豊洲と築地は共倒れ。海産物の流通は決定的に変化する。

築地市場の豊洲移転がいまだにかまびすしく議論されています。北朝鮮のクライシスがだいたい回避されたという雰囲気に世の中的にもなってきましたから、再び世間の目が豊洲移転にシフトしたという印象があります。

果たして築地と豊洲がどちらがいいのでしょうか?移転派の主張は、築地の建物は古くて地震に対して弱い上に、衛生面での管理も問題があって、しかも土中にはアメリカがビキニ環礁で水爆実験をした際に被ばくしたマグロが埋まっているため、豊洲のように新しい設備のところへ移転するべきだというものです。一方の築地残留派の意見としては、築地という名称にはブランド力があり、豊洲は地下水が汚染されているので、安全性に問題がある。仮に水道水を使うから豊洲の地下水が汚染されていても関係ないとしても、安全と安心は違うという論理で攻めているといったところでしょうか。

記事のタイトルで豊洲と築地は共倒れとしているものの、仮にどちらかに軍配を上げるとすれば、豊洲に軍配を上げていいのではないかと思います。豊洲の最大の懸念は地下水の汚染なわけですが、水道水を使うのであれば、関係ないのであって、安全だったら安心していいではないかと思えますし、新どんなにしい頑丈な建物の方が衛生面でも耐震面でも安心できるのではないかと、わざわざ土木の専門知識を持ち合わせていなくても、一般論として言えるのではないかと思えます。

尤も、「築地は問題が多い!」という人が登場しなければ誰も問題があるとは思わなかったと思いますし、環状二号線と通したいという目的がまずあって、そこで築地に物言いがついたような気がどうしてもしてしまいますので、果たして本当に築地がダメなのかどうかという疑問は残ります。衛生面に問題があるとしても、今まで問題なく築地が機能してきたわけですから、衛生面の問題は無視していい程度のことなのではないかとも思えるのです。

そうはいっても、ここまで「築地市場は汚い」キャンペーンが張られると、なんとなく築地という名前を聴いても以前のような魚河岸ロマンのようなものは既に失われてしまっており、「築地直送」の貼り紙を見ても却って萎えてしまうため、消費意欲を刺激しなくなっていますから、築地ブランドはもはや過去のものになっています。築地ブランドを守るべきという意見も私は理解できるのですが、既に築地ブランドは失われてしまっています。消費者は築地直送と書かれてあったら、なんとなく買いたくないと思うのではないでしょうか。

では、一方で今後、豊洲に移転後に豊洲ブランドが確立されるのかと考えてみても、なかなかそうはいかないかも知れません。豊洲に関しても「汚染がひどい」キャンペーンが張られてしまいましたので、「豊洲直送」は消費者のマインドを刺激しません。

ということは一連の騒動の結果、豊洲、築地の共倒れという結果を招くのではないかと思えます。豊洲にマンションを買った人は一喜一憂でしょうから、大変お気の毒ですが、できれば私も豊洲のマンションに住めるといいなあと思うタイプですので、豊洲にマンションを持っている人のことは、築地から豊洲への移転があろうとなかろうと、うらやましいなあと思います。

それはさておき、消費者のニーズがあれば、物言いがつこうとつくまいと成立はしていくはずですが、もはや豊洲にも築地にもニーズはなくなっていくのではないかと思えます。北海道なり高知県なり静岡県なりからの産地直送が普通になり、スーパーも扱う魚は産地直送。お寿司屋さんも産地直送。一般消費者もクール宅急便で産地直送になるのではないか、情報インフラが発達した今、敢えて築地か豊洲に一旦集積して再配送するというモデルはもう必要なくなるのではないかという気がします。築地も豊洲も通さない新しい流通モデルが発達し、近い将来、そちらに軸足が移るのではないか、それが主流になるのではないか思えるのです。

とすれば、東京都政は現在、足の引っ張り合いに終始したまま大事なことを決めることもできず、何かを前に進めることもできず、東京オリンピックのための準備も遅々としたままで、ずるずる沈んでいく過程にあるのではないかという悪い想像が働いてしまいます。

東京は日本の玄関であり、象徴であり、顔であり、中心なわけですから、東京には発展し続けてもらわないと困ります。しかし、築地・豊洲の議論一つとってもこのありさまですので、ため息をつくしかありません。

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ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』の永遠回帰

ニーチェが生きた時代、世界は産業革命という人による奇跡に湧きました。燃料機関による移動や生産が行われる姿は、人々をして人力を超えるものを人が生み出した、即ち、神の技を人が手に入れたと感じたとして不思議なことではないように思えます。

そして、人が神の技を使えるようになった以上、もはや毎日曜日に神に礼拝をして人生や運命を預けるという習慣そのものにも疑いの目が向けられていくようになります。現代とは少し違うかもしれません。現代では、科学技術の進歩によって神というデザイナーが存在しなければかくも精緻な世界が誕生するはずがないと科学者たちが真剣に考える時代になりましたが、当時は科学技術が「トレンド」になっていたとも言え、ニーチェのツァラストラが言うように、神は死んだと考えるのも無理はないとも思えます。

さて、『ツァラストラかく語りき』の興味深いところは、神なき人の世を人がいかに生きるかについて永遠回帰という視点が用いられているところです。永遠回帰という言葉は、要するに人は何度となく生まれ変わる、輪廻転生を繰り返すというもので、ニーチェの言う「超人」に到達しない限り、その永遠回帰から抜け出すことはできないとしている点です。

何かによく似ているわけですが、仏教的な世界観にとてもよく似ています。仏教でも人は何度となく生まれ変わり、輪廻によって与えられる修行をクリアしたものだけが菩薩になり、仏陀になれるとされています。ニーチェはキリスト教文明を否定しましたが、その結果行きついたのが仏教的悟りの境地を目指せ!という結論だったわけです。仏教の存在は当然に西洋にも知られているものですから、ニーチェもまた当然にそれを知っていたと考えて間違っているとは思えません。キリスト教の神を否定するニーチェが仏教的世界観に新たな境地を見出そうとしたことは大変に興味深いことのように思えます。尤も、古代ギリシャでも輪廻転生の概念はありましたから、そっちのほうの影響のほうが強い可能性も否定しません。

もちろん、ニーチェが絶対に正しいわけではありません。輪廻転生を繰り返すためには、人の魂の永遠性が前提にならざるを得ないわけですが、果たして本当に人の魂が永遠なのかどうかは死んでみなければわかりませんし、死んだ後では生きている人に報告することもできませんから、人にとって死は永遠に未知なものです。

しかしながら、人は死後の世界について考えないわけにはいきません。近く立花隆さんの臨死体験に関する取材についてもブログで書いてみたいと思っていますが、なぜ人が臨死体験なる不思議な経験をするのかについては、唯物論的な立場にたったとしても完全に説明することはできません。臨死体験のプロセスについては取材案件を重ねることで分かっては来ているようですが、なぜそんな経験をするのかは謎なままなわけです。

そういったことも考たうえで、ニーチェの「超人」とはどんなものかについて思案するのも生きている人間の悦びの一つなのかもしれません。

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憲法の私人間効力

果たして憲法は何のためにあるのか。という疑問を一度も持ったことがない人はいないのではないかと私は思います。憲法は確かに重要なものですが、人間の歴史を見ると、憲法がない時代の方が圧倒的に長く、日本では100年ちょっと前に明治憲法が作られ、現行の平和憲法も70年余りの歴史しかなく、本当に憲法がないと困るのか?という疑問が湧くときがあります。

もちろん、我々の民主主義を担保するためには憲法は必須のものと思いますから、民主主義の概念がまだ最近のものである以上、憲法がまだ最近のものであることもやむなしと言えるのかも知れません。

憲法の最大の主旨は国家権力に一定の拘束をかけることを目的にしており、その点で争いはないと思いますし、基本的人権の尊重が憲法で明記されることによって、国家権力の濫用に歯止めがかけられ、我々は民主主義を享受することができるだとも言えると思います。

では基本的人権(たとえば思想信条の自由)は私人間に於いても有効なのでしょうか。人間関係の多くが優位と劣位で構成されます。特に雇用主と被雇用者の間には歴然たる権力関係があるとも言えますから、国家と同様に拘束を受けるべきなのでしょうか。それともその辺りには相当程度の自由があると言えるのでしょうか。

大変に有名な事件ですが、東北大学の院生が化学製品の大手企業に採用された後、在学中学生運動に参加していたことが発覚したことで、試用期間後に解雇され訴訟に至るという事例がありました。日本人は憲法で思想信条の自由があるため、たとえ企業であったとしてもそれを犯すことはできないから、雇用関係に於いて過去に学生運動に参加したことを理由に解雇するのは不当であるというわけです。憲法が私人間でも効力を持つのかという点が注目されました。

裁判所の判断では、憲法の効力が直接私人間に及ぶことはないという立場が採用され、間接的にはそれはあり得ても、直接的にはあり得ず、企業はどんな人を雇用するかについては相当に高い事由を有しているという結論が示されました。

この事件では原告と被告が和解し、原告は十年以上の裁判での闘争を経た後に職場に復帰したわけですが、結果としては憲法の効力がやたらめったらと広い範囲に及ぶのは困るものの、個人の生活や人生にかかわることだから、そこはなんとかしましょうよという原則NOで例外的YESのような解決が図られたのだと理解することもできるのではないかと思えます。裁判所が違憲審査を認めることはまずありませんが、訴訟に至った場合、個別具体的な救済の手を打つことで、まあまあなんとか。としている事例が多いように思うのは、私がまだまだ浅学だからでしょうか。

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フーコー‐権力と権威は内面化する

レヴィストロースが人には固有の文化構造があり、サルトルは人をヨーロッパ人の価値基準でしか判断していないと批判したことから、人の持つ構造へと思想家たちの関心が移り、そもそも人はどんな構造で物事を捉えているのか、或いは構造そのものも取っ払ってしまった方がより真実に迫れるのではないかと考える人々が登場するようになります。それをポスト構造主義と呼びます。

ポスト構造主義者として最も有名な人物がミシェル・フーコーであるということについては、論を待たないのではないかと思います。フーコーは『狂気の歴史』で、狂気は如何にして定義され、分類され、権力によって管理されたかということを明らかにしていきます。誰かが「正常」と「狂気」の間に線引きをしなければ、そもそも狂気なるものは存在しませんから、正常と狂気の間に線を引くという構造を作り出すことによって、同時に狂気も創造されたのだというわけです。

小理屈と思える面が全くないわけでもないですが、かといってフーコーの言うことに明らかな間違いがあるとも思えません。狂気と正常というおどろどろしいところで議論しなくとも、たとえば大人と子供であったり、良い人と悪い人であったり、忠良なる臣民と非国民であったり、更には金持ちと貧乏人とか、法律上〇〇の要件を満たしていれば違法で、そうでない場合は合法とか、違憲か合憲かとか、人の生活にあらゆる面で線引きが行われています。或いはその線引きがなければ生きていけないのではないかと思えるほどです。ボーヴォワールが『第二の性』で指摘したように、男と女の線引きも多分に社会的、後天的に与えられた可能性もあるというわけですから、根深いことであり、簡単に済ませてしまえることではありません。

それらの線引きが行われると、優越者と劣等者、強者と弱者、おいしいおもいができる人とそうでない人が生み出されます。ですから、フーコーはそれらの線引きは所詮はどこかのお偉いさんが考えたものなんだから、取っ払っちまえ、そんな線引きに縛られるな!とする、人の知の新しい地平を開いたのだと評価することもできるかも知れません。

フーコーは更にそのような線引きの内面化に警告を鳴らしています。即ち、自分で考えたのではなくて、どこかのエライ人、権威者や権力者が〇〇と〇〇の間には線があると決めただけのことについて、それが正しいことだと信じ込み、一般の人々は内面化していくというわけです。そのような事例をリスト化するとすれば、教会や国王、議会や法律、警察や銀行など、あらゆるところが何らかの線引きをし、それを構造化していますから、リストだけでも膨大なものになるに違いありません。

しかしながら、そのようなことを考えて生きること、ましてや実践することは大変に苦労です。自分で考え、自分で線を引く、或いは線を引かないことを選択する。時には摩擦も起きるし、果たしてどんな線引きが正しくて、どんなものが正しくないのかを一つ一つ自分で選別しなければいけませんから、とても日常生活を送っていくことはできません。また、全て正しい!ドン!もありなのですが、そのようにすると物事の差異が分かりませんから、私は一体誰なのか?というあたりまで突き詰めていくことになり、精神的に持つかどうか、私にはちょっと自信がありません。とはいえ、何かを決めつけてしまったり、或いは権威に盲目的に従ったりしないということは時に必要なことであり、見捨てられた人に手を差し伸べるという道徳を持つきっかけにできることもあるかも知れませんから、フーコーのような考え方もあるのだと知っておくことは価値のあることではないかと思えます。

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レヴィストロース‐人には構造がある

ベルギー出身のレヴィストロースは南米のネイティブの村落に滞在し、彼らの生活や文化を理解することにより、それらの文化、習慣が西洋のそれと比較して何ら劣るものではないということに気づきました。たとえば神話や伝承においても、冒険に出かける勇者という構図は世界のどこにでも見つけることができる点で、人類は同様の構造を持っているという指摘もしました。なんとなく、ユングの集合無意識を連想させる発想法のようにも思えます。

更にレヴィストロースは人間はそれぞれの文化によって固有の構造を有しているという立場を採り、サルトルの人間は完全自由な存在であるという立場を強く批判したと言います。サルトルの自由主義は飽くまでもヨーロッパ人の文化的帰結なのであって、世界の人々に共通しているものではないとしたわけです。人は同じ構造を持っているとしながら、固有の構造を有しているとするのは相矛盾する気もしなくはないですが、偉い先生の考えることなので、おそらくは私の気づいた程度の矛盾を解決する程度の論理武装はされていたに違いありません。

同じ構造を持つのか、それとも固有の構造があるのか、どちらであったとしても、レヴィストロースが協調したことはヨーロッパの文化文明だけで判断することは不当であるということであり、一発大きなカウンターパートをかましたと言ってもいいような衝撃的な出来事と当時の人たちは受け取ったようです。

日本人の思考構造とヨーロッパ人の思考構造との間にはおそらくは大きな隔たりがあります。日本人が遠藤周作さんの主張していたような汎神論的な思考構造で世界を捉え、輪廻転生とかご先祖様がお盆になったら帰ってくるとか、神社にはそれぞれに神様がおわすなどといったことをぼんやりと曖昧ながらも多少は信じているところがあるのに対し、ヨーロッパではキリスト教というどちらかと言えば合理的とは思えない神の奇跡をその価値の中心に置きつつ、そこに論理的矛盾が起きないように1000年以上かけて精緻に理論化し、トマスアクィナスみたいな人が神の存在を論証するということに心血を注いできた文化とでは世界の見え方が違ってくるのが自然なことかも知れないと思えなくもありません。

私は個人的には中華圏については多少は詳しいのですが、中華圏の人々の感じ方と日本人の感じ方にも大きな隔たりがあり、ぱっと見似ているだけに、そのへだたりの大きさに驚愕することはよくあります。中華圏では家族主義が徹底している感があり、家族であれば守り抜く、家族でなければ知ったこっちゃないという感性は、日本人のような遠くの親戚より近くの他人的村社会的感性とは随分な違いがあるようにも思えます。

このような、日本人の曖昧な汎神論、中華圏の明確な家族主義、ヨーロッパの論理的追及主義のいずれかが勝っていたり或いは劣っていたりということはなく、それぞれに固有の構造で世界を認識しているのだということを寛容に認め合うという意味で、レヴィストロースは高いヒューマニズムを世に知らしめたと位置付けることもできるかも知れません。

レヴィストロースは2009年に亡くなり、亡くなった時は100歳だったということですから大変に長生きで、他の哲学者や思想家のような暗さをあまり感じさせない点でも異色と思えます。

レヴィストロースとサルトルとの間に交わされた論争を経て、フランスの思想界は構造主義を超えたポスト構造主義の時代へと移っていき、そもそもヨーロッパ人が現代に至るまでの思考の構造を持つようになったのはなぜか、構造の原点は何か、或いはそれらの構造なんか全部取っ払っちまえなどの様々な百家争鳴的議論のトポスが生まれていくことになります。

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LRAの基準

日本国憲法には人権の尊重や平和主義など個人的にはなかなかいいことが書いてあるように思っています。憲法九条に関しては但し書きのようなものを更に付け加えるのがいいかも知れないとも思いますので、一般に言う護憲、改憲などのカテゴライズをするとすれば、私は加憲派に入るのではないかと考えています。

さて、憲法は大事なものですが、世の中には憲法違反になるかも知れないというできごとが時々起こります。最高裁まで争うと大抵の場合は「明白に違憲だと言えない限り合憲である」という判断が降りるため、「ちょっと八百長なんじゃないの」と言う人もいないわけではないようですが、そこは私は素人ですので、何とも曰く言い難しであります。

さて、憲法違反かどうかを議論する際によく話題に上がるものとしてLRAの基準というものがあります。LRAとはLess Restrictive Alternativeの略で、違憲だと思う人もいるかも知れないけど、正統な目的で、「他により制限的でない制約手段が他にない場合」に限り合憲と判断するというものなのだそうです。

よく例に挙げられるのが、デモ行進は日本国憲法に定められた表現の自由で保障されている行動だから、行政が制限を加えることは違憲だ!と言えるかどうかという議論です。デモ行進は、穏やかで和やかに行われることもよくあると思いますし、その場合は自身の表現の自由を行使しているだけですけど、何か?と言うことができますし、そう言えなければそれはかえって大きな問題とも思えます。

しかしながら、例えば、周辺の人々が危険を感じるような暴力的なメッセージ、穏やかではない内容のシュプレヒコール、場合によってはロシア革命やフランス革命よろしくデモ参加者に暴徒化してもらって、一挙にどこぞへ流れ込み、世の中を転覆させてやろうとやる気満々の人がいるかも知れません。行政の側でそういうことのないように、いろいろ手を尽くす、あそこは子どもがいっぱいいるからやらないでくださいとか、歩道から出ないでくださいとか、いろいろそういうことをやることが表現の自由を侵害することになるかどうかという感じに私は理解しています。

こういう場合には一応LRAの基準が適応され、他に手段がない場合に限って、行政はそういう介入してもいいという考え方が一般的なようです。表現の自由は民主主義の根幹をなすものですから、なるべく制限がない方がいいに決まっています。そうは言っても治安が乱れるのも困りますから、難しい問題と思えます。

まぁ、いずれにしても、私は日本が民主主義の国で良かったなあなどと思うわけです。

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ユング‐無意識に人の可能性がある

ユングがフロイトの弟子だったことは有名ですが、同時にフロイトと袂を分かったこともよく知られています。両者は無意識が存在することでは一致していましたが、無意識とは何かということについて大きく異なる見解を持っていました。

フロイトは無意識には碌なものが存在しないと考えていました。心の傷であったり、破壊衝動であったり、性に対する衝動であったりと一般的な社会通念からは望ましくないものばかりが入っていると考えたのです。通常、人間は意識で無意識を抑え込んでおり、人に迷惑をかけないとか暴力を振るわないとか、トラウマが刺激されてできないことに対して「大丈夫、怖くない」とか言って自分を励まして紳士淑女として社会生活を送ります。しかし、たとえばお酒に酔っ払うなどのような状態になった時に、意識のコントロールが弱まり、無意識の衝動が湧き上がってきてしまい、普段ならやらないことをやってしまうという困ったことが起きてしまいます。フロイト的にはそういった困った無意識をどうやって制御するかが肝要であるということになります。

一方でユングはフロイトとは全く異なる観点から無意識を理解していました。無意識には人間の可能性が充ちていると考えたのです。たとえば芸術作品は計画して作るものとは限りません。ある種の閃き、天から降りて来るメッセージのようなものを受け取り、それを絵画にしたり彫刻にしたり文芸作品にしたり、或いは音楽にしたりと昇華させ、人々の楽しみや喜びに貢献することができます。そのため、ユングの発想法から行けば、無意識は抑え込んだり制御したりするものではなく、大いに解放することで人々の幸福度は更に大きくなると考えたわけです。

ユングとフロイトのどちらが正しいということはなく、どちらにも正しい面があると思えます。芸術が時にアウトローだったりするのは、ユング的な要素とフロイト的な要素の双方が表出した結果と捉えることができますし、芸術とは得てして諸刃の剣だったりもすると思えます。

ユングは更に、人には集合無意識があると考えました。世界各地の神話や民話に共通点が多いこと(洪水などの大災害から生き延びるなど)に着目し、人は祖先より受け継いだ膨大な記憶をそれぞれに蓄積しており、遡れば遡るほど祖先は共通していきますし、現代を生きる人もそれを受け継いでいるわけですから、我々は大きい全体の枠組みとして多くのものを共有していると言え、それが集合無意識であるとしたわけです。人々がある時、渦のように革命を起こしたり、或いはとあるトポスに支配的な空気が生まれたり、選挙で特定の政党が大勝ちしたりするのも、この集合無意識の視点から説明することも可能と思えます。

夢野久作の『ドグラマグラ』もユングの精神分析を基礎にしてその作品を書いたと言っていいと思いますし、当時としてはまさしく最先端のヨーロッパの心理学を採り入れた作品と言えます。現代風に言えば量子論小説を書くくらいの試みではなかったかと思えます。

ユングの集合無意識の理論はエーリッヒフロムの社会心理学にも応用可能と思えますし、ユングの考え方は現代も受け入れられているものですから、大変に興味深く、世の中の動きを考える際にユング的な「集合無意識」の視点から考えるのも面白いかも知れません。

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フランクフルト学派‐何ゆえにナチスは台頭したか

フランクフルト大学の社会学研究所に集まった錚錚たるたる面々が深刻に考えをめぐらしたのは、ナチスが台頭したことの理由を探るためでした。ドイツ人はいたって真面目な人が多く、真面目だということは理性的であるとも言え、なぜそんな理性的な国民性でありながら、ナチスのような不逞の輩と変わらないグループに心酔し、積極的に支持したのかということは、なおざりにできない重大な問題であったわけです。

特にフランクフルト学派の第一世代は実際に第二次世界大戦を経験し、目を背けたくなる残虐な現象を見聞した世代であり、ということは同時に祖国が廃に帰するのを目撃した人々でしたから、そのような問いは大変に重いものにならざるを得なかったとしても不思議なことではありません。日本人が日本はなぜアメリカと戦争をしたのか、そういう指導者の登場をゆるしてしまったのかについて自問し続けるのと同じ感じなのかも知れません。

ホルクハイマーはアドルノとともに『啓蒙の弁証法』を発表し、上のような悲惨な経験をするに至った理由として、「道具的理性」に問題があったのだと指摘します。真理や善の存在を忘れ、利得があればよしとする堕落した理性があったからではないかというわけです。アメリカのプラグマティズムに対するさや当てもないわけではないようにも思えますが、彼らによると人が道具的理性的な堕落した状態になると、ナチスのようなマインドコントロールの上手い連中が出て来た時に抵抗力を失ってしまうということになるようです。

私個人はホルクハイマーとアドルノの指摘がどの程度正しいかについて判断するほど優秀ではないのですが、ナチスに関することについては、エーリッヒフロムの『自由からの逃走』の方がよりよく説明してくれているのではないかと思えます。フロムはまず第一に、第一次世界大戦後に社会が混乱したことで若い世代が伝統や習慣、受け継がれた道徳を信用しなくなったということを挙げ、続いてワイマール的な自由という責任に耐え切れなくなり、自由から逃避したいという願望が高まった時にナチスという甘言を用いるグループに全てを預けて楽になりたいという心理が働いたと指摘しています。私にはこちらの説明の方がより説得的であるように思えます。

もちろん、ホルクハイマー、アドルノとエーリッヒフロムのどちらが優れているかを比較することが適切なのではなく、両者は交流もあって互いに補完する作用を持っていたとも思えますから、双方を総合することで、より深くナチス台頭という現象について理解できるのだと言えるのかも知れません。アドルノは「権威主義的パーソナリティ」という言葉を用い、権威に盲目的に従う人々が増えたことがナチス台頭の要因と考えましたが、これはフロムの考えにとても近いものだと言うことができるようにも思えます。

フロムは『愛するということ』という著作で1950年代のアメリカ人の恋愛結婚について、「愛がマーケットになっている」と批判しています。誰もが自分をより高く売りつけようと考え、より条件の良い相手と契約を結ぼうとしているというわけで、これは愛ではなく経済行為であるというわけです。これも大変に説得的な部分があるように思えます。『愛するということ』の英題は「The Art of Love」で、愛を実践するための指南も書かれています。尤も、結論は「自分で実践する以外にはない」という突き放した感じなのですが、確かに愛は自分で実践する以外にはありませんので、大変に深い内容と言えるようにも思います。フロムという愛とは隣人愛であり、隣人愛は実践できているようで、案外と難しいものですから、私も忘れずに努力したいと自省する際の教科書にしています。何十回も読んだので、今は手にとって読むことはなく、内容を思い出して反省するわけですが…。

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フッサール‐立ち止まって考えよ

ヨーロッパの現代哲学の人物として外すことのできない人がフッサールです。フッサールは世界を「現象学的に還元する」ことを唱えましたが、現象学的に還元すると言われて何のことか分かる人は多分、いないと思います。いるとすれば恐るべき碩学か何にも考えていないかどちらかに違いないと思えますし、ドイツ人がドイツ語で読んでも何のことやらわけがわからんとなるらしいので、日本人の我々がおそらくは相当に直訳されているのであろう「還元」という言葉を用いられても何のことやらさっぱり…。となるのが普通のことであるように思えます。ドイツ人には英語の上手い人が多くて驚嘆しますが、現代のドイツ人でも英語の解説書を読んでようやく何のことか分かるということがよくあるようです。

現象学的に還元するとはどういうことかというと、ごくごく簡単に言えば、立ち止まって考えろ。ということに尽きるのではないかと思えます。人間は主観で物事を判断します。人間は主観から完全に自由になることはできません。しかしながら、主観だけを信じ、暴走するといかに大変な事態を引き起こすかということについて、ヨーロッパ人は宗教戦争とか世界大戦とか経験していますので、よく知っているわけです。そのため、取り合えず立ち止まれというわけです。たとえば人相の悪そうな人がいたとして、いかにも不逞の輩に見えるけれど、ちょっと待て、本当にこの人は悪い人なのか。実はいい人なんじゃないのかと立ち止まって考えてみる。自分の主観を見つめなおしてみる。〇〇な人は悪い人という風な思い込みは本当になかったかと考えてみる、自分の判断を疑ってみる。こういう感じのことのようです。

ただし、一つだけ疑問に残るのは、そんなことをしていると毎日の生活に支障をきたしてしまうということです。世の中の大抵のことは人間の主観で処理できることのように思えます。ごみを分別する際に、瓶は瓶として分別しますが、それがなぜ瓶だと言えるかと言えば、手で触った感じが瓶の感じであり、見た目も瓶であるからです。しかしそれは私が主観で瓶だと判断しているだけであり、本当に真実に真理としてはそれば瓶なのかと疑って立ち止まるようなことをしていれば、日常生活を送ることができません。そういう意味では還元するのもほどほどにと思えなくもありません。コモンセンスで判断していかなくては次々と起きる問題に対応できなくなってしまいます。

しかし一方で、主観で片づけることができないことは必ずあります。それはたとえば人間の権利や尊厳に関することであれば、ぱっと見の印象が良くないということで片づけてしまうことはできません。正義か不正義かを判断する時も立ち止まる必要があることもあると思えます。私が正義だと信じていることは、私が教育を受けたりいろいろ経験した結果正義だと信じているだけであって、本当は違うかも知れないという疑問を持つことは大切なことのように思えます。フッサールもナチスドイツの迫害を受けた人ですので、そういった背景も考えれば、尚のこと、自分が正義だと信じているものについて疑ってみる、立ち止まってみるということは有意義なことのようにも思えます。

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アメリカプラグマティズム‐行動せよ。そして問題を解決せよ。

ヨーロッパの哲学では人間とは何かを探求することにそのエネルギーが使われて来ましたが、アメリカでは全く違った角度からの哲学的探究がなされていくようになります。

アメリカプラグマティズムの祖とされるパースは「形而上クラブ」と呼ばれるある種の知識人サロンのような場で、ヨーロッパで探求された観念をより明確化されるためには「行動及びその効果」を問題にすることが肝要であるとの主旨のことを述べました。即ち、物事を観測する際に、単に観測するだけでなく、行動によって何らかの影響を与え、どのような反応なり結果なりが出てくるかによって、それがいかなる性質のものかをよりはっきりと知ることができるとしたわけです。

パースは飽くまでも哲学上の探求の手法としてそのようなことを考えていたわけですが、パースの後を引き継いだジェームズはそれを更に拡大・発展させ、「役に立つかどうか」を問題にします。役に立たないものは人間にとって意味がないので、特に観察する必要もなければ、問題にする必要もない。一方で役に立つのであれば、大いに活用すべしというわけです。神が存在するかどうかが問題ではなく、神が存在すると信じることによって心の平安を得たり、魂の救いを感じたりする人がいるのであれば、神が存在すると信じることには意味があり、信仰は役に立っていると言えるため、それでよしとしようというのです。これも一つの考え方、合理的かつイギリス功利主義の最大多数の最大幸福を更に具体的にした考え方を言ってもいいかも知れません。

アメリカプラグマティズムで最も有名なのは、その名もずばり『プラグマティズム』という著作を発表したジェームズだと思いますが、プラグマティズムを更に深化・発展させたのはデューイであると言えるかも知れません。デューイは行動を重視しました。行動して問題を解決することが肝要であるとし、問題解決のために役に立つ知識は大いに活用されてしかるべしだが、そうではない知識にあまり拘泥することもよろしくないというわけです。

問題はいついかなる時も起こり得ます。そして大抵の場合、問題は想定外であったりします。想定内のことであれば、それは問題ではないからです。想定外の問題に対しては、その都度、創造的に考え、必要な情報を集め、新しい解決策を考え、実際に問題を解決していかなくてはいけません。そしてそれらのことは行動を通して本当に効果が出るかどうかを観察し、効果が出なければそれは何故なのか、効果が出るのたのであれば、それはそれでそれは何故なのかを考え、新しい取り組みを始める。そうするとやがて新しい想定外の問題が生まれるため、それに対してやはり創造的かつ行動的に問題を解決していく。そのプロセスを繰り返す。

大変にアメリカらしい、フロンティアスピリットに富んだ考え方と呼ぶことができるように思えます。ヨーロッパでは19世紀から20世紀にかけて人間とは何か、その内面は何故存在するか、それにはどういう意味があるかを延々と問うていく実存主義が発展しますが、新世界アメリカでは、そんなことより役に立つかどうかを重視したという点で、思想面においても新しい地平を提供する役割を担ったと言うこともできるのではないかと思えます。

さて、今は21世紀です。新しい覇権国家が生まれるのか、それともぐっちゃぐっちゃらになるのか、或いはアメリカの覇権が維持されるのか、世界の行方が揺れていますが、そういうことも量子論的確率論で説明できるという人も探せばいるかも知れませんねえ。

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