アニメ映画『打ち上げ花火上から見るか下から見るか』は大人が見ても勉強になるはず

『打ち上げ花火上から見るか下から見るか』という作品は、私の学生が「とても良かった」と言っていたので一度見てみようと思っていたのですが、最近ちょっとチャンスがあってようやく見ることができました。

絵もきれいですし、思春期のなんとも言えない心の動きが描かれるという点では凄いなあと、さすがは岩井俊二さんだとも思うわけですが、もう一回見たいと思うかどうか、何度も見たいと思うかどうかは、なずなというヒロインにリビドーを感じるかどうかによるのではないかという気がします。

ヒロインのなずなは学校の制服、スクール水着、白いワンピースと次々と着せ替え人形のように衣装を替えていくわけですが、それぞれ違った雰囲気があり、実年齢よりちょっと大人っぽく見えるという設定もなかなかにくいものがあって、こんな感じの女の子に魅かれるという人がいれば、ばっちりはまるというか、繰り返して見たくなる、その都度、わーーーと心の中が混ぜっ返されるみたいになってとりとめをなくしてしまうのが心地よくてまた見るという循環に入ることができるのではと思います。

意地悪な見方をすれば色仕掛けに引っかかっているわけですが、映画やアニメで色仕掛けにかかるくらいどうということもありません。好きな人にはたまらないのではないかと思います。

この作品が凄いなあと思うところはターゲットをティーンエイジからヤングアダルトに絞りきり、それ以外の鑑賞者については顧慮しない、大人が見たくないのであれば見なくていいという徹底した態度ではないかと思います。なずなはお母さんの再婚に強い反発心を持ち家出することを企図します。もちろんお母さんは容赦ありません。実の親ですし、同性の親子です。なずなが何をしようと泣き叫ぼうと、引きずってでも断固家に連れ帰そうとするわけです。お母さんの再婚相手のおじさんもお母さんに協力し「悪い大人」の一角を形成しています。

で、なずなを救いたい(顕在的願望)、そしてなずなと結ばれたい(潜在的願望)と思う男子がいろいろ捨てて頑張るというわけです。私も男子の気持ちが分かりますから、そういうシチュエーションになったら頑張る以外の選択肢はおそらく存在しないでしょう。しかし、無残には男子は強大な大人の前に敗れ去ります。しかし、なんでか分かりませんが、きらきら光る球を全力で投げると「もしもあの時」に戻ってやり直すことができるというタラレバが現実化するという夢のような状況が生まれます。球さえ投げれば「もしもあの時」に戻れますから、何回でも無制限です。メルモちゃんのキャンディとかドラえもんのタイムマシンとかなんでもありな世界になるわけです。人生にタラレバはない。人生は後戻りできない。結果を受け入れ、ただ前に進むべしと私はついつい思ってしまったのですが、それは無粋な大人の考えかも知れません。

ティーンエイジからヤングアダルトの時期は「もしもあの時、ああしていれば、こうしていたら」というタラレバに強い憧れを持つものだと思います。私もヤングアダルトのころはそうでした(今はヤングではない)。そういった若い人たちだけにターゲットを絞り、その世代の人たちの心をぐわっと鷲掴みにするこの作品は、大人が見ても勉強になるのではないかと思えます。共感できるかどうかは評価が分かれると思いますが、それを越えて人の心を掴むとはどういうことかという勉強になる気がします。

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エマワトソン主演『美女と野獣』の紳士的な愛

エマワトソンが『美女と野獣』の主演をしたことは有名な話ですから、今更ここで強調しなければならないニュースとも言えませんが、この映画の展開を見ると、果たして女性はどのような男性にどのように愛されたいのかをはっきりと分かるように描かれているように思えて、ちょっとブログに書いてみたいと思いました。

エマワトソンは読書が好きな田舎町の娘さんです。本を通じて世界の広さを知ることに深い喜びを得ている女性です。彼女を狙う優男は、一見確かに立派な風貌に見えるのですが、残念ながら気質というか矜持というか、そういうものを持ち合わせているわけではなく、エマワトソンを自分の嫁さんにするためにいろいろな悪知恵を働かせたりします。もう一人、エマワトソンから愛されることを切実に願う城主がいます。美しいものだけを愛するという偏愛が過ぎたために呪いがかけられ、自分はみにくい野獣に変身させられ、かしづいていた召使いたちはろうそくの燭台や食器、クローゼットなどの家具に姿を変えられてしまいます。時間切れになると元の人間には戻れなくなるという、けっこうえげつないというか残酷な時間とのレースを強いられる運命です。

諸事情があって(諸事情は割愛)、エマワトソンがお城で暮らすようになり、野獣の城主が実はきちんとした躾と教養を身に着けていることを知り、二人の関係は急速に近づいていきます。お城の食器や燭台たちも真剣な面持ちで二人が結ばれるよう祈ります。なぜなら、城主と召使たちにかけられた呪いは、城主が真実に愛された時だけ解かれることになっており、時間切れは刻刻と迫っており、エマワトソンに嫌われてしまったら、もうあきらめるしかありません。彼らは懸命に彼女を楽しませ、喜ばせ、二人が愛し合う関係になれるよう努力しますが、そこに悲報が届きます。エマワトソンにとってかけがえのない存在である父親が優男に拉致られてしまったというのです。愛する父親を救うために彼女は城を出なくてはいけません。城主=野獣は、さあ、行きなさいと彼女が馬に城を離れることを赦します。

この寛容さ、この寛大さ、もしかすると帰ってこないのではないかという葛藤、それでも彼女の意思を尊重するという紳士ぶりに私は感動し、私もかくありたいとつくづくと思ったのでした。男も女もそうですが、どうしても好きな人のことは引き止めたいと思うものです。そこをぐっとこらえ、帰って来ないのなら、それが彼女の意思だとすれば、それはそれでしかたがないとふんぎりをつける男前ぶりを見ならいたいです。

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宮崎駿『風立ちぬ』の倫理と愛のエゴイズム

今更ながら、『風立ちぬ』について考えてみたいと思います。この作品は、徹頭徹尾、主人公(まず間違いなく、宮崎駿さんの完全なる投影)のエゴイズムが描かれています。エゴイズムを完全にやり切ったらここまで美しくなるということを証明したとも言っていいほどに美しい映画です。なぜかくも美しいのかと言えば、主人公が他人のことを一切考えず、自分のエゴイズムを貫徹したからであり、いかに生きるかということを考える上でも格好の材料とも言える作品と思います。

主人公の堀越二郎は高い倫理観を持っています。この作品の美しさを支えているのは彼の倫理観の高さによると言ってもいいかも知れません。もちろん作画もすばらしく、音楽もきれいなのですが、観る人が堀越二郎のように自分の好きなことにしか関心のない人物に感情移入できるのは、彼が高い倫理観に基づいて行動していることに尽きるのではないかと思います。彼の倫理観は弱い者に対しては優しくするで透徹されており、たとえばいじめられている下級生を見かければ助けますし、関東大震災で菜穂子さんとお絹が罹災した際には、背負って歩き、救援を求め、一切が終われば恩着せがましいところを一切見せずにさっていきます。気持ちいいまでに親切です。しかし、それは例えば倫理や道徳の教育を訓練を受けたり、あるいは自己教育や鍛錬、修養などによって身に着けた優しさや親切さとは違うものです。そもそもの性格として弱い者を助けたいという欲求持っており、弱い者を見かけたら本能に従って助けているだけであり、広い意味ではエゴイズムを満たしているに過ぎず、作者の宮崎駿さんは意図的にそのような人物にしています。堀越二郎は仕事帰りに雑貨屋さんみたいなところで「シベリア」というカステラみたいなお菓子を買いますが、近くの電柱の下で帰りの遅い親を待つ貧しそうな三人兄弟を見かけます。いかにも弱く、社会的な弱者に見え、彼はその本能的欲求したがって彼らに親切にしたいと思い、彼らにシベリアをあげようとします。しかし、一番上の女の子がそれを拒絶し、姉と弟はそこから走って逃げていきます。わざわざこのようなシークエンスが入れこまれている理由は、堀越二郎が深い思索や鍛錬の末に親切な人間になったのではなく、弱い者に親切にして自分が満足を得たいというエゴイズムを実践しているのであるということを宮崎駿さんが観客に教えるためであったのだと私は確信しています。

堀越二郎のエゴイズムは仕事でも発揮されます。仕事をすれば周辺で何が起きているか全然気づかなくなるほどに没頭します。服部課長が来ても気づきません。話しかけられても気づきません。技術者ですから、もちろんそれはそれでよく、仕事ができるという意味で堀越は重宝されますし、服部さんは堀越を大事にします。しかし、服部さんは堀越二郎に人間的な愛情は持ってはいません。堀越二郎に特高警察の捜査の手が伸びた時、服部さんは「会社は君を全力で守る」と言いますが、続けて「君が役に立つ人間である間は」とも付け足します。日本ではかつて愛社精神などという言葉が流行し、組織や構成員は人間愛によって結ばれていることを強調する精神がありましたが、堀越と服部課長の間にそのような人間愛はありません。服部課長は堀越の技術だけを必要としており、堀越もそれで満足しています。堀越も会社から愛されることをそもそも必要としておらず、飛行機の設計という仕事さえさせてもらえれば充分に、あるいは十二分に満足であり、ウエットなものはむしろ邪魔であり、完璧なwin-winが成立しています。

堀越の徹底したエゴイズムは菜穂子さんとの愛情関係に於いても遺憾なく発揮されます。結核という当時としては死に至る病におかされていた菜穂子さんは療養所を脱出して堀越二郎に会いに行きます。本来であれば、療養所に返すのが筋というものですが、堀越は菜穂子さんを帰さずに妻として迎えます。このことに対し、上司の黒川さんだけが彼に「それは君のエゴイズムではないのか」と本質をつくのですが、堀越は否定せず「覚悟はしています」と言ってのけ、黒川も納得します。これはもちろん価値観の問題で、菜穂子さんに少しでも長く生きてほしいと思えば療養所に帰ってもらうのがベストですが、命を縮めてでも愛する人との短い時間に人生の幸福を凝縮させるというのもまた一つの考え方です。ですから、良い悪いを超えたところにはなってしまいますし、もちろん菜穂子さんというパートナーの願望もあって成立することではありますけれど、堀越本人はそれが自分のエゴイズムによる帰結であることを否定せず、平然として疑問すら抱かない姿を宮崎さんは描きたかったのだと思います。

ここでエゴイズムはどこまで正当化し得るのかという問題に突き当たります。堀越二郎は飛行機を作りたいだけであり、天下国家には関心がありません。送られてきた新しい資材を包んだ新聞紙にははっきりとわかるように上海事変と書いてありますが、そのような新聞報道には一切関心を持たず堀越はその資材だけに関心を向けています。しかし堀越が作る飛行機が実際に上海を爆撃し、重慶を爆撃し、真珠湾を爆撃し、多くの特攻隊員もまた堀越の設計した飛行機で死んでいきます。しかしそれは堀越の関心の外ということになります。堀越の同期が「俺たちは武器商人じゃない。飛行機を作っているんだ」と言い、堀越は沈黙でそれに同意を示しますが、自分のエゴイズムのもたらす帰結についてすら関心がないということもそのシークエンスで表現されています。結果としては菜穂子さんの死期を早めることになってしまったことも堀越は覚悟の上であり、透徹したエゴイズムのためには払わなければならない犠牲であるということを彼本人も理解しているわけです。堀越が菜穂子さんの寝床の隣で仕事をするとき、たばこが吸いたくなりますが、菜穂子さんが「ここで吸って」と頼むので、堀越はたばこを我慢することなく、そこで吸います。エゴイストであるがゆえに仕事と愛とたばこを吸いたいという欲望のすべてを満たすことが可能になるのであり、おいしいところを全部持っていく様は見事としか言いようがありません。

しかし、この映画の最後の最後で、堀越もまたその責任を負わなくてはいけなくなることが明らかになります。菜穂子さんはいよいよ病状が深刻になるということを悟り、一人黙って療養所へと帰ります。そこにある種の死の美学があり、ある意味では菜穂子さんのエゴイズムとも言えますが、菜穂子さんがんだ後、最後の場面で「あなた生きて」と堀越に言います。堀越には生きるという罰が与えられ、菜穂子さんのように人生を美しく仕上げるということが許されません。堀越の作った飛行機のために多くの人が死に、最後は日本が滅亡します。亡国の民として、亡国の責任者の一人として、恥ずべき敗戦国民として「生きろ」と命じられたわけです。

この作品では恥ずべき後半生の堀越の姿は描かれません。そこは観客の想像に任されることにならざるを得ず、作品では飽くまでも堀越のエゴイズムのピーク、絶頂期、美しい部分だけを特段に強調し、全力で美化して描かれています。意図してそうしているわけです。

私はこの作品を繰り返し観て、そのたびに深く感動しました。それは音楽が美しいからであり、作画が美しいからであり、堀越と菜穂子さんの短いながらも人生をかけた愛が美しいからであり、同時にエゴイズムを徹底して貫くことにも美しさを感じたからです。

そのように思えば、男は仕事ができてなんぼであり、仕事さえできればいくらでもエゴイズムは貫けるのだというわりと古典的な結論に落ち着くようにも思え、それはまさしく宮崎駿が仕事に打ち込む人生を他者に見せることで証明しているのだとも思えます。

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『耳をすませば』の映像美と日本の近代

『銀河鉄道の夜』と近代

最近、ようやく1985年公開のアニメ映画『銀河鉄道の夜』を観て、今までこの作品を観ていなかったことを大いに後悔し、かつ、観ていなかった自分のことを恥ずかしいとすら思います。ため息が出るほど素敵な作品です。

ごくごく個人的なことですが、私には宮沢賢治に対して「暗い…暗すぎる…」という思い込みがあり、宮沢賢治は日本のファンタジーの大家、死後高く評価されたという意味ではゴッホみたいな壮絶な天才であるにも関わらず、「現実が辛いから、ファンタジーに行ったんでしょ」的な偏見が私の中から抜けず、宮沢賢治が好きだという人に出会うと、内心「へぇw」と思う程度に傲慢でしたが、今回、『銀河鉄道の夜』をアニメ作品で観て、自分の偏見は間違っていた、この映画を作った人はもちろんえらいが、原作者の宮沢賢治もめちゃめちゃえらいと考えを改めざるを得ませんでした。私が悪かったです。反省します。謝罪もしたいくらいです。

主人公のジョバンニのまっすぐな目、真摯な動き、善良な表情など、どれをとってもジョバンニに好意を抱かないわけにはいかず、クラスメイトたちがジョバンニをからかう中で、ただ一人、ジョバンニに対して優しさと愛情をもって接するカムパネルラに憧憬と尊敬の念を抱かざるを得ず、久々に凄い作品を観てしまった、感動してしまってではないか…。と大いに驚いたのでありました。

私が個人的に注目すべきと思うのは、作品の中には古典的近代の記号がちりばめられていることです。家に帰ってスイッチをひねれば電灯に明かりが入るというのは現代人にとっては普通のことですが、宮沢賢治の時代では、それ以前とは全く新しい時代が始まったことへの感動や驚き、それが西洋と一緒に入ってきたという事実に対する畏怖・畏敬で全体が構成されているとすら思えます。天文学の知識ももちろんですが、病気のお母さんのために買って帰るパンと角砂糖、そして牛乳。これらは西洋人が日本人にもたらした新しい食生活のスタイルであり、パンを食べれば脚気が治るという、当時の日本人にとっては驚愕の栄養失調からの回復方法であり、牛乳を飲めば元気になれるという半分神話みたいなことが浸透しつつあった時代です。時代的に若干のずれはあるものの、19世紀の後半にスペンサーの社会進化論が多いに流行り、福沢諭吉の弟子が日本民族改造論みたいなものをぶちあげて、肉とパンを食べれば西洋人みたいになれるぞというアホみたいなことが喧伝されていた時代の名残が、20世紀の初頭を生きた宮沢賢治の時代にはあって、そういうもの、古典的に、科学は万能と信じられた新時代の扉が開いた時代です。ヨーロッパで言えばニーチェであり、日本で言えば宮沢賢治と言ってもいいかも知れません。

そうは言ってもニーチェが東洋的無神論をその思想の支柱に据えようとしたのに対し、宮沢賢治はヨーロッパ伝来のキリスト教への憧れを隠そうとはしていなかったように思えます。ただし、宮沢賢治本人は仏教への帰依が厚かったとも言われています。宗教はいろいろなタイプがありますが、長く残っている宗教は大抵の場合、その土地土地で人の心を安らかに救済することを役割として背負っていますから、宗教について真剣に考えたいという人、そういう方面に探求心がある人は、遠藤周作さんのように仏教にもキリスト教にも深い理解を持つようになっていくものなのかも知れません。

『銀河鉄道の夜』のタイタニック号に関する部分は素直に泣けます。アニメ作品の中で、荘厳な音楽と一緒に崇高な場面に仕上げた制作者の方に対しては素直に尊敬いたしますとしか言えません。

遠い銀河をどこまで行くかも分からない、延々と旅が続くかのような錯覚が起きる作品ですが、考えてみれば銀河鉄道999と似通う部分があり、原作、アニメ、松本零士さんの漫画が相関関係にあると見て、おそらくそうは外れてはいないでしょうし、もうちょっと言えば、千と千尋で省線列車みたいなものに乗る場面にも共通するものを感じます。

大変に見事な作品であり、観なければ損とすら思える一押しであります。
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『この世界の片隅に』と『瀬戸内少年野球団』

『この世界の片隅に』の評判があまりにいいので観てきました。多くの人が言っているように、映画が終わった瞬間、この映画をどう理解していいのかが分からなくなってしまいます。凄かったことは間違いないのですが、明確な「泣かせどころ」があるわけではなく、すずさんの心の変化に気づくことはいろいろありますが、「ここが見どころ」というものがあるわけでもなく、でも感動的で、私の場合は涙が二すじほどすっと流れました。隣の席の人はほとんど号泣です。

時代背景は太平洋戦争ですから、「戦争もの」に区分することも可能ですが、空襲のシーンはもちろんあるものの、空襲がメインというわけでもありません。実はギャグ満載であり、「戦時下の銃後の生活をメインにしたギャグ漫画映画」に『今日のねこ村さん』なみのほのぼのした感じが加えられ、『じゃりン子チエ』を連想させるちょっとコミカルな感じで描かれる人々、確信犯的なすずさんの天然キャラが全部入れ込まれているにもかかわらず、全く無理を感じず、原子爆弾という重いテーマも、それは重いことなのだと感じることができる、普通に考えればあり得ないような映画です。すずさんの声は確かにのんさん以外にはあり得ず、私にはこの映画のために彼女は生まれてきたのではないかとすら思えます。

戦時下の日常をたんたんと生き、生活の窮乏もたんたんと受け入れる人々の姿が静かで圧倒的です。時々ポエティックな場面があり、それはすずさんの心の中で起きている現象を表現しているのだと私は思いますが、それ以外の場面が極めてリアルに描かれているために、三文詩人のような安さは生まれず、ポエティックな場面を文字通り詩的に受け取ることができます。ギャグもしかりで、ギャグの場面以外がめちゃめちゃしっかりしているので、ギャグを入れ込まれてくると笑うしかなくなってしまいます。そして静かに一人また一人と大切な人がいなくなっていく現象に薄ら寒い恐怖も覚えます。これは原作も読まなくてはいけなくなってしまいました。

個人的には私の祖父が連合艦隊の人で呉で終戦を迎えていますので、私の祖父もこういう光景を見ていたのだろうかという感慨もありました。

終戦のラジオ放送の場面では、一緒に聴いていた人たちが「そうか、敗けたのか」と、これもまた淡々と受け入れる中、すずさんだけが号泣し、「最後の一人まで戦うつもりじゃなかったのか。なぜここであきらめるのか」と叫びます。周囲の人からは「はいはい(あなたは天然だからすぐ感情が昂るのよねえ)」といなされますが、私はあのラジオ放送ですずさんみたいな感じた人は実は意外と多かったのではないかと想像していて、戦後、それを口にするのは憚られていてあまり語られなかったのではないかというようなことを、ふと思いました。

さて、物語は戦後も少し描かれますが、アメリカ軍の兵隊からチョコレートをもらったり、配給でアメリカ軍の残飯ぞうすいをもらったりして、がらっと変わった新しい日常を、人々はまたしても淡々と受け入れます。

アメリカ軍が来て、チョコレートをばら撒いて、人々が敗戦の傷から少しずつ立ち直って生きる姿は『瀬戸内少年野球団』を連想させます。この作品では敗戦があったとしても、それでも今を生きる人々のたくましさを感じることができると同時に、ヒロインの女の子のお父さんが戦争犯罪人で処刑されるなど、戦争に敗けるとはどういうことかをじわっと観客に問いかけています。

『瀬戸内少年野球団』の風景は、屈辱的ではあるけれど、それが戦後日本の出発点で、後世の人にもそれを忘れないでほしいという願いをこめて制作されたものだと私は思いますし、私は世代的にぎりぎりどうにか、そういう貧しかった日本の印象を記憶の片隅には残っていて、この映画のメッセージ性にぐっとくるところがあったのですが、『この世界の片隅に』は『瀬戸内少年野球団』より少し前の時代から時間的シークエンスを描いており、その描こうとしたところは実は同じものなのではないかという気がしてきます。

もし、これら二つの作品を連続して観ることができれば、ある意味では現代日本の原風景とも呼びうるものを感じることができるのではないかなあとも思えます。

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アメリカ映画『ミニオンズ』の1968年

アメリカのアニメ映画『ミニオンズ』は1968年に設定されています。

考えてみると、1968年は世界的に激しい年だったと言えるかも知れません。日本では東大闘争があり、アメリカではベトナム反戦運動が盛り上がりを見せ、フランスでも学生運動があり、ベトナム戦8争の戦地ではソンミ村事件が起き、アポロ計画はまだ月に上陸していませんが、アポロ8号が月を周回しています。『ミニオンズ』という映画では、そういう時代性を意識して作られている気がします。

ついでに言うと『カリオストロの城』も1968年に設定されているそうです。

そんな風に思うと、ミニオンたちがスカーレットに命じられて王冠を盗みに行った時、地下へ降りていく場面はなんとなく『カリオストロの城』を連想させます。エンタメへの造詣がとても深い人たちによる制作でしょうから、カリオストロの城を知らないはずがありません。きっと、分かって、分かる人には分かるようにそう制作されているのではないかと思えます。

王冠を守るご老人が「何十年もここで盗人が来るのを待っていた」と言う台詞がありますが、これは『インディジョーンズの最後の聖戦』で何百年もキリストの聖杯を守り続けた騎士を連想させるものです。

エリザベスII世の王冠を盗むという物語ですから、ところどころ荘厳な音楽が流れる場面があり(短いですが)、これはやはり映画『エリザベス』を意識しているのではないかとも思えて来ます。

この他、アポロによる月上陸場面の撮影スタジオが登場したり、アビーロードでビートルズと思しき人物たち(足だけ)が登場したりと、時代性、都市伝説、各種エンタメへのオマージュが満載されています。ぱっと見子ども向けの作品ですが、実は大人も楽しめる仕掛けがたくさん込められていると言っていいかも知れません。音楽にもいろいろ凝っていますが、私は洋楽がよく分からないので、詳しい人が見ればきっと分かる、『バックトゥザフューチャー』でマイケルJフォックスが最初はノリノリで、後の方で激しくエレキギターを弾きますが、それと同じように、洋楽に詳しい人には「あー、分分かる!」という感じに作られているのだろうなあと思います。

悪玉は女性のスカーレットであり、善玉はイギリスのエリザベス二世女王ですので、まさしく女性の時代です。悪い人も良い人も女性がメイン、女性が主役です。私は男ですが、大学生の時にフェミニズムを叩き込まれていますので、「女性が主役の時代」を普通に受け入れることができます。

作画も凝っており、ウォーレスとグルミットみたいな感じに制作されている部分もありますので(どの程度CGで、どの程度手作りかは素人の私には判別不能)、アニメを見るのが好きな大人には絶対にお薦めできると思います。ニューヨークとロンドンの街の描写もいいです。素敵です。あー、ニューヨークかロンドンに住みてえなー、とついつい思います。

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ディズニー映画『リロ・アンド・スティッチ』の悲しみと愛

両親を事故で亡くしたリロは姉と二人暮らしで、お姉さんの育児能力に疑問を持つ児童相談所は、リロを施設で育てることを考えています。リロはそそっかしいところがあり、友達がなく、孤独をかみしめて生きる小さな女の子です。

物語のもう一人の主人公であるスティッチは銀河の遠い場所で遺伝子工学を利用して開発された生物で大変凶暴です。スティッチは凶暴で更生の可能性なしとして追放が決まりますが、途中で脱走。地球にやってきます。追手を逃れるために体の形を少しだけ変えて犬のふりをし、リロに飼われるという展開になります。

物語の結末はわりと平凡でそんなにどうということはありませんが、設定には考えさせられる、同情を禁じ得ない、ぐっと来させるものがあります。

リロとスティッチはともに自分の心の赴くままに行動する天真爛漫で真っすぐな、正直な性格です。そして、正直であるが故に、ただそれだけの理由で周囲から排除されます。リロは友達からハブられた上に姉と自宅から引き離されそうになり、スティッチは凶暴になるように遺伝子工学的に設計されているため、本人の責任とは言えない理由で追放されます。元いるところから引き離される、排除される、居場所を失う危機にさらされるという点が両者の共通項になっています。

リロとお姉さんの間では「家族はどんなことがあっても見棄てない」という言葉が交わされ、家族愛の美しさが表現されます。家族運に恵まれなかった私としては、この言葉にはぐっと来てしまい、どうしても感情移入せざるを得ません。

当初は凶暴だったスティッチはリロの持っている本の中から「みにくいアヒルの子」を見つけ、それが自分と同じだと感じるようになり、そこから少しずつ変化していきます。リロとスティッチは心情的に結びつき互いに助け合うようになります。スティッチはそもそも凶暴になるように設計されていますから、リロに敵対する人物が現れた場合は心強いことこの上ありません。

物語の舞台はハワイで、お姉さんはハワイアンレストランの踊り子の仕事をしていますが、スティッチがした悪さが原因でレストランを首になります。その時に「こんな半端でニセモノのダンスショーなんてこちらから願い下げよ」という主旨の発言をします。たった一言ですが、誰もがうっすらと感じるハワイの「作られたリゾート」感に触れています。ハワイはいいところですが、観光客に気に入るように作りこまれた、あるいは作り変えられたハワイの悲しみを表現しているようにも思えます。

両親のいない姉と妹がいて、児童相談所が両者を引き離すことを考える…というのはアメリカ映画でよくありそうな設定のように思います。日本だと親戚が引き取るみたいな解決策がとられると思いますが、これはどちらがいいかはよく分かりません。親戚だという理由で居候すると『火垂の墓』みたいになってしまいます。

最後はお姉さんの新しい仕事が見つかり、児童相談所も一緒に暮らすことを認め、スティッチも「地球へ追放」ということでめでたくシャンシャンな終わり方ですが、弱いものの味方になる、困っている人が幸せになるという物語はやはりいいものです。あと作画もよかったです。

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エヴァンゲリオン新劇場版と能

これまでにエヴァンゲリオン新劇場版は『序』『破』『Q』が公開されています。私は最近知ったのですが、能ではストーリーの展開が「序」「破」「急」の順序になるそうです。これまで何度か実際に能をみに行ったことがありますし、動画でも何度も観ていたのですが、そういう順序になっていると初めて知り、言われてみればその通りだと納得し、今まで気づいていなかった自分が恥ずかしいとも思いました。

能の「序」の段階では、登場人物がゆっくりとした動きで登場し、自己紹介するときもありますし、舞台上で無言でじっと佇む時もあります。いずれにせよ、ゆっくりと盛り上がりのない、言ってみれば退屈で、観客は続きに期待する段階になります。続いて「破」の段階で物語に動きがあり、知られざる秘密が明かされ(古典なので観客は基本、筋は知っている)、告白や暴露があり、新たな問題があり、克服するべき障壁が示されたりします。

最後の「急」では物語が急展開し、激しい対立や慟哭、命のやり取りなどがあって、終結していきます。

エヴァンゲリオン新劇場版の場合、まさしくこの順序通りで『序』はいわば登場人物や設定の紹介です。しかも観客は旧劇場版、あるいはテレビ版やマンガ版からストーリーをよく知っていますので、いわばおなじみのことをなぞっている、なぞりなおしている感じです。映像はCGできれいになりましたし、より21世紀的というか、きらきらしていて、さすが作り直されただけのことはあると思います。ただ、ストーリー的には既に知っていることなので新たな注目点と言われても…。な感じも残ります。

次の『破』では、シンジとアスカとレイの人間関係に大きな変化が現れます。レイが自分の内面に人間的な感情が存在することに気づき、シンジはレイを愛していると自覚します。かわいそうですがアスカはちょっと退いている感はありますが、アスカの人間関係面での交代と重大な負傷は、『序』の段階での曖昧な均衡を破壊するという効果があると言ってもいいと思います。

さて、『Q』ですが、いきなり全然違う展開になっていることは誰でも知っていると思います。「えーっ前作の綾波を返せ!はどうなったの?」「律子さんが世界が終わるのよと言ったのはなしかよっ」と想定を超える物語の展開に唖然としたのは私だけではないはずです。

本当に急な展開で、通常の物語では終了へ入っていけるところが、こんなことになって、一体、庵野先生はこれからどうするんだろう…。と他人事ながら心配になりますが、これについはもはや前人未踏の能の物語構造を超えた世界が作られるのを待つしかないです。

シン・ゴジラ』よかったです。ですが、はやくエヴァンゲリオンの続編をお待ち申し上げております。

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『エヴァンゲリオン』旧劇場版を改めて観て気づく観衆の心理的成長

『エヴァンゲリオン』旧劇場版を改めて観て気づく観衆の心理的成長

『エヴァンゲリオン』の新劇場版はまだ完結していないため、なんとも言えない部分がありますが、エヴァンゲリオン世代にとって旧劇場版はなかなか忘れられない青春の一ページです。今回、改めて旧劇場版をみて、新劇場版とは心理の描き方に大きな違いがあり、それは観衆や作り手の心理的成長とも少なからぬ関係があるのではないかと思えました。

エヴァの旧劇場版では、碇シンジは4人の美しい女性に囲まれた状態で試練を与えられます。綾波レイ、アスカ、律子さん、ミサトさんの4人の女性との心理的相克があり、同時に父親との競合というある種のエディプスコンプレックス、更に言えば父殺しの願望が描かれます。複数の異性が次々現れてプラトニックにせよ、何にせよ主人公と関係性が生まれていくというのは、いわゆる「ハーレム型」と呼ばれる物語の展開になりますが、このような描かれ方は人の厨二的な心の琴線に触れやすいです。

複数の異性がいれば、一人くらいは自分の好きなタイプが登場する可能性が高くなるため、いわゆるセット売りになり、興業的にも有利になるはずです(私は興業とかセールスとかに疎いので、「はず」としか言えないですが)。

世に疎く、心細い生き方をしている碇シンジはまさしく中学生そのもので、アスカとレイが同級生の女の子タイプ、律子さんとミサトさんが年上のお姉さんタイプ(美人で怖い。時々優しい)と住み分けがされており、シンジがレイの自宅へ通行パスを届けに行く場面は初恋の生まれる現場というちょっと照れる言い方も可能で、要するに中学生くらいの男の子が異性に対して求めているものを全て提供してくれています。観客は中二の心で自分の初恋を思い出したりしながら、感情移入していくことができます。

一方で、新劇場版のエヴァでは、重複する箇所もありますし、それが全てではないものの、「綾波レイ」という特定の女性を愛し、彼女を救うためにシンジは力を尽くします。特定の女性を愛して救おうとするのは、大人の男性の心の動きと言えます。『序』がレイとの出会いと絆の生まれる物語であり、『破』はレイを愛していることに明確に気づきレイの救出に力を尽くしています。三作目になると意味不明になってきて、四作目がまだなので、この辺りはまだなんとも解釈も考察もできませんが、新劇場版の最初の二作については以上のような理解が可能だと思います。

旧劇場版と新劇場版の客層は相当にかぶっており、旧版が上映された時に十代か二十代だった人が、今三十代か四十代で新版を観ているのではないかと思います。いい作品や有名な作品は世代を超えることが多々あるので、世代論が全てとは言いませんが、大きな要素ではあると思います。多くの人が若いころは「ハーレム型」を好みあちこち目移りするのに対し、年齢を重ねると特定の相手を愛するという経験をしていくことになります。そのため、若いころは旧版に感情移入でき、年齢を重ねると新版にも感情移入できるという構図が成り立つように思えます。これがもし新版でも全く同じ「ハーレム型」ですと、共感できる人とできない人に分かれるようにも思えます。

まるで観客の心理的成長を見越してそのように作品の感じを変えたのではないかとすら思ってしまいますが、たまたまかも知れませんし、庵野さんの心の変化が主要因かも知れません。そこまでは分かりませんが、時には無意識のうちに、観客と制作者がシンクロするということもあると思いますから、これは、そういう類の話かも知れません。

シン・ゴジラ』も良かったのですが、早くエヴァの新作が観たいです。よろしくお願いします。

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ムーミン一家がリビエラにバケーションに行った話

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ムーミンの彼女が雑誌にリビエラ特集を書いてあるのを発見します。リビエラは世界の貴族や女優、映画監督などが集まって夏休みを過ごすフランスのリゾート地だということなので、是非行ってみたいと言い出します。

ムーミンパパがDIYで舟を作り、難破の遭難のリスクを負い、実際に一回遭難し、それでも諦めずにリビエラを目指し、ついに到着します。

高級なホテルの入り口で名前を尋ねられたので「ムーミン谷のムーミン一家だ」と答えると「ご領主様ですね」と、最高級のスイートルームに通されます。一泊何十万円とかするやつです。まさか後でお金を請求されるとは想像もしていなかったムーミン一家は、親切でいい部屋に泊めてもらっているのだと信じ、そこで過ごします。そもそも普段からお金を必要としないムーミン一家にとって、その部屋に泊まるには高額なお金が必要だということ事態がよく理解できません。

ムーミンの彼女にイケメンが近づきます。ムーミンの彼女も誘惑されかかっており、二人は日を追うごとに怪しい感じになっていきます。ムーミン大激怒です。

ムーミンの彼女は自分もビーチで素敵な水着を着て、イケメンと遊びたいと思うようになります。普段は何も着ていないのに、海に行ったら水着が着たいと思うと言うのは制作者のユーモアも入っていると思います。

ところが水着がたいへんな高級品で、ムーミンの彼女に買えるようなものではありません。人から「カジノに行けば儲かるよ」と言われ、たった一枚持っているコインを握りしめ、カジノへと向かいます。ビギナーズラックで大勝ちし、ディーラーが「そろそろ、こいつ、負けさせようかな」と思う直前でムーミンの彼女は「充分に儲かったから」とカジノを去ります。

望みの水着を手に入れた彼女はイケメンとラブラブです。残りのお金は地中に埋めてあります。

彼女が都会のイケメンに奪われつつある現実にムーミン大ショックです。ムーミンママも心配になり、二人でホテルの部屋を出て、ビーチにテントを立ててそこで暮らすようになります。そして、ムーミン谷へ帰ろうということになります。

ところが清算の時になると、莫大な金額を要求されます。そりゃそうです。何日も高級スイートで好き放題に飲食していたのです。普通のホラーを見るよりよほど怖いです。観ている側の背筋が凍り、冷や汗が流れます。

ムーミンの彼女が埋めてあったお金を掘り出して支払いを済ませます。それでもお釣りが来るのですが彼女は「普段、お金が必要ないから、つらはいらねぇ」と言います。そりゃ、お店の人も大フィーバーで熱烈お見送りです。

貧富の格差に対する強い批判、お金=幸せではないという人間主義が描かれます。資本主義への痛烈な皮肉ともとれますが、ムーミン一家が「ご領主様」と判断される背景にはヨーロッパの階級社会があります。

私はムーミン一家の価値観はとても美しいものだと思います。ただ、一つだけ疑問が残ります。ムーミンのパパはウイスキーが大好きです。よく瓶ごと飲んで幸福な気分で酔っ払います。酔っ払うことはいいのですが、ウイスキーを手に入れるお金はどうしているのでしょうか?

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