フランシスベーコン‐良くも悪くも現実主義

イギリス経験論哲学の祖とも言えるフランシスコベーコンですが、その発想法の原点は徹底したリアリズムにあったようです。そのため、古代ギリシャ哲学が「宇宙の真理」を探求したことに対しては軽蔑的な態度で臨んでいたとも言われます。観察することによって知識や真理に到達するという点では古代ギリシャ哲学とも共通する部分はあるように思えますが、ベーコンは「役に立つ知識」を重要し、役に立たない知識には関心を持たなかった、或いは「そんな知識を得るための努力は無駄としか思えない、思索にふけって神とか世界とか善とかについて考えるやつってばかじゃね?」くらいに思っていたらしいのです。ベーコンはイギリス近代思想の礎になったとも言えますが、フランス近代思想の礎となったモンテーニュとはその点によって違うがあると言ってもいいかも知れません。

どうも、そのような発想法を持つに至った背景には若いころに苦労し過ぎたということがあったのではないかとも思えます。父親の遺産を受け継ぐことができず、青年期は借金に苦しんだといいます。その後は法曹の世界で活躍し、政治の舞台にも登場して栄達していくわけですが、出世のためには手段を選ばないところがあったらしく、結構、えぐいこともやっていたらしいです。晩年期に入ってから、収賄の罪に問われて失脚し、著述や研究に没頭する日々に入ります。ある時、雪で冷やせば肉の保存期間が長くなるのではないかと考え、その実験をしているときに肺炎になってしまい亡くなってしまいました。想像ですが、ベーコンとしては「もう一花咲かせてやりたい」という思いが強く、「冷蔵技術を確立すれば儲かる」という動機で上のような実験をしたのではないかと思えます。

そのように書くと、人間的に問題のある人で、なんだかなぁ…という結論になってしまいかねませんが、彼の残した4つのイドラという概念は大変に説得的でかつ教訓的でもあると思えます。一つが「種族のイドラ」、次が「洞窟のイドラ」、続いて「市場のイドラ」、そして最後に「劇場のイドラ」があります。イドラとは偏見を意味しており、種族のイドラとは人間という種族が本質的・内在的に有する偏見で、洞窟のイドラは個人的な思い込み、井の中の蛙大海を知らず的なもので、市場のイドラとは市場で飛び交う種々雑多な情報に右往左往させられることを指し、劇場のイドラとは権威にひれ伏しそれを崇拝し、無批判に信じることを指しています。

以上の四つのイドラに自覚的になることはより良い人生を送る上で特に大切なことのように思えますが、ベーコンの場合は以上の4つのイドラを利用して出世したい、おいしい思いがしたいという側面が強く、そういう意味では本人もまた深い業によってイドラに取り込まれた人であったと言えるかも知れません。もっとも、我々人間でも多かれ少なかれイドラを抱え込んでいると言えますので、ベーコンだけが特別にどうとも言い切れず、ベーコンの人生を自分の問題として観察すると、新しい叡智を得られるかも知れません。

ベーコンが以上のようなイドラという概念を著述するに至った経緯は、いわゆるイギリス経験論というある種の研究法則を用いたことがあるわけですが、全ては実験的に経験してみないと分からない(下手な考え休むに似たり)という考え方は現代人の実践主義にも通じるものであるとも思えます。経験論的帰納法によって得られる見解のことを一般に知恵と呼ぶと私は理解していますが、そういう面に於いては、徹底した現実主義者であったベーコンから学べる点もあるように思えます。

モンテーニュ‐近代の始まり

東ローマ帝国の滅亡により、多くの亡命者がイタリアなどへわたったことで、ビザンチウムで蓄積された古典知識がヨーロッパに広く伝えられるようになったことが、近代の始まりと言われています。

それら古典知識はキリスト教がヨーロッパに広がる以前のもの、古代ギリシャ哲学に関するものが多く、中世ヨーロッパでキリスト教的な神の恩寵や奇跡を信じることをベースとした世界観が支配的であったのに対し、古代ギリシャ哲学では観察とそれに基づく思索、及び論理的帰結を重視したため、それがヨーロッパへ輸入されたことにより、近代合理主義の誕生に結びついたという見方が可能でしょうし、そう見ることが一般的ではないかとも思えます。

さて、そのような合理精神を追及したことで著名な人物としてモンテーニュの名前は真っ先にあげらるのではないかと思います。彼の態度は「懐疑主義」と呼ばれ、絶対的な価値観はこの世に存在せず、価値観や文化の違いは優劣ではなく差異に過ぎないと考え、絶対が存在しない以上、絶対的な宗教も存在せず、従って、宗教戦争には意味がないとの立場に立ちました。自分が絶対に正しいということは論理的にもあり得ないため、他者への寛容な精神が必要となり、一方で人間は主観でしか物事を感知することができない以上、その主観を、自分の責任の範囲で大切にするという、現代人の感覚から言ってもなかなか正しいと思える思索を展開しています。

モンテーニュはソクラテスの議論を重視し、ソクラテスがデルフォイの神殿に書かれた言葉である「汝自身を知れ」を自身の哲学的姿勢の基本方針にしていたことに照らし、モンテーニュは「私は何を知るか?」という言葉を用います。「私は何を知るか?」は、ソクラテスの「私は何も知らない‐無知の知」に対応しているとも言え、彼の古典ギリシャ哲学に対する深い理解を示すと同時に、それを自分の人生で実践したという態度は、敬意を払うに価するのではないかとも思えます。

私は『薔薇の名前』的な中世ヨーロッパが完全に無知蒙昧な社会であったとは思いませんし、近代ヨーロッパが完全に文明的に進歩した社会であると言い切ることもできないとも思いますが、少なくともモンテーニュが新しい叡智の時代を切り開く第一歩になったというようなことは言えるのではないかなあと思います。

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トマスモアの『ユートピア』の理想と現実

15世紀後半から16世紀前半までを生きたイングランド人のトマスモアは、その著作である『ユートピア』で、完全に理想的な世界を表現しています。それは、農業生産が完全自給の世界であり、人々の労働時間は一日6時間と定められ、都市と農村の格差を無くすために、二年ごとに都市と農村の人々を入れ替え、更には最も便利な蓄財のツールである貨幣は廃止される世界です。

以前、フランス映画で、とある地球外の文明人たちが、貨幣のような不便で人の心を濁らせる存在はすでに不要になっている生活を送っていましたが、集会場で物々交換をしていたので、「それではかえって不便ではないか…」という感想を持ってしまい、やっぱり通貨無き社会というのは難しいものなのではないかとも思えます。

もし、トマスモアの描いたような、労働時間も決まっており、一切の格差がないとすれば、それは確かにいい社会のように思えますが、人には経済と労働以外の格差も存在するため、完全に格差を消滅させることは不可能というか、それを目指すとかえって人間性を失うことにもなりかねず、経済に限定して格差をなくし、それをして理想郷だと考えるのは、私はちょっと浅はかなのではないかと個人的には思えます。また、そのような社会は変化のダイナミズムに乏しい可能性が高いように思え、結果として多様性を容認せず、環境要因の変化にももろい社会になるのではないかという気もしなくもありません。

格差はあるけど、平和でお気楽だったのが江戸時代です。武士は今日と同じ明日を生きることができることで安心して仕事をすることができます。しかも、臨時で寝ず番みたいなのはあったとしても、基本的には夕方には家に帰れるという理想的で平安な仕組みです。仮にこれについて社会主義的な批判をするとすれば、そのような安心安定は農村から搾取によって成立していたため、容認し難いということになるのではないかと思います。実際、現代人で武士のような特権階級が実際に存在することがいいと思っている人はいないでしょうから、やはり、江戸時代の武士的平安はトマスモアの理想郷とはかなりの違いがあると言えると思います。

一方、江戸時代の農村では、確かに東北地方の冷害のような深刻なことも起きたとはいえ、農村は農村で高い自治を保ち、かつ、平和で、豪農と呼ばれた家も多かったように、それなりに豊かさを享受していたのではないかと思います。ですが、農村の高い自治というものがくせもので、私の頭には『楢山節考』的な生きづらさが浮かんできてしまいます。

興味深いのは、平和主義者であったトマスモアは平和維持のための強力な軍隊の存在が必要だと考えていたことです。強制力がないと、もっとお金がほしいから一日八時間働くというけしからんという輩が出てくるとも言えますし、都会の生活が好きなので、農村に行きたがらないという人も出てくるということもあるかも知れません。理想郷を他者から狙われないための自衛という意味も当然に入るはずです。一歩間違えれば文化大革命に突入しかねない話とも思えます。トマスモアが考えていたのは、ホッブスのレヴァイアサンとか、ナウシカの巨神兵みたいな感じのものかも知れません。宮崎駿は巨神兵のような存在の必要性を認めながらも拒絶したいという矛盾と葛藤の中をナウシカで描いたのだと思いますが、最近の南スーダンPKOとか、或いは力の均衡による平和とか、パクスアメリカーナとか、いろいろな議論をはらみそうな論題ではあるかも知れません。

これは私個人の人間観にかかわることですが、やはりトマスモア的理想郷を作るためには、その社会に参加する人間に高い倫理性が求められるのではないかと思えます。市場原理主義やグローバリズム、自由経済主義のようなものは、社会主義とは逆の発想のようにも一見思えますが、市場原理主義や自由主義経済は虚偽の表示をしないなどの高い倫理性が求められる仕組みであると私は考えていて、トマスモアであろうと、アナーキズムであろうと、経済リベラルであろうと、個々人に高い倫理性が求められますので、突き詰めるとあまり違わない社会になるのではないかとも思います。

トマスモアはヘンリー八世の離婚に反対して処刑されるという、命をかけて信念を貫いた人ですが、彼自身も、高い倫理性を実践すべく日々自己を教育していたのかも知れません。

ストア派の自然法

ストア派は禁欲主義であったことから、快楽主義のエピクロス派とよく対比されます。ただし、エピクロス派も幸福追求のためには無駄な欲望を捨てることを志向していたと言えますので、意外と似ているのではないかという気がしなくもありません。

しかしながら、エピクロス派が、ある意味では「自分さえ」または「自分たちさえ」平穏で幸福ならそれでいいという発想法で引きこもってしまったのに対し、困難に対して敢然と立ち向かう意思を持っていたという点で異なるかも知れません。

人には様々な欲望があって、それは数え切れないほどですが、そういった欲望に打勝ち、論理的発想法で自分が果たして何にたいしてどのような責任を持つのか、サンデル教授の究極の選択みたいなことが目の前に立ち現われてきた際に、自分はいかなる身の処し方を選ぶべきなのかということを考えた点で、ストア派はより社会性が高いと言えるとも思えます。

言い換えれば、ストア派は道徳重視であったとも言え、道徳は一般的な意味での成文法を超えている、即ち、書かれていなくても当然守らなければならない「自然法」があるとしことが、ローマ法の基礎となり、ロックやモンテスキューなどの現代まで続く法理論の基礎になっていきます。

たとえば人を殺してはいけないということは普通、法律には書いてありません。書かなくても当然のこと、当たり前のことだからです。人間の社会にはそのような当然に護られなければならない規律があるから、それをしっかり守りましょう、自分の欲望を充足させるために、そういった自然法を犯すようなことはやめましょうというのは、確かに気高い道徳性が感じられ、今回、ストア派について書いてみようかなと思って少し調べてみた時に、その気高さに感じ入るところもあり、自分もかくありたいという心境にすらなってしまいました。

そういう意味では、法律に禁止されていなくとも、道徳に違反していると思える行為は後味が悪いものですから、やらないほうがいいですし、結果的にはよりよい人生が開けていくということも言えるかも知れません。

ちょっと聖人君子的で、清濁併せ飲むところがないのも、もしかすると人生という意味ではつまらない部分があると思う人もいるかも知れないのですが、朱に交われば赤くなるですから、清濁併せ飲むと結局、汚れてしまうという気もしなくはありません。

もちろん、完璧にストイックに生きるのは無理ですから、最後はバランスの問題なのかも知れません。

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日本の国家原理

明治に入り、伊藤博文憲法の起草に取り掛かりますが、これは意外とやっかいな仕事だったようです。というのも、ヨーロッパでは憲法を持っているかどうかが文明国かどうかを判断する大きな基準と見られていましたが、ヨーロッパに於ける憲法は大原則として王権との闘争、王権の制限、場合によっては王権の否定というところから憲法の原理や思想が育まれてきたのに対し、日本の天皇の場合はヨーロッパの王権とその性質を異にしているため、イギリスやフランスの憲法ではあまり参考にはならなかったからです。そもそも天皇が租税権を有していない、或いは有しているとしてもそれは形式的なものに過ぎず、現実問題としては権利の行使はない、または委任された政府が判断して課税、分配をしているという国情に於いて「天皇は税金を自由に課税できない」などのような項目を盛り込んだところで意味がありません。

伊藤は知恵を絞り抜き、天皇が天照大神の子孫であることを理由に、あたかも王権神授説と見まごうような条文を盛り込みながら、天皇を事実上無力化し、形式上は全ての権力(司法、行政、立法、軍事)が天皇に集中しているようにしておきながら、事実上の権力分立を図るという、うまい具合な感じの憲法を作り上げます。ただし、現代の我々の憲法でいうところの「基本的人権」には思想が及んでおらず、ヨーロッパ型の市民社会的な憲法を書くことには伊藤にも躊躇いがあったのかも知れません。そういうことはゆっくりと時間をかけて進めるべきという発想がおそらくは伊藤の内面にあったのではないかとも想像できますし、もしかすると山県有朋あたりの横やりもあったかも知れません。伊藤本人はイギリス崇拝主義みたいなところもあったわけですから、まさか本気で天皇権神授説みたいなことを考えていたわけでもないでしょう。

さて、太平洋戦争が終わり、GHQによってようやくというべきか、めでたくというべきか、日本人の手で書かれなかったという意味で残念ながらというべきか、判断に迷うものの、ルソーの社会契約説を基礎とする日本国憲法が作られ、それが現代の我々の国家原理となっています。また、ワイマール憲法を参照して社会権も盛り込んである上に、ナチスドイツを産んだ反省から間接民主制に徹しており、更に天皇については「象徴」という便利な言葉でその存在を保障していますので、いろいろな意味でなかなかよく作られている憲法と言えるように私には思えます。

論争の的になるのは憲法9条になるわけですが、英米法風に判例を積み重ねて自衛隊を実質合憲としていくというのも一つの方法のように思えますし、裁判所が統治行為論を採る以上、個人的にはそれもありかなあと思います。ただ、どうしても、どうしても、現行憲法では具合が悪いと考える人もいるでしょうけれど、もし、憲法を変えるとすれば、個人的には憲法9条第二項に但し書きを書き加えるのがいいのではないかなあと思います。即ち「但し、自衛権はこの限りではない」または「但し、自衛権及び国際貢献に於いてはこの限りではない」と付け加えれば、だいたい丸く収まるというか、現実にも一致させていくことができるのではなかろうかという気がします。

稀に、日本には自衛権がないと考える人もいるように思えますが、ロックが唱えた生命、財産、自由、平等」の自然権の確立を考慮すれば、自衛権がないと国民の自然権も守れませんので、自衛権に関してはあると考えるのが自然なことではなかろうかと思えます。

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トランプ相場と日本の労働環境

日経新聞がフィナンシャルタイムスを買収したことは記憶に新しいですが、そのフィナンシャルタイムスで日本の労働習慣に対して厳しい意見が述べられています。

日本人の労働時間が長く、「働きすぎ」とも言える状態になっており、しかも少子化で今後は人材不足が確実視されており、一応は労働時間の短縮が検討されてはいるものの、記者の考えでは今年の夏あたりにも今のトランプ相場の揺り戻しがあるだろうから、時短はそれを見越してのことではないかとの見方を示しています。過去にも石油ショックやリーマンショックの時に似たような時短の試みがなされたことを例に出して論じられており、私の印象としては「揺り戻しのトランプショックに備えて時短しようとしている」と言いたいように感じられました。日本の派遣労働についても批判的に述べており、全体としてかなり厳しい論調になっています。

私も以前は会社から給料をもらう身でしたので、絶望的に帰宅させてもらえない、その日のうちに帰れないという毎日の「しんどさ」のようなものはよく知っているつもりですので、時短、大いに歓迎と思います。当時を振り返ってみると、拘束時間が長かったわりには仕事をしたという実感はあまりなく、日本の会社習慣ではその組織に属しているということを長時間職場にいることで証明することに意義が見出されているという感じでしたので、「働きすぎ」というよりは「拘束しすぎ」という方が近いのではないかという気がしなくもありません。

フィナンシャルタイムスの記者が上のような論調で述べた背景には現政権が時短に取り組むというニュースがあったからに違いありませんが、東京の特派員の多くは日本のメディアをよく観察して配信内容を組み立てていますので、これもそういう感じのものだという印象を得ましたが、記者の指摘があながち間違ったものとも言えないと感じられる部分もありました。

指摘によると、トランプ政権がまず間違いなく保護主義に走る以上、世界経済の冷え込みは避けられず、円はやがて値上がりしていく上に、投機筋は既に上がり切った相場を見ながら売り時を探っているというのです。一理あるようにも思えます。

アメリカのような巨大な内需国が保護主義に走れば、外需産業にとっては好ましいことではありません。ましてや東芝の危機がありますので、もし年内に東芝がなくなるみたいなことになったら、日本失墜という印象を抱いたまま落胆の年末ということもあり得ないことではありません。

とはいえ、日本はアメリカに次ぐ内需国ですから、そろそろ外需頼みというある種の思想から逃れ、内需新興を真剣に考えるのがいいのではないかと個人的には思えます。思い切って消費税5パーセントに下げることができれば、日本の内需は一機に活気づき、外需がどうこうということを忘れてしまえるくらいになるかも知れません。ごくごく個人的には消費税率の引き下げを公約に今年の秋に解散総選挙を打ってもらえないものだろうかと願っております。

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アメリカ企業がフィリピンにアウトソーシングしている件

今、アメリカ企業からフィリピンの企業へのアウトソーシングがちょっとしたブームになっているとフィナンシャルタイムスが報じています。アメリカの消費者がコールセンターに電話するとフィリピンのスタッフにつながり、説明を受けるというサービスなどがあるらしいのですが、経済の法則に則ったと言える良い面と、それ故にか或いは政治的な意味での悪い面の両方があるようです。

良い面というのはもちろん、フィリピンの人件費はアメリカのそれよりも遥かに低いはずですから、アメリカの消費者はより安い値段でサービスを受けることができるということがあります。ですが一方で、それだけアメリカ人の雇用を奪っているということが、いわば悪い面で、ドナルドトランプさんが大統領になったことで、アメリカという巨大消費地の企業が第三世界の人件費の安い国や地域にアウトソーシングするというビジネスモデルに地殻変動が起きるかも知れないというようなことらしいです。

物価が安くて雇用のない国と、物価が高くて雇用のある国だったら、私は個人的には後者の方がよりよいのではないかと思いますので、アメリカの企業に強引にでもフィリピンから引き揚げさせてアメリカ国内にコールセンターなりなんなりを置いてアメリカ人の雇用を増やすというのは、ある一面に於いては理に適っているようにも思えます。より高付加価値なものをより安価に提供できる企業が生き延びるという経済の法則から考えてみれば、そのような強引なやり方をすると結局はいわゆる国際競争力の衰えを招く可能性もないとは言えず、これについては今までのモデルではない、これからの話になりますので、すぐに答えが出るわけではないですが、今後、どうなっていくものか注目したい点ではあるように思えます。

フリードマンが『フラット化する世界』という本を書いて話題になったことがありますが、今は中国でもどこでも人件費が上がっていて、かつてほどいわゆる主要国との賃金差が大きいわけではなく、対して差がないのなら、或いはアメリカ国内にサービス拠点を置いた方が何かと便利ということは充分にあり得るようにも思えます。その場合、世界は再びフラット化からブロック化へと移行していくかも知れないのですが、果たしてそれが第一次世界大戦前後の時代に後退していくものなのか、それとも全く私たちの知らなかった新しいモデルへと移行していくものなのかも注意深く見守りたいと思います。

フィリピンの企業がアメリカ企業のコールセンターを引き受けることができる背景には、フィリピン人の英語力の高さということが挙げられると思います。20年ほど前はインドにコールセンターが移っていることが話題になったこともありますが、これもインド人の英語力の高さが背景にあると思えます。しかしながら、アメリカ人の知り合いの経験談によると、コールセンターの人が何を言っているか分からなかったので、コールセンターとしての役割を果たしていないという面もあるらしいので、「英語力」だけでは片付けることのできない面もあるのかも知れません。

アメリカという巨大な内需国の主要な言語が英語だということは、確かにフィリピンやインドのように英語の話せる人の多い国や地域にとってはビジネスチャンスになり得ます。では「日本人も世界を相手にビジネスだ!英語力が低いからアメリカ企業のアウトソーシングをフィリピンやインドに獲られるのだ!」という結論に至るかと言えば、私個人の意見ですが、そういうわけではないように思えます。

日本はアメリカに次ぐ豊かな内需国家です。英語圏から受注して経済を回すわけではないので、ぶっちゃけ英語は必要ないとすら言ってもいいかも知れません。私も英語はよく勉強しましたが、結局のところ役立っているのは英語圏のニュースを聴いて「ふーん、そうなのか」と思う程度のことしか具体的に利するところはありません。

トランプさんの今後の出方がよく分からないということや、就任演説があまり良くなかったということで、今日は円高株安に振れたようなのですが、外国のことはそこまで気にする必要はなく、日本は日本でやっていけるよう、内需を充実させていく道を選ぶのがいいのではないかという気がします。江戸時代は国内の需要だけで経済発展したわけですし、戦争が終わって70年以上過ぎ、今さら輸出で外貨を稼がないと困るというような時代でもありません。

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キューバの観光事情

昨年、アメリカとの国交が回復したキューバですが、それに伴いアメリカの観光客が続々とキューバを訪れるようになっているようです。フロリダ以上の南国感、ラテンアメリカ風の異国情緒が楽しめるのが魅力のようです。

それだけではありません。は長い間アメリカとの交渉を絶ち、事実上鎖国に近い状態が続いていましたから、自動車などを昔アメリカから輸入したクラシックカーを今でも大切に修理を続けて使っているなど、60年代にタイムスリップができたかのような錯覚を起こせるのも随分と魅力的な観光資源だと考えられているようです。

しかし、その独特の雰囲気がいつまで持つかはなんとも言えないところです。現在、キューバではホテルが少なく、観光客の増加に耐えられるよう大急ぎで新しいホテルの建設が始まっていますが、多分、いずれはラスベガスとかマカオみたいな感じになってまるでバチスタ政権の時みたいになる可能性がありますから、キューバの雰囲気は相当に変わると予想されています。

今もキューバは独裁政権ですが、アメリカ資本がばんばん入ってきたら、バチスタ時代と何が違うのかが分からなくなってしまいそうな気もしてしまい、過去60年間の「信念の社会主義」はどうなるのだろうとちょっと寂しい気もしないわけではありません。時代の流れの速い昨今のことですから、あっという間の数年間にアメリカの地方都市みたいになるのではないかという気がしますし、これまでボートに乗って命がけでアメリカ亡命してきた人たちにとっては、なんやねんこれは…と言いたくなるような展開を見せるようになるかも知れません。

今はAir bnbが世界的に人気ですから、とある英語メディアによると、キューバでもAir bnbで一般の人が部屋を貸すというのが随分が流行しているようです。常に満室と言ってもよいほどに繁盛しているair bnbの宿もあるらしく、オーナーの方は将来に対して相当に楽観的な様子だったように見受けられます。ただし、2020年にはキューバのホテルは今の倍になる予定で建設続いていますので、激しい競争状態に陥る可能性も予想できます。そうすると今air bnbをやっている人たちの今後も気にならないわけでもありません。

airbnbはインターネットで部屋を予約するシステムですが、キューバではネット環境に限界があり、それも受注対応などの面での不安にもなっているようです。

今後はアメリカのトリップアドバイザーも参入してくれますので、キューバ旅行はますますブームになり、日本人からも大勢キューバに行く人が出て来るかも知れません。10年後くらいにキューバがどうなっているのか楽しみな気もしますが、アアジア圏と英語圏ならなんと生きているいける自信はあるものの、スペイン語圏でやっていけるかと問われれば自信はないので、ま、いっか、関係ないし…とも思わなくもありません。

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報道の自由と取材の自由

「報道の自由」が果たしてどこまでゆるされるのか、虚報や誤報は別としてその内容が真実だとしても、なんでもかんでも報道していいのかというのは結構議論のあるところというか、それぞれ人がそれぞれに意見があるのだろうと思います。なんといってもマスメディアには権力を監視するという大切な役割がありますから、そこに制限がかけられることは望ましいことではありません。原則として、無制限であるべきで尾はないかと私個人は思います。報道は取材しないとできませんから、「取材する自由」についても同様に広く求められるべきと思います。尤も、それは飽くまでも権力の監視に限ったことだと思いますので、それ以外のことではある種の節度が求められるかも知れません。

報道の自由に関する議論としてよく話題にされるのが、いわゆる西山事件と呼ばれるものです。毎日新聞の西山記者が外務省の女性事務職員と男女の仲になり、その関係性を利用して沖縄返還に関する秘密の電文を入手し、それを社会党の議員に渡して国会で暴露されるという展開のもので、刑事事件にまで発展しています。

私個人の意見ですが、報道の自由という観点から論じるのなら、新聞記者には外務省の秘密文書を世に問うという権利は当然に認められなくてはならないものだと思います。しかしながら、この事件で世間の耳目を集めたのは、記者が事務職員の女性と男女の仲になるという手段で情報を手に入れたということです。この点に関しては感情的な面でいやーな気分にどうしてもなってしまいますし、当時も激しく批判されたようです。男女の情を利用して秘密情報をと手に入れるというのはほとんどスパイ映画みたいな話になってしまうのですが、情報を手に入れるためにそのような人間的感情を弄ぶというのは、やはり許容の範囲外なのではないかという気がしないわけでもありません。

そういう意味では、取材の自由や取材源の秘匿については新聞記者は広くその権利を認められてしかるべきとは思えるのの、そういう権利があるからこそ、ネタのためには何をやってもいいのかどうかについては節度のようなものが求められるのではないかと思えます。

また、西山記者の事件で問題にされたのは、自分の勤務する新聞紙上で公開するとすれば、ジャーナリズムと権力との闘いとも言えますので、新聞がんばれ!と応援したくなるかも知れないのですが、当該記者はそういう手段を採らず、野党の議員にネタを流して国会で暴露させています。そういう風になるともはやジャーナリズムですらなく、権力の監視とは別の話になってしまいますので、裁判所もわりと厳し目な判断をしたのではないだろうかという気がします。

西山記者はその後毎日新聞社を退社しましたが、21世紀に入り、アメリカで日米間の秘密文書が公開され、確かに密約があったことが確認されたとも言えますが、西山さんがテレビに出演して「俺の取材した内容は正しかったじゃないか」的な感じのことをお話ししていらっしゃいましたが、テレビを見ている人の中には「いや…問題はそこにあるのではなくて…」と絶句した人が多かったのではないでしょうか。

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政治家の靖国参拝と政教分離

今さら言うまでもないことですが、日本は憲法で政教分離することに決められています。しかしながら、もしそれを厳密にやるとなると結構難しい問題もはらんできます。

政治家が特殊な宗教に入信しているなどの極端な例を持ち出す必要はなく、むしろ政治家が地元のお寺の檀家さんだったり、あるいは初詣でご近所の八幡神社に参拝したりというようなことは、日本人の一般的な生活の一部と言えますので、そこまで政教分離がーっと言うのはもしかすると少し無理があるのではないかなあと思えなくもありません。小沢一郎さんが熊野詣をしたことがありますが、そういうのもダメなのかと言えば、かえって日本人の生活感覚から乖離してしまうのではなかろうかという気もしてしまいます。

一応、目的・効果基準という概念があるらしく、政治が特定の宗教に対して「宗教的意義を持ち」かつ「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」をしてはいけないということで線引きがされているようです。

三重県津市で市立体育館を作る際、地鎮祭を行ったことが政教分離の原則に反するのではないかという訴訟が起きたことがありましたが、これについては最高裁で「専ら世俗的行為」にあたるとして訴えが退けられたという判例があるようなのですが、一方で愛媛県知事が靖国神社や護国神社に戦没者遺族援護の一環として公費で玉串料を納めたことは最高裁で違憲だという判断がくだされているそうです。

公費で玉串料を納めたところで判断の違いが出たのではなかろうかという気がしなくもないですが、三重県津市の地鎮祭の件でも神主さんにはお車代くらいはお渡ししているのではないかという憶測は可能のようにも思えますので、そのへんはいいのだろうかと個人的には疑問に思えなくもありません。

さて、地方自治体の長が地元の神社の神主さんと仲良くするとかなら特に目くじらを立てて騒ぎ立てることもないように思えるのですが、総理大臣が靖国神社という論争のある場所に出かけて行くことの是非についてはどう考えればいいのでしょうか。中曽根康弘首相が靖国神社に参拝したことも訴訟で争われましたが、地方公共団体の首長の場合、住民訴訟という手段で問いかけることができるのに対し、国家に対しては住民訴訟という仕組みはなく、国家賠償請求ということになるわけですが、これについては違憲の可能性は絶対ないとは言えないけれど、原告に具体的な被害が出ていないという理由で退けられているようです。

なかなかの変化球のようにも個人的には思えるのですが、靖国神社については靖国神社そのものが政治論争の真っただ中にあるようにも思え、私もどう思っていいのか分からない…と立ち止まらざるを得なくなってしまいます。小泉純一郎さんが「心の問題だから私の自由」というのも一理あると思えますが、かくも政治性の強い論争の的になっている宗教施設に総理大臣が行くことが絶対に正しいのかと議論の刃をつきつけられれば「ぐぬぬ…」ともなってしまいそうな気がします。

私は母方の祖父が戦死していますので、何度か靖国神社に行ったことはありますが、総理大臣とか天皇陛下にも参拝してほしいとかは特に思いません。私個人の意思で行きたい場所に行きたい時に行ければそれで文句はありません。もうちょっと言うと総理大臣と天皇陛下が参拝したとしてもそんなに嬉しくもありません。私には関係のないことなので、どっちでもいいというのが本音です。愛媛県の知事が玉串料を納めたのがよくなかったみたいなので、玉串料は私費でやっていただければオーケーなのではなかろうかとも思います。尤も、天皇陛下の場合、「私費」があり得るのかという素朴な疑問は残るわけですが…。

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