映画『アメリカンビューティー』と中産階級

昨日、サンダース現象とアメリカの中産階級というタイトルで投稿したのですが、その続きで頭の中にあることを投稿したくなりました。

アメリカ映画『アメリカンビュティー』は、平凡な中産階級の家庭が短期間で崩壊していく様子を描いているものです。
主人公の40過ぎくらいのお父さんが会社をリストラされ、「これからは責任のない仕事がしたい」と思い、バーガーショップの店員を始めます。
お母さんは不動産の販売をしていますが、客に物件を紹介する前に「私はこの家を売ってみせる」と何度もつぶやく人で、自己啓発にはまっているとも言えますが、やはり売り上げが全ての世界だけに強いプレシャーを受けて生きていることが分かります。

お父さんがリストラされて以後、間違いなくお母さんはお父さんのことを馬鹿にするようになり、仕事場で知り合ったやり手の男性と不倫をし、不倫の最中、たまたま一緒の車でドライブスルーに行ったら窓口に自分の夫がいるという最悪の展開を迎えます。
隣には退役した海軍大佐が引っ越してきます。会う人会う人に「海軍大佐だ」と自己紹介するあたりに、かえって「海軍大佐以外に何もない男」という印象を与えてしまっています。退役海軍大佐の息子はドラッグの売人で、主人公お父さんにドラッグを売り、その家の娘と付き合います。

ある日、こういう諸々が全部ばれてめちゃくちゃになり、最後の最後のネタバレだけは避けますが、主人公の娘と海軍大佐の息子は馬鹿げた大人たちに愛想をつかし、ニューヨークへ駆け落ちすることを決心します。しかし、ティーンエイジャーでドラッグ売人ですから、明るい未来が待っているとも考えにくいという感じです。

この映画から読み取れるのは、1、中産階級を維持するのは大変だ 2、中産階級はちょっとしたほころびで何もかもダメになってしまうかもしれない 3、ダメな中産階級は子どもからも見捨てられる 4、しかしその子供も先が思いやられる

という中産階級哀歌といってもよいものです。

この映画が公開された当初、「これはアメリカの中産階級の没落を表現しているものだ」というような解説がなされていたことを覚えています。

しかし、それから10年以上たち、いよいよ日本でも他人事ではなくなってきたということを思わずにはいられません。やがて中国、台湾、香港、韓国でも同じことが語られるようになる、あるいはすでに語られ始めているかも知れないという気もします。

解決策は一つ!やはりここはAIに仕事をしてもらって、ベーシックインカム!でどうでしょう?

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大阪は東洋一の工業都市だった

 谷崎潤一郎は『春琴抄』で、大阪の街を「東洋一の工業都市」と表現しています。『春琴抄』は昭和初期に書かれた作品で、確かに当時の大阪は工業力に於いては東京に勝っており、他の東洋のどの都市よりも工業化が進んでいたことを疑う必要はなさそうに思います。

 東京が経済力で大阪を追い抜いたのは1970年代のことであり、そのため20世紀は東の東京、西の大阪がそれぞれ中心地だという人々は認識していたに違いありません。

 ただ、どうもバブル経済崩壊後は東京が一進一退で、文化芸術面ではある種の昇華を見せたとも言える一方で大阪はそのまま音を立てて崩れてしまったように見えなくもありません。

 私は東京と大阪が混じっていますのでどちらのこともよく知っている反面、どちらのことも中途半端にしか知らないのですが、大阪が勢いを失ったことは大阪を訪問する度にじわっじわっと感じないわけにはいきません。

 大阪は世界的な都市として勝負できるだけの潜在力を十分に持っているはずですので東京人がどうとか大阪人がどうとか言う前に日本人としてそういう力を十全に発揮できないことに対して「ああ、もったいない」という気持ちをどうしても持ってしまいます。

 大阪復活策として掲げられた都構想ですが、なんだかんだとこねくり回したからか回されたからなのか話が単なる行政の統廃合の話になってしまい、迫力をなくしてまった感じがしなくもありません。

 リニア新幹線が大阪に開通するのが2047年(最近少し早まったようですが)で、しかもぶっちゃけ京都に通すか奈良に通すかも決まらないらしいので、これからは名古屋という意見が強いのも頷けます。実際、名古屋駅前の発展ぶりは目覚ましいものがあります。

 大阪は歴史もあり、京都奈良にも近く、その存在意義は計り知れない都市です。何か良い方法はないもんかいな?とちょくちょく一人考えるのですが、なかなかうまい方法というのは思いつきません….

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三島由紀夫の『憂国』をどう理解するか?

 三島由紀夫さんが226事件に取材して書いた『憂国』は、若き日本軍の将校が226事件の報を受けて「皇軍相討つ」を避けるための究極の手段として自ら命を絶つという作品です。
 読む人によっては死を美化するだけの陳腐な作品だと一蹴してしまうかも知れません。この稿ではもう少し、ほんの少しだけ深堀して考えてみたいと思います。

 題名の『憂国』が示す通り、国家を憂うが故に死を選ぶということになりますが、国家とはそもそも手に取って触ったり自分の目で見たりすることのできない存在です。それをフィクションと呼ぶこともできますが、国家は法人であるとも言え、みんなで存在することにしようと決めた、決まり事であるとも言えます。

 いずれにせよ、目に見えないものを深く憂うなどということが本当に人間に可能でしょうか?家族や恋人、或いは自分自身のことは目で見て手で触ることができるため、深く心配することは可能です。実体があると信じることができるからです。

 それ故に三島は若き将校が死を選ぶ直前、若い妻とのエロチシズム溢れる場面を濃厚に書き込んだのではないかという気がしてきます。軍隊にいる以上、一朝ことが起きれば命をすすんで捨てる覚悟が必要とされます。しかし国家は実体があるのかどうか、実感することができません。しかし、目の前の若くて美しい妻の存在は自分の五感で感じ取り、その存在を実感できます。若い将校はその実感できる妻と国家が不可分の存在であるというように認識していたと三島は言いたかったのではないかと思えなくもありません。

 「皇軍相打つ」を避けるということは、皇軍すなわち仲間もやはり存在を実感できる国家の一部であったためで、人間的なつながりと「国家」を重ね合わせたということではないかとも思います。

 仮にも戦後を生きた三島が単純な国家主義や民族主義だけで固まっていたとは考えられません。彼は彼なりに国家なるものを実感するための一つの仮説として『憂国』を書いたのではないかと私には思えます。

遠藤周作と満州

遠藤周作は世界中の様々なところに出かけて取材し、作品を書いた作家です。フランスへの留学経験があるため、フランスのことはよく出てきますが、もう一つ、満州のことも彼はよく書いています。

 遠藤は少年期を大連で暮らしており、両親の離婚に伴って母の実家のある神戸へと転居しました。そのためか、遠藤の描く大連の思い出は寂しさや悲しみに満ちているように感じられます。『海と毒薬』、『深い河』で描かれる登場人物にとっての満州はどれも悲劇的、または寂寥感にあふれており、彼がかの地でどのように心象風景を形成していったかを知る手がかりになっていると言うこともできるでしょう。

 遠藤周作は犬が好きなことでも知られている人ですが、満州時代に満州犬を可愛がっていたことと、母と帰国する時に犬とも別れなければならなかったことが、犬好きとも大きく関係していることでしょう。

 大連で出会った中国人には親愛の情を込めた描き方をしており、満州時代に自宅に来ていたボーイの少年との友情が感じられる他、日本人に売り物を徹底的に値切られる売り子への同情も読み取ることができます。

 遠藤よりも少し年上の作家たち、安倍公房や三島由紀夫が小説作品に自身の主張を刻み込んで行ったのに対し、遠藤の世代、いわゆる第三の新人と呼ばれる人たちの作品には主張よりも心の旅を書くことに関心が強かったようにも思えます。或いは心と主張が不可分になっていたのかも知れません。

 満州は日本の侵略によって作られた植民地国家と言ってよいですが、それだけに、同時代を生きた人たちの中では満州と関わりがあったという人も大勢いました。そういう時代の人の書いた満州に関することを読み解いていくことも、日本の近現代史を理解する上での有効な手助けになるのではないかと思います。

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遠藤周作『アデンまで』

安倍公房と満州

安倍公房と満州

 生前、ノーベル文学賞を獲ると言われ続けた作家の安倍公房は、少年期を満州で送っています。

 彼の作品の一つである『けものたちは故郷をめざす』は、終戦後も満州で暮らしていた日本人の若者が冬の満州を懸命にわたり抜いて日本へ帰るという内容のものです。この作品はあくまでも創作であって、公房個人の経験を書いたものではないとのことなのですが、実際に満州で暮らしたことのある人間だけに書けるであろう迫力に満ちています。

 どの点に於いて迫力に満ちているのかと言うと、寒さに於いてです。

 本州の温暖な気候で育った私には想像に限界がありますが、手も耳もちぎれんばかりの寒さの中、時には徒歩で、時には馬車で真冬の満州を南へ南へと進む様子を読むだけで、じわっじわっと体が冷えていくほどの感覚になっていきます。

 公房の作品に満州のことが書かれることはほぼありません。『砂の女』や『他人の顔』などの彼の著名な作品でも、満州のことを伺わせることはないです。詳細な研究をすれば彼にしか分からない微妙な表現が含まれる可能性はありますが、ざっと読むだけで気づくことはできないでしょう。

 公房の作品には主張があり、作品はそのために書かれるので、個人的な経験というものは敢えて排除しているところがあるように私には感じられます。ただ、それでも全力でおもしろい作品が多いですから、今後も読まれ続けることは間違いのないことだと思います。

 医学や化学の知識を使用して人間と社会を描こうとした公房の作品の中で、実際に暮らしたことのある満州を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』は少々異色な作風と言ってもよいのです。その作品から満州での彼の経験を知ることは難しいと言われていますが、公房の歴史観や中国観を知る上では大いに読むべき作品のように思います。

遠藤周作『アデンまで』

遠藤周作さんの初めて世に出た小説が『アデンまで』です。

フランスに留学していた主人公の日本人の男性であるチバが、肺を患って帰国することになり、

交際していたフランス人女性と別れ、東洋に向かう船に乗り込みます。

アフリカ系住民の女性が病に犯されたまま乗船しており、チバが看病しますが、

女性は亡くなってしまうというのがあらすじです。

 

文体はまだ若々しく、ある意味では青さも残っており、晩年の熟達した感じは

まだ見られません。しかし、『沈黙』や『深い河』を熟読した私にとっては、

新鮮だなあとも感じることができました。

 

この作品の中で主人公は白人の恋人と逢瀬を重ねるものの、白人が「美しい」のに

対して黄色人種である自分は「醜い」という劣等感を膨らませます。

戦争に勝った彼らが「正義」を代表するのに対し、戦争に負けた日本人は「悪」を

代表していることにも劣等感、怒り、憎悪を持ち、それが膨らんでいきます。

 

悔しさと怒りをぶつけるようにして書かれたこの作品には、まだ、遠藤周作さんの

生涯のモチーフであるイエスキリストは登場してきません。

 

とはいえ、まさしく遠藤先生の創作の原点にここにあるのかとつくづく

思わずにはいられません。

 

21世紀の今は当時とは状況がかなり変化し、人種や民族を理由にした

差別は忌むべきものだとの共通認識が持たれていると私は信じたいですが、

一方で、やはり根深いものがあるからこそ、今も某はレイシストだ!的な

批判が見られるのかも知れません。

 

温故知新と言いますが、60年前の古い短編小説を読むことで、現代の

ことを考えるきっかけを得たように思います。