迫水久常著『大日本帝国最後の四か月』で知る「終戦」の手続き

1945年4月、鈴木貫太郎内閣が誕生してから終戦までの期間については様々な著作や研究がありますから、終戦が決まるまで、相当なすったもんだがあったことはよく知られていると思います。いよいよ決着がつかなくなって「聖断」なる、ある種の非常手段によってポツダム宣言を受諾するという意思決定がようやくなされたわけですが、鈴木内閣で内閣書記官長という半分官房長官みたいな立場に居た迫水久常という人物の手記を読むと、そこに至るまでの制度的な手続きが大きな壁になっていたことが分かります。

まず第一に旧憲法では天皇に和戦の大権があることになっています。しかし、明治時代は元老という憲法に規定のない最高権力者たちによる寡頭政治で意思決定がされていて、首相も元老が指名し、戦争するかしないかみたいな大事は元老が決めて軍隊が動き、首相は軍のお手伝いというようなものでした。その後、大正デモクラシーを経て最後の元老の西園寺公望が「憲政の常道」を掲げ、元老の影響力を少なくし、民主政治で選ばれた政治家が首相になるということを慣例化させようとしますが、軍人以外の政治家が首相になると殺されるというのが続いたために途中から断念して軍人首相時代に入り、やがて行き詰まりを見せて、近衛文麿というお公家様内閣が事実上日本帝国にピリオドを打つという流れになります。近衛在任中に西園寺公望が亡くなり、元老の首相指名という慣例も消滅しましたが、議会による首相指名ができませんでしたから、元老に代わって重臣会議が開かれるようになり、そこで首相指名が行われるということになります。何が言いたいかというと、太平洋戦争を終わらせる場合、重臣たちが「うん、やめたほうがいいよね」と言わなければ首相から「戦争やめましょう」とは言えないということです。

しかも、迫水氏の著作に拠りますが、ポツダム宣言の受諾は外交条約を結ぶのと同じになるから、枢密院の了解を得る必要があり、当時の平沼騏一郎枢密院議長を昭和天皇の聖断の場に立ち会わせることで、手続きを簡略化しようとします。

更にメインディッシュになるのが陸海軍で、有名な話ですが当時の阿南陸相が辞表を出せば内閣不一致で総辞職。改めて重臣会議で首相を指名して閣議を開き、枢密院の了解も経なければならないということになるので、ぎりぎりまで主戦論を唱えていた阿南陸相の辞表カードには周囲が相当びびっていたという話もあるようです。さりながら、阿南陸相は8月15日の未明に自決していますので、関係者からの評価は高く、迫水氏も阿南陸相が主戦派の陸軍首脳をなだめつつ心中では終戦に持ち込みたいというアクロバティックなことをやろうとしていたとして、その「腹芸」に感服したという趣旨のことを著作で述べています。

要するにポツダム宣言を受諾は首相、軍、枢密院、重臣が全員一致しなければ実現しないようになっていて、それぞれが「制度的手続き」を盾に取り主張をぶつけ合い議論が前に進まないという事態に陥ってしまいます。そうこうしているうちに原子爆弾も使用され、ソビエト連邦も攻めてくるという絶体絶命な状況が訪れます。にもかかわらず議論がまとまらず昭和天皇に決めてもらうという異例の手続きを踏むことになりました。ここで難しいなあと思うのは通常、天皇は自分から意見を表明しないことになっているにも関わらず、本気になって意見表明しようと思えばできないわけでもなく、天皇の意見が通るか通らないかはその時々の政治状況によって異なり、終戦の場合はたまたま天皇の意見が通ったという制度上の曖昧さです。昭和天皇の責任があると言おうと思えばいくらでも立論できますし、反対に昭和天皇には責任はないと言おうと思えばこれもまたいくらでも立論できるのです。法学論争が神学論争とは言い得て妙なりです。

昭和天皇は戦後、憲政上の問題として鈴木内閣が処理しなければならない案件であったけれど、内閣で意見が一致せず、自分に意思決定を依頼してきたので、それを受けたという見解を示しています。これだけでも現代人にとっては何を言っているのか分からない…と思えるような内容ですが、更に軍と枢密院というファクターが入ってくるわけで、高級官僚だった迫水氏が手続きに振り回されていたことに気の毒とすら思えてきます。

太平洋戦争末期、日本の主要都市は大体燃やされてしまい、それでも憲法を維持した国家が機能していたことには驚きも覚えますが、この期に及んで徹底抗戦か降伏かで議論が割れたということには正直あきれてしまいます。しかも制度的手続きを盾に取るという場合はどうしても「ためにする議論」がまかり通りやすくなり、政争やってる場合かよと突っ込みたくもなるのです。ポツダム宣言の受諾通告に際しても、当初「天皇の国法上の地位を変更しない」という前提で受諾すると通告する案があったのですが、迫水氏の回想では平沼枢密院議長が「天皇の大権を維持する」と文言を変更するように主張し(昭和天皇の回想では天皇が法源であることを前提とすると話が出たとなっていたと思います)、天皇の「大権」なり、天皇が「法源」なりという外国人には分かりにくい概念をねじ込んだというのも理解に苦しむところです。一刻も早く戦争を終わらせなくてはいけない時に神学論争してる場合かよとついつい思ってしまいます。平沼氏が検察出身で法律の専門家らしいところを見せたかったのかも知れません。

というわけで、日本帝国はその最期に於いて法の手続き論争をしていたというお話でした。


リットン報告書は受け入れてもよかった

1931年に発生した満州事変が石原莞爾と関東軍による画策で行われたということについては、もはや議論の余地はないように思います。思想信条がいわゆる右の人であろうと左の人であろうと、そこは一致するのではないでしょうか。で、この事件は蒋介石の中華民国政府が国際連盟に訴え出て、国際公論の場でなんとかしてもらおうと考えます。軍事力では日本に対抗し難いので、国際世論に助けてもらおうというわけです。この辺り、私は蒋介石はなかなか考えたというか、戦略的思考のできる人だと思います。

さて、日本は満州事変によって誕生した満州国がウッドローウイルソンの提唱した民族自決の趣旨にそったもので、満州地域の住民が自発的に望んで独立したのだと主張したわけですが、蒋介石も第一次世界大戦以降の世界的な平和志向の流れに沿う形で、満州が中国の主権の及ぶ範囲であり、まあ、力による変更は認めないと真っ向から対立します。

で、イギリス人のリットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団が日本、満州、北京と歩いてその報告書を提出します。リットン報告書です。一般的なイメージでは、リットン報告書は日本の主張を厳しく批判し、日本を糾弾するものだったかのように受け止められていると思うのですが、内容は全然そんなことはありません。リットン卿は北京で書いたとする報告書の中で、満州国は関東軍の実力行使の結果生まれたもので、現地住民の意思なんか全然反映されてないし、民族自決とは関係ないと壟断していますけれど、一方でその解決策としては中国の主権の及ぶ範囲であると認めつつ、現実的には当該地域の自治と日本の利権を認め、日本を中心とした国際管理を提案しています。即ち、中国には名を与え、日本には実を与えるというなかなかに現実主義的なプラグマティックで実現可能、双方の言い分をそれなりに取り入れた内容になっているように思えます。

しかしながら、日本の代表の松岡洋右はリットン報告書を受け入れるようにとする国際連盟の勧告に強く反発して国際連盟脱退するという悪手を選んでしまいます。この辺りに関するものはどの書物を読んでも非常にがっかりする場面で、読めば読むほどがっくししてしまうのですが、仮にプラグマティックに考えるのであれば、中国には名目上の主権はあるものの、満州に日本主導下の自治政権が立ち上がるわけですからその実をとり、スペードのエースともいえる溥儀を抱えているわけですから、溥儀に満州族の独立の必要性を訴えさせ、少しずつ満州国の既成事実化を図るという選択肢はあったはずです。リットン報告書は日本にとって全然損な話ではなく、受け入れ可能なものでした。にもかかわらず、日本側の主張を全て認めないのであれば脱退するという、残念ながらかなり一方的な外交が行われたことは、慚愧に耐えないとすら思えてしまいます。しかも、イギリス側からは国際連盟とは別のテーブルでみんなで仲良く満州で列強がおいしいおもいができるようにしませんか?という提案すらなされているのに、それをも拒絶しています。なんじゃこりゃ!と言いたくなってしまいます。イギリスの提案にのっかれば、リットン報告書を最低条件にして更に上乗せした条件で交渉できたでしょうから、こんなにいい話は本当はないはずです。それを断るというのは「世間知らず」というものです。

一応ことわっておきますが、日本がどうすれば満州を手に入れることができたかを考えたいわけではありません。「満州は日本の生命線」という当時の言説そのものがプロパガンダみたいなものですし、そもそもアメリカを仮想敵としたから後顧の憂いを断つために満州を手に入れたいという願望が湧いてきたわけですけれど、アメリカを仮想敵にする必要はありませんでしたから、満州は最初から日本人にとって必要のない土地なのだと私は思います。あくまでも当時の政治の責任者たちがどうしても満州に影響力を持ちたいというのなら、違った戦略的思考を持つべきだったのでは?ということです。

近年の研究では内田康哉が松岡に対して「脱退せよ」との訓令を出し、松岡が「外交は腹八分目でなくてはならない」と返信したという発見があったみたいなのですが、この時の内田の発想法は国際連盟から脱退すれば、国際連盟の勧告に従う必要はないという場当たり的で大局観のないもので、このやり取りを見る限り、松岡の方が真人間に見えてきます。松岡は国際連盟の脱退を失敗だったと考えていたようですが、帰国すると国民からは拍手喝采で、日本が大きく道を誤った大きな要因として新聞による世論の誘導は無視できないだろうと思えます。その後、松岡はおそらくは相当に悩みぬいて国際連盟を軸とする世界秩序に対抗するために日独伊枢軸であったり日ソ中立条約であったりというものを構想していきます。近衛文麿内閣の東亜新秩序更にその後の大東亜共栄圏構想というのも、国際連盟による世界秩序に対抗する軸としてどんどん関係者の頭の中で膨らんでいったものなのだろうと思います。結果として日本は敗戦し、今も敗戦国民の地位にいるわけで、本当に後世の日本人の一人としては、なにやってんだよ…としょんぼり突っ込みたくなってしまうのです。


「関西帝国」の復活を感じた件

桜の季節になったものですから、思い切って鎌倉、京都、奈良、更に大阪を歩きまわってみることにしました。歩くのが好きなものですから関東と関西の景勝地を一挙に見てしまおうという、わりと無駄に労力を使うことをしてみたわけです。鎌倉はともかくとして、関西をこれほどじっくりと歩いたのは10年ぶりくらいのことです。

気づいたのは関西地方はやはり値打ちのある凄い地域だということでした。かつて故中島らもさんが『西方冗土‐カンサイ帝国の栄光と衰退』で、関西地方の凋落ぶりを相当に嘆いていました。というのも、関西地方は確かに人口も多く、経済規模も大きいのですが、人の動態のようなものを見ると地縁血縁でだいたいのことが決まっていく田舎体質であり、東京への対抗意識は強いものの、東京に負けていることは分かっていて、しかしそれを認めようとせず、「関西の方がうどんがおいしい」という何の役にも立たない慰めを並べ立てて自己変革しようとしないというのがらもさんの持論であったと理解しています。

さて、今回改めて関西地方をよくよく歩いてみて、神社仏閣の見事さには目を見張るものがありました。これだけの世界遺産級の建築物が集中している地域というのは世界的にも珍しいのではないでしょうか。驚いたのは観光客の多さです。もちろん、10年前にも関西地方の観光客は多かったですが、桁が違うという印象です。着物レンタルが流行していますから、外国人の観光客が大勢、和服姿で歩いています。中国人や韓国人はもちろんですが、白人の姿も目立ちます。確かにレンタル用の着物は化学繊維でちょっと安っぽいですが、そもそも凋落する一方だった和服産業はこれでそれなりに潤っているはずです。

特に驚いたのは奈良です。以前に奈良を訪問した際には観光客はいるものの全体的にまばらであり、マニアが敢えて訪れる観光地といった印象が強いものでした。ところがどっこい、今回訪れてみると観光客がいるわいるわ、鹿にせんべいをあげるという奈良独特の体験型観光が世界の観光客に受けているらしく、国籍問わず中国人もアメリカ人もフランス人も鹿せんべいを買っています。また、個人的には奈良市街地から東のエリア、興福寺、東大寺、界隈の立派さ、見事さに感嘆せざるを得ませんでした。1000年以上も前に相当な都市整備が行われたということの斬新さのようなものを実感させられたというわけです。商店街も歩いてみましたが、10年前はゲームセンターかマニア向けの古美術の店くらいしかなかったのが、観光客向けのレストラン、ショップが立ち並び、全体に歩いている人のボリュームがぐぐっと上がっています。奈良を歩いた時、原則全員関西弁だったのが、行きかう人の話す言葉に慎重に耳を傾けてみたところ、標準語を話す人の数もなかなかなもので、かつてマニア向け地方都市だった奈良が、国際観光都市に大きく飛躍していると結論せざるを得ませんでした。

大阪は10年前とさほど印象は変わりませんでしたが、より観光客向けにカスタマイズされている感が強かったです。関西は世界の観光客を集めることで生き延びると腹をくくったと私には感じられました。考えてみれば、現代的でクールな都会的な雰囲気を大阪で味わい、ちょっと足を延ばせば世界遺産級の建築物が密集している京都があり、鹿にせんべいを食わせることができる奈良があるという意味で一回の訪日で日本のハイライトみたいなところをぐっと体験できる関西地方は観光地としては非常に恵まれた地域なのは当然のことです。以前勤めていた会社で「関西地方はもはや復興不可能なのではないか」と言っている人もいましたが。そんなことは全然ありません。世界に対する集客力という点では、関東が大都会東京+その延長線上みたいな横浜、ちょっと歴史ある鎌倉というラインナップなのに対して、大都会大阪+京都・奈良というラインナップの方が魅力的なはずです。高層ビルを見たいという人には東京よりも上海やドバイの方が魅力的に映る可能性もあり、東京ディズニーランドが無敵の集客力を誇っている時代がありましたが、今や上海にも香港にもディズニーランドがある時代で、希少性という点で相対的に凋落の兆しを見せています。一方で大阪のUSJはハリーポッターが大うけしているらしく、最近の関西は盛り上がっているらしいと聞いてはいましたが、なるほどこれは本物の波が来ていると大いに納得できました。京都・奈良の建築物の価値は半永久的に認められるでしょうから、長い目で見ると関西地方はなかなかに恵まれているわけで、その真価を発揮していると言ってもいいかも知れません。このように関西の観光産業が発展した理由としては、一つにアジア周辺地域の経済発展を無視することはできません。韓国や中国、台湾の人たちが豊かになり、ヨーロッパやアメリカの人たちよりは日本に対する知識が豊富ですから、日本へ旅行するなら関西をという発想に至りやすいのだろうと思います。もう一つの要因として関西空港の整備が進みLCCの受け入れが容易になったということもあるようです。つい最近まで関西はもうだめだと言われていましたが、ところがどっこい大復活しており、これは日本人全体にとって好ましい現象と思えます。

あと、付け足しになりますが、奈良を歩いて感じたのは、奈良が里として整備された地域であるということでした。車窓から見た印象ではあるのですが、関東地方は人の密集している地域か森林もしくは丘陵地帯なのに対し、関西地方の平地では人がまんべんなく分布して暮らしており、民家と農地がある程度均等に広がっています。自然と人間の開発が一体化した「里」が成立しているわけです。弥生時代からクールな産業であった農業を徹底して推し進めた結果の地域開発の結実と受け取ることもできますから、私はその点でも関西の底力のようなものについて考えざるを得ませんでした。

関西って凄いのね。


徳川慶喜と島津久光



徳川慶喜は前半生、実に多くの敵に出会い、彼はことごとく勝利したと言ってもいいのですが、彼の政治家人生でおそらく一番やっかいな存在でありながら、慶喜本人は歯牙にもかけなかったであろうという複雑な立場になる人物が島津久光です。

島津氏は久光が藩の実験を握る前の藩主だった島津斉彬の時代から幕政への参画を試みており、ある意味では傀儡する目的で擁立したのが若き日の一橋慶喜でした。慶喜は水戸徳川家出身であるため、本来なら将軍候補にはなり得ないはずですが、一橋に養子に入ったことで俄然将軍就任の可能性が膨れ上がります。そもそも彼を将軍にするために敢えて一橋に引っ張ったと言うこともできるはずです。

で、慶喜を将軍にしようとするグループが一橋派なわけですが、水戸の徳川斉昭や島津斉彬などが一橋派の支柱になっていくわけです。一方で、井伊直弼は水戸系将軍誕生絶対阻止を目指し、敢えて紀州徳川家の慶福を14代将軍に擁立しようと画策します。8代将軍吉宗以降、紀州徳川家は準本家筋みたいになっていますから、筋としてはさほど悪くはないわけですが、徳川三卿から将軍を出すことが慣例化していた当時、一橋慶喜の方が、法の秩序みたいな観点から言うと有利というちょっと複雑な状況が生まれてきます。結果としては井伊直弼が押し切って14代将軍は慶福に決まり、名を家定を改めて将軍宣下を受けることになります。一方で一橋派は粛清されます。安政の大獄なわけです。

ここで、ぐるっと歴史が変わるのは、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、一橋派が息を吹き返します。その時は島津斉彬が亡くなっていて、久光の息子が藩主を相続し、久光は藩父という法律的には何の根拠もないものの、島津家長という不思議な立場で幕政への介入を図っており、一橋慶喜は将軍後見職、更に同じく一橋派だった松平春嶽を政治総裁職に就けるという前例のない荒業が成された背景には久光の画策があったと言われています。

さて、そこまで慶喜に尽くした久光ですが慶喜は久光のことをてんで相手にする気はなかったようです。晩年でのインタビューでも久光のことはあまり好きじゃなかったと述べていますが、幕末の京都で慶喜が政治の中心にいた時代でも、久光に対しては冷たく当たり、酒に酔った勢いで天下の愚物と罵って、敢えて人間関係を破壊して久光の政治への介入を阻止します。久光は侮辱されたことをきっかけに慶喜を支えて幕政に参加するという方針を取りやめ、幕府を潰して島津の天下取りを目指すように方針転換します。

ここで登場するのが西郷隆盛で、隆盛は久光のことが嫌いだったようですが、それでも慶喜を倒すという一点で両者は共通しており、久光の金と兵隊、大久保利通の政治力、西郷隆盛の軍事に関する天才性が実にうまく機能して幕府打倒へと歴史の歯車が動いてきます。その後、廃藩置県で久光は大久保と西郷に騙されたと怒りまくって花火をばんばん打ち上げさせたという話は有名ですが、新政府を作った西郷と大久保も袂を分かち西南戦争に発展していくことはここで改めて述べるまでもありません。島津久光、西郷隆盛、大久保利通という個性も才能も全然違う3人が、たまたまこの時目標を一つにしたことが歴史を変え、それが終わるとばらばらになるというところに天の配剤のようなものを感じなくもありません。

いずれにせよ今回のテーマは慶喜と久光なのですが、もし慶喜が久光と人間関係がうまくいっていたとすれば薩摩藩の討幕方針が打ち出されることもなかったでしょうから、慶喜が久光を排除し続けたのは彼にとっては最大の失策と言えるかも知れません。慶喜の人生で、久光は最も軽く扱った人間の一人に違いないと私は思っていますが、そういうことが後々大きく響くというのは教訓と言えるようにも思えます。もっとも、久光は騒ぎを大きくしただけで本人が何かを成し遂げたというわけでもないように思うので、それでも幕末の最重要人物の一人なわけですから人生というものの不思議さを感じずにはいられませんねえ。

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ハンナ・アーレントとアイヒマン



ハンナ・アーレントと言えば『全体主義の起源』という著作が大変有名です。反ユダヤ主義が如何にして台頭したかを分析し、更にそれが如何にしてナチズムと結びついたのかを大衆の心を見据えつつ分析を加えた大著です。

ナチズムによるユダヤ人迫害、ホロコーストは大変に重い問題ですから、慎みのある態度で向かい合うべき事柄です。アーレントはかくも重大な事態を招いたことの大きな要因として大衆の思考の停止を指摘しています。近代市民社会は各市民の自発的参加を前提としています。近代以前の王侯貴族が意思決定をし、大衆は搾取の対象でしかなかったのに対し、革命によって王侯貴族の支配を打破した近代市民は自らの生命財産を守ると同時に社会の秩序を維持するために政治に参加して意見を述べ、時には論争し、義務や責任の履行が求められます。

しかし「大衆」ですから数が多すぎ、政治に参加できていると自覚できるとタイプと、所詮私は小市民、何を発言しようと誰も耳を傾けてはくれないし生命の確保はできるとしても、大した財産があるわけでもないという無力感を感じるタイプに分かれていきます。無力感を感じる人たちの方が近代社会ではもしかすると多数派なのかも知れないですが、そういう人たちは思考停止に陥り、自分に代わって考えてくれる人、または分かりやすい言葉を使ってくれる指導者に導かれたいという望みを持つようになるとアーレントは指摘します。アーレントはこのようなタイプの人たちが分かりやすい言葉で方向性を指し示してくれるアドルフヒトラーに魅せられたと分析しているわけですが、この分析はエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に近いものと言っていいかも知れません。

『全体主義の起源』という大著を著した後、世界的に注目されたアイヒマン裁判が始まります。彼女もアイヒマン裁判をよく観察し『エルサレムのアイヒマン』という著作を著します。命令に従い義務を履行しただけだと主張するアイヒマンの姿は、いわば『全体主義の起源』で指摘した、思考を停止した人の個別具体的な一例であったということになるかも知れません。

彼女はアイヒマンにはたまたまアドルフヒトラーと同時代にドイツに生まれたことにより、たまたま人道に反した義務を課せられた不運があったという趣旨のことを述べ、受け取り方によってはアイヒマンの主張には一理あるという意見になるわけですが、結論としてはそれでも悪に服従したことの罪によって死刑にならなくてはならないとしています。ただし、絶対悪であるはずのナチス幹部に一理あるかのように受け取れる言論は激しい批判を浴び、彼女は多くの友人をなくしたと言われています。

現代人の価値観から言ってナチズムを肯定することはできませんし、ファシズムに加担することはできません。しかし同時に、或いは自分がアイヒマンの立場に立った場合に抵抗できるかという自問も必要なことかも知れません。日常生活の中で見て見ぬふりをして見過ごす問題は数多く存在しているかも知れず、多くの人はそれはともかく日々の自分の責務を果たすことを優先せざるを得ないのではないかと思います。私ももちろんその一人です。ナチズムを正義だと信じて行動した人が多くの人々と、現代の価値観が正義だと信じて行動する我々に大きな相違はないかも知れません。書いてるうちに堂々巡りの袋小路に入りそうになってきたので、そろそろやめておこうと思いますが、上に述べたような自問は忘れるべきではないでしょう。人は常に過ちを犯す可能性がありますが、私は正義を遂行している思った時、それが本当に正義なのかを立ち止まって考える作業をすることで少しは過ちを少なくすることができるかも知れません。アーレントの議論はナチズムという過去の出来事を扱ったものではあるものの、現代人にも直接関係するものではないかと思えます。

映画『ダンケルク』とゴジラ

第二次世界大戦では、前半では枢軸国側の圧倒的優位に物事が進んで行きます。近代戦争は「資本力」が物を言いますから、冷静に考えれば資本力に劣る日本・ドイツが、世界一金持ちのトップ2を争うアメリカ、イギリスと戦争して勝てるわけはないのですが、少なくとも前半に於いては気合や戦術、集中力みたいなもので枢軸国が圧倒し「もしかしたら、日独が勝つかも」という幻想のようなもの、または不安のようなもの(立場によって違うでしょう)が世界に広がっていったと言えます。

そのドイツ圧倒的優位を象徴的に示すとともに、ゆくゆくはドイツの敗北をも予言することになった戦いが、ダンケルクの戦いです。フランスのダンケルク海岸に英仏が追い詰められ、逃げ場がなくなるわけですが、ドイツ軍がじわじわと包囲網を縮小していく中、海を渡ってイギリス側へと撤退する、史上最大規模の撤退戦であったとも言えます。ドイツ軍にとっては包囲戦で、英仏軍にとっては撤退戦なわけです。

で、ダンケルクの戦いでのイギリスまでの撤退作戦をダイナモ作戦と呼ぶわけですが、映画『ダンケルク』では、この撤退戦の難しさ、厳しさ、そして最後の鮮やかな成功を描いています。この映画をみて気づいたのは、英仏にとっての敵であるドイツ兵が全く、ほぼ完全に登場しないことです(最後にちらっと物語の展開上、やむを得ず、人影程度に、個性を感じさせない程度にドイツ兵が映りますが、それだけです)。

過去、第二次世界大戦関連の映画は何度となく制作され、とりわけドイツ軍の将兵を如何に描くかというのが演出の腕の見せ所のような面があったように思います。たとえば『バルジ大作戦』では、ナチスが理想とした金髪の沖雅也みたいに顔立ちの整った将校と、彼の身の回りの世話をする老兵の姿は、それぞれに個性を持ち、人間的感情を持っていることを表現することに演出サイドは力を入れていることが、一回でも見ればわかります。ナチスの将兵は時に冷酷に、時に人間的に、時に滑稽に、場合によっては優しい人として描かれたことも少なくはありません。どのように描くかは、演出の考え方次第ですが、ナチスという強烈なイメージを残した歴史的事象であるだけに、腕の見せ所でもあったと言えます。

ですが、ダンケルクでは彼らの姿は先ほど述べたように、ほとんど描かれません。ドイツ軍の飛行機は出てきます。Uボートも話題としては出てきます。ドイツ軍の砲弾の雨あられは描かれます。そのようなメカニックなものはふんだんに描かれるわけですが、人間としては登場しません。

このような演出には、実際には見えない敵が迫っているという不安を表現するのに効果があるように思えますが、敢えて言えば、ジョーズやジェイソンのような得体の知れない存在、日本の場合で言えば人間ではない敵という意味でゴジラのような素材としてドイツ軍を使っているという見方もできるのではないかと思います。尤も、ゴジラは鳴き声に哀切が籠っており、既に指摘されているようにゴジラは南太平洋で死んだ日本軍将兵たちのメタファーと捉えられるのが一般的ですから、ゴジラが必ずしも相応しいたとえではないかも知れないのですが…。

さて、ゴジラをたとえに出すのが正しいのかどうかはともかく、私はこの映画が戦争映画として成り立つのだろうかという疑問を若干持ってしまいました。戦争映画は敵と味方がそれぞれに人間であると描くことに、ある種の見せ場のようなものがあるのではないかという気がしてならないからです。ガンダムでも人気があるのは連邦軍よりもむしろザビ家の人間関係やシャアとセイラの兄妹愛の方にあるように思えますし、『スターリングラード』では冷酷で凄腕なドイツ軍将校が最後に負けを認める際に帽子を脱いで死を受け入れるというある種の騎士道精神を挟み込んでくるわけですし、『風の谷のナウシカ』でもクシャナの人物像は大きなウエイトを占めているわけです。

そう考えると『ダンケルク』という映画は戦争映画ではなくアクション映画なのではないか、或いはある種のサイコホラーなのではないかと言う気がします。それが悪いというわけではありません。確かに見応えのある映画ですから、一回は見てもいい映画だと思います。ただ、戦争映画としてはちょっと物足りないかなあと思ってしまいます。

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ゴッホとテオと日本

後期印象派の画家で、現代でも多くの愛好家から支持されているゴッホは、生前はほとんど作品が売れなかったこともよく知られています。彼は画家としての成功を目指しつつ、画家として活動を始めたばかりのころは思うように絵が描けずに悶々としていたようです。彼は必ずしも楽しい人生を送ったとは言えませんが、少なくとも一人、彼を愛し支え続けた人がいました。弟のテオです。テオは彼自身が画商としての仕事をしつつ、画家としての大成を目指すゴッホを金銭的にも支援し、且つ、精神的にも信頼と愛情に溢れた手紙を互いに交換し合い、支えていたことは大変によく知られています。

ゴッホの作品はいくつかの時期に区分されるようですが、日本人にとって特に有名なのは、ゴッホが自ら命を絶ってしまう直前の時期に浮世絵に触発され、多くの作品を描いたことでしょう。

フランスで浮世絵に対する関心が集まり、LE JAPONという書籍が19世紀の末頃に発行されるのですが、彼はその書籍で紹介されている浮世絵に大きな魅力を感じたようです。ゴッホは何度も作品を模倣し、漢字まできちんと模倣して浮世絵の神髄のようなものをくみ取ろうとしたのかもしれません。「日本に行きたい」「日本に似ている南フランスで暮らしたい」とテオに伝えたこともあったようです。オランダ出身のゴッホですが、テオがパリで仕事をしていた時にパリで兄弟で同居していた時期もあります。ゴッホとテオの美しい兄弟愛が強調されがちなため、この時期、2人の関係がぎくしゃくしたことはあまり伝えられていませんが、おそらくはゴッホは近くいる人には疲れる人で遠くにありて思うのがちょうどいいような存在なのかも知れません。我々もゴッホ個人に接することはなく絵画だけを知っているので、その作品を称賛することができますが、実際に会うとそうはいかなかったかもとも思います。ゴッホのことを悪く言いたいのではないです。彼が人間関係を築くことが不得手だったことを気の毒に思えてなりません。

ゴッホとテオはゴーギャンと交流するようになり、やがてゴッホは南フランスでゴーギャンと一緒に創作生活を送るようになります。ですがやがてゴーギャンとも不仲になり、彼は耳を切るという想像を絶する自傷行為を行うようになってしまいます。亡くなってしまう直前のことですが、この時期に彼の才能は大いに開花し、後世に残る作品を尽きせぬ泉の如くに大量に生み出すようになります。『アルルの跳ね橋』『アルルの寝室』『夜のカフェテラス』『ひまわり』などの名作がこの時期に制作されました。

夜のカフェテラス。明るい黄色が日本の浮世絵から想を得たものと言われている(パブリックドメイン)。

人の心に触れる作品を作るということは並大抵のことではありません。創作とか創造とか、そういったことについて考えれば考えるほど、その難しさを思い知らされるような気がしますから、私にはゴッホが才能を大きく開花させた後、その評価を知る前に、先に精神的な限界に達してしまい、命を落としてしまったように思えてなりません。何かがビッグバンのようにバーッと大きく花開いて、突然クラッシュしてしまうようなイメージでしょうか。

宮崎駿さんの『風立ちぬ』で、伯爵様が「創造的な人生は10年だ」と話す場面がありますが、人には創造できる時期、それが頂点に達する時期と衰退していく時期、余力のみで生きる時期があるのではないかという気もします。普通はだんだん枯れてきて、その枯れ具合がまたちょっといい味になってマニアな客層が残るようにも思えるのですが、ゴッホの場合はあまりに急速に才能が開花し、短期間で仕事をし尽くした結果の死ではなかったかと思えます。溢れる才能があって若くして突然、神様の思し召しのようになくなる人が時々いますが、それは開花が急速すぎてクラッシュしてしまうからではないかと私はよく考えます。悪い意味ではなく、そのような人たちに対して気の毒に思う同情の心境と開花した力に対する敬意の両方が同時に私の中にせり上げてくるのです。

人生は様々ですが、ゴッホのような人生を送るのはさぞかし辛いことと思います。ゴッホが亡くなると、テオも後を追うように病死してしまいます。まるでゴッホを支援するという大仕事を終えたから、神様からもういいよと言われたかのようなタイミングです。ゴッホにとってのせめてもの幸運だったことは、テオの奥さんが兄弟の往復書簡を読み、感動を覚え、それを世間に発表し、彼の絵をプロモートし現代に至るまで子孫たちが作品を守り抜いていることだと言えるでしょう。多くの才能が誰にも気づかれることなく失われていくことを思えば、せめて現代に至るまで衰えぬ称賛を得ているということは芸術家にとっては誉れなのかも知れません。とはいえ生きているうちにいい思いもしたいものですが…。

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佐久間象山の海防策



佐久間象山は幕末の蘭学者として子弟に吉田松陰や勝海舟のような超大物がいたことや、アメリカとの交渉事と担当したことなどでつとによく知られています。更に最期は京都で暗殺されるという運命を辿っていますから、尚のことドラマチックで、しかも残っている写真もやたらと迫力がありますから、そういった意味でも印象深い人物です。

松代藩士でもともとは儒学を勉強していた学者ですが、幕府が藩主を海防掛に任命したことで顧問官のような立場になり、急ぎ蘭学に取り組み魏源の『海国図志』を取り寄せたり、オランダ風説書に目を通すなどをして海防のための基本政策のようなものをまとめます。海防策、海防論、海防八策などと呼ばれます。

彼の海防論は目を見張るほど正鵠を射たもので、イギリスが現在、中国を好き放題に切り取っており、中国のことがだいたい終われば次は日本を狙ってくるであろうこと、日本の武士は白兵戦には強いが海戦にはそもそもノウハウが全くないため非常に心もとないこと、仮にイギリスの江戸上陸を阻止することができたとしても、先方は江戸が大都会で食料物資の集まる大消費地であることを知っており、太平洋のどこぞの島を占拠して軍艦を数隻でも浮かべておけば、日本列島の周囲を巡る廻船を襲撃して江戸に大きなダメージを与えることが可能であることなど、シーレーンまで見通して現状の厳しさを藩主に訴えています。その上で、日本では西洋軍艦の建造が長らく禁止されていたが、将軍家慶の英断でそれが可能になったことを高く評価し、まずはオランダ船を20隻ほど購入して操練し、ノウハウを得、ゆくゆくは自前の西洋軍艦が持てるようになるべきと具申しています。西洋からマスケット銃が入って来た時、日本人は見よう見まねでそれを試作し、ゆくゆくは本格的な銃の大量生産国になったという過去の歴史をよく踏まえた上で、まずは西洋軍艦に触ってみようというわけです。また、西洋軍艦は金属でできているわけですが、長崎でいろいろ輸入するために国内の銅貨がどんどん流出しているのを制御し、その銅を用いて軍艦の資材に充てるという提言もしています。鉄の船と銅の船が戦えば、勝敗は明らかでまず間違いなく鉄の船が勝つはずですが、木の船よりは頑丈なことは間違いないでしょうから、とりもあえずも金属の確保ということを考えていたようです。慧眼と言えます。

その後日本では尊皇攘夷思想が強くなり「西洋かぶれ」と見做された象山は上にも述べたように暗殺されてしまいます。ですが、象山はそもそも儒教を学んだ人であるため、人間観や世界観は儒教を基礎にしており、道徳は東洋が優れており、芸術(ここでは技術のこと)は西洋が優れているという発想法が彼の出発点であり同時に生涯を貫いた結論であったようにも思えます。人間性から生活習慣まで西洋風にすべしと考えた福沢諭吉とはこの点で大きく異なりますし、或いは世代の違いというものもあるのかも知れません。

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司馬遼太郎『最後の将軍‐徳川慶喜』の頭がいいだけの男の姿



司馬遼太郎さんの『最後の将軍‐徳川慶喜』は文庫本ではわりと薄いもので、すぐに読めてしまいます。『竜馬が行く』や『坂の上の雲』などのボリューム感に比べると、小品いってもいい感じの作品と言えます。『竜馬が行く』、『坂の上の雲』などが登場人物の仔細な人間関係、時代背景に関する豊富な知識と批評、同時代に起きた各事件に関する詳細がびっしり詰め込まれているのに対し、『最後の将軍‐徳川慶喜』では、主人公の思考回路と感情の機微に特化して描かれており、徳川慶喜という人はあらゆる意味で特殊な人と言えますから、その特殊な人物の内面だけに特化してみようという作者の意図を感じます。

たとえば新選組が池田谷事件を起こしたり、長州征伐で幕府軍が散々な目にあったりとしたことは、細かく描こうと思えばいくらでも資料を集めて細かく描けたはずですが、司馬遼太郎さんは今回の作品に関してはそういったことは必要最小限度に留め、徳川慶喜のリアクションとその思考パターン、行動パターンを読み解こうとしています。

で、簡単に言うと、史上初の水戸徳川氏出身の将軍なので、そもそも幕府内に人気がなく、幕府内から冷たい視線で見られているにもかかわらず討幕派からは当然敵の首領としていつでも寝首をかいてやると手ぐすねを引かれ、母親が有栖川宮の人なので、京都の公家の覚えはめでたいものの、公家は時勢次第でどこにでもなびくために全く信用できず、にもかかわらず、短い時間ではあったといえ、日本の最高権力者であり、彼は自分を守るために、ただひたすら自身の頭脳に頼り続けたというような評価が下されています。

自分の頭脳だけが頼りであり、稀に見る読書人・教養人であり、あわよくば長く日本を支配してやろうと思ってはいるけれど、それよりも何よりも自分が生き延びるということを最大の目的にして彼は周囲の人をはっきり言えば時には騙し、時には見捨て、必要に応じて沈黙し、必要とあらば誰にも負けない弁舌で演説をし、周囲に舌を巻かせるという、類稀なる才能を彼は発揮します。

頭が良いことはもちろん非常に強い武器ですが、ただそれにしか頼る事ができなかったというのは、またある種の不幸だったのかも知れません。それは本人にしか分かりらないことでしょう。政治家には向いていたかも知れませんが、鳥羽伏見の戦いであっさりと自分の将兵を見捨てたこと、江戸帰還後も松平容保など地獄の底までついてくるはずだった人物を見捨てたこと、それでいて弁舌の才を活かして大奥の支持を取り付け、命だけはとりとめるという辺りに、彼の頭脳のきわだって優秀な部分と、人間として大きな何かが欠けていたことの両方が提示されているように思えます。ただし、当時はちょっとあったらすぐ暗殺の時代ですから、義理人情とか言って、ここは俺が犠牲になってとか言っているとあっさり殺されていたかも知れませんから、自分の命を守るというかなり現代的な価値観に近い目標を持っていたであろう徳川慶喜としてはやむを得ないところだったのかも知れません。

京都で政治の頂点にいた時は多忙を極め、あそこまで仕事をした将軍はいなかったに違いありませんが、日本最高の権力者とはいえいつどこで足をすくわれるかも知れず、人材にも恵まれなかった彼の心境は吊るされた剣の下の玉座に座る王と同じようなものだったのかも知れません。

優秀な頭脳で権謀術数を展開し、自分の都合で人を見捨てまくった徳川慶喜に対する評価はその是非が分かれるところでしょうけれど、あれだけ頭がよくなければ殺されていたでしょうから、まあ、最終的にはやはり彼は自分の頭脳で自分を守ったと言っていいのかも知れません。天のたまものに感謝といったところでしょうか。徳川将軍最高クラスの頭脳を持つものが、最悪のタイミングで将軍になるというのは、何やら運命めいたものを感じなくもありません。維新後、旧幕臣たちが困窮するなか、一人趣味の生活を満喫した徳川慶喜は、やはり冷ややかな目で見られたようですが、そもそも他人に関心のないタイプだったに違いなく、本人は大して気にしていなかったかも知れません。自転車に乗り、多分、自動車にも乗り、油絵を描いて、写真を撮る。多芸多才な趣味生活は自分が満足すればそれでいいというその一点を目的に続けられ、彼は明治天皇よりも長生きし、大往生を遂げます。女性を多いに好んだと言いますが、将軍を続けていた方が女性には困らなかったでしょうから、その点だけが「惜しいなあ」と思ったかも知れません。ここは私の想像です。

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リチャード・ストーリィ『超国家主義の心理と行動』の日本帝国滅亡必然説

リチャード・ストーリィなる人物はイギリス生まれの学者さんなのですが、過去、日本がなにゆえに帝国主義に邁進し、滅亡したかを実証的に研究したのが『超国家主義の心理と行動』という著作です。原文の英語のタイトルは「Double patriot」となっていますが、ここで言うダブルとは二重という意味ではなくて、二倍という意味、普通より二倍の濃さを持った愛国主義というイメージなのだそうです。

玄洋社の頭山満のような、アジア主義者が民間で広がり、彼らが軍人とつながって拡大主義が台頭するというのを延々と様々な資料を用いて述べています。『西園寺公望と政局』のような資料も用いていますので、日本人であれば彼の研究を後追いして裏取りをするのも可能と思います。

面白いのは226から日中戦争あたりの記述で、重要なファクターとして石原莞爾が登場します。226事件皇道派が一掃された後に、石原莞爾が陸軍の大物たちを裏で操り、対ソビエト戦に備えた国家構想を抱き、実現しようとしていた一方で、陸軍内部では統制派が登場し、彼らが日中戦争にのめり込んでいきます。いつ、どこで誰が何を話し合ったのかを克明に再現しており、研究というよりは取材の集積みたいになっています。

当初は民間の運動に注目していますが、後半はほとんど政治の中枢、政局のドラマで、ナチスと同盟をしたいグループとそうでないグループとの相克、昭和天皇が狂信的愛国者を嫌っていたという点で狂信的愛国者は大きな矛盾をはらんでいたが、木戸内大臣が昭和天皇さえ守ればいいという覚悟で彼らを適当にスルーしていく様子、政治家たちが暗殺を恐れて軍をコントロールできなくなる様子等々が非常に詳しく書かれています。記述は真珠湾攻撃の直前までなされていますが、日本は北進論と南進論で分裂したいたものの、北進すればソビエト連邦との戦争は必至、南進すればアメリカとの戦争は必至、どう転んでもナチス滅亡も必至だったため、対ソ戦であろうと対米戦であろうと「日本にとって破滅に終わるという点で、まったく変わるところはなかったのである」と書かれています。滅亡まで「国家主義運動は走り切った」とも書いてあるため、一旦暴走した愛国主義は滅亡まで突き進むしかなかったのだと言うことも示唆しています。

特徴を上げるとすれば、原則として東京裁判で事実認定されたことをベースにしており、そういう意味では昭和天皇に対してはあまり批判的ではなく、一方で軍や愛国主義者に対しては冷たい視線が維持されています。ヨーロッパ人が日本の軍国主義を書くとどうなるかということがよく分かる一冊と言えます。

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