ウンベルトエーコ『薔薇の名前』の本と毒と笑い

ウンベルトエーコ先生の『薔薇の名前』はヨーロッパ中世の歴史に対する深い造詣によって支えられた凄い物語だと言われています。あんまり深いので普通の日本人にはどこに知識が生かされているのかよく分かりません。でも多分、ディテールがめちゃめちゃしっかりしているのだろうと思います。知識がなくても楽しめる本です。身もだえするほど面白いです。素人でも玄人でも楽しめる本です。

中世のいずれかの時代の、ヨーロッパのいずこかの物語です。主人公の修道士の若者が師匠と一緒に旅をしていて、ある時、とある修道院に辿り着き、しばらく寄宿させてもらいます。修道院で暮らす修道士の人々は、あんまり尊敬できる感じではありません。だらっと生きています。聖書を書き写すのが日常の仕事です。ノルマも特にありません。わりと楽して生きていて、そんなに規律正しくもありません。修道院の年老いた偉い人たちは若い修道士に対していろいろ怒っています。「ワインを飲んでもならない」という規則があったのに、最近では「ワインを飲み過ぎてはならない」と言わなくては誰も規則を守らない、それだけ若い人がなってないなどとにがにがしく思っています。

「最近の若い連中は…」という愚痴は古代ギリシャの文献にも出てくると言います。「最近の若いやつは…」は時代を超えた普遍的な愚痴のパターンだということが分かります。私もおしゃべりばっかりしている学生を見ると「最近の若いやつは…」と思いそうになります。そしてそのたびに「あ、これは普遍的な愚痴のパターンだった」と思い直します。学生を笑わせるつもりでジョークを言ってすべった時はかなり落ち込みます。その時に私は「今の若い人はセンスが悪いから俺のジョークが理解できなかったんだ」と思うことで自分を防衛しようとします。それから、「あ、そうだ。ジョークが面白くなかったのはジョークを言った人間の責任だ」と思い直します。「最近の若いやつは…」は絶対に言わないと誓っていないと言いそうになるので要注意です。でもなんだかんだ言って教師は自分の学生には甘いものなので、学生がちょっといい子にしていると過去の悪い態度とかすっかり許してしまいます。教師なんて簡単でいちころな存在です。

話が脱線しましたが、イシグロカズオさんの『忘れられた巨人』に出てくる修道院の人たちもいわば世捨て人、悪い言い方をすればちょっと社会不適合な感じの人たちみたいに描かれていますが、エーコ先生の『薔薇の名前』の影響を受けたのではないかという気もしなくもありません。

滞在中に殺人事件が起きます。水槽から両足を出して死んでいるとか、金田一耕助の『犬神家の一族』みたいな死に方をしています。他にも何人も死人がでます。でも死因が全く分かりません。外傷がありません。自殺というわけでもありません。どうして死んだのかさっぱり分かりません。完全犯罪です。読者もこの段階では首をひねるしかありません。

師匠が事件を解くカギをいろいろ集めて最後には犯人を突き止めます。犯人はこの修道院で一番偉い老人です。老人がある本に毒を塗っていました。その本を読んだ人はページをめくる際に唇に指をあて、指を少し湿らせてページをめくります。それを繰り返すうちに毒がその人の体内に入り込み、本を読み終わってしばらくすると死んでしまいます。外傷も残りません。解剖でもしないと分かりませんが、法医学とか司法解剖とか多分まだない時代なので、犯人の自白がない限り、死因は永遠に分かりません。この完全犯罪の手法は池澤夏樹さんの『マシアスギリの失脚』でも政敵の暗殺方法として使われています。作品の中で「ネタ元は『薔薇の名前』だ」と読んだことのある人にだけ分かるように書いてあります。他に『王妃マルゴ』という映画でも同じ方法で王様が死んでしまいます。『マシアスギリの失脚』では二時間くらいで死んでしまいますが、『王妃マルゴ』では何日もかかって死んでしまいます。そんな細かいことはどうでもいいと言えばどうでもいいです。

問題は動機です。毒が塗られていた本はアリストテレスの喜劇に関する本です。アリストテレスは笑うことは健康にいいと書いています。しかし、修道院では笑ってはいけないという規則があります。アリストテレスのような超有名なギリシャ時代の書き手が「笑いなさい」と書いていることがバレると結構まずいです。一番いいのは本を捨てることですが、人類共通財産である本を捨てることはためらわれます。従って、本を読んだ人、内容を知った人だけを確実を殺さなくてはいけないという結論に達し、本に毒を塗ったというわけです。

『薔薇の名前』は人類史上最高の推理小説みたいな言い方をされます。その通りだと思います。読んでいる時は面白すぎてしびれます。早く続きが読みたくて身もだえします。でも分厚いので読み終えるのに時間がかかります。本に書いてる字も小さいです。でも面白いので問題になりません。読み終えるのがもったいないと思ってしまうので、もっと長い物語になっても文句はないくらいです。



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マルシアガルケス『百年の孤独』の人生の虚実

マルシアガルケスの『百年の孤独』という長い長い小説にはプロットとかあらすじとかそういうものはありません。ある若い夫婦がラテンアメリカのどこかの荒れ地を開拓し、子孫が増えていきます。人が集まり街になります。最初の夫婦の旦那の方はわりと早く死んでしまいますが、妻の方はとても長生きします。子どもが生まれ、孫が生まれ、ひ孫が生まれ、玄孫ぐらいまで行きます。それぞれに恋をしたりお金のことで悩んだり、ちょっと変人だったり、いろいろいます。そういった人々の百年くらいの物語です。次から次へといろいろなエピソードが挿入されていきます。どこまでが現実でどこまでが本当かがはっきりしない、マジックリアリズムという手法が用いられています。池澤夏樹さんもこの手法が好きで、『マシアスギリの失脚』でも使っています。マルシアガルケスの場合は特にそれを多用しています。読みながら読者を煙に巻いているのかといぶかしい気持ちになるときもあれば、不思議な世界に吸い込まれそうになりいい気分になるときもあり、登場人物がやたらに多くてしかも時々幻想が入るので、なにがなんださっぱり分からなくなってきて、「自分の読解力はこの程度か…」と自己嫌悪になったりします。

無数の登場人物の中にとても美しい天使みたいなティーンエイジの女の子も登場します。もうちょっと正確に言うと生まれたときから物語にはちょろちょろと登場しますが、やがて10代になると神々しい美少女に成長します。変な男にいたずらされます。しばらくしたら本物の天使みたいに空に浮き上がって昇っていきます。要するに死んでしまいます。ただ、どこが現実でどこが超現実なのかが判然としないまま記述が続くので、本当に死んだのかどうかもう少し読み進めないとよく分かりません。それで、その後その子が全然登場しないので、ああ、死んだのだなと分かります。読解力のある人なら一発で分かるかも知れません。私が鈍いだけだったのかも知れません。いずれにせよ、そんな風につらつらとだらだらと続きます。読み応えのある山場も特にありません。額に数字が浮かぶ人たちがいて、その人たちは額に数字があるが故に殺されていきます。何のことか全然分かりません。詳しい人の解説を読んだら、それはラテンアメリカのどこぞで起きた政変の話だということらしいです。ラテンアメリカの事情を知らないと何のことか分からないことがいっぱい書いてあります。

恋愛に関する話題とお金に関する話題がたくさん出てきます。つまり人の欲望に関する話題が沢山出てきます。小説なんだからそりゃそうです。生きることの悲哀がつまっています。一つ一つ咀嚼して読めば涙がぼろぼろ出てきて止まらないかも知れません。ただ、時間がかかってしかたありません。生々しい欲望を直接に書いたらしゃれにならないのでマジックリアリズム風にすればオブラートに包まれて少し遠まわしな表現になって、場合によってはきらきらときれいに描けるということなのかも知れません。一番最後は最初の夫婦から数えて四代目から五代目くらいの子孫の夫婦がいろいろ悩んで怒ったりしているところでいきなり終わります。この物語は最初から幻影でしたと言わんばかりに、蝋燭の火が消えるみたいにしてフッと街そのものが消えてしまいます。読者はあっけにとられます。今まで苦労して読み進んできたのが全部幻想だったとかそんなのアリか?と頭に来ます。その後で小説とはそもそも幻影だと言うことを思い出し、怒りもおさまり、この小説を読むために使った時間とエネルギーは永遠に帰ってこないのだということを受け入れられるようになります。

どこで読んだか忘れてしまいましたが、著者のガルシアマルケスは「テーブルが突然浮いたり、椅子がいきなりしゃべりだしたりみたいな不思議なことが、ラテンアメリカでは本当に日常的に起きるのです」みたいなことをどこかの誰かに話したそうです。そんなことがあるものか。テーブルが不思議な力で浮いたりなんかするものか。このウソつきめ!と思いますが、ウソを書くふりをして本当のことを書くのが小説家の仕事です。人によってはウソを書くふりをしてやっぱりウソを書いている人もいるかも知れません。或いは本当のことを書いているふりをしてウソを書いている人もいっぱいいるかも知れません。

世界的に高い評価を受けています。世界中の言葉に翻訳されています。もしかすると高く評価しているのは日本人だけかも知れません。著者はノーベル文学賞を獲っているので本当に世界的に高い評価を受けていると言ってもいいかも知れません。でも大抵のノーベル文学賞作家のことはニュースで聞いて、その後は忘れてしまいます。何十か国語に翻訳されても売れなくて版元とか翻訳者が持ち出しでやっているということも珍しくはない筈です。

ちょっと話はずれましたが、日本で高く評価されていることだけは間違いないです。池澤夏樹さんとか大江健三郎さんとかは読んでます。村上春樹さんも多分読んでます。テーブルトークで「ガルシアマルケスの『百年の孤独』ではさあ」とか言うと読書人と思ってもらえることは請け合いです。「聞いたこともねえ本の話をさも常識みたいに話すんじゃねえ」と敬遠される場合もあるかも知れないので相手を見て話したり話さなかったりしなくてはいけません。「どんな本なの?」と質問されて、その場でさらっと手際よく説明できる人がいたらその人は神です。読書が好きで、他人からも読書人だと思われたい人は読んでおいた方がいいと思います。

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池澤夏樹『マシアスギリの失脚』の孤独のダンディズム

池澤夏樹さんのマシアスギリの失脚は何度も何度も読み返しました。線を引きながら読み返し、ぼろぼろになったら新しく新潮文庫を買って線を引いて読むを繰り返し、三冊くらい買い換えましたが最近はさすがに読まなくなりました。

1980年代、旧国際連盟日本委任統治領だった太平洋地域のいずこかにある架空の島国ナビダード共和国の大統領マシアスギリは戦争中は日本軍の軍属として働き、戦後になって日本にわたり昼間は倉庫で働きながら夜は高校に通って勉強し、日本語ペラペラになって帰ってきて始めた事業がスーパーマーケット。これが当たって名士になり、政治家になってついに大統領にのぼりつめます。人口七万人の小さな島国とはいえそこは最高権力者。権力の密の味も知っていれば、それにはまりこんでしまうことの怖さも知っている男。それでも大統領はやめられない。権力の味はこたえられない。一度選挙に負けて大統領の座を政敵に譲りますが、その政敵の人物がある種の潔癖症でマシアスギリ在任中の金銭の不正を暴き出そうと動き出したのを知ると、白人の二人組に依頼して政敵を暗殺し、見事大統領に返り咲きます。

罪悪感とことが露見することへの恐怖心からほぼ眠れなくなったマシアスギリは白人二人組に対する長期の報酬の提供に神経を配りながら昼間は政治家の仕事をし、夜は愛人のもとへ通います。しかし、暗殺を証明する大事な書類を官邸に隠してあるのを誰かに盗まれると困るので、決して愛人の家には泊まらず、必ずきちんと帰宅します。しかしなかなか眠れません。蝋燭に火をつけるとリーボーと名乗る幽霊がぼわっと現れ、マシアスギリの話し相手を務めます。どこまでが本当でどこからが幻想か分からない世界。リーボーは200年前にこの島に生きていた王子様で、イギリスに留学してあっさり死んでしまいます。その後魂だけ帰ってきて今はマシアスギリの話し相手というわけです。ギリは様々な不安をリーボーに訴えますが、最後の決定的な答えは与えません。リーボーという幽霊はマシアスギリの投影に過ぎず、リーボーの返す答えは必ずマシアスギリの知っていることか、漠然とそうだろうなと思っていることかのどちらかです。ギリが知らないことを教えることはできません。ギリが自分で決心がついていないことについて、行動を示唆することもできません。最後は自分で決めなくてはいけません。

離れ小島からやってきた神がかりの若い女性がギリの秘書のようになりますが、実は彼女は神秘の島の長老たちから遣わされたスパイで、ギリが政敵を暗殺した証拠を探しに官邸に入り込んできています。大統領官邸内部はギリの好みに合わせて純和風。畳の裏に白人二人組との間で結ばれた暗殺と報酬に関する契約書が隠されているのを見つけます。その日に限ってギリは愛人の部屋で深い眠りに落ちていて、スパイが自室の畳の下を探ることを予防できなかったのです。

マシアスギリは現実政治の最高権力者ですが、国の精神的な支配者はスパイの女性がやってきた神秘の島の長老たちです。長老たちは暗殺の動かぬ証拠を手に入れて、マシアスギリを権力として認定しないと結論します。暗殺を請け負った白人二人組も『薔薇の名前』と同じ方法でやったと証言してしまいます。結果、政務は滞り、マシアスギリは権力者としての実質的な権能を行使することができません。彼は密かに一般市民に身をやつし、生まれ故郷の祭礼を見に行きます。そして最後は自家用機に乗り込んで、パイロットの隙を見て飛び降り、地上にぶつかって死んでしまいます。

自ら命を絶つという、実に壮絶な物語の筈なのに、その死はとても爽やかで、読み手はギリに感情移入するものの、あー楽になれてよかったね。綺麗に死ねてよかったね。という不思議な感想を抱きます。マシアスギリという男は半分日本人みたいな人生を送っていたものの、その魂は自分の故郷の島々を深く愛していて、命を失ったこの後は鳥になって永遠に島の周りを飛び続けるのが定めです。

権力を持つ故に秘密を抱え孤独を生きたマシアスギリはフィリピンで出会った愛人からは深い愛を受けていて、神秘の島からやってきたスパイの女性からも愛されます。やはり男は愛されなければ絵になりません。家でブログをこつこつ書いているようではいけません(私のこと)。

『マシアスギリの失脚』は間違いなくアップダイクの『クーデタ』とけっこう似ていますが、最大の違いはマシアスギリが最後に自らの命を絶つのに対して、『クーデタ』の主人公はフランスに亡命して生きる決心をすることではないかと思います。生きるか死ぬかでは随分と違います。ここで潔い死に方を選ぶことができるのは東洋的思想のおかげかも知れません。仏教では究極には生きていても死んでいても同じです。世界のエネルギーの総和に変化はありませんので、死んでも私は存在するし、生きている私は何らかの幻影にすぎません。ギリシャ哲学でもこの世界はイデアの幻影だと言っているくらいですから世界共通してこの世は幻想だと思っていいのかも知れません。本当のところは私にも分かりません。

物語が太平洋のきれいな海と島で展開しますので何度読んでも気持ちよく、最後に空を飛んで死ぬこともなんだかきれいなことのように思えてしまいますが、決してマネをしてはいけません。マシアスギリの最後の選択が正しいと思えるかどうかはそれぞれの読者次第だと思います。

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アフリカのどこぞの国。旧フランスの植民地だった地域、即ちフレンチアフリカのいずこかの国の独裁者が主人公。アルジェリア戦争の時に脱出し、アメリカの大学に留学し、恋をして相手のアメリカ人の女性を奥さんとして故郷に連れて帰ってきます。その後出世し、父親のように慕い助けをうけていた前の独裁者の首を民衆の前で自らの手で討ち、誰が本当の権力者なのかを人々に分からせようとします。自らの手を敢えて汚すところに男同士の愛があり、そうまでしなくては自分の権力は正しいものだと主張できない心の弱さがあり、討たれる側もそうでもしなければ収まるまいと思って討たれていきます。討たれたくはないけれど、討つ側の心情や事情はよく分かるといった感じだと思います。

物語は主人公のエルレーが独裁者として国内を仕切る様子と彼のアメリカでの青春時代が交互に描かれます。彼がアメリカで大学生をしていたころの思い出はきらきらしています。時代的にもサイモンアンドガーファンクルとかカーペンターズとかが似合いそうです。ビートルズほど垢抜けていないところも更にきらきら感を増しているように思えます。森田童子の歌だって似合いそうなくらいに繊細で不安定な青春です。青春とはもしかすると繊細で不安定であるが故にきらきらしているのかも知れません。アップダイクはアメリカの作家ですから、アメリカ人読者の多くは(世代的に合えば)自分の青春を思い出すに違いないのです。彼のアメリカでのニックネームはハッピーで、国へ連れて帰って来たアメリカ人の奥さんはキャンディーです。一緒に砂漠の洞窟へ行って「ハッピーはキャンディーを愛している」とか落書きします。赤面もののいい青春です。 

しかし時は流れ、気づくとエルレーはムスリムの習慣に基づいて奥さんを四人抱えるようになっています。エルレー本人は国内各地を旅して歩きます。始皇帝みたいな感じです。旅先でいろいろなことを思い出し、考えたりしています。そこには他の誰かが入り込む余地はありません。父親代わりのおじさんの首も討ってしまったので、孤独を分け合う人もいません。周囲の人はイエスマンか怠け者です。エルレーは身分を隠して国情を見て歩きます。主人公はアメリカが大好きです。でも声に出してアメリカが好きだとは言いません。しかし、アメリカみたいな都市の建設を計画したりして、自分の国をアメリカみたいにしたいと思っている様子です。ただし、そもそも独裁者がいる時点でアメリカの自由と民主主義とは真逆を行っていると本人はよく分かっています。多分、本当は自分の国をアメリカみたいにする必要もないということも分かっています。でも心はすぐにアメリカへ行ってしまいます。

そのような旅をしている間に首都では無血クーデタが起き、彼はいきなり失脚します。首都へ帰る車にすらことをかき、物売りの姿で首都になんとか帰ってきます。四人の奥さんのうち三人までは彼を拒否します。アメリカから連れて帰った奥さんにも新しい恋人ができています。人間堕ちればそんいなものかも知れません。しかし、クーデタの首謀者は彼の命までは取りません。恩給の支給を認め、残った一人の奥さんと子どもたちがフランスで亡命生活を送れるように取り計らいます。ぎりぎりのところで人情が絡むところが何とも言えずいい感じです。そもそも新しい独裁者はエルレーに引き上げてもらった過去があるので、それに対する恩返しで生活を保障するということになると、恩をあだで返したことになるのかきちんと恩返ししたことになるのよく分からなくなってきます。しかしそのよく分からない感が小説では面白いです。椅子取りゲームと人情とは別の問題ということなのかも知れません。

エルレーがフランスで回顧録みたいなのを書こうと思っているところで、これぞ本人の生きようとしている証だみたいな感じで物語は終わります。この物語では周囲に大勢の部下と女性がいるにもかかわらずエルレーが孤独であることがよく分かります。人間誰もが孤独です。大学の教師をしていても孤独です。自我の境界線がはっきりしない地縁血縁から切り離された近代人は誰もが孤独を引き受けざるを得ないようになっています。ですので誰が読んでもこの作品には何かしら共感なり感情移入ができるのではないかと思います。私は男性ですので女性が読めば少し違う感想になるかも知れないとも思います。そこはちょっと分かりません。あるいは孤独を引き受けてついそこに耽溺してしまうのが男なのかも知れません。ダンディズムを気取りたければ孤独はつきもののような気もします。

このような孤独はきっと地位や財産とは関係がありません。心の中で生成され、周囲の人や物に投影されるという心理のメカニズムに地位と財産は関係ないからです。でもどちらかと言えば地位や財産があって孤独な方が絵になります。地位も財産もなくて孤独だったら大変です。全然違うお話になってしまいます。社会主義革命と連帯の話にしなければ物語は終わりません。話が大げさになってしまってカムイ伝みたいにいつまでも終わらなくなってしまいます。「私のようにコミュニケーションに自信がなくて、うまく連帯できない場合はどうすればいいんですか?」という疑問に社会主義革命は返答を用意してくれません。反革命分子にされてしまいます。

ちょっと話が脱線しましたが、更にもうちょっと脱線するとこのお話は池澤夏樹さんの『マシアスギリの失脚』と大体同じ感じです。池澤夏樹さんはクーデタを読んでマシアスギリの失脚を書いたに違いありません。『マシアスギリの失脚』は私が特別好きな小説です。多分、戦後に書かれた小説で一番好きです。戦前に書かれた小説では『春琴抄』が一番好きですが、どっちか一つだけ選べと言われればマシアスギリを選びますから、一番好きな近代日本の小説がマシアスギリということになると思います。マシアスギリについてはまた別の機会を見て投稿したいと思います。

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オルセー美術館に行った時の話

オルセー美術館に行った時の話をだらっと書いてみたいと思います。

上の写真はオルセー美術館の館内の写真です。フラッシュを焚いたりしなければ館内での撮影はOKなので、決してこっそり撮ったわけではないですよ。ただ、館内の構造が分かるようなこのような写真は撮影したものの、いろいろな作品は道義的に撮影する気になれなかったので、作品の写真はないです。館内の大抵の作品は19世紀に書かれたもので著作権の期限も切れてるので、撮影してブログに投稿しても問題ないのではないかなぁと思います。よく知りません。曖昧で自信がない場合は投稿しないのが一番なのかも知れません。私は撮影していないので、作品の写真は物理的に投稿できません。

検索したらオルセー美術館の作品の画像も手に入りますし、美術館側も撮影OKとしている以上、そういうものだと、写真メディアに流出しても構わないという考えなのかも知れません。人類共通の財産だという考え方もあるでしょう。写真が世の中に出回り始めたばかりのころ、観光業の人は真剣に心配したそうです。綺麗な景色を観るために人は交通費と宿代を支払うのに、写真できれいな景色が見れたなら、わざわざ出かけないのではないかと。実際にはその逆で写真を観た人たちは本当の景色が見たいと思うようになり、もっともっと、と観光する人が増えたそうです。テレビで沖縄特集とか見たら欲求が刺激されて沖縄に行きたくなるのは今の時代も同じではないかなあと思います。

オルセー美術館の屋根は上の写真のように丸いです。なぜこんな形になっているのかというと、もともとは1900年のパリ万博に合わせて建設された駅舎だというのです。歩いて行ける距離にエッフェル塔もあり(パリ市はそんなに広くないので、大抵の場所は中心から歩いて行けますが)、エッフェル塔も1900年のパリ万博に合わせて建てられたものですから、当時、パリ市の再開発が相当に進んだことが分かります。

オルセー美術館には印象派の作品がいっぱいあります。ルーブル美術館とは主旨や方針がだいぶ違うみたいです。私は美術には詳しくないです。学生には印象派と浮世絵の関係の話をすることもありますが、しったかしているのがバレはしないかと内心ヒヤヒヤしています。なんか見たことあるなあと思うのがいっぱいあります。美術の教科書とか、〇〇展の広告の看板とかで見たことがあるというのがいっぱいです。ミレーとかゴーギャンとかゴッホとかルノワールとかそういうのがいっぱいあります。オルセー美術館の作品をきちんと全部分かるようになったら、ヨーロッパのモダン芸術検定みたいなのを受けても(そういうのがあると仮定して)一発OKなのではないかと思います。

特に印象に残ったのは特設展会場でジャポニズム展をやっていたことです。ジャポニズムといってもそんなに大げさなものではありません。19世紀の画家さんたちが作品の中にちょっと浮世絵のオマージュを入れているとかそういった感じのことです。ルノワールはたくさん女性の絵を描いていますが、踊っている女性が手に扇子を広げて持っている絵を描いたとか、モネが安藤広重の日本橋の絵をさりげなくぱくっているとかそういった類のものです。詳しい人に教えてもらえないと気づかない感じのものばかりなので、私も今挙げた例以外のことはよく知りません。

パリ滞在中にオルセー美術館には二度行きました。指定美術館入り放題のミュージアムパスみたいなのを買ったので、有効に使おうとあちこち行きまくり、高かったので元を取らねばと歩きまわった結果、行きたい美術館は大体行ってしまったので、もう一回来たという感じです。ミュージアムレストランがあって、二度ともそこで食事をしました。

その時の食事の写真です。
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特においしいわけでもなく、サービスも良くはありませんが、外のレストランより若干安いです。内装は立派なので、食事が来るまでぼんやり内装を眺めるのもなかなかいいです。

中国人の観光客がたくさんいました。観光客だけでなくパリには働いている中国人もたくさんいます。パリにはラーメン屋さんとお寿司屋さんが沢山ありますが、お店の人は大抵中国人です。わりと美味しいです。私はあまのじゃくなので中国語が分からないふりをしようかとも思いましたが、中国語を使った方が何かと話しが早いので、注文とかは中国語でやりました。相手は僕のことを香港人に思ったかも知れません。どこへ行っても香港人ぽいとよく言われます。外国に行ったら日本人と会った時の方が緊張します。

パリで食べたラーメンの写真です。作っている人は中国人ですが、けっこうおいしかったです。

パリで食べたラーメン
中国人が作ったパリで食べたラーメンです。しょうゆ味でおいしかったです。

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イシグロカズオ『わたしを離さないで』の赦されない愛

イシグロカズオさんの『わたしを離さないで』は文章もきれいで(翻訳者の力量ですが)、内容もいかにもジュブナイルできらきらした感じで透明感があり、何度も読み返した作品です。

舞台はイギリスのどこぞの地方都市、時代は多分近未来。完全全寮制の学校で主人公たちは暮らしています。彼らは勉強にも取り組みますし、恋愛するにことにも熱心な普通の十代の少年少女たちですが、一つだけ普通ではないのは彼らがみなクローンだということです。この設定には賛否両論あり、奇をてらい過ぎという意見もあれば、特に気にしない、おもしろかったという意見もあるようです。

いずれにせよ、彼らはある程度の年齢に達すると臓器提供専用のクローンとして誰かのために少しずつ臓器を提供し、やがて死に至ります。おそらく、批判する人にとっては「あり得ない設定で哀れを誘うな」ということなのかも知れません。

子どもたちはある程度大きくなると外出も許可されるようになり、旅行にも行けます。どのみち長生きできない運命なので、「提供者」になる前に短い人生を楽しむことには学校側もおおらかな様子です。少年少女たちは、いろいろなことが理解できる年齢になると、将来の運命を教師から聞かされ、それを受け入れていくしかないのですが、都市伝説のようにある噂が流れます。それはたとえクローン人間であっても、内面に精神があるということを認められると自由放免され、普通の人と同じように生きていける、提供者にならなくてよくなるという噂です。それはたとえば同じ施設内で暮らす男女が真実に愛に結ばれているということを理事長に認めてもらえると、愛は人の精神が存在する疑い得ない証拠と認定され、外の世界で二人で暮らすことが認められるとか、そういったものです(クローンなので、子どもは作れないという設定にはなっています)。

主人公のキャシーとトミーはその噂を信じ、理事長の住まいも割り出して、直談判に乗り込みます。トミーには描き溜めた独特の絵の束という必勝の成果物があり、その絵は精巧な機械仕掛けのネズミの絵だったりするわけですが、このような作品が描けるということは内面に精神や魂が宿っている、即ちの普通の人間と同じであるということの証明になると理事長に直訴します。しかし、優しそうな初老の女性の理事長は申し訳なさそうに、しかしきっぱりと、いかなる事情があっても施設で育った少年少女たちの運命を変更することはできないと伝えます。ここがこの物語の静かなクライマックスになっています。

このようにしてキャシーとトミーは運命からは逃れられないことを悟り、粛々とそれに従っていくということになるのですが、「クローンというあり得ない設定を持ち出されて感動できるか」という議論は確かにあり得ます。私はけっこう感動したので文句はないのですが、文句を言う人の気持ちも分からないわけではありません。人間ドラマとして成立するかということは大事なことです。

しかし、たとえば独裁政権下で自分で自分の運命を選択できない悲劇というのは実際の歴史に沢山あったわけですから、それをこの物語に擬されているという捉え方もできると思います。また、『電気羊はアンドロイドの夢は見るか?(映画版は『ブレードランナー』)』では人造人間が内蔵された電池が切れる前になんとか自分の生命を延長したいと願ってあがきますが、この作品の場合はむしろ、ロボットなのに人間的である部分が好意的に受け止められたような印象が私にはありますので、クローンが人間的な感情を持ち、運命に抵抗することに人間的な魅力を感じたり、私たち普通の人間にも運命に抵抗しようとあがくことはよくあることですから、自分を投影したり共感したり、感情移入したりできてもいいのではないかなぁと思う次第です。
スピルバーグ監督の『AI』という映画も「ロボットだから感情移入できない」ということでは成立しません。そんなこと言ったらドラえもんは…ナウシカの巨神兵は…とか言ってるとそれはそれできりがありません。

まぁ、いずれにせよ、私は原作も映画も感動しました。イシグロカズオさんの作品は好きです。半分は翻訳者の力量のおかげです。きっと。

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イシグロカズオ『忘れられた巨人』の失われた愛

おそらく6世紀ごろのブリテン島、神話と現実の境界がまだ曖昧だった時代、アングロサクソン民族が成立する少し前の時代、老夫婦が息子の暮らす村を目指して旅をする物語。夫のアクセルと妻のベアトリスは強い愛に結ばれ、互いに気づかい合い、双方を必要とし、守り合いながら旅を続けます。歴戦の戦死、奇怪な姿をする鬼たちと鬼に襲われた少年、世間から離れて暮らす修道士、あの世の島と思しきところまで舟を渡す船頭などと出会い、全ての出来事には裏があり、やがては裏の裏まで明らかになる、重厚な物語が展開されます。

読み進めるうちに気づくのは、当初は二人が強い愛で結ばれているはずに見えたのが、少しずつ実は夫の妻に対する執着心や独占欲のようなものが極度に強いのではないか?という疑念に変わっていくことです。夫は妻のそばを方時も離れることはありませんが、医療の知識を持つ修道士の診察を受ける時に妻に服を脱ぐように求めはしないかと不安になるなど、ちょっと度が過ぎているように見えなくもありません。そして息子が暮らすであろう村にはいつまでも辿り着くことがありません。ちなみに修道院の雰囲気はエーコ先生の『薔薇の名前』の修道院とちょっと似ている感じです。

人の記憶を曖昧にさせ、忘れさせてしまうドラゴンが生きている間、人間はみな過去の記憶を思い出すことができません。歴戦の戦士がドラゴンの居場所を見つけ出し、その首を打ち取ることによって人の心にかかっていた霧が晴れていくように人々は過去の記憶、特に悲しみの記憶、悲しいがゆえに思い出したくない記憶を蘇らせていきます。

アクセルとベアトリスは息子の暮らす村など存在しないことに気づき、過去の様々な経緯を思い出します。特に思い出したくなかったであろうことは、ベアトリスがほんのわずかの間、他の男性のところへ行ってしまっていたという記憶です。二人はそれを思い出し、息子が暮らす村も存在しないということを受け入れ、二人であの世と思しき島へと渡りたいと船頭に頼みます。通常、その島ではそれぞれが一人ぼっちに孤独に暮らすことになっていますが、船頭がインタビューして真実の愛で結ばれていると認められた男女だけが二人で島を渡ることを認められます。アクセルとベアトリスはめでたく真実の愛で結ばれた数少ない夫婦と認定されますが、いざいよいよというときになって夫のアクセルは妻を見捨てて船着き場を去って行き、そこで物語は終わります。それまで果たして二人は船頭から真実の愛で結ばれていると認定されるかどうかがある種の見せ場にもなっているため、私は肩透かしを食らった感じになり、そのうえでなぜそのような終わりなのかを考えさせられました。

夫のアクセルは妻のベアトリスの不貞の過去を受け入れることができなかったが故に、妻に対して異常とも思える執着を見せ、そして最後の最期で決して赦せないということを一人立ち去るということで表現しています。愛とは何かを定義することは難しいことですが、もし赦しが一つの愛の形であるとすれば、アクセルはベアトリスに執着はしていても愛してはいなかったと受け取ることもできるように思います。

イシグロカズオさんの作品は過去に『日の名残り』と『わたしを離さないで』を読みましたが、『忘れられた巨人』を含む三作品、どれもがハッピーエンドではないラブストーリーになっています。よく言われるように作家は生涯同じテーマを繰り返し書き続けるのだとすれば、イシグロカズオさんの生涯のテーマは失われる愛であるとも思えます。作家が選ぶテーマは究極にはその人の人生の忘れがたい経験と感情がベースにならざるを得ないはずですので、イシグロカズオさんはよほど大きな喪失体験をしたのではないかとの想像を禁じることができません。

人を愛するとはどういうことか、求めずに愛する、与えることで愛する、赦すことで愛するとはどういうことか、自分にそれは実践可能か、といったことは誰にとっても人生を送る上で考えなくてはいけない大きな課題だと思いますが、この作品を読むことで、自分は果たして周囲の誰か、大切な誰かを愛することができているかどうかを考えるいいきっかけにできるかも知れません。

翻訳者の腕が大きいのだろうと思いますが、文章がとてもきれいで読みやすく、端的で、それでいて刺激的です。どの作品もとても素敵で、過去にはイシグロカズオ研究をやろうかと思ったこともあるくらいです。(研究方面では右往左往しています…涙)

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『耳をすませば』の映像美と日本の近代

最近、学生に『耳をすませば』をみせたら、退屈だったらしく眠る人、退室する人続出でちょっと落ち込んでしまいましたが、個人的には久しぶりに『耳をすませば』を見て、改めてその完成度の高さに舌を巻きました。

有名な話ですが、聖蹟桜ヶ丘駅とその周辺の再現度の高さ、ここまで完璧に再現するなら実写でもいいじゃないですかと言いたくなるリアルな絵を2時間見続けるのは絵巻ものを見続けるかのような迫力があります。ただやっぱり、ナウシカとかに比べれば特に見せ場があるわけでなく、繰り返しになりますが、学生たちにとっては退屈だったのかなあ…。空の色もきれいだし、描かれる人物の姿もとてもきれいなのに。

主たるは内容は誰が誰を好きで、誰と誰がくっつくのかというありがちなメロドラマとも言えますが、やはり最近の人はのだめカンタービレみたいにコメディの要素を求めているのか、ラブコメ風でないと物足りないのかも知れません。

今回改めて観て感じたのは言葉遣いの美しさ、登場する人々の立ち居振る舞いの美しさです。月島雫は両親とお姉さんと一緒に団地で暮らす、ごく普通の市民です。お父さんは図書館で働いていて、お母さんは大学院で勉強していますから、どちらかと言えば長女が大学生で次女が中学生というお金のかかる時期に入っていますので生活的には厳しい方に入るかも知れません。しかし、小津安二郎の映画でも見ているかのような美しい言葉遣いと立ち居振る舞いには、そういうものは金銭的に裕福かどうかで決まってくるものではないのだというメッセージが込められているのかも知れません。しかも時々見せる庶民的、あるいは一般的な市民風の表情があることで、生活感が生まれ、登場人物にリアリティを持たせています。月島雫が自分の作品を書いて疲れ切って畳の上に横になる様はもしかすると原作者自身の経験をそのままに描いているような気がします。

雫の初めての作品を読ませてもらうおじいちゃんは、これもまたよく作りこまれたディレッタント風の人で、ドイツ留学から帰ってきて戦争でドイツ人の恋人と生き別れになったという設定も様になるというか、洋行帰りがいい味になっています。手先が器用で暇な毎日を送りながらも白雪姫をモチーフにした大がかりな振り子時計を三年かけて修理する依頼を多分採算度外視で請け負い、音楽にも通じています。猫の男爵の人形とか、珍しい石とか、本当に趣味の世界だけに生きる人です。

私は思いました「こういう人、いるよね。どうやって食ってるかわからないけど、趣味だけやって、やたら優雅な人」と。

私は作品を観ながら「どうぞ、好きにしてください。好きなだけ、好きなものを描いてください。私、そういうものだと思ってみますから」という感想に至ったのでした。

公開されたのは確か平成になったかならないかくらいのころですから、経済も良く、日本が今ほどカオスっていない時代のことです。今の時代から見れば、『耳をすませば』は半分時代劇のように思えなくもありません。この作品に登場する人々と街並みからは日本型近代とはどのようなものかということが炙り出されているように思います。日常を大切にし、大きすぎる夢も持たないが、自分のやりたいことには真剣に取り組む。生活様式は多分に洋風化し、おじいちゃんみたいに趣味だけで生きてきた人から西洋の香りをかぎ取り、それはそれでいいものだが、価値基準は日本人、みたいなあたりを映画を作った人は心得ていて、それを主張しているんだけれど、結果としては圧倒的なリアリティが生まれた。というような感じではないかと思うのです。

今は経済が停滞している分、たとえばおじいちゃんのような趣味だけの人を優雅なままにさせておく余裕が私たちの社会にあるかといえばちょっと微妙な気がします。21世紀の日本人を描くとすれば、もうちょっと登場人物がいろいろカオスってくるのではないかと思えなくもありません。雫のお父さんがリストラで両親は離婚、お姉さんはyoutuberで雫の好きな人はニート。一方で雫の親友の将来の夢は徹底安定志向で公務員。みたいな。確かに近代は終わり、雫の時代と比べれば、使い古された言葉とはいえ、今は十分にポストモダンと思えます。

そんな小理屈はともかく、リアリティと映像美は絶対に繰り返し見る価値があると私は今回みて改めて思ったのでした。

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『戦場のメリークリスマス』と神と男(ヨノイ大尉はかわいいか?)

『戦場のメリークリスマス』はこれまでにDVDで何十回と観た映画です。リバイバル上映にも出かけたこともあります。今思えばかなり変わった映画ですが、音楽もいいし映像もきれいなので、ついつい何度も観てしまうのではないかと自分では思っています。この映画は突き詰めると異文化理解とか異文化交流くらいの軽いところがテーマなのではないかとふと思うのですが、正面切って作られるとここまで魅せられてしまうものなのかも知れません。

ヨノイ大尉とハラ軍曹は天皇は神で日本は神州だと信じています(映画の中にそういう台詞はありませんが、ヨノイ大尉の部屋の奥に『八紘一宇』の掛け軸がかかっていたりするのはそういう前提があるからでしょうし、そもそもそういう前提がないといろいろ成り立ちません)。悪霊の存在も信じているので、自決した部下が悪霊にならないようにハラ軍曹は経文を唱えますし、ヨノイ大尉が捕虜の私刑を決断した時も、悪霊になりませんようにと念仏らしきものを唱えます。経文とか念仏は仏教で、仏教は完璧な物理の論理に支えられているため悪霊が存在する余地はないのですが、日本は神仏習合なので悪霊を鎮めるために念仏を唱えます。欧米人向けに作られているので欧米人が不思議の国日本のふしぎっぷりを大サービスでみせているという印象もあります。観客の要望に応えるためかハラキリシーンもしっかりと入っていて、痒い所に手が届くとすら言っていいかもしれません。

一方で、自殺したオランダ人捕虜のために西洋人の捕虜たちが祈りを捧げ、歌を歌う場面も入れてあり、そこはとてもきれいな場面になっていて西洋人の観客なら敬虔な気持ちになれるに違いありません。

日本軍国主義を生き方で体現していたといえるハラ軍曹は最後に英語を話すようになり、物語の狂言回しの役割を負っているローレンスと英語で語り合います。ハラ軍曹が翌日の朝には戦争犯罪人として処刑されることになっており、日本人の目線で見れば戦争に負けるってのは嫌だねぇ、という感想を持つこともできますが、欧米人の観客の目線に立てば、迷信に捉われた日本兵が最後には文明を理解できるようになり、一番最後の台詞が「メリークリスマス、ミスターローレンス」ですから、キリスト教の神の恩寵をも受けながら旅立って行くという感動的な展開になっています。

日本人から見ればこれぞまさしく敗戦国民の姿なのですが、西洋人にとっては未開人が文明化されていく過程を描いていることになります。

こんな風に書くとまるで私がこの映画を批判しているみたいですが、飽きずに何十回も観ているということはやっぱりこの映画が無意識にめっちゃ好きなのに違いありません。もしかすると私は多少は東洋の神秘みたいなのを残しつつ西洋化した今の日本がかなり好きなので、この映画が根底に持つ価値観を受け入れやすいのかも知れません。いずれにせよ、上述のような日本と西洋の対比がなされている映画で、繰り返しますがぶっちゃけただの「国際交流」を深刻に描くとこういう風になるという感じだと思います。

戦場のメリークリスマスに登場する人物はほぼ100パーセントが男性です。女性はセリアズ少佐の少年時代の回想シーンで教会に来ている人の中に登場するだけです。男の世界の物語です。ヨノイ大尉とハラ軍曹とローレンスは敵と味方の違いを超えて深い友情で結ばれています。行動様式も価値観も違うためいちいちぶつかりますが、それでも俺はお前のことが好きだよという感じの関係は見ていてとても気分のいいものです。大学で人文科学をしていると会う人の8割は女性なので、男性との友情を育むことへの憧れが私の中にあり、男同士でお酒を飲むことは人生最高の喜びだとかなり本気で思っています。

ヨノイ大尉はローレンスには友情を感じますが、セリアズ少佐という捕虜には同性でありながらロマンチックな意味での愛を抱くようになります。今でこそLGBTの人たちを尊重するという価値観は世の中にかなり定着してきているように思えますが、当時はまだそういうわけではなく、当時としては思い切った内容になっているのだと思います。ヨノイ大尉は赦されざる片想いを持て余し、大声を出すわ捕虜を虐待して死人まで出すわと結構めちゃめちゃやります。そもそも部下が自決する羽目になるのもヨノイ大尉の無茶ぶりを諫めようとしたことが発端です。そんなことで自決させてしまって責任をちゃんと感じてくれよと言いたいくらいです。私は何度見ても、それは多分、私が未熟だったが故に、ヨノイ大尉の無茶ぶりが理解できず、捕虜収容所での所長の独裁的言動としか思えませんでした。しかし最近、ああ監督が表現したいのは「そんなヨノイ大尉ってかわいいよね」ということなのだなぁとようやく気づいたのです。私は個人的には全然かわいいとは思いませんし、かわいいから部下を自決に追い込んだり、捕虜から死人が出ても、ちょっとお茶目でおきゃんな感じだよねとも思いません。しかし、監督の意図がそこにあると気づいて、場面を回想すると、確かにヨノイ大尉がかわいいという目線で描かれていることがよく理解できます。えー、嘘だと思う人はもう一度ご覧あれ。

『風の谷のナウシカ』と日本とAI

『風の谷のナウシカ』は映画版と原作では随分違うのですが、原作を基本にして考えを進めたいと思います。

世界文明が滅びた後の世界でありながら、トルメキア王国はまだ比較的技術力に優れ、強大な軍事力を使ってドルク帝国へ侵攻するというのが全体の大きな枠組みですが、トルメキア王国は西欧文明を、もうちょっとはっきり言えばアメリカを象徴しています。トルメキア関係者は良いか悪いかは別にして合理的な思考によって次の行動を選択します。一方ドルク帝国はアジア的なものを象徴しています。政教一致の神聖政治が行われており、人々は皇帝(または皇弟)の神秘的な力を畏敬し、農奴のように従っています。トルメキアとドルクのどちからが優れているということはなく、トルメキアは物質主義に溺れていて、ドルクは精神主義でありながら考えるということを放棄しているようにも見えます。双方どちらにも愚かな指導者たちがいて世界を滅亡へと導いていく内容になっています。

ナウシカが暮らす風の谷は弱小の独立国ですが、トルメキアが他国と戦争する際には兵を出すとする約定があり、要するに安全保障条約を結ぶことで独立を維持することができています。そして実際にトルメキアがドルクへ侵攻するという段になって、お姫様のナウシカが城ジイたちを伴って前線へと向かっていくわけです。安全保障の代わりにトルメキアに軍事的に協力するというのは、まさしく日本の立場を象徴していると言っても良いでしょう。

この作品が一番最初に書かれたのはたしかまだ70年代で、完結したのは90年代の終わりごろです。そのため、まだ自衛隊の派遣についてかまびすしく議論された湾岸戦争もイラク戦争もなく、安保法制ももちろんありません。しかし、日本とアメリカの関係性の本質に違いはなく、原作者はそこをしっかりと見抜いた作品づくりをしたのだなあとつくづく思います。

腐海の瘴気は言うまでもなく放射線物質を象徴しているはずですが、瘴気を出し切ったら土地が浄化されるとする逆説は、不要なものや醜いものの中に、一見悪に見えるものの中に善があるという深みがあります。

巨神兵は核兵器を象徴していますが、映画版では未成熟なまま孵化したために効果を出し切れなかった一方で、原作では成熟し、完成体として人の世に現れ出てきます。単なる破壊兵器と思われた巨神兵は実は前の人類にて仕込まれていた完全知能で争いがあれば裁定して罰をくだし、人々を支配し導く神なる存在として振る舞います。言わばAIの完成形みたいなやつです。

物語の最後では世界が腐海によって浄化された後に生まれる予定の新生人類の卵をナウシカがターミネートして終わります。ナウシカが属する人類は言わばつなぎの不完全な人類で、完全に浄化された空気を吸うと血を吐いて死んでしまいます。新生人類の卵子を仕込んだ過去の文明の人たちは炎の七日間で汚染された世界を腐海で浄化し、つなぎの不完全な人類は清浄な空気で自動的に死んで、その後はきれいで純粋な新生人類が巨神兵という完全知能に導かれて平和に楽しく暮らすということをプログラムしていたのですが、卵をナウシカにターミネートされてしまうのでその目論見は潰え去ります。穢れを知らず、争い事も起こさない「きれいな人類」よりはナウシカの属する欲望にまみれて殺し合いも辞さない人類(私たち)の方がより生命の本質なのだというメッセージも入っているのかも知れません。「そしたらいずれ、世界は全部浄化されてナウシカの子孫は全滅するのでは?」という疑問を残したまま物語は終わります。でも圧巻のお話しになっています。

最後に、ナウシカがなぜ美少女なのかということについては原作者の好みに集約されるはずです。

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