ハンナ・アーレントとアイヒマン

ハンナ・アーレントと言えば『全体主義の起源』という著作が大変有名です。反ユダヤ主義が如何にして台頭したかを分析し、更にそれが如何にしてナチズムと結びついたのかを大衆の心を見据えつつ分析を加えた大著です。

ナチズムによるユダヤ人迫害、ホロコーストは大変に重い問題ですから、慎みのある態度で向かい合うべき事柄です。アーレントはかくも重大な事態を招いたことの大きな要因として大衆の思考の停止を指摘しています。近代市民社会は各市民の自発的参加を前提としています。近代以前の王侯貴族が意思決定をし、大衆は搾取の対象でしかなかったのに対し、革命によって王侯貴族の支配を打破した近代市民は自らの生命財産を守ると同時に社会の秩序を維持するために政治に参加して意見を述べ、時には論争し、義務や責任の履行が求められます。

しかし「大衆」ですから数が多すぎ、政治に参加できていると自覚できるとタイプと、所詮私は小市民、何を発言しようと誰も耳を傾けてはくれないし生命の確保はできるとしても、大した財産があるわけでもないという無力感を感じるタイプに分かれていきます。無力感を感じる人たちの方が近代社会ではもしかすると多数派なのかも知れないですが、そういう人たちは思考停止に陥り、自分に代わって考えてくれる人、または分かりやすい言葉を使ってくれる指導者に導かれたいという望みを持つようになるとアーレントは指摘します。アーレントはこのようなタイプの人たちが分かりやすい言葉で方向性を指し示してくれるアドルフヒトラーに魅せられたと分析しているわけですが、この分析はエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に近いものと言っていいかも知れません。

『全体主義の起源』という大著を著した後、世界的に注目されたアイヒマン裁判が始まります。彼女もアイヒマン裁判をよく観察し『エルサレムのアイヒマン』という著作を著します。命令に従い義務を履行しただけだと主張するアイヒマンの姿は、いわば『全体主義の起源』で指摘した、思考を停止した人の個別具体的な一例であったということになるかも知れません。

彼女はアイヒマンにはたまたまアドルフヒトラーと同時代にドイツに生まれたことにより、たまたま人道に反した義務を課せられた不運があったという趣旨のことを述べ、受け取り方によってはアイヒマンの主張には一理あるという意見になるわけですが、結論としてはそれでも悪に服従したことの罪によって死刑にならなくてはならないとしています。ただし、絶対悪であるはずのナチス幹部に一理あるかのように受け取れる言論は激しい批判を浴び、彼女は多くの友人をなくしたと言われています。

現代人の価値観から言ってナチズムを肯定することはできませんし、ファシズムに加担することはできません。しかし同時に、或いは自分がアイヒマンの立場に立った場合に抵抗できるかという自問も必要なことかも知れません。日常生活の中で見て見ぬふりをして見過ごす問題は数多く存在しているかも知れず、多くの人はそれはともかく日々の自分の責務を果たすことを優先せざるを得ないのではないかと思います。私ももちろんその一人です。ナチズムを正義だと信じて行動した人が多くの人々と、現代の価値観が正義だと信じて行動する我々に大きな相違はないかも知れません。書いてるうちに堂々巡りの袋小路に入りそうになってきたので、そろそろやめておこうと思いますが、上に述べたような自問は忘れるべきではないでしょう。人は常に過ちを犯す可能性がありますが、私は正義を遂行している思った時、それが本当に正義なのかを立ち止まって考える作業をすることで少しは過ちを少なくすることができるかも知れません。アーレントの議論はナチズムという過去の出来事を扱ったものではあるものの、現代人にも直接関係するものではないかと思えます。

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レヴィ・ストロースの脱近代な『野生の思考』

最近はあまりポストモダンというような言われ方はしなくなってきましたし、構造主義という言葉も以前ほどは流行っていないと思います。とはいえ、現代人の教養みたいな感じで語り継がれ、読み継がれ、且つポストモダンの元祖というか構造主義の元祖というか、その親分みたいな超絶大御所がおなじみレヴィ・ストロースです。

彼は第二次世界大戦に従軍経験もありますから、近代の限界というものを実感として持っていた人だったと言えるかも知れません。近代は大量生産、技術革新、たゆまぬ増大、たゆまぬ成長をその大原則として持っています。大量生産と飽くなき成長は近代の持つ宿命とすら言えるかも知れません。そして現代人、または近代人は古い因習を捨ててその近代というシステムに順応し、そこを生きるということこそより価値の高いものだと信じてしまうものなのかも知れません。成長と自由経済的資本主義が近代の一方に存在するとすれば、そのもう一方に資本家を否定し再分配を重視する社会主義、共産主義が存在します。自由経済と共産主義経済のどちらがいいということではなく、どちらもそれなりに近代的な「完成」を目指して突き進むことをその宿命と信じられていたかも知れません。そしていつか完成するという前提で完成度を上げることに全力が注がれてきたとも言えるかも知れません。その過程にはファシズム、戦争、革命もあって、人間は進歩し、やがて世界は完成すると考えられていたかも知れません。

しかし、レヴィ・ストロースはそのような世界観から脱却せよというわけです。何故なら、人間は進歩しなくても、完成しなくても、生まれた時に既に完全な存在だからです。ヨーロッパの近代は確かに生産性を上げましたが、それは生産性のみに注目しているからであって、世界各地の非ヨーロッパの諸地域、諸民族もそれぞれに完全性を持っていて、儀礼や神話のようなものは前近代的で非論理的なものではなく、当然に合理性と妥当性を有しており高度に世界を認識する体系をそれぞれに持っていると彼は考えたわけですね。

もちろん、今どき、ヨーロッパ世界から発信されたものには高い価値があって、それ以外の世界から発信されたものの価値が低いと信じている人はいないでしょう。ですが、それを思想・哲学の観点から世界にばーんとぶっ放した元祖みたいな人がレヴィ・ストロースなわけですから、我々が非ヨーロッパ人であっても、だからと言って私たちの価値は棄損されないと信じることができるのも、レヴィ・ストロースの間接、直接のご利益を受けていると思っていいのではないかとも思います。日本でも戦争中に『近代の超克』が議論されたこともありましたが、実際には何を議論しているのかよく分からないというか、ヨーロッパ近代を否定するために結局は戦時中の知識人エリートはヨーロッパ近代の概念と用語しか持ち得なかったという反省点があるように思えます。その点、レヴィ・ストロースは突き抜けていたとも思えるわけです。サルトルともやり合うわけです。

もちろん、それにはヨーロッパが二度の世界大戦で疲弊したことが大きな背景にあると思います。生産性が向上した結果、人間を大量に死に追い込むこの世界はなんなのかという根本的な疑問があったに違いありません。フランスは戦勝国と言っても微妙な勝ち方で、ドゴール将軍の自由フランスが存在した一方で、ヴィシー政府はナチスと協力してイギリスと戦争していたわけですし、パリ解放の時にアイゼンハワーがいい人だったのでドゴール将軍に勝ちを譲ったという一応、戦勝国の体面はぎりぎり保ったというあたりの機微がレヴィ・ストロースをして脱近代を意識させたのかも知れません。日本ではアメリカというザ・近代に圧倒されたという実感があったでしょうから、むしろ近代信奉へと戦後は舵を切ったように思えますし、ぶっちぎりで勝ったアメリカもやっぱり俺たちの近代は正しいぜという風になっていったわけですが、フランスのそのあたりの微妙さがレヴィ・ストロースを生んだ土壌だったのかもとも思えます。

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エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』とナチズム

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』はあまりに有名すぎて私がここでどうこう言うまでもないことかも知れません。「社会心理学」という分野にカテゴライズされてはいますが、基本的にはフロイトやアドラーの近代心理学の基礎を踏まえ、それを基にドイツでナチズムが勃興した理由を考察している超有名な著作です。

内容の大半はサディズムとマゾヒズムに対する一般的な説明に終始しており、まさしく心理学の解説書みたいな感じですが、サディズムとマゾヒズムが対立項として存在するのではなく、同時に同一人物の内面に存在するとする彼の指摘は我々が普段生きる中で意識しておいた方がいいことかも知れません。

曰く、サディズムを愛好する人物は相手から奪い取ることに満足を得ようとすると同時に、権威主義的であるが故により高位の権威に対しては進んで服従的になり、自らの自由を明け渡すというわけです。ですので、ある人物は自分より権威のある人物に対しては服従的なマゾヒストであり、自分より権威の低い(と彼が見做した)人物に対してはサディストであるということになります。人はその人が社会的にどの辺りの地位に居ようと、権威主義的である限り、より高次なものに対して服従し、より低次と見做せるものに対しては支配的になるということが、連鎖的、連続的に連綿と続いていることになります。

この論理は私にはよく理解できます。誰でも多かれ少なかれ、そのような面はあるのではないでしょうか。権威は確かに時として信用につながりますが、権威主義に自分が飲み込まれてしまうと、たとえサディズム的立場に立とうと、マゾヒスト的立場に立とうと、個人の尊厳と自由を明け渡してしまいかねない危険な心理構造と言えるかも知れません。

フロムはアドルフ・ヒトラーを分析し、彼自身が大衆の先導をよく心得ていたことと同時に権威に対して服従的であったことを明らかにしています。イギリスという世界帝国に対するヒトラーの憧憬は、チェンバレンがズデーデン地方問題で譲歩した際に、軽蔑へと変化します。なぜなら如何に抗おうととても勝てないと思っていた相手に対して持っていてマゾヒスト的心理が、相手の譲歩によって崩れ去り、なんだ大したことないじゃないかと意識が変化してサディズム的態度で臨むようになっていくというわけです。

自由都市はドイツ発祥です。ですから、本来ドイツ人は自由と個人の尊厳を愛する人々であるはずですが、第一次世界大戦での敗戦とその後の超絶なインフレーションと失業により、絶望し、他人に無関心になりヒトラーというサディストが現れた時、喜んでマゾヒスト的に服従したともフロムは指摘しています。ドイツ人のような自由と哲理の伝統を持つ人々が、自ら率先してナチズムを支持し、自由を明け渡し、文字通り自由から逃走したことは、単なる過去の奇妙かつ異例なできごととして片づけることはできず、如何なる人も状況次第では自由を明け渡し、そこから逃走する危うさを持っていることがこの著作を読むことによってだんだん理解できるようになってきます。

私はもちろん、自由と民主主義を支持する立場ですから、フロムの警告にはよく耳を傾けたいと思っています。簡単に言えば追い詰められすぎると自由から逃走してしまいたくなるということになりますから、自分を追い詰めすぎない、自由から逃走する前に、自分の自由を奪おうとする者から逃走する方がより賢明であるということになるのかも知れません。

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昭和史67‐ビルマルート爆撃

とある情報機関の発行していた機関紙の昭和15年12月1日付の号では、ビルマの援蒋ルートを日本軍が爆撃したことに関する記事が掲載されていますので、ちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事によると「イギリスをはじめアメリカやロシアは飛行機、自動車、弾丸、鉄砲を重慶に売り込んで蒋介石の後押し」をしていると述べられており、イギリス、アメリカ、ロシアの真の目的は日本と蒋介石政府の双方を弱らせて東洋の土地を奪うことだとしています。

で、メコン川の遥か上流のヒマラヤ山脈を伊豆の踊子の如く九十九折りになって重慶へと向かうトラックを足止めするために、ヒマラヤ奥地の橋を爆撃したという武勇談が述べられているわけですが、この段階でイギリス、アメリカをはっきりと「敵認定」していることが分かるほか、当該記事ではソビエト連邦も敵認定していることが感じ取れます。

爆撃した橋は「功果橋」と呼ぶらしく、その橋が果たして誰の所有なのか、イギリス領ビルマの範囲内なのか、それともチベットなのか或いはちょっと見当のつかない場所なのかは検索をかけてみてもわからなかったのですが、蒋介石政府にたどり着く前の地点を攻撃しているわけですから、既にイギリスとは戦闘行為が始まったと受け取ってもいいくらいの事態に昭和15年末頃の段階で発展していたということが分かります。

日中戦争が始まった当初、アメリカはモンロー主義で、芦田均の『第二次世界大戦外交史』ではイギリス、フランスオランダは当初日本と事を構えて東南アジアの植民地を失うことを恐れていたとも書かれてありましたから、そもそも欧米と事を構えることを日本帝国の当局者も想定していなかったのではないかと思います。早々に戦争を終わらせていれば、太平洋戦争になることはなかったかも知れません。ところが、延々といつまでも戦争が終わらず、近衛文麿はここぞとばかりにそもそもの持論である全体主義的統制経済をやり始め、軍需品が必要ですから民生品が品薄になり物資不足で資金も不足という深刻な事態に陥りつつある中で、愈々欧米諸国とも事を構える決心を堅めつつあるあたり、読んでいる現代人の私としては背筋が寒くなる思いです。

当該の情報機関は当初は台湾とその対岸の広東、南京あたりの情報収集及び戦果の宣伝みたいなことをしていたのですが、だんだん手を広げるようになり、フィリピンインドネシアインドシナと範囲が拡大して今回とうとうビルマまで手を出したという感じです。「東亜共栄圏」なる言葉が公然と使われ始め、日満支(汪兆銘政権)だけでなく、東南アジア全域を含む日本経済ブロックを作ろうとしていたわけですが、どうも当初からそのような想定をしていたわけではなく、どこかの時点で「行けるところまで行こう」という発想になったように思えます。行けるところまで行こうとすれば、必ず欧米の大国と戦争になるまで突き進むことになりますから、そういう決心をした段階で日本帝国滅亡フラグが立ったも同然とも思え、かえすがえす「馬鹿なことを…」と思はざるを得ません。広田内閣の五相会議で南進が採用され、近衛内閣の閣議で南進が改めて正式に国策として採用されたことから、官僚主義的に深く考えずに国策通りに進んだのかも知れません。一旦決まった政策について臨機応変できないあたり、今ももしかするとあまり変わらないのではないかという気もします。援蒋ルートを断ちたい陸軍と日本経済ブロックを作りたい政治家と、宮崎滔天や頭山満みたいな民間の大アジア主義がぐちゃっと混ざって肥大したという感もなくもありません。精工に練られた構想というわけではなく船頭多くして船山に登る式の場当たり的、ご都合主義的な拡大主義が見て取れます。

一重に蒋介石との戦争に勝つために遠いビルマまで爆撃に出かけ、英米と険悪になり対抗策としてドイツのアドルフヒトラーと結ぶという悪手を選び、滅亡への坂道を転げ落ちようとしている日本帝国の姿を追うのは心理的なダメージが強いですが、取り敢えず手元の資料は全部読む覚悟で読み進めています。

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台湾近現代史33‐映画と女性‐三宅やす子・ソビエト

日本統治時代の台湾で台湾映画愛好家のために結成されたサークルである台湾シネリーグが発行していた『映画生活』の昭和7年5月20日付の号で、神谷千代子さんという人が「シネマ・女性」という題で原稿を寄せています。当時の時代の気分をよく知ることができるのではないかと思いますので、ちょっと紹介してみたいと思います。著者の神谷美千代さんについて検索してみましたが、どういう人なのかは分かりませんでした。

まず冒頭で、

 シネマは近代資本主義が生んだ新しい芸術形態の一つであります。近代女性と呼ばれる言葉もまた近代資本主義と関連したモメントに於いて意義を持っています。

と述べています。映画と近代女性(自由を謳歌する新しい女性)とは、ともに近代資本主義の産物であるという点で共通しているというわけです。大正デモクラシーを経た後の時代のことですから、そういう気分というものが少なくとも日本で盛り上がり、台湾にもその余波のようなものが漂っていたことを上の文から知ることができます。

続いて三宅やす子さんという当時活躍した女性作家のことが述べられています。1932年1月に亡くなった方ですので、当時としては、追悼文的な意味もあったのかも知れません。

故三宅やす子さんなんか、そういう点で作家として近代女性の先駆‐と云ふとおかしいが‐をなした人ではないでしょうか。

とされています。三宅さんが武蔵野館に映画を見に行った時に涙を拭くためのハンカチを持って行ったというエピソードが紹介されていますが、当時は女性が映画館に行くことすら憚られていた、社会的な圧力が強かったということが偲ばれます。他にも三宅さんの著作でボクシングやラグビーを観戦する女性について書かれていることに触れており、そういう女性は「不良少女」と呼ばれて肩身の狭い思いをさせられたけれど「婦人の社会的地位の高まりにつれて」そういうことはなくなった。しかし、まだまだ封建的な考えを持つ人が多くて困る、特に台湾ではまだまだそのあたりが進んでいないということが述べられます。私、いろいろ当時の資料を読んだことがありますが、平塚雷鳥ばりの女性論が書かれている当時の刊行物を初めて発見し、大いに驚ろきました。こういう感じのものを探していたんですが、ようやくたどり着いたという感じです。

著者はここで、映画を観たりスポーツを観たりするというだけでは単なる「退廃したモダニズム」になってしまうけれど、「文化的啓蒙」という観点から映画鑑賞の文化を推進するべきと主張します。そして、理想として掲げているとがソビエト連邦の様子です。

少なく共自らの文化を創造する任務を背負ふ近代女性といふことでありたひと思ひます。そのよき例をソヴェートの女性に見出すことによって一層はつきりするでしょう。そこではスポーツもシネマも文学も大衆の手によって自らの利益のためにその輝かしき前途が祝福されて居ります。×動的文化の単なる享楽とは大いに意義が違います。

気になるのは×の部分です。おそらくは反動の反が伏字になっていると思えますが、これが果たして検閲によるものなのか、それとも自主規制なのかははっきりしません。私が過去に見たことのある資料では、検閲された部分は白抜きになっており、×印を見たのは今回の記事が始めてです。

この×印は他にも「××党一味の中に多数の婦人が参加した事実」という記述もあり、まあ、たぶん、共産党だと思いますが、当時は満州事変後であり、日本の国際的な孤立が始まった時期であり、日本国内にはソヴィエト連邦と連携することで危機に対応するべきだというグループと、共産主義を敵視するグループの両方が存在しましたから、そういった微妙な波の動きをこの記事から感じとることができなくもないように思えます。

『映画生活』では、やたらと「リーグへの逆宣伝」に言及する記事が多いのですが、英米との関係の雲行きが怪しくなりつつある中で、「映画みたいな西洋かぶれなことをやりやがって」という逆宣伝だったのかも知れません。資料を読み進めるうちに、また新しい発見があれば、その謎も解けてくるのではないかと思えます。

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岡田斗司夫と宮崎哲弥と藤井聡

大阪の朝日放送が制作している『正義のミカタ』という国際で派報道バラエティ番組があり、多分、東京以外では全国ネットで放送されていると思いますから、この番組を知っているという人も多いのではないかと思います。

東野幸治さんが司会でほぼ中央やや向かって右寄りに立っており、画面右側にはほんこんさんなどのタレントの人たちが市井の声の代弁者みたいな立場で、画面左側には様々な分野の専門家が座り、その専門家の人たちから毎回3,4人が画面中央に出てきて、それぞれの分野の関連するニュースを解説するわけですが、「専門家」にとっては公開処刑とまでは言わないまでも、話し方が下手だとほんこんさんにヤジられ、内容が甘ければ宮崎哲弥さんに鋭く指摘され、行儀が悪ければ東野幸治さんに怒られる、それがほぼ全国ネットで生放送で流されるという、かなり緊張を強いられるであろう構成になっています。

大体、宮崎哲弥さんの鋭い指摘とほんこんさんの市井を代表するヤジで番組が回っているという感のある番組なのですが、更に京都大学大学院教授というとてつもない肩書を持つ藤井聡さんが宮崎さんの隣に座り、ご意見番的な立ち位置にいて、ちょっと前までは岡田斗司夫さんが専門家よりも詳しいのではないかと思えるほどのミリオタぶりを発揮し、実に細かい説明をする上に、イギリスのEU離脱を予言し、トランプ大統領の当選まで予言するというツワモノで、本来なら脇役、またはちょい役的なスパイス的な感じで番組に来ているはずの岡田斗司夫さんの発言に興味がそそられるというおそらくは番組の制作サイドでも想定していなかったであろう、おもしろい状況が生まれていたのですが、その岡田斗司夫さんが番組に登場しなくなりました。岡田さんの定位置には元オール巨人の弟子で今は弁護士という、特殊な経歴を持つ方が座るようになっています。

当初は、まあ、岡田斗司夫さんが出ない日もあるでしょうよという程度に思っていたのですが、全く出てこなくなった、ああ、外されたのか…ということが分かってきたというか、私の分析力が甘くて、今まで外されたことにも気づかなかったわけですが、まず間違いなく外されたのだろうと現状では言えるわけです。あんなにコメントがうまい人がなぜ外されるのだろう、前の方がおもしろかった…と私は思ったのですが、藤井聡教授が岡田斗司夫さんのことを腹の底から嫌いらしいことには私は気づいており、それは岡田斗司夫さんがプレゼンターとして中央で話した回で岡田さんが藤井教授に話を振っても一切無視するという分かりやすい態度をしていたから、そう思えるのですが、そういった人間関係が作用したのではないかという気がしないでもありません。

岡田斗司夫さんは、派手な異性関係がネットで暴露され、そのことについては宮崎哲弥さんは、宮崎さん自身がそもそもサブカル的な方面にも詳しい人ですから岡田斗司夫さんに対する理解はあったように思え「まあ、それはそれ」みたいな感じの反応をしているように見えたこともあったのですが、藤井教授としては、そういった浮ついた感じが赦せないと思ったのかも知れません。或いは異性関係のことはなくても、サブカルで飯を食ってる雰囲気が最初から気に入らないとかそいうこともあったのかも知れません。想像するしかないですが。

私が岡田斗司夫さんのことを心配する必要はないのですが、痩せればかっこいいので、前みたいにもう一回ダイエットしたほうがいいのではないかと思えてなりません。

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台湾近現代史22‐昭和7年の主要東京映画館封切記録

日本時代に台湾で結成された台湾シネリーグという映画愛好家のサークルが発行する『映画生活』の昭和7年12月29日号を読んでいて、ちょっと珍しいと思えるものを見つけることができました。「主要東京映画館封切記録」というものです。当時、どんな映画が東京で公開されていたかを知ることができるわけで、台湾研究の資料としても利用可能と思いますが、当時の日本、東京について研究する資料としても或いは利用可能、もちろん映画史研究にも利用可とも思います。台湾で生活する日本人の多くは、きっと東京の情報がほしいと思ったに違いありませんから、こういうのを読みたがったでしょうけれど、台湾人にとっても当時の東京は憧れというか、いわゆる花の都ですから、東京の情報をほしいと思った人は多かったのではないかと思います。

公開作品が羅列されているだけのページなのですが、ちょっと、どういったものが公開されていたかを見てみたいと思います。

9月15日
パ社 『ハリウッドは大騒ぎ』(「パ社」とはパラマウント社のことではないかと推測できます)
不二 『金色夜叉』(不二という映画会社があったようです。私は知らないんですが…金色夜叉とは現代人からみてかなりシブイ感じがしなくもないですね…)

9月22日
パ社『我らは楽しく地獄へ行く』
WB社『ブレナー博士』(「WB社」とはワーナーブラザースのことではないかと)

9月29日(又は30日)←原文のママです
パ社『歓呼の罪』
FOX『貞操切符』(なんつうタイトル…)
MGM『間諜マタ・ハリ』(お、出ました。名前だけは知っている。マタハリの映画ですね)
WB『マネキン英雄』
松竹『恋の東京』
東活『侠客忠臣蔵』(年末にはちょっと早いのでは…?)
河合『微笑む東京』『お江戸裏町』

10月6日
パ社『明日は晴れ』
WB『ヴェニスの夜』
UA『ロビンソン・クルーソー』
日活『1932年の母』『浪人しぐれ笠』
不二『もだん聖書』

10月13日
パ社『今晩は愛して頂戴ナ』(は、はれんちな…)
FOX『ほ々えみの街』
WB『二秒間』
独ネロ『アトランテイド』(やっぱ、ドイツ表現主義みたいな感じの映画なのでしょうか)
松竹『青春の夢いまいづこ』
日活『天晴れ、三度笠』『白夜の饗宴』

10月20日(又は22日)←原文でこうなっています
FOX『黒い駱駝』
松竹『女は寝て待て』(ん?意外と人生の真理だったりする?)
日活『無軌道市街』
河合『親分子分』『下宿屋の娘』(漱石のこころみたいな感じなんでしょうか)

などなど。

知らない作品ばかりです。字がつぶれてしまって読めないものや、ちょっと大変でここに書ききれなかったものもありますが、全体ではこの二倍以上の作品が羅列されています。時代的にはもしかしたら最先端のものでトーキーもあったかも?くらいでしょうか。チャップリンの最初のトーキーが『独裁者』で、これが1941年ですから、このころは正しく無声・弁士の映画から移り行く最中。弁士で生きていくつもりだったのが失業してしまったという人が増える一方、トーキーよりも弁士がおもしろおかしくしゃべってくれるのが映画の醍醐味じゃないか、という客層も確かにいたらしく、その辺りは当時も議論になったこともあったようです。技術革新とともにとある職業がなくなり、とある職業が増えるというのはAI時代を目前にした我々も同じかも知れません。上に挙げた作品の中で、今でも普通にみられる作品は、多分、ないかも知れません。フィルムが残っているかどうかも疑わしく、或いは一部は映画会社の倉庫に眠っているかも知れません。観たというツワモノがいらっしゃたらお知らせくださいませ。
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台湾近現代史21‐映画と検閲

台湾近現代史21‐映画と検閲

台湾の近現代史を映画という視点から研究されている第一人者として、三澤真美恵先生という、私のような立場の者からすれば遥か高く仰ぎ見なくてはいけないような大先生がいらっしゃいます。その三澤先生の著作に『「帝国」と「祖国」のはざま』という力作の大著があるのですが、先生の著作に拠ると、日本時代の台湾では映画制作が産業として発展するには至らなかったものの、当時の台湾人及び当時台湾に在住していた日本人が旺盛に映画館に足を運び、楽しんでいたことが明らかにされています。その証拠として当時の台湾での検閲料が年々増加している表もつけられてありました。現代人の感覚で言えば、検閲などというのは民主主義国家としてあってはいけないものですが、当時はもしかするとかなり普通のこととして考えられていたのかも知れず、検閲は今で言えば映倫のような感覚で受け取られていたのかも知れません。そこは想像になりますが。

また、台湾人の楽しむ映画と日本人の楽しむ映画、或いは台湾人が通う映画館と日本人と通う映画館には違いがあり、支配者と被支配者の構造があったとも三澤先生の著作では述べられています。

最近、台湾国立図書館のデータベースから入手した資料なのですが、昭和初期、台湾には台湾シネリーグなる映画を楽しむ友の会みたいなものがあり、彼らが発行していた『映画生活』という機関紙みたいなものが残っていて、多くの人が映画評を投稿しています。日本人の名前も台湾人の名前も両方あり、もちろん、ペンネームの可能性がありますから、日本名を使っているから日本人とは限りませんし、台湾名を使っているから台湾人とも限りませんが、日本名、台湾名の両方が差別なく掲載されている様子に私は好感を持ちました。

ちょっと興味深かったのは、昭和7年12月29日付の『映画生活』の編集後記に「映画週刊の座談会の記録の後半は大半発表を遠慮しなければならぬことなので遺憾ながら掲載を中止することになりました」と書かれている部分です。遠慮しなければならない内容とは何なのか…と勘繰らざるを得ませんが、掲載したら検閲に引っかかる、当局から物言いがつくような内容だったのかも知れません。私がかつて台湾の図書館で戦争中の発行物をいろいろ見た際、白抜きになっている部分が所々あり、そういう箇所に出会うと「あ、検閲が入ったんだな」ということが分かるのですが、このような場合はいわゆる事後検閲にあたり、読者は白抜きの箇所に出会うことで、検閲が実際に存在するということを実感することができます。一方で、事前検閲の場合は検閲に引っかかると発行そのものができなくなり、どうしても発行したい場合は指摘された箇所を作り直してもう一回印刷するという形になりますので、一般の読者が検閲の存在を実感することができません。また、発行者も検閲に引っかかるとコストがかかることが心配になるため、検閲にかからないように内容を作るようになり、言論のトーン全体に強い圧力がかかることになります。

日本の台湾統治は約50年あったわけで、少なくともその末期は私がいろいろな発行物を見た経験から事後検閲であったと考えていいと思いますが、50年の間にいろいろな変遷があったかも知れず、時代によっては事前検閲が行われていたかも知れません。今回取り上げた『映画生活』の編集後記の場合、掲載が見送られた理由としては内容が不穏当であったことは間違いないであろうと推測できるものの、それが当局の検閲を恐れた故のことなのか、それとも別の理由があったのかは想像力を逞しくしたところでなかなかはっきりとしたことは見えては来ません。

とはいえ、まあ、そういう言論空間もあったという、今回はそういうお話しでございます。

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豊洲と築地は共倒れ。海産物の流通は決定的に変化する。

築地市場の豊洲移転がいまだにかまびすしく議論されています。北朝鮮のクライシスがだいたい回避されたという雰囲気に世の中的にもなってきましたから、再び世間の目が豊洲移転にシフトしたという印象があります。

果たして築地と豊洲がどちらがいいのでしょうか?移転派の主張は、築地の建物は古くて地震に対して弱い上に、衛生面での管理も問題があって、しかも土中にはアメリカがビキニ環礁で水爆実験をした際に被ばくしたマグロが埋まっているため、豊洲のように新しい設備のところへ移転するべきだというものです。一方の築地残留派の意見としては、築地という名称にはブランド力があり、豊洲は地下水が汚染されているので、安全性に問題がある。仮に水道水を使うから豊洲の地下水が汚染されていても関係ないとしても、安全と安心は違うという論理で攻めているといったところでしょうか。

記事のタイトルで豊洲と築地は共倒れとしているものの、仮にどちらかに軍配を上げるとすれば、豊洲に軍配を上げていいのではないかと思います。豊洲の最大の懸念は地下水の汚染なわけですが、水道水を使うのであれば、関係ないのであって、安全だったら安心していいではないかと思えますし、新どんなにしい頑丈な建物の方が衛生面でも耐震面でも安心できるのではないかと、わざわざ土木の専門知識を持ち合わせていなくても、一般論として言えるのではないかと思えます。

尤も、「築地は問題が多い!」という人が登場しなければ誰も問題があるとは思わなかったと思いますし、環状二号線と通したいという目的がまずあって、そこで築地に物言いがついたような気がどうしてもしてしまいますので、果たして本当に築地がダメなのかどうかという疑問は残ります。衛生面に問題があるとしても、今まで問題なく築地が機能してきたわけですから、衛生面の問題は無視していい程度のことなのではないかとも思えるのです。

そうはいっても、ここまで「築地市場は汚い」キャンペーンが張られると、なんとなく築地という名前を聴いても以前のような魚河岸ロマンのようなものは既に失われてしまっており、「築地直送」の貼り紙を見ても却って萎えてしまうため、消費意欲を刺激しなくなっていますから、築地ブランドはもはや過去のものになっています。築地ブランドを守るべきという意見も私は理解できるのですが、既に築地ブランドは失われてしまっています。消費者は築地直送と書かれてあったら、なんとなく買いたくないと思うのではないでしょうか。

では、一方で今後、豊洲に移転後に豊洲ブランドが確立されるのかと考えてみても、なかなかそうはいかないかも知れません。豊洲に関しても「汚染がひどい」キャンペーンが張られてしまいましたので、「豊洲直送」は消費者のマインドを刺激しません。

ということは一連の騒動の結果、豊洲、築地の共倒れという結果を招くのではないかと思えます。豊洲にマンションを買った人は一喜一憂でしょうから、大変お気の毒ですが、できれば私も豊洲のマンションに住めるといいなあと思うタイプですので、豊洲にマンションを持っている人のことは、築地から豊洲への移転があろうとなかろうと、うらやましいなあと思います。

それはさておき、消費者のニーズがあれば、物言いがつこうとつくまいと成立はしていくはずですが、もはや豊洲にも築地にもニーズはなくなっていくのではないかと思えます。北海道なり高知県なり静岡県なりからの産地直送が普通になり、スーパーも扱う魚は産地直送。お寿司屋さんも産地直送。一般消費者もクール宅急便で産地直送になるのではないか、情報インフラが発達した今、敢えて築地か豊洲に一旦集積して再配送するというモデルはもう必要なくなるのではないかという気がします。築地も豊洲も通さない新しい流通モデルが発達し、近い将来、そちらに軸足が移るのではないか、それが主流になるのではないか思えるのです。

とすれば、東京都政は現在、足の引っ張り合いに終始したまま大事なことを決めることもできず、何かを前に進めることもできず、東京オリンピックのための準備も遅々としたままで、ずるずる沈んでいく過程にあるのではないかという悪い想像が働いてしまいます。

東京は日本の玄関であり、象徴であり、顔であり、中心なわけですから、東京には発展し続けてもらわないと困ります。しかし、築地・豊洲の議論一つとってもこのありさまですので、ため息をつくしかありません。

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ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』の永遠回帰

ニーチェが生きた時代、世界は産業革命という人による奇跡に湧きました。燃料機関による移動や生産が行われる姿は、人々をして人力を超えるものを人が生み出した、即ち、神の技を人が手に入れたと感じたとして不思議なことではないように思えます。

そして、人が神の技を使えるようになった以上、もはや毎日曜日に神に礼拝をして人生や運命を預けるという習慣そのものにも疑いの目が向けられていくようになります。現代とは少し違うかもしれません。現代では、科学技術の進歩によって神というデザイナーが存在しなければかくも精緻な世界が誕生するはずがないと科学者たちが真剣に考える時代になりましたが、当時は科学技術が「トレンド」になっていたとも言え、ニーチェのツァラストラが言うように、神は死んだと考えるのも無理はないとも思えます。

さて、『ツァラストラかく語りき』の興味深いところは、神なき人の世を人がいかに生きるかについて永遠回帰という視点が用いられているところです。永遠回帰という言葉は、要するに人は何度となく生まれ変わる、輪廻転生を繰り返すというもので、ニーチェの言う「超人」に到達しない限り、その永遠回帰から抜け出すことはできないとしている点です。

何かによく似ているわけですが、仏教的な世界観にとてもよく似ています。仏教でも人は何度となく生まれ変わり、輪廻によって与えられる修行をクリアしたものだけが菩薩になり、仏陀になれるとされています。ニーチェはキリスト教文明を否定しましたが、その結果行きついたのが仏教的悟りの境地を目指せ!という結論だったわけです。仏教の存在は当然に西洋にも知られているものですから、ニーチェもまた当然にそれを知っていたと考えて間違っているとは思えません。キリスト教の神を否定するニーチェが仏教的世界観に新たな境地を見出そうとしたことは大変に興味深いことのように思えます。尤も、古代ギリシャでも輪廻転生の概念はありましたから、そっちのほうの影響のほうが強い可能性も否定しません。

もちろん、ニーチェが絶対に正しいわけではありません。輪廻転生を繰り返すためには、人の魂の永遠性が前提にならざるを得ないわけですが、果たして本当に人の魂が永遠なのかどうかは死んでみなければわかりませんし、死んだ後では生きている人に報告することもできませんから、人にとって死は永遠に未知なものです。

しかしながら、人は死後の世界について考えないわけにはいきません。近く立花隆さんの臨死体験に関する取材についてもブログで書いてみたいと思っていますが、なぜ人が臨死体験なる不思議な経験をするのかについては、唯物論的な立場にたったとしても完全に説明することはできません。臨死体験のプロセスについては取材案件を重ねることで分かっては来ているようですが、なぜそんな経験をするのかは謎なままなわけです。

そういったことも考たうえで、ニーチェの「超人」とはどんなものかについて思案するのも生きている人間の悦びの一つなのかもしれません。

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