ギリシャ神話のカロンとイシグロカズオ

ギリシャ神話にカロンという神様と人間の間みたいな男がいる。彼はコイン1枚であの世への渡し舟を出すことを請け負っており、ある人物のあの世に行って帰って来るためにコイン2枚を口に含んで塔から飛び降り自ら命を絶ち、しかも帰って来るためのもう1枚のコインも持っていたので見事生還するというエピソードもある。生きている者は追い払われあの世への舟を出してもらえない一方、古代ギリシャではカロンにきちんとあの世へ送ってもらうために死者を弔う際に船賃としてコイン1枚を副葬する習慣もあったそうだ。どうしてもあの世へ行かせろという強情者も出てくるため、そういった時はカロンはかなり難しい立場に追い込まれることもあるという。

さて、三田文学でイシグロカズオに関する特集が組まれているのを読んだのだが、そこでニール・アディスンという人のイシグロカズオ研究の論文が掲載されており、このカロンについても触れられていた。イシグロカズオの作品にカロンが出てくるというわけである。イシグロカズオの『忘れられた巨人』では、愛し合う老夫婦が共にあの世(と思しき場所)へ渡る舟に乗りたいと船頭に頼み込む。仮にこの船頭がカロンだとすれば、通常人間は同時に死なない(夫婦でも先にどちらかが死ぬのが通常だ)ため、一度の船出には1人しか乗り込むことができない。しかし、夫婦の愛情が強く結ばれていると船頭が確信を得た場合にのみ、2人で一緒に舟に乗ることができるのである。船頭は夫婦を別々に「面接」し、彼は当該の夫婦が確かに真実の愛によって結ばれていると確信し、2人同時の乗船を認めるのである。

さて、私は『忘れられた巨人』での船頭があの世へのおくりびとだということについては理解していたが、カロンだとは気づかなかった。単にギリシャ神話に対する知識が浅かったので、知らなかったにすぎないのだが、ニール・アディスンという人の論文を読んで、よくよく考えてみた結果、愛し合う夫婦が一緒にあの世へ向かう死者の旅路を進むとすれば、それは心中しか考えられない。イシグロカズオは『忘れられた巨人』で、老夫婦が心中の決心をする心の動きを描いたのだと言うことができるだろう。

だが、様々な解釈があり得るとは思うが、妻が舟に乗り込みいざいよいよ出発という段になって夫は舟に乗り込まず、そのままどこへともなく立ち去ってしまう。仮に2人が心中を決意し合った仲だとすればぎりぎりのところで相手でだけを死に追い込み、夫は生き延びるという裏切り行為をしたと理解することもできるだろう。或いは無理心中をして、自分だけ死にきれないというパターンなのかも知れない。妻は何十年も前に不義を行ったことがほんの短期間あり、中世以前イギリスというまだアングロサクソン民族が成立する前の独特な神話的な作用が効果を持つという設定になっているから、彼らはその苦しい記憶を忘れていることができたのだが、その効果が失われた途端に夫はそれを思い出し、妻との心中という選択肢を放棄したとも言えるかも知れない。この場合、人それぞれの価値観にもよるが、不義に対する不寛容な夫を責めることもできるかも知れないし、不義に対する最終局面での復讐も尤もだと考えることもできるかも知れない。愛する人が不義をするというのは人生に絶望したくなるほどの苦しみに違いないので他人がどうこう言うことではないが、小説や文芸を読むのは「自分がその立場だったとすれば」と考える材料にすることが醍醐味だとも言えるため、自分だったらどうだろうと考えてみるのも自己理解につながり人生をより豊かにすることができるかも知れない。尤も、現代人の考えから行けば、不義は赦しがたいが心中しようと言って騙して相手だけ死なせるというのもかなりの大である。離婚するのが正解だということになるかも知れない。



【漢文】孔子の大同と小康と空想的社会主義的ユートピア

春秋戦国時代の春秋と戦国の一線を画す、後の東洋世界に巨大な影響力を与えた孔子は、魯国にとどまり、世を嘆いたそうだ。どのように嘆いたかというと、過去、それもうんとうんと過去の五皇の時代は麗しい理想的な世界だった。どれくらい理想的だったかというと、能力のある者は選ばれて指導者になるが、専制などとは全く違う無視無欲の指導者であり、人々は平和に幸福に暮らしている。どれくらい幸福かというと病気の人や社会不適合な人もみんな救済されていて、困っている人がそもそも存在しない。困っている人がいたら理想的なリーダーがきちんと処理してくれるので安心してみんなが暮らすことができる。失業者はもちろんいないし、他人の家に泥棒に入るようなけしからん者もいないので、家の入口に鍵をかける必要もないというくらいに平和で理想的な世界である。これを大同というらしい。

検証不可能なくらいに昔のことを取り上げて理想的な世界だったといいきってしまうあたりに復古趣味的な孔子個人の傾向を見ることもできなくもないのだが、トマスモアの空想的社会主義を連想させる、かつてあったはずのユートピアのイメージが孔子の念頭にあったに違いない。

大同と小康というものは有名な子曰くで始まる問答のある一節で、『礼記』に書かれてあるのだが、ちょっと話が飛び飛びな感じになっていて、孔子はまず大同について述べた後、現代(当時)について語りだす。その現代というのは信賞必罰で人は私利私欲で動いているが、まあそれなりに秩序は保たれているということになっていて、辛辣に魯国の王を批判するような内容ではないものの、大同にははるかに及ばないので、孔子の舌禍みたいな部分とも理解されている。孔子は一言多い、言わなくてもいいことを、敢えて不用意に言ってしまう性格だったようだ。

で、現代を軽く憂いた後で周の時代は良かったと、今よりは良かったが大同よりは劣るということで、その状態を小康と呼んだ。話が神話的古代ぐらい昔から入って現代に入って中間について話すという流れなので、ちょっと飛び飛びになっており、よく読めば「めっちゃ昔は空想的社会主義的なユートピア」で、「ある程度昔は、そこそこ良くて」「今は普通」ということを言いたいのだということが分かった。なぜ時間軸的に沿って言わないのか、しかも時代が下るにつれてだんだん世も末感が強くなっていると言いたいわけだから、時間軸に沿って話した方が分かりやすいのではないか、なぜそうしないのか、本当に孔子は頭がいいのだろうか。というような疑問を持ちつつ読んだ。

今、漢文を教えてくていれる人がきっちり頭の中で体系化されているので、この漢文も難しいことは難しいのだが、よく理解できた。教えてくれる人も孔子は時々ちょっと問題あると言っていたので、私の疑問も的外れというわけでもないのかも知れない。現代人の我々の価値観から言えば、この一節では理想的な世界では全ての男の仕事があるので、女は家から出なくていいということが書かれてあるため、男尊女卑が孔子の根底にあったということになり、批判されることもあるそうだ。

いずれにせよ、興味深いのはトマスモアの空想的社会主義と孔子の大同の世界がかなり似通っているという部分で、孔子がある種のコスモポリタン的な発想を持っている人だということが分かったのは収穫だった。漢文の世界は奥深いぜ。



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【漢文】易経とは何か

縄田雄二『一八二七年の幻燈文学』と映画

縄田雄二氏の『一八二七年の幻燈文学‐申緯、ゲーテ、馬琴』という論文が三田文学に掲載されているのを読んで、とてもおもしろかったので、ここで紹介したい。当該の論文ではまず朝鮮半島の文人申緯が一八二七年に書いたとされる漢文の詩を取り上げ、走馬燈を見るような、燈光に関する言及があることを指摘し、続いてゲーテの『ファウスト』の第二部第三幕を独立させて『ヘレネ 古典的ロマン的幻燈劇』としてやはり一八二七年に出版された作品に目をつけている。論文では鴎外による日本語訳を使用し、「夜の生んだ醜い物を洞穴へ入れる」という表現があることに着目している。このような表現は舞台上でメフィストフェレスが幻影的にたち現れたり、或いはいずこへかと消え去ったりする際に光学機会を用いた影絵のようなものが舞台上の壁なりスクリーンなりに映し出されることが念頭にあるのではないかとの当たりをつけている。続いて同時代の馬琴の『南総里見八犬伝』が幻惑的、または幻術的な表現がなされているのも、実はゲーテのように光学機会を使った幻影装置を見たからではないかとの見立てがなされている。即ち19世紀前半に少なくとも世界の三人の表現者が光学機会を用いた幻燈装置を知っていた可能性を指摘している。

縄田氏は文化史家フリードリッヒ・キットラーに言及し

(キットラーは)ヨーロッパにおいて幻燈の地位をロマン派文学が襲い、幻燈が見せたような連続映像を文字により見せるようになったっ経緯を叙しているいる。キットラーは、映画が登場したときにヨーロッパと北アメリカにおいて観客がすみやかに動画の文法をのみこんだのは、こうした文学が先に行われていたからと推測し、他文化圏との違いを述べる。補正したい。東アジアも同様であった、と

としている(『三田文学』2018年夏季号194‐195ページ)。

とてもおもしろいと思った。馬琴が映画の原型になる幻燈装置を見たことがあったとすれば、それはとてもおもしろいことだし、ヨーロッパで可能であったことなら、日本でも充分に可能なことであったはずだということを思い出させてくれる。江戸時代の社会ががヨーロッパの事情に全く疎かったという解釈は古い物になっていて、長崎でのオランダ貿易を通じて世界中のものが日本に流入していたことはよく指摘されていることだ。江戸時代は総じて貿易赤字の傾向があったということだから、当時の人々は輸入品を生活の中に取り入れていろいろ楽しんでいたはずだ。馬琴と同時代人の葛飾北斎がヨーロッパから輸入された絵具を試しに使った形跡があることが指摘されているものを以前読んだことがあるし、娘のお栄の描いた夜の街の陰影がヨーロッパの絵画に似ているという指摘もある。というか、浮世絵の美術館に行って実物を見れば素人の私でも一発で分かる。ゴッホは日本の浮世絵に強く影響され激しい憧れを抱いたが、日本とヨーロッパは19世紀の前半、既に互いに影響し合う関係にあったのだと捉えれば、とてもおもしろい新しい歴史と世界のイメージが頭の中で結ばれてくるように感じられる。江戸にヨーロッパ最新の光学幻燈装置が持ち込まれ、それを馬琴が見たとして、または朝鮮の文化人が見たとして全く不思議でも不都合でもない。

武田鉄也が坂本龍馬の役をやっていた『Ronin』という映画の冒頭では、長崎で竜馬が初期的な映画を観て驚く場面がある。で、何かの解説でみたのだが、一般にリュミエール兄弟の作品が1895年に試写会をしたのが映画の始まりとされているので、1860年代が舞台の『Ronin』では、まだ映画は存在せず、竜馬が映画を観ることはあり得ないが、製作者の映画を愛する思いのようなものがそこには込められているのではないかと説明されていた。

しかし、幻燈装置が竜馬よりもっと早い時代、馬琴の時代に輸入されていて、それを観た人々が存在したとすれば、竜馬が幻燈装置という映画の萌芽に触れる機会があったことは充分に考えられる。『Ronin』という映画は図らずも充分にあり得た可能性に触れていたのだ。



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桜井晴也『くだけちるかも知れないと思った音』の美しさ

桜井晴也氏の『くだけちるかも知れない音』を三田文学で読んだ。とても美しい言葉の羅列に私は感動し、感嘆し、作者を称賛したいという願望が生まれ、今これを書いている。

この作品のいいところは美しいだけの作品でしかないところにあると私には思える。内容はないと言ってもいいかも知れないほど抽象的で曖昧で一文が故意にやたらと長く書かれている。もちろんそれでオーケーで、私はこういう作品に以前から出会いたいと思っていたし、過去にたまたま出会った時はむさぼるようにして繰り返し読んだ。多分、私は美しいだけの小説が好きで、落ちとか展開とか事件とかに興味がないのだ。

この作品が美しいと思えるのも単に作者のイリュージョンに釣られただけなのかも知れない。戦争、死体、処刑台、墓地、監獄などの不吉な文言と星、月、動物、農場、銀の婚約指輪、蝋燭などの詩的な美しい言葉が交互に羅列されているため、美しい言葉がやたらと美しく感じられ、不吉な文言も必要以上に不吉に感じられただけなのかも知れない。深く心を傷つけるという趣旨の言葉が何度か出てくるが、誰がいつどこで何故、どのように傷つけるかなどについては描かれない。しかし、だからこの作品は素敵なのだ。深く心を傷つけるという言葉そのものが読み手の心に突き刺さり、果たして私は過去にどれくらいの人の心を傷つけただろうか、そして私はどれほど傷つけられただろうかと反芻せざるを得なくなり、その先は個々の読み手に委ねられる。

小説の主人公の「わたし」は理由が分からないまま監獄に拘束され、農場で働かされ、看守に監視され、物語の終盤で刑の執行を宣告される。意味不明に刑の執行を言い渡されるというあたりはカフカの『城』に似ているが、『城』の主人公が周囲と激しい軋轢を起こし、最後に死を受け入れて行くのに対し、「わたし」は一切の軋轢を起こさない。しずしずと言われるがままに運命に従っていく。しかも農場主は親切で、看守は愛情深い紳士であるため読者は誰かを呪ったり憎んだりすることができない。読み手には登場する全ての人を愛する以外の手段が残されておらず、いい意味で作品に降伏するしかない。私は降伏した。なぜ「わたし」は起訴もされず裁判も受けていないにもかかわらず心優しい看守から翌日の執行を言い渡されなければならないのか、刑の執行を待つ者が強制労働させられることは妥当なのかという法理法論を考えることはあらゆる観点から意味がない。或いは誰かの心を深く傷つけたという罪が刑の執行の理由になるかも知れず、もしそうだとすればこの世を生きる我々は全て明白な罪びとだとも言えるのかも知れない。

戦争の描写は銃の撃ちあいについて描かれ、広大な農場は東ヨーロッパの平原を連想させる。私はまず第一次世界大戦をイメージしたが、途中から戦闘機が登場し、私は第二次世界大戦に頭を切り替えた。そして最後は継続的なミサイルの発射が描かれ、私はギリギリ第二次世界大戦のイメージに踏みとどまったが、作者はその辺りのイメージはそれぞれの読者の好きにしてくれと考えたのだと思う。

村上春樹氏の作風に似ていると言えば似ているかも知れない。ハルキ作品も美しい言葉の長い長い羅列でしかないと言えるし、ハルキストはそれが好きで読んでいるのだ。池澤夏樹氏の作品の雰囲気にも似ているかも知れない。私は今、頭に思い浮かぶ作家を深く考えずに述べているだけなので、多分、本当に似ているのだろう。

私はこの作品を一読して愛してしまったので、この後何度も再読するだろうし、多分自宅で朗読もするだろう。教材に使うかも知れないが、それはまだ決めていない。


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目取真俊『神うなぎ』の沖縄戦に関する相克するロジック
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目取真俊『神うなぎ』の沖縄戦に関する相克するロジック

目取真俊氏の『神うなぎ』という小説が三田文学に掲載されているのを読んだ。沖縄戦を主題にし、戦火の中、沖縄住民の生活を守ろうとした人物と日本軍との相克が描かれている。沖縄出身の主人公の父親は沖縄戦の最中、アメリカ軍の投降の呼びかけに対して、仲間の住民たちを説得して集団で投降する。主人公の父親はハワイに働きに行っていたことがあるため、アメリカの国柄をそれなりに知っており、本土から沖縄へやってきた日本軍将校からは「アメリカ軍に捕まると男は殺され女は犯される」と教えられてはいたものの、アメリカ軍はそのようなことはしないと判断し、投降することに決めたのである。

アメリカ軍に投降した後、住民は一時的にこれからどうなるのだろうと不安を感じるが、意外なことに「家に帰れ」と言われるので、あっけにとられた風に人々は帰宅し以前と同じ生活を営もうとする。しかし、昼間はアメリカ軍がいるので普通に暮らせるのだが、夜になると日本軍がやってくる。戦局的に不利な日本軍将兵は森の中に隠れており、夜になると食料を求めて住民の家屋へやってくるのだ。沖縄県民を守るために派遣されてきたはずの日本軍が、逆に沖縄県民に食料を事実上略奪するという矛盾とアイロニーが描かれている。

主人公の父親は住民の生活を守るためにアメリカ軍に協力し、アメリカ軍に対する住民側の窓口のような役割を果たすのだが、日本軍将校の目からは利敵行為に映り、ある時、日本軍に捉えられて殺害されてしまう。主人公はその後成長し、季節労働者として東京に働きに行くのだが、たまたま行った居酒屋で父を殺害したと思しき元日本軍将校を見かける。剣術の腕前があり、剣道を教えているというその老人は元日本軍将校らしく精悍な雰囲気を持ち、客や店の人とのやりとりの様子から信頼されていることも窺い知ることができる。主人公は父の死についてその老人に問い質したいと考え、「今さら…」とも思うのだが、やはり抑えきれずある夜、老人の帰宅の時を狙い、声をかける。驚いたことに老人は自分が殺害した主人公の父親のことを明確に記憶しており「君のお父さんは敵のスパイだったんだよ」と言い切る。スパイを野放しにすることは部下の生死にかかわる、従ってスパイを殺したことは適切な判断であったと的確なロジックで主人公を圧倒する。

もちろん主人公にもロジックはある。まず第一に自分の父親が殺害されているのである。問い質す権利があるのは当然だ。それに日本軍が沖縄県民を守ることができなかったから、住民はアメリカ軍に投降したのである。スパイの処断など、戦争に敗けた軍人の言い訳に過ぎない。沖縄県民は多いに苦しんだし、その主たる理由は日本軍が無力であった上に沖縄県民を道連れにしようとしたからだ。私は沖縄の人からいろいろと話を聞くことに努力をした時期があったが、沖縄県の人の心情は沖縄戦に対して深い複雑な感情を持っていることはよく分かった。また、この作品で示されるロジックも明快だ。日本軍が住民を守れないのであれば、住民は自らを守るためにアメリカ軍に投降する以外の選択肢はあり得ない。軍が国民を守るためにあるとすれば、その職責を全うできない軍人はそれを恥じなければならない。

私が感じたのは主人公の父親を殺害した元日本軍将校のロジックと、日本軍将校に父が殺害された主人公のロジックがどちらも完璧だということにこの問題の複雑さが潜んでいるということであり、目取真俊氏はそこを読者に問いかけたのではないかということだった。主人公の父がアメリカ軍に協力する姿は日本軍から見ればまごうことなき利敵行為であり、それは戦時下であれば死に値するとして矛盾はない。将校が部下に対して責任を負うことは正しいことで、部下の命を守るために利敵行為を行うスパイを殺すことは、ロジックとして一貫している。一方で、住民を守るためにアメリカ軍に協力することは、これもまた全く正しい行為だと言える。日本軍が守れないのなら、そうするしかないではないか。住民の命と生活を守るためにはそうするしかないではないか。一貫していて矛盾がない。

太平洋戦争についての議論を考えるとき、我々が袋小路に入り込んでしまうのは、それぞれがそれぞれの立場で一貫して完成したロジックを持っているからではないかと私には思えるときがある。しかも戦後70年以上を経て、それぞれのロジックには磨きがかけられ隙のないものに進化している。互いに相手の立論を崩そうとあの手この手を繰り出すが、双方の立論があまりに立派にできあがってしまっているために互いに崩し切れず、議論は平行線を辿るのだ。

立論がいかに立派なものであろうと、戦争は人が死ぬ。悲劇がある。戦禍で犠牲になった人にとってロジックは関係ない。どれほど素晴らしい立論を示されても、現実に苦しんだ人にとってそれは関係がない。戦争は言うまでもないがしない方がいいに決まっている。

さて、太平洋戦争を直接経験した人は少ない。ましてや戦争中に将校なり政治家なり当事者の立場だった人はほとんど生きていない。この『神うなぎ』という小説でも、戦争が終わってから40年後ぐらいに老人と主人公が対決するような設定になっている。もう少し前までは戦争は現代人の物語だったが、今はもうそういうわけにもいかないくらい戦争は遠い記憶になろうとしている。ただ、目取真俊氏がそれでも今、この時代に『神うなぎ』を書いたのには、沖縄にとって戦争は風化させるわけにはいかない現代人の問題だということを問いかけたかったのではないだろうか。


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スコセッシ監督『タクシードライバー』の運命の分かれ道

マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』では、ニューヨークの若きタクシー運転手をロバート・デ・ニーロが演じている。デニーロは大統領選挙の候補者の事務所で働く女性をナンパし、デートに連れ出すことに成功するが、結局のところはフラれてしまい、自分がもてないことを世の中のせいにする、よくある若者のように銃を購入し、それを使用するチャンスを伺おうとする。そして一旦は彼をふった女性の勤務先の大統領選挙候補者の演説場所まで出かけるが、政治家のボディガードに目をつけられてしまい慌ててその場を逃走する。

このシークエンスと並行しつつ、デニーロと12歳の少女との出会いが進行していく。12歳の少女の役はジョディフォスターが演じていて、びっくりするくらいかわいいのだが、映画では家出した彼女は体を売ることで生計を立てており、彼女を買いたい場合は仲介人を通さなくてはならない。仲介人とそのボス、そして彼女の生活の場兼サービスの提供場であるホテルの経営者が絡んでおり、要するに彼女はそのような悪い奴らに食い物にされているという構図になる。

政治家の暗殺を諦めたデニーロはジョディフォスターを救出することに目標を変更し、仲介人とそのボス、そしてホテルの経営者を撃ち殺し、ジョディフォスターはめでたく実家へ帰ることになる。彼女の両親からはデニーロに感謝の手紙が届き、彼は3人も殺害しているにもかかわらず、少女を救出するという英雄的な動機による行動であることから免責され、以前と同様にタクシードライバーの職を続けるという流れになっている。

さて、ローティーンの少女を利用した管理売春はゆるされる行為ではない。まず管理売春がゆるされないし、ローティーンの少女にそれをやらせているということもゆるされない。当然、そんな奴らは罰せられなければならないと言えるだろう。だがここで、敢えて比較衡量してみたいのだが、果たしてローティーンの少女の管理売春を終わらせるという行為と3人の男に対する裁判なしのリンチ死刑はつり合いのとれるものだろうかということだ。感情的なことを言えば、家出娘を食い物にする3人の男たちが殺されても全く心は痛まない。よくやったデニーロということになるし、そういう前提で映画も作られている。しかし、ちょっと冷静になった場合、本当に3人も殺しておいて無罪放免でいいのかという疑問が私には残る。もちろん、映画に法理法論を持ち込んでも仕方がないので、飽くまでも考える材料としてではあるが。

あと疑問に残るのは、デニーロは闇の組織の人間を3人殺しているのだから、組織から報復を受けないのだろうかという疑問も私の内面では何度も浮上した。ニューヨークで以前の通りに生活していたら、殺されるのではないだろうか。

ついでに言うと、デニーロは3人殺した後にジョディフォスターの部屋で警察に発見されるのだが、破壊力の強いマグナムみたいなのを持ってローティーンの女の子の部屋にいる男であれば、問答無用で現場で警官に撃ち殺されるのではないだろうかという疑問も残るのである。

もちろん映画なので、そのような疑問を持つことにもしかするとあまり意味はないのかも知れない。だって映画なんだから。ではこの映画の一番の考えどころは何かと言えば、女性にフラれて世の中に恨みを持った男が銃を購入した後の、銃の使い道である。デニーロが最初に考えたことは政治家の暗殺だった。幸いなことにボディガードに目をつけられて現場を逃げ去るということで彼はそのような明白な犯罪を犯さずに済んだのである。もしボディガードがちょっと抜けているような場合であれば、彼はその犯行を成し遂げただろうし、その後は確実に逮捕されるかその場で撃ち殺されるかのどちらかになっていたはずである。繰り返しになるが彼は幸運にもその犯行に失敗し、次のターゲットとして選んだのがローティーンの少女を食い物にする悪いやつらで、デニーロは英雄になることができた。スコセッシ監督は禍福は糾える縄の如しというようなものを描きたかったのかも知れない。デニーロが犯罪者になるか英雄になるかは紙一重だったのである。突き詰めれば政治家のボディガードがたまたま優秀だったという一点にかかっていたとも言えるだろう。

ショーン・ペンの出ている『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画と『タクシー・ドライバー』が私にはダブって見える。ショーン・ペンの場合、空港の職員が優秀ではなかったので銃を持ったまま飛行機に乗り込み、そこで犯行を犯した彼は撃ち殺されてしまう。デニーロがショーン・ペンみたいな末路を迎える可能性もあったわけで、私には『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画は、『タクシー・ドライバー』のデニーロがもし途中で方向転換しなかったらどうなっていたかを描こうとしたのではないかという気がするのである。デニーロもショーン・ペンも人生が思うようにいかず世の中を恨んでいるという点で一致しているし、銃を手に入れて世の中に復讐してやろうと考えるところまでも一致している。しかし、ショーン・ペンの方は運悪く途中まで目論見通りに進んでしまったので撃ち殺され、デニーロは幸運にも最初から目論見通りにいかず、英雄になったというわけだ。教訓としては、人生にはいろいろなことがあるし、世の中を恨みたくなるようなこともあるかも知れないが、だからと言って他人を傷つけるようなことを考えたり、実行しようとするのはよした方がいいということになる。デニーロも運が悪ければどこかの段階で殺されていたかも知れないのだ。世のため人のため、真面目に誠実に生きていれば、きっといいことがあるはずだ。


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原民喜『夏の花』の筆舌に尽くしがたいものを書くということ

原民喜の『夏の花』は、終戦直前の広島で生活しており、爆心地から1.2キロほど離れた自宅で被爆している。『夏の花』によると、トイレに入っている時に爆発が起きたため、重傷を負わずに済んだのだという。

私は三度ほどこの作品を読んだことがあるが、何度読んでも実感を得ることができなかった。経験したことがないことは読んでも実感できないという面もあるだろうが、広島での被爆体験はそもそも、文字通り「筆舌に尽くしがたい」経験であるからこそ、何度書かれたものを読んでも実感を得ることができないのかも知れない。

たとえば作品の中には黒焦げになって顔や全身が腫れてしまっている人々が大勢登場する。しかし、黒焦げになって顔や全身が腫れてしまっている人の姿を私は想像することがどうしてもできず、読めば読むほど消化できず、もてあましてしまうのである。

だがある時、NHKの原子爆弾の経験者が書いた絵を紹介する番組を放送したものをみた時、「ああ、そういうことなのか」とある程度、原民喜が書こうとした風景をようやく想像することができるようになった。原民喜に書けなかったことを私がここで書けるわけがない。従って、原民喜と同じ表現になってしまうのだが、NHKの番組で紹介された絵には確かに黒焦げになって顔や全身が腫れている人の姿が描かれていた。

原民喜は超現実の絵を見ているようだとも書いていたが、確かに現実生活ではありえないような光景であったに違いない。『火垂の墓』や『この世界の片隅に』はまだ理解できる。爆弾が落ちてきて下いる人々が炎に追われるというのは想像できる。だが、原子爆弾はそういった一切の常識、人が日常生活で経験する常識、そこからの延長線上で逞しくすることのできる想像力の全てを超えているのだということなのだと考えることしかできない。今でも広島や長崎の原子爆弾をテーマにした作品を観ても、現実感をともなう表現に出会ったことがない。

原民喜はその後、三田文学で仕事もするようになるが、やがて鉄道自殺をしてしまう。被爆後は体調不良に悩んでいたといわれ、被爆の後遺症もあったのかも知れないのだが、あの光景を見た以上、普通に生きていく、日常を生きるということに耐えることはできなかったのかも知れない。三度ゆるすまじ原爆をとは思う。過ちは繰り返しませぬからという言葉の響きの重みも私は何度も心の中で繰り返し、どうにかしてその時の光景へ近づこうとする。だが、それは不可能だし、本能的には近づきたくない。ただ、それでも『夏の花』は読み継がれ、人類の記憶として残されなくてはならないということは自信を持って言うことができる。『夏の花』を記憶遺産に登録してもいいのではないだろうか。

谷崎潤一郎『飈風』のMの本懐

明治末ごろに三田文学に掲載されたこの『飈風』という作品は、発行禁止処分になり、現在読むことができるものも伏字の部分がそのままになっていて、復元されてはいない。ただ、個人的には伏字の部分は別に永遠に読めなくてもいいのではないかという気がする。

以下にその理由を述べる。日本官憲によるいわゆる検閲は政治的に問題があるものと、公序良俗を乱すと判断されるものが主としてその対象となった。政治的に問題があるものについて、たとえば不敬なことについて書かれてあるのであれば、それが発行禁止の処分を受けるというのは由々しきことである。必ず是正されなくてはならない。ただ、公序良俗を乱すものについては、多少ではあるがその限りとも言い難いと私は思っている。たとえば今でも映倫を通らなければならないように、ただ単に度が過ぎてエロいものの場合、発行禁止がさほど残念なこととは言い難しと思えるからだ。もちろん、〇〇はOKで〇〇はOKではないという線引きは実に難しく、言論の自由、表現の自由、思想の自由を至上のものとして重視する現代日本において、確かにエロいのは発禁でもいいんじゃね?という浅はかな考えは禁物かも知れないのだが、谷崎の『飈風』の場合、伏字の部分は、どうせ非常識にエロいことしか書いてないんだろうとしか思えず、だったら別にいいんじゃね?とついつい思ってしまうのである。

一応、検閲について確認しておくが、検閲には事前検閲と事後検閲があり、事前検閲の場合は問題の箇所を伏字にすれば販売させてもらえるが、事後検閲の場合は問題の箇所があれば回収されてしまい、永遠に人々の目に触れることはない。事前検閲なら伏字をした上で「発禁の書」という、なかなか悪くない売り文句も使えるので売り手にとってはいい商売のネタにもなり得るが、事後検閲はその書籍を完成させるためのあらゆる努力が無駄になるため、自然と忖度が生じ、表現物が出来上がる段階で権力のご機嫌を充分にとるような内容になっていかざるを得ないという側面を持つ。我々が一部伏字とは言え谷崎の『飈風』に触れることができるのは、事前検閲で問題の箇所のみ伏字にして世に出されたからである。ついでに言うと、伏字にされた著作物は読み手も「あ、伏字」だなと分かるので、検閲されたことに気づくことができるため、権力が介在していることを察知することができるが、事後検閲の場合は伏字のない著作物しか出回らないため、普通に生きていると検閲があることすら気づかない、何がどう検閲されているのか見当もつかないということにもなりかねない。検閲はその制度自体は非常に問題がある制度だが、事前検閲はより良心的であるということは言えるのではないかと思う。

さて、『飈風』では、主人公の真面目な絵描きが友達に誘われて遊郭へ行き、以後、遊郭遊びにはまってしまい、遊郭の女性に惚れ込み、夜毎通うようになった結果、精力の使い過ぎでじょじょに心身の衰弱が顕著になってきたために、しばらくはそのような場所に通うべきではないと主人公は決心し、東京にいるとどうしても通いたくなるため、半年の計画で東北地方を旅して絵を描くというのが物語の始まりである。その途中、彼は様々な女性に関する誘惑にかられるが、その度に、自分にとって女性とは遊郭で惚れたあの人だけなのであり、その人を裏切ることはできないと固く思い詰め、いかなる誘惑もはねのけて却って衰弱してしまい、半年後にほとんどぼろぼろになって久方ぶりに遊郭の惚れたあの人に会いに行くと言う流れになっている。で、最後は半年ぶりの快楽があまりにすばらしいので脳のどこかの神経がぷっつりと切れてしまい、主人公は帰らぬ人となってしまうということで終わる。

これをMと呼ばずして何と呼べばよいのか。彼は別に義理があるわけでもない女性のために我慢に我慢を重ねて、最後はその女性と半年ぶりにそういう関係になっている状態でありがたいことに文字通り昇天したのである。女王様に義理立てし、女王様のために死ぬのである。お前Mだろ意外の感想は持ちようのないほど、Mである。旅先でハンセン病患者の女性と出会い、意気投合しよっぽど押し倒そうかと思ったが思いとどまるという場面があるが、そこでも危うく女王様を裏切るところだったのに我慢した私は偉いと自らを誇りに思うだけであり、ハンセン病の深刻さ、患者への思いやり、人道、人間愛というものへの関心はかけらも感じられない。遠藤周作先生が御殿場のハンセン病患者施設に行った時の心の複雑な動きについて書かれていたことを私はふと思い出し、その違いに大いに驚いた。

遊郭の女王様のことを思い詰め、女王様に義理立てするために禁欲し、最後は女王様に抱かれて死を迎えるのはMの本懐であるに違いなく、繰り返しになるが、本当にこいつはMだ…そして自分がMだと告白する以外になんの関心もない役立たずな男で、こんなのが東京帝国大学に入ったのは果たして日本のために良かったのかという疑問すら湧いてくる。とはいえ、彼の文運はその後大きく飛躍し、書く力に凄みと深みが加わり『春琴抄』や『痴人の愛』、『細雪』のような尊敬するしかない名作をこの世に残すのだから、人というのは分からない。というよりあの谷崎潤一郎にも若気の至りの作品があったのかという感慨すら持ってしまった。

以上なわけで、伏字になっている部分は主として女王様とのプレイに関する部分であり、別に読めないからと言って何も困らないし、読めたとしても大した驚きや感動になるようなものが書かれてあるとは到底思えない。この作品の検閲を担当した内務官僚は「あ、あほか…」という感想を持ったのではなかろうか。

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映画『イーダ』のおばさんの罪と罰

ポーランド語の映画『イーダ』は、修道院でつましく禁欲的な生活を送るイーダという若い女性が元検察官で裁判官の親戚のおばさんに呼び出され、修道院長の許可を得てイーダは世俗の世界を見て、考えようによっては人間的な成長をし、修道院の世界へと帰っていくという作品だ。

イーダが実はユダヤ人で、家族の大半がナチスのホロコーストによって失われたという事実と、イーダが酒とたばこと男を覚えてそれでも修道院への生活へと帰っていくというシークエンスに注目してしまう作品なため、おばさんのことが少し霞んでしまうが、そもそもイーダが酒とたばこと男を試してみるのもおばさんに影響されてのことなので、作品理解の上で絶対に外せないのがこのおばさんの存在だと言える。

おばさんは超絶エリートで検察官を経て裁判官にまで上り詰めるが、酒浸りでたばこはいつもふかしているし、男癖も悪い。なぜかくも社会的に成功した人物がそんなだらけた生活に堕ちてしまっているのかについては大きく二つの理由が存在する。一つはホロコーストの結果、息子が行方不明なことと、政治犯を二度死刑に追い込んだことが彼女を苛んでいる。

彼女はイーダを連れて息子の行方を確認する旅をするが、やがて詳細が明らかになり、息子の遺体が埋められた場所も確認し、生きているとも死んでいるとも知れなかった息子がやはり、予想されたこととは言え、死んでいたことがはっきりし、自ら死を選ぶ。もし、息子の死を確認したことからの絶望感により彼女は死を選んだのだと考えるのだとすれば、それは少しだが作品理解が充分だとはおそらく言えない。彼女は政治犯を二度、死に追い込んでいる。息子が生きていないことを確認した後、彼女はおそらく自分が死に追い込んだ政治犯と息子にどのような違いがあるかを考えたのではなかろうか。息子が死んだ理由はユダヤ人だからという意外にはない。言うまでもないことだが、ユダヤ人であることは罪ではないし、ホロコーストは正当化できない。だが、政治犯の場合も、果たしてそれが死に値する罪だっただろうかと言えば、考え方の問題に過ぎないので、死罪は比較衡量の観点から言っても重すぎるに決まっている。つまり、理不尽な死を与えられたという意味で彼女の息子と政治犯は共通しているのである。彼女は、息子に死を与えた者は決して赦されないと考えたに相違なく、その帰結として政治犯に死を与えた自分も赦されざる罪を犯したと認識し、自らを裁き、死を宣告し、また自らそれを執行したのである。彼女は自分の息子を死に追い込んだものを非難する権利を担保するために、自分が政治犯を死に追い込んだ罪を引き受けたのだとも言える。そう思うと、この作品はイーダが主人公ではあるが、むしろおばさんの心境をどれだけ想像できるかによって理解が違ってくる作品なのだと言うことができるだろう。

おばさんが自ら命を絶った後、イーダはおばさんの来ていた服を着て、酒とたばこと男を試してみる。ホロコーストの結果、家族を失ったという点ではイーダもおばさんも間違いなく被害者なのだが、おばさんがずっとそうしていたように、酒とたばこと男でその心の苦しみから逃れ得るものなのかどうか、実験してみたと捉えるのが正しいのではないかと思える。そして彼女は酒とたばこと男のような享楽的な手段では解決できないと結論し、修道院の生活へ戻る方を選んだと説明できるのではないかと私には思えた。



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チリ映画『盲目のキリスト』で人と信仰の関係を考える

南米の荒野の若い男は、人の内面に神が宿っていると説いて歩く。教会の権威を否定し、個人のレベルで信仰を維持できるという発想法はルターの宗教改革に似ているが、いわゆる神秘主義的なもので、南米のようにカトリックの勢力が強い地域ではおそらくそれなりに挑戦的な説法と言えるはずだ。

映画で撮影された南米の荒野に暮らす人々は貧しい。とことん貧しい。贅沢はもちろん存在しないが、美しいものも存在しないし、知恵とか教養とかそういったものとも無縁な生活を送っているようにも見える。この映画に『母をたずねて三千里』のようなエスパニョールなメルヘンはない。だが、愛は存在する。神が内面に宿っていると主張する男の話に耳を傾け、人々は彼をイエスのように信仰し、奇跡を見せてほしいと頼む。だが彼には親切心で人を助けることができるだけで、奇跡を起こすことはできない。ただけが人や病人、そして美しくない女性に寄り添うことだけをコツコツとやり続ける。物理的な奇跡は決して起きないが、寄り添われたことにより人の心には救済がもたされるし、それには彼が愛を分け与えた以外の理由は存在しない。ただ、観衆は南米の荒野をイスラエルやヨルダンの荒野に重ね合わせ、実際のイエス・キリストも本当はこのような青年だったのではないかという想像を膨らませることはできる。

何かに似ていると思い記憶を辿ってみたところ、遠藤周作先生の『イエスの生涯』のイエス像にそっくりだ。『イエスの生涯』(『死海のほとり』でもオッケー)のイエスも、弱い人、貧しい人、病める人に寄り添い、ともに涙を流すことができるだけで、つまり愛を分け与えることができるだけで、奇跡を起こすことはできない。時に民衆は奇跡を起こすことのできないただの社会不適合者に怒りを覚え、石以って追い出そうとすることもある。

或いはクリストファー・マーレイ監督は『死海のほとり』から想を得てこの映画を作ったのではないかとすら思えてくるほどに両者はよく似ている。

『福音書』に描かれるイエスは十字架にかけられることによって使命を全うし、人類の罪を贖うが、この時イエスが奇跡を起こして助かることができなかったのと同じように、この映画の主人公の青年も、奇跡を起こそうと試み挫折感を味わい、そして彼なりに復活する。聖書のイエスは3日後に生き返るが、映画の主人公は父と再会し、神がかりではない普通の人間としてその後の人生を生きることを決意するという流れになっている。

彼は裸足で荒野を歩いていたが、終盤で靴を履くことにより普通の人間として生きることを選んだことが明白に示されていると言えるだろう。
この映画では貧しい人、すさんでいる人が信仰を求め、救いを求める姿が描かれるが、信仰とは即ち普通の人間として生き、壮大な理想のためにではなく身近な人々を愛することで見出すことができるというメッセージがあるように思える。

人文科学を突き詰めると、人とは何かを考えることに向き合わざるを得ないが、私は『ファニア歌いなさい』と合わせて観ることで、より深くそれについて考えることができるのではないかと思えた。『ファニア歌いなさい』では、近代ヨーロッパの文明世界で生きる人が、どのようにして精神が破壊されていくかを描こうとしている。一方で『盲目のキリスト』ではそのような文明や叡智から見放されたように見える、或いは文明の周縁に追いやられたように見える人の精神が如何にして再生されるかを描こうとしている。

神がかりの青年が奇跡を起こせず挫折した時、彼にイエスの物語を説く人物が現れるのだが、そのイエスは我々がよく知っている、繰り返し語られたベツレヘムのイエスではなく、映像に映し出されるのはアメリカ原住民の人々の衣装をまとった人々とイエスの姿だ。伝統的なイエス像にとらわれず、人それぞれ自由に救世主のイメージを抱くことができるという制作者の意図を感じられるが、もしかすると救世主はやはり人の心に自由に宿るもので、魂の救済は自分次第なのかも知れない。