ナポレオンの棺

フランスのパリのアンバリッドは元々は退役軍人が生活するために準備されたものですが、今は軍事博物館などが置かれた公開の場になっています。馬関戦争の時に長州藩から鹵獲した大砲も展示されているとのことなのですが、私が訪れたときは気づくことができませんでした。(残念!)

しかし、ここで誰もが関心を惹かれるのはナポレオンの棺なのではないかと思います。1821年にセントヘレナ島で亡くなり、後に遺体が掘り返され、1840年にフランスに送られ、この写真のような巨大な棺に納められます。空気の流れはほぼないでしょうから、今もそのままの状態で遺体が残っているかも知れません。

とはいえ、1821年に亡くなって1840年に現在の場所に安置されたのだとすれば既に20年の歳月を経ているわけですから、白骨化していると考えるのが自然です。しかし、掘り返された時は遺体にほとんど劣化が見られなかったことから、現在もヒ素による暗殺説がまことしやかに囁かれています。ヒ素は遺体の保全に効果があるため、イギリスがナポレオンを暗殺したのだとも、ある説ではナポレオンが最後の日々を過ごした建物の材料に使われていたのだとも言われています。

ナポレオンは最後の日々は人生に対する無力感や大西洋の孤島で暮らすことへの心労が激しかったとも言われており、また、亡くなる直前にスケッチされた彼の絵からは相当にお腹が膨らんでいることから、肝硬変を患っていたとする説もありますが、公式には胃癌だったということになっているようです。

あるいは、肝硬変と胃癌の両方を患っており、更にヒ素をもられたということもあるかも知れません。

不世出の天才で栄誉栄華を極めた人物の最期がかくも悲しいものだったということは、人生とは何かについて考えずにはいられません。ナポレオン本人の場合は、いわば、自分が負けたのだから仕方がないという考え方もできるかも知れませんが、一緒に島流しにされた側近たちの心情は非常に辛いものだったに違いありません。

ちなみに、ここの博物館では第二次世界大戦に関する展示も多く、当時の日本でルーズベルトのことを故意に怖そうに描いた漫画雑誌の表紙も展示されていましたので、写真に収めてきました。
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(写真は二枚とも筆者がフランスを訪問した際に自分で撮影したものです)




第一次世界大戦から日本陸軍は甘い考えを持つようになったかも知れない

 第一次世界大戦は人類が初めて機械化された兵器が全面的に使用された戦争として有名であり、そのあまりの悲惨さから、戦後は国際連盟の結成など、世界平和を志向する流れが生まれてきます。

 大戦中、イギリスが日英同盟を根拠に日本陸海軍の協力を要請してきます。海軍は要請に応じて地中海に艦隊を派遣し、高い評価を受けたそうですが、一方で陸軍は危険すぎると判断したのか、協力を拒否します。
 一方で山東省にあるドイツの利権はしっかりいただこうという動きは見せていますので、なかなかしたたかと言えばしたたか、義理人情に薄く利にさといと言えば、そうとも言えます。

 少ない犠牲で日本は戦後、戦勝国の一つとして欧米諸国から迎え入れられ、国際連盟の常任理事国の一つとして活躍することになります。
 ただし、あまり時を経ずして満州国問題で日本はその席を蹴り、泥沼の長い戦争から敗戦への道を歩くことになりますので、日本が世界に認められたと手放しで喜べない、ちょっと複雑になる歴史の一場面です。

 当時はヨーロッパ大戦とも言われ、日本にとってはあまり関係のない出来事のように考えられているふしもあり、機械化された戦争の恐ろしさを日本軍があまり理解できていなかったということも、アメリカとの戦争に積極的だった理由の一つに挙げられるかも知れません。

 その点では、時運が伸びているその時期に、少し甘い考えを持つようになってしまっていたのではないかと思うと、やはりいろいろ残念というか、複雑な心境になりますねえ

大正天皇と摂政

 大正天皇は体があまり丈夫ではなかったとも言われています。
 昭和天皇は後に「父は健康状態に優れていなかったので、天皇のような激務には向いていなかったかも知れない」というようなことを述べたそうですが、大正時代もあまり長く続いたわけではないですし、相当にお辛かったかも知れません。明治天皇や昭和天皇の写真を見る機会は歴史が好きな人なら多いと思いますが、大正天皇の写真を目にする機会は自分から求めてグーグル検索をかけるなどをしないとなかなか得られません。

 若い昭和天皇が摂政になり、天皇代理として活躍しますが、ヨーロッパに視察旅行に出かけたり、台湾を訪問したりして、大変活発だったご様子が分かります。

 明治、大正、昭和という三人の天皇を並べてみると、明治天皇は「大帝」と称されることがある反面、実際には政治の意思決定にほとんど影響していなかったようです。当時は明治維新の創業者が多く、彼らが相談してものごとを決めていたので、明治天皇はある意味では言うことさえ聞いていればよく、象徴的な存在としてそこに座ってくれていればオーケー、余計なことは言わないでほしいといったところだったのではないかと思います。大正天皇は既に述べたように、虚弱で政治にかかわることが難しかったようですが、一方で明治創業の大物の数が減り始め、原敬内閣誕生からも分かるように大正デモクラシーのなかなかおもしろい時代へと入っていきます。
 昭和天皇は良くも悪くも政治との関わりの深い人だったと言えます。稿を改めて詳しく述べたいとは思いますが、摂政時代から政治に関わったことで見識が深まり、自分の意見も持てるようになったことと関係するのではないかなあとも思えます。

大正時代の女性解放運動

 大正時代は女性解放のための言論が大きく発達した時代です。
 平塚らいてうなどの女性が雑誌『太陽』や『青鞜』で様々な議論を展開します。
 そこで一つ大きな論点となるのが、女性は誰と性行為をするのが正しいのか、というものです。
 当時、婚前恋愛は珍しく、結婚は親同士、家同士、ということになりますから、大抵の場合、自分の意思で相手を選ぶことができません。平塚らいてうのような人たちは好きな人を自分で選ぶことが男女関係のあり方の大原則だと主張します。現代から考えれば当然のことですが、当時としては社会秩序への挑戦たとも受け取られたようです。

 大変興味深いのは、ある女性が某雑誌に「貧困のために、お金と引き換えに処女を失った悲しみ」を訴える内容の記事を投稿した時の論争です。多くの女性論者たちがこの記事を強く批判しました。普通に読めば同情するべき点の多い内容のようにも思えるのですが、女性は性行為の相手をお金で選ぶことは最低なことだ、貧困に耐えて貞操を守らなければならない、との議論が行われました。貧困もまた女性が解放されるべき重要なテーマですが、それはそれとして、彼女の選択は許容されないとの考えが強かったようです。

 今日も女性の貧困は重要な社会的問題の一つとして論じられることがあります。このようなことは今後も論じられていくでしょうけれども、より一人でも多くの人が幸福な人生を得られるよう、それぞれに努力したいものです。

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太平洋戦争開戦と駐ドイツ大使

 太平洋戦争は開戦ぎりぎりまで日本の政治家たちは本当にやっていいのかどうか悩みぬいたということは有名な話です。
 当然、勝つ自信はありませんし、もし勝てるとしてもその根拠は日露戦争でも勝てたからという既に神話の領域に達しつつある過去の成功例しかなかったと言って良いでしょう。

 ただ、日本がアメリカに勝てないとしても、ナチスドイツを頼みにするという発想は根強くあったようです。当時はドイツがソビエト連邦と戦争中でモスクワまであと少しというところまでドイツ軍が迫っていました。もしドイツがソビエト連邦もイギリスも倒すことができれば、アメリカは日本に妥協するだろうという甘い観測があったようです。

 では、本当にドイツがそこまで完全勝利できるのかどうかについての情勢分析はヨーロッパ各地の外交官からの電報をもとに行われました。ベルリンにいた大島駐ドイツ大使からはアドルフヒトラーは必ず勝てるという電報が何度も届きます。大島大使はヒトラーから事前に対ソ連開戦を教えてもらった実績があり、東京では大島大使がもたらす情報は信憑性が高いと考える人が多かったようです。しかし、モスクワを目の前にしてそれまで破竹の勢いだったドイツ軍の前進が止まってしまいます。ヨーロッパ各地の日本の外交官からはヒトラーは必ずしも優位であるとは言えないといった趣旨の電報も入り始めます。

 結果としては東条内閣は開戦を決意するのですが、最後の最後に背中を押したのは大島大使の電報であったと言えるかもしれません。
 真珠湾攻撃が行われたその日にドイツ軍は退却を始めます。よく、もし真珠湾攻撃が一週間遅かったら、ドイツ軍の退却を知った東条内閣は開戦を決意しなかったのではないかとも言われます。
 私ももしかすれば、それで開戦にならずに済んだかも…と思わなくもありません。ですが当時、関係者の心の中には「一度アメリカと戦争がしたい」という密かな願望が深いところに潜んでいたような気がしてなりません。ですので、いろいろと工夫をして開戦を回避しても、いずれは太平洋戦争が行われたのではないかとも思えます。

戦艦大和は何時から無用の長物になったのか

 現代では戦艦大和は無用の長物だったという評価が定まっているように思えなくもありません。戦争の主役は飛行機と空母に移行したため、大和がいかに巨大で射程距離の長い大砲を載せていたとしても飛行機に対しては無力だったというものです。また、そのような時代の変化に気づかずに巨大戦艦大和と武蔵を建造した日本海軍のナンセンスさを指摘するようなものもあります。

 しかし、世界一の巨大戦艦を造ったのは日本海軍ですが、飛行機と空母の時代を創ったのも日本海軍です。真珠湾攻撃は言うまでもないことですが、マレー沖でイギリスの巨大戦艦プリンスオブウエールズを撃沈したのもまた、飛行機の時代の到来を告げるものでした。
 そういう意味では、日本海軍が時代の変化に気づかずに無駄なものを造ったというのは正しい評価ではないように思えます。

 しかしながら、大和の運用という点では考えるべき点が多かったかも知れません。大和が実戦に投入された例としてはミッドウェー海戦で後方にいたほか、レイテ沖海戦、それと最期の沖縄特攻作戦あたりでしょうか。レイテ沖海戦では栗田長官という想定外の要素がありましたのでこの稿では論じませんが、ミッドウェー海戦は日本の今後に大きな影響を残したという意味で、遺憾のない大和の使い方があったのではないかという気がしてしまいます。また、最期の沖縄特攻ははっきり言えば大きな意義があると言えるものではなく、大和の乗員だった吉田満さんが戦後に書いた『戦艦大和ノ最期』では、乗員の若い士官たちが自分の死を日本の新生に役立てるという言葉で自分をなんとか納得させようとする場面もあります。

 若い有為な人物たちを、ほぼ連合艦隊のメンツのためだけに死なせてしまったというのは大変残念なことです。鎮魂。

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石原莞爾の世界最終戦争論

 石原莞爾という人物は陸軍史上最高の天才と言われ、同時に独特の世界観を持っていたことでも知られています。
 
 その独特の世界観を表しているものが、彼の考えた世界最終戦争論です。
 
世界の列強はそれぞれに戦いを続けて、やがて二つに統合されていく。最後に残るのは日本とアメリカであり、両国の間で言わば世界一決定戦が行われる。これが世界最後の戦争になるため、日本はどうあってもこの最終戦争に勝たなくてはならない。
 
 が、その概要になります。かなりの妄想が入っていると指摘する人もいると思いますし、多少、思い込みが激しいタイプなのかも知れません。

 陸軍大学では戦国時代のこともしっかり学ぶため、戦国大名たちが時代が下るに従って統合されていくことから、上のような発想を持ったような気もします。

 彼はアメリカとの最終戦争に備えるためにはソ連の脅威を排除する必要があり、そのために満州を日本の勢力下に置くことが必要だと考え、満州事変を起こしたと言われています。また、来たるべき大戦争に備えて国力を温存するために中国での戦争には反対していたとも伝えられています。

 石原莞爾が相当に緻密に考えていたことが以上のことから伺えるでしょう。

 実際に日本とアメリカが戦争を始め、現在もヤルタ体制が生きていると考えるならば、ある意味では最終戦争という側面がなかったわけではなく、石原莞爾の考えていたことは相当程度のリアリティを持っていたと評価することも可能です。

 戦後、彼がインタビューに答えて「日本は今後は絶対に平和主義でなくてはならない。他国に日本が蹂躙されても日本は戦ってはいけない」と話しています。満州事変を起こして日本が滅びるきっかけを使ったということは自覚があったでしょうから、強く後悔し、新しい国家観を持つに至ったと見るべきでしょう。彼の性格は少し極端に振れやすく、おそらくかなりナイーブな人だったのではないでしょうか。

聖徳太子とイエスキリスト

聖徳太子は実在しなかった、という議論があります。聖徳太子は後に創造された名前で、そのモデルとなった厩戸皇子の存在は確実としても、その人は聖徳太子ではない。というわけです。モデルになった人がいるのだから、実在しなかったと言い切ってしまうのもどうかと思いますが、様々な伝説が後に創作された可能性は十分に高いと言えるでしょう。

 馬小屋で生まれたところから、既に伝説めいていますが、このような誕生のしかたから、イエスキリストが伝説の下敷きになっているのではないかとの憶測も不可能ではありません。

 既にイエスの時代から数百年を経ており、ローマ帝国がキリスト教を国教に決めた後の時代のことですから、福音書の内容が日本まで伝わっていたとしても全く不思議ではありません。聖徳太子は蘇我氏と協力関係にあった政治家で、蘇我氏は大陸とのつながりが特に深かったということになれば、尚のことです。

 奇跡の内容では違いがあります。イエスキリストは病気の人の病気を触れるだけで治癒させ、貧しい人に無限と言えるほどのパンを与えます。一方で聖徳太子はずば抜けて聡明で、十人の話を一度に聞けたのような、優秀であるが故に奇跡的な仕事ができたという感じになっています。

 この違いはおそらくは儒教的な頭の良さ、人格の高さを良しとする価値観とキリスト伝説が混ざり合った結果に起きたとすれば説明が可能なのではないかと思います。

 今も法隆寺では聖徳太子への信仰は厚いそうですから、伝説だから真実ではないと言い切ってしまうより、今も信仰している人々の心情も酌みつつ、伝説を楽しむのが一番いいのかも知れません。

神風特攻隊のこと

日本軍が特攻を採用するのはレイテ沖海戦からで、もっとも本格的に行われたのは沖縄戦の時のことだということはよく知られていると思います。

 若い、これから日本を再建しなくてはいけない男性たちが特攻により戦死しましたが、飛行機を運転するというのは特殊技術であるため、ある程度学歴のある、より将来的に活躍してもらわなくては困る若者がパイロットとして養成されました。

 私の親戚にも特攻隊員として戦死した人がいますが、きっとその人は勉強ができる優秀な人だったのだろうと、その人のことを考えるたびに思います。

 レイテ沖海戦が行われた当時、優秀なパイロットもまだ生き残っていて、アメリカ機と空中戦ができるくらいの腕の持ち主が特攻で失われてしまいましたが、戦争が大詰めを迎えるころには、即席の養成になり、敵艦に体当たりするための急降下だけを何度も練習して出撃する人が多かったそうです。

 そのため、敵艦に辿り着く前に発見され、撃ち落されるというケースもかなりあったと言われています。

 沖縄戦の前半では、それでも戦果は高く、実際的な戦果以外にもアメリカ兵への心理的なショックは相当に強かったそうです。沖縄戦が後半に入るころにはアメリカ軍は沖縄海域全域に周到なレーダー網を構築したことで日本機の発見が容易になり、戦果はあまり上がらなくなりました。

 特攻作戦を指揮したのは宇垣纒司令でしたが、彼は1945年の8月15日の午後、終戦の詔勅ラジオ放送を聴いた後、特攻をしています。2000人近い若者に自殺攻撃を命令した以上、最後は自分も彼らの後を追うと決心していたと言われていますし、そうでなければこのような作戦の指揮を執り続けることは人間としてできなかったのではないかとも思えます。

 宇垣司令が特攻する時、20人ほどの特攻隊員が同行したそうです。その心境を全く理解できないということはありません。ついさっきまで覚悟を決めていた人が、戦争は負けで終了。では帰宅。とはいかないと思います。

 とは言うものの、戦争中ならまだしも、戦争が終わった後に特攻するというのは意味のないことです。宇垣司令はそのことで批判されることもあるようです。

真珠湾攻撃の辛いところ2

 真珠湾攻撃は戦術的には完璧だったとよく言われます。ハワイの北方からゼロ戦が飛来し、アメリカ側が成す術もないうちに太平洋艦隊を撃滅させ、颯爽と去って行った。そういうイメージが定着していますし、それは事実だとも思います。

 しかしながら、ある意味では不徹底に終わってしまい、戦略的にほとんど意味のない攻撃になってしまったことも残念ながら事実のように思います。

 真珠湾攻撃は二度行われ、第三派はありませんでした。二度の攻撃のうちにアメリカ太平洋艦隊の艦船は破壊されましたが、三度目の攻撃で港湾施設を破壊しなかったことが、様々な意味で痛恨だったという指摘もされています。

 まず多くの破壊された艦船が引き揚げられ、修繕され使用できるようになりましたので、敵の戦力を殺ぐという目的が不徹底でした。更に言えば、真珠湾が軍港として使用し続けることが可能だったため、アメリカ海軍の太平洋にとってはオペレーションが段違いに楽になります。

 しかし三度目の攻撃が容易に行えたかと言えば多少なりとも疑問はあります。二度の攻撃の間にゼロ戦250機のうち、約50機が生還していません。アメリカ側の迎撃はよくがんばったとも言えるかも知れないですが、その後の展開がどうなるかまだまだ読めない、ましてやアメリカの空母艦隊がどこにいるか分からないという状態では戦闘機を過度に消耗することはやり方を間違えれば自空母艦隊の全滅につながりかねません。

 連合艦隊関係者にとっては、空母艦隊がその時たまたま真珠湾にいなかったことが最も痛恨だったのではないかと思います。海の戦争は戦艦よりも空母と飛行機だということを証明したのは日本ですが、それをしてアメリカの空母艦隊が無傷のまま残ったということは山本五十六をして苦悩させます。
ハワイを占領しておけばよかった…という後悔もあったと言われ、それが後のミッドウェー作戦へとつながっていきます。

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