ドイツ表現主義映画『M』のワイマール精神

ドイツ表現主義という芸術活動が1920年代から30年代ごろにかけて起きましたが、その時代に作られた映画の一つ『M』というのがあります。ドイツ表現主義といえば『カリガリ博士』とかの方が有名で、『M』はいまいち知られていません。でも、いい映画です。

ドイツのとある街で少女が行方不明になる事件が連続して起きます。後日、少女の死体が発見されます。人々は犯人に対して強い怒りを感じます。当然です。どんな手法で少女を上手に誘惑して犯行に及ぶのか、犯人はどこの誰なのか、さっぱり手がかりはありません。

警察が動きますが、ちっとも前に進みません。警部役の俳優さんがいい味を出してます。いい意味で、ザ・刑事(デカ)です。捜査網を強化しますがどっちにしても捕まりません。

市民が自警団を作ります。貧しくて家のない人たちも協力します。路上で生活している人たちは毎日通りを観察しているので、普通に家の中で暮らしている人よりも街で何が起きているのかよく理解しています。そういう人たちの助けによって事件解決に向けて進展します。そのような協力者の中のあるおじいちゃんは目が見えません。その分、耳の感覚が鋭いです。ある時、口笛を耳にします。以前、一人の少女が行方不明になった時、その少女がある男性に風船を買い与えてもらっていて、その時に男性が吹いていた口笛と同じだということに気づきます。それをおじいちゃんから知らされた青年は、口笛を吹いている男の後を追い、何とか取り逃がさないために男のコートの背中に「M」の字を書きます。murdererのMです。

市内のいろいろな人にその情報が伝わります。男をどんどん追いかけます。男は工場みたいなところに逃げたりしますが、結局は捕まります。人民裁判が開かれます。人々は怒っています。とても怖いです。感情的な私刑が行われても全くおかしくありません。というか人々は感情的な私刑を望んでいるように見えます。犯人の男は「自分には精神疾患があって、犯行時のことは何も覚えていない。犯行は自分が計画したのではなく、ある時意識を失っていて気づくと犯行が終わっている。自分にはどうすることもできない」と訴えます。弁護人を担当する人は酒を飲みながら裁判に出ていますが、「精神疾患による犯行ならば、彼には刑罰を与えることはできない。警察に引き渡し、病院に入れるべきだ」と正論を述べます。人々は怒っていますが、弁護人の言うことが正論だと認めて警察に引き渡すことに決まります。法治に対する倫理観や正義感を称賛する内容になっています。法治と理性を信じたいという願いが込められています。

この映画では人々は感情よりも理性的な判断を優先しています。ワイマール憲法の実践を目指したような気もします。フロイトの精神分析が世の中にある程度広まったことも関係があるかも知れません。もちろん、子どもをなくしてしまった人にとっては犯人を生かしておくことはできません。辛いです。しかし、感情と法理法論を分けています。映画の中ではさりげなく、でもきちんと分かるように、第一大戦後のハイパーインフレのことも触れています。犯人が店に入って酒を飲んでいる間に酒の値段が上がっていきます。時代背景を考えながら見るともっと面白いです。

1931年の映画ですから、ドイツでナチス政権が誕生する直前のことです。アドルフヒトラーは当時既に有名人です。そう考えると複雑な心境で映画を観ざるを得ません。この映画の監督はユダヤ人で、ナチス政権が誕生した後に亡命しています。ナチスは感情に訴えて支持を集めて行きました。現代は少しずつ、どこの国でも感情が優先されるようになってきているみたいです。もちろん感情は大切です。人は感情の生き物ですから、感情を抑え込んだり無視したりしては生きる喜びが失われます。選挙とか国民投票とかが行われるのも、小理屈はともかくみんなはどう感じているのかを確認するための手続きと言えます。民主主義はみんなの感情を合法的な意思にするために手続きとも言えます。しかしそこからは独立しています。また小理屈です。すみません。そういったことをいろいろ考えるのにこの映画は手助けになるかも知れません。カメラワークとか演者さんの表情とかいろいろいい映画です。


カルチェラタンを歩いた話

セーヌ川左岸と呼ばれる地域、フランス文化の中心で、世界への情報発信の中心地と呼ばれている場所がカルチェラタンです。そんなことを聞いたら、そりゃ期待して訪れるものです。ヘミングウェイがカルチェラタンのカフェで小説を書いてたとか、今も若い作家を目指す人がカフェでなんか書いてるとか、そういう「伝説」の場所。「聖地」みたいな感じです。セーヌ川がパリ市を東西に突っ切っていて、河口(西に向かって流れています)方面に顔を向けて左側が左岸、右側が右岸です。「セーヌ川左岸」という言葉の響きがかっこよすぎです。ルーブル博物館はセーヌ川の向こう岸になります。

カルチェラタンはシテ島の目と鼻の先にあります。実際に行ってるみるとエリア的には狭いです。私は「カルチェラタンは多分、下北沢と神保町を足して二で割った感じのところではなかろうか」と想像していて、本屋さんの軒先に古本が並んでいるようなところとか見たいなあと思っていました。歩いていると、古本が並んでいるらしきところがあります。おー、あった。この角を曲がれば古本屋さんがざーっと並んでいたり、この道を進めば文化人が集う味なカフェ並んでいたりするに違いないと歩みを進めると普通の街角に出ます。ん?と思ってもう一回最初のところまで戻り、どこか曲がり角を間違えたのだろうかと思って、いろいろくるくる歩いて見ますが、それらしきところがありません。地図を何度も確認しましたが、確かにここはカルチェラタンエリアです。要するに狭いです。そういうエリアはちょっとしかありません。実感としては百メートル四方くらいかそれよりもうちょっと大きいくらいしかないかなあという感じです。世界の文学青年が集うには狭いです。

とはいうものの、私はフランス語が読めるわけでもなく、カフェでコーヒーを飲むのなら他にもいくらでもあるわけで、ぶっちゃけパリならではのカフェより普通のスターバックスの方が落ち着くという気もするので、私としては実際に生でカルチェラタンがどんなことろが見れたというだけで満足できます。

レストランがいろいろありましたので、田舎風フランス料理みたいな意味の看板が書いてあるところに入って食事しました。水をくれというと有料のミネラルウオーターが出てきます。水道水をくれというと無料の水道水が瓶に入って出てきます。パリは空気が乾燥していていくらでも水を飲みたくなるので、個人的には水道水をたくさん飲みたいですが「水道水をくれ」の発音ができないと有料の水が出ます。たまには有料のミネラルウオーターもきっと健康にいいかも知れません。カルチェラタンには二度行って、二度とも同じレストランに入り、二度目はがんばって水道水を出してもらうことに成功しました。料理の味はおいしいですが、日本のファミレスの方がおいしくて値段も安いなあと思います。日本っていろいろ凄いです。

近くには大学が多いようです。パリ第〇大学とか、そういう感じのがあります。パリはいったい第何大学まであるのかと思って人に聞いたら13まであるそうです。全部足してソルボンヌ大学になるそうです。ちょっと意味不明ですが、それぞれの国にはそれぞれの学制があります。留学してみたいなあとちょっと思いましたが、多分、内容についていけないと思います。自信のある人はぜひ挑戦してみてほしいです。

関連記事
パリのフリーメイソン博物館に行った時の話
バルビゾン村に行った時の話
パリの地下鉄の話

ルーブル美術館に行った時の話

ルーブル美術館はシテ島からとても近いです。入り口はガラスのピラミッドになっています。いつからそうなのかは知りません。ピラミッドに入ってエスカレーターを降りて、チケット売り場に辿り着きます。ミュージアムパスを持っていったらそれを見せるだけで中に入れてもらえます。

ルーブル美術館の展示品はオルセー美術館とかオランジュリー美術館とかよりも古い時代のものが中心です。宗教画が沢山あります。聖書の一場面を再現しているのが多いです。イエス様とマリア様の絵がいっぱい見れます。ルネッサンス期のものも展示しています。ダヴィンチの『モナリザ』もあります。ものすごく人がいっぱいいてとてもゆっくり見れません。それでも「本物を見た」という満足感が得られます。とても有名な『サモトラケのニケ』もあります。ニケのスペルはNIKEです。ナイキです。『サモトラケのニケ』の像は発見された時に既に腕がありません。巨大な立像ですから、長くて大きな腕がついていたのだろうと思います。いろいろ想像できますが、もちろん本当のことは分かりません。昔、恐竜の想像図が適当だったのと同じです。今の恐竜の想像図が適当かどうかは知りません。

中東の出土品とか地中海世界の出土品とかいろいろあります。アッシリアとかヒッタイトとかフェニキアとかクレタ島とかの情報に雪崩のように触れることができます。だんだんどれがどれなのか分からなくなっていきます。ですが、美術品を大量に見れるのは幸福です。個人的に所有したいとは思いませんが、時々見に行きたいです。エジプトのものもいろいろあります。保存状態の良いミイラも見れます。ナポレオンが持って帰ったのかなあと思います。ですがナポレオンは作戦がうまくいかなくて部下を見捨てて自分だけ帰還していますので、ミイラを持って帰れなかったかも知れません。作戦がうまくいかなくなる前に輸送したのかも知れません。でっかい石像とかだと触る人が時々います。触りたい気持ちは分かりますが、触ってはいけません。

ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。
ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。

イスラム世界の特設コーナーもありました。イスラム世界のことはよく分かりません。オスマントルコの時代は数学とか芸術とか、ヨーロッパよりも主流だったと聞いています。特設コーナーの解説によるとイスラム世界はとても広いです。ロシア、インド、トルコ、アラブ、アフリカとユーラシア大陸の中心部分を制覇しています。更にインドネシアとかタイとかにもイスラム教の人たちがいます。イスラム教にはそれだけのパワーというか伝播力があったのだと思います。

ヨーロッパの中世から近代にかけての芸術は結構、ロマン主義です。聖書を題材にした絵は見る人が故事に思いをはせたり、敬虔な信仰心を確認したりすることに役立ちます。ルネッサンスの人物像もそこにドラマが込められています。印象派は「自分にはそう見える」という意味では個人主義的で、他者とロマンを共有するというのとは違いますが、きれいできらきらした感じになるという意味ではロマンチックなものを求めていると思います。一方で、イスラム世界の芸術はロマンよりも理性や論理を重視しているような気がします。宇宙の法則を見つけて再現している感じです。なので幾何学模様とかシンボルマークとかが多いのだと思います。作成した人は宇宙の再現に使命感を持っていたような気がします。素人の想像です。

ナポレオンの戴冠式の絵はどでかいです。自分で自分の頭に冠を載せたという有名なやつです。ナポレオンの性格が想像できます。

ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。
ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。

ナポレオン三世が生活していた場所も再現されていて公開されています。豪華な上にこじゃれています。快適そうです。ナポレオン三世にはあまりいい印象はありません。ですが、おじさんのナポレオン一世よりは趣味が良かったのかも知れません。
ナポレオン三世の生活が再現されている部屋
ナポレオン三世の生活が再現されている部屋


関連記事
パリのフリーメイソン博物館に行った時の話
バルビゾン村に行った時の話

ナボコフ『ロリータ』の病める愛と心理観察

有名な話ですが、ナボコフはアメリカの出版社にこの作品の出版を断られまくり、パリの出版社に持ち込んでようやく世に出すことができました。ナボコフは亡命ロシア人で最初に書いたときは英語で出版された時はフランス語で作品の舞台はアメリカですから、良くも悪くも国際的です。アメリカの出版社が断りまくったのは作品の内容があまりに病んでいて、倫理的な問題も大きいからですが、現代では20世紀の主たる小説の一つに数えられています。

主人公はフランス人でアメリカで教師をしています。ローティーンの少女への関心が強いです。あるシングルマザーの女性と結婚します。主人子は美男子で、女性の心を掴むことに長けています。うらやましいです。本当の目的はその女性の娘さんです。日記に本音を書いています。女性に日記を読まれます。女の子は夏休みなのでサマースクールのキャンプ生活をしています。お母さんは急いで娘さんに「この男に気を付けろ」という内容の手紙を書きます。万事休かと男は諦めます。女性はポストに投函する直前に交通事故に亡くなってしまいます。

男はサマースクールのキャンプ場まで少女に会いに行きます。法律上は父親ですので簡単に面会できます。お母さんが亡くなったという事実を伝え、少女を連れて帰ります。誘惑し、目的を達成します。車に乗り、二人で各地を旅します。男は新しい赴任先へと少女と一緒に向かいます。法律上は父親なのでずっと一緒にいても誰も怪しみません。

ある日、少女がいなくなります。男は必死になって探します。少女はだんだん大人になっていて、若い男性と結婚していることが分かります。男が訪問すると、少女は男性に「父親が来た」と説明し、二人だけになって話し合います。行方不明になった時、とある脚本家の男性に連れていかれたことが分かります。男は決心して脚本家を訪れ、銃で殺してしまいます。

結構長い物語ですが、詳細に内容に触れることはためらわれます。世界的な小説ということになっているので、教養という意味では一回くらい読んだ方がいいです。読むのが面倒な人は映画で観てもいいです。肝になる部分はそれで分かります。映画だったら2時間くらいで終わるのでお手軽と言えばお手軽です。キューブリック監督が撮ったバージョンとエイドリアンライン監督の撮ったバージョンがあります。

作品の中では男と少女のエゴがよくぶつかり合います。「少女のエゴ」は永遠の謎みたいなものです。分かってみれば簡単ですが、それまでは男は悩んで煩悶して死にたくなってきます。理解できた時にはもう遅かったりします。今書きながら思い出して悲しくなってきます。この作品はナボコフの懸命の観察の結果によって少女のエゴを描いています(いろいろ「実験」したかも知れません。わかりません)。サガンの『悲しみよこんにちは』は十代の著者が少女の立場から少女のエゴを描いています。両方読めば、違った視点から人間心理の理解が深まるかも知れません。田山花袋の『蒲団』も読むのもいいかも知れません。ただ、田山花袋の『蒲団』は退屈で、矮小な、女学生にふられる男子教師の姿が描かれます。田山花袋は故意に矮小な男の姿(自己像)を自然主義的に書いたということなのだと思いますが、読んでいてがっくりします。明治小説が好きだという人もいますので、楽しめる人がいれば、それはそれでいいと思います。

スポンサーリンク(原作の日本語訳です)

スポンサーリンク(映画版です)

サガン『悲しみよこんにちは』の女の人の心理

『悲しみよこんにちは』はサガンのデビュー作で代表作です。というかサガンの作品では他には特に知っているものがありません。多分、フランス語ではいっぱいいろいろ書いていると思います。ですが、普通に日本で生きててサガンの作品に触れるとすれば『悲しみよこんにちは』で始まり『悲しみよこんにちは』で終わります。いい本です。涙が自然に流れて来そうなくらいとてもきれいで切ない内容です。

お父さんと娘のセシルが南フランスの海辺のリゾートで夏休みを過ごします。きらきらとした透明感のある素敵な夏休みです。お父さんは離婚しています。でもかっこいいのでとてももてます。作品に詳しく書かれているわけではないですが、きっとガールフレンドが沢山います。そういう設定になっているはずです。うらやましいです。娘のセシルもお父さんが大好きです。かっこいいお父さんが自慢です。セシルはお父さんがガールフレンドと遊んでも別に気になりません。お父さんにとっては私が一番なのよ。くらいに思っています。むしろ他の女の人たちに対して優越感を持っているくらいです。

ところが事情が変わってきます。お父さんが真剣に愛する新しい結婚相手を南フランスの別荘に連れてきてセシルに引き合わせます。新しいお母さんはマジメで聡明で素敵な美人です。もてる男性は遊び相手と真剣に愛する人とは選び方が違うのだと、著者よく観察しています。セシルと新しいお母さんは仲良くなれるようにお互いに努力しますがうまりうまくいきません。互いに悪気がないだけに余計に歯がゆい感じです。新しいお母さんに用事ができてしばらく南フランスを離れます。その間にセシルは一計案じます。同じリゾートで夏休みを過ごしているお父さんの最近までいたガールフレンドを使おうと考えます。お父さんにいろいろと吹き込みます。「あの人を最近見かけたけどきれいになってた」とか適当なことを話します。お父さんは男です。男は単純です。セシルにそういうことを言われると、また前のガールフレンドと遊びたくなってきます。セシルがいろいろと策を講じた結果、とうとうお父さんは前のガールフレンドとどっかへ遊びに行ってしまいます。そこに新しいお母さんが帰ってきます。何が起きているのかすぐに察知します。車に乗ってどこかへ行きます。「無事に帰って来てくれるだろうか」と心配していたら、新しいお母さんが亡くなったという連絡が届きます。新しいお母さんは車と一緒に谷底に落下してしまい、自殺とも事故とも判別できません。セシルは自分の意地悪な思いつきで素敵でマジメな新しいお母さんを死なせてしまったことを後悔し、生涯、その罪悪感とともに生きる覚悟をします。生涯悲しみとともに生きる覚悟をします。生涯の友である悲しみがやってきます。悲しみよこんにちはです。

女の人の心理がよく出ています。多分、もてる男性のタイプにそんなにバリエーションはありません。女性の作家は男性のバリエーションにあんまり関心がない場合が多いように思います。むしろ同性のバリエーションをいろいろ細部まで書きます。男はワンパターンでいいです。紫式部の『源氏物語』と同じです。サガンが十代の時に書いた作品ですので、技巧とかそういうのではなくごくごく自然に書いた作品なのではないかと思います。自然体で短い作品で、心境がきちんと描かれているので読みやすいです。文学少女風のきれいな文章です。翻訳でしか読んでないので本当の原文のことは分かりません。男性が読んでもいい作品です。自分の来し方や在り方について省みることができます。できないか…?

スポンサーリンク

ガルシアマルケス『予告された殺人の記録』の人の心の哀しさと弱さと

短かい小説です。一日で読めます。物語に入り込めるまで少し時間がかかります。入り込んでしまえればあっという間です。同じ著者の『百年の孤独』はゆっくり読んだら2ヶ月くらいかかります。ガルシアマルケスがどんな作家かを知るには『予告された殺人の記録』を先に読むのも一つの手です。

若い男性が結婚します。若くて家に財産があって、いい男です。大変おめでたいです。ある男が花婿を殺すと言って歩きます。周囲の人に宣言して回ります。誰も本気にしていません。ただの嫉妬で嫌がらせを言って歩いているだけだと思っています。実際、その男はただの嫌がらせのつもりで「花婿を殺す」と言って歩いています。でも、誰も本気にしてくれないので、どんどん発言のトーンを上げていきます。ヒートアップしていきます。言えば言うほど「言うだけ番長」のリスクが高まっていきます。早くそんな発言は取り消して、お酒でも飲んで寝てしまうのが一番です。ですが男は、有言実行しなくてはいけないという心境になっていきます。自分の発言に自分が縛られていきます。その心境には「俺は口だけじゃなくて、やる時はやる男だ」と周囲の人に分からせたいという願望があります。阿Q的なものを感じます。更に心の奥を探れば自己嫌悪があります。自分への自信のなさがあります。承認欲求があります。「やる時はやる」の意味を勘違いしています。「やる時はやる」ことを証明するために人を殺してはいけません。お金を稼いだり、弱い人を助けたりしなくてはいけません。しかし、男にはそこまで考えがいきません。それまでいろいろ努力してどれもうまくいかなかったので、生産的な方法を考えることができなくなってしまっていたのかも知れません。

そしてとうとう花婿を惨殺してしまいます。酷いです。幸せの絶頂にある人に対して酷過ぎます。花嫁にとっても残酷です。村中の人が殺人予告を聞いていながら、誰も止めることができなかったのはなぜか?という疑問が湧いてきます。どうせやれないと思っていたからです。やれるものならやってみろと思っていたからです。ただ、もしかすると「やったらやったでちょっとおもしろい。高見の見物ができる。しばらくその話題で楽しめる」と微かに思ったかも知れません。幸せな花婿に対する妬みは他の人にもあったのかも知れません。なので、敢えてなんとかしようとしなかったのかも知れません。周囲の人々の成り行き任せ、希薄な責任感、犯人の男の安易な自己顕示欲がぴたっと合わさることで事件が起きてしまいます。

そこにあるのは弱さです。人々は積極的にコミットすることでリスクを負いたくないと思っています。男には自分の発言を撤回するだけの強さがありません。そうでもしなければ誰も男に関心を向けないという疎外もあります。深い孤独があります。深い孤独を噛みしめる人物の心を理解するのは面倒だという無関心があります。

短いですが怖い小説です。誰にも関心を持ってもらえない人物が他人を傷つけることで注目されようとする事件は時々起きます。男のやったことは怖いですが、周囲の無関心も怖いです。無関心だった人にも責任があると著者は言いたいのではないかと思います。大島渚の『飼育』みたいな感じです。そこは私の想像です。

関連記事
ガルシアマルケス『百年の孤独』の人生の虚実

スポンサーリンク

ウンベルトエーコ『薔薇の名前』の本と毒と笑い

ウンベルトエーコ先生の『薔薇の名前』はヨーロッパ中世の歴史に対する深い造詣によって支えられた凄い物語だと言われています。あんまり深いので普通の日本人にはどこに知識が生かされているのかよく分かりません。でも多分、ディテールがめちゃめちゃしっかりしているのだろうと思います。知識がなくても楽しめる本です。身もだえするほど面白いです。素人でも玄人でも楽しめる本です。

中世のいずれかの時代の、ヨーロッパのいずこかの物語です。主人公の修道士の若者が師匠と一緒に旅をしていて、ある時、とある修道院に辿り着き、しばらく寄宿させてもらいます。修道院で暮らす修道士の人々は、あんまり尊敬できる感じではありません。だらっと生きています。聖書を書き写すのが日常の仕事です。ノルマも特にありません。わりと楽して生きていて、そんなに規律正しくもありません。修道院の年老いた偉い人たちは若い修道士に対していろいろ怒っています。「ワインを飲んでもならない」という規則があったのに、最近では「ワインを飲み過ぎてはならない」と言わなくては誰も規則を守らない、それだけ若い人がなってないなどとにがにがしく思っています。

「最近の若い連中は…」という愚痴は古代ギリシャの文献にも出てくると言います。「最近の若いやつは…」は時代を超えた普遍的な愚痴のパターンだということが分かります。私もおしゃべりばっかりしている学生を見ると「最近の若いやつは…」と思いそうになります。そしてそのたびに「あ、これは普遍的な愚痴のパターンだった」と思い直します。学生を笑わせるつもりでジョークを言ってすべった時はかなり落ち込みます。その時に私は「今の若い人はセンスが悪いから俺のジョークが理解できなかったんだ」と思うことで自分を防衛しようとします。それから、「あ、そうだ。ジョークが面白くなかったのはジョークを言った人間の責任だ」と思い直します。「最近の若いやつは…」は絶対に言わないと誓っていないと言いそうになるので要注意です。でもなんだかんだ言って教師は自分の学生には甘いものなので、学生がちょっといい子にしていると過去の悪い態度とかすっかり許してしまいます。教師なんて簡単でいちころな存在です。

話が脱線しましたが、イシグロカズオさんの『忘れられた巨人』に出てくる修道院の人たちもいわば世捨て人、悪い言い方をすればちょっと社会不適合な感じの人たちみたいに描かれていますが、エーコ先生の『薔薇の名前』の影響を受けたのではないかという気もしなくもありません。

滞在中に殺人事件が起きます。水槽から両足を出して死んでいるとか、金田一耕助の『犬神家の一族』みたいな死に方をしています。他にも何人も死人がでます。でも死因が全く分かりません。外傷がありません。自殺というわけでもありません。どうして死んだのかさっぱり分かりません。完全犯罪です。読者もこの段階では首をひねるしかありません。

師匠が事件を解くカギをいろいろ集めて最後には犯人を突き止めます。犯人はこの修道院で一番偉い老人です。老人がある本に毒を塗っていました。その本を読んだ人はページをめくる際に唇に指をあて、指を少し湿らせてページをめくります。それを繰り返すうちに毒がその人の体内に入り込み、本を読み終わってしばらくすると死んでしまいます。外傷も残りません。解剖でもしないと分かりませんが、法医学とか司法解剖とか多分まだない時代なので、犯人の自白がない限り、死因は永遠に分かりません。この完全犯罪の手法は池澤夏樹さんの『マシアスギリの失脚』でも政敵の暗殺方法として使われています。作品の中で「ネタ元は『薔薇の名前』だ」と読んだことのある人にだけ分かるように書いてあります。他に『王妃マルゴ』という映画でも同じ方法で王様が死んでしまいます。『マシアスギリの失脚』では二時間くらいで死んでしまいますが、『王妃マルゴ』では何日もかかって死んでしまいます。そんな細かいことはどうでもいいと言えばどうでもいいです。

問題は動機です。毒が塗られていた本はアリストテレスの喜劇に関する本です。アリストテレスは笑うことは健康にいいと書いています。しかし、修道院では笑ってはいけないという規則があります。アリストテレスのような超有名なギリシャ時代の書き手が「笑いなさい」と書いていることがバレると結構まずいです。一番いいのは本を捨てることですが、人類共通財産である本を捨てることはためらわれます。従って、本を読んだ人、内容を知った人だけを確実を殺さなくてはいけないという結論に達し、本に毒を塗ったというわけです。

『薔薇の名前』は人類史上最高の推理小説みたいな言い方をされます。その通りだと思います。読んでいる時は面白すぎてしびれます。早く続きが読みたくて身もだえします。でも分厚いので読み終えるのに時間がかかります。本に書いてる字も小さいです。でも面白いので問題になりません。読み終えるのがもったいないと思ってしまうので、もっと長い物語になっても文句はないくらいです。



関連記事
池澤夏樹『マシアスギリの失脚』の孤独のダンディズム
イシグロカズオ『忘れられた巨人』の失われた愛

スポンサーリンク(上下巻あります。長いです。でも断然読む価値があります)

スポンサーリンク(映画版です。ショーンコネリーが師匠をやっていてかっこいいです)


マルシアガルケス『百年の孤独』の人生の虚実

マルシアガルケスの『百年の孤独』という長い長い小説にはプロットとかあらすじとかそういうものはありません。ある若い夫婦がラテンアメリカのどこかの荒れ地を開拓し、子孫が増えていきます。人が集まり街になります。最初の夫婦の旦那の方はわりと早く死んでしまいますが、妻の方はとても長生きします。子どもが生まれ、孫が生まれ、ひ孫が生まれ、玄孫ぐらいまで行きます。それぞれに恋をしたりお金のことで悩んだり、ちょっと変人だったり、いろいろいます。そういった人々の百年くらいの物語です。次から次へといろいろなエピソードが挿入されていきます。どこまでが現実でどこまでが本当かがはっきりしない、マジックリアリズムという手法が用いられています。池澤夏樹さんもこの手法が好きで、『マシアスギリの失脚』でも使っています。マルシアガルケスの場合は特にそれを多用しています。読みながら読者を煙に巻いているのかといぶかしい気持ちになるときもあれば、不思議な世界に吸い込まれそうになりいい気分になるときもあり、登場人物がやたらに多くてしかも時々幻想が入るので、なにがなんださっぱり分からなくなってきて、「自分の読解力はこの程度か…」と自己嫌悪になったりします。

無数の登場人物の中にとても美しい天使みたいなティーンエイジの女の子も登場します。もうちょっと正確に言うと生まれたときから物語にはちょろちょろと登場しますが、やがて10代になると神々しい美少女に成長します。変な男にいたずらされます。しばらくしたら本物の天使みたいに空に浮き上がって昇っていきます。要するに死んでしまいます。ただ、どこが現実でどこが超現実なのかが判然としないまま記述が続くので、本当に死んだのかどうかもう少し読み進めないとよく分かりません。それで、その後その子が全然登場しないので、ああ、死んだのだなと分かります。読解力のある人なら一発で分かるかも知れません。私が鈍いだけだったのかも知れません。いずれにせよ、そんな風につらつらとだらだらと続きます。読み応えのある山場も特にありません。額に数字が浮かぶ人たちがいて、その人たちは額に数字があるが故に殺されていきます。何のことか全然分かりません。詳しい人の解説を読んだら、それはラテンアメリカのどこぞで起きた政変の話だということらしいです。ラテンアメリカの事情を知らないと何のことか分からないことがいっぱい書いてあります。

恋愛に関する話題とお金に関する話題がたくさん出てきます。つまり人の欲望に関する話題が沢山出てきます。小説なんだからそりゃそうです。生きることの悲哀がつまっています。一つ一つ咀嚼して読めば涙がぼろぼろ出てきて止まらないかも知れません。ただ、時間がかかってしかたありません。生々しい欲望を直接に書いたらしゃれにならないのでマジックリアリズム風にすればオブラートに包まれて少し遠まわしな表現になって、場合によってはきらきらときれいに描けるということなのかも知れません。一番最後は最初の夫婦から数えて四代目から五代目くらいの子孫の夫婦がいろいろ悩んで怒ったりしているところでいきなり終わります。この物語は最初から幻影でしたと言わんばかりに、蝋燭の火が消えるみたいにしてフッと街そのものが消えてしまいます。読者はあっけにとられます。今まで苦労して読み進んできたのが全部幻想だったとかそんなのアリか?と頭に来ます。その後で小説とはそもそも幻影だと言うことを思い出し、怒りもおさまり、この小説を読むために使った時間とエネルギーは永遠に帰ってこないのだということを受け入れられるようになります。

どこで読んだか忘れてしまいましたが、著者のガルシアマルケスは「テーブルが突然浮いたり、椅子がいきなりしゃべりだしたりみたいな不思議なことが、ラテンアメリカでは本当に日常的に起きるのです」みたいなことをどこかの誰かに話したそうです。そんなことがあるものか。テーブルが不思議な力で浮いたりなんかするものか。このウソつきめ!と思いますが、ウソを書くふりをして本当のことを書くのが小説家の仕事です。人によってはウソを書くふりをしてやっぱりウソを書いている人もいるかも知れません。或いは本当のことを書いているふりをしてウソを書いている人もいっぱいいるかも知れません。

世界的に高い評価を受けています。世界中の言葉に翻訳されています。もしかすると高く評価しているのは日本人だけかも知れません。著者はノーベル文学賞を獲っているので本当に世界的に高い評価を受けていると言ってもいいかも知れません。でも大抵のノーベル文学賞作家のことはニュースで聞いて、その後は忘れてしまいます。何十か国語に翻訳されても売れなくて版元とか翻訳者が持ち出しでやっているということも珍しくはない筈です。

ちょっと話はずれましたが、日本で高く評価されていることだけは間違いないです。池澤夏樹さんとか大江健三郎さんとかは読んでます。村上春樹さんも多分読んでます。テーブルトークで「ガルシアマルケスの『百年の孤独』ではさあ」とか言うと読書人と思ってもらえることは請け合いです。「聞いたこともねえ本の話をさも常識みたいに話すんじゃねえ」と敬遠される場合もあるかも知れないので相手を見て話したり話さなかったりしなくてはいけません。「どんな本なの?」と質問されて、その場でさらっと手際よく説明できる人がいたらその人は神です。読書が好きで、他人からも読書人だと思われたい人は読んでおいた方がいいと思います。

関連記事
マルシアガルケス『予告された殺人の記録』の人の心の哀しさと弱さと
池澤夏樹『マシアスギリの失脚』の孤独のダンディズム

スポンサーリンク

池澤夏樹『マシアスギリの失脚』の孤独のダンディズム

池澤夏樹さんのマシアスギリの失脚は何度も何度も読み返しました。線を引きながら読み返し、ぼろぼろになったら新しく新潮文庫を買って線を引いて読むを繰り返し、三冊くらい買い換えましたが最近はさすがに読まなくなりました。

1980年代、旧国際連盟日本委任統治領だった太平洋地域のいずこかにある架空の島国ナビダード共和国の大統領マシアスギリは戦争中は日本軍の軍属として働き、戦後になって日本にわたり昼間は倉庫で働きながら夜は高校に通って勉強し、日本語ペラペラになって帰ってきて始めた事業がスーパーマーケット。これが当たって名士になり、政治家になってついに大統領にのぼりつめます。人口七万人の小さな島国とはいえそこは最高権力者。権力の密の味も知っていれば、それにはまりこんでしまうことの怖さも知っている男。それでも大統領はやめられない。権力の味はこたえられない。一度選挙に負けて大統領の座を政敵に譲りますが、その政敵の人物がある種の潔癖症でマシアスギリ在任中の金銭の不正を暴き出そうと動き出したのを知ると、白人の二人組に依頼して政敵を暗殺し、見事大統領に返り咲きます。

罪悪感とことが露見することへの恐怖心からほぼ眠れなくなったマシアスギリは白人二人組に対する長期の報酬の提供に神経を配りながら昼間は政治家の仕事をし、夜は愛人のもとへ通います。しかし、暗殺を証明する大事な書類を官邸に隠してあるのを誰かに盗まれると困るので、決して愛人の家には泊まらず、必ずきちんと帰宅します。しかしなかなか眠れません。蝋燭に火をつけるとリーボーと名乗る幽霊がぼわっと現れ、マシアスギリの話し相手を務めます。どこまでが本当でどこからが幻想か分からない世界。リーボーは200年前にこの島に生きていた王子様で、イギリスに留学してあっさり死んでしまいます。その後魂だけ帰ってきて今はマシアスギリの話し相手というわけです。ギリは様々な不安をリーボーに訴えますが、最後の決定的な答えは与えません。リーボーという幽霊はマシアスギリの投影に過ぎず、リーボーの返す答えは必ずマシアスギリの知っていることか、漠然とそうだろうなと思っていることかのどちらかです。ギリが知らないことを教えることはできません。ギリが自分で決心がついていないことについて、行動を示唆することもできません。最後は自分で決めなくてはいけません。

離れ小島からやってきた神がかりの若い女性がギリの秘書のようになりますが、実は彼女は神秘の島の長老たちから遣わされたスパイで、ギリが政敵を暗殺した証拠を探しに官邸に入り込んできています。大統領官邸内部はギリの好みに合わせて純和風。畳の裏に白人二人組との間で結ばれた暗殺と報酬に関する契約書が隠されているのを見つけます。その日に限ってギリは愛人の部屋で深い眠りに落ちていて、スパイが自室の畳の下を探ることを予防できなかったのです。

マシアスギリは現実政治の最高権力者ですが、国の精神的な支配者はスパイの女性がやってきた神秘の島の長老たちです。長老たちは暗殺の動かぬ証拠を手に入れて、マシアスギリを権力として認定しないと結論します。暗殺を請け負った白人二人組も『薔薇の名前』と同じ方法でやったと証言してしまいます。結果、政務は滞り、マシアスギリは権力者としての実質的な権能を行使することができません。彼は密かに一般市民に身をやつし、生まれ故郷の祭礼を見に行きます。そして最後は自家用機に乗り込んで、パイロットの隙を見て飛び降り、地上にぶつかって死んでしまいます。

自ら命を絶つという、実に壮絶な物語の筈なのに、その死はとても爽やかで、読み手はギリに感情移入するものの、あー楽になれてよかったね。綺麗に死ねてよかったね。という不思議な感想を抱きます。マシアスギリという男は半分日本人みたいな人生を送っていたものの、その魂は自分の故郷の島々を深く愛していて、命を失ったこの後は鳥になって永遠に島の周りを飛び続けるのが定めです。

権力を持つ故に秘密を抱え孤独を生きたマシアスギリはフィリピンで出会った愛人からは深い愛を受けていて、神秘の島からやってきたスパイの女性からも愛されます。やはり男は愛されなければ絵になりません。家でブログをこつこつ書いているようではいけません(私のこと)。

『マシアスギリの失脚』は間違いなくアップダイクの『クーデタ』とけっこう似ていますが、最大の違いはマシアスギリが最後に自らの命を絶つのに対して、『クーデタ』の主人公はフランスに亡命して生きる決心をすることではないかと思います。生きるか死ぬかでは随分と違います。ここで潔い死に方を選ぶことができるのは東洋的思想のおかげかも知れません。仏教では究極には生きていても死んでいても同じです。世界のエネルギーの総和に変化はありませんので、死んでも私は存在するし、生きている私は何らかの幻影にすぎません。ギリシャ哲学でもこの世界はイデアの幻影だと言っているくらいですから世界共通してこの世は幻想だと思っていいのかも知れません。本当のところは私にも分かりません。

物語が太平洋のきれいな海と島で展開しますので何度読んでも気持ちよく、最後に空を飛んで死ぬこともなんだかきれいなことのように思えてしまいますが、決してマネをしてはいけません。マシアスギリの最後の選択が正しいと思えるかどうかはそれぞれの読者次第だと思います。

関連記事
アップダイク『クーデタ』の孤独のダンディズム

アップダイク『クーデタ』の孤独のダンディズム

アフリカのどこぞの国。旧フランスの植民地だった地域、即ちフレンチアフリカのいずこかの国の独裁者が主人公。アルジェリア戦争の時に脱出し、アメリカの大学に留学し、恋をして相手のアメリカ人の女性を奥さんとして故郷に連れて帰ってきます。その後出世し、父親のように慕い助けをうけていた前の独裁者の首を民衆の前で自らの手で討ち、誰が本当の権力者なのかを人々に分からせようとします。自らの手を敢えて汚すところに男同士の愛があり、そうまでしなくては自分の権力は正しいものだと主張できない心の弱さがあり、討たれる側もそうでもしなければ収まるまいと思って討たれていきます。討たれたくはないけれど、討つ側の心情や事情はよく分かるといった感じだと思います。

物語は主人公のエルレーが独裁者として国内を仕切る様子と彼のアメリカでの青春時代が交互に描かれます。彼がアメリカで大学生をしていたころの思い出はきらきらしています。時代的にもサイモンアンドガーファンクルとかカーペンターズとかが似合いそうです。ビートルズほど垢抜けていないところも更にきらきら感を増しているように思えます。森田童子の歌だって似合いそうなくらいに繊細で不安定な青春です。青春とはもしかすると繊細で不安定であるが故にきらきらしているのかも知れません。アップダイクはアメリカの作家ですから、アメリカ人読者の多くは(世代的に合えば)自分の青春を思い出すに違いないのです。彼のアメリカでのニックネームはハッピーで、国へ連れて帰って来たアメリカ人の奥さんはキャンディーです。一緒に砂漠の洞窟へ行って「ハッピーはキャンディーを愛している」とか落書きします。赤面もののいい青春です。 

しかし時は流れ、気づくとエルレーはムスリムの習慣に基づいて奥さんを四人抱えるようになっています。エルレー本人は国内各地を旅して歩きます。始皇帝みたいな感じです。旅先でいろいろなことを思い出し、考えたりしています。そこには他の誰かが入り込む余地はありません。父親代わりのおじさんの首も討ってしまったので、孤独を分け合う人もいません。周囲の人はイエスマンか怠け者です。エルレーは身分を隠して国情を見て歩きます。主人公はアメリカが大好きです。でも声に出してアメリカが好きだとは言いません。しかし、アメリカみたいな都市の建設を計画したりして、自分の国をアメリカみたいにしたいと思っている様子です。ただし、そもそも独裁者がいる時点でアメリカの自由と民主主義とは真逆を行っていると本人はよく分かっています。多分、本当は自分の国をアメリカみたいにする必要もないということも分かっています。でも心はすぐにアメリカへ行ってしまいます。

そのような旅をしている間に首都では無血クーデタが起き、彼はいきなり失脚します。首都へ帰る車にすらことをかき、物売りの姿で首都になんとか帰ってきます。四人の奥さんのうち三人までは彼を拒否します。アメリカから連れて帰った奥さんにも新しい恋人ができています。人間堕ちればそんいなものかも知れません。しかし、クーデタの首謀者は彼の命までは取りません。恩給の支給を認め、残った一人の奥さんと子どもたちがフランスで亡命生活を送れるように取り計らいます。ぎりぎりのところで人情が絡むところが何とも言えずいい感じです。そもそも新しい独裁者はエルレーに引き上げてもらった過去があるので、それに対する恩返しで生活を保障するということになると、恩をあだで返したことになるのかきちんと恩返ししたことになるのよく分からなくなってきます。しかしそのよく分からない感が小説では面白いです。椅子取りゲームと人情とは別の問題ということなのかも知れません。

エルレーがフランスで回顧録みたいなのを書こうと思っているところで、これぞ本人の生きようとしている証だみたいな感じで物語は終わります。この物語では周囲に大勢の部下と女性がいるにもかかわらずエルレーが孤独であることがよく分かります。人間誰もが孤独です。大学の教師をしていても孤独です。自我の境界線がはっきりしない地縁血縁から切り離された近代人は誰もが孤独を引き受けざるを得ないようになっています。ですので誰が読んでもこの作品には何かしら共感なり感情移入ができるのではないかと思います。私は男性ですので女性が読めば少し違う感想になるかも知れないとも思います。そこはちょっと分かりません。あるいは孤独を引き受けてついそこに耽溺してしまうのが男なのかも知れません。ダンディズムを気取りたければ孤独はつきもののような気もします。

このような孤独はきっと地位や財産とは関係がありません。心の中で生成され、周囲の人や物に投影されるという心理のメカニズムに地位と財産は関係ないからです。でもどちらかと言えば地位や財産があって孤独な方が絵になります。地位も財産もなくて孤独だったら大変です。全然違うお話になってしまいます。社会主義革命と連帯の話にしなければ物語は終わりません。話が大げさになってしまってカムイ伝みたいにいつまでも終わらなくなってしまいます。「私のようにコミュニケーションに自信がなくて、うまく連帯できない場合はどうすればいいんですか?」という疑問に社会主義革命は返答を用意してくれません。反革命分子にされてしまいます。

ちょっと話が脱線しましたが、更にもうちょっと脱線するとこのお話は池澤夏樹さんの『マシアスギリの失脚』と大体同じ感じです。池澤夏樹さんはクーデタを読んでマシアスギリの失脚を書いたに違いありません。『マシアスギリの失脚』は私が特別好きな小説です。多分、戦後に書かれた小説で一番好きです。戦前に書かれた小説では『春琴抄』が一番好きですが、どっちか一つだけ選べと言われればマシアスギリを選びますから、一番好きな近代日本の小説がマシアスギリということになると思います。マシアスギリについてはまた別の機会を見て投稿したいと思います。

関連記事
池澤夏樹『マシアスギリの失脚』の孤独のダンディズム