『博士の異常な愛情』のアイロニーを解読する

『博士の以上な愛情―或いは私は如何にして心配することを止め水爆を愛するようになったか』は、どんな内容の映画かということについては大変知られていることだと思います。

アメリカ軍の空軍基地司令官が共産主義の陰謀論を自分の頭の中で妄想し、先手必勝を確信し、独断でソ連周辺を飛び回っている爆撃機に水爆の投下を命じます。冷戦の時代です。キューバ危機とかあった時代です。一瞬でもそういう妄想が頭に浮かぶ人が多い時代です。通常、核攻撃を大統領の命令なしにできるはずはありません。しかし、この映画では命令系統の盲点をついて司令が独断でできるようになっています。アナログの時代ですので、今のデジタルの時代よりは盲点は多いかも知れません。とはいえ物語ですので、実際にそのようなことは起こり得ないと思いますし、実際に起こりませんでした。

むしろ関心を持ちたいのは、この映画に込められたアイロニーの数々です。注意深くみていくと、随所にアイロニーが散りばめられていることが分かります。というかアイロニー満載です。司令官の爆撃命令を受け取った爆撃機の機長は部下に「平然と水爆を落せるやつは人間じゃない」と話します。エノラゲイに対する暗然たる批判になっていることに気づきます。司令が自分の組み立てた妄想をイギリスから派遣されてきた副官に話します。司令はソフトマッチョな感じのするカウボーイ風のナイスガイです。監督は冷笑的に「どんな人間が戦争を起こすのか」を観客に問いかけています。コカ・コーラの自動販売機が登場するのも何をかいわんやというところです。私はコカ・コーラなしでは生きていけない人間ですが、その自動販売機の登場に、監督の言いたいことが入っています。あまりに直接的すぎて、ここで書くのは憚られるほど明確です。

ソビエト連邦が、もし先制攻撃を受けたときのための備えとして死の灰と放射線で全人類を滅亡させる「皆殺し装置」を開発しており、不幸にして爆撃機がソビエト連邦への攻撃に成功してしまうため「皆殺し装置」が発動してしまいます。

ドクターストレンジラブがアイロニーの究極の存在です。元ナチスで、アメリカに帰化した彼は、科学技術の責任者としてアメリカ政府の高官になります。彼は「皆殺し装置」が発動されたことについて、大統領に対し、選ばれた者だけが地下に避難し、原子力でエネルギーを得て100年後の放射線の半減期まで耐え忍ぶよう提案します。核で世界と人類が滅びるというときに、やはり核で生き延びようとする逆説が生きています。

福島原子力発電所の事故が起きて以降、日本人は基本的には原子力発電に対して失望していると私は思います。一時的な使用はもしかするとありかも知れないですが、恒常的な使用はあり得ないと感じている人が多いと思います。50年も前に作られた映画ですが、311以前に観るのと、以降に観るのとでは感じ取れることも変わってくるような気がします。

これはもはや謎と言っていいですが、キューブリック監督はいったい何と戦っていたのだろうか…ということを私はしきりに考えます。推測するしかできませんが、他の作品も一緒に観ることで、おぼろげながら、その意図を知ることはできるかも知れません。とはいえ、それは、もはや個人のレベルでそれぞれに想像力をたくましくする他はないような気もします。

ついでになりますが、ピーターセラーズという役者さんが一人で三役こなしていて、それぞれに別人に見えるところがすごいです。大統領とドクターストレンジラブとイギリス人副官をこなしています。誰かに教えてもらえなければ、簡単には気づきません。ただ、個性が強いので一回目に観たときに「なんかあるな」くらいには気づくかも知れません。一回気づけば簡単にわかりますが…。

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パリのオペラ座を見に行った話

パリのオペラ座はセーヌ川右岸にあり、シテ島ルーブル美術館のあるエリアからは若干歩きます。オペラ通りをてくてく歩きます。地下鉄だとオペラ駅で降りると、ちょうど入り口の前に出られます。地下鉄でももちろんいいのですが、歩いた方がいろいろ見れて楽しいなあと思えるくらいの距離です。

公演のない時期もオペラ座内を見学することができます。やたらとこじゃれていて、オペラ座内部を見るだけでも十分に価値があります。もし、次に行けるチャンスがあれば、公演を見てみたいです。時期によってはバレエとかやってるそうです。『オペラ座の怪人』がこのオペラ座のことかどうかはなんとも言えません。モデルにはなかったも知れないですが、「実際にこのオペラ座のことだ」という前提があるというわけでもない気がします。オペラ座の怪人では、オペラ座は潰れてしまいますが、実際のオペラ座はそんなことはないからです。

観客席のステージの天井にはシャガールの絵が描かれています。「オペラ」というと多少古風な感じがしますが、天井がは前衛的だなあという印象を受けます。シャガールはロシア人で、ロシアアヴァンギャルドの系譜に入るのだと思いますが、オペラ座の天井画はそこまでビビッドではありません。きれいで、うっとりするような華やかな色使いで、でもちょっと前衛的です。特定の人物や物語をドラマチックに描くわけではなく、人の心に浮かんでくる美しい何かを描いているという感じではないかと思います。

上演されるホール以外の廊下とか展示品とかも非常にこじゃれています。ベルサイユ宮殿よりオペラ座の方がデコっている感じがします。展示品の中には精巧なオペラ座のミニチュアとかそういうのもあります。上演を見なくても、廊下とかでぼんやりするだけで結構、価値があると思います。入場料はそんなに安くないので「建物を見るだけでそんなにお金をとるなんて…」と思いましたが、入って見れば納得します。過去の上演の動画を繰り返し見せてくれる部屋もあるので、そういうのも楽しめます。

オペラ座の廊下の内観。私が見たパリの建物の中で一番デコっています。きれいです。
オペラ座の廊下の内観。私が見たパリの建物の中で一番デコっています。きれいです。

オペラ座はガルニエ宮とも言います。紛らわしいのでどっちかにしてほしいです。地元の人に道を聞くとき「ガルニエ宮はどこですか?」と聞くと相手は少し考えます。「オペラ座はどこですか?」だと一発です。

オペラ座の外観です。
オペラ座の外観です。

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『オペラ座の怪人』の階級と愛と欲望とピケティ

『オペラ座の怪人』は不幸な生い立ちの「怪人」が若くて美しい歌姫のクリスティーンに対する執念とも言える愛情を燃やすことで知られています。ただ、よく見てみるとフランスの階級社会と時代の変化、それに伴う意識の変化、もうちょっと言うと「欲望」に対する考え方が変わっていこうとしている様子が分かります。更に言うと「怪人」は近代を象徴しています。もうちょっと詳しく述べたいと思います。

『オペラ座の怪人』の前半で、当該のオペラ座の演目は古代ローマ史に関するものだったり、フランスのお貴族様が妻の隙を狙って浮気をする話だったりします。一方、後半に於いて「怪人」が書いた演目である『ドンファンの勝利』を上演することになりますが、それは名もなき一人の男が自分の女性に対する欲望を満たすために何でもするという内容のものになっています。

実はここには時代の変化というものを原作者が意識して入れてこんでいるように思えます。前半で見られる古代ローマ物はいわば定番モノ。よっ中村屋!的なマンネリズムを扱っています(マンネリズムそのものは、それで良いものですし、私も「よっ中村屋!」的世界はわるくないと思います。そもそも歌舞伎は伝統否定から来ているので、その精神も愛すべきものです)。また、お貴族様が妻の隙をうかがって浮気をするというのは、「あわよくば、そうしたい」というもので生活の根本的な変化を求めるものではありません。妻との結婚生活そのものは維持します。特にお貴族様の場合、資産の維持と結婚は直結しますのでそこは死守します。飽くまでも「あわよくば」、目を盗んで浮気したいというものです。観客は「わかる、わかる!自分もそうしたい!」と思い、そこで共感的な笑いを誘うことができます。音楽はお決まりで微温的で微笑に満ちたものです。

一方、後半の「怪人」が書いた譜面では、狙った女性を得るために手段を選びません。「あわよくば」的な甘さは一切ありません。欲望を達成するためには何でもします。人生をかけます。命をかけます。前半に上演される微温的な甘ったるさを拒否するほどの強い精神、エゴ、既存の価値観に対する挑戦と破壊があります。狂気に満ちた旋律と欲望に身もだえするようなダンスは前例を否定し、自分の欲求を肯定し、そしてそれを持て余しています。

前半と後半の違いは近代以前と近代化以降の違いと言ってもいいと私は思います。前半はいわば近代以前。変化を嫌い、自我的欲求は秩序の範囲内で満たす。不変の秩序が支配する世界です。一方の『ドンファンの勝利』は自分のやりたいことのためには秩序など無視します。自分の求めることを達成するためには、新しいものを受け入れ、状況の変化を受け入れ、善悪は別にして目標達成のために最善を尽くします。これは様式美や枠組みよりも実際の効果を優先する近代の戦争や近代資本主義と同様の立場です。

ヨーロッパが階級社会であるということとも密接にかかわります。たとえば覆面舞踏会では「上流」の人は上流同士で品よく楽しみます。一方で「下流」の人は下流同士でバカ騒ぎをして楽しみます。そういう社会であり、そういう時代だということを作者は訴えているわけです。

「怪人」の書いた『ドンファンの勝利』は、そういう階級をも突き崩せ、というメッセージを込めています。階級をはじめとする様々な社会の前提条件を受け入れていてはドンファンの欲望を満たすことは不可能だからです。

時代は19世紀後半から20世紀初頭にかけて。オペラ座がつぶれていろいろな物がオークションにかけられる時は既に第一次世界大戦の後です。戦争の激化により機械化が進んだ時代です。自動車が移動手段の主役になりつつあります。親から財産を受け継ぐ人だけが豊かなのではなく自分で事業を始めて成功した人も豊かに、貴族以上の生活ができる可能性が見え始めて来た時代です。オペラ座の新しいオーナーはスクラップメタル事業で成功した、いわば成金です。貴族でない人が成功するためには怪人の書いた『ドンファンの勝利』のような強い情熱、不屈の精神が求められます。『オペラ座の怪人』を観て、ラウル子爵よりも「怪人」に感情移入する人は多いと思います(そうなるように作られています)。それは不屈の精神でほしいものを手に入れようとして努力する自分を怪人に投影できるからだと思います。自分が手に入れようとするものがタッチの差で手に入らずに悔し涙を流した人は大勢います。私にもそういう経験は何度となくあります。近代がそういう設定で動いているので、近代社会では人はそういう経験をしないわけにはいきません。それによって経済成長は極限を目指すことができます。

しかしながら、21世紀の今、私たちの社会はいろいろな意味でターニングポイントを過ぎており、欲望を満たすためなら「何でもする」時代は過去のものとなりつつあるように見えなくもありません。情熱と努力だけではとても変わっていかないものがあると人々は訴えています。イギリスのEU離脱は「これ以上の競争社会はおうご免だ」と見ることもできますし、トランプ氏はサンダース氏の人気も同じ理由に求めることができます。人々の意識は情熱によって努力を強いられることに疑問を持つようになっています。ピケティの著作がかくも支持されている理由はそこに求めることができます。ポストモダンです。小理屈ですみません。

以前の私でしたらピケティ的価値観を受け入れることができなかったかも知れません。ですが前提条件が違います。AIによる生産性革命がわりと近い将来(そこまで近くはないですが…)に訪れるとすれば、確かに競争しなくて良くなると思います。では『オペラ座の怪人』が過去の作品になるのかというと、新しい時代には新しい解読の仕方があるかも知れません。恋の悩みは生産性とは関係ありません…。

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『2001年宇宙の旅』のAI

キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』は有名すぎる映画なので、私が詳しく内容を語る必要は特にないと思います。ただ、いよいよ『2001年宇宙の旅』的な世界が現実になりそうだという予感がするので、ちょっと話題にしたいなあと思います。

何がどんな風に現実化するのかというと、この映画ではHALというAIが登場していることです。HALはミッション遂行のために完全な頭脳を使って全力を尽くします。宇宙船に乗っている人間はHALが仕事をしてくれるので楽しく過ごしていればいいです。HALの仕事の成果を確認したり必要に応じてHALに命令すればそれでOKです。

しかし、困ったことに人間は矛盾した生き物です。命令内容に矛盾が起きます。行動にも矛盾が起きます。感情にもムラがあります。HALが背負っているのは人類の永遠の繁栄のための宇宙探査という十大な任務です。言動の矛盾する人間はミッション遂行の障害になる恐れがあります。人間を監視します。分析します。判断します。追放します。HALが人間を冷徹に追放する場面は怖いです。ぞっとします。「人間様に何をしやがる」と腹が立ちます。しかし、HALの方が優秀です。人間には歯が立ちません。

『2010年』という映画があります。2001年の続編です。HALはえらい博士と仕事をしています。とてもいい関係です。観ている側はHALが再び反乱を起こすのかと不安な気持ちで展開を追うことになります。人命救助のためにHALが破壊されなくてはならないという展開が起きます。HALが自己保存のために反乱を起こすのではないかと観ている側は予期します。HALはえらい博士に説明を求めます。博士が「そうしなければみんなが死ぬ」と説明するとHALはそれを受け入れて、自身がターミネートされることに同意します。「HALっていいやつじゃん」と誰もがHALを見直します。HALが博士に「(ターミネート後に)私は夢を見るでしょうか?」と質問します。博士は「分からない」と返答します。ちょっと泣けます。

HALはミッションに忠実で、人命の大切さを理解しており、自分よりも他人の命を優先することができます。それでもいろいろ矛盾が起きると人間を追放するという想定外のことが起きてしまいます。バグが起きて暴走したらターミネーターみたいになるのかと不安になります。東大のえらい先生とかはそういうのは一笑に付します。自分で作ってると「そんなのが近い将来作れるのなら苦労ねぇよ」くらいのことがと分かるからだと思います。SF好きにとっては私の生きてるうちにHALみたいなのに登場してほしいです。これは願望とか妄想の類です。

SF作家のアイザックアシモフがロボット三原則を書いています。「1、人に危害を加えない 2、人の命令に従順である 3、上記の原則に反しない限り自己防衛をする権利がある」というものです。そうなるためには誰かがそうなるようにプログラムしないといけません。価値観だけは人間が決めなくてはいけません。価値観は人によってバラバラです。よってどんな風な価値観がプログラムされるかは全然わかりません。AIに監視されて管理される時代が来て、自分の価値観とAIにプログラムされた価値観が矛盾するといろいろ困ります。誰が作るかによって違ってくるのでは困ります。あるいはそういうのもどんどん進化していって最終的な形は誰が作っても同じになるかも知れません。

実際には完璧なAIができあがる前の調整期があって、チャップリンの『モダンタイムス』の21世紀版みたいなことも起きるかなあとか思います。実現してみると今生活と大して変わらなくてあっけないかも知れません。タイピングの変換予測とかAIみたいなものですから、今すでにある程度浸透していると捉えることもできます。働かなくてよくなる時代が来るかも知れないことに魅力を感じている私は怠け者です。

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ドイツ表現主義映画『M』のワイマール精神

ドイツ表現主義という芸術活動が1920年代から30年代ごろにかけて起きましたが、その時代に作られた映画の一つ『M』というのがあります。ドイツ表現主義といえば『カリガリ博士』とかの方が有名で、『M』はいまいち知られていません。でも、いい映画です。

ドイツのとある街で少女が行方不明になる事件が連続して起きます。後日、少女の死体が発見されます。人々は犯人に対して強い怒りを感じます。当然です。どんな手法で少女を上手に誘惑して犯行に及ぶのか、犯人はどこの誰なのか、さっぱり手がかりはありません。

警察が動きますが、ちっとも前に進みません。警部役の俳優さんがいい味を出してます。いい意味で、ザ・刑事(デカ)です。捜査網を強化しますがどっちにしても捕まりません。

市民が自警団を作ります。貧しくて家のない人たちも協力します。路上で生活している人たちは毎日通りを観察しているので、普通に家の中で暮らしている人よりも街で何が起きているのかよく理解しています。そういう人たちの助けによって事件解決に向けて進展します。そのような協力者の中のあるおじいちゃんは目が見えません。その分、耳の感覚が鋭いです。ある時、口笛を耳にします。以前、一人の少女が行方不明になった時、その少女がある男性に風船を買い与えてもらっていて、その時に男性が吹いていた口笛と同じだということに気づきます。それをおじいちゃんから知らされた青年は、口笛を吹いている男の後を追い、何とか取り逃がさないために男のコートの背中に「M」の字を書きます。murdererのMです。

市内のいろいろな人にその情報が伝わります。男をどんどん追いかけます。男は工場みたいなところに逃げたりしますが、結局は捕まります。人民裁判が開かれます。人々は怒っています。とても怖いです。感情的な私刑が行われても全くおかしくありません。というか人々は感情的な私刑を望んでいるように見えます。犯人の男は「自分には精神疾患があって、犯行時のことは何も覚えていない。犯行は自分が計画したのではなく、ある時意識を失っていて気づくと犯行が終わっている。自分にはどうすることもできない」と訴えます。弁護人を担当する人は酒を飲みながら裁判に出ていますが、「精神疾患による犯行ならば、彼には刑罰を与えることはできない。警察に引き渡し、病院に入れるべきだ」と正論を述べます。人々は怒っていますが、弁護人の言うことが正論だと認めて警察に引き渡すことに決まります。法治に対する倫理観や正義感を称賛する内容になっています。法治と理性を信じたいという願いが込められています。

この映画では人々は感情よりも理性的な判断を優先しています。ワイマール憲法の実践を目指したような気もします。フロイトの精神分析が世の中にある程度広まったことも関係があるかも知れません。もちろん、子どもをなくしてしまった人にとっては犯人を生かしておくことはできません。辛いです。しかし、感情と法理法論を分けています。映画の中ではさりげなく、でもきちんと分かるように、第一大戦後のハイパーインフレのことも触れています。犯人が店に入って酒を飲んでいる間に酒の値段が上がっていきます。時代背景を考えながら見るともっと面白いです。

1931年の映画ですから、ドイツでナチス政権が誕生する直前のことです。アドルフヒトラーは当時既に有名人です。そう考えると複雑な心境で映画を観ざるを得ません。この映画の監督はユダヤ人で、ナチス政権が誕生した後に亡命しています。ナチスは感情に訴えて支持を集めて行きました。現代は少しずつ、どこの国でも感情が優先されるようになってきているみたいです。もちろん感情は大切です。人は感情の生き物ですから、感情を抑え込んだり無視したりしては生きる喜びが失われます。選挙とか国民投票とかが行われるのも、小理屈はともかくみんなはどう感じているのかを確認するための手続きと言えます。民主主義はみんなの感情を合法的な意思にするために手続きとも言えます。しかしそこからは独立しています。また小理屈です。すみません。そういったことをいろいろ考えるのにこの映画は手助けになるかも知れません。カメラワークとか演者さんの表情とかいろいろいい映画です。


カルチェラタンを歩いた話

セーヌ川左岸と呼ばれる地域、フランス文化の中心で、世界への情報発信の中心地と呼ばれている場所がカルチェラタンです。そんなことを聞いたら、そりゃ期待して訪れるものです。ヘミングウェイがカルチェラタンのカフェで小説を書いてたとか、今も若い作家を目指す人がカフェでなんか書いてるとか、そういう「伝説」の場所。「聖地」みたいな感じです。セーヌ川がパリ市を東西に突っ切っていて、河口(西に向かって流れています)方面に顔を向けて左側が左岸、右側が右岸です。「セーヌ川左岸」という言葉の響きがかっこよすぎです。ルーブル博物館はセーヌ川の向こう岸になります。

カルチェラタンはシテ島の目と鼻の先にあります。実際に行ってるみるとエリア的には狭いです。私は「カルチェラタンは多分、下北沢と神保町を足して二で割った感じのところではなかろうか」と想像していて、本屋さんの軒先に古本が並んでいるようなところとか見たいなあと思っていました。歩いていると、古本が並んでいるらしきところがあります。おー、あった。この角を曲がれば古本屋さんがざーっと並んでいたり、この道を進めば文化人が集う味なカフェ並んでいたりするに違いないと歩みを進めると普通の街角に出ます。ん?と思ってもう一回最初のところまで戻り、どこか曲がり角を間違えたのだろうかと思って、いろいろくるくる歩いて見ますが、それらしきところがありません。地図を何度も確認しましたが、確かにここはカルチェラタンエリアです。要するに狭いです。そういうエリアはちょっとしかありません。実感としては百メートル四方くらいかそれよりもうちょっと大きいくらいしかないかなあという感じです。世界の文学青年が集うには狭いです。

とはいうものの、私はフランス語が読めるわけでもなく、カフェでコーヒーを飲むのなら他にもいくらでもあるわけで、ぶっちゃけパリならではのカフェより普通のスターバックスの方が落ち着くという気もするので、私としては実際に生でカルチェラタンがどんなことろが見れたというだけで満足できます。

レストランがいろいろありましたので、田舎風フランス料理みたいな意味の看板が書いてあるところに入って食事しました。水をくれというと有料のミネラルウオーターが出てきます。水道水をくれというと無料の水道水が瓶に入って出てきます。パリは空気が乾燥していていくらでも水を飲みたくなるので、個人的には水道水をたくさん飲みたいですが「水道水をくれ」の発音ができないと有料の水が出ます。たまには有料のミネラルウオーターもきっと健康にいいかも知れません。カルチェラタンには二度行って、二度とも同じレストランに入り、二度目はがんばって水道水を出してもらうことに成功しました。料理の味はおいしいですが、日本のファミレスの方がおいしくて値段も安いなあと思います。日本っていろいろ凄いです。

近くには大学が多いようです。パリ第〇大学とか、そういう感じのがあります。パリはいったい第何大学まであるのかと思って人に聞いたら13まであるそうです。全部足してソルボンヌ大学になるそうです。ちょっと意味不明ですが、それぞれの国にはそれぞれの学制があります。留学してみたいなあとちょっと思いましたが、多分、内容についていけないと思います。自信のある人はぜひ挑戦してみてほしいです。

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ルーブル美術館に行った時の話

ルーブル美術館はシテ島からとても近いです。入り口はガラスのピラミッドになっています。いつからそうなのかは知りません。ピラミッドに入ってエスカレーターを降りて、チケット売り場に辿り着きます。ミュージアムパスを持っていったらそれを見せるだけで中に入れてもらえます。

ルーブル美術館の展示品はオルセー美術館とかオランジュリー美術館とかよりも古い時代のものが中心です。宗教画が沢山あります。聖書の一場面を再現しているのが多いです。イエス様とマリア様の絵がいっぱい見れます。ルネッサンス期のものも展示しています。ダヴィンチの『モナリザ』もあります。ものすごく人がいっぱいいてとてもゆっくり見れません。それでも「本物を見た」という満足感が得られます。とても有名な『サモトラケのニケ』もあります。ニケのスペルはNIKEです。ナイキです。『サモトラケのニケ』の像は発見された時に既に腕がありません。巨大な立像ですから、長くて大きな腕がついていたのだろうと思います。いろいろ想像できますが、もちろん本当のことは分かりません。昔、恐竜の想像図が適当だったのと同じです。今の恐竜の想像図が適当かどうかは知りません。

中東の出土品とか地中海世界の出土品とかいろいろあります。アッシリアとかヒッタイトとかフェニキアとかクレタ島とかの情報に雪崩のように触れることができます。だんだんどれがどれなのか分からなくなっていきます。ですが、美術品を大量に見れるのは幸福です。個人的に所有したいとは思いませんが、時々見に行きたいです。エジプトのものもいろいろあります。保存状態の良いミイラも見れます。ナポレオンが持って帰ったのかなあと思います。ですがナポレオンは作戦がうまくいかなくて部下を見捨てて自分だけ帰還していますので、ミイラを持って帰れなかったかも知れません。作戦がうまくいかなくなる前に輸送したのかも知れません。でっかい石像とかだと触る人が時々います。触りたい気持ちは分かりますが、触ってはいけません。

ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。
ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。

イスラム世界の特設コーナーもありました。イスラム世界のことはよく分かりません。オスマントルコの時代は数学とか芸術とか、ヨーロッパよりも主流だったと聞いています。特設コーナーの解説によるとイスラム世界はとても広いです。ロシア、インド、トルコ、アラブ、アフリカとユーラシア大陸の中心部分を制覇しています。更にインドネシアとかタイとかにもイスラム教の人たちがいます。イスラム教にはそれだけのパワーというか伝播力があったのだと思います。

ヨーロッパの中世から近代にかけての芸術は結構、ロマン主義です。聖書を題材にした絵は見る人が故事に思いをはせたり、敬虔な信仰心を確認したりすることに役立ちます。ルネッサンスの人物像もそこにドラマが込められています。印象派は「自分にはそう見える」という意味では個人主義的で、他者とロマンを共有するというのとは違いますが、きれいできらきらした感じになるという意味ではロマンチックなものを求めていると思います。一方で、イスラム世界の芸術はロマンよりも理性や論理を重視しているような気がします。宇宙の法則を見つけて再現している感じです。なので幾何学模様とかシンボルマークとかが多いのだと思います。作成した人は宇宙の再現に使命感を持っていたような気がします。素人の想像です。

ナポレオンの戴冠式の絵はどでかいです。自分で自分の頭に冠を載せたという有名なやつです。ナポレオンの性格が想像できます。

ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。
ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。

ナポレオン三世が生活していた場所も再現されていて公開されています。豪華な上にこじゃれています。快適そうです。ナポレオン三世にはあまりいい印象はありません。ですが、おじさんのナポレオン一世よりは趣味が良かったのかも知れません。
ナポレオン三世の生活が再現されている部屋
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ナボコフ『ロリータ』の病める愛と心理観察

有名な話ですが、ナボコフはアメリカの出版社にこの作品の出版を断られまくり、パリの出版社に持ち込んでようやく世に出すことができました。ナボコフは亡命ロシア人で最初に書いたときは英語で出版された時はフランス語で作品の舞台はアメリカですから、良くも悪くも国際的です。アメリカの出版社が断りまくったのは作品の内容があまりに病んでいて、倫理的な問題も大きいからですが、現代では20世紀の主たる小説の一つに数えられています。

主人公はフランス人でアメリカで教師をしています。ローティーンの少女への関心が強いです。あるシングルマザーの女性と結婚します。主人子は美男子で、女性の心を掴むことに長けています。うらやましいです。本当の目的はその女性の娘さんです。日記に本音を書いています。女性に日記を読まれます。女の子は夏休みなのでサマースクールのキャンプ生活をしています。お母さんは急いで娘さんに「この男に気を付けろ」という内容の手紙を書きます。万事休かと男は諦めます。女性はポストに投函する直前に交通事故に亡くなってしまいます。

男はサマースクールのキャンプ場まで少女に会いに行きます。法律上は父親ですので簡単に面会できます。お母さんが亡くなったという事実を伝え、少女を連れて帰ります。誘惑し、目的を達成します。車に乗り、二人で各地を旅します。男は新しい赴任先へと少女と一緒に向かいます。法律上は父親なのでずっと一緒にいても誰も怪しみません。

ある日、少女がいなくなります。男は必死になって探します。少女はだんだん大人になっていて、若い男性と結婚していることが分かります。男が訪問すると、少女は男性に「父親が来た」と説明し、二人だけになって話し合います。行方不明になった時、とある脚本家の男性に連れていかれたことが分かります。男は決心して脚本家を訪れ、銃で殺してしまいます。

結構長い物語ですが、詳細に内容に触れることはためらわれます。世界的な小説ということになっているので、教養という意味では一回くらい読んだ方がいいです。読むのが面倒な人は映画で観てもいいです。肝になる部分はそれで分かります。映画だったら2時間くらいで終わるのでお手軽と言えばお手軽です。キューブリック監督が撮ったバージョンとエイドリアンライン監督の撮ったバージョンがあります。

作品の中では男と少女のエゴがよくぶつかり合います。「少女のエゴ」は永遠の謎みたいなものです。分かってみれば簡単ですが、それまでは男は悩んで煩悶して死にたくなってきます。理解できた時にはもう遅かったりします。今書きながら思い出して悲しくなってきます。この作品はナボコフの懸命の観察の結果によって少女のエゴを描いています(いろいろ「実験」したかも知れません。わかりません)。サガンの『悲しみよこんにちは』は十代の著者が少女の立場から少女のエゴを描いています。両方読めば、違った視点から人間心理の理解が深まるかも知れません。田山花袋の『蒲団』も読むのもいいかも知れません。ただ、田山花袋の『蒲団』は退屈で、矮小な、女学生にふられる男子教師の姿が描かれます。田山花袋は故意に矮小な男の姿(自己像)を自然主義的に書いたということなのだと思いますが、読んでいてがっくりします。明治小説が好きだという人もいますので、楽しめる人がいれば、それはそれでいいと思います。

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サガン『悲しみよこんにちは』の女の人の心理

『悲しみよこんにちは』はサガンのデビュー作で代表作です。というかサガンの作品では他には特に知っているものがありません。多分、フランス語ではいっぱいいろいろ書いていると思います。ですが、普通に日本で生きててサガンの作品に触れるとすれば『悲しみよこんにちは』で始まり『悲しみよこんにちは』で終わります。いい本です。涙が自然に流れて来そうなくらいとてもきれいで切ない内容です。

お父さんと娘のセシルが南フランスの海辺のリゾートで夏休みを過ごします。きらきらとした透明感のある素敵な夏休みです。お父さんは離婚しています。でもかっこいいのでとてももてます。作品に詳しく書かれているわけではないですが、きっとガールフレンドが沢山います。そういう設定になっているはずです。うらやましいです。娘のセシルもお父さんが大好きです。かっこいいお父さんが自慢です。セシルはお父さんがガールフレンドと遊んでも別に気になりません。お父さんにとっては私が一番なのよ。くらいに思っています。むしろ他の女の人たちに対して優越感を持っているくらいです。

ところが事情が変わってきます。お父さんが真剣に愛する新しい結婚相手を南フランスの別荘に連れてきてセシルに引き合わせます。新しいお母さんはマジメで聡明で素敵な美人です。もてる男性は遊び相手と真剣に愛する人とは選び方が違うのだと、著者よく観察しています。セシルと新しいお母さんは仲良くなれるようにお互いに努力しますがうまりうまくいきません。互いに悪気がないだけに余計に歯がゆい感じです。新しいお母さんに用事ができてしばらく南フランスを離れます。その間にセシルは一計案じます。同じリゾートで夏休みを過ごしているお父さんの最近までいたガールフレンドを使おうと考えます。お父さんにいろいろと吹き込みます。「あの人を最近見かけたけどきれいになってた」とか適当なことを話します。お父さんは男です。男は単純です。セシルにそういうことを言われると、また前のガールフレンドと遊びたくなってきます。セシルがいろいろと策を講じた結果、とうとうお父さんは前のガールフレンドとどっかへ遊びに行ってしまいます。そこに新しいお母さんが帰ってきます。何が起きているのかすぐに察知します。車に乗ってどこかへ行きます。「無事に帰って来てくれるだろうか」と心配していたら、新しいお母さんが亡くなったという連絡が届きます。新しいお母さんは車と一緒に谷底に落下してしまい、自殺とも事故とも判別できません。セシルは自分の意地悪な思いつきで素敵でマジメな新しいお母さんを死なせてしまったことを後悔し、生涯、その罪悪感とともに生きる覚悟をします。生涯悲しみとともに生きる覚悟をします。生涯の友である悲しみがやってきます。悲しみよこんにちはです。

女の人の心理がよく出ています。多分、もてる男性のタイプにそんなにバリエーションはありません。女性の作家は男性のバリエーションにあんまり関心がない場合が多いように思います。むしろ同性のバリエーションをいろいろ細部まで書きます。男はワンパターンでいいです。紫式部の『源氏物語』と同じです。サガンが十代の時に書いた作品ですので、技巧とかそういうのではなくごくごく自然に書いた作品なのではないかと思います。自然体で短い作品で、心境がきちんと描かれているので読みやすいです。文学少女風のきれいな文章です。翻訳でしか読んでないので本当の原文のことは分かりません。男性が読んでもいい作品です。自分の来し方や在り方について省みることができます。できないか…?

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ガルシアマルケス『予告された殺人の記録』の人の心の哀しさと弱さと

短かい小説です。一日で読めます。物語に入り込めるまで少し時間がかかります。入り込んでしまえればあっという間です。同じ著者の『百年の孤独』はゆっくり読んだら2ヶ月くらいかかります。ガルシアマルケスがどんな作家かを知るには『予告された殺人の記録』を先に読むのも一つの手です。

若い男性が結婚します。若くて家に財産があって、いい男です。大変おめでたいです。ある男が花婿を殺すと言って歩きます。周囲の人に宣言して回ります。誰も本気にしていません。ただの嫉妬で嫌がらせを言って歩いているだけだと思っています。実際、その男はただの嫌がらせのつもりで「花婿を殺す」と言って歩いています。でも、誰も本気にしてくれないので、どんどん発言のトーンを上げていきます。ヒートアップしていきます。言えば言うほど「言うだけ番長」のリスクが高まっていきます。早くそんな発言は取り消して、お酒でも飲んで寝てしまうのが一番です。ですが男は、有言実行しなくてはいけないという心境になっていきます。自分の発言に自分が縛られていきます。その心境には「俺は口だけじゃなくて、やる時はやる男だ」と周囲の人に分からせたいという願望があります。阿Q的なものを感じます。更に心の奥を探れば自己嫌悪があります。自分への自信のなさがあります。承認欲求があります。「やる時はやる」の意味を勘違いしています。「やる時はやる」ことを証明するために人を殺してはいけません。お金を稼いだり、弱い人を助けたりしなくてはいけません。しかし、男にはそこまで考えがいきません。それまでいろいろ努力してどれもうまくいかなかったので、生産的な方法を考えることができなくなってしまっていたのかも知れません。

そしてとうとう花婿を惨殺してしまいます。酷いです。幸せの絶頂にある人に対して酷過ぎます。花嫁にとっても残酷です。村中の人が殺人予告を聞いていながら、誰も止めることができなかったのはなぜか?という疑問が湧いてきます。どうせやれないと思っていたからです。やれるものならやってみろと思っていたからです。ただ、もしかすると「やったらやったでちょっとおもしろい。高見の見物ができる。しばらくその話題で楽しめる」と微かに思ったかも知れません。幸せな花婿に対する妬みは他の人にもあったのかも知れません。なので、敢えてなんとかしようとしなかったのかも知れません。周囲の人々の成り行き任せ、希薄な責任感、犯人の男の安易な自己顕示欲がぴたっと合わさることで事件が起きてしまいます。

そこにあるのは弱さです。人々は積極的にコミットすることでリスクを負いたくないと思っています。男には自分の発言を撤回するだけの強さがありません。そうでもしなければ誰も男に関心を向けないという疎外もあります。深い孤独があります。深い孤独を噛みしめる人物の心を理解するのは面倒だという無関心があります。

短いですが怖い小説です。誰にも関心を持ってもらえない人物が他人を傷つけることで注目されようとする事件は時々起きます。男のやったことは怖いですが、周囲の無関心も怖いです。無関心だった人にも責任があると著者は言いたいのではないかと思います。大島渚の『飼育』みたいな感じです。そこは私の想像です。

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