トランプ相場と日本の労働環境

日経新聞がフィナンシャルタイムスを買収したことは記憶に新しいですが、そのフィナンシャルタイムスで日本の労働習慣に対して厳しい意見が述べられています。

日本人の労働時間が長く、「働きすぎ」とも言える状態になっており、しかも少子化で今後は人材不足が確実視されており、一応は労働時間の短縮が検討されてはいるものの、記者の考えでは今年の夏あたりにも今のトランプ相場の揺り戻しがあるだろうから、時短はそれを見越してのことではないかとの見方を示しています。過去にも石油ショックやリーマンショックの時に似たような時短の試みがなされたことを例に出して論じられており、私の印象としては「揺り戻しのトランプショックに備えて時短しようとしている」と言いたいように感じられました。日本の派遣労働についても批判的に述べており、全体としてかなり厳しい論調になっています。

私も以前は会社から給料をもらう身でしたので、絶望的に帰宅させてもらえない、その日のうちに帰れないという毎日の「しんどさ」のようなものはよく知っているつもりですので、時短、大いに歓迎と思います。当時を振り返ってみると、拘束時間が長かったわりには仕事をしたという実感はあまりなく、日本の会社習慣ではその組織に属しているということを長時間職場にいることで証明することに意義が見出されているという感じでしたので、「働きすぎ」というよりは「拘束しすぎ」という方が近いのではないかという気がしなくもありません。

フィナンシャルタイムスの記者が上のような論調で述べた背景には現政権が時短に取り組むというニュースがあったからに違いありませんが、東京の特派員の多くは日本のメディアをよく観察して配信内容を組み立てていますので、これもそういう感じのものだという印象を得ましたが、記者の指摘があながち間違ったものとも言えないと感じられる部分もありました。

指摘によると、トランプ政権がまず間違いなく保護主義に走る以上、世界経済の冷え込みは避けられず、円はやがて値上がりしていく上に、投機筋は既に上がり切った相場を見ながら売り時を探っているというのです。一理あるようにも思えます。

アメリカのような巨大な内需国が保護主義に走れば、外需産業にとっては好ましいことではありません。ましてや東芝の危機がありますので、もし年内に東芝がなくなるみたいなことになったら、日本失墜という印象を抱いたまま落胆の年末ということもあり得ないことではありません。

とはいえ、日本はアメリカに次ぐ内需国ですから、そろそろ外需頼みというある種の思想から逃れ、内需新興を真剣に考えるのがいいのではないかと個人的には思えます。思い切って消費税5パーセントに下げることができれば、日本の内需は一機に活気づき、外需がどうこうということを忘れてしまえるくらいになるかも知れません。ごくごく個人的には消費税率の引き下げを公約に今年の秋に解散総選挙を打ってもらえないものだろうかと願っております。

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アメリカ企業がフィリピンにアウトソーシングしている件

今、アメリカ企業からフィリピンの企業へのアウトソーシングがちょっとしたブームになっているとフィナンシャルタイムスが報じています。アメリカの消費者がコールセンターに電話するとフィリピンのスタッフにつながり、説明を受けるというサービスなどがあるらしいのですが、経済の法則に則ったと言える良い面と、それ故にか或いは政治的な意味での悪い面の両方があるようです。

良い面というのはもちろん、フィリピンの人件費はアメリカのそれよりも遥かに低いはずですから、アメリカの消費者はより安い値段でサービスを受けることができるということがあります。ですが一方で、それだけアメリカ人の雇用を奪っているということが、いわば悪い面で、ドナルドトランプさんが大統領になったことで、アメリカという巨大消費地の企業が第三世界の人件費の安い国や地域にアウトソーシングするというビジネスモデルに地殻変動が起きるかも知れないというようなことらしいです。

物価が安くて雇用のない国と、物価が高くて雇用のある国だったら、私は個人的には後者の方がよりよいのではないかと思いますので、アメリカの企業に強引にでもフィリピンから引き揚げさせてアメリカ国内にコールセンターなりなんなりを置いてアメリカ人の雇用を増やすというのは、ある一面に於いては理に適っているようにも思えます。より高付加価値なものをより安価に提供できる企業が生き延びるという経済の法則から考えてみれば、そのような強引なやり方をすると結局はいわゆる国際競争力の衰えを招く可能性もないとは言えず、これについては今までのモデルではない、これからの話になりますので、すぐに答えが出るわけではないですが、今後、どうなっていくものか注目したい点ではあるように思えます。

フリードマンが『フラット化する世界』という本を書いて話題になったことがありますが、今は中国でもどこでも人件費が上がっていて、かつてほどいわゆる主要国との賃金差が大きいわけではなく、対して差がないのなら、或いはアメリカ国内にサービス拠点を置いた方が何かと便利ということは充分にあり得るようにも思えます。その場合、世界は再びフラット化からブロック化へと移行していくかも知れないのですが、果たしてそれが第一次世界大戦前後の時代に後退していくものなのか、それとも全く私たちの知らなかった新しいモデルへと移行していくものなのかも注意深く見守りたいと思います。

フィリピンの企業がアメリカ企業のコールセンターを引き受けることができる背景には、フィリピン人の英語力の高さということが挙げられると思います。20年ほど前はインドにコールセンターが移っていることが話題になったこともありますが、これもインド人の英語力の高さが背景にあると思えます。しかしながら、アメリカ人の知り合いの経験談によると、コールセンターの人が何を言っているか分からなかったので、コールセンターとしての役割を果たしていないという面もあるらしいので、「英語力」だけでは片付けることのできない面もあるのかも知れません。

アメリカという巨大な内需国の主要な言語が英語だということは、確かにフィリピンやインドのように英語の話せる人の多い国や地域にとってはビジネスチャンスになり得ます。では「日本人も世界を相手にビジネスだ!英語力が低いからアメリカ企業のアウトソーシングをフィリピンやインドに獲られるのだ!」という結論に至るかと言えば、私個人の意見ですが、そういうわけではないように思えます。

日本はアメリカに次ぐ豊かな内需国家です。英語圏から受注して経済を回すわけではないので、ぶっちゃけ英語は必要ないとすら言ってもいいかも知れません。私も英語はよく勉強しましたが、結局のところ役立っているのは英語圏のニュースを聴いて「ふーん、そうなのか」と思う程度のことしか具体的に利するところはありません。

トランプさんの今後の出方がよく分からないということや、就任演説があまり良くなかったということで、今日は円高株安に振れたようなのですが、外国のことはそこまで気にする必要はなく、日本は日本でやっていけるよう、内需を充実させていく道を選ぶのがいいのではないかという気がします。江戸時代は国内の需要だけで経済発展したわけですし、戦争が終わって70年以上過ぎ、今さら輸出で外貨を稼がないと困るというような時代でもありません。

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キューバの観光事情

昨年、アメリカとの国交が回復したキューバですが、それに伴いアメリカの観光客が続々とキューバを訪れるようになっているようです。フロリダ以上の南国感、ラテンアメリカ風の異国情緒が楽しめるのが魅力のようです。

それだけではありません。は長い間アメリカとの交渉を絶ち、事実上鎖国に近い状態が続いていましたから、自動車などを昔アメリカから輸入したクラシックカーを今でも大切に修理を続けて使っているなど、60年代にタイムスリップができたかのような錯覚を起こせるのも随分と魅力的な観光資源だと考えられているようです。

しかし、その独特の雰囲気がいつまで持つかはなんとも言えないところです。現在、キューバではホテルが少なく、観光客の増加に耐えられるよう大急ぎで新しいホテルの建設が始まっていますが、多分、いずれはラスベガスとかマカオみたいな感じになってまるでバチスタ政権の時みたいになる可能性がありますから、キューバの雰囲気は相当に変わると予想されています。

今もキューバは独裁政権ですが、アメリカ資本がばんばん入ってきたら、バチスタ時代と何が違うのかが分からなくなってしまいそうな気もしてしまい、過去60年間の「信念の社会主義」はどうなるのだろうとちょっと寂しい気もしないわけではありません。時代の流れの速い昨今のことですから、あっという間の数年間にアメリカの地方都市みたいになるのではないかという気がしますし、これまでボートに乗って命がけでアメリカ亡命してきた人たちにとっては、なんやねんこれは…と言いたくなるような展開を見せるようになるかも知れません。

今はAir bnbが世界的に人気ですから、とある英語メディアによると、キューバでもAir bnbで一般の人が部屋を貸すというのが随分が流行しているようです。常に満室と言ってもよいほどに繁盛しているair bnbの宿もあるらしく、オーナーの方は将来に対して相当に楽観的な様子だったように見受けられます。ただし、2020年にはキューバのホテルは今の倍になる予定で建設続いていますので、激しい競争状態に陥る可能性も予想できます。そうすると今air bnbをやっている人たちの今後も気にならないわけでもありません。

airbnbはインターネットで部屋を予約するシステムですが、キューバではネット環境に限界があり、それも受注対応などの面での不安にもなっているようです。

今後はアメリカのトリップアドバイザーも参入してくれますので、キューバ旅行はますますブームになり、日本人からも大勢キューバに行く人が出て来るかも知れません。10年後くらいにキューバがどうなっているのか楽しみな気もしますが、アアジア圏と英語圏ならなんと生きているいける自信はあるものの、スペイン語圏でやっていけるかと問われれば自信はないので、ま、いっか、関係ないし…とも思わなくもありません。

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報道の自由と取材の自由

「報道の自由」が果たしてどこまでゆるされるのか、虚報や誤報は別としてその内容が真実だとしても、なんでもかんでも報道していいのかというのは結構議論のあるところというか、それぞれ人がそれぞれに意見があるのだろうと思います。なんといってもマスメディアには権力を監視するという大切な役割がありますから、そこに制限がかけられることは望ましいことではありません。原則として、無制限であるべきで尾はないかと私個人は思います。報道は取材しないとできませんから、「取材する自由」についても同様に広く求められるべきと思います。尤も、それは飽くまでも権力の監視に限ったことだと思いますので、それ以外のことではある種の節度が求められるかも知れません。

報道の自由に関する議論としてよく話題にされるのが、いわゆる西山事件と呼ばれるものです。毎日新聞の西山記者が外務省の女性事務職員と男女の仲になり、その関係性を利用して沖縄返還に関する秘密の電文を入手し、それを社会党の議員に渡して国会で暴露されるという展開のもので、刑事事件にまで発展しています。

私個人の意見ですが、報道の自由という観点から論じるのなら、新聞記者には外務省の秘密文書を世に問うという権利は当然に認められなくてはならないものだと思います。しかしながら、この事件で世間の耳目を集めたのは、記者が事務職員の女性と男女の仲になるという手段で情報を手に入れたということです。この点に関しては感情的な面でいやーな気分にどうしてもなってしまいますし、当時も激しく批判されたようです。男女の情を利用して秘密情報をと手に入れるというのはほとんどスパイ映画みたいな話になってしまうのですが、情報を手に入れるためにそのような人間的感情を弄ぶというのは、やはり許容の範囲外なのではないかという気がしないわけでもありません。

そういう意味では、取材の自由や取材源の秘匿については新聞記者は広くその権利を認められてしかるべきとは思えるのの、そういう権利があるからこそ、ネタのためには何をやってもいいのかどうかについては節度のようなものが求められるのではないかと思えます。

また、西山記者の事件で問題にされたのは、自分の勤務する新聞紙上で公開するとすれば、ジャーナリズムと権力との闘いとも言えますので、新聞がんばれ!と応援したくなるかも知れないのですが、当該記者はそういう手段を採らず、野党の議員にネタを流して国会で暴露させています。そういう風になるともはやジャーナリズムですらなく、権力の監視とは別の話になってしまいますので、裁判所もわりと厳し目な判断をしたのではないだろうかという気がします。

西山記者はその後毎日新聞社を退社しましたが、21世紀に入り、アメリカで日米間の秘密文書が公開され、確かに密約があったことが確認されたとも言えますが、西山さんがテレビに出演して「俺の取材した内容は正しかったじゃないか」的な感じのことをお話ししていらっしゃいましたが、テレビを見ている人の中には「いや…問題はそこにあるのではなくて…」と絶句した人が多かったのではないでしょうか。

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政治家の靖国参拝と政教分離

今さら言うまでもないことですが、日本は憲法で政教分離することに決められています。しかしながら、もしそれを厳密にやるとなると結構難しい問題もはらんできます。

政治家が特殊な宗教に入信しているなどの極端な例を持ち出す必要はなく、むしろ政治家が地元のお寺の檀家さんだったり、あるいは初詣でご近所の八幡神社に参拝したりというようなことは、日本人の一般的な生活の一部と言えますので、そこまで政教分離がーっと言うのはもしかすると少し無理があるのではないかなあと思えなくもありません。小沢一郎さんが熊野詣をしたことがありますが、そういうのもダメなのかと言えば、かえって日本人の生活感覚から乖離してしまうのではなかろうかという気もしてしまいます。

一応、目的・効果基準という概念があるらしく、政治が特定の宗教に対して「宗教的意義を持ち」かつ「援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」をしてはいけないということで線引きがされているようです。

三重県津市で市立体育館を作る際、地鎮祭を行ったことが政教分離の原則に反するのではないかという訴訟が起きたことがありましたが、これについては最高裁で「専ら世俗的行為」にあたるとして訴えが退けられたという判例があるようなのですが、一方で愛媛県知事が靖国神社や護国神社に戦没者遺族援護の一環として公費で玉串料を納めたことは最高裁で違憲だという判断がくだされているそうです。

公費で玉串料を納めたところで判断の違いが出たのではなかろうかという気がしなくもないですが、三重県津市の地鎮祭の件でも神主さんにはお車代くらいはお渡ししているのではないかという憶測は可能のようにも思えますので、そのへんはいいのだろうかと個人的には疑問に思えなくもありません。

さて、地方自治体の長が地元の神社の神主さんと仲良くするとかなら特に目くじらを立てて騒ぎ立てることもないように思えるのですが、総理大臣が靖国神社という論争のある場所に出かけて行くことの是非についてはどう考えればいいのでしょうか。中曽根康弘首相が靖国神社に参拝したことも訴訟で争われましたが、地方公共団体の首長の場合、住民訴訟という手段で問いかけることができるのに対し、国家に対しては住民訴訟という仕組みはなく、国家賠償請求ということになるわけですが、これについては違憲の可能性は絶対ないとは言えないけれど、原告に具体的な被害が出ていないという理由で退けられているようです。

なかなかの変化球のようにも個人的には思えるのですが、靖国神社については靖国神社そのものが政治論争の真っただ中にあるようにも思え、私もどう思っていいのか分からない…と立ち止まらざるを得なくなってしまいます。小泉純一郎さんが「心の問題だから私の自由」というのも一理あると思えますが、かくも政治性の強い論争の的になっている宗教施設に総理大臣が行くことが絶対に正しいのかと議論の刃をつきつけられれば「ぐぬぬ…」ともなってしまいそうな気がします。

私は母方の祖父が戦死していますので、何度か靖国神社に行ったことはありますが、総理大臣とか天皇陛下にも参拝してほしいとかは特に思いません。私個人の意思で行きたい場所に行きたい時に行ければそれで文句はありません。もうちょっと言うと総理大臣と天皇陛下が参拝したとしてもそんなに嬉しくもありません。私には関係のないことなので、どっちでもいいというのが本音です。愛媛県の知事が玉串料を納めたのがよくなかったみたいなので、玉串料は私費でやっていただければオーケーなのではなかろうかとも思います。尤も、天皇陛下の場合、「私費」があり得るのかという素朴な疑問は残るわけですが…。

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未決拘留者の人権

一般論かも知れないのですが、通常、犯罪を犯して有罪判決を受けた人が刑務所の中で人権上の制約を受けるというのは理解できます。一定期間、人権上の制約を受けることそのものが罪を償うことになっていると思えるからです。

しかしながら、未決拘留されている人の場合はどうなのでしょうか。有罪判決を受ける前の段階の人に対しては、仮に逮捕されていたとしても推定無罪の原則が適用されていなくてはいけません。そのため、未決拘留される人は逃走または証拠隠滅のおそれがある場合に限って拘留されるのが筋というものではないかと思います。もうちょっと言うと、拘留さえされていれば逃走も証拠隠滅もできませんから、その中で何をしてどのように過ごすかはその人の自由とも言えるようにも思えます。

過去に、日本赤軍のメンバーだった学生の人が公務執行妨害などで逮捕され、未決拘留されていた時、その人は私費で読売新聞を購読していたのですが、拘置所長の判断でよど号ハイジャック事件に関する記事が黒塗りにされてから、その人の手に渡ったということが問題になったことがありました。未決拘留されている人の場合、飽くまでも逃亡または証拠隠滅を防止するために拘留されているだけなので、その中でどんなことをして過ごそうともその人の自由は保障されていなければいけないはずです。特に新聞を読んでいるだけでは逃亡にも証拠隠滅にもなりませんから、自由に読むことができてしかるべきです。また、私費で購読している以上、その新聞はその人の私的な財産であるとも言え、一部を黒塗りにすることは私的財産の侵害だということもできなくはありません。

このことは裁判になり、結論から言えば裁判所は拘置所長が黒塗りにしたことが憲法違反ではないという判断を示しました。拘置所長がそのような行為をすることは最小限度に限られ、かつ他に手段がない場合に限定されるものの、そういう条件が満たされているのであれば、現場の裁量に任せることが妥当だというわけです。読売新聞の記事を黒塗りにしたことが「最小限度」かつ「他に手段がない」のかどうかは意見の分かれるところかとも思えますが、まあ、裁判所としてはそういう結論に至ったということのようです。

さて、かつていわゆるロス疑惑事件で三浦和義さんが長期間拘留されていたことがありました。その間、三浦和義さんは宮沢りえの写真を見ることもできたそうです。確かにロス疑惑事件と宮沢りえの写真集には関連性があるとは思えませんから、妥当と言えば妥当と言えます。しかしながら、実はごく個人的なことなのですが、私の父が逮捕されたことがあり、父は谷崎潤一郎の本を差し入れてほしいというリクエストをしたため、母が留置されているところ(要するに代用監獄)まで谷崎の本を持って行ったことがあります。確か全集のうちの一冊で、谷崎の作品には官能的なものが多いですから、帯には女性の裸の絵が描かれていました。警察の人が「その帯はだめ」と判断し、帯だけ外して母に還されました。多分、「女性の裸の絵」が世俗的な楽しみのうちに入るという判断になったのだと思います。しかしながら、三浦和義さんが宮沢りえの写真集を見ることができて、父が谷崎の本の帯を見ることができないことにはなんだか違和感というか、ちょっと疑問に感じないわけではありません。

三浦和義さんは『弁護士いらず』という本を書いたほど、自力で戦った人ですから、宮沢りえの写真集を見る権利も戦って勝ち取ったのかも知れません。一方で、私の両親にはそのように戦う知恵や力がなかったということだけなのかも知れません。私個人は父が谷崎の本の帯を見れなかったということについて別に悔しいとも自分の権利が侵害されたとも思いませんから、どうでもいいと言えばどうでもいいのですが、ふと、そういったことが念頭に浮かんだのでブログに書いてみることにしました。

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小沢一郎とドナルドトランプ

今さら感は多少ありますが、ドナルドトランプさんが大統領になると予想できた人はかなり少なかったはずです。私もCNNをウオッチする限り、とてもトランプさんが勝とは思えませんでした。しかし、インターネット上では確かにトランプさん支持の声は高かったことも感じました。しかし私はまさか…と思い、インターネット上での声を無視していました。今思えば自分の不明を恥じるしかありません。

なぜ私がインターネットでのトランプさん支持の声を無視していたかと言うと、過去に小沢一郎さんがインターネットでは極めて多くの支持の声を得ていながら、実際的には菅直人さんに対して敗北したという事象があったからです。

そのころ私はインターネットでかくも高い支持を得ている小沢一郎さんが菅直人さんを圧倒すると考えていました。しかし実際には小沢さんは政治的に菅直人さんに敗北しています。その経験からネット上の支持不支持は現実に反映されているとは考えにくいと判断するようになりました。

さて、トランプさんですが、ネットで検索する限り、基本的にはトランプ支持の声が圧倒的に高く、ネットだけを見ている人にとってはトランプ勝利に見え、CNNを見ている人にはヒラリーさん勝利に見えたはずです。今、FOXは明らかにトランプさんを後押ししていますが、選挙期間中はややヒラリーさん寄りだったように記憶しています。

上記のことから言えることは、小沢一郎さんと菅直人さんが敵対していた時にはネットの声と実際が乖離していたのに対して、トランプさんとヒラリーさんが戦っていた時にはネットの声が実際に近くなっていたということです。

なぜ小沢一郎さんのケースとドナルドトランプさんのケースで違いが出たのでしょうか。アメリカの方が日本よりもインターネットが発達していたからと理解するのは必ずしも正しいとは思えません。日本のネット依存率のようなものはアメリカとさほど変わらないのではないかと個人的な実感としては思います。しかしながら、時間軸が数年ではありますけれど、差異があります。小沢一郎さんと菅直人さんが内ゲバで争っていたのは2011年から2012年あたりのことです。それに対してドナルドトランプさんとヒラリークリントンさんが競い合ったのは2016年。僅か4年の違いですが、この4年の間に世の中が大きく転換し、いわゆるテレビマスメディアからネットメディアへと人々の関心が移動したために、小沢一郎さんがネットで支持を得ていた時とトランプさんがネットで支持を得た時とでは読解すべき方向性に変化が生じたという理解ができるのではないかという気がします。

ということは即ち、今後は日本の大手メディアがCNNを通じて得た情報よりも自分でネットで英語のサイトをいろいろ閲覧して得ることができる情報の方がより信頼できるということが言えるのではないか、ここ数年で一挙にそういう方に変化したのではないかという気がします。飽くまでも私がそういう気がするというだけですが、ネットでなんでも検索できる時代ですから、それだけ自分で英語のサイトも読めるようになるよう訓練しないと先を読めないということなのかも知れません。或いは今後はやたらめったら英語に強い日本人が英語のサイト情報を日本人にネットで伝えるというのが通常になるかも知れません。もちろんAIが充分に発達すれば英語を理解しない人でもAIが自動的に翻訳してくれますから、英語の能力すら必要ではなくなるかも知れません。

以上、ざっとした感想ですが、何かご参考になることがあれば幸いです。

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日本国憲法と抵抗権

現行の日本国憲法について、私は個人的にはなかなか悪くないとは思っているのですが、なんとなく、どうもすっきりしないもやもやしたものがあります。それは抵抗権が明記されていないことです。

現行憲法の草案を書いたのがGHQで、本来明治憲法には改正規定が書かれていなかったにもかかわらず帝国議会で改正手続きを経て「改正」されたことになっています。明治憲法が「法治主義」(法律にさえ書き込めば何をやってもいい。言論弾圧でも思想弾圧でもなんでもありじゃ、おらー)なのに対して、現行憲法では「法の支配」(法にはその規範となるべき精神やモラルがある。法の理念に反するようなことはたとえ法律に書き込んでもオーケーになるわけねえだろ、そんなのは無効だ。ぼけ)に変更されました。一般に前者が大陸法と呼ばれ、後者が英米法と呼ばれます。

GHQの草案は、天皇という日本独特の存在に配慮を示しつつ、英米法的な精神を日本に根付かせたいとの願いを込めて書かれたものと私は個人的に理解しています。

ただ、そうなると一つだけ解せないのが日本国憲法には「抵抗権」が明記されていないことです。アメリカの独立宣言(憲法の一部というか、根幹と言ってもいいかも知れないですが)では革命の権利(暴政に対して抵抗する権利)が明記され、修正条項でも武装の権利が明記されています。抵抗するためには武装が必要ですので、念入りに修正条項に武装の権利を盛り込んだのだと言えます。

これはアメリカ建国の根本理念に関わる問題ですので、たとえGHQの憲法草案チームが法律の素人だったとしても知らないはずがありません。普通の日本人が憲法9条を知っているのと同じくらい、常識的に知っていたはずです。

しかし、日本国憲法に抵抗権が書き込まれなかったのは、もしそれを書き込むと当時日本を占領中だったGHQに対して抵抗権を盾に暴動なり反乱なり旧軍の蜂起なりがあることを懸念して敢えて書かなかったのではないかという気がします。暴政に対して抵抗する権利はほとんど基本的人権と言ってもいいくらいですから、ここはもしかすると現行憲法の瑕疵と言えるかも知れません。もちろん、選挙がしょっちゅう行われて有権者がこいつダメダメじゃんと思えば落選させることもできるわけですから、敢えて抵抗権を主張する必要はないとも言えますし、現代の解釈では抵抗権はあまりに自明の権利なので書いてなくてもそれ権利はあるのだという考えもあるようです。そうすると国の自衛権も書いてないけど明々白々に存在するという解釈の余地を認めることにもなりますから、私にはそれぞれの立場の人が自分の都合のいい部分だけを主張しているように見えてしまうようにも思えます。

さて、憲法に関する論議には八月革命説を欠かすことはできません。1945年8月に革命が起き、その結果として現行憲法が生まれたのだとする説です。ただし、その説を採る場合、誰が革命をしたのかという点が極めて重大のように思えます。当時の状況から見て、革命の行為主体はアメリカ軍ということになってしまい、外国の軍隊が革命を起こすということは原理的にあり得ず、それはいわゆる「侵略」ということになってしまわざるを得ないのではないかと思えます。そういう意味で八月革命説はちょっと無理があるのではないかなあと思えます。

このあたりのことは「神学論争」の範疇とも思えますので、あんまり深入りすると疲れるだけという気もします…。

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憲法と歴史

戦後日本では改憲か護憲かで何十年も論争が続いてきたわけですが、それらの議論が必ずしも実りのあるものではなかったようにも思え、憲法論争には「つきあっていられない…」と思うこともありますが、それはそうとして今回は憲法を歴史という観点から考えてみたいと思います。

それぞれの国にそれぞれの憲法があるわけですが、どの憲法もその国の歴史的背景を前提にして編まれていると言われます。そのため、憲法を理解するためには歴史に関する理解が必要だともよく言われるわけです。

たとえばイギリスの場合、王が重税を課すという大問題がありました。マグナカルタとか革命などを何度も経てその都度、王の権力は制限されるようになり、課税に関する議論は議会がするように転換していきました。やがて現在のように「君臨すれども統治せず」という不文律におさまっていくわけですが、そこへ至るには王の課税する権利を段階的に制限していった歴史があるということを理解してようやくイギリスの「書かれざる憲法」に触れることができるのかも知れません。

フランスの場合も王が重税を課すというのが大問題になりました。ルイ14世あたりが派手に戦争をやっては負けるを繰り返し、戦費はひたすら国民への課税で賄い、ルイ16世の時代になると課税できる対象がなくなるという深刻な事態に陥ります。最後は免税特権を持つ貴族への課税を検討し、大反発を招き、結果としてはルイ16世は王侯貴族の中で孤立状態でいわゆる大革命を迎えます。ロシア革命が成功した背景には軍が皇帝を見棄てたという伏線がありますが、ルイ16世の場合も味方を失い、裸の王様状態になっていたと言えます。そのような歴史的物語を背景にしているため、フランスでは王権そのものを否定することが重要な理念の根幹をなしていると言ってもいいかも知れません。

アメリカの場合もやはりイギリス本国からの課税が深刻な問題だと受け取られていました。「代表なくして課税なし」という有名な言葉がありますが、イギリスの支配から脱して、自分たちの税金の使い道は自分たちで決めるという独立独歩の精神がアメリカ建国の理念と言えます。ボストン茶会事件はつとに知られていますが、現代よく論じられるティーパーティー運動はそのようなアメリカの歴史の物語を前提としているため、賛同者が集まったのだと言えるようにも思えます。

さて、日本の場合ですが、伊藤博文が憲法を書く際に大変に困ったのは日本の天皇とヨーロッパの王権とは似て非なるものだということだったと言います。江戸時代の天皇に徴税権などというご立派なものはく、幕府から賄い金をもらっている状態でしたので、平安時代ならまだしも今さら天皇の徴税権云々などというのは全くのナンセンスです。そういう事情から古事記の記述に照らして「万世一系」という理念を用いて天皇を規定し、憲法を書いたと言われています。憲法が歴史的経過を前提としているものだとすれば、そのあたり、伊藤も相当に知恵を絞ったのだとも思えます。

さて、現行の日本国憲法ですが、そういう意味ではこの憲法も歴史的経過を前提としていると言っていいのだろうと思えます。即ち、過去の戦争の反省から不戦の誓いをするということがその出発になっています。国を挙げて大戦争を始めた挙句ぼこぼこにやられたというのは紛れもない日本独特の歴史的背景であり、そういう意味ではなかなか正しい主張が書かれた憲法のようにも私には思えなくもありません。

さて、しかしながら、実態と合わない場合は改憲すべき。という意見もあるでしょう。例えばイギリスの立憲君主制はこれからも形を変えていくものと想像できますし、王室の人物の不品行が酷い場合、国民の意思で王制が廃止されるということも、実際にはそんなことは起きないとは思いますが、選択肢としては存在しているわけですから、その辺りのことも含んでいろいろと変化していくことで現実に柔軟に合わせて、結果的には王制が続いていくということになるように思えます。アメリカの場合も奴隷制度を廃止するために憲法の修正条項が加えられました。その後、その修正条項の理念に合わせて白人以外の人にも教育を受ける権利や政治に関わる権利が認められていったわけですから、アメリカ人が深く考え、市民とは何かを問い直し、憲法の精神に合わせて少しずつ変化していったと捉えることもできるのではないかなあと思います。更に言えば、憲法に限らず法律は条文に書かれていないことはコモンセンスで埋めていくということが多いです。日本の場合もコモンセンスで埋めていくということでいいのではないかなあと思わなくもありません。コモンセンスも変化していきますから、柔軟にやっていくということが求められるようにも思えます。

ついでに述べるとすると、「マッカーサーがおしつけた憲法だから反対だ。自主憲法が必要だ」という意見があるのも尤もなことです。「幣原喜重郎がマッカーサーに平和憲法を提案したから現行憲法はおしつけではない」という意見には賛同しかねます。憲法の内容がいいか悪いか以前に、幣原喜重郎とマッカーサーが国民の知らないところで密約したという話ですので、だからいいんだとはちょっと思えません。

そうは言っても前文なんかなかなかいい感じな内容なじゃないかともおもったりします。

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外国人の権利

民主党政権期、鳩山由紀夫菅直人首相時代に外国人参政権が話題になり、いろいろな人がそれぞれに心の中で「自分は賛成だ」「反対だ」など、様々に考えたのではないかと思います。

外国人も日本人も国家に所属する以前の段階として自然人としていわゆる「人権享有主体」であることには違いなく、自然人としての生存権などはどの国の人がどこで暮らしていようと当然認められるものとして多くの人が一致できるのではないかと思います。

しかし、ちょっと難しいのが政治に参加する権利です。しかも、政治に参加する権利と一言にいっても投票する権利、立候補する権利、果ては政治運動をする権利にばらけてくるので尚、一層やっかいな話になってしまいます。

1969年、アメリカ人のロナルド・アラン・マクリーヌという人物が外国語学校で働く、要するに英語の先生として日本に来たのですが、二週間くらいで届け出ていた就職先を辞めて別のところで働くようになり、しかもベトナム平和運動に参加していたという理由で1970年に日本の在留許可の延長を求めたところ、拒否されるというできごとがあり、訴訟になって最高裁まで争うということが起きました。

最高裁の結論は外国人の人権には枠がはめられているので、判断によっては在留許可を出したり出さなかったりする権利が法務省にあり、マクリーン氏の政治活動についても、日本の意思決定に影響しない範囲で認められるというものでした。

個人的にはマクリーン氏が反戦運動していることよりも無届で就職先を変えたことの方が問題のように思えますが「外国人の政治活動」がこの裁判での争点になっていたわけです。もしマクリーン氏が政治活動をしていなくて働く場所を変えて無届だった場合はどうなるのかというのがちょっと気になる気もします。

日本人と結婚した森川キャサリーンという人は、外国人の指紋登録を拒否した理由で再入国許可が下りなかったということも憲法上の人権の問題に触れるのではないかという争いになりましたが、最高裁は外国人を入れるか入れないかはその国の自由という判断を示していますので、指紋登録を拒否したら入国させないことも自由に裁量できるという結論に至ったようです。

外国に行って指紋登録を強制されるのは私も経験がありますが、あまり気分のいいものではありません。もちろん、もめ事を起こすのも面倒なので求められれば黙って協力はしますが、拒否したくなる気持ちも理解できます。そうはいっても法は法ということかも知れません。

日本は三権分立の国ですから、司法の判断が気に入らない場合は立法府に持ち込んで議論することもできます。時代とともに変わっていくものですから、こういう判断もまた変わっていくかも知れません。

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