太平洋戦争開戦と駐ドイツ大使

 太平洋戦争は開戦ぎりぎりまで日本の政治家たちは本当にやっていいのかどうか悩みぬいたということは有名な話です。
 当然、勝つ自信はありませんし、もし勝てるとしてもその根拠は日露戦争でも勝てたからという既に神話の領域に達しつつある過去の成功例しかなかったと言って良いでしょう。

 ただ、日本がアメリカに勝てないとしても、ナチスドイツを頼みにするという発想は根強くあったようです。当時はドイツがソビエト連邦と戦争中でモスクワまであと少しというところまでドイツ軍が迫っていました。もしドイツがソビエト連邦もイギリスも倒すことができれば、アメリカは日本に妥協するだろうという甘い観測があったようです。

 では、本当にドイツがそこまで完全勝利できるのかどうかについての情勢分析はヨーロッパ各地の外交官からの電報をもとに行われました。ベルリンにいた大島駐ドイツ大使からはアドルフヒトラーは必ず勝てるという電報が何度も届きます。大島大使はヒトラーから事前に対ソ連開戦を教えてもらった実績があり、東京では大島大使がもたらす情報は信憑性が高いと考える人が多かったようです。しかし、モスクワを目の前にしてそれまで破竹の勢いだったドイツ軍の前進が止まってしまいます。ヨーロッパ各地の日本の外交官からはヒトラーは必ずしも優位であるとは言えないといった趣旨の電報も入り始めます。

 結果としては東条内閣は開戦を決意するのですが、最後の最後に背中を押したのは大島大使の電報であったと言えるかもしれません。
 真珠湾攻撃が行われたその日にドイツ軍は退却を始めます。よく、もし真珠湾攻撃が一週間遅かったら、ドイツ軍の退却を知った東条内閣は開戦を決意しなかったのではないかとも言われます。
 私ももしかすれば、それで開戦にならずに済んだかも…と思わなくもありません。ですが当時、関係者の心の中には「一度アメリカと戦争がしたい」という密かな願望が深いところに潜んでいたような気がしてなりません。ですので、いろいろと工夫をして開戦を回避しても、いずれは太平洋戦争が行われたのではないかとも思えます。

戦艦大和は何時から無用の長物になったのか

 現代では戦艦大和は無用の長物だったという評価が定まっているように思えなくもありません。戦争の主役は飛行機と空母に移行したため、大和がいかに巨大で射程距離の長い大砲を載せていたとしても飛行機に対しては無力だったというものです。また、そのような時代の変化に気づかずに巨大戦艦大和と武蔵を建造した日本海軍のナンセンスさを指摘するようなものもあります。

 しかし、世界一の巨大戦艦を造ったのは日本海軍ですが、飛行機と空母の時代を創ったのも日本海軍です。真珠湾攻撃は言うまでもないことですが、マレー沖でイギリスの巨大戦艦プリンスオブウエールズを撃沈したのもまた、飛行機の時代の到来を告げるものでした。
 そういう意味では、日本海軍が時代の変化に気づかずに無駄なものを造ったというのは正しい評価ではないように思えます。

 しかしながら、大和の運用という点では考えるべき点が多かったかも知れません。大和が実戦に投入された例としてはミッドウェー海戦で後方にいたほか、レイテ沖海戦、それと最期の沖縄特攻作戦あたりでしょうか。レイテ沖海戦では栗田長官という想定外の要素がありましたのでこの稿では論じませんが、ミッドウェー海戦は日本の今後に大きな影響を残したという意味で、遺憾のない大和の使い方があったのではないかという気がしてしまいます。また、最期の沖縄特攻ははっきり言えば大きな意義があると言えるものではなく、大和の乗員だった吉田満さんが戦後に書いた『戦艦大和ノ最期』では、乗員の若い士官たちが自分の死を日本の新生に役立てるという言葉で自分をなんとか納得させようとする場面もあります。

 若い有為な人物たちを、ほぼ連合艦隊のメンツのためだけに死なせてしまったというのは大変残念なことです。鎮魂。

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石原莞爾の世界最終戦争論

 石原莞爾という人物は陸軍史上最高の天才と言われ、同時に独特の世界観を持っていたことでも知られています。
 
 その独特の世界観を表しているものが、彼の考えた世界最終戦争論です。
 
世界の列強はそれぞれに戦いを続けて、やがて二つに統合されていく。最後に残るのは日本とアメリカであり、両国の間で言わば世界一決定戦が行われる。これが世界最後の戦争になるため、日本はどうあってもこの最終戦争に勝たなくてはならない。
 
 が、その概要になります。かなりの妄想が入っていると指摘する人もいると思いますし、多少、思い込みが激しいタイプなのかも知れません。

 陸軍大学では戦国時代のこともしっかり学ぶため、戦国大名たちが時代が下るに従って統合されていくことから、上のような発想を持ったような気もします。

 彼はアメリカとの最終戦争に備えるためにはソ連の脅威を排除する必要があり、そのために満州を日本の勢力下に置くことが必要だと考え、満州事変を起こしたと言われています。また、来たるべき大戦争に備えて国力を温存するために中国での戦争には反対していたとも伝えられています。

 石原莞爾が相当に緻密に考えていたことが以上のことから伺えるでしょう。

 実際に日本とアメリカが戦争を始め、現在もヤルタ体制が生きていると考えるならば、ある意味では最終戦争という側面がなかったわけではなく、石原莞爾の考えていたことは相当程度のリアリティを持っていたと評価することも可能です。

 戦後、彼がインタビューに答えて「日本は今後は絶対に平和主義でなくてはならない。他国に日本が蹂躙されても日本は戦ってはいけない」と話しています。満州事変を起こして日本が滅びるきっかけを使ったということは自覚があったでしょうから、強く後悔し、新しい国家観を持つに至ったと見るべきでしょう。彼の性格は少し極端に振れやすく、おそらくかなりナイーブな人だったのではないでしょうか。

聖徳太子とイエスキリスト

聖徳太子は実在しなかった、という議論があります。聖徳太子は後に創造された名前で、そのモデルとなった厩戸皇子の存在は確実としても、その人は聖徳太子ではない。というわけです。モデルになった人がいるのだから、実在しなかったと言い切ってしまうのもどうかと思いますが、様々な伝説が後に創作された可能性は十分に高いと言えるでしょう。

 馬小屋で生まれたところから、既に伝説めいていますが、このような誕生のしかたから、イエスキリストが伝説の下敷きになっているのではないかとの憶測も不可能ではありません。

 既にイエスの時代から数百年を経ており、ローマ帝国がキリスト教を国教に決めた後の時代のことですから、福音書の内容が日本まで伝わっていたとしても全く不思議ではありません。聖徳太子は蘇我氏と協力関係にあった政治家で、蘇我氏は大陸とのつながりが特に深かったということになれば、尚のことです。

 奇跡の内容では違いがあります。イエスキリストは病気の人の病気を触れるだけで治癒させ、貧しい人に無限と言えるほどのパンを与えます。一方で聖徳太子はずば抜けて聡明で、十人の話を一度に聞けたのような、優秀であるが故に奇跡的な仕事ができたという感じになっています。

 この違いはおそらくは儒教的な頭の良さ、人格の高さを良しとする価値観とキリスト伝説が混ざり合った結果に起きたとすれば説明が可能なのではないかと思います。

 今も法隆寺では聖徳太子への信仰は厚いそうですから、伝説だから真実ではないと言い切ってしまうより、今も信仰している人々の心情も酌みつつ、伝説を楽しむのが一番いいのかも知れません。

神風特攻隊のこと

日本軍が特攻を採用するのはレイテ沖海戦からで、もっとも本格的に行われたのは沖縄戦の時のことだということはよく知られていると思います。

 若い、これから日本を再建しなくてはいけない男性たちが特攻により戦死しましたが、飛行機を運転するというのは特殊技術であるため、ある程度学歴のある、より将来的に活躍してもらわなくては困る若者がパイロットとして養成されました。

 私の親戚にも特攻隊員として戦死した人がいますが、きっとその人は勉強ができる優秀な人だったのだろうと、その人のことを考えるたびに思います。

 レイテ沖海戦が行われた当時、優秀なパイロットもまだ生き残っていて、アメリカ機と空中戦ができるくらいの腕の持ち主が特攻で失われてしまいましたが、戦争が大詰めを迎えるころには、即席の養成になり、敵艦に体当たりするための急降下だけを何度も練習して出撃する人が多かったそうです。

 そのため、敵艦に辿り着く前に発見され、撃ち落されるというケースもかなりあったと言われています。

 沖縄戦の前半では、それでも戦果は高く、実際的な戦果以外にもアメリカ兵への心理的なショックは相当に強かったそうです。沖縄戦が後半に入るころにはアメリカ軍は沖縄海域全域に周到なレーダー網を構築したことで日本機の発見が容易になり、戦果はあまり上がらなくなりました。

 特攻作戦を指揮したのは宇垣纒司令でしたが、彼は1945年の8月15日の午後、終戦の詔勅ラジオ放送を聴いた後、特攻をしています。2000人近い若者に自殺攻撃を命令した以上、最後は自分も彼らの後を追うと決心していたと言われていますし、そうでなければこのような作戦の指揮を執り続けることは人間としてできなかったのではないかとも思えます。

 宇垣司令が特攻する時、20人ほどの特攻隊員が同行したそうです。その心境を全く理解できないということはありません。ついさっきまで覚悟を決めていた人が、戦争は負けで終了。では帰宅。とはいかないと思います。

 とは言うものの、戦争中ならまだしも、戦争が終わった後に特攻するというのは意味のないことです。宇垣司令はそのことで批判されることもあるようです。

真珠湾攻撃の辛いところ2

 真珠湾攻撃は戦術的には完璧だったとよく言われます。ハワイの北方からゼロ戦が飛来し、アメリカ側が成す術もないうちに太平洋艦隊を撃滅させ、颯爽と去って行った。そういうイメージが定着していますし、それは事実だとも思います。

 しかしながら、ある意味では不徹底に終わってしまい、戦略的にほとんど意味のない攻撃になってしまったことも残念ながら事実のように思います。

 真珠湾攻撃は二度行われ、第三派はありませんでした。二度の攻撃のうちにアメリカ太平洋艦隊の艦船は破壊されましたが、三度目の攻撃で港湾施設を破壊しなかったことが、様々な意味で痛恨だったという指摘もされています。

 まず多くの破壊された艦船が引き揚げられ、修繕され使用できるようになりましたので、敵の戦力を殺ぐという目的が不徹底でした。更に言えば、真珠湾が軍港として使用し続けることが可能だったため、アメリカ海軍の太平洋にとってはオペレーションが段違いに楽になります。

 しかし三度目の攻撃が容易に行えたかと言えば多少なりとも疑問はあります。二度の攻撃の間にゼロ戦250機のうち、約50機が生還していません。アメリカ側の迎撃はよくがんばったとも言えるかも知れないですが、その後の展開がどうなるかまだまだ読めない、ましてやアメリカの空母艦隊がどこにいるか分からないという状態では戦闘機を過度に消耗することはやり方を間違えれば自空母艦隊の全滅につながりかねません。

 連合艦隊関係者にとっては、空母艦隊がその時たまたま真珠湾にいなかったことが最も痛恨だったのではないかと思います。海の戦争は戦艦よりも空母と飛行機だということを証明したのは日本ですが、それをしてアメリカの空母艦隊が無傷のまま残ったということは山本五十六をして苦悩させます。
ハワイを占領しておけばよかった…という後悔もあったと言われ、それが後のミッドウェー作戦へとつながっていきます。

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真珠湾攻撃の辛いところ1

 真珠湾攻撃は宣戦布告前の攻撃だったとして、今も批判の対象にされることが良くあります。
 日本側の当初の予定では当日の朝に攻撃開始のほんの直前に野村吉三郎駐アメリカ大使が手交することにしていたそうですが、前日の人事異動に伴うパーティ、暗号電文の解読のための時間の浪費、タイピストの休暇など、不運が重なってしまい、攻撃している真っ最中の手交になってしまったと言われています。

 日清戦争、日露戦争ともに宣戦布告前から戦争を始めてしまっていますので、必ずしも日本が国際法を遵守する体質を持っていなかった面も否定はできないところですが、つきつめると当時の大使館員の仕事の甘さは日本人としては辛いところにならざるを得ません。

 真珠湾攻撃を描いたアメリカ映画の『トラ・トラ・トラ』では、日本が意図的に宣戦布告の通知を遅らせたのではないということを描いていますが、当時の日米関係は大変に蜜月で、日米友好ムードが盛り上がる中、日本側の弁明も取り入れられることになったのだろうと想像できます。
 その後作られた『パールハーバー』では、そのような同情的な部分は一切挿入されていませんが、それもまた時代の流れによるものなのかも知れません。

 歴史認識はその時々の時勢、流れ、外交関係などによっていかようにも変わってしまうものです。

 ソビエト連邦が満州国境を越えて軍を進める直前、日本の駐ソビエト大使に対して宣戦布告がなされています。大使が急いで大使館に戻ると電話線が切られていたそうです。電話線を切るのはどうかと思いますが、日本もあの時、アメリカから来た外交官を呼んで宣戦布告すれば、あのような失態にはならなかったのでは?と時々思うのです。

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信長暗殺の真犯人

信長暗殺の真犯人については諸説あって、もう語りつくされている感もありますが、私個人としてはやはり、朝廷説が一番いいのではないかと思っています。担当者として近衛説を取ることに特に疑問はなく、それで良いように思います。

 信長は朝廷から太政大臣か関白か征夷大将軍がどれか好きなのを選んでくれと全部断ったという経緯があり、安土城に天皇を移すことを計画していたフシもあり、時の勢いも尋常ではありませんので、朝廷が自分たちの立場を揺るがせにされるという不安を現実的なものとして受け止めたとしても全く不思議ではありません。

 更に言えば、過去、朝廷の簒奪を目論んでいた可能性が取り沙汰される人物は悉く暗殺される急病で死ぬかしています。朝廷にはそういう自己保存機能が古くから準備されていていざとなったら発動するというような仕組みでもあったのではなかろうかと完全に私の推測ですが、そう思えてしまいます。それが悪いというわけではないです。天皇制は支持していますので、そのようにして天皇家が乗り切ってきたことはそれで良かったと思います。

 プラスして秀吉や家康がグルになっていたという説もありますが、それも受け入れ可能なものと思えます。みんなで知らないふりをしてポスト信長時代に入ったとしても、それくらいのことはやってもおかしくないだろうと思えます。それぞれに動機は十分にあるでしょうし、だからこそかくも鮮やかに本能寺の変が成功したのかも知れません。

 少しひっかかるのは光秀のことです。彼は本能寺の変の後に諸方面に手紙を書き、協力を要請しますが、必ずしも反応は芳しくなく、光秀は次第に孤立していきます。

 そこまでみんながグルだったのなら光秀が孤立するのは理解に苦しみますが、みんなで光秀に嫌な役割を押し付けて、最後は光秀も切り捨てるというシナリオになっていたとしたら納得できなくもありません。

 だとすれば光秀はずいぶん気の毒な立場に立たされたとも言えそうですが、以上は全て憶測でございます。

松岡洋祐の焦り

 松岡洋祐はオレゴン大学の卒業で、当時の日本人の中でもとくにアメリカを良く知る人物であったと言われます。自他ともにそのように認識していたことでしょう。
 
 その松岡は満州事変の後の国際連盟の勧告を拒否し、脱退の道を選びます。国際連盟脱退は必ずしも本人の意思ではなかったとも言われますが、日本からの訓令もあったらしく、どうしても脱退しない方向でまとめようという決心もなかったかも知れません。何故なら、国際連盟にはアメリカが参加しておらず、松岡としてはアメリカの入らない国際機関の価値はさほど高くないという判断もあったように感じられるからです。

 松岡がアメリカをどれほど重視していたかは、その後の松岡外交がひたすらアメリカに対抗できる軸を作ることに情熱を傾けていたことから理解できます。ドイツのヒットラーと手を結び、その足でソ連に行ってスターリンと中立条約を結びます。当時日の出の勢いだったヒットラーと巨大な陸戦力を持つソビエト連邦と手を結べば、アメリカも日本に顔を向けざるを得なくなるとの期待を持っていたに違いありません。ですが結果としてはアメリカが日本打倒の意をより強くする方向に進んだと見るべきで、英米協調を主軸として安定を図ってきた日本外交の明治以来の伝統から見れば、大失敗、無理ゲーと言ってもよい試みを松岡していたと見て良いでしょう。

 フランス領インドシナ進駐後に始まった対日経済封鎖を解くため、松岡はアメリカとの交渉を担当しますが、アメリカ側から忌避され、近衛内閣は松岡を外すためだけに総辞職し、第三次近衛内閣が誕生します。自他ともに認めるアメリカ通であり、国運を左右する交渉には強い決意で松岡は臨んだことでしょうから、アメリカ側に忌避されて出る幕をなくしたことは本人にとっては相当に残念なことだったでしょう。

 戦後、松岡はA級戦犯に指名され、東京裁判にも姿を現しますが、裁判の初期の段階で病没してしまいます。本人の心中にはヒットラーと手を結んだことがアメリカを本気にさせ国を滅亡に導いたという自覚は十分にあったでしょうから、最期の日々はとても辛い回想を繰り返していたのではないかという気がしてならず、責任の重い人物ではありますけど、かわいそうだなあともやはり思うのです。

昭和天皇はマッカーサーに何を言ったのか

 戦後すぐ、昭和天皇がアメリカ大使公邸でダグラスマッカーサーと会見したことは有名な話です。そこで果たして何が話し合われたのか、昭和天皇がそれについて話すことは生涯ありませんでした。昭和天皇は会見の内容は誰にも明かさないと「男と男の約束」をしたと言っていたそうです。

 一方で、マッカーサーは後に出版した回顧録で昭和天皇から戦争の責任は全て自分が負うので、他の人たちを助けてほしいという主旨の発言があったとしています。

 当時通訳をした人も同様の主旨の証言をしていますので、ほぼ間違いのないことだったのではないかと思います。

 ただ、他の人については戦犯指名が予想される重臣たちのことか、生活に窮乏する国民たちのことか、その両方かということについてはちょっとはっきりしません。

 日本側からは一切その時の発言についての情報は出て来ないのは、当時の段階で天皇が責任を認める発言をしたことが明らかになれば、戦争犯罪人指名のリストに載る恐れがあり、そのリスクを回避するために内容を秘したとする考えもあります。

 責任を認めることで人望を得ることは時代、地域に関わらず、確かにあることですし、あの段階でそれを発言する昭和天皇の腹の括り方は相当なものだとも思います。一方で英米法的司法手続きの思想に則る以上、有罪か無罪かを申し立てる際に、先に外で自分の責任を認める発言しているのは決定的に不利になるでしょう。人の道と法律論の違いとしか言えないものかも知れません。

 では果たして昭和天皇の戦争責任はどう考えるべきでしょうか。様々な研究や議論があることは承知しています。難しい問題なのでいずれ稿を改めて考えてみたいと思います。

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