母さんに協力し「悪い大人」の一角を形成しています。

で、なずなを救いたい(顕在的願望)、そしてなずなと結ばれたい(潜在的願望)と思う男子がいろいろ捨てて頑張るというわけです。私も男子の気持ちが分かりますから、そういうシチュエーションになったら頑張る以外の選択肢はおそらく存在しないでしょう。しかし、無残には男子は強大な大人の前に敗れ去ります。しかし、なんでか分かりませんが、きらきら光る球を全力で投げると「もしもあの時」に戻ってやり直すことができるというタラレバが現実化するという夢のような状況が生まれます。球さえ投げれば「もしもあの時」に戻れますから、何回でも無制限です。メルモちゃんのキャンディとかドラえもんのタイムマシンとかなんでもありな世界になるわけです。人生にタラレバはない。人生は後戻りできない。結果を受け入れ、ただ前に進むべしと私はついつい思ってしまったのですが、それは無粋な大人の考えかも知れません。

ティーンエイジからヤングアダルトの時期は「もしもあの時、ああしていれば、こうしていたら」というタラレバに強い憧れを持つものだと思います。私もヤングアダルトのころはそうでした(今はヤングではない)。そういった若い人たちだけにターゲットを絞り、その世代の人たちの心をぐわっと鷲掴みにするこの作品は、大人が見ても勉強になるのではないかと思えます。共感できるかどうかは評価が分かれると思いますが、それを越えて人の心を掴むとはどういうことかという勉強になる気がします。

エマワトソン主演『美女と野獣』の紳士的な愛

エマワトソンが『美女と野獣』の主演をしたことは有名な話ですから、今更ここで強調しなければならないニュースとも言えませんが、この映画の展開を見ると、果たして女性はどのような男性にどのように愛されたいのかをはっきりと分かるように描かれているように思えて、ちょっとブログに書いてみたいと思いました。

エマワトソンは読書が好きな田舎町の娘さんです。本を通じて世界の広さを知ることに深い喜びを得ている女性です。彼女を狙う優男は、一見確かに立派な風貌に見えるのですが、残念ながら気質というか矜持というか、そういうものを持ち合わせているわけではなく、エマワトソンを自分の嫁さんにするためにいろいろな悪知恵を働かせたりします。もう一人、エマワトソンから愛されることを切実に願う城主がいます。美しいものだけを愛するという偏愛が過ぎたために呪いがかけられ、自分はみにくい野獣に変身させられ、かしづいていた召使いたちはろうそくの燭台や食器、クローゼットなどの家具に姿を変えられてしまいます。時間切れになると元の人間には戻れなくなるという、けっこうえげつないというか残酷な時間とのレースを強いられる運命です。

諸事情があって(諸事情は割愛)、エマワトソンがお城で暮らすようになり、野獣の城主が実はきちんとした躾と教養を身に着けていることを知り、二人の関係は急速に近づいていきます。お城の食器や燭台たちも真剣な面持ちで二人が結ばれるよう祈ります。なぜなら、城主と召使たちにかけられた呪いは、城主が真実に愛された時だけ解かれることになっており、時間切れは刻刻と迫っており、エマワトソンに嫌われてしまったら、もうあきらめるしかありません。彼らは懸命に彼女を楽しませ、喜ばせ、二人が愛し合う関係になれるよう努力しますが、そこに悲報が届きます。エマワトソンにとってかけがえのない存在である父親が優男に拉致られてしまったというのです。愛する父親を救うために彼女は城を出なくてはいけません。城主=野獣は、さあ、行きなさいと彼女が馬に城を離れることを赦します。

この寛容さ、この寛大さ、もしかすると帰ってこないのではないかという葛藤、それでも彼女の意思を尊重するという紳士ぶりに私は感動し、私もかくありたいとつくづくと思ったのでした。男も女もそうですが、どうしても好きな人のことは引き止めたいと思うものです。そこをぐっとこらえ、帰って来ないのなら、それが彼女の意思だとすれば、それはそれでしかたがないとふんぎりをつける男前ぶりを見ならいたいです。

広告



広告

関連記事
宮崎駿『風立ちぬ』の倫理と愛のエゴイズム
『風の谷のナウシカ』を学生に観せた話‐ナウシカの涙
『耳をすませば』の映像美と日本の近代

宮崎駿『風立ちぬ』の倫理と愛のエゴイズム

今更ながら、『風立ちぬ』について考えてみたいと思います。この作品は、徹頭徹尾、主人公(まず間違いなく、宮崎駿さんの完全なる投影)のエゴイズムが描かれています。エゴイズムを完全にやり切ったらここまで美しくなるということを証明したとも言っていいほどに美しい映画です。なぜかくも美しいのかと言えば、主人公が他人のことを一切考えず、自分のエゴイズムを貫徹したからであり、いかに生きるかということを考える上でも格好の材料とも言える作品と思います。

主人公の堀越二郎は高い倫理観を持っています。この作品の美しさを支えているのは彼の倫理観の高さによると言ってもいいかも知れません。もちろん作画もすばらしく、音楽もきれいなのですが、観る人が堀越二郎のように自分の好きなことにしか関心のない人物に感情移入できるのは、彼が高い倫理観に基づいて行動していることに尽きるのではないかと思います。彼の倫理観は弱い者に対しては優しくするで透徹されており、たとえばいじめられている下級生を見かければ助けますし、関東大震災で菜穂子さんとお絹が罹災した際には、背負って歩き、救援を求め、一切が終われば恩着せがましいところを一切見せずにさっていきます。気持ちいいまでに親切です。しかし、それは例えば倫理や道徳の教育を訓練を受けたり、あるいは自己教育や鍛錬、修養などによって身に着けた優しさや親切さとは違うものです。そもそもの性格として弱い者を助けたいという欲求持っており、弱い者を見かけたら本能に従って助けているだけであり、広い意味ではエゴイズムを満たしているに過ぎず、作者の宮崎駿さんは意図的にそのような人物にしています。堀越二郎は仕事帰りに雑貨屋さんみたいなところで「シベリア」というカステラみたいなお菓子を買いますが、近くの電柱の下で帰りの遅い親を待つ貧しそうな三人兄弟を見かけます。いかにも弱く、社会的な弱者に見え、彼はその本能的欲求したがって彼らに親切にしたいと思い、彼らにシベリアをあげようとします。しかし、一番上の女の子がそれを拒絶し、姉と弟はそこから走って逃げていきます。わざわざこのようなシークエンスが入れこまれている理由は、堀越二郎が深い思索や鍛錬の末に親切な人間になったのではなく、弱い者に親切にして自分が満足を得たいというエゴイズムを実践しているのであるということを宮崎駿さんが観客に教えるためであったのだと私は確信しています。

堀越二郎のエゴイズムは仕事でも発揮されます。仕事をすれば周辺で何が起きているか全然気づかなくなるほどに没頭します。服部課長が来ても気づきません。話しかけられても気づきません。技術者ですから、もちろんそれはそれでよく、仕事ができるという意味で堀越は重宝されますし、服部さんは堀越を大事にします。しかし、服部さんは堀越二郎に人間的な愛情は持ってはいません。堀越二郎に特高警察の捜査の手が伸びた時、服部さんは「会社は君を全力で守る」と言いますが、続けて「君が役に立つ人間である間は」とも付け足します。日本ではかつて愛社精神などという言葉が流行し、組織や構成員は人間愛によって結ばれていることを強調する精神がありましたが、堀越と服部課長の間にそのような人間愛はありません。服部課長は堀越の技術だけを必要としており、堀越もそれで満足しています。堀越も会社から愛されることをそもそも必要としておらず、飛行機の設計という仕事さえさせてもらえれば充分に、あるいは十二分に満足であり、ウエットなものはむしろ邪魔であり、完璧なwin-winが成立しています。

堀越の徹底したエゴイズムは菜穂子さんとの愛情関係に於いても遺憾なく発揮されます。結核という当時としては死に至る病におかされていた菜穂子さんは療養所を脱出して堀越二郎に会いに行きます。本来であれば、療養所に返すのが筋というものですが、堀越は菜穂子さんを帰さずに妻として迎えます。このことに対し、上司の黒川さんだけが彼に「それは君のエゴイズムではないのか」と本質をつくのですが、堀越は否定せず「覚悟はしています」と言ってのけ、黒川も納得します。これはもちろん価値観の問題で、菜穂子さんに少しでも長く生きてほしいと思えば療養所に帰ってもらうのがベストですが、命を縮めてでも愛する人との短い時間に人生の幸福を凝縮させるというのもまた一つの考え方です。ですから、良い悪いを超えたところにはなってしまいますし、もちろん菜穂子さんというパートナーの願望もあって成立することではありますけれど、堀越本人はそれが自分のエゴイズムによる帰結であることを否定せず、平然として疑問すら抱かない姿を宮崎さんは描きたかったのだと思います。

ここでエゴイズムはどこまで正当化し得るのかという問題に突き当たります。堀越二郎は飛行機を作りたいだけであり、天下国家には関心がありません。送られてきた新しい資材を包んだ新聞紙にははっきりとわかるように上海事変と書いてありますが、そのような新聞報道には一切関心を持たず堀越はその資材だけに関心を向けています。しかし堀越が作る飛行機が実際に上海を爆撃し、重慶を爆撃し、真珠湾を爆撃し、多くの特攻隊員もまた堀越の設計した飛行機で死んでいきます。しかしそれは堀越の関心の外ということになります。堀越の同期が「俺たちは武器商人じゃない。飛行機を作っているんだ」と言い、堀越は沈黙でそれに同意を示しますが、自分のエゴイズムのもたらす帰結についてすら関心がないということもそのシークエンスで表現されています。結果としては菜穂子さんの死期を早めることになってしまったことも堀越は覚悟の上であり、透徹したエゴイズムのためには払わなければならない犠牲であるということを彼本人も理解しているわけです。堀越が菜穂子さんの寝床の隣で仕事をするとき、たばこが吸いたくなりますが、菜穂子さんが「ここで吸って」と頼むので、堀越はたばこを我慢することなく、そこで吸います。エゴイストであるがゆえに仕事と愛とたばこを吸いたいという欲望のすべてを満たすことが可能になるのであり、おいしいところを全部持っていく様は見事としか言いようがありません。

しかし、この映画の最後の最後で、堀越もまたその責任を負わなくてはいけなくなることが明らかになります。菜穂子さんはいよいよ病状が深刻になるということを悟り、一人黙って療養所へと帰ります。そこにある種の死の美学があり、ある意味では菜穂子さんのエゴイズムとも言えますが、菜穂子さんがんだ後、最後の場面で「あなた生きて」と堀越に言います。堀越には生きるという罰が与えられ、菜穂子さんのように人生を美しく仕上げるということが許されません。堀越の作った飛行機のために多くの人が死に、最後は日本が滅亡します。亡国の民として、亡国の責任者の一人として、恥ずべき敗戦国民として「生きろ」と命じられたわけです。

この作品では恥ずべき後半生の堀越の姿は描かれません。そこは観客の想像に任されることにならざるを得ず、作品では飽くまでも堀越のエゴイズムのピーク、絶頂期、美しい部分だけを特段に強調し、全力で美化して描かれています。意図してそうしているわけです。

私はこの作品を繰り返し観て、そのたびに深く感動しました。それは音楽が美しいからであり、作画が美しいからであり、堀越と菜穂子さんの短いながらも人生をかけた愛が美しいからであり、同時にエゴイズムを徹底して貫くことにも美しさを感じたからです。

そのように思えば、男は仕事ができてなんぼであり、仕事さえできればいくらでもエゴイズムは貫けるのだというわりと古典的な結論に落ち着くようにも思え、それはまさしく宮崎駿が仕事に打ち込む人生を他者に見せることで証明しているのだとも思えます。

広告



広告

関連記事
『風の谷のナウシカ』を学生に観せた話‐ナウシカの涙
『耳をすませば』の映像美と日本の近代

『銀河鉄道の夜』と近代

最近、ようやく1985年公開のアニメ映画『銀河鉄道の夜』を観て、今までこの作品を観ていなかったことを大いに後悔し、かつ、観ていなかった自分のことを恥ずかしいとすら思います。ため息が出るほど素敵な作品です。

ごくごく個人的なことですが、私には宮沢賢治に対して「暗い…暗すぎる…」という思い込みがあり、宮沢賢治は日本のファンタジーの大家、死後高く評価されたという意味ではゴッホみたいな壮絶な天才であるにも関わらず、「現実が辛いから、ファンタジーに行ったんでしょ」的な偏見が私の中から抜けず、宮沢賢治が好きだという人に出会うと、内心「へぇw」と思う程度に傲慢でしたが、今回、『銀河鉄道の夜』をアニメ作品で観て、自分の偏見は間違っていた、この映画を作った人はもちろんえらいが、原作者の宮沢賢治もめちゃめちゃえらいと考えを改めざるを得ませんでした。私が悪かったです。反省します。謝罪もしたいくらいです。

主人公のジョバンニのまっすぐな目、真摯な動き、善良な表情など、どれをとってもジョバンニに好意を抱かないわけにはいかず、クラスメイトたちがジョバンニをからかう中で、ただ一人、ジョバンニに対して優しさと愛情をもって接するカムパネルラに憧憬と尊敬の念を抱かざるを得ず、久々に凄い作品を観てしまった、感動してしまってではないか…。と大いに驚いたのでありました。

私が個人的に注目すべきと思うのは、作品の中には古典的近代の記号がちりばめられていることです。家に帰ってスイッチをひねれば電灯に明かりが入るというのは現代人にとっては普通のことですが、宮沢賢治の時代では、それ以前とは全く新しい時代が始まったことへの感動や驚き、それが西洋と一緒に入ってきたという事実に対する畏怖・畏敬で全体が構成されているとすら思えます。天文学の知識ももちろんですが、病気のお母さんのために買って帰るパンと角砂糖、そして牛乳。これらは西洋人が日本人にもたらした新しい食生活のスタイルであり、パンを食べれば脚気が治るという、当時の日本人にとっては驚愕の栄養失調からの回復方法であり、牛乳を飲めば元気になれるという半分神話みたいなことが浸透しつつあった時代です。時代的に若干のずれはあるものの、19世紀の後半にスペンサーの社会進化論が多いに流行り、福沢諭吉の弟子が日本民族改造論みたいなものをぶちあげて、肉とパンを食べれば西洋人みたいになれるぞというアホみたいなことが喧伝されていた時代の名残が、20世紀の初頭を生きた宮沢賢治の時代にはあって、そういうもの、古典的に、科学は万能と信じられた新時代の扉が開いた時代です。ヨーロッパで言えばニーチェであり、日本で言えば宮沢賢治と言ってもいいかも知れません。

そうは言ってもニーチェが東洋的無神論をその思想の支柱に据えようとしたのに対し、宮沢賢治はヨーロッパ伝来のキリスト教への憧れを隠そうとはしていなかったように思えます。ただし、宮沢賢治本人は仏教への帰依が厚かったとも言われています。宗教はいろいろなタイプがありますが、長く残っている宗教は大抵の場合、その土地土地で人の心を安らかに救済することを役割として背負っていますから、宗教について真剣に考えたいという人、そういう方面に探求心がある人は、遠藤周作さんのように仏教にもキリスト教にも深い理解を持つようになっていくものなのかも知れません。

『銀河鉄道の夜』のタイタニック号に関する部分は素直に泣けます。アニメ作品の中で、荘厳な音楽と一緒に崇高な場面に仕上げた制作者の方に対しては素直に尊敬いたしますとしか言えません。

遠い銀河をどこまで行くかも分からない、延々と旅が続くかのような錯覚が起きる作品ですが、考えてみれば銀河鉄道999と似通う部分があり、原作、アニメ、松本零士さんの漫画が相関関係にあると見て、おそらくそうは外れてはいないでしょうし、もうちょっと言えば、千と千尋で省線列車みたいなものに乗る場面にも共通するものを感じます。

大変に見事な作品であり、観なければ損とすら思える一押しであります。

『この世界の片隅に』と『瀬戸内少年野球団』

『この世界の片隅に』の評判があまりにいいので観てきました。多くの人が言っているように、映画が終わった瞬間、この映画をどう理解していいのかが分からなくなってしまいます。凄かったことは間違いないのですが、明確な「泣かせどころ」があるわけではなく、すずさんの心の変化に気づくことはいろいろありますが、「ここが見どころ」というものがあるわけでもなく、でも感動的で、私の場合は涙が二すじほどすっと流れました。隣の席の人はほとんど号泣です。

時代背景は太平洋戦争ですから、「戦争もの」に区分することも可能ですが、空襲のシーンはもちろんあるものの、空襲がメインというわけでもありません。実はギャグ満載であり、「戦時下の銃後の生活をメインにしたギャグ漫画映画」に『今日のねこ村さん』なみのほのぼのした感じが加えられ、『じゃりン子チエ』を連想させるちょっとコミカルな感じで描かれる人々、確信犯的なすずさんの天然キャラが全部入れ込まれているにもかかわらず、全く無理を感じず、原子爆弾という重いテーマも、それは重いことなのだと感じることができる、普通に考えればあり得ないような映画です。すずさんの声は確かにのんさん以外にはあり得ず、私にはこの映画のために彼女は生まれてきたのではないかとすら思えます。

戦時下の日常をたんたんと生き、生活の窮乏もたんたんと受け入れる人々の姿が静かで圧倒的です。時々ポエティックな場面があり、それはすずさんの心の中で起きている現象を表現しているのだと私は思いますが、それ以外の場面が極めてリアルに描かれているために、三文詩人のような安さは生まれず、ポエティックな場面を文字通り詩的に受け取ることができます。ギャグもしかりで、ギャグの場面以外がめちゃめちゃしっかりしているので、ギャグを入れ込まれてくると笑うしかなくなってしまいます。そして静かに一人また一人と大切な人がいなくなっていく現象に薄ら寒い恐怖も覚えます。これは原作も読まなくてはいけなくなってしまいました。

個人的には私の祖父が連合艦隊の人で呉で終戦を迎えていますので、私の祖父もこういう光景を見ていたのだろうかという感慨もありました。

終戦のラジオ放送の場面では、一緒に聴いていた人たちが「そうか、敗けたのか」と、これもまた淡々と受け入れる中、すずさんだけが号泣し、「最後の一人まで戦うつもりじゃなかったのか。なぜここであきらめるのか」と叫びます。周囲の人からは「はいはい(あなたは天然だからすぐ感情が昂るのよねえ)」といなされますが、私はあのラジオ放送ですずさんみたいな感じた人は実は意外と多かったのではないかと想像していて、戦後、それを口にするのは憚られていてあまり語られなかったのではないかというようなことを、ふと思いました。

さて、物語は戦後も少し描かれますが、アメリカ軍の兵隊からチョコレートをもらったり、配給でアメリカ軍の残飯ぞうすいをもらったりして、がらっと変わった新しい日常を、人々はまたしても淡々と受け入れます。

アメリカ軍が来て、チョコレートをばら撒いて、人々が敗戦の傷から少しずつ立ち直って生きる姿は『瀬戸内少年野球団』を連想させます。この作品では敗戦があったとしても、それでも今を生きる人々のたくましさを感じることができると同時に、ヒロインの女の子のお父さんが戦争犯罪人で処刑されるなど、戦争に敗けるとはどういうことかをじわっと観客に問いかけています。

『瀬戸内少年野球団』の風景は、屈辱的ではあるけれど、それが戦後日本の出発点で、後世の人にもそれを忘れないでほしいという願いをこめて制作されたものだと私は思いますし、私は世代的にぎりぎりどうにか、そういう貧しかった日本の印象を記憶の片隅には残っていて、この映画のメッセージ性にぐっとくるところがあったのですが、『この世界の片隅に』は『瀬戸内少年野球団』より少し前の時代から時間的シークエンスを描いており、その描こうとしたところは実は同じものなのではないかという気がしてきます。

もし、これら二つの作品を連続して観ることができれば、ある意味では現代日本の原風景とも呼びうるものを感じることができるのではないかなあとも思えます。

アメリカ映画『ミニオンズ』の1968年

アメリカのアニメ映画『ミニオンズ』は1968年に設定されています。

考えてみると、1968年は世界的に激しい年だったと言えるかも知れません。日本では東大闘争があり、アメリカではベトナム反戦運動が盛り上がりを見せ、フランスでも学生運動があり、ベトナム戦8争の戦地ではソンミ村事件が起き、アポロ計画はまだ月に上陸していませんが、アポロ8号が月を周回しています。『ミニオンズ』という映画では、そういう時代性を意識して作られている気がします。

ついでに言うと『カリオストロの城』も1968年に設定されているそうです。

そんな風に思うと、ミニオンたちがスカーレットに命じられて王冠を盗みに行った時、地下へ降りていく場面はなんとなく『カリオストロの城』を連想させます。エンタメへの造詣がとても深い人たちによる制作でしょうから、カリオストロの城を知らないはずがありません。きっと、分かって、分かる人には分かるようにそう制作されているのではないかと思えます。

王冠を守るご老人が「何十年もここで盗人が来るのを待っていた」と言う台詞がありますが、これは『インディジョーンズの最後の聖戦』で何百年もキリストの聖杯を守り続けた騎士を連想させるものです。

エリザベスII世の王冠を盗むという物語ですから、ところどころ荘厳な音楽が流れる場面があり(短いですが)、これはやはり映画『エリザベス』を意識しているのではないかとも思えて来ます。

この他、アポロによる月上陸場面の撮影スタジオが登場したり、アビーロードでビートルズと思しき人物たち(足だけ)が登場したりと、時代性、都市伝説、各種エンタメへのオマージュが満載されています。ぱっと見子ども向けの作品ですが、実は大人も楽しめる仕掛けがたくさん込められていると言っていいかも知れません。音楽にもいろいろ凝っていますが、私は洋楽がよく分からないので、詳しい人が見ればきっと分かる、『バックトゥザフューチャー』でマイケルJフォックスが最初はノリノリで、後の方で激しくエレキギターを弾きますが、それと同じように、洋楽に詳しい人には「あー、分分かる!」という感じに作られているのだろうなあと思います。

悪玉は女性のスカーレットであり、善玉はイギリスのエリザベス二世女王ですので、まさしく女性の時代です。悪い人も良い人も女性がメイン、女性が主役です。私は男ですが、大学生の時にフェミニズムを叩き込まれていますので、「女性が主役の時代」を普通に受け入れることができます。

作画も凝っており、ウォーレスとグルミットみたいな感じに制作されている部分もありますので(どの程度CGで、どの程度手作りかは素人の私には判別不能)、アニメを見るのが好きな大人には絶対にお薦めできると思います。ニューヨークとロンドンの街の描写もいいです。素敵です。あー、ニューヨークかロンドンに住みてえなー、とついつい思います。

スポンサーリンク

ディズニー映画『リロ・アンド・スティッチ』の悲しみと愛

両親を事故で亡くしたリロは姉と二人暮らしで、お姉さんの育児能力に疑問を持つ児童相談所は、リロを施設で育てることを考えています。リロはそそっかしいところがあり、友達がなく、孤独をかみしめて生きる小さな女の子です。

物語のもう一人の主人公であるスティッチは銀河の遠い場所で遺伝子工学を利用して開発された生物で大変凶暴です。スティッチは凶暴で更生の可能性なしとして追放が決まりますが、途中で脱走。地球にやってきます。追手を逃れるために体の形を少しだけ変えて犬のふりをし、リロに飼われるという展開になります。

物語の結末はわりと平凡でそんなにどうということはありませんが、設定には考えさせられる、同情を禁じ得ない、ぐっと来させるものがあります。

リロとスティッチはともに自分の心の赴くままに行動する天真爛漫で真っすぐな、正直な性格です。そして、正直であるが故に、ただそれだけの理由で周囲から排除されます。リロは友達からハブられた上に姉と自宅から引き離されそうになり、スティッチは凶暴になるように遺伝子工学的に設計されているため、本人の責任とは言えない理由で追放されます。元いるところから引き離される、排除される、居場所を失う危機にさらされるという点が両者の共通項になっています。

リロとお姉さんの間では「家族はどんなことがあっても見棄てない」という言葉が交わされ、家族愛の美しさが表現されます。家族運に恵まれなかった私としては、この言葉にはぐっと来てしまい、どうしても感情移入せざるを得ません。

当初は凶暴だったスティッチはリロの持っている本の中から「みにくいアヒルの子」を見つけ、それが自分と同じだと感じるようになり、そこから少しずつ変化していきます。リロとスティッチは心情的に結びつき互いに助け合うようになります。スティッチはそもそも凶暴になるように設計されていますから、リロに敵対する人物が現れた場合は心強いことこの上ありません。

物語の舞台はハワイで、お姉さんはハワイアンレストランの踊り子の仕事をしていますが、スティッチがした悪さが原因でレストランを首になります。その時に「こんな半端でニセモノのダンスショーなんてこちらから願い下げよ」という主旨の発言をします。たった一言ですが、誰もがうっすらと感じるハワイの「作られたリゾート」感に触れています。ハワイはいいところですが、観光客に気に入るように作りこまれた、あるいは作り変えられたハワイの悲しみを表現しているようにも思えます。

両親のいない姉と妹がいて、児童相談所が両者を引き離すことを考える…というのはアメリカ映画でよくありそうな設定のように思います。日本だと親戚が引き取るみたいな解決策がとられると思いますが、これはどちらがいいかはよく分かりません。親戚だという理由で居候すると『火垂の墓』みたいになってしまいます。

最後はお姉さんの新しい仕事が見つかり、児童相談所も一緒に暮らすことを認め、スティッチも「地球へ追放」ということでめでたくシャンシャンな終わり方ですが、弱いものの味方になる、困っている人が幸せになるという物語はやはりいいものです。あと作画もよかったです。

スポンサーリンク