谷崎潤一郎『小さな王国』から、お金について考える

谷崎潤一郎の短編に『小さな王国』というものがあります。東京育ちの主人公は学者を志してはいましたが、生活のために学者に専念するわけにはいかず、小学校の教師になります。結婚し、子どもも生まれ、家族が増えていきますから、お金がどんどんかかるようになります。もちろん俸給は上がっては行くものの、物価の上昇もあって東京ではとても生活が維持できないと考えた主人公は北関東の某所で教師の職を得て移り住みます。

さて、主人公は小学校で沼倉という少年に出会います。第一印象はあか抜けない、田舎の普通の少年という感じでしたが、話しをさせてみるとそこそこ頭がいい少年だという印象を主人公は抱きます。主人公が驚愕するのは、この沼倉少年が子どもたちに対して通常ではあり得ないほどのカリスマ性を発揮し少年たちを統率しているという事実を知った時でした。しかもジャイアンのように腕力にものを言わせるわけではなく、沼倉少年は物静かに黙考して筋の通った判断をし子どもたちがそれに従うというわけで、得体の知れない、末恐ろしいような気さえさせる、本物のリーダーの資質を持っている少年だったわけです。

そういう児童が反抗的な場合は教師は手を焼くことになりますが、沼倉少年の場合はそういうわけではありません。聞き分けがよく、教室全体の雰囲気を維持することにも協力的で、少年たちは沼倉少年に服従を誓い続ける以上、彼の命じた通りに教師にとっては実にやりやすいペースで物事が進んでいきます。沼倉少年は様々な罰則を少年たちに対して宣言しており、少年たちは制裁を恐れて沼倉少年に従うわけですが、当該の罰則は沼倉少年本人をも拘束を受けるものであり、あたかも法の下の平等が沼倉少年の指導の下に生まれて来たかのようにすら見えてきます。沼倉少年はなかなかの名君主、または颯爽とした大統領みたいな立場と言っていいかも知れません。

主人公の教師は沼倉少年が協力的で助かるなあとしばしいい気分で過ごしますが、再び驚愕せざるを得ない事実を知ります。沼倉少年が独自に紙幣を発行しているというのです。同じ学校に通う主人公の息子が小遣い銭ではとても買えないようなものを時々買って帰るので、問い詰めると沼倉紙幣を使用しているのだと白状します。現物を見てみると、金額を印刷した紙に「沼倉」という判が押されており、この判が押されていれば有効というわけです。この紙幣は沼倉少年の配下の少年たちの間だけで通用するもので、大人たちには絶対内緒というルールがあり、主人公の息子はルールを破ったことになりますが、万引きしたわけではないということを証明するために洗いざらい吐露したというわけです。放課後になると配下の少年たちは某所に集まり、油屋の息子は家から油を、服屋の息子は家から服を持ってくるという感じで市場が開かれ、沼倉紙幣を使って取引が行われるというわけです。

ここまで来ればもはや国家です。主人公ははてどうしたものかと考えますが、それよりも先に自分の生活苦を考えなければならないという現実にぶち当たります。赤ちゃんのミルクが次の給料日が来る前に切れてしまうのです。主人公は沼倉少年に「先生もまぜてくれないか」と頼み、沼倉紙幣を受け取ります。そしてミルクを買いに行き、そこで、あ、俺は今なんてばかなことをしているんだろうと気づくところで物語は終わります。

この物語の面白さはいろいろなものがあって、例えば沼倉少年というある種の天才を如何に描くか、或いは意外と平凡な人生を送ってしまったと思いつつ惰性で生きている主人公に焦点を当てるかということでも違ったおもしろさが見つかるでしょうけれど、ここでは沼倉紙幣について考えてみたいと思います。

お金には実態がなく、中央銀行が適当に出している紙でしかないことは、議論の余地がありません。もちろん信用ある国家の発行する通貨には相応な信用がつくわけですが、金本位制の時代のように、完全に担保されているわけでもありません。日本円が日本で流通できるのは、みんなが10000円札という紙に価値があると合意しているからに過ぎず、これはドルであろうとポンドであろうと人民元であろうと違いはありません。そのように考えると、沼倉紙幣は沼倉少年に信用がある限り、少なくとも沼倉信者にとっては実質的に価値があると認めても一向に差し支えないのではないかという気がしてきます。もちろん、沼倉紙幣には弱点があって、それは紙幣と交換し得る物資はその紙幣共同体に参加する少年たちが家から持ってくる(言わば、輸入)に頼らざるを得ません。ましてや沼倉紙幣は大人からの信用はありませんので、円との互換性もありません。従って、闇経済化せざるを得ないという面はあります。しかし、市場が立ち、やがて自分で生産して沼倉紙幣と交換する人物が現れれば、当該の紙幣は円との互換性がなくとも信用を維持しやすくなり、更に発展すればやがては誰もが認めるようになって円でもドルでも交換できるというところまで発展したとしても、それは現実的ではないかも知れませんが論理的にはあり得るわけです。ビットコインと同じです。岡田斗司夫さんの提唱する1オカダも同じような感じだと思います。

この作品が世に出たのが1918年ですから、現代とは違い金本位制が根強く支持されていた時代です。このような時代によくもまあ、通貨は発行したもの勝ちみたいな発想の作品が書けたものだと驚くあまりですが、1917年にロシア革命が起きており、世の中には社会主義や共産主義という新しい価値観が今後どのように広がるのか、全く無視することもできないという空気があったでしょうし、アナーキズムもそれなりに流行していましたから、沼倉紙幣が発行されるという発想は、谷崎本人の脳裡にそのような新しい時代の始まり、今までとは違った未来像がふと立ちあらわれて作品化されたのかも知れません。おもしろいお話しです。人間心理という点からも、政治経済という点からも、或いは近現代史という視点からも楽しむことができると思います。
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