遠藤周作と満州

遠藤周作は世界中の様々なところに出かけて取材し、作品を書いた作家です。フランスへの留学経験があるため、フランスのことはよく出てきますが、もう一つ、満州のことも彼はよく書いています。

 遠藤は少年期を大連で暮らしており、両親の離婚に伴って母の実家のある神戸へと転居しました。そのためか、遠藤の描く大連の思い出は寂しさや悲しみに満ちているように感じられます。『海と毒薬』、『深い河』で描かれる登場人物にとっての満州はどれも悲劇的、または寂寥感にあふれており、彼がかの地でどのように心象風景を形成していったかを知る手がかりになっていると言うこともできるでしょう。

 遠藤周作は犬が好きなことでも知られている人ですが、満州時代に満州犬を可愛がっていたことと、母と帰国する時に犬とも別れなければならなかったことが、犬好きとも大きく関係していることでしょう。

 大連で出会った中国人には親愛の情を込めた描き方をしており、満州時代に自宅に来ていたボーイの少年との友情が感じられる他、日本人に売り物を徹底的に値切られる売り子への同情も読み取ることができます。

 遠藤よりも少し年上の作家たち、安倍公房や三島由紀夫が小説作品に自身の主張を刻み込んで行ったのに対し、遠藤の世代、いわゆる第三の新人と呼ばれる人たちの作品には主張よりも心の旅を書くことに関心が強かったようにも思えます。或いは心と主張が不可分になっていたのかも知れません。

 満州は日本の侵略によって作られた植民地国家と言ってよいですが、それだけに、同時代を生きた人たちの中では満州と関わりがあったという人も大勢いました。そういう時代の人の書いた満州に関することを読み解いていくことも、日本の近現代史を理解する上での有効な手助けになるのではないかと思います。

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遠藤周作『アデンまで』

安倍公房と満州

安倍公房と満州

 生前、ノーベル文学賞を獲ると言われ続けた作家の安倍公房は、少年期を満州で送っています。

 彼の作品の一つである『けものたちは故郷をめざす』は、終戦後も満州で暮らしていた日本人の若者が冬の満州を懸命にわたり抜いて日本へ帰るという内容のものです。この作品はあくまでも創作であって、公房個人の経験を書いたものではないとのことなのですが、実際に満州で暮らしたことのある人間だけに書けるであろう迫力に満ちています。

 どの点に於いて迫力に満ちているのかと言うと、寒さに於いてです。

 本州の温暖な気候で育った私には想像に限界がありますが、手も耳もちぎれんばかりの寒さの中、時には徒歩で、時には馬車で真冬の満州を南へ南へと進む様子を読むだけで、じわっじわっと体が冷えていくほどの感覚になっていきます。

 公房の作品に満州のことが書かれることはほぼありません。『砂の女』や『他人の顔』などの彼の著名な作品でも、満州のことを伺わせることはないです。詳細な研究をすれば彼にしか分からない微妙な表現が含まれる可能性はありますが、ざっと読むだけで気づくことはできないでしょう。

 公房の作品には主張があり、作品はそのために書かれるので、個人的な経験というものは敢えて排除しているところがあるように私には感じられます。ただ、それでも全力でおもしろい作品が多いですから、今後も読まれ続けることは間違いのないことだと思います。

 医学や化学の知識を使用して人間と社会を描こうとした公房の作品の中で、実際に暮らしたことのある満州を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』は少々異色な作風と言ってもよいのです。その作品から満州での彼の経験を知ることは難しいと言われていますが、公房の歴史観や中国観を知る上では大いに読むべき作品のように思います。

遠藤周作『アデンまで』

遠藤周作さんの初めて世に出た小説が『アデンまで』です。

フランスに留学していた主人公の日本人の男性であるチバが、肺を患って帰国することになり、

交際していたフランス人女性と別れ、東洋に向かう船に乗り込みます。

アフリカ系住民の女性が病に犯されたまま乗船しており、チバが看病しますが、

女性は亡くなってしまうというのがあらすじです。

 

文体はまだ若々しく、ある意味では青さも残っており、晩年の熟達した感じは

まだ見られません。しかし、『沈黙』や『深い河』を熟読した私にとっては、

新鮮だなあとも感じることができました。

 

この作品の中で主人公は白人の恋人と逢瀬を重ねるものの、白人が「美しい」のに

対して黄色人種である自分は「醜い」という劣等感を膨らませます。

戦争に勝った彼らが「正義」を代表するのに対し、戦争に負けた日本人は「悪」を

代表していることにも劣等感、怒り、憎悪を持ち、それが膨らんでいきます。

 

悔しさと怒りをぶつけるようにして書かれたこの作品には、まだ、遠藤周作さんの

生涯のモチーフであるイエスキリストは登場してきません。

 

とはいえ、まさしく遠藤先生の創作の原点にここにあるのかとつくづく

思わずにはいられません。

 

21世紀の今は当時とは状況がかなり変化し、人種や民族を理由にした

差別は忌むべきものだとの共通認識が持たれていると私は信じたいですが、

一方で、やはり根深いものがあるからこそ、今も某はレイシストだ!的な

批判が見られるのかも知れません。

 

温故知新と言いますが、60年前の古い短編小説を読むことで、現代の

ことを考えるきっかけを得たように思います。