英語メディアが最近になって北朝鮮のことについて騒ぎ始めている件

2017年4月15日、北朝鮮が核実験をやるならこの日と言われたのが何事もなく過ぎ、個人的には「まあ、もう戦争にはならないだろう」と考えているのですが、ちょっと事態に変化が生じているようです。英語メディアが騒ぎ出しています。英語メディアと言ってもなんでもかんでもチェックするわけにはいかないので、cnn,fox,financialtimes,bbcあたりを拾うようにチェックするくらいしかできないのですが、ある程度チェックしておけば、欧米でどういうことが注目されているかは大づかみに理解することはできます。特にcnnが反トランプ、foxが親トランプですから、この両方を横目でもいいのでざっくり見ておけば、中間的な視座も得やすいと考えています。

では、4月15日ごろ、彼らがどういう報道をしていたのかというと、主としてシリアに関心に向いていました。トランプさんは外交では中東関係が第一ですから、シリア、イランが懸案になっている最中、本当に北朝鮮にまで手を出すのだろうかと私は疑問に感じてはいたのですが、シリアに向けてトマホークが使用されたことに欧米メディアが食いついており、この背景にはアメリカの政府筋が意図的に出す情報量がシリア関連に偏っており、記者たちはどうしても出された情報について追いかけざるを得ない宿命がありますので、アメリカ政府としてもメディアにそっちへ関心を持ってほしいという希望もあったものと推察できます。

アメリカは戦争になったら好戦的な方向で一挙にまとまる国ですし、cnnもトランプさんに対する批判が柔らかいものになったような印象はありましたが、若干、cnnがどうしていいか迷っているフシもあるように感じました。そういう意味では大ブッシュと小ブッシュの時代に中東で戦争した時に国民がこぞって支持していたのとはちょっと違う感じかなあとも思えました。トランプ政権としては、アサド政権に対してトマホークを使ったことは、必ずしも過去のような国民的支持を得るという手段にはならなかったという教訓を得たのではないか、cnnはそんなことくらいでは反トランプをやめないのだということを学んだのではないかとも思えます。

さて、ところが本当にここ数日、2,3日のことですが、突然に英語メディアで北朝鮮関連の話題が増えてきました。やはり政府筋がそれに関する情報をよく出すようになり、現場の記者が食いつきを見せているとも思えます。今ごろになって「緊張が高まっている」などと言い始めています。まず間違いなく政府筋が「緊張が高まっている」との情報を流しているからだとは思いますが、気になるのはその先に描いている絵がよく読めないということです。私はアメリカが本気で北朝鮮と戦争することを考えているとは思えません。本気で戦争をする準備を整えているのであれば、北朝鮮へ向かったはずのカールビンソンがしばらく消息不明になってインド洋に出現するというような理解に苦しむ航行をすることはちょっと考えにくいですし(意図的にそうしたのだ、戦略だ、という人もいるでしょうけれど、本気の勝負をかけるのであれば、少しでも早く現場に行きスタンバイするというのがいかなる職業でも基本になるはずです)、かくもあからさまに中国への期待を表明するのも、できれば中国の力でいろいろ収めてもらいたいという本音があり、過去にアメリカがどうしても戦争したい時にはトンキン湾事件のような小細工をしてまで戦争を始めたことを考えると、わざわざ中国に下駄を預けて開戦のハードルを上げるというのは、本音では戦争をしたくないということがよく現れているように思えます。

気になるのは、ここを超えたら戦争になるぞというレッドラインが若干、曖昧な点です。アメリカに届くicbmが完成し、そこに核弾頭が積まれる事態になったならば、アメリカはゆるさないだろうという話はよく聞きます。しかし、それでは北朝鮮が核実験を強行した場合、それがレッドラインを超えたかどうかを厳密に判断することはできません。もし北朝鮮が核実験とicbmの実験を別個に別時期に行えば、それはレッドラインを超えたことになるのでしょうか。或いはどちらか片方だけ成功させればレッドラインを超えたことになるのか、それとも一度に両方やらなくては、超えた判断しないのか、微妙なところが曖昧なままです。もし、アメリカが本気であれば、開戦のハードルを下げるでしょうから、このような曖昧さは関係諸方面にとっても耐え難いストレスになるに違いなく、ここにもアメリカが本気ではない、あるいは迷っている、もしくは本音ではやりたくないというのが出ているのではないだろうかと思えます。

さて、ciaの本音を知るにはvoice of americaの中国語版が私が手に入れられるソースの中では最も適切だと考えているのですが、当該メディアのyoutube配信を確認したところ、やはり中国の動きを注視しており、中国がわりと本気で北朝鮮を締め上げる動きに乗り出しているということが中心のトーンで進行されていました。トランプさんとciaの関係は悪いと個人的には見ていますが、実際に戦争をするとなれば、ciaと連携しないというわけにもいかないでしょうから、当該メディアをチェックすることは今後のアメリカの出方を予測するうえで、有効な手がかりになることは間違いないと思います。そして、当該メディアが中国に期待する主旨のメッセージを発しているということは、やはり、本音ではやりたくないということのように思えます。これは中東のごたごたが改善したわけでも大きく展開したわけでもない以上、北朝鮮に本腰を入れるとは考えにくいという大枠にも沿っていることになりますから、大体、この方向で見ていいのではないかと思います。

とはいえ、この時期になって、そろそろ米韓合同軍事演習も終わろうという時期に、英語メディアが朝鮮半島に目を向け始めた、即ちアメリカ政府筋がそういう情報を流し始めたということの意図や背景が以上のようなことだけでは説明がつきません。トランプ政権としても、メキシコの壁の予算は諦めざるを得ない見通しになっており、オバマケアも廃止には至らず、いろいろ失策が目立っていますので、そういうことからメディアの注意を逸らせたいと考えているのではないかと私は勘ぐっているところです。まだしばらくは目が離せませんが、戦争になる可能性はそんなには高くないという見方でいいのではないかと考えています。

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安倍首相は現段階で解散を打ちたくても打てないように見える件

政治的なイベント、または外交的なイベントがあれば、すぐに解散説が出てきます。たとえば、森友学園問題では、証人喚問の終わり、出るべき話はだいたい出尽くした感があり、これを境に解散か?というような観測もなかったわけではありません。内閣支持率は概ね好調で、森友学園問題で騒ぎになってからは少しは下がりましたが、現状では回復が見られます。尤も、森友以前までほどには回復していませんから、同じやるなら今の時期は外してもう少し様子が見たいというところはあるはずです。

外交で得点して解散への流れを作りたいと安倍首相が考えていたことはまず間違いないと思いますが、プーチン訪日は実際的には空振りみたいなもので、北方領土で一機にという感じではなくなってきました。また、北朝鮮で開戦前夜(?)の空気が漂う現在、邦人保護の観点からみても米韓合同軍事演習が終わるまではとても解散している場合ではありません。外交的にはこつこつと小さく積み重ねてきた点は正当に評価されるべきと思いますから、概ね高い支持率はそのことも反映しているかも知れないですが、前回のように大きく勝てるという見込みが立つほどの感じでもなし…。というところではないかと思えます。

経済に関しては、金融緩和がそれなりに効果を上げていると思える一方で、日銀頼みの感が強く、もう一歩、抜け切れていない様子であり、失業率が史上最低レベルにまで下がったという事実は正当に評価されるべきと思いますが、21世紀バブル、21世紀元禄という感じにはほど遠く、長い目で見ると悲観したくなる材料が山積みですので、選挙で大勝利の確信を立てられるところまで来ているとも言い難いところがあります。個人消費は伸びておらず、明らかに消費税の増税の影響を引きずっていると思えますから、長い目で見るとずるずると衰退していきそうにも思えてしまい、なんとかしてくれ…。とついつい思ってしまいます。せめて東芝が救済されれば、ちょっとは明るいニュースになるようにも思うのですが、外資に買われる可能性の方が高いように思え、どうしてもぱっとした感じにはなりません。リフレ派の論客の片岡剛士さんが日銀の審査委員に就任する見込みですので、黒田総裁就任以降のリフレ政策は維持される、或いは更に深堀りしていくことが予想できますが、日銀頼みになってしまっているところが軛のようになっているとも思えますから、もう少し明るい材料がほしいところです。

しかし、安倍さんが憂慮する最大の要因は自民党の若手の議員の人たちが枕を並べて討ち死にする可能性が高いというところにあるそうです。確かに育児休暇をとると言っておきながら、不倫をしていた国会議員、重婚疑惑の国会議員など、たるんだ感じのスキャンダルが多く、20世紀型の大金を集めていたとかの話に比べれば小粒なスキャンダルとも言えますが、小粒なのに品がないという関係者であれば絶望したくなるような話題が目立っており、党の執行部であれば「このメンバーでは戦えない。外交で得点して何とか、粗を隠せないか…」という心境になるのではないかと想像できます。

2017年秋の解散説がありましたが、最近では2018年解散説まで出ています。勝てる目算が立つまではぎりぎりまで待つというわけです。追い込まれ解散になる可能性もあるけれど、それまでにいいニュースを発信できるかどうかということに賭るということらしいです。

自民党の支持率は4割近くあり、小選挙区中心の日本の選挙制度から考えれば上々と言えますし、民進党の支持率は全く上がらないというか、下がり気味であり、通常であれば自民党は楽勝とも言えますが、最近は当日になって誰に投票するかを決める人も多く、そのあたりの有権者の気まぐれの恐ろしさをよく知っているからこそ、メンバーのたるみを危惧していると言えそうです。小池百合子さんが手駒をどれくらい揃えてくるかによって今後の流れは変わってきますから、そういう意味では東京都議会選挙には注目せざるを得ません。ただし、小池さんは最終的には自民党と組む形で、細川護熙さんの時のように、少数与党ながら首班指名を勝ち取るというあたりを狙っていると思われるものの、自民党は正解遊泳型の政治家を絶対に認めないという空気も持っていますので、そのようなある種の伝統を小池さんが打ち破るかどうかは見届けたいところです。豊洲移転問題のもたつき、東京オリンピックの準備のもたつきが指摘される中、小池さんの演説力で乗り越えるのかどうかは日本の政治の将来を占う重要な材料になるように思えます。

最後に、安倍さんにとって恐るべしは小沢一郎さんかも知れません。前回の衆議院選挙でも、東北地方では自民圧勝という結果を得ることができず、小沢一郎王国が奥州藤原氏の如き強靭さを持っていることをうかがい知ることができましたが、解散時期が遅くなればなるほど、小沢さんに合従連衡の時間を与えることになります。小沢さんは党名を自由党というかつての政党名に戻しており、そこに心境の変化、心構えを見ることができます。

安倍さんとしては憲法改正可能な議席を維持したいという思いがあるでしょうけれど、上に述べたような各種不安要素を並べてみると、次も前回と同じだけの議席を確保できる見通しは必ずしも高いわけではなく、仮に現状に大きな変化が生まれないまま解散総選挙ということになれば、憲法改正はあきらめざるを得ないという結論にも至りかねません。私個人は無理をして憲法改正をする必要はないと思っていますから、3分の2以上の議席をとれるかどうかにはあまり関心はないのですが、憲法よりもまずは経済で、消費税の据え置き、できれば減税、可能なら撤廃(日本は一挙にバブル期なみの好況に恵まれることになると思います)で選挙をやってもらえないものだろうかと願う次第です。

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北朝鮮は戦争ではなく外交を選んだ。勝ったのは中国だった。

現在、2017年4月15日の午後2時ごろです。政権に近い人たちからはXデーとささやかれ、あわや第二次朝鮮戦争、または第二のキューバ危機かとすら思えた緊迫感のある日々が続きましたが、もっともやばいと言われた15日の午前が何事もなく穏やかに過ぎましたので、戦争になるリスクは大きく減少したと思えます。安全資産である日本円に買いが集まっていましたが、週明けからは円高に揺り戻していくのではないかと思えます。数日前、私なりに戦争にはならないと思うという主旨のことをなるべく穏やかに書いたのですが、やっぱり戦争にはならなかったと言うことになります。北朝鮮にとっては核実験という派手なことはやれなかったものの、「SLBM持ってるぞ。ついでに言うとICBMも持ってるぞ。なめんなよ」と世界に見せることができたわけですから、それなりに満足できる内容だったかのも知れません。

一時、軍需産業関連の関連の株価が上がっていると話題になりましたが、数日前から下げ始めており、株式市場でも戦争は回避されるという見方が強まりつつあったとも思えます。週明けからは反動もあってもっと下げるのではないかという気もします。

振り返ってみれば、アメリカがどこまで本気で戦争するつもりだったのかは微妙と思えます。まず第一にシンガポールからオーストラリアへ向かうはずだった空母カールビンソンが思いつきのように日本海行きを命じられ、一週間くらいかけて(要するにわりとゆっくり)北上したという辺り、「カールビンソンが行きますよ」という威嚇以外の意味はなかったとも思えます。

もし戦争になった場合、懸念されるのはソウルに大量の砲弾が撃ち込まれることと、日本に何が飛んでくるか分からないというところでしたが、38度線の砲台は固定されたものなわけですから、トマホークで計算して打ち込めばよく、カールビンソンの戦闘機が出ていく理由はありません。ミサイルを打つための可動式の発射台については、トマホークで狙うことには限界がありますから、戦闘機を使うことは理解できますが、仮に数時間で全て叩く(一つでも残っていれば日本に何かが飛んでくる)ということであれば、横須賀のロナルドレーガンも日本海に行っているべきで、わざわざ狙ってくださいと言わんばかりに横須賀で整備しているのは悠長な話です。ということは、最初から必ずしもアメリカは本気を出していなかったのかも知れません。やろうと思えば勝てるだけの戦力は集めた上で、場合によっては韓国と日本が焦土と化しても、ま、いっか。という感じで考えていたのかも知れません。少数精鋭の暗殺部隊を送るという話もありましたが、山の中の個人宅を狙うのではなく、警護の固い宮殿の中に複数の影武者たちと警備兵を充実させている国家元首をこっそり空挺部隊のようなもので送り込み、目的を達成するというのは土台からしてやっぱり無理な話だったと言えなくもありません。

それでも、戦争になったら日本と韓国に向けて存分に大暴れして滅びゆく覚悟を北朝鮮がしたならば、そうなったかも知れません。しかし、今この段階で核実験をしていないということは北朝鮮の側は矛を収め、アメリカも矛を収めるのをじっと待つという戦略を採用したものと見受けられます。何にもやらなければ滅亡必至の戦争を回避できるのですから、何にもやらないというのは理にかなった判断と思えます。太平洋戦争が始まる前に昭和天皇が「戦争準備を主とするのではなく、外交を主とせよ」と意思表示したことは全くまともな判断であり、それでも戦争をした当時の日本の指導者の愚かさということまでが私の脳裏を去来します。

一連のできごとで最も印象に残ったのは中国の立場が大きく好転したことです。中国は北朝鮮を説得するとアメリカに約束し、実際に北朝鮮を思いとどまらせることができたわけですから、堂々とその成果を主張することができます。一部では今の北朝鮮を中国がコントロールすることはできないとも言われていましたが、滅亡必至の行為を思いとどまらせるのはそんなに難しいことではなかったかも知れません。やったら死ぬよと言われれば、大抵の人はやらないのが合理的というものです。その結果として得るものは大きいもので、トランプさんは中国を為替操作国とは認定しないと発言し、今後の貿易不均衡についてもあんまり厳しいことは言わないともツイッターでつぶやいています。先日の米中首脳会談では、「100日以内になんとかしろよ」と約束させられた習近平さんですが、この約束はチャラにしたところで誰に文句を言われるわけでもなく、大手を振れるというものです。今回のことで一番お得な思いをしたのは中国だったかも知れません。北朝鮮に対しても、アメリカに「体制の変更は求めない」とも言わせたわけですから、これからは命の恩人です。

今後は米中蜜月も視野に入る可能性もあります。トランプさんが大統領に就任する前、台湾の蔡英文総統と電話で会談したことを自らツイッターで明かしたことで大いに話題になり、CIAはトランプさんの就任前にアメリカに立ち寄った蔡英文さんと直接会談させることも狙っていたフシがありますが、これは実現しませんでした。CIAとトランプさんの関係は現在に至るまでも微妙というかかなり隙間風が入り込む状態と見てまず間違いないと私は見ていますが、これは世界最大の予算を持つインテリジェンス機関をトランプさんが活用できていないということも意味しています。政府人事は現在に至るまで不安定で、人事の目玉であったとも言えるバノンさんも冷遇されつつあるわけですから、トランプ政権は足元がまだまだ弱いということは間違いないと言えそうです。当初、明らかに中国に対して冷たい態度をとっていたトランプさんは、就任後少しずつ態度が穏健になり、おそらくは中国ロビーの涙ぐましい努力があったものと想像できます。娘さんと娘婿だけを頼りに政治をしているトランプさんは裸の王様状態になっており、中国ロビーにとってはそれが幸いして、入り込みやすかったのかも知れません。トランプさんは今後も情報源が乏しい中でのかじ取りをせざるを得なくなるため、中国ロビーの努力次第では米中蜜月大いにあり得ると思えます。北朝鮮が核実験を見合わせたことで、米中蜜月のお膳立ては整ったとも言えますから、今後はアメリカのAIIB参加なども含んだ方向転換も考えられます。その場合、戦争になったら有事モードで返り血も覚悟していたフシが見受けられる安倍首相は踊らされた感が残ってしまい、うまく形容することのできない、わけのわからない感じになってしまうということにもなりかねません。国際社会は一寸先は闇でござんす。安倍首相はオバマさんに対しては平身低頭で何とか乗り切り、トランプさんに交代してからはもうちょっと伸び伸びやれるかもと期待していたはずですが、ところがどっこい…相手にされなくなる…。ということもないとは言えません。こういうことを書いたからといって、私がそれを望んでいるというわけではないですよ。念のため。

とはいえ、戦争になっていたら、数百万人の死者が出ることも不思議ではなく、コロニー落としなみのマスマーダーになった可能性もあるわけですから、戦争にならなかったということは、祝すべきとも思います。

金正恩さんは、このたびのことで「強いことは正義だ」と学んだのではないかと思います。シリアのアサドさんやリビアのカダフィさんのような半端なことをしていればトマホークも撃ち込まれるし、場合によっては殺される。しかし、自分は強いのだ。強いからアメリカも手を出すのをためらったのだと認識したはずです。そう認識するのが普通です。もし、金正恩さんが賢明な人であれば「力は使うものではなく、見せるものだ」とも学んだかも知れません。日本はそれを見せられる側であり続けることになります。日本は外交で負けたと判断してもさほど間違っていないのではないかという気がします。

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アベノミクスをここでちょっと振り返ってみる

日本のGDPは540兆円弱になるようなのですが、そのうち20兆は過去に計算に入れていなかった研究開発費などを加えて下駄をはかせた数字であるため、過去と比較するとすれば、520兆円弱くらいあたり見てよいのではないかと思います。一番ひどい時に490兆円くらいまで落ち込んでいましたから、安倍政権に入って30兆増えたことになり、下駄をはかせた分も、そっちの方が国際標準らしいので、それを額面通りに受け入れるとすれば、50兆円くらい伸びてますので、まあ、まあ、まずまずだと評価してもいいのではないかと思います。

これくらいまで伸びた背景は一重に黒田バズーカによる金融緩和がおおいに仕事をしてくれたと言ってよいとも思えます。とはいえ、これは金融緩和が来たぞ!ということで外国人投資家による日本株の買いによる日経平均の上昇と、結果として含み益を得た日本人投資家の利益の面が大きく、実体経済、即ち誰かが商売を始めて、それで雇われる人も増えるし、みんなもほしいものが買えてみんながハッピーという状態まで行けたかと言えば、残念ながら疑問を感じざるを得ないところです。

日本経済は60パーセントが個人消費に支えられているにもかかわらず、個人消費はほとんど伸びておらず、消費税の増税によってどちらかと言えば冷える傾向にあると言えます。敢えて言えば、消費税を3パーセントも上げたのに冷え込みがこの程度で済んでいる、なんとか現状を維持できているということの方が不思議なくらいで、一部の指摘にあるように高齢者層がお金を使うことで、どうにか持ちこたえているというあたりが実際的なところなのかもしれません。

失業率は堅調に下がっており、それをしてアベノミクス効果と称揚する人もいますし、確かにまずはなんといっても失業対策が肝心で、個人的には所得よりもまず雇用と思いますから、これについてはめでたいわけですが、これはアベノミクス効果ではなく、少子化で新卒の人の人数が少ないために、結果としてみんな内定がもらえるようになったからだとする指摘もあり、とすれば、アベノミクスとは関係ないと見ることもできるかもしれません。政治家が結果責任だとすれば、結果として失業率は下がっているわけですから、そこは評価されてもいいのかもしれません。今後、賃金が上がるかどうかというところに世論は移っていくのをとりあえずは見守りたいと思います。

ゆゆしきことと思えるのは、今後も消費増税を控えており、おそらく財務担当省庁の思惑としてはヨーロッパ型の高負担税制国家にしたいというところが見えますので、消費税はこれからも粘り強くじわじわと上げられていく可能性が捨てきれないということです。過去の流れを見ても、どうにか日本経済が復活しそうになったところで橋本龍太郎さんの時代に消費税増税が行われたことで景気の腰折れがあり、今回の安倍政権になってからも、消費増税によってかなりの分が吹っ飛んでしまっています。残念至極と言わざるを得ないのですが、今後も担当省庁が上げ続けることを狙っているとすれば、日本の個人消費はお先真っ暗で、希望が見えません。日本では司法が財政均衡主義に立った判断を下した判例がいくつかあるので、公務員の人たちとしては財政均衡主義的な方向についつい進んでしまうのかもしれません。

また、財政出動もやってるのかやってないのか…であり、産業育成も日本人としてはAI開発におおいに取り組んでもらって個人的にはベーシックインカム社会来るべしと思っていますが、なんとなくアメリカや中国に水をあけられつつあるような…ところではあります。

アベノミクスに点数をつけるのであれば、日銀の金融緩和が90点(短期的には効果はあるけど、あんまり長くやると銀行の体力が尽きてばたばた倒れる…)、財政出動は50点(高すぎるかも)、産業育成も一時TPPで農協改革というちょっと的外れな方向に進んだので30点。総合すると、90+50+30=170点で、それを3で割ると56点(小数点以下切り捨て)といったところでしょうか。

うーむ…黒田さんに頼り切ってしまい、黒田さん効果もあんまり上がらなくなった今、財政出動も研究開発もばしっとやってほしいところです。アメリカと北朝鮮が戦争になるかならないかで世間が騒いでいるところですが、ちょっと落ち着いてみたくて、アベノミクスについて考えてみました。

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アメリカと北朝鮮

米韓軍事合同演習が今まさに続けられている最中であり、keyresolve作戦なる穏やかではない名称の作戦の訓練も行われているということで、しかもトランプ大統領ですから、もしかすると戦争もあるかも知れないという話が俄かに高まっています。

本当に戦争になるのか、それともならないのか、戦争になったらどうなるのか、可能な限り穏当な表現と中立的な姿勢を保ち、感情的にならず、考えてみたいと思います。

昨日から行われた米中首脳会談では、「北朝鮮の非核化で協力する」という合意が得られたとされています。大変に微妙な表現で、「非核化」のために何をするのかはさっぱり分からない、逆に言うと何をやっても合意の範囲内という曖昧なものですから、穿った見方をするとすれば、アメリカは中国の黙認をとりつけたと解釈することも不可能ではありません。

トランプさんと習さんの会談の最中にトマホークでシリアのアサド政権の施設を攻撃したという一報が飛び込んでくるというのは、アメリカ側の皮肉をきかせた演出と言えますし、このような演出をする背景には、アメリカには他の地域でもそうする意思と能力を持っているということを示したとうけとることも可能と思えます。

しかし一方で、広い世界を全体的にカバーしなくてはいけないアメリカの事情としては、二正面作戦は避けたいという本音があるはずですから、「シリアと北朝鮮の双方で一挙に」というのは現実的な問題としてはハードルが高く、トランプ政権の最優先課題は中東情勢をコントロールすることにあることは明白ですので、シリアに本格的に手を出すということは、北朝鮮には本気にはならない。或いは、現実的にそうはできないという見方も可能とも思えます。

習近平さんにアメリカの意思と能力を示したものの、シリアと北朝鮮に同時に手を出すことはできないという二律背反でアメリカ側も未だにためらっているのが現状ではないかと私には思えます。

大変に悩ましいのは、戦争になった場合、日本、韓国への被害は甚大になる恐れがありますから、水面下でどのように話し合われているかは分からないものの、日本、韓国側から事前の快諾を得るというのは決して簡単なことではないようにも思えます。特に北朝鮮の指導者は「死なばもろとも」と考えている可能性が高いと思えますから、いよいよとなればミサイルのボタンを押すことに躊躇はないでしょうし、或いはボタンを握りしめて「押してもいいのか」的な瀬戸際作戦も充分に考えられます。

ビンラディン氏を襲撃した際には、彼がそういう決定的なボタンを持っていなかったので、少人数精鋭部隊で襲撃するという、まるで映画のような行動が可能でしたが、北朝鮮の場合、まず、指導者がどこにいるかははっきりとは分からないという面があり、指導者も一朝ことが起きればいつでもボタンに手が届くように準備している可能性がある以上、芹沢鴨暗殺のように寝込みを襲い、坂本龍馬暗殺のような素早さでけりをつけるというのはハードルが高いように思えてなりません。

アメリカとしては、北朝鮮がアメリカに届くミサイルを持つようになる前に、という本音もあるでしょうけれど、今となっては日本と韓国が焦土と化してもいいという覚悟を決めなくては動くに動けないはずですので、これは世間で騒がれているほど、戦争になる可能性は低いのではないかと思えなくもありません。平壌の破壊力の大きい爆弾を落とすという選択肢もあるかも知れませんが、その場合は横田めぐみさんの安全が危ぶまれます。

現状はキューバ危機以来とも思える緊張感のある状態になってはいるのですが、危機が進み過ぎて手が出せなくなっている。と私には思えます。イランコントラ事件でも分かるように、CIAは精緻な作戦にさほど優れているとも言い難いがところもありますので、敢えてそこまでのリスクを取れるかと言えば、取れないのではないかと思えます。

トランプ政権はまだ人事で揺れている部分が残されており、安定しているわけでもありませんから、そういう面からも今の段階で危険な賭けに出るのは厳しいのではないか、とも思えます。

以上のようなことを整理すると、1シリアと北朝鮮の二正面作戦は厳しい 2トランプ政権にとっては中東が優先事項 3トランプ政権はまだ弱く、危険な賭けには出られない 4北朝鮮は既に核保有国なのでその強みがあり、既にうっかり手が出せないほど強力になっている

ということになり、結論としては、おそらく、戦争にはならないのではないかと思えます。米韓合同軍事演習が終わるまではもちろん何とも言えない部分は残りますが、韓国の大統領不在の今、韓国が事態に対応できないという面もあって、やはりアメリカは戦争するわけにはいかない、できない。という結論に辿り着きます。それは今後も緊張が続くということも意味しますが、今戦争になれば、絶対にマスマーダーになるというリスクを負えないと思う方が普通の感覚かも知れません。今のタイミングで韓国の大統領が不在のことの方が意味深いようにすら思えてきます。また「核ミサイルを持っている」というだけで、一国を滅亡に追いやるだけの大義名分になるのか、というところも意見の分かれるところではないかとも思えます。

アメリカにとってもリスクは高いことは間違いないはずですが、北朝鮮サイドにとってのリスクはより大きなものですから、事態の打開をより強く願っているのは北朝鮮サイドに違いありません。国内での核開発アピールをやり続ける以外に政権を維持できないのだとすれば…意外と最高指導者が亡命する、みたいなところで手を打つということもあり得なくはないように思えます。

『博士の異常な愛情』をリアルで見ているような、重苦しい日々が続きます…。

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フランス啓蒙思想-神の支配と王の支配と法の支配

ヨーロッパでは王権神授説を振りかざす絶対王政が威力を持つ時代が続きましたが、18世紀に入るあたりから、そういった絶対王政を否定し、民主主義、三権分立、カトリックの伝説や教義を絶対的に信じるわけではない実証主義が登場します。啓蒙思想と呼ばれるものです。

特に有名な人物がモンテスキューではないかと思います。『法の精神』を著し、三権分立を説いたモンテスキューは、王の気分次第でなんでもできる、王が命令した法律はなんでも通用するとする価値観を否定し、法律には条文を云々する前に自然法があって、イギリス風に言えばそれはコモンセンスに基づくものであって、もうちょっと言うと法治主義ではなく法の支配があるべきと考えたのだと言えるとも思えます。
法治主義であれば、法律に書いてあることはどんなに理不尽なことでもまかり通るため、ソクラテスのように「悪法も法なり」ということになるのですが、法の支配であれば、たとえ法律に書いてあったとしてもそれが明らかに理不尽な内容であった場合には条文よりもその精神に基づいて判断されなくてはいけないということになります。今日まで続く普遍性を持った思想と言えるのではないかと思えます。

ヴォルテールの場合、神と教会を問題にしました。私個人はカトリックを批判したりする目的でこのブログを書いているわけではないのですが、少なくともヴォルテールはカトリックを批判しました。福音書イエスキリストの人生を読めば、感動するところはたくさんあり、人を愛するとはどういうことかということについて、考えさせられたり、啓発されたりする部分があることは事実ですが、処女の女性が子どもを産んだり、人間が水の上を歩いたり、死んだ後に三日してから生き返ったりするというのは合理性という面では納得できるとは言いかねます。カトリックではそれを奇跡と呼び、奇跡が神性の証なので納得しないほうがいけないということになるわけですが、問題はそのドグマ自体よりも、カトリックに異端指定されると袋叩きにされる、追放される、殺されるという個別の人間に具体的な危険が迫ることにあったとも言え、宗教戦争で人が殺されまくるという歴史もヨーロッパは経験していますから、ヴォルテールは宗教的寛容が必要であると考えました。また、自然秩序そのものが神であるとする理神論の立場を採るに至りますが、これは遠藤周作さんの『深い河』にも共通する形而上の立場とも言え、多分に仏教の法とも通じ合うのものがあるのではないかと思えます。

啓蒙思想の思想家たちは百科全書派とも重なりますが、具体的で観察可能な知識を積み重ね、タランベールのようにそれらの知識を利用して実証的な議論をするという発想がその根本にあったと言えると思います。百科全書派の中にはディドロという人物もいて、彼も具体的かつ観察可能な事実から諸事について検証・思索することを重視したため、唯物論へとつながっていきます。神が実在するかどうかはの中の問題であって、物理的には観察不可能ですから、観察可能な事象を積み重ねようとすれば唯物論へとつながっていくことは理解できないわけでもありません。

最近は量子研究が盛んになり、どんなにミクロな世界、さらにはナノの世界、もうちょっと言えばパラレルな世界へと入り込んで行ったとしても整然とした秩序があり、そこに神という設計者がいたのではないかと思いたくなる面もありますし、人間の心が観察対象に影響を与えうるとする世界があると言われるようになって、即ち、心と物理はつながっているということになってきているため、唯物論を完全に受け入れるべきかどうか、個人的には判断に迷うところではありますし、唯物論は飽くまでもカトリックとの対立軸として理解されるべきものではないかとも思いますので、カトリックに関する議論を忘れて唯物論だけを取り出して、絶対的な真理として議論することも難しいのではないかなあ、馴染まないのではないかなあとも思えます。難しいことなので断言することはできないところではありますが。

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ルソーと格差社会とピケティ

フランス革命のわずか前の時代まで生きたルソーはなかなかに壮絶な人生を送った人です。幼少期に孤児になり、少年期には労働に従事させられます。現代の人権感覚から言えば児童労働はゆるされない重大な人権に対する挑戦ですので、その点からも同情すべき点の多い人生を送った人と言えます。多少の時期的なずれはありますが、ヴィクトルユーゴ―の『レ・ミゼラブル』を連想させられます。

16歳で労働現場を脱走し、上級社会の夫人に拾われ、学問や音楽の教育を受けることができるようになります。松本清張の『砂の器』を想起させるドラスティックな人生の変化です。しかし、40代を過ぎるまでは社会的に認められることはなく、不遇な時期が長かったとも言えるかも知れません。

彼はそのような人生を送ったからか、人間社会にはびこる不平等を強く批判し、それを『人間不平等起源論』と書物にまとめ、文明が発達する前の自然な状態に帰れば、搾取も階級もない自己保存と惻隠の情だけの人間社会が営まれるようになるため、人々はそこを目指すべきだ、自然に帰れと言う議論を展開します。当時のフランスがまだまだキリスト教の影響の強い時代であったことを考えれば、アダムとイブが知恵の実を食べてエデンの東に追放される前の状態へ帰るというようなイメージがあったのかも知れません。ホッブスが自然状態が「万人の万人に対する闘争」とした点に於いて、自然状態に対する考え方が決定的に違いますが、これは両者の王制に対する考え方の違いなのかも知れません。ロックはより人間に対する信頼が厚かったため、ルソーに近いと言えますが、ロックが人間は理性を働かせることができるから秩序を維持できるのだと考えたのに対し、ルソーは素朴な感情面に於いて人には愛情関係を結ぶ力があるから秩序を維持できるのだとした点では違いがあると言えます。また、ロックが権力の集中を防止するために三権分立を考えていたのに対し、ルソーは人民への権力の集中を考えていましたから、その点での違いもあると言えます。人民への権力の集中というような言い方をすると、社会主義革命を連想してしまいますが、ルソー自身は一定程度の個人財産の所有は容認していますので、共産主義とは若干の違いがあります。あ、ということは、やっぱり社会主義、あるいは社会民主主義といった感じでしょうか。サンダースさんみたいな感じのことを考えていたのかも知れません。

彼の考えによれば、富める者はますます富み、搾取される側は永遠に搾取されるということですので、ピケティが証明したことを既に200年以上も前にルソーが論証していたと考えてもいいのかも知れません。

ピケティは格差社会の解消のためには富裕層に対する資産税を世界で同時に実施するしかない(要するにそれは実現不可能である)としていますが、ルソーの場合は格差のない社会にするためには全ての人々が直接民主制という形で意思決定に参加することによって格差の適正化を目指すべきだと考えました。彼はそのような手法によって確立された意思を一般意思と呼び、ひとたび決められた一般意思に対して人々は必ず従わなければならない、そのように契約するべきだとして社会契約説を唱えるに至ります。

40代で社会的成功に手が届いたルソーですが、当時のフランスのアンシャンレジームを否定する思想であったために危険思想の持ち主として犯罪者扱いをされ、指名手配されるはめになり、放浪生活に入り、不遇のうちに人生を閉じます。なんと気の毒な人物なのかと同情を禁じ得ません。ルソーは社会主義の源流であると同時にブルジョア革命の源流にもなったとも言えますので、大変に重要な人物として位置付けられていますが、メルヴィルの『白鯨』が彼の死後評価されたり、ゴッホの作品がやはり死後に評価されたりということはありますので、真実の天才は或いは死後に評価されるものなのかも知れません。人間の精神が死後も存在するかどうかは古代ギリシャ時代から議論のあるところではありますが、もし唯物論的に死後のなんかないということであれば、自分が評価されたことが全く分からないわけですから、本当に浮かばれません。とはいえ唯物論であれば死後に浮かばれるも浮かばれないもないわけではありますが。エピクロスが「死んだら何にも分からなくなるから死ぬのは怖いと思わなくていい」というのが真実なのかも知れません。個人的には死後の世界はあると思いたいところですが、こればっかりは死んでみないと分かりません。ちょっと脱線し過ぎですのでこの辺で。

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ロック‐人間に巨神兵は不要である

ホッブスは人間は自分を保存するために他者を滅ぼす自然な権利があると考えたため、結果としてレヴァイアサンを想定し、レヴァイアサンは『風の谷のナウシカ』の巨神兵と同じような超絶的に圧倒的な存在で、そのような強力な存在による支配によって人々が支配されてこそ治安や平和が維持されると考えたわけです。

しかし、ロックは人間をそのような「万人の万人に対する闘争」をするような愚かな存在であるとは考えませんでした。人間は理性的な存在であるため、そもそもが共存共栄ができる、自力で平和な状態を達成できる、それだけの叡智の存在だと考えたわけです。

しかしながら、やはり明確なルールというものは確立されなくてはいけません。しかしそのルールの確立には巨神兵みたいなものを必要とするわけではありません。市民が一定の手続きに基づいて意思決定をする、即ち民主主義的手法によってルールは確立できるとしたのです。また、飽くまでも市民の同意を得た上で、レヴァイアサンではなく国家が治安維持なりルールの確立なり、或いは確立されたルールの執行なりを委託されて同業務を行うのがあるべき姿と考え、国家と市民とは契約関係にあるとして社会契約論を唱えました。

民主主義と社会契約論がようやくここに登場してくるわけです。

ただし、国家が常に誠実に市民との約束に基づいて行政を執行するとは限りません。仮にそのような理想的ではない行政の執行が行われた場合、市民は例えば革命という手段によって国家を打倒することができるとし、それを抵抗権を呼びました。アメリカの独立戦争につながる思想の登場とも言えます。

いずれにせよ、市民が契約を結ぶ対象である国家が誠実な行政を執行することについては、革命とかに至る前にある程度は調整可能は機能が必要であり、それをロックは議会制民主主義に求め、更には三権分立も提唱します。ここでの三権分立には司法権は入っておらず、立法権、行政権、連合権(外交権)の3つがその分立に当たります。現代では外交権が独立していると立法との齟齬が生じる恐れが大きいですから、外交権は内閣にある(日本の場合であれば、立法府から選ばれた人物が行政府の長になるわけですから、ある程度、統合された意思決定と外交が可能になる)と考えるのが通常ではないかと思えます。

また、ロックは宗教的寛容も唱えます。長く宗教戦争が続いたヨーロッパで、宗派が違うという理由で殺し合っていたのでは平和と秩序は永遠に訪れることはないと彼は考えたのだと思いますが、その状態を打破するためには、他者の宗教に対しては寛容でなくてはならないと考えたわけです。また、政治が特定の宗派に肩入れしたり、逆に特定の宗派を排斥することがあると、結果としては宗教的寛容が失われてしまいますので、宗教分離も同様に必要であるともしました。

しかしながら、ロックや無神論とカトリックに対しては不寛容な立場を採ります。当時の社会的価値観から言って無神論を唱えたら袋叩きに会いますから、それはそれでやむを得ないようにも思えますが、ヨーロッパ諸国の君主の上に君臨して国家を超越した存在であるローマ教皇の存在は宗教分離に違反するとしたものの、ヨーロッパの宗教戦争はカトリックvs非カトリック(プロテスタント)によって続いたわけですから、カトリックに対して不寛容であるとすれば、宗教的寛容という発想そのものが骨抜きになるのではないかとも思えます。ただ、当時は英国国王とローマ法王が激しく対立する時代でしたので、結局はロックもその対立構造からは自由ではいられなかったということなのかも知れません。

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ホッブスと巨神兵と自由からの逃走

イギリス人のホッブスは、人間には自然権があると考えました。自然権とは即ち自分の存在を保護する権利、ホッブス的な考えて言えば、自分の生存を保護するためなら何をやってもいいという権利とも言い換えることができるかも知れません。現在の我々の法体系でも、完全にホッブスと同じと言っていいかはともかく、人間には自分を守る権利がある、即ち自然権があるということを大きく認めていると言えると思います。一方で、個人が自然権を主張した場合、他者の自然権と対立することが決してないわけではありません。その場合、自己保存の権利を行使するという理由から殺し合いになるということは場合によってはあり得ます。そういう意味では自然権には本質的に限界があるとも言え、今日においてもよく「公共の福祉に反しない限り〇〇する権利がある」みたいに言われますので、自然権には限界が内在していると言ってもいいのかも知れません。

そのため、ホッブスは「人間にはやっていいことと悪いことがある」という前提を考え、議論する余地もないくらいにやってはいけないことについては法律に書いてるあるとかないとか関係なくにやってはいけないとし、それが自然法であるとしました。グロティウスの考え方に共通する部分もあるように思えます。

さて、そうは言っても人間には自然権があるわけですから、有名な「万人の万人に対する闘争」状態が起きる余地は残されており、「自然法なんか知るか!それより俺の自然権が優先じゃぁっ!」という人が絶対に出てくるでしょうから、そこを何とかするために、レヴァイアサンという架空の絶対的に優越した力を持つ存在を想定し、人間は国家の統治をレヴァイアサンみたいな恐ろしい存在に委任することによって、平和と安定が保たれると結論しました。

人間の自由の根本中の根本とも言える自然権を認める前提から出発しながら、最終的にはレヴァイアサンに委任するというのは本末転倒のようにも思えなくもないのですが、ホッブスは清教徒革命でフランスに亡命していますので、国王の主権なり強権なりを肯定するような結論にしたいという政治的な動機なり理由、または背景があったのかも知れません。

「人間には自然権があるけど、自然法を守れるほど賢明ではないので、強権に委任したい」というのは、なんとなくエーリッヒフロムの『事由からの逃走』を連想させます。フロムはこの著作でナチスドイツがワイマール憲法下で合法的に政権を獲得したのは何故か、何故人々はナチスドイツを支持したのかということについて考察しました。人には強権に委任したい、強権に委任することで自分個人の意思決定という責任から逃れて楽になりたという願望がもしかしたらあるのかも知れず、それはたとえば戦後にアメリカで行われたアイヒマン実験でもある程度は実証されたことだとも言えるかも知れません(アイヒマン実験には再現性に乏しいという理由で批判する人もいるそうなので、当該の実験が絶対に正しいと言い切ることもできないかも知れませんが)。

そのようなレヴァイアサンを連想させるものとしては、『風の谷のナウシカ』の巨神兵を忘れることはできません。漫画版のナウシカでは、絶対的な叡智とパワーを持つ裁定者である巨神兵が、人工物であるにもかかわらず神の如き存在として振る舞い、不正義に対しては鉄槌を加えます。巨神兵を創造したのが誰かは明示されてはいませんが、そうでもしなければ人は殺し合わざるを得ないと考える絶望的な人間観があり、それは著作者の宮崎駿さんの人間観なのかも知れません。

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グロティウス‐法の支配、人の支配、神なき世界

ヨーロッパの中世の思想は神の存在証明にその力が入れられ、また近代の入り口においては人とは何かに関して考えることに力が入れられたものの、神の存在が絶対的な前提でなければ語ることができず、例えばデカルトのように人と神と対比して人のことを考察しつつも神の存在も同時に証明するという議論の手法がとられました。

その点、神の存在を前提としない議論を展開したオランダ人のグロティウスはメルクマールとして記憶されるべき人物ではないかと思えます。グロティウスは『戦争と平和の法』という著書の中で、神が存在するかは問題ではなく、たとえ神が存在しなかったとしても、人は相互に信義を重視し、人道を重視し、関係性を構築していかなければならないと考えました。神が存在するかどうかはともかく、或いはいかなる神を信じるかどうかもともかく、または神に対する信仰のあり方が宗派によって違ったりすることはともかくとして、人はまず第一に自然法の問題として人を殺してはいけないなどの議論の余地のないほどに明確な人道は、たとえ法律に書かれていないとしても、重視されなくてはいけないと考えたわけです。

これこそまさしく、いわゆる法の支配の基本的な考え方と言うことができ、法の支配とは即ち神ではなく人による支配であり、その後の近代ヨーロッパにおける思想哲学の基礎へと発展していく第一歩になります。神を信仰したい人は信仰すればいいし、信仰したくない人は信仰しなければいいけれど、信仰に対する考え方が違うということで相争う必要はなく、それとは別に人間的なルールを確立しましょうということですから、現代の我々の価値観とも矛盾しないものであると思えます。ヨーロッパにおける長い宗教戦争に於ける殺し合いの歴史に飽き飽きしてしまった、いい加減そいうことは止めにしたいという、当時の社会的な雰囲気もあったのかも知れません。

グロティウスは近代自然法の父とも呼ばれます。信仰に対する考え方を超えた国際法の枠組み作りを提唱しており、国際法の始まりと言われる後のウエストファリア条約に通じるもの言えると思います。

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