伊丹万作『戦争責任者の問題』を読んで考える敗戦国民の矜持

たまたま、映画監督で伊丹万作という人(伊丹十三さんの親父さん)が『戦争責任者の問題』という文章をは1946年に発表していたことを知り、インターネットで探してみると青空文庫で読むことができたので、どういう内容のものか読んでみた。15年戦争の失敗にどのような意味を与えるかは戦後を生きる日本人にとって簡単には答えの出せない難しい問題だが、私が漠然と考えていたことと同じことが書かれてあったので、私は自分の言いたいことを代わりに言ってくれている人が70年も前にいたのだと知って驚き、感動もしたので、ちょっとここで論じてみたいと思う。

伊丹万作氏は、「自由映画人集団」が文化運動をするというから参加してみたところ、かなり実践的な政治活動グループだと悟り脱退することにしたというのが、この文章の骨幹みたいなもになると思うのだが、興味深いのはその理由である。私は自由映画人集団がどんなことをしていたのかよく知らないので偉そうなことは全然書けないのだが、要するに戦争責任者をあぶりだして徹底的に懲らしめよう、追放しようという運動をしていたらしい。で、伊丹万作氏は、戦争責任者がいるとすれば、その軽重はあるにしても日本国民全員(子どもを除く)に及ぶのだから、他人の責任を追及する前に自分の責任を反省するのが先ではないかという趣旨のことを述べている。

実は私も前からそう思っている。これは私の人生観にもかかわって来るが私以外の誰かが悪い、私以外の何かが悪い、他の何者かの責任だと言っている間、人間は成長しない。自分にも責任があると認めた時、人は自分がどのように行動するかを考え、思慮深くなり、慎み深くなり、他人の貢献するということを考えるようになるのではないかと私は思っている。そのため、一部の戦争犯罪人とか戦争責任者だけに全てを押し付けてしまうのは、日本人にとって良くないと、一人の日本人として思うのだ。敗戦国民の矜持みたいなことを私はよく考える。潔く敗けたのだから、その敗けについて反芻し、新しい未来を切り開く糧にする、みたいなことだ。

もちろん、罪の軽重はあるから、場合によっては重い刑を科せられることはあるだろうし、反省の意思を持っただけで赦されていい場合もあると思う。

東京裁判はそういう意味ではいろいろな意味で微妙な裁判だと私には思える。裁判することによっていつどこで誰が、どんな意思決定をしたのかある程度は明らかにされたと思うが、一方で裁判にかけられなかった人たち全員に対して推定無罪の効果が生まれるし、多分、当時の人々は自分は悪くない。悪いのは他の〇〇だ。と言うことによって心理的な安全を担保することができた。しかし結果として、一部の人たちだけが悪く、他の人たちは反省しなくていいという構造も生まれたように思える。

私は日本が好きだし、日本人に生まれたことを嬉しく思っているが、今日まで続く思想的対立の根底には伊丹万作氏が指摘したような内省の不在があるのではないかという気がしてならない。私はどちらか一方に与したくはないのだが、どちらにも、或いは多方面に及ぶ内省の不存在は前々から気になっていたし、私はそのような議論に疲れてしまうこともあった。だが、日本人の良いところはきちんと内省するとそこから学んで真っ直ぐに道を歩くところにあると思うし、内省は一回すればいいものではなくて常に行われるべきものだとも思うから、そういうところから議論を始めると、もうちょっと何かが融合するのではないかという気がする。私がここで述べている内省の不存在とは、丸山眞夫が指摘した「無責任の体系」とだいたい同じような意味だとも思うので、そういう意味では丸山眞夫みたいな超絶有名人が既に指摘しているのに、そこはみんながスルーするか上手に解釈を変えているのだろう。それはともかく、良い戦争などというものは存在しないと思うので、なぜ悪い戦争をしたのかについて考えることは意味があると思うし、仮にあの戦争を悪い戦争だと思わない人がいるとしても、敗けたことは事実なので何故敗けたのかを考えることも新しい発見につながるのではないだろうか。『失敗の本質』みたいなことは常に考えておいて損はない。人は失敗から学ぶのだから。



映画『ゲッベルスと私』を観て愕然とした件

岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリーを観た私は愕然とした。ゲッベルスの「元秘書」とされる女性は、敢えて言えば平凡な人だという印象を受けたので、そのことでは愕然とすることはなかった。ただ、映画の作り手は証言と交互して様々な史料映像を挿入しており、それらの映像の凄惨さに私は愕然としてしまったのだ。

特に私が恐怖を感じたのは、アメリカ軍によるナチスが作った収容所内のガス室の検証映像だった。ガス室の壁には人の手の跡やひっかいたような跡が無数に残されていた。それらはそこで殺された人たちが最後の瞬間にもがき苦しんだか、なんとか脱出生き延びようとしたか、或いはその両方が起きたことを、しかも繰り返し繰り返し起きたことを示していた。

私は以前、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス(ヒトラーの副総統でイギリスにパラシュート降下した人物とは別人)が書き残した手記を読んだことがある。ルドルフ・ヘスはもちろん戦後に処刑されたが、人の歴史で最もたくさん人を殺した男であり、今後も、少なくとも私が生きている間に同じことをする人は現れないだろうと思う、というか思いたいのだが、私がガス室について具体的に知っていることは限られていて、ルドルフ・ヘスの手記に拠れば、シャワーを浴びるという理由で閉じ込めた人々を彼は見下ろすことができる位置に立っており、人々は彼を見た瞬間、やはり騙されて殺されるのだと知り、憎悪と怨みの叫びを上げたということらしかった。彼は何度となくそこに立ち、怨みながら死んでいく人たちを見たことになる。私のガス室に関する知識はこの程度のものでしかなかった。

今回、この映画を観て、壁に残された無数の手の跡は、当時の状況をより具体的に私に教えてくれるものになった。恐ろし過ぎて愕然としてしまったのである。

一方で、ゲッベルスの元秘書とされる女性は、ナチス政権誕生から敗戦の少し前の時期に至るまで、それなりに生活をエンジョイしていたことを話している。恋人がいて、ゲッベルスの演説にしびれ、宣伝省の給料の良さに満足していた。そしてホロコーストが行われていたことを「知らなかった」と彼女は言い切り、「私に罪はない。ドイツ全国民に罪があると言うのなら別だけれど、自分たちが選んだ政権なのだから」と述べる。民主主義の手続きを踏んでナチス政権は誕生したため、有権者全員にそれなりの責任はあると言えるが、選んだ政権が悪いことをした場合の有権者の責任は限定的で観念的なものだ。日本の首相が失政をやらかした場合に、有権者の責任を問うのは限界があるのと同じだ。

だが、この映画では、彼女のそのような証言と交互に凄惨な映像が挿入されるため、「知らなかったで済むのか?」という疑問を抱くように構成されている。知らなかったから悪くないと言うには、事態はあまりに重大すぎるからだ。アメリカ軍がドイツ市民向けに作ったフィルムも挿入されており、そこでは「知っていたのに止めなかった責任」を問うていた。私個人の想像になるが、あれほど大規模に熱心に継続的に行われていたのだから、多かれ少なかれ、憚れるようなことが行われていたことには気づくのではないだろうかと思う。現代でも自分の属する組織がどういう状況なのかということは私のような下っ端でも何となくわかることもあるし、噂も流れてくる。そのため、彼女が「知らなかった」と言い切ったとしても簡単に信じることができない。尤も、彼女の証言を嘘だと言い切るだけの証拠を私が知っているわけでもなんでもないのだが。

以下は全て私の想像になるが、彼女は何十年もの間、何度となく記憶を整理し、反芻し、自分の受け入れやすい物語を作り上げたに違いないという気がする。人は誰でもそうするので、彼女もそうせざるを得なかったに違いない。彼女は戦争が終わってから5年間抑留されていたと述べていた。その5年間は屈辱的な経験、人に話せないような酷い目に遭わされたであろうことも想像はつく。そのため、戦争が終わる前の記憶がより美化され、それなりにエンジョイできたという物語が形成されたのではないだろうか。彼女の本音は、ホロコーストに直接かかわったわけでもないし、戦争の意思決定に加わったわけでもないのに、5年も抑留されて酷い目に遭わされた。充分に責任は取った。というところにあるのではないだろうか。これはとても難しい問題で、責任がどこまで及ぶのか線引きができる人はいないだろう。そのことについては、今後、私も反芻して考えることになると思う。この映画を観てしまったら、考えないわけにはいかない。



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三島由紀夫と石原慎太郎

三田文学で石原慎太郎が文壇生活五十年を振り返るという趣旨の対談をしているのを読み、やはり三島由紀夫に関する回想が最も興味深いものだった。三島由紀夫はその是非は別としてあまりに特殊な存在であり過ぎる。

作品と文章の完成度の高さは入念であり、彼らしい完璧主義的であり、美しく、繊細且つ逞しい。三島由紀夫に関わることで『宴の後』事件というものがあるが、プライバシーの侵害で訴えられたのに対して、人間を科学的に描くという純粋な文芸表現であると彼は反論した。文芸とは人間を科学的に描く行動であるとする、彼の小説に対する信念が披歴された、ある意味貴重な事件である。

人間を科学的に描くという信念はヨーロッパの自然主義小説に由来するはずだが、果たして人間を科学的に描くということが真実に可能なのかどうか、私には分からない。フランス自然主義を模倣しようとした明治小説の自然主義スタイルについて、江藤淳は「(自然主義文芸を)やりおおせたと思っている」人々の作品だと鋭い指摘をしている。柄谷行人は田山花袋は小説に書いたことよりもっと他人に言えないことをしているはずだとこちらもかなり鋭いところを突いている。他人に言えないことは隠し抜きつつ人間の真実を描こうとすること自体に論理矛盾があり、人は誰でも他人に言えないことはあるはずだから、結局のところ、科学的に人間を描く文芸というものは存在し得ないのではないかと私には思える。

それはさておき、当該の対談では、川端康成が三島由紀夫に対して強い拒否感を持っていたと石原慎太郎は話していた。三島由紀夫の晩年の生き方は確かに常人には受け入れ難いものがある。私的軍隊なるものを組織し、自衛隊の施設に入り込み、幕僚を縛り付けて演説し、果てるという彼の動きには理解し難いものがある。もし共感する人がいるとすれば、それはその人の自由なので、私は否定しない。いずれにせよ、石原慎太郎の対談している内容に拠れば、三島由紀夫が自決する直前のころ、そういう彼に川端康成が拒否感を持っていたというのは初めて読んだ。どちらかと言えば両者の絆が強いという物語の方が流布していると私は理解していたから、意外だと言えば意外だったが、考えてみれば確かに私的軍隊を持つ小説家を受け入れ難い存在だと思ったとしても不思議ではない。大岡昇平も三島由紀夫の新宅に呼ばれた際、悪趣味だと思ったが言えずにいたという趣旨のことを話しているのを読んだことがあるので、三島由紀夫は周囲との人間的距離感に苦しんだに違いない。苦しむが故により言動が過激になったのではないだろうか。

三島由紀夫が自決して果てた後、川端康成は現場を見たという。石原慎太郎も現場まで行ったが、現場そのものは見ずに立ち去ったそうだ。以後、川端康成は三島由紀夫の亡霊を見るようになり、後を追うかのようにして自ら命を絶っている。石原慎太郎は対談で見なくてよかったという感想を述べていた。私ももし、現場に立ち入る権利を持つ人間だったとしても見たくない。私は小説について作者の人生や背景というものをあまり考えず、作品そのものと対話することをより重視するのがいいと思っているが、今回の石原慎太郎の対談を読むことで、私は三島由紀夫という人の心の中を少しは想像することができるようになったし、過去に読んだ三島作品を思い出し、彼がどういう心境でそういうものを書いたのかについて想像することもできた。やはり作品理解には作者の人生と背景を知ることの重要性は否定できない。

三島由紀夫はその過激な人生と精緻な文章力によって、常人には測りがたい内面を持つ人という印象がどうしても強い。そのため、私は三島由紀夫理解は自分には一生できないだろうと思って諦めているところがあったのだが、今回のことで多少は相対的に見ることができるようになったと思えるし、その点は有益だった。



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【漢文】孔子の大同と小康と空想的社会主義的ユートピア

春秋戦国時代の春秋と戦国の一線を画す、後の東洋世界に巨大な影響力を与えた孔子は、魯国にとどまり、世を嘆いたそうだ。どのように嘆いたかというと、過去、それもうんとうんと過去の五皇の時代は麗しい理想的な世界だった。どれくらい理想的だったかというと、能力のある者は選ばれて指導者になるが、専制などとは全く違う無視無欲の指導者であり、人々は平和に幸福に暮らしている。どれくらい幸福かというと病気の人や社会不適合な人もみんな救済されていて、困っている人がそもそも存在しない。困っている人がいたら理想的なリーダーがきちんと処理してくれるので安心してみんなが暮らすことができる。失業者はもちろんいないし、他人の家に泥棒に入るようなけしからん者もいないので、家の入口に鍵をかける必要もないというくらいに平和で理想的な世界である。これを大同というらしい。

検証不可能なくらいに昔のことを取り上げて理想的な世界だったといいきってしまうあたりに復古趣味的な孔子個人の傾向を見ることもできなくもないのだが、トマスモアの空想的社会主義を連想させる、かつてあったはずのユートピアのイメージが孔子の念頭にあったに違いない。

大同と小康というものは有名な子曰くで始まる問答のある一節で、『礼記』に書かれてあるのだが、ちょっと話が飛び飛びな感じになっていて、孔子はまず大同について述べた後、現代(当時)について語りだす。その現代というのは信賞必罰で人は私利私欲で動いているが、まあそれなりに秩序は保たれているということになっていて、辛辣に魯国の王を批判するような内容ではないものの、大同にははるかに及ばないので、孔子の舌禍みたいな部分とも理解されている。孔子は一言多い、言わなくてもいいことを、敢えて不用意に言ってしまう性格だったようだ。

で、現代を軽く憂いた後で周の時代は良かったと、今よりは良かったが大同よりは劣るということで、その状態を小康と呼んだ。話が神話的古代ぐらい昔から入って現代に入って中間について話すという流れなので、ちょっと飛び飛びになっており、よく読めば「めっちゃ昔は空想的社会主義的なユートピア」で、「ある程度昔は、そこそこ良くて」「今は普通」ということを言いたいのだということが分かった。なぜ時間軸的に沿って言わないのか、しかも時代が下るにつれてだんだん世も末感が強くなっていると言いたいわけだから、時間軸に沿って話した方が分かりやすいのではないか、なぜそうしないのか、本当に孔子は頭がいいのだろうか。というような疑問を持ちつつ読んだ。

今、漢文を教えてくていれる人がきっちり頭の中で体系化されているので、この漢文も難しいことは難しいのだが、よく理解できた。教えてくれる人も孔子は時々ちょっと問題あると言っていたので、私の疑問も的外れというわけでもないのかも知れない。現代人の我々の価値観から言えば、この一節では理想的な世界では全ての男の仕事があるので、女は家から出なくていいということが書かれてあるため、男尊女卑が孔子の根底にあったということになり、批判されることもあるそうだ。

いずれにせよ、興味深いのはトマスモアの空想的社会主義と孔子の大同の世界がかなり似通っているという部分で、孔子がある種のコスモポリタン的な発想を持っている人だということが分かったのは収穫だった。漢文の世界は奥深いぜ。



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【漢文】易経とは何か

【漢文】易経とは何か

私は現代中国語ならかなりのレベルで使いこなす自信はあるのだが、漢文が読めない。詳しい人に相談したところ、現代中国語と漢文は全く違うものなので、別途勉強しなければ永遠に身につかないという厳しい現実を教えてもらい、夏休みを利用して漢文の肝になるところだけでも教えてもらうことにした。

で、一発目に教えてもらったのが易経についてである。いわゆる四書五経の一つに入る。で、この易経というのがなかなか奥が深いのだが、漢の武帝の時代までは六経で、武帝の時にされて五経になったらしい。隷書で書かれているそうだ。で、五経博士という特権的専門家が五経研究というのをしたわけだが、鄭玄という人物がこの五経に注釈をつけている。あまりに見事な注釈であったため、経神と呼ばれるそうだ。

で、易経なのだが、明朝以前は周易と呼ばれていたという。周の時代から存在したからだ。伏義という伝説の男(三皇五帝の三皇の一人で、厳密には三皇は「神」の部類に入るそうな)が八卦という占いを編み出したのだが、八卦は方位天地、神羅万象を表すもので、陰陽五行道の原点でもあり、今の韓国の太極旗のマークと同じものを使って方角を見て吉凶を占うというのをやっていた。で、周の時代に文王が64卦に増やしている。八×八で64だから、それだけ細分化して占いの精度を上げることになったということらしい。更にこれを孔子が究めたのが『十翼』と呼ぶのだが、このように時間をかけて洗練されて作られたのが「易経」なのだそうだ。

従って、極めて制度の高い占いの手引書として今に至るまで信用が高く、日本では当たるも八卦当たらぬも八卦と言われるが、中華圏ではもっと精密なものとして扱われている。また、よほど訓練を積んだものでなければ易経を体系的に使用できないので外すのであり、充分に訓練を積めば、かなりの確率で当たるのだという。易占いは確率論であり、たとえば明日告白してオーケーをもらえる確率は〇〇%みたいな感じで出てくるので、イエスかノーかの結果が出るものではない。しかし、それだけにかえって信憑性が高いのだと言えるかも知れない。今でもスポーツの試合でどちらか勝つかに八卦を用いるという人がいて、とある人がやってみたところ「分からない」という結果になり、その試合は逆転に次ぐ逆転の接戦を繰り返し、占いの結果が「分からない」というのも納得であるとの説明をされた。

私は四書五経は知っていたが、そのうちの一つが易だということを知らなかった。いや、ぼんやりとは知っていたが、それが占いだということに気づいていなかった。漢文の易経の存在は知っていたが、中身については何も知らず、言われてみれば易と言えば占いではないかと、説明されて気づいたのである。それだけでも大発見というか奥深き中国古典の入り口に私はようやく立てたわけだが、果たしてそんなに奥深いものをどこまで追求できるのか…自信はない。よく中国の世界観は孔子の時に完成してしまい、以後、変動しないというような言い方をする人がいるが、納得できる。


近代人の肖像写真‐明治天皇と徳川慶喜

多木浩二氏の『天皇の肖像』では、明治天皇の肖像写真の変遷を追いかけている。曰く、明治天皇の最初の一枚目の肖像写真は伝統的な京都宮廷風の衣装の写真だったものが明治初期には若き君主として椅子に腰かけている肖像写真が存在しているが、最終的に背筋の伸ばして身体の均整のとれた理想的な君像に変化し「御真影」として全国の官庁や学校に下賜された肖像写真はイタリア人のキョッソーネという画家に描かせた写真みたいに見える肖像画が使用されており、威風堂々の完成形に至っているというのである。

明治初期の普通な感じのする若き明治天皇
明治初期の普通な感じのする若き明治天皇
イタリア人のキョッソーネという画家に描かせた威風堂々たる雰囲気の明治天皇

このような写真の変遷には理由があり、多木氏はまず第一に近代資本主義社会の訓練を受けたことのない人間の立ち居振る舞いやたたずまいのようなものが近代芸術の先駆的存在である写真では映えないということを挙げている。即ち、ヨーロッパの君主や貴族の真似をして一応は写真を撮影してみたものの、どのような雰囲気で撮っていいのかよく分からずに撮影したのが、京都宮廷衣装の写真と若いころの椅子にだらっと腰かけた雰囲気の写真であり、特に二枚目の写真では普通の人という印象を与えてしまう。で、近代国家の専制君主のイメージに合うようにするためにはどうすればいいか、いろいろ考えて突き詰めた結果、キョッソーネに堂々とした雰囲気に描かせて御真影として使用したというわけである。猪瀬直樹氏の『ミカドの肖像』を読んで明治天皇の肖像写真の変遷についてはある程度理解していたが、随分前のことだったので細かいことは忘れていたし、多木氏が写真批評の分野でも活躍していた人なので、芸術批評的な観点から明治天皇の肖像写真が分析されているのが興味深かった。

そして私はふと、徳川慶喜の肖像写真について思い出した。徳川慶喜はそういった方面にずば抜けてセンスのあった人だったため、数枚の肖像写真はどれもなかなかにいい雰囲気で撮影されている。特にナポレオン三世から贈られた皇帝服を着た写真など、文句なしに威風堂々という言葉が相応しく、彼は明治が始まる前の段階から近代人の肖像写真のあり方を正しく理解していたということを示しているように思える。

皇帝服を着た徳川慶喜

ついでに言うと徳川慶喜の40歳ごろの写真はカメラに対して正面を向いており、肖像写真の一般的なポーズだったあさって方向を向いたものではなく写真を見る側と目が合うように撮影されている。

40歳ごろのもの。カメラに視線を合わせている。

たとえば映画女優のポスターでは、第二次世界大戦ぐらいまではどちらかと言うとあさっての方向を向いて撮影されているものが多く、それらは彫像的な美しさを追求する効果を狙っていたが、戦後になってたとえばオードリー・ヘップバーンのようにカメラと視線を合わせて人間的な個性を表現する効果を狙うものへ変化したという内容のものを以前読んだことがある。徳川慶喜の場合、明治の中頃までにカメラと目を合わせるという次世代の肖像写真にまでリーチしていたと言うことができるので、なるほどこの人物は只者ではないと私の思考あらぬ方向へ漂っていったのだった。





(使用した写真は最後の一枚を除き、wikipediaに掲載されているものです。権利関係に問題が生じた場合は削除します。最後の一枚は静岡美術館のサイトhttp://shizubi.jp/exhibition/131102_03.phpに使用されているものを拝借しました。権利関係の問題が生じた場合は削除します)

大正天皇の大嘗祭と柳田国男

柳田国男の『日本の祭』という講義録では、日本各地のお祭りの形態とその起源、天皇との関係などについて議論されている。私は民俗学にはちょっと疎いところがあるので、どこぞのお祭りには〇〇のようなことがなされているというような話にはあまり興味を持つことができなかったのだが、神社のお祭りが天皇との関係に収斂されていくのは興味深いことだと思えた。

天皇家の宮中行事は仔細にわたると言われており、よほどの専門家でない限り判然としない部分があるのだが、平安朝あたりまでわりと真面目に行われていた宮中行事がだんだん手抜きになっていき、大嘗祭のような天皇即位の手続きの一部とすら言える重要行事もやったりやらなかったりだったらしい。他の書籍に拠るのだが、明治に入って改めて宮中行事が見直され、復古主義的に様々な伝統が復活したという側面があるようだ。天皇のお田植は昭和に入ってから始まったものなので、創造された伝統もいろいろあるのではないかと私は個人的に想像している。

で、柳田国男の『日本の祭』に戻るのだが、柳田国男はさすが帝国最後の枢密院顧問官に就任するほどの人なので、大正天皇の大嘗祭にかかわっていたという話が載っている。それだけなら、「ふーん」で済むのだが、大嘗祭は夜を徹して行われる重大行事で、大正天皇の時は京都でそれが行われたのだが、火災の不安があるということで本来なら蝋燭を使用すべきところを蝋燭風の電灯に替えて使用したという話だった。この講義録では、日本の祭が時とともに変化していること、原始古代のままの状態から中国の影響を受けたり、紙などの「発明品」を使用するようになったりなどの事情を判明している範囲で話してくれていて大正天皇の大嘗祭もその一環としての話題なのだが、火災が心配なので電灯を使ったというあたりに私は何かしら納得のいかないものを感じてしまった。というのも、帝国は一方で天皇家の伝統を国家の重大事とやたらと騒ぎ立てて持ち上げておきながら、火災が心配という官僚的な事なかれ主義で都合よく伝統を変更しているということに、なんだか飲み下せないものが残るのだ。

ちょっと言いすぎかもしれないのだが、一方で伝統や歴史などの事大主義的、或いは悪い言い方をすれば夜郎自大的な発想法で国体明徴論争などをやっておきながら、一方で伝統や歴史を都合良く変更していくという行動には矛盾があり、私にはそういった矛盾が「まあまあ、いいじゃない」で放置されたことと、戦争に敗けたこととの間には通底するものがあるような気がしてならないのだ。分かりやすい例で言えば、インパール作戦を根性論で強行し、なかなか失敗を認めようとず、責任を取るべき牟田口廉也中将も帰国して予備役編入で済んだということと、「火災が心配だから」と伝統行事を適当に変更することには重要な部分を曖昧にするという共通項があるように思えてしかたがないのだ。

柳田国男先生のこの講義は昭和16年夏という、日本の近現代史としてはかなり切羽詰まった時期に行われたもので、柳田先生の立場としては「民族的」な精神的支柱を「近代的」に確立しなければならないという思いで歴史の再編集の必要に迫られていたのだろうと思う。歴史は常に再編集されるものなので、再編集されること自体には良いも悪いもない。ただ、矛盾する部分があればそれは矛盾だと指摘することも大切なことだ。そういう時期的な背景があるということを踏まえて読むと緊迫感もあっていいかも知れない。



オランダ東インド会社とインドネシアの王たち

オランダが三百年にわたりインドネシアを「東インド領」として支配していたことは、わざわざ言うまでもない。インドネシアにはオランダ東インド会社、イギリス東インド会社がともに商館を所有していたが、1623年のアンボイナ事件でイギリス東インド会社の商館員たちはオランダ東インド会社の商館員たちによって皆殺しにされ、当該地域でのオランダの覇権が確立される。

徳川幕府はカトリックのスペインやポルトガルに対しては強い警戒感を持ち拒絶していたが、西欧の新教の国に対しては比較的寛大で、オランダは新教の国であったから交易も行っていた。イギリスはヘンリー8世が英国教会を創設した以降、新教の国の一つとして数えることができたが、徳川幕府がイギリスと交易しなかったのは一重にオランダによって駆逐されたからだと言える。ドイツ語圏の国やフランスはまだ東洋に進出するだけの実力はなく、結果として東アジアではオランダの一人勝ちの時代がしばらく続いた。台湾も一時植民地化されている。ついでに言うとなぜ徳川幕府が新教に対して寛大だったかと言うと、カトリックが東西両インドへの布教に熱心だったのに対し、新教は自分たちの信仰の自由さえ確保できればそれでよかったので、布教することに関心がなかったからだ。

さらについでになるが、東インドは本物のインドからインドシナインドネシアあたりまで。西インドはアメリカのこと。コロンブスがアメリカ大陸に辿り着いた時、喜望峰を通らない地球の裏側へ行くコースでインドに辿り着いたと信じたため、しばらくは東インドと西インドという名称が用いられるようになった。しばらくたって東インドから入って来る情報と西インドから入って来る情報があまりに違い過ぎて何かがおかしいということになり、アメリカがインドの西ではなく全く別の大陸だということに西洋人が気づくことになる。アメリゴ・ベスプッチという人物が西インドは新大陸だと指摘したためにアメリカと呼ばれるようになった。

今回、私が関心を持って述べたいと思っているのはオランダに支配されたインドネシアの王たちの物語である。インドネシアではオランダ支配が始まった後もオランダに忠誠を誓うスルタン王国が連立していた。インドネシアの普通の人々にとってはオランダとスルタンの両方の支配を受けていたということもできるし、オランダから見ればわりと支配しやすい間接支配というスタイルをとったということもできる。

これらの諸侯国はオランダ支配を受け入れ、子息をオランダに留学させるなどして積極的にオランダ化しようとした面もあるように見えるのだが、私の知る限り2人だけ例外がいる。探せばもっといるのだろうけれど、私が知っているのは2人だけである。

1人は1908年にオランダ軍によるジャワ侵攻の際に最後まで抵抗したクルンクン王国の王デワアグンジャンベ2世である。包囲された国王は最後の手勢とともに突撃し戦死したが、最期を見届けたで王族たちは集団自決をしたと言う。鎌倉の北条氏を連想させる壮絶な歴史の一幕とも言えるが、オランダのスルタンには敗れれば集団で自決するという考え方があったようだ。

もう1人はジョグジャカルタのスルタンであるハメンクブウォノ9世だ。第二次世界大戦が終わった後、日本軍は降伏していなくなり、再びオランダの支配が始まろうとしたが、一度オランダの敗退を見てしまったインドネシア人は以前と同じように従うということをよしとせず独立戦争を挑み、スカルノがその先頭に立った。各地の諸侯国のスルタンは依然としてオランダへの忠誠を誓い、独立戦争を妨害する立場をとったが、ハメンクブウォノ9世は独立に協力する立場をとった。おそらくはスルタンの多くがオランダの庇護の下で既得権を守ろうとしたのだと想像できるが、ハメンクブウォノ9世は世の中がどちらに動くかよく見極めができる人物だったのだろう。イギリスが当初オランダ支配の復活に協力していたが、途中であきらめて撤退しただけでなく、イギリスはマレーシアからもビルマからもインドからも引き上げて行くことになる。その姿を見て、ヨーロッパのアジア支配は終わるのだなと悟ったのではなかろうか。独立を果たしたインドネシアは共和国になったが、ジョグジャカルタのスルタンだけは現在に至るまで存続している。ハメンクブウォノ9世の戦略勝ちのような面があるように私には思え、やはり王とか君主とかという立場の人でもその立場に安穏とせず、時代の潮目を見る目を養う必要があるという際立った一例と言えるのかも知れない。今回の話題とは関係ないが、昭和天皇もマッカーサーを抱き込んだという点で潮目を見極めるのがうまい人だったとも私には思える。



目取真俊『神うなぎ』の沖縄戦に関する相克するロジック

目取真俊氏の『神うなぎ』という小説が三田文学に掲載されているのを読んだ。沖縄戦を主題にし、戦火の中、沖縄住民の生活を守ろうとした人物と日本軍との相克が描かれている。沖縄出身の主人公の父親は沖縄戦の最中、アメリカ軍の投降の呼びかけに対して、仲間の住民たちを説得して集団で投降する。主人公の父親はハワイに働きに行っていたことがあるため、アメリカの国柄をそれなりに知っており、本土から沖縄へやってきた日本軍将校からは「アメリカ軍に捕まると男は殺され女は犯される」と教えられてはいたものの、アメリカ軍はそのようなことはしないと判断し、投降することに決めたのである。

アメリカ軍に投降した後、住民は一時的にこれからどうなるのだろうと不安を感じるが、意外なことに「家に帰れ」と言われるので、あっけにとられた風に人々は帰宅し以前と同じ生活を営もうとする。しかし、昼間はアメリカ軍がいるので普通に暮らせるのだが、夜になると日本軍がやってくる。戦局的に不利な日本軍将兵は森の中に隠れており、夜になると食料を求めて住民の家屋へやってくるのだ。沖縄県民を守るために派遣されてきたはずの日本軍が、逆に沖縄県民に食料を事実上略奪するという矛盾とアイロニーが描かれている。

主人公の父親は住民の生活を守るためにアメリカ軍に協力し、アメリカ軍に対する住民側の窓口のような役割を果たすのだが、日本軍将校の目からは利敵行為に映り、ある時、日本軍に捉えられて殺害されてしまう。主人公はその後成長し、季節労働者として東京に働きに行くのだが、たまたま行った居酒屋で父を殺害したと思しき元日本軍将校を見かける。剣術の腕前があり、剣道を教えているというその老人は元日本軍将校らしく精悍な雰囲気を持ち、客や店の人とのやりとりの様子から信頼されていることも窺い知ることができる。主人公は父の死についてその老人に問い質したいと考え、「今さら…」とも思うのだが、やはり抑えきれずある夜、老人の帰宅の時を狙い、声をかける。驚いたことに老人は自分が殺害した主人公の父親のことを明確に記憶しており「君のお父さんは敵のスパイだったんだよ」と言い切る。スパイを野放しにすることは部下の生死にかかわる、従ってスパイを殺したことは適切な判断であったと的確なロジックで主人公を圧倒する。

もちろん主人公にもロジックはある。まず第一に自分の父親が殺害されているのである。問い質す権利があるのは当然だ。それに日本軍が沖縄県民を守ることができなかったから、住民はアメリカ軍に投降したのである。スパイの処断など、戦争に敗けた軍人の言い訳に過ぎない。沖縄県民は多いに苦しんだし、その主たる理由は日本軍が無力であった上に沖縄県民を道連れにしようとしたからだ。私は沖縄の人からいろいろと話を聞くことに努力をした時期があったが、沖縄県の人の心情は沖縄戦に対して深い複雑な感情を持っていることはよく分かった。また、この作品で示されるロジックも明快だ。日本軍が住民を守れないのであれば、住民は自らを守るためにアメリカ軍に投降する以外の選択肢はあり得ない。軍が国民を守るためにあるとすれば、その職責を全うできない軍人はそれを恥じなければならない。

私が感じたのは主人公の父親を殺害した元日本軍将校のロジックと、日本軍将校に父が殺害された主人公のロジックがどちらも完璧だということにこの問題の複雑さが潜んでいるということであり、目取真俊氏はそこを読者に問いかけたのではないかということだった。主人公の父がアメリカ軍に協力する姿は日本軍から見ればまごうことなき利敵行為であり、それは戦時下であれば死に値するとして矛盾はない。将校が部下に対して責任を負うことは正しいことで、部下の命を守るために利敵行為を行うスパイを殺すことは、ロジックとして一貫している。一方で、住民を守るためにアメリカ軍に協力することは、これもまた全く正しい行為だと言える。日本軍が守れないのなら、そうするしかないではないか。住民の命と生活を守るためにはそうするしかないではないか。一貫していて矛盾がない。

太平洋戦争についての議論を考えるとき、我々が袋小路に入り込んでしまうのは、それぞれがそれぞれの立場で一貫して完成したロジックを持っているからではないかと私には思えるときがある。しかも戦後70年以上を経て、それぞれのロジックには磨きがかけられ隙のないものに進化している。互いに相手の立論を崩そうとあの手この手を繰り出すが、双方の立論があまりに立派にできあがってしまっているために互いに崩し切れず、議論は平行線を辿るのだ。

立論がいかに立派なものであろうと、戦争は人が死ぬ。悲劇がある。戦禍で犠牲になった人にとってロジックは関係ない。どれほど素晴らしい立論を示されても、現実に苦しんだ人にとってそれは関係がない。戦争は言うまでもないがしない方がいいに決まっている。

さて、太平洋戦争を直接経験した人は少ない。ましてや戦争中に将校なり政治家なり当事者の立場だった人はほとんど生きていない。この『神うなぎ』という小説でも、戦争が終わってから40年後ぐらいに老人と主人公が対決するような設定になっている。もう少し前までは戦争は現代人の物語だったが、今はもうそういうわけにもいかないくらい戦争は遠い記憶になろうとしている。ただ、目取真俊氏がそれでも今、この時代に『神うなぎ』を書いたのには、沖縄にとって戦争は風化させるわけにはいかない現代人の問題だということを問いかけたかったのではないだろうか。


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和辻哲郎の『アフリカの文化』論

和辻哲郎は1937年に『思想』という雑誌で、『アフリカの文化』という文章を発表した。フロベニウスの『アフリカの文化史』という書物を引き合いに出し、アフリカには「合目的的、峻厳、構造的」な文明が存在していたことを日本人に紹介している。

アフリカの歴史は古く、たとえばエチオピアには2000年以上続いた皇帝国家があったことは知られているが、ヨーロッパで文明が発達するより遥か以前から精緻な構造物や文化体系が存在したというのである。それを破壊したのは大航海時代のヨーロッパ諸国で、古くから存在したアフリカの文物を破壊し尽くし、プランテーション農業を普及させた。和辻哲郎の言葉を借りれば、そのような貧しいアフリカイメージは「ヨーロッパの作り事」であるらしい。

アフリカ人が迷信の偶像崇拝の文化にすがり、進歩しようとしないというのも全くの嘘で、植民地化、プランテーション化によって旧来のものが破壊された結果、貧しく、「ヨーロッパ商人に寄生する」アフリカ人社会が創造されてしまったというのである。アフリカの古くからある高い文明性については大航海時代の初期の征服者たちは気づいていたものの、次第に忘れ去られ、やがてはディズレイリがヨーロッパという巨大大陸を自分の足でまたぐような風刺画で表現される、ヨーロッパに支配され、教育され、文明をもたらされる側の立場に立たされるようになってしまったというわけだ。呪術を信じ、非文明的なアフリカ人というイメージは奴隷商人によって利用され、非文明人なので(場合によっては人間より動物に近いという観念すら持って)、アメリカ大陸に奴隷として人身売買されることの罪悪感は消し去られ正当化された。

19世紀の冒険家たちがアフリカの奥地に足を踏み入れることにより、まだヨーロッパの支配が及ばない地域へ行った際、そこで完成された美しく豊かで合理性のある文明的なアフリカ人の姿を発見したのだという。フロベニウスが1906年にアフリカ探検旅行に行った際には、上に述べたような完成されたアフリカ社会が残された地域があり、その文明の度合いの高さに驚いたという。

和辻哲郎がこの文章で述べていることは、サイードが『オリエンタリズム』で主張したことと相当程度に重複していると言える。サイードはアラブ世界がヨーロッパ人が勝手に自分たちの好きなようにアラブ人の姿を描いたと主張しているのに対し、和辻哲郎はそれと同様のことがアフリカ人に対して行われたと、サイードがオリエンタリズムを書く何十年も前に指摘していたということになる。

もっとも、和辻がこのような文章を発表した背景には、当時の日本人が欧米人に対して劣等感を持っていたことと無関係ではないだろう。何事も欧米が進歩しており、日本で完成された文化や歴史を捨て去ることが果たして正しいのかという問いを彼は『アフリカの文化』という文章で発したのである。この文章が発表された時期は既に日中戦争が始まっている時期で、欧米社会からの日本に対する批判は厳しかった。それら批判に対する心理的な反抗がこの文章の持つ性格の一面であるが、サイードより40年も前に同様の指摘をしていることは重要と思えるので、ここで紹介しておきたいと思った。