シンドラーとファニア

ナチスによるホロコーストに関する映画はたくさんある。ただ、今後の世界に語り継がれ、観続けられる映画をその中から選ぶとすれば『シンドラーのリスト』と『ファニア歌いなさい』ではないかと思える。二つの映画はともにホロコーストを糾弾することを目的とした映画だが、作り方は全く違っている。『シンドラーのリスト』では恐ろしい場面は多く登場するが、『ファニア歌いなさい』ではそのような場面はそう多くはない。しかし、映画を観た後により強い恐怖が頭の中に残るのは、『ファニア歌いなさい』ではないかという気がする。

『シンドラーのリスト』は分かりやすい。スピルバーグはナチスに対して容赦がない。一切の敬意を払う必要がないと彼はきっと考えているはずだし、『プライベートライアン』では降伏の意思を示したドイツ兵が殺害される場面が複数回あるが、スピルバーグが意図的に入れていることは間違いないと確信できるし、それが国際法違反だとしても、だからどうした?という彼の意思を感じる。ナチスは国際法によって守られる必要すらないと確信しているのではないかと私は思う。そのため、インディジョーンズも含んで、スピルバーグの描くナチスは単純であり、分かりやすく、簡単に言うと敢えて幼稚に描いている。いい年をした大人であっても人間的成熟ができておらず、総じて愚か者である。だからなのか、『シンドラーのリスト』には文脈がある。ナチスの人間に聡明さや成熟、人間的な愛情、そういったものは一切ない。ナチス党員もシンドラーも幼稚な人間である。ただ、シンドラーに限ってはホロコーストからユダヤ人を救ったという功績があることは認めるので、ある程度免罪する。ただし、映画の最後で号泣しなければならない。ざっくりとにはなってしまったが『シンドラーのリスト』には、そういう文脈があるので、観客はこの映画が何を言いたいのか理解することができる。

一方の『ファニア歌いなさい』にはそういう文脈がない。あらゆるステレオタイプが破壊されているので、観客は誰に感情移入していいのかも分からなくなっていく。強制収容所に入れられている人間の中にも碌でもないのがいて、小さな利益のために平気で人を裏切る。しかし、そのような心理が働いてしまうことが観ている側にとっても全く理解できないわけではない。強制収容所に入れられていた人たちは被害者であることに違いはないが、被害者の中でも加害者になる側を選ぶ人間が出てくる。この段階で、すでに二時間余りの長さの映画としては難解になってくる。描かれるドイツ人の姿もこの映画をより難解にしている。女性ナチス将校は、囚人から幼い子供を奪い、その子を慈しみ、愛し、育てようとする。この段階で既に難解である。ナチスの医者も登場するが、真面目であり、教養人であり、そして普通のおじさんである。アイヒマンを連想しなくもないが、ドイツという豊かな音楽と哲学を育んだ教養深い人々の住む国で、ナチスが台頭したという事実が如何に難解なことなのかをこの映画は敢えて描こうとしたのではないかとも思える。従って、台詞のやりとりにはそれぞれ意味はあるに違いないのだが、総じてバラバラであり、まとまっておらず、登場人物たちはただ、頭に浮かんだことをそのまま口に出しているだけで、正しいまとまりのある意味を持った言葉のように受け取ることができない。観続けるに従い、意地の悪いクロスワードパズルの答え合わせをしているような心境になってくる。若い女性たちが栄養視聴で痩せ細り、頭を剃られ、楽器の練習をしたり、お葬式をしたりする姿は異様であり、これが実話に基づいているということを思い出し、改めて恐怖が深まる。収容所に入れられている人たちに人間性と狂気の両方があるのと同様、入れる側のドイツ人にも人間性と狂気の両方がある。しかもそれは相互に描かれるのではなく、同時に描かれる。一緒くたになっていて、作品は観客に苦しむことを要求している。私も苦しみながらこの映画を観た。私は日本人なので、自分の祖父母の世代がアドルフヒトラーと同盟していたことを残念に思う。その残念さが加わることで、私の混乱は深まったし、映画が終わった時、私は自分が愕然としていることに気づいた。

『シンドラーのリスト』を観れば涙が出る。『ファニア歌いなさい』は愕然とする。もし、いい映画の条件の一つが、観客に考えこませることだとすれば、『ファニア歌いなさい』の方がいい映画なのかも知れない。もちろん、二つの映画作品に優劣をつけることは好ましいことではないのは当然なのだが、私の文章力ではこのようにでもしなくては自分が受けたショックを整理できないのだ。

私は最近、何度か繰り返し『この世界の片隅に』を観て、その都度愕然とした。なぜ愕然とするのか自分でもよく分からなかったのだが、繰り返し観ることで、多少は整理ができてきた気がするので、機会を見つけて書いてみたい。


昭和天皇とマッカーサーの関係をよくよく考えてみた

非常に有名な話だが、マッカーサーは昭和天皇と初対面の時にその人柄に感動し、昭和天皇は日本の再建に必要な人物だと確信したという。私も以前はその話を信じていた。それを否定するべき材料を見つけることができなかったからだ。しかし、最近は違った考えを持つようになってきたので、ここである程度整理しておきたい。

まずマッカーサーが昭和天皇の人柄に感動したという話についてだが、天皇からの対談の申し入れがあった際、マッカーサーは「不安を感じた」とされている。昭和天皇が命乞いに来るのではないかと思ったし、そのようなことは自分の一存では決められないとも思ったからだ。そして、世界征服を企んだ人類の敵をわざわざ助ける義理もないとも言えるかもしれない。しかし、実際に会ってみると昭和天皇からは「自分の身はどうなってもいいから国民を救ってほしい」と言われ感動したのだということになっている。

だが、この話の出どころはマッカーサーの回顧録による。昭和天皇は生涯、実際に何が話し合われたかについては口外しなかった。とすれば、この話は当事者の一方からのみ出た話で、裏付けがとれる類のものではないと言えなくもない。日米双方に通訳者がついていたため、通訳者の証言も残っているが、その証言は大筋ではあっているが微妙な違いがある。もちろん、通訳はある程度意訳しなければならない場合が多いため、微妙な差異があっても不思議ではないのだが、通訳にはそもそも守秘義務があるため、そこで知り得たことを話すことはゆるされない。そのため、裁判などで宣誓した上で証言するならばともかく、そうでない場合、どの程度通訳証言を信用するべきかは難しい問題になる。

また、そもそも「自分はどうなってもいいから他の人を助けてほしい」というのは美談過ぎる。果たしてそのようなある種の自己犠牲的精神論だけでマッカーサーがころっといってしまい天皇を熱烈に支持するようになったという話は、関係者に都合よくできすぎているのではないかという気がしてならないのである。当時、多くの人が昭和天皇はドイツのファシストと同様に罰せられなくてはならないと考えていたはずだし、仮にどれほど人間的に魅力があったとしても起訴すべき訴因があるとすれば、いい人だからという理由だけで責任を免除するということは考えにくい。

そのため、私は初対面で両者は全く違った話が行われたのではないかと考えるようになった。具体的に何が話し合われたかは証明不可能だが、その後の歴史の展開を見ると、多少の想像は可能だ。まずマッカーサーは大統領選挙に出馬する意欲を持っていた。そのためには日本占領に成功することが絶対に必要だと考えていたことは間違いない。マッカーサーが最も不安に感じたのは果たして最近まで頑強に抵抗していた日本人が意のままに動くかどうか分からないという点にあったのではないだろうか。当時のアメリカ人であれば、天皇が日本人に対して神秘的な影響力を持っていると考えていても不思議ではないし、マッカーサーの立場であれば、もはや戦争の決着がついた後、わざわざ天皇を訴追して日本人がどういう反応を示すかを心配するよりも、天皇には責任がないことにして占領に利用することを優先したとしても不思議ではない。一方、昭和天皇は天皇家の存続を確保することに主眼があったに違いない。天皇家さえ存続すればたとえば日本が領土を削られたり、国際法上敗戦国として不利な地位に置かれたりしたとしても、いわゆる国体は保持できる。そのためにマッカーサーの支持を取り付けることは必要だっただろうし、譲歩できる部分はいくらでも譲歩する覚悟はあったはずだ。

要するに天皇を保全し、天皇の協力のもとでアメリカ軍による日本占領を完遂するということで両者の利害は一致していたのであり、ある程度の下交渉が行われた上で、初対面の際にそれを確認し合ったということが真相なのではないかと私には思える。

ただし、それを大っぴらに口外することは両者にとって不利である。マッカーサーは世界に対して昭和天皇を訴追しない理由を明らかにしなくてはならなかったし、昭和天皇も日本の半永久的占領と引き換えに国体護持を図ったということは憚られる。そのため、マッカーサーは昭和天皇の美談を創作し、通訳もそれで口車を合わせることになり、昭和天皇は沈黙を貫いたのだとすれば、筋は通る。マッカーサーは天皇を訴追すれば日本国内で叛乱が起き、100万の軍隊が必要になるとワシントンに脅しをかけた。昭和天皇はラジオで人間宣言を放送し、国民感情の慰撫に努めたというわけだ。

それが正しいことだったかについては賛否あるかも知れない。マッカーサーの個人的な政治的野心と、昭和天皇のやはり国体護持という政治的目標が合致して占領政策が行われ、その後日米安保が結ばれたのだとすれば、納得できないと言う人もいるかも知れない。私個人は立憲君主制を支持しているので、天皇家が存続したことは圧倒的敗戦の事実の前では戦争で敗けて交渉で実を獲ったとも言えるので、これでも良かったと思う。果たして天皇が訴追された際、本当に日本国中で叛乱の嵐が吹き荒れたかどうかは疑問だが、そうなってもおかしくはなかったので、ある程度穏便に物事を進めることにはなったと思うし、日本の再建にはよりよい効果があったと思う。もちろん、価値観の問題があるので、飽くまでも私は個人はそう思うということに留めたい。マッカーサーは大統領にはなれなかったが、それは私の知ったことではない。


シンドラーはなぜ号泣しなくてはならなかったか

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は、あまりに安易に人がナチスに殺害される場面が連続して続くため、観客はそれが実話に基づいているだけに驚愕せざるを得ない。人命があまりにも軽く扱われていたこと、一部の人間をただ、それその人がその人であるという理由だけで死に追い込まれたこと、人間に対する罪の重みに考えさせられるし、日本人の観客であれば自分の祖父母の世代はこの連中と手を組んでいたという目をそむけたくなるような事実にも向き合わなくてはならない。

そのよう深刻な映画作品の中で、救いになるのはシンドラーという男の存在である。軽妙な会話とウイットに富み、金持ちで、敗戦へまっしぐらという絶望的な時代状況の下で贅沢な暮らしを楽しみ、女性にもてる。羨ましいご身分であり、その気楽な感じに安心感をついつい持ってしまうのだが、そのように彼が軽快に人生を楽しんでいるにもかかわらず、1000人を超すユダヤ人を強制収容所から救い出し、死の恐怖から解放したという人間としての功績もまた賞賛に値するものである。しかも、強制収容所から救い出す理由が軍需工場の強制労働者が必要だと言う偽悪的なものであるために、シンドラーからは偽善の嫌らしさを感じることもない。様々な意味で完璧な主人公だ。

しかし、映画の最後のあたりでシンドラーは号泣することになる。シンドラーが号泣したことについては、「興覚め」という意見もあったし、私もそう思った。果たして何故に、スピルバーグはシンドラーに号泣させたのだろうか。ナチスのユダヤ人迫害を憎むスピルバーグの立場からすれば、明るく楽しくユダヤ人の命を救ったシンドラーを、そのまま明るく楽しい人生を軽妙に生きる男として最後まで描いてもさほど問題はないはずのように思えてならなかった。

しかし、スピルバーグはシンドラーに号泣させることにした。私はその理由について何年も考え続けてきたが、最近改めて見直して、シンドラーは号泣しなければならなかった、シンドラーの号泣は二つの意味で必然であると考えるようになった。以下にその理由を述べる。
まず、シンドラーにとって人を救うことは道楽だった。道楽であろうと何であろうと人を救うことは賞賛すべきことだし、別に道楽でやってもいいではないかとも思えるが、シンドラーはナチスのユダヤ人迫害に対して、一人の分別のある人間であれば、敢然と戦わなくてはならなかったはずである。道楽でやるということは無理してまでは救わなかったとも言える。人の生き死にを神でもない人間が道楽で、自分のできる範囲でリストアップするという行為の恐ろしさに彼は気づかなくてはならなかった。彼はユダヤ人を工場労働者として連れてこさせるために金品を用いたが、それは徹底したものではなかった。彼はしっかり自分が贅沢できるだけの資金は残しておいたし、楽しい人生を犠牲にしてまで人助けをするつもりはなかった。そしてそれは罪深い。人の命を救助する際、それは道楽ではなく自分の存在を危うくさせることがあったとしても、それでも覚悟を持って尚取り組むべき「正義の戦い」でなければならない。シンドラーはそれをしなかった。映画として完結するためには、シンドラーはその罪深さに気づく必要があったに違いない。シンドラーが身に着ける様々なぜいたく品をナチスの担当者に渡せば、もっと救えたのである。金品よりも遥かに大切なものをシンドラーは救うことができたはずである。そのことに、敗戦が決まってから、もはやそうしなくてもよくなってから彼は気づいた。言い方を変えるならば気づくのが遅すぎたのである。スピルバーグはシンドラーを評価しながらも、気づくのが遅かったということの罪を糾弾している。そのため、シンドラーは興味深い男ではあっても英雄にはなれないのである。
 だが、単に糾弾の対象にするためにシンドラーが号泣する場面を挿入したというわけでもないと私は思う。シンドラーの人間的成長も描かれなければならなかったのではないかと私には思える。シンドラーは道楽で人助けをして悦に入っていたが、人助けは道楽でするものではない、もっと真剣に覚悟を決めてやるべきものでなくてはならなかったということに敗戦を迎えてから気づいたシンドラーにできることは号泣することしかなかったのである。しかし、たとえそれがユダヤ人を助けるという意味では遅すぎたとしても、一人の人間の魂の向上という点から見れば遅すぎるということは決してあり得ない。この作品はファシズムが特定の人間を迫害することの犯罪性を糾弾するだけでなく、同時にシンドラーという一人の男の人間的成長という二つの目的を持って制作されたと考えることができる。

それ故、スピルバーグのシンドラーに対するまなざしは決して冷徹なものではない。たとえ道楽とはいえ、ユダヤ人の救済に努力した男としてそれなりに賞賛しているし、更に人間的な成長の瞬間を迎えたのだから、その点に於いてシンドラーを祝福しているとも言えるのである。人が、その人の行動や考え方を変化させる瞬間に立ち会う時、それはたとえ日常生活でもある種の感動を伴うことがある。ナチスドイツの犯罪性を糾弾しつつ、シンドラーという男の成長物語も描いたスピルバーグはやはり言うまでもないが天才なのである。


BC級戦犯裁判‐岡田資中将のケース

戦後、東京裁判でA級戦犯が裁かれましたが、ほぼ同時進行、場合によっては少し遅れてBC級戦犯裁判もアジア太平洋各地で行われました。果たして戦勝国により敗戦国を裁く裁判が公平公正なものになり得るかという議論はもちろんありますが、大変に興味深いケースとして終戦時東海軍司令だった岡田資中将の裁判があります。

終戦前の半年間はアメリカ軍による絨毯爆撃、無差別爆撃が日本各地に対して行われたわけですが、民間人や民間施設に意図的な攻撃を加えることは戦争犯罪だという認識に立ち、岡田中将は撃墜されてパラシュート降下した米兵を捕虜としてではなく戦争犯罪人として裁き、死刑の宣告をして執行させたということが問題になりました。

但し、死刑の宣告を下す手続きが不公正なものであったということが問題にされました。岡田中将は1945年7月に軍律会議の略式手続きで死刑の決定をしたわけですが、死刑という重い刑に対し弁護士もつかない軍率会議をしかも略式手続きで進めてしまったということで、適正手続きを経ていないということが問題視されたわけです。

軍律会議は軍法会議とはまた違うもので、戦時下の慌ただしい中、軍司令官が行政権と司法権も掌握して軍律を定め、軍律違反者には軍司令官が判決を下すことができるという三権分立もなにもあったものではないという仕組みであり、弁護士もつきませんから、検察側はその問題を指摘し、というかその問題に絞って被告を攻撃するという方針で臨みます。

一方、ここが大変に興味深いことですが、被告と弁護人は①責任は軍司令官一人にあって、部下には一切責任がないという立場を貫き、②激しい爆撃下で略式手続きをするのが精いっぱいだった、当時としては最善を尽くしたということを主張し、③激しい爆撃下というのがどれくらい激しかったかということを立証するために、当時のアメリカ軍の爆撃が無差別爆撃で戦争犯罪に値するということを立証するという構えをとりました。

岡田中将はその裁判の時に部下に責任を押し付けることなく、自分一人が全てを引き受けるという姿勢で臨んだことから、人格的に日米関係者双方から高く評価され敬意を集めたと言われています。また、岡田中将のみが死刑判決を受け、実際の執行にかかわった部下たちが死刑判決を受けなかったことは、実質的に被告・弁護側勝利とも言える判決だったと言え、知る人ぞ知る、希少なケースであったと言えると思います。

このような実質勝利を勝ち取ることができたのは、被告・弁護側の戦略が非常にうまくヒットを当てたということがあると思います。第一に、岡田中将が自分から「全て私の責任だ」と正面から主張したことは、裁判委員(米軍の法務関係者で、事実上の判事)に対する印象を良くしたようですし、検察もその態度には好感を持ったと言われています。担当検事は判決後に減刑嘆願の文書に署名までしたそうですから、岡田中将個人に対する感情は良かったのでしょう。次に、軍律会議の略式手続きが公正だったかどうかを争点にしようとしなかったこともいい戦略だったように思います。ここは私の考えになりますが、弁護士のつかない軍律会議の略式手続きで死刑判決を下し、しかも実行するというのははっきり言ってかなり乱暴のように思えます。被告・弁護人サイドは激しい戦時下であったので、最善を尽くしたと述べつつ落ち度はあったことも認めます。その上で、戦時国際法違反になる無差別爆撃が如何に酷かったかということを証拠や証人を集めて立証し「適正手続きをとっていたとしても、極刑になっただろう」と検察や裁判委員に思わせることに成功したことです。結果としては、岡田中将の落ち度は法の適正手続きの観点から見てあまりに簡単に進め過ぎたことだけが問題で、量刑として非道なものではないという印象を与えることになりました。

それでも岡田中将に死刑判決が下りたのは、無抵抗のアメリカ兵が殺されたこと自体は事実であるため、米国世論を納得させるためだったと見ることもできますが、関係した他の被告たちが寛大な処分が下された背景には既に冷戦が始まろうとしていた時代背景も関係があったようです。終戦直後は悪の枢軸を担った日本帝国の悪い奴らに慈悲は不要という心理状態があったに違いないのですが、アメリカの立場としては新しい脅威としてソビエト連邦が浮かび上がり、その脅威が日を追って濃くなっていく中、日本の再武装を望むようになり始めており、再武装に必要な軍経験者を次々と処罰している場合ではないという変化が起きてきました。死刑判決はなるべく少なくし、死刑を宣告した後も終身刑に減刑し、将来的な釈放にも含みを残すというように方針が変化したため、BC級裁判は結審が遅いものほど寛大な判決が下るようになったようです。ここは私の想像になりますが、A級戦犯の裁判が終わり、刑が執行された後は、アメリカ世論もある程度鎮静化してさほど厳罰を望まなくなったということも大きいかも知れません。

岡田資中将の場合は減刑されることなく、刑が執行されてしまいましたが、中将本人は相当覚悟が決まっていたらしく、裁判中から日蓮宗を基礎にした仏教研究に力を入れ、自身で理論化を進めて行ったそうです。死を受け入れるために、自分なりの死生観を作り上げる必要がきっとあったのだと思います。彼の仏教理論と、スガモプリズンで教誨師をつとめた花山信勝氏の理論とは対立もあったそうですが、東京大学の教授の花山氏と対立できるだけの理論武装をしたというのはそれだけでも凄いように思います。スガモプリズンの死刑囚で間では花山氏の指導よりも岡田中将から指導を受けたいという声も少なからずあったようです。花山氏の教えが仏様にすがって極楽浄土へ行けるのだという他力本願的で慰め要素が強かったのに対し、自分がより仏陀の精神に近づけるよう精進し、刑に向き合い受け入れるという岡田中将の姿勢の方が現実に執行に直面する囚人たちの心を掴んだのかも知れません。


『ファイナル・イヤー』‐オバマ大統領の壮大なイメージビデオ

オバマ政権最後の一年をカメラが追いかけ続けた『ファイナル・イヤー』は、オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないイメージビデオになっており、オバマ大統領が嫌いな人にとっては「かっこつけやがって」と別の意味で見ていられない作品と言えるかも知れません。

登場するのはオバマ氏とケリー氏、その他彼を支える周囲のスタッフたちなわけですが、マスメディアの見ていないところでカメラが回っているため、もうちょっと突っ込んだあたり、どのようにして彼らが意思決定をしているのか、どんな会話をしているのかというあたりを見ることができるのは興味深いです。ホワイトハウスの中がどうなっているのかも、僅かながら見て取ることも可能です。もちろん、見せられないところはカメラは回ってないでしょうから、歴史の評価を待たなくてはいけないとも思えます。

さて、とにかく彼らは走ります。走りながら意思疎通をしています。かっこいいの一言に尽きるいい場面が次々と出てきます。人が走る姿は見る人に感銘を与えます。なぜかは分かりませんが、人が走っている姿には何らかの感動的なものがあります。箱根駅伝をみんなが一生懸命見るのも、オリンピックのマラソンをみんなが一生懸命見るのも、なぜか分からないけど人が走るという姿に感動するからです。

で、この映画では大統領のスタッフたちが走るだけではありません。真剣な表情で議論を積み重ねる様子が撮影されています。世界の平和のために真剣な表情で議論を重ねる彼らの姿はもちろんとても絵になります。そしてなんと言ってもオバマ大統領の絵になることと言ったら文句ありません。高く評価されるスピーチ力、苦悩し、重大な決断を迫られる際の表情、どれも決まっています。

お決まり、お約束と言ってもいいですが、世界中を訪れて、人種、民族、宗教を越えてオバマ大統領が親しく話をする場面、特に子供たちとコミュニケーションする場面はこれでもかというくらいに登場します。子どもとコミュニケーションをする人はいい人と決まっているようなものですから、この映画のオバマ大統領いい人アピール大作戦は大いなる成功を収めていると言ってもいいでしょう。

シリアの深刻な問題についてはわりと突っ込んだところまでこの作品で論じていますが、一方で東アジアの難しい問題は基本的にほぼ無視。唯一、オバマ大統領が広島を訪問したところだけは丁寧に撮影されています。

そして最後の方では大統領選挙でトランプ氏が勝利する場面。民主党勝利を確信していたはずの大統領スタッフたちが文字通り言葉をなくしている様子が撮影されます。こればっかりはかっこよく撮影するわけにはいかず、同情的な雰囲気を漂わせるほかありません。

個人的にちょっと気づいたのはケリー氏がこれでもかというくらいに登場するわりにヒラリーさんが全然出てきません。この映画だけ見ると、ヒラリーっていう人、本当にいたっけ?と思ってしまうほどです。オバマとヒラリーは仲が悪いんだと主張する人の動画を見たことがありますが、意外と本当にそうだったのかも知れません。

いずれにせよ、オバマ大統領が去る前の一年を撮り続け、結果として身内で楽しむ壮大なファミリービデオみたいになっています。オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないことでしょう。


『火垂るの墓』をもう一度みて気づく「無責任の体系」

高畑勲監督が他界されたことを機に、『火垂るの墓』についてよくよく考える日々が続き、もう二度と見たくないトラウマ映画だと思っていましたが、やっぱりもう一回見ないと何とも言えない…というのもあって、改めて見てみました。ネットで広がる清太クズ論は私の内面からは一掃され、それについては完全否定するしかないとの結論に達しました。

父も母も家もない状態で、清太は妹を守ることに全力を尽くしており、金にものを言わせようとした面はありますが、最後に頼れるのはお金と思えば清太が金を使うことは正しく、更に言えば盗みをするのも妹と生き抜くためにはやむを得ません。それこそ非常時です。空襲で家を焼かれなかった人の数倍、清太個人にとってはとても支えきれない大非常時と言えます。

西宮のおばさんが悪いのでしょうか?私は自信をもって西宮のおばさんが悪いと断言できますが、悪いのは西宮のおばさんだけではないというのがこの作品のミソではないかと思います。とはいえ、まずは西宮のおばさんを糾弾するところから始めたいと思います。確かにおばさんにとっては、清太と節子の兄妹は厄介者です。しかし、親を亡くして焼け出された兄妹に対し「疫病神」だのなんだのと言っていびり倒すのは間違っています。印象的なのは清太が決心して節子とともにこっそり西宮のおばさんの家を去ろうとした際におばさんと不意に遭遇してしまった時の様子です。おばさんは「気いつけて」「せっちゃん、さようなら」と言い、心配そうに二人の後ろ姿を見送ります。おばさんは大人なのです。出て行こうとする二人に対して「何をバカなことを考えているのか。二人で野宿でもするのか。いいから家にとどまってこれからのことをよく考えなさい」と説諭してしかるべきです。しかし、心配そうに見送るだけなのです。いびり倒した上に心配そうに見送るだけのおばさんに非があって当然です。おばさんの家には少なくとも三畳間が余っているわけですし、食料がないと言っても清太と節子の食料の配給もあったのです。二人は野宿者となり、配給すら受け取れない状態へと自滅していく様子がおばさんにはありありと見えたはずです。にもかかわらず、心配そうに見送るだけしかしない大人の責任とは問われなくてはいけません。

この作品では大人の「無責任」が随所で強調されています。たとえば清太が盗みを働いた農家の男は清太を殴り倒し、おさない妹がいることを知りながら「自分が受けた被害」だけに憤慨して警察に突き出します。西宮のおばさんは「助け合い」を清太に強調しましたが、おばさんも所属する大人の世界は我が事のみを考える世界だったわけです。警察官は清太に優しいですが、水を飲ませるだけで今後の二人を助けるきっかけを与えようとまでは考えません。警察官も無責任なのです。清太が母親の着物やお金と交換に食料をもらいに行っていた農家のおじさんも清太にお金がないと分かった瞬間に食料の提供を拒み「うちではそんなに余っていない」「お金や着物のことを言っているのではない」「おばさんに頭を下げろ」と米のおにぎりを食べながら諭しますが、はっきり言えば交換できる物のないやつに与える飯はねえというわけです。

節子が亡くなって荼毘にふすために必要な材料を買いに行ったとき、お店の人が呑気そうに「今日はええ天気やなあ」と言いますが、その表情が実に幸せそうであり、清太にとって重大事である節子の死に対する慎ましい態度というものを見せようとする気遣いすらありません。

高畑勲監督が『火垂るの墓』は反戦映画ではないと言っていましたが、今回改めて見てよく分かりました。これは戦争の悲惨さを描く作品なのではなく、丸山眞男が唱えた「無責任の体系」を描く作品だったのです。ですから、美しい日本とか、助け合いの日本とか、公共道徳に優れた日本とか言ってるけど、お前らみんな、清太と節子を見捨ててるじゃん。と監督は言いたかったのではないかと私には思えます。丸山の無責任の体系のその中心に天皇がいるという議論には私は賛成しかねます。天皇制があるから戦争中の日本人が無責任だったのだという議論そのものが無責任だと私には思えるからです。新聞が煽り、国民も多いに沸いて主体的に戦争に関与し、ある人は儲けも得て、戦争に敗けたら〇〇が悪いと言い立てて自分には責任がないと言い張ろうとする姿こそ無責任です。そしてそれは少なくとも『火垂るの墓』が制作されたその時に於いても同じなのだと高畑監督は主張したかった。だから最後に現代のきらびやかな神戸の夜景のシーンを入れたのではないかと私は思います。

余談というかついでになってしまいますが、統制経済を導入し食料を配給制にして、隣組に入っていないと配給すら受けられないとする、ちょっとでもコースから外れたら即死亡という体制翼賛的国民総動員社会を作ったのは近衛文麿です。国民総動員の名のもとに国民の自由意思を制限し、全てをお国に捧げざるを得ないように仕向けた結果、戦争も敗戦も自分には何の責任もないというロジックが生まれたとすれば、敢えて私は清太と節子が死んだのは、近衛文麿がせいだと言いたいです。

トラウマ映画の『火垂るの墓』ですが、今回は初見ではなく節子が死ぬことは最初から分かってみていましたし、いろいろな情報を得て感情面でも中和してみることができましたから、心理的ダメージは少なくて済みました。もう一回見たいかと問われれば、もう二度と見たくありません。


『火垂るの墓』の清太の戦略ミス

世界に名だたるトラウマアニメ映画『火垂るの墓』についてここ数日、考え抜きました。高畑勲監督が他界されたのでいろいろ話題にもなりましたし、私も映画館で鑑賞して愕然として「なぜ自分はこのような絶望的な心境にならなければならないのか」というやり場のない苦しさを感じた一人ですから、いったい何が悪かったのか、どうすれば良かったのかということを考えざるを得なかったのです。以下、清太と節子はどうすれば生き延びることができたのかについて、結論をまず述べ、次いでその理由、続いて補足的な意見を述べたいと思います。

まず結論ですが、清太と節子は神戸の自分たちの家のあった焼け跡にバラック小屋を建てて寝起きしていれば助かったに違いない。です。

では理由を述べます。清太は西宮のおばさんのところに居候し、随分と嫌味を言われ現代の価値にして1000万を超える金銭を頼りに独立。田園と山の間みたいなところの「横穴」に棲みついて、最終的には兄妹共倒れの結末へと至ります。この過程が残酷すぎるのでトラウマ映画と呼ばれ、二度と見たくないと言う人続出で私も本当は二度と見たくありません。ネットでは清太が西宮で居候させてくれているおばさんに対する態度が悪く、お手伝いもせず、節子とごろごろしているだけのごくつぶしでしかないのに、プライドばかりが高くおばさんに頭を下げるくらいなら出て行ってやると大見栄を切って自滅へと突き進んだ清太の性格への批判が強いようです。また、高畑監督も社会との関係性を失ってはいけないというメッセージを込めているつもりで、現代の若者に共感してほしいという趣旨の発言をされていますが、ネットの意見も高畑監督のメッセージも清太にとっては酷でしかありません。

清太の家が空襲で焼けるのが昭和20年の6月で、清太が亡くなるのは9月です。僅か三カ月で考え方や生き方を改めなければ即死亡という無理ゲーをさせられた清太が気の毒に思えてなりません。清太の人生に対する敗因は私は決して西宮のおばさんに対して妥協しなかったからだとは思いません。高畑監督のメッセージは生きるためには嫌味を言われいびられる生活にも隠忍自重せよということで、現代の恵まれた若者はそういうことができていないというわけですから、要するに『火垂るの墓』は手の込んだ「近頃の若者は」という議論なのです。しかも高畑監督は若者に共感してほしいと述べていましたが、「近頃の若者は」論に共感する若者は皆無に等しいと私は思います。ところが戦争・空襲・敗戦という普通なら滅多に遭遇しない大災難という舞台設定を活用し、見るものが降参せざるを得ない作画の作りこみ、節子というイノセントな存在の徹底利用を行うことで、観たものはトラウマレベルのダメージを受けながらも「泣ける映画だ。凄い映画だ」とうなづかざるを得ないところまで追い込まれてしまいますので、実は高畑監督の「近頃の若い者は」という実はありがちな言い分に気づくことができないというか、節子の死を心理的に解消するのにエネルギーを使ってしまい、観客はそれ以上考えることに困難を感じるようになり、何をどう理解していいか分からなくなり、混乱するのです。

清太が自滅した最大の要因は自分と節子が戦死したエリート軍人の子女たちであるというメリットを活用しなかったことに求められると私はよくよく考えた末に結論するに至りました。ネットなどでは清太がエリート軍人の息子であったが故に無駄にプライドが高く、自滅したと語られていますし、高畑監督もその線で作ったように私は思います。しかし、逆なのです。エリート軍人というのは値打ちがあるので、しかも戦死しているのですからますます当時としては値打ちがあったに違いないのです。仮に以前住んでいた焼け跡にバラック小屋を建てて暮らしていたらどうなるでしょうか。血縁はなくとも地縁がありますから、「あそこの息子さんは海軍の偉い人の息子さんだ」ということをみんな知っています。そして、ここからが重要になるのですが、神戸市内の都市空間で生きていれば必ず誰かが「役所へ行って相談しなさい」とか「水交社を訪ねてみなさい」と助言してくれるはずです。或いはどこからかそういう情報が入ってきます。役所が戦死した軍人さんの子女を放っておくわけがありません。海軍の互助組織である水交社が無視するわけがありません。公的な支援を受けられる可能性は高く、海軍つながりでいけばお金持ちの支援者が現れる可能性も充分にあります。単に生意気中学生清太一人だけではないのです。幼い、誰が見ても何とかしないといけないと思わせる節子という存在がいます。兄妹セットで救おうとする社会のあらゆる要素を利用することができたに違いないのです。清太はエリート軍人の息子というプライドを維持しつつ成長し、将来は周囲の支援で大学に進学し順調な人生を得たかも知れません。当時の日本の状況から言えば、終戦直後から後はあれよあれよという間に経済発展していきますから、あのクリティカルポイントさえしのぎさえすればそれで良かったわけで、充分に可能性のあるシナリオです。

しかしながら、清太はまず西宮のおばさんという閉じた空間へ逃げ込み、次いで次に山と田園の間みたいなところにある横穴へと逃走するわけです。これではいけません。水交社を訪ねなさいと言ってくれる助言者に出会うことができません。兄と妹は資金力で生命を維持しようとしますが、農家のおじさんからは「お金の問題じゃない」と忠告されます。三宮のおばさんに頭を下げろというわけです。そんなことを要求する方が酷です。しかし残念なことに農家のおじさんにはその程度の知恵しかなかったのです。

神戸市内でバラックを建てるのは難しくなかったはずです。廃墟の焼け残りを利用して簡単なものを作ればよかったはずです。都市部なら炊き出しもあり、終戦後は米軍の救援物資もやってきます。清太が自滅したのは海軍エリート軍人の息子というプライドを捨てられなかったからではありません。自分は海軍エリート軍人の息子だというプライドを思い出させてくれる神戸の自宅跡を放棄したことにその要因があると私は思います。補足しますが、当時はお金を持っていても役に立たなかったという意見もネットにはありましたがそれも間違いです。国家が経済統制している裏側では闇マーケットが完全な市場原理で成立していました。物はあったのです。インフレはしたでしょうが、1000万を3カ月で使い切るということは考えにくいですし、新円切り替えはもうちょっと後のことです。新円切り替えと同時に貯金は紙くずになった可能性はありますが、そのぐらいの時期まで生き延びれば、繰り返しになりますが戦死者遺族への支援を受けられたと思料できます。清太クズ論がネットで見られますが、清太がクズだったのではなく、出会う大人に知恵がないのが悪かったと言えますし、なぜ知恵のある大人に出会えなかったのかと言えば、これには清太の戦略ミスがありますが、都市空間を避けた閉じた生活に入ってしまったからですね。


迫水久常著『大日本帝国最後の四か月』で知る「終戦」の手続き

1945年4月、鈴木貫太郎内閣が誕生してから終戦までの期間については様々な著作や研究がありますから、終戦が決まるまで、相当なすったもんだがあったことはよく知られていると思います。いよいよ決着がつかなくなって「聖断」なる、ある種の非常手段によってポツダム宣言を受諾するという意思決定がようやくなされたわけですが、鈴木内閣で内閣書記官長という半分官房長官みたいな立場に居た迫水久常という人物の手記を読むと、そこに至るまでの制度的な手続きが大きな壁になっていたことが分かります。

まず第一に旧憲法では天皇に和戦の大権があることになっています。しかし、明治時代は元老という憲法に規定のない最高権力者たちによる寡頭政治で意思決定がされていて、首相も元老が指名し、戦争するかしないかみたいな大事は元老が決めて軍隊が動き、首相は軍のお手伝いというようなものでした。その後、大正デモクラシーを経て最後の元老の西園寺公望が「憲政の常道」を掲げ、元老の影響力を少なくし、民主政治で選ばれた政治家が首相になるということを慣例化させようとしますが、軍人以外の政治家が首相になると殺されるというのが続いたために途中から断念して軍人首相時代に入り、やがて行き詰まりを見せて、近衛文麿というお公家様内閣が事実上日本帝国にピリオドを打つという流れになります。近衛在任中に西園寺公望が亡くなり、元老の首相指名という慣例も消滅しましたが、議会による首相指名ができませんでしたから、元老に代わって重臣会議が開かれるようになり、そこで首相指名が行われるということになります。何が言いたいかというと、太平洋戦争を終わらせる場合、重臣たちが「うん、やめたほうがいいよね」と言わなければ首相から「戦争やめましょう」とは言えないということです。

しかも、迫水氏の著作に拠りますが、ポツダム宣言の受諾は外交条約を結ぶのと同じになるから、枢密院の了解を得る必要があり、当時の平沼騏一郎枢密院議長を昭和天皇の聖断の場に立ち会わせることで、手続きを簡略化しようとします。

更にメインディッシュになるのが陸海軍で、有名な話ですが当時の阿南陸相が辞表を出せば内閣不一致で総辞職。改めて重臣会議で首相を指名して閣議を開き、枢密院の了解も経なければならないということになるので、ぎりぎりまで主戦論を唱えていた阿南陸相の辞表カードには周囲が相当びびっていたという話もあるようです。さりながら、阿南陸相は8月15日の未明に自決していますので、関係者からの評価は高く、迫水氏も阿南陸相が主戦派の陸軍首脳をなだめつつ心中では終戦に持ち込みたいというアクロバティックなことをやろうとしていたとして、その「腹芸」に感服したという趣旨のことを著作で述べています。

要するにポツダム宣言を受諾は首相、軍、枢密院、重臣が全員一致しなければ実現しないようになっていて、それぞれが「制度的手続き」を盾に取り主張をぶつけ合い議論が前に進まないという事態に陥ってしまいます。そうこうしているうちに原子爆弾も使用され、ソビエト連邦も攻めてくるという絶体絶命な状況が訪れます。にもかかわらず議論がまとまらず昭和天皇に決めてもらうという異例の手続きを踏むことになりました。ここで難しいなあと思うのは通常、天皇は自分から意見を表明しないことになっているにも関わらず、本気になって意見表明しようと思えばできないわけでもなく、天皇の意見が通るか通らないかはその時々の政治状況によって異なり、終戦の場合はたまたま天皇の意見が通ったという制度上の曖昧さです。昭和天皇の責任があると言おうと思えばいくらでも立論できますし、反対に昭和天皇には責任はないと言おうと思えばこれもまたいくらでも立論できるのです。法学論争が神学論争とは言い得て妙なりです。

昭和天皇は戦後、憲政上の問題として鈴木内閣が処理しなければならない案件であったけれど、内閣で意見が一致せず、自分に意思決定を依頼してきたので、それを受けたという見解を示しています。これだけでも現代人にとっては何を言っているのか分からない…と思えるような内容ですが、更に軍と枢密院というファクターが入ってくるわけで、高級官僚だった迫水氏が手続きに振り回されていたことに気の毒とすら思えてきます。

太平洋戦争末期、日本の主要都市は大体燃やされてしまい、それでも憲法を維持した国家が機能していたことには驚きも覚えますが、この期に及んで徹底抗戦か降伏かで議論が割れたということには正直あきれてしまいます。しかも制度的手続きを盾に取るという場合はどうしても「ためにする議論」がまかり通りやすくなり、政争やってる場合かよと突っ込みたくもなるのです。ポツダム宣言の受諾通告に際しても、当初「天皇の国法上の地位を変更しない」という前提で受諾すると通告する案があったのですが、迫水氏の回想では平沼枢密院議長が「天皇の大権を維持する」と文言を変更するように主張し(昭和天皇の回想では天皇が法源であることを前提とすると話が出たとなっていたと思います)、天皇の「大権」なり、天皇が「法源」なりという外国人には分かりにくい概念をねじ込んだというのも理解に苦しむところです。一刻も早く戦争を終わらせなくてはいけない時に神学論争してる場合かよとついつい思ってしまいます。平沼氏が検察出身で法律の専門家らしいところを見せたかったのかも知れません。

というわけで、日本帝国はその最期に於いて法の手続き論争をしていたというお話でした。


リットン報告書は受け入れてもよかった

1931年に発生した満州事変が石原莞爾と関東軍による画策で行われたということについては、もはや議論の余地はないように思います。思想信条がいわゆる右の人であろうと左の人であろうと、そこは一致するのではないでしょうか。で、この事件は蒋介石の中華民国政府が国際連盟に訴え出て、国際公論の場でなんとかしてもらおうと考えます。軍事力では日本に対抗し難いので、国際世論に助けてもらおうというわけです。この辺り、私は蒋介石はなかなか考えたというか、戦略的思考のできる人だと思います。

さて、日本は満州事変によって誕生した満州国がウッドローウイルソンの提唱した民族自決の趣旨にそったもので、満州地域の住民が自発的に望んで独立したのだと主張したわけですが、蒋介石も第一次世界大戦以降の世界的な平和志向の流れに沿う形で、満州が中国の主権の及ぶ範囲であり、まあ、力による変更は認めないと真っ向から対立します。

で、イギリス人のリットン卿を団長とするいわゆるリットン調査団が日本、満州、北京と歩いてその報告書を提出します。リットン報告書です。一般的なイメージでは、リットン報告書は日本の主張を厳しく批判し、日本を糾弾するものだったかのように受け止められていると思うのですが、内容は全然そんなことはありません。リットン卿は北京で書いたとする報告書の中で、満州国は関東軍の実力行使の結果生まれたもので、現地住民の意思なんか全然反映されてないし、民族自決とは関係ないと壟断していますけれど、一方でその解決策としては中国の主権の及ぶ範囲であると認めつつ、現実的には当該地域の自治と日本の利権を認め、日本を中心とした国際管理を提案しています。即ち、中国には名を与え、日本には実を与えるというなかなかに現実主義的なプラグマティックで実現可能、双方の言い分をそれなりに取り入れた内容になっているように思えます。

しかしながら、日本の代表の松岡洋右はリットン報告書を受け入れるようにとする国際連盟の勧告に強く反発して国際連盟脱退するという悪手を選んでしまいます。この辺りに関するものはどの書物を読んでも非常にがっかりする場面で、読めば読むほどがっくししてしまうのですが、仮にプラグマティックに考えるのであれば、中国には名目上の主権はあるものの、満州に日本主導下の自治政権が立ち上がるわけですからその実をとり、スペードのエースともいえる溥儀を抱えているわけですから、溥儀に満州族の独立の必要性を訴えさせ、少しずつ満州国の既成事実化を図るという選択肢はあったはずです。リットン報告書は日本にとって全然損な話ではなく、受け入れ可能なものでした。にもかかわらず、日本側の主張を全て認めないのであれば脱退するという、残念ながらかなり一方的な外交が行われたことは、慚愧に耐えないとすら思えてしまいます。しかも、イギリス側からは国際連盟とは別のテーブルでみんなで仲良く満州で列強がおいしいおもいができるようにしませんか?という提案すらなされているのに、それをも拒絶しています。なんじゃこりゃ!と言いたくなってしまいます。イギリスの提案にのっかれば、リットン報告書を最低条件にして更に上乗せした条件で交渉できたでしょうから、こんなにいい話は本当はないはずです。それを断るというのは「世間知らず」というものです。

一応ことわっておきますが、日本がどうすれば満州を手に入れることができたかを考えたいわけではありません。「満州は日本の生命線」という当時の言説そのものがプロパガンダみたいなものですし、そもそもアメリカを仮想敵としたから後顧の憂いを断つために満州を手に入れたいという願望が湧いてきたわけですけれど、アメリカを仮想敵にする必要はありませんでしたから、満州は最初から日本人にとって必要のない土地なのだと私は思います。あくまでも当時の政治の責任者たちがどうしても満州に影響力を持ちたいというのなら、違った戦略的思考を持つべきだったのでは?ということです。

近年の研究では内田康哉が松岡に対して「脱退せよ」との訓令を出し、松岡が「外交は腹八分目でなくてはならない」と返信したという発見があったみたいなのですが、この時の内田の発想法は国際連盟から脱退すれば、国際連盟の勧告に従う必要はないという場当たり的で大局観のないもので、このやり取りを見る限り、松岡の方が真人間に見えてきます。松岡は国際連盟の脱退を失敗だったと考えていたようですが、帰国すると国民からは拍手喝采で、日本が大きく道を誤った大きな要因として新聞による世論の誘導は無視できないだろうと思えます。その後、松岡はおそらくは相当に悩みぬいて国際連盟を軸とする世界秩序に対抗するために日独伊枢軸であったり日ソ中立条約であったりというものを構想していきます。近衛文麿内閣の東亜新秩序更にその後の大東亜共栄圏構想というのも、国際連盟による世界秩序に対抗する軸としてどんどん関係者の頭の中で膨らんでいったものなのだろうと思います。結果として日本は敗戦し、今も敗戦国民の地位にいるわけで、本当に後世の日本人の一人としては、なにやってんだよ…としょんぼり突っ込みたくなってしまうのです。


「関西帝国」の復活を感じた件

桜の季節になったものですから、思い切って鎌倉、京都、奈良、更に大阪を歩きまわってみることにしました。歩くのが好きなものですから関東と関西の景勝地を一挙に見てしまおうという、わりと無駄に労力を使うことをしてみたわけです。鎌倉はともかくとして、関西をこれほどじっくりと歩いたのは10年ぶりくらいのことです。

気づいたのは関西地方はやはり値打ちのある凄い地域だということでした。かつて故中島らもさんが『西方冗土‐カンサイ帝国の栄光と衰退』で、関西地方の凋落ぶりを相当に嘆いていました。というのも、関西地方は確かに人口も多く、経済規模も大きいのですが、人の動態のようなものを見ると地縁血縁でだいたいのことが決まっていく田舎体質であり、東京への対抗意識は強いものの、東京に負けていることは分かっていて、しかしそれを認めようとせず、「関西の方がうどんがおいしい」という何の役にも立たない慰めを並べ立てて自己変革しようとしないというのがらもさんの持論であったと理解しています。

さて、今回改めて関西地方をよくよく歩いてみて、神社仏閣の見事さには目を見張るものがありました。これだけの世界遺産級の建築物が集中している地域というのは世界的にも珍しいのではないでしょうか。驚いたのは観光客の多さです。もちろん、10年前にも関西地方の観光客は多かったですが、桁が違うという印象です。着物レンタルが流行していますから、外国人の観光客が大勢、和服姿で歩いています。中国人や韓国人はもちろんですが、白人の姿も目立ちます。確かにレンタル用の着物は化学繊維でちょっと安っぽいですが、そもそも凋落する一方だった和服産業はこれでそれなりに潤っているはずです。

特に驚いたのは奈良です。以前に奈良を訪問した際には観光客はいるものの全体的にまばらであり、マニアが敢えて訪れる観光地といった印象が強いものでした。ところがどっこい、今回訪れてみると観光客がいるわいるわ、鹿にせんべいをあげるという奈良独特の体験型観光が世界の観光客に受けているらしく、国籍問わず中国人もアメリカ人もフランス人も鹿せんべいを買っています。また、個人的には奈良市街地から東のエリア、興福寺、東大寺、界隈の立派さ、見事さに感嘆せざるを得ませんでした。1000年以上も前に相当な都市整備が行われたということの斬新さのようなものを実感させられたというわけです。商店街も歩いてみましたが、10年前はゲームセンターかマニア向けの古美術の店くらいしかなかったのが、観光客向けのレストラン、ショップが立ち並び、全体に歩いている人のボリュームがぐぐっと上がっています。奈良を歩いた時、原則全員関西弁だったのが、行きかう人の話す言葉に慎重に耳を傾けてみたところ、標準語を話す人の数もなかなかなもので、かつてマニア向け地方都市だった奈良が、国際観光都市に大きく飛躍していると結論せざるを得ませんでした。

大阪は10年前とさほど印象は変わりませんでしたが、より観光客向けにカスタマイズされている感が強かったです。関西は世界の観光客を集めることで生き延びると腹をくくったと私には感じられました。考えてみれば、現代的でクールな都会的な雰囲気を大阪で味わい、ちょっと足を延ばせば世界遺産級の建築物が密集している京都があり、鹿にせんべいを食わせることができる奈良があるという意味で一回の訪日で日本のハイライトみたいなところをぐっと体験できる関西地方は観光地としては非常に恵まれた地域なのは当然のことです。以前勤めていた会社で「関西地方はもはや復興不可能なのではないか」と言っている人もいましたが。そんなことは全然ありません。世界に対する集客力という点では、関東が大都会東京+その延長線上みたいな横浜、ちょっと歴史ある鎌倉というラインナップなのに対して、大都会大阪+京都・奈良というラインナップの方が魅力的なはずです。高層ビルを見たいという人には東京よりも上海やドバイの方が魅力的に映る可能性もあり、東京ディズニーランドが無敵の集客力を誇っている時代がありましたが、今や上海にも香港にもディズニーランドがある時代で、希少性という点で相対的に凋落の兆しを見せています。一方で大阪のUSJはハリーポッターが大うけしているらしく、最近の関西は盛り上がっているらしいと聞いてはいましたが、なるほどこれは本物の波が来ていると大いに納得できました。京都・奈良の建築物の価値は半永久的に認められるでしょうから、長い目で見ると関西地方はなかなかに恵まれているわけで、その真価を発揮していると言ってもいいかも知れません。このように関西の観光産業が発展した理由としては、一つにアジア周辺地域の経済発展を無視することはできません。韓国や中国、台湾の人たちが豊かになり、ヨーロッパやアメリカの人たちよりは日本に対する知識が豊富ですから、日本へ旅行するなら関西をという発想に至りやすいのだろうと思います。もう一つの要因として関西空港の整備が進みLCCの受け入れが容易になったということもあるようです。つい最近まで関西はもうだめだと言われていましたが、ところがどっこい大復活しており、これは日本人全体にとって好ましい現象と思えます。

あと、付け足しになりますが、奈良を歩いて感じたのは、奈良が里として整備された地域であるということでした。車窓から見た印象ではあるのですが、関東地方は人の密集している地域か森林もしくは丘陵地帯なのに対し、関西地方の平地では人がまんべんなく分布して暮らしており、民家と農地がある程度均等に広がっています。自然と人間の開発が一体化した「里」が成立しているわけです。弥生時代からクールな産業であった農業を徹底して推し進めた結果の地域開発の結実と受け取ることもできますから、私はその点でも関西の底力のようなものについて考えざるを得ませんでした。

関西って凄いのね。