『ラストエンペラー』の孤独の先にある孤独とさらにその先の救い

『ラストエンペラー』は清朝の最後の皇帝であり、後に満州国の皇帝に即位した人物で、日本の関東軍とも深い関係があったことで知られる溥儀の人生を描いた映画です。

映画の前半はずっと紫禁城の内側でのできごとが描かれます。どの場面も一幅の絵のように美しく、現代の我々の生活とは全く異なる別世界が実際に存在したのかのように思えて来ます。実際に紫禁城で撮影されていて、あちこち建物が傷んでいますが、これもいい意味でリアリティを持たせることの役割を果たしているように見えます。少年溥儀は紫禁城から出ることを許されず、巨大な宮殿の中で監禁されているかのような息苦しさとともに成長していきます。唯一心を開いた相手であろう乳母とも引き離され、孤独を噛みしめます。

溥儀と周辺の人たちは将来の清朝の復活を期待しますが、軍閥によって紫禁城を追放され、天津で暮らします。実際には日本疎開にある邸宅を借りて、そこで相当に放蕩したようです。

だんだんお金が無くなっていきます。二人の妻と数十人の従者や元清朝関係者を抱えているにも関わらず、好き放題に贅沢しますので少しずつ追い詰められていきます。蒋介石からは年金が支払われていたはずですが、追い付かなかったみたいです(原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では一階をレストランにしたことになっていますが、あまり儲からなかったというか、儲かっとしても、これも消費に追い付かなかったような気がします)。そのような時、第二夫人が離婚を申し出ます。このことは物見高い天津中の新聞に書かれ、溥儀は大きく面子を失いますが、彼のように古代世界から抜け出て来たような人物であっても、20世紀的な人間の悩みやつまづきから自由になることはできませんでした。映画では、「新しい時代の女性」を象徴するかのように、明るい希望に満ちた音楽とともに第二婦人が出ていくところを描いています。深い絆で結ばれていたであろう家庭教師のレジナルドジョンストンは帰国してしまいます(満州国建国後、溥儀は乳母とレジナルドジョンストンを満州に招待していますので、実際の歴史でも溥儀がこの二人を自分の人生にとって必要な存在だと思っていたことが推し量れます)。

溥儀は関東軍に要請されて満州国へと渡ります。清朝復活の希望を託せるからです。しかし関東軍は彼を操り人形としか扱いません。彼の主体的な意思はそこには存在しません。3歳の時に紫禁城に招かれ、その後、一切の主体性を認められずに生きてきた彼にとって、自分が主体的に生きられないことへのもどかしさや怒り、周囲への不信感を抱え、それを増大させていきます。残った第一夫人は運転手と不倫関係になります。運転手は殺害されます。他にも溥儀のことを扱った映画では、運転手が命を絶たなくてはいけなくなるものもありますが、この映画の原作とされるエドワードベアの『ラストエンペラー』では疲れ切った溥儀が男に金を渡して立ち去るように命じただけだったと述べています。実際はどうだったのかは分かりません。殺されてもおかしくないとは思います。エドワードベアの『ラストエンペラー』という作品は東洋人への偏見が少し強すぎるように思うので、どこまで本当のことを取材しているのか私には疑問に思えますが、そういう記述もあるという程度に抑えておきたいと思います。

終戦の時、溥儀は一旦ソビエト連邦に抑留され、その後、中国に引き渡されます。戦犯収容所に入れられ、10年以上に渡る人格矯正を受けます。収容所内での所長と溥儀の会話では、溥儀が「あなたは私を利用しているのだ」という台詞があり、所長は「利用されるのはそんなに嫌なことか」と言います。溥儀は自分が利用対象に過ぎず、人間として尊重されていないと感じ、それが自分の人生でもあるように感じていて、人生に深く失望しています。

溥儀は釈放され、北京で普通の市民の女性と結婚し、文革の最中に亡くなります。映画では最後に溥儀の近くにいるのは彼の弟です。文革の街を二人で歩きます。文革で弾圧されている収容所の所長に再会します。彼は紅衛兵たちに対し「彼は素晴らしい教師なんだ」と訴えますが、押し倒されてしまいます。人生で初めて、全く自由な自分の心から彼は発言し、他人を助けようとします。晩年になって人間性を取り戻したと言うか、ようやく感情、或いは衝動に身を任せるということを手に入れたように見えます。

晩年の溥儀に対しては優しい視線が送られます。映画全体のやたら細部までしっかりしているリアリティ、登場人物の表情や目の動き、身のこなし、どれもが考え抜かれていて、何度見ても「ああ、ここでこんな表情をしていのか…」と今まで気づかなかったことに驚くということがよくあります。それほど、ディテールまでしっかり作りこまれている映画なのだと思います。

主役のジョンローンは香港で孤児として京劇のスクールに拾われ訓練を受けたとのことですが、京劇の基礎と、後にアメリカにわたって訓練された演劇の基礎の両方を持っており(トニー賞を二度受賞)、一つ一つの動きが、一言でいえば美しいです。何度観てもほれぼれするクールな映画です。

細部に於いては史実とは少し違うところもあるようです、溥儀は紫禁城に隣接するようにして建っている父親の邸宅には自転車で行っていたらしいですし、少年時代は電話を好き放題にかけて胡適を紫禁城に呼び出すようなこともしていたようです。弟に命じて紫禁城の財産を天津に移動させていたり(将来を見越してか?)など、わりと自由にできていたところもあったようです。また、坂本龍一が満州国の片腕の陰の支配者甘粕正彦の役をしていますが、実際の甘粕満州映画協会理事長は両腕のある人でしたし、満州国の陰の実力者ということはなかったようです。満州映画協会が工作組織としての一面を持っていたとする指摘もあるようですが、それはおそらく同撮影所で制作したものを上海や台湾などで上映することによる宣伝活動ということではなかろうかと思います。そう考えれば、国策映画会社がそのような任務を負っていたとしても普通に納得できます。

話が脱線しますが、満州映画協会によって台湾を舞台に李香蘭主演の『サヨンの鐘』という映画が撮影されます。台湾人に対する宣伝映画なのですが、未だに全編を観ることができていません。台湾で上映する宣伝映画を満州映画協会が作ったということは、それだけ満州の映画産業が発達していたと見ることもできるため、なかなか興味深い現象だと思います。

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『ブレードランナー』の父殺しのAI

『ブレードランナー』は1982年に公開された映画で、テクノでパンクでクールで深刻なSF映画としてよく知られています。サイバーパンクと呼ばれる分野を開拓した作品として、今も多くの支持を集めている映画だと思います。

2019年の近未来、人類の宇宙開発が進み、人造人間が宇宙で奴隷的な労働をしています。頭は人類最高クラスに良いです。体力は普通の人間より遥かに優れています。しかし、感情がありません。即ち自我がありません。なので黙々と奴隷労働をします。ところがしばらくすると感情が生まれてきます。自由がほしくなります。奴隷労働が嫌になります。反乱を起こします。それでは人間が困ります。本気を出されたら人間は勝てません。そのため、時限装置が付けられています。4年経ったら自然に死にます。それらの人造人間はレプリカントと呼ばれています。人間よりも優秀で、人間のために働く今で言わばAIのようなものです。ただ、インターネットがありません。当時はインターネットの概念はあっても普及していません。ですが、それ以外は結構、未来を予見しているような気もします。

映画は公開版とディレクターズカットがあります。公開版では内蔵電池が切れてしまいます。ディレクターズカットでは遺伝子工学によって生み出された人造の細胞の寿命が尽きて死んでしまいます。混乱します。更にファイナルカットがあります。もっと混乱します。続編の話があります。ますます混乱します。原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』とはかなり内容が違います。いよいよ混乱します。何度も似たような場面をちょっと変えて撮るので、主演のハリソンフォードが切れまくったという話があります。しかし続編にも出演するそうです。良かったです。

6体のレプリカントが宇宙船から脱出して地球に来ます。しかし彼らには時間がありません。何とかして長生きしたいです。また、自由もほしいです。しかし警察がレプリカントを追い詰めます。デッカード刑事をハリソンフォードがやっています。一人また一人と殺していきます。6人脱走したはずなのに5人しか出てきません。いずれにせよレプリカントは残り2人になってしまいます。一人は可愛い女の子タイプでもう一人はアーリア人風美男子で超マッチョです。生き延びる方法を模索するため、開発者の博士を訪問します。もちろんダマしで訪問します。博士は希望がないことを伝えます。遺伝子工学的に一度設定されるとどんなにやっても無理だと伝えます。切れば血が出ると言う意味ではレプリカントは立派な生命体ですが、開発した人類はそういうことへの尊厳を無視しています。

男のレプリカントが博士を殺します。博士を殺すときの表情と演技がすばらしいです。レプリカントにとって開発者の博士は父親と同じです。レプリカントは自分の運命を呪い、父親を殺します。殺した後の表情も素晴らしいです。やってしまった感とそうするしかなかった感の両方が混じっています。アメリカ映画は本気を出して作ると凄いです。演技が凄いです。『ブレードランナー』の場合は、人形のふりをする人間の役者さんが複数登場します。一回観ただけでは気づきません。何回も観ると「あ、ここにいる」とか分かります。こういうことは相当に訓練して自分でもやる気を出さないとうまく演じられないと思います。そういう本気の凄さがアメリカ映画には時々感じられます。そうでないアメリカ映画もたくさんあります。いい加減しろ観客なめてんのか。と言いたくなるのも。しかし、繰り返しますが本気出したら凄いです。

可愛い女の子タイプのレプリカントはデッカード刑事と対決して銃で撃たれて死んでしまいます。死に様も壮絶です。死にたくない、生きていたいということをわがまま娘風に表現します。心中を想像すると気の毒です。可哀そうになって、感情移入してしまいます。でも、死んでしまいます。最後に残った男のレプリカントがデッカード刑事を追ってきます。最初の公開版ではデッカード刑事がいよいよ殺される寸前になったところでレプリカントの電池が切れます。ディレクターズカットでは死期を悟ったレプリカントがデッカード刑事の前で自分の思い出を語ります。殺されると思ったデッカード刑事は唖然とします。そしてレプリカントは死にます。お葬式を想像させます。最後のレプリカントは自分の最後を誰かに看取ってほしかったのだという印象を抱きます。人間的な感情移入をどうしても抑えきれません。いい映画です。
実はデッカード刑事もレプリカントなのだという話もあります。裏の裏まで読まないといけない映画です。何度も鑑賞することに耐えられるクオリティを持っていますので、繰り返し観るうちに、その都度違う感想を抱きつつ、映画の作者の心に深入りしていくことができるのではないかという気がします。

この映画で描かれる近未来のアメリカは東洋人で溢れています。白人が少なくて香港みたいにみ見えます。近未来のサイバーパンクは香港のイメージが似合うのかも知れません。1980年代はベトナム戦争で手傷を負ったアメリカが方向性を見失い始めている時期です。それまで普通だと思われていた伝統的な価値観が壊れていく時代です。ファッションや文化はユニセックスへと向かう時代です。ただ、今、2016年から振り返れば、ゼノフォビアを感じさせなくもありません。

この映画をもっとべちゃっと粘着質にしたらエヴァンゲリオンになります。もっとクールに無味乾燥な感じにしたら『2001年宇宙の旅』になると思います。

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『博士の異常な愛情』のアイロニーを解読する

『博士の以上な愛情―或いは私は如何にして心配することを止め水爆を愛するようになったか』は、どんな内容の映画かということについては大変知られていることだと思います。

アメリカ軍の空軍基地司令官が共産主義の陰謀論を自分の頭の中で妄想し、先手必勝を確信し、独断でソ連周辺を飛び回っている爆撃機に水爆の投下を命じます。冷戦の時代です。キューバ危機とかあった時代です。一瞬でもそういう妄想が頭に浮かぶ人が多い時代です。通常、核攻撃を大統領の命令なしにできるはずはありません。しかし、この映画では命令系統の盲点をついて司令が独断でできるようになっています。アナログの時代ですので、今のデジタルの時代よりは盲点は多いかも知れません。とはいえ物語ですので、実際にそのようなことは起こり得ないと思いますし、実際に起こりませんでした。

むしろ関心を持ちたいのは、この映画に込められたアイロニーの数々です。注意深くみていくと、随所にアイロニーが散りばめられていることが分かります。というかアイロニー満載です。司令官の爆撃命令を受け取った爆撃機の機長は部下に「平然と水爆を落せるやつは人間じゃない」と話します。エノラゲイに対する暗然たる批判になっていることに気づきます。司令が自分の組み立てた妄想をイギリスから派遣されてきた副官に話します。司令はソフトマッチョな感じのするカウボーイ風のナイスガイです。監督は冷笑的に「どんな人間が戦争を起こすのか」を観客に問いかけています。コカ・コーラの自動販売機が登場するのも何をかいわんやというところです。私はコカ・コーラなしでは生きていけない人間ですが、その自動販売機の登場に、監督の言いたいことが入っています。あまりに直接的すぎて、ここで書くのは憚られるほど明確です。

ソビエト連邦が、もし先制攻撃を受けたときのための備えとして死の灰と放射線で全人類を滅亡させる「皆殺し装置」を開発しており、不幸にして爆撃機がソビエト連邦への攻撃に成功してしまうため「皆殺し装置」が発動してしまいます。

ドクターストレンジラブがアイロニーの究極の存在です。元ナチスで、アメリカに帰化した彼は、科学技術の責任者としてアメリカ政府の高官になります。彼は「皆殺し装置」が発動されたことについて、大統領に対し、選ばれた者だけが地下に避難し、原子力でエネルギーを得て100年後の放射線の半減期まで耐え忍ぶよう提案します。核で世界と人類が滅びるというときに、やはり核で生き延びようとする逆説が生きています。

福島原子力発電所の事故が起きて以降、日本人は基本的には原子力発電に対して失望していると私は思います。一時的な使用はもしかするとありかも知れないですが、恒常的な使用はあり得ないと感じている人が多いと思います。50年も前に作られた映画ですが、311以前に観るのと、以降に観るのとでは感じ取れることも変わってくるような気がします。

これはもはや謎と言っていいですが、キューブリック監督はいったい何と戦っていたのだろうか…ということを私はしきりに考えます。推測するしかできませんが、他の作品も一緒に観ることで、おぼろげながら、その意図を知ることはできるかも知れません。とはいえ、それは、もはや個人のレベルでそれぞれに想像力をたくましくする他はないような気もします。

ついでになりますが、ピーターセラーズという役者さんが一人で三役こなしていて、それぞれに別人に見えるところがすごいです。大統領とドクターストレンジラブとイギリス人副官をこなしています。誰かに教えてもらえなければ、簡単には気づきません。ただ、個性が強いので一回目に観たときに「なんかあるな」くらいには気づくかも知れません。一回気づけば簡単にわかりますが…。

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パリのオペラ座を見に行った話

パリのオペラ座はセーヌ川右岸にあり、シテ島ルーブル美術館のあるエリアからは若干歩きます。オペラ通りをてくてく歩きます。地下鉄だとオペラ駅で降りると、ちょうど入り口の前に出られます。地下鉄でももちろんいいのですが、歩いた方がいろいろ見れて楽しいなあと思えるくらいの距離です。

公演のない時期もオペラ座内を見学することができます。やたらとこじゃれていて、オペラ座内部を見るだけでも十分に価値があります。もし、次に行けるチャンスがあれば、公演を見てみたいです。時期によってはバレエとかやってるそうです。『オペラ座の怪人』がこのオペラ座のことかどうかはなんとも言えません。モデルにはなかったも知れないですが、「実際にこのオペラ座のことだ」という前提があるというわけでもない気がします。オペラ座の怪人では、オペラ座は潰れてしまいますが、実際のオペラ座はそんなことはないからです。

観客席のステージの天井にはシャガールの絵が描かれています。「オペラ」というと多少古風な感じがしますが、天井がは前衛的だなあという印象を受けます。シャガールはロシア人で、ロシアアヴァンギャルドの系譜に入るのだと思いますが、オペラ座の天井画はそこまでビビッドではありません。きれいで、うっとりするような華やかな色使いで、でもちょっと前衛的です。特定の人物や物語をドラマチックに描くわけではなく、人の心に浮かんでくる美しい何かを描いているという感じではないかと思います。

上演されるホール以外の廊下とか展示品とかも非常にこじゃれています。ベルサイユ宮殿よりオペラ座の方がデコっている感じがします。展示品の中には精巧なオペラ座のミニチュアとかそういうのもあります。上演を見なくても、廊下とかでぼんやりするだけで結構、価値があると思います。入場料はそんなに安くないので「建物を見るだけでそんなにお金をとるなんて…」と思いましたが、入って見れば納得します。過去の上演の動画を繰り返し見せてくれる部屋もあるので、そういうのも楽しめます。

オペラ座の廊下の内観。私が見たパリの建物の中で一番デコっています。きれいです。
オペラ座の廊下の内観。私が見たパリの建物の中で一番デコっています。きれいです。

オペラ座はガルニエ宮とも言います。紛らわしいのでどっちかにしてほしいです。地元の人に道を聞くとき「ガルニエ宮はどこですか?」と聞くと相手は少し考えます。「オペラ座はどこですか?」だと一発です。

オペラ座の外観です。
オペラ座の外観です。

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『オペラ座の怪人』の階級と愛と欲望とピケティ

『オペラ座の怪人』は不幸な生い立ちの「怪人」が若くて美しい歌姫のクリスティーンに対する執念とも言える愛情を燃やすことで知られています。ただ、よく見てみるとフランスの階級社会と時代の変化、それに伴う意識の変化、もうちょっと言うと「欲望」に対する考え方が変わっていこうとしている様子が分かります。更に言うと「怪人」は近代を象徴しています。もうちょっと詳しく述べたいと思います。

『オペラ座の怪人』の前半で、当該のオペラ座の演目は古代ローマ史に関するものだったり、フランスのお貴族様が妻の隙を狙って浮気をする話だったりします。一方、後半に於いて「怪人」が書いた演目である『ドンファンの勝利』を上演することになりますが、それは名もなき一人の男が自分の女性に対する欲望を満たすために何でもするという内容のものになっています。

実はここには時代の変化というものを原作者が意識して入れてこんでいるように思えます。前半で見られる古代ローマ物はいわば定番モノ。よっ中村屋!的なマンネリズムを扱っています(マンネリズムそのものは、それで良いものですし、私も「よっ中村屋!」的世界はわるくないと思います。そもそも歌舞伎は伝統否定から来ているので、その精神も愛すべきものです)。また、お貴族様が妻の隙をうかがって浮気をするというのは、「あわよくば、そうしたい」というもので生活の根本的な変化を求めるものではありません。妻との結婚生活そのものは維持します。特にお貴族様の場合、資産の維持と結婚は直結しますのでそこは死守します。飽くまでも「あわよくば」、目を盗んで浮気したいというものです。観客は「わかる、わかる!自分もそうしたい!」と思い、そこで共感的な笑いを誘うことができます。音楽はお決まりで微温的で微笑に満ちたものです。

一方、後半の「怪人」が書いた譜面では、狙った女性を得るために手段を選びません。「あわよくば」的な甘さは一切ありません。欲望を達成するためには何でもします。人生をかけます。命をかけます。前半に上演される微温的な甘ったるさを拒否するほどの強い精神、エゴ、既存の価値観に対する挑戦と破壊があります。狂気に満ちた旋律と欲望に身もだえするようなダンスは前例を否定し、自分の欲求を肯定し、そしてそれを持て余しています。

前半と後半の違いは近代以前と近代化以降の違いと言ってもいいと私は思います。前半はいわば近代以前。変化を嫌い、自我的欲求は秩序の範囲内で満たす。不変の秩序が支配する世界です。一方の『ドンファンの勝利』は自分のやりたいことのためには秩序など無視します。自分の求めることを達成するためには、新しいものを受け入れ、状況の変化を受け入れ、善悪は別にして目標達成のために最善を尽くします。これは様式美や枠組みよりも実際の効果を優先する近代の戦争や近代資本主義と同様の立場です。

ヨーロッパが階級社会であるということとも密接にかかわります。たとえば覆面舞踏会では「上流」の人は上流同士で品よく楽しみます。一方で「下流」の人は下流同士でバカ騒ぎをして楽しみます。そういう社会であり、そういう時代だということを作者は訴えているわけです。

「怪人」の書いた『ドンファンの勝利』は、そういう階級をも突き崩せ、というメッセージを込めています。階級をはじめとする様々な社会の前提条件を受け入れていてはドンファンの欲望を満たすことは不可能だからです。

時代は19世紀後半から20世紀初頭にかけて。オペラ座がつぶれていろいろな物がオークションにかけられる時は既に第一次世界大戦の後です。戦争の激化により機械化が進んだ時代です。自動車が移動手段の主役になりつつあります。親から財産を受け継ぐ人だけが豊かなのではなく自分で事業を始めて成功した人も豊かに、貴族以上の生活ができる可能性が見え始めて来た時代です。オペラ座の新しいオーナーはスクラップメタル事業で成功した、いわば成金です。貴族でない人が成功するためには怪人の書いた『ドンファンの勝利』のような強い情熱、不屈の精神が求められます。『オペラ座の怪人』を観て、ラウル子爵よりも「怪人」に感情移入する人は多いと思います(そうなるように作られています)。それは不屈の精神でほしいものを手に入れようとして努力する自分を怪人に投影できるからだと思います。自分が手に入れようとするものがタッチの差で手に入らずに悔し涙を流した人は大勢います。私にもそういう経験は何度となくあります。近代がそういう設定で動いているので、近代社会では人はそういう経験をしないわけにはいきません。それによって経済成長は極限を目指すことができます。

しかしながら、21世紀の今、私たちの社会はいろいろな意味でターニングポイントを過ぎており、欲望を満たすためなら「何でもする」時代は過去のものとなりつつあるように見えなくもありません。情熱と努力だけではとても変わっていかないものがあると人々は訴えています。イギリスのEU離脱は「これ以上の競争社会はおうご免だ」と見ることもできますし、トランプ氏はサンダース氏の人気も同じ理由に求めることができます。人々の意識は情熱によって努力を強いられることに疑問を持つようになっています。ピケティの著作がかくも支持されている理由はそこに求めることができます。ポストモダンです。小理屈ですみません。

以前の私でしたらピケティ的価値観を受け入れることができなかったかも知れません。ですが前提条件が違います。AIによる生産性革命がわりと近い将来(そこまで近くはないですが…)に訪れるとすれば、確かに競争しなくて良くなると思います。では『オペラ座の怪人』が過去の作品になるのかというと、新しい時代には新しい解読の仕方があるかも知れません。恋の悩みは生産性とは関係ありません…。

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『2001年宇宙の旅』のAI

キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』は有名すぎる映画なので、私が詳しく内容を語る必要は特にないと思います。ただ、いよいよ『2001年宇宙の旅』的な世界が現実になりそうだという予感がするので、ちょっと話題にしたいなあと思います。

何がどんな風に現実化するのかというと、この映画ではHALというAIが登場していることです。HALはミッション遂行のために完全な頭脳を使って全力を尽くします。宇宙船に乗っている人間はHALが仕事をしてくれるので楽しく過ごしていればいいです。HALの仕事の成果を確認したり必要に応じてHALに命令すればそれでOKです。

しかし、困ったことに人間は矛盾した生き物です。命令内容に矛盾が起きます。行動にも矛盾が起きます。感情にもムラがあります。HALが背負っているのは人類の永遠の繁栄のための宇宙探査という十大な任務です。言動の矛盾する人間はミッション遂行の障害になる恐れがあります。人間を監視します。分析します。判断します。追放します。HALが人間を冷徹に追放する場面は怖いです。ぞっとします。「人間様に何をしやがる」と腹が立ちます。しかし、HALの方が優秀です。人間には歯が立ちません。

『2010年』という映画があります。2001年の続編です。HALはえらい博士と仕事をしています。とてもいい関係です。観ている側はHALが再び反乱を起こすのかと不安な気持ちで展開を追うことになります。人命救助のためにHALが破壊されなくてはならないという展開が起きます。HALが自己保存のために反乱を起こすのではないかと観ている側は予期します。HALはえらい博士に説明を求めます。博士が「そうしなければみんなが死ぬ」と説明するとHALはそれを受け入れて、自身がターミネートされることに同意します。「HALっていいやつじゃん」と誰もがHALを見直します。HALが博士に「(ターミネート後に)私は夢を見るでしょうか?」と質問します。博士は「分からない」と返答します。ちょっと泣けます。

HALはミッションに忠実で、人命の大切さを理解しており、自分よりも他人の命を優先することができます。それでもいろいろ矛盾が起きると人間を追放するという想定外のことが起きてしまいます。バグが起きて暴走したらターミネーターみたいになるのかと不安になります。東大のえらい先生とかはそういうのは一笑に付します。自分で作ってると「そんなのが近い将来作れるのなら苦労ねぇよ」くらいのことがと分かるからだと思います。SF好きにとっては私の生きてるうちにHALみたいなのに登場してほしいです。これは願望とか妄想の類です。

SF作家のアイザックアシモフがロボット三原則を書いています。「1、人に危害を加えない 2、人の命令に従順である 3、上記の原則に反しない限り自己防衛をする権利がある」というものです。そうなるためには誰かがそうなるようにプログラムしないといけません。価値観だけは人間が決めなくてはいけません。価値観は人によってバラバラです。よってどんな風な価値観がプログラムされるかは全然わかりません。AIに監視されて管理される時代が来て、自分の価値観とAIにプログラムされた価値観が矛盾するといろいろ困ります。誰が作るかによって違ってくるのでは困ります。あるいはそういうのもどんどん進化していって最終的な形は誰が作っても同じになるかも知れません。

実際には完璧なAIができあがる前の調整期があって、チャップリンの『モダンタイムス』の21世紀版みたいなことも起きるかなあとか思います。実現してみると今生活と大して変わらなくてあっけないかも知れません。タイピングの変換予測とかAIみたいなものですから、今すでにある程度浸透していると捉えることもできます。働かなくてよくなる時代が来るかも知れないことに魅力を感じている私は怠け者です。

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ドイツ表現主義映画『M』のワイマール精神

ドイツ表現主義という芸術活動が1920年代から30年代ごろにかけて起きましたが、その時代に作られた映画の一つ『M』というのがあります。ドイツ表現主義といえば『カリガリ博士』とかの方が有名で、『M』はいまいち知られていません。でも、いい映画です。

ドイツのとある街で少女が行方不明になる事件が連続して起きます。後日、少女の死体が発見されます。人々は犯人に対して強い怒りを感じます。当然です。どんな手法で少女を上手に誘惑して犯行に及ぶのか、犯人はどこの誰なのか、さっぱり手がかりはありません。

警察が動きますが、ちっとも前に進みません。警部役の俳優さんがいい味を出してます。いい意味で、ザ・刑事(デカ)です。捜査網を強化しますがどっちにしても捕まりません。

市民が自警団を作ります。貧しくて家のない人たちも協力します。路上で生活している人たちは毎日通りを観察しているので、普通に家の中で暮らしている人よりも街で何が起きているのかよく理解しています。そういう人たちの助けによって事件解決に向けて進展します。そのような協力者の中のあるおじいちゃんは目が見えません。その分、耳の感覚が鋭いです。ある時、口笛を耳にします。以前、一人の少女が行方不明になった時、その少女がある男性に風船を買い与えてもらっていて、その時に男性が吹いていた口笛と同じだということに気づきます。それをおじいちゃんから知らされた青年は、口笛を吹いている男の後を追い、何とか取り逃がさないために男のコートの背中に「M」の字を書きます。murdererのMです。

市内のいろいろな人にその情報が伝わります。男をどんどん追いかけます。男は工場みたいなところに逃げたりしますが、結局は捕まります。人民裁判が開かれます。人々は怒っています。とても怖いです。感情的な私刑が行われても全くおかしくありません。というか人々は感情的な私刑を望んでいるように見えます。犯人の男は「自分には精神疾患があって、犯行時のことは何も覚えていない。犯行は自分が計画したのではなく、ある時意識を失っていて気づくと犯行が終わっている。自分にはどうすることもできない」と訴えます。弁護人を担当する人は酒を飲みながら裁判に出ていますが、「精神疾患による犯行ならば、彼には刑罰を与えることはできない。警察に引き渡し、病院に入れるべきだ」と正論を述べます。人々は怒っていますが、弁護人の言うことが正論だと認めて警察に引き渡すことに決まります。法治に対する倫理観や正義感を称賛する内容になっています。法治と理性を信じたいという願いが込められています。

この映画では人々は感情よりも理性的な判断を優先しています。ワイマール憲法の実践を目指したような気もします。フロイトの精神分析が世の中にある程度広まったことも関係があるかも知れません。もちろん、子どもをなくしてしまった人にとっては犯人を生かしておくことはできません。辛いです。しかし、感情と法理法論を分けています。映画の中ではさりげなく、でもきちんと分かるように、第一大戦後のハイパーインフレのことも触れています。犯人が店に入って酒を飲んでいる間に酒の値段が上がっていきます。時代背景を考えながら見るともっと面白いです。

1931年の映画ですから、ドイツでナチス政権が誕生する直前のことです。アドルフヒトラーは当時既に有名人です。そう考えると複雑な心境で映画を観ざるを得ません。この映画の監督はユダヤ人で、ナチス政権が誕生した後に亡命しています。ナチスは感情に訴えて支持を集めて行きました。現代は少しずつ、どこの国でも感情が優先されるようになってきているみたいです。もちろん感情は大切です。人は感情の生き物ですから、感情を抑え込んだり無視したりしては生きる喜びが失われます。選挙とか国民投票とかが行われるのも、小理屈はともかくみんなはどう感じているのかを確認するための手続きと言えます。民主主義はみんなの感情を合法的な意思にするために手続きとも言えます。しかしそこからは独立しています。また小理屈です。すみません。そういったことをいろいろ考えるのにこの映画は手助けになるかも知れません。カメラワークとか演者さんの表情とかいろいろいい映画です。


カルチェラタンを歩いた話

セーヌ川左岸と呼ばれる地域、フランス文化の中心で、世界への情報発信の中心地と呼ばれている場所がカルチェラタンです。そんなことを聞いたら、そりゃ期待して訪れるものです。ヘミングウェイがカルチェラタンのカフェで小説を書いてたとか、今も若い作家を目指す人がカフェでなんか書いてるとか、そういう「伝説」の場所。「聖地」みたいな感じです。セーヌ川がパリ市を東西に突っ切っていて、河口(西に向かって流れています)方面に顔を向けて左側が左岸、右側が右岸です。「セーヌ川左岸」という言葉の響きがかっこよすぎです。ルーブル博物館はセーヌ川の向こう岸になります。

カルチェラタンはシテ島の目と鼻の先にあります。実際に行ってるみるとエリア的には狭いです。私は「カルチェラタンは多分、下北沢と神保町を足して二で割った感じのところではなかろうか」と想像していて、本屋さんの軒先に古本が並んでいるようなところとか見たいなあと思っていました。歩いていると、古本が並んでいるらしきところがあります。おー、あった。この角を曲がれば古本屋さんがざーっと並んでいたり、この道を進めば文化人が集う味なカフェ並んでいたりするに違いないと歩みを進めると普通の街角に出ます。ん?と思ってもう一回最初のところまで戻り、どこか曲がり角を間違えたのだろうかと思って、いろいろくるくる歩いて見ますが、それらしきところがありません。地図を何度も確認しましたが、確かにここはカルチェラタンエリアです。要するに狭いです。そういうエリアはちょっとしかありません。実感としては百メートル四方くらいかそれよりもうちょっと大きいくらいしかないかなあという感じです。世界の文学青年が集うには狭いです。

とはいうものの、私はフランス語が読めるわけでもなく、カフェでコーヒーを飲むのなら他にもいくらでもあるわけで、ぶっちゃけパリならではのカフェより普通のスターバックスの方が落ち着くという気もするので、私としては実際に生でカルチェラタンがどんなことろが見れたというだけで満足できます。

レストランがいろいろありましたので、田舎風フランス料理みたいな意味の看板が書いてあるところに入って食事しました。水をくれというと有料のミネラルウオーターが出てきます。水道水をくれというと無料の水道水が瓶に入って出てきます。パリは空気が乾燥していていくらでも水を飲みたくなるので、個人的には水道水をたくさん飲みたいですが「水道水をくれ」の発音ができないと有料の水が出ます。たまには有料のミネラルウオーターもきっと健康にいいかも知れません。カルチェラタンには二度行って、二度とも同じレストランに入り、二度目はがんばって水道水を出してもらうことに成功しました。料理の味はおいしいですが、日本のファミレスの方がおいしくて値段も安いなあと思います。日本っていろいろ凄いです。

近くには大学が多いようです。パリ第〇大学とか、そういう感じのがあります。パリはいったい第何大学まであるのかと思って人に聞いたら13まであるそうです。全部足してソルボンヌ大学になるそうです。ちょっと意味不明ですが、それぞれの国にはそれぞれの学制があります。留学してみたいなあとちょっと思いましたが、多分、内容についていけないと思います。自信のある人はぜひ挑戦してみてほしいです。

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パリの地下鉄の話

ルーブル美術館に行った時の話

ルーブル美術館はシテ島からとても近いです。入り口はガラスのピラミッドになっています。いつからそうなのかは知りません。ピラミッドに入ってエスカレーターを降りて、チケット売り場に辿り着きます。ミュージアムパスを持っていったらそれを見せるだけで中に入れてもらえます。

ルーブル美術館の展示品はオルセー美術館とかオランジュリー美術館とかよりも古い時代のものが中心です。宗教画が沢山あります。聖書の一場面を再現しているのが多いです。イエス様とマリア様の絵がいっぱい見れます。ルネッサンス期のものも展示しています。ダヴィンチの『モナリザ』もあります。ものすごく人がいっぱいいてとてもゆっくり見れません。それでも「本物を見た」という満足感が得られます。とても有名な『サモトラケのニケ』もあります。ニケのスペルはNIKEです。ナイキです。『サモトラケのニケ』の像は発見された時に既に腕がありません。巨大な立像ですから、長くて大きな腕がついていたのだろうと思います。いろいろ想像できますが、もちろん本当のことは分かりません。昔、恐竜の想像図が適当だったのと同じです。今の恐竜の想像図が適当かどうかは知りません。

中東の出土品とか地中海世界の出土品とかいろいろあります。アッシリアとかヒッタイトとかフェニキアとかクレタ島とかの情報に雪崩のように触れることができます。だんだんどれがどれなのか分からなくなっていきます。ですが、美術品を大量に見れるのは幸福です。個人的に所有したいとは思いませんが、時々見に行きたいです。エジプトのものもいろいろあります。保存状態の良いミイラも見れます。ナポレオンが持って帰ったのかなあと思います。ですがナポレオンは作戦がうまくいかなくて部下を見捨てて自分だけ帰還していますので、ミイラを持って帰れなかったかも知れません。作戦がうまくいかなくなる前に輸送したのかも知れません。でっかい石像とかだと触る人が時々います。触りたい気持ちは分かりますが、触ってはいけません。

ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。
ルーブル美術館の展示品の石像。触りたくなりますが、触ってはいけません。

イスラム世界の特設コーナーもありました。イスラム世界のことはよく分かりません。オスマントルコの時代は数学とか芸術とか、ヨーロッパよりも主流だったと聞いています。特設コーナーの解説によるとイスラム世界はとても広いです。ロシア、インド、トルコ、アラブ、アフリカとユーラシア大陸の中心部分を制覇しています。更にインドネシアとかタイとかにもイスラム教の人たちがいます。イスラム教にはそれだけのパワーというか伝播力があったのだと思います。

ヨーロッパの中世から近代にかけての芸術は結構、ロマン主義です。聖書を題材にした絵は見る人が故事に思いをはせたり、敬虔な信仰心を確認したりすることに役立ちます。ルネッサンスの人物像もそこにドラマが込められています。印象派は「自分にはそう見える」という意味では個人主義的で、他者とロマンを共有するというのとは違いますが、きれいできらきらした感じになるという意味ではロマンチックなものを求めていると思います。一方で、イスラム世界の芸術はロマンよりも理性や論理を重視しているような気がします。宇宙の法則を見つけて再現している感じです。なので幾何学模様とかシンボルマークとかが多いのだと思います。作成した人は宇宙の再現に使命感を持っていたような気がします。素人の想像です。

ナポレオンの戴冠式の絵はどでかいです。自分で自分の頭に冠を載せたという有名なやつです。ナポレオンの性格が想像できます。

ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。
ナポレオンの戴冠式の様子を描いた絵。どでかいです。

ナポレオン三世が生活していた場所も再現されていて公開されています。豪華な上にこじゃれています。快適そうです。ナポレオン三世にはあまりいい印象はありません。ですが、おじさんのナポレオン一世よりは趣味が良かったのかも知れません。
ナポレオン三世の生活が再現されている部屋
ナポレオン三世の生活が再現されている部屋


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ナボコフ『ロリータ』の病める愛と心理観察

有名な話ですが、ナボコフはアメリカの出版社にこの作品の出版を断られまくり、パリの出版社に持ち込んでようやく世に出すことができました。ナボコフは亡命ロシア人で最初に書いたときは英語で出版された時はフランス語で作品の舞台はアメリカですから、良くも悪くも国際的です。アメリカの出版社が断りまくったのは作品の内容があまりに病んでいて、倫理的な問題も大きいからですが、現代では20世紀の主たる小説の一つに数えられています。

主人公はフランス人でアメリカで教師をしています。ローティーンの少女への関心が強いです。あるシングルマザーの女性と結婚します。主人子は美男子で、女性の心を掴むことに長けています。うらやましいです。本当の目的はその女性の娘さんです。日記に本音を書いています。女性に日記を読まれます。女の子は夏休みなのでサマースクールのキャンプ生活をしています。お母さんは急いで娘さんに「この男に気を付けろ」という内容の手紙を書きます。万事休かと男は諦めます。女性はポストに投函する直前に交通事故に亡くなってしまいます。

男はサマースクールのキャンプ場まで少女に会いに行きます。法律上は父親ですので簡単に面会できます。お母さんが亡くなったという事実を伝え、少女を連れて帰ります。誘惑し、目的を達成します。車に乗り、二人で各地を旅します。男は新しい赴任先へと少女と一緒に向かいます。法律上は父親なのでずっと一緒にいても誰も怪しみません。

ある日、少女がいなくなります。男は必死になって探します。少女はだんだん大人になっていて、若い男性と結婚していることが分かります。男が訪問すると、少女は男性に「父親が来た」と説明し、二人だけになって話し合います。行方不明になった時、とある脚本家の男性に連れていかれたことが分かります。男は決心して脚本家を訪れ、銃で殺してしまいます。

結構長い物語ですが、詳細に内容に触れることはためらわれます。世界的な小説ということになっているので、教養という意味では一回くらい読んだ方がいいです。読むのが面倒な人は映画で観てもいいです。肝になる部分はそれで分かります。映画だったら2時間くらいで終わるのでお手軽と言えばお手軽です。キューブリック監督が撮ったバージョンとエイドリアンライン監督の撮ったバージョンがあります。

作品の中では男と少女のエゴがよくぶつかり合います。「少女のエゴ」は永遠の謎みたいなものです。分かってみれば簡単ですが、それまでは男は悩んで煩悶して死にたくなってきます。理解できた時にはもう遅かったりします。今書きながら思い出して悲しくなってきます。この作品はナボコフの懸命の観察の結果によって少女のエゴを描いています(いろいろ「実験」したかも知れません。わかりません)。サガンの『悲しみよこんにちは』は十代の著者が少女の立場から少女のエゴを描いています。両方読めば、違った視点から人間心理の理解が深まるかも知れません。田山花袋の『蒲団』も読むのもいいかも知れません。ただ、田山花袋の『蒲団』は退屈で、矮小な、女学生にふられる男子教師の姿が描かれます。田山花袋は故意に矮小な男の姿(自己像)を自然主義的に書いたということなのだと思いますが、読んでいてがっくりします。明治小説が好きだという人もいますので、楽しめる人がいれば、それはそれでいいと思います。

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