迫水久常著『大日本帝国最後の四か月』で知る「終戦」の手続き

1945年4月、鈴木貫太郎内閣が誕生してから終戦までの期間については様々な著作や研究がありますから、終戦が決まるまで、相当なすったもんだがあったことはよく知られていると思います。いよいよ決着がつかなくなって「聖断」なる、ある種の非常手段によってポツダム宣言を受諾するという意思決定がようやくなされたわけですが、鈴木内閣で内閣書記官長という半分官房長官みたいな立場に居た迫水久常という人物の手記を読むと、そこに至るまでの制度的な手続きが大きな壁になっていたことが分かります。

まず第一に旧憲法では天皇に和戦の大権があることになっています。しかし、明治時代は元老という憲法に規定のない最高権力者たちによる寡頭政治で意思決定がされていて、首相も元老が指名し、戦争するかしないかみたいな大事は元老が決めて軍隊が動き、首相は軍のお手伝いというようなものでした。その後、大正デモクラシーを経て最後の元老の西園寺公望が「憲政の常道」を掲げ、元老の影響力を少なくし、民主政治で選ばれた政治家が首相になるということを慣例化させようとしますが、軍人以外の政治家が首相になると殺されるというのが続いたために途中から断念して軍人首相時代に入り、やがて行き詰まりを見せて、近衛文麿というお公家様内閣が事実上日本帝国にピリオドを打つという流れになります。近衛在任中に西園寺公望が亡くなり、元老の首相指名という慣例も消滅しましたが、議会による首相指名ができませんでしたから、元老に代わって重臣会議が開かれるようになり、そこで首相指名が行われるということになります。何が言いたいかというと、太平洋戦争を終わらせる場合、重臣たちが「うん、やめたほうがいいよね」と言わなければ首相から「戦争やめましょう」とは言えないということです。

しかも、迫水氏の著作に拠りますが、ポツダム宣言の受諾は外交条約を結ぶのと同じになるから、枢密院の了解を得る必要があり、当時の平沼騏一郎枢密院議長を昭和天皇の聖断の場に立ち会わせることで、手続きを簡略化しようとします。

更にメインディッシュになるのが陸海軍で、有名な話ですが当時の阿南陸相が辞表を出せば内閣不一致で総辞職。改めて重臣会議で首相を指名して閣議を開き、枢密院の了解も経なければならないということになるので、ぎりぎりまで主戦論を唱えていた阿南陸相の辞表カードには周囲が相当びびっていたという話もあるようです。さりながら、阿南陸相は8月15日の未明に自決していますので、関係者からの評価は高く、迫水氏も阿南陸相が主戦派の陸軍首脳をなだめつつ心中では終戦に持ち込みたいというアクロバティックなことをやろうとしていたとして、その「腹芸」に感服したという趣旨のことを著作で述べています。

要するにポツダム宣言を受諾は首相、軍、枢密院、重臣が全員一致しなければ実現しないようになっていて、それぞれが「制度的手続き」を盾に取り主張をぶつけ合い議論が前に進まないという事態に陥ってしまいます。そうこうしているうちに原子爆弾も使用され、ソビエト連邦も攻めてくるという絶体絶命な状況が訪れます。にもかかわらず議論がまとまらず昭和天皇に決めてもらうという異例の手続きを踏むことになりました。ここで難しいなあと思うのは通常、天皇は自分から意見を表明しないことになっているにも関わらず、本気になって意見表明しようと思えばできないわけでもなく、天皇の意見が通るか通らないかはその時々の政治状況によって異なり、終戦の場合はたまたま天皇の意見が通ったという制度上の曖昧さです。昭和天皇の責任があると言おうと思えばいくらでも立論できますし、反対に昭和天皇には責任はないと言おうと思えばこれもまたいくらでも立論できるのです。法学論争が神学論争とは言い得て妙なりです。

昭和天皇は戦後、憲政上の問題として鈴木内閣が処理しなければならない案件であったけれど、内閣で意見が一致せず、自分に意思決定を依頼してきたので、それを受けたという見解を示しています。これだけでも現代人にとっては何を言っているのか分からない…と思えるような内容ですが、更に軍と枢密院というファクターが入ってくるわけで、高級官僚だった迫水氏が手続きに振り回されていたことに気の毒とすら思えてきます。

太平洋戦争末期、日本の主要都市は大体燃やされてしまい、それでも憲法を維持した国家が機能していたことには驚きも覚えますが、この期に及んで徹底抗戦か降伏かで議論が割れたということには正直あきれてしまいます。しかも制度的手続きを盾に取るという場合はどうしても「ためにする議論」がまかり通りやすくなり、政争やってる場合かよと突っ込みたくもなるのです。ポツダム宣言の受諾通告に際しても、当初「天皇の国法上の地位を変更しない」という前提で受諾すると通告する案があったのですが、迫水氏の回想では平沼枢密院議長が「天皇の大権を維持する」と文言を変更するように主張し(昭和天皇の回想では天皇が法源であることを前提とすると話が出たとなっていたと思います)、天皇の「大権」なり、天皇が「法源」なりという外国人には分かりにくい概念をねじ込んだというのも理解に苦しむところです。一刻も早く戦争を終わらせなくてはいけない時に神学論争してる場合かよとついつい思ってしまいます。平沼氏が検察出身で法律の専門家らしいところを見せたかったのかも知れません。

というわけで、日本帝国はその最期に於いて法の手続き論争をしていたというお話でした。


「関西帝国」の復活を感じた件

桜の季節になったものですから、思い切って鎌倉、京都、奈良、更に大阪を歩きまわってみることにしました。歩くのが好きなものですから関東と関西の景勝地を一挙に見てしまおうという、わりと無駄に労力を使うことをしてみたわけです。鎌倉はともかくとして、関西をこれほどじっくりと歩いたのは10年ぶりくらいのことです。

気づいたのは関西地方はやはり値打ちのある凄い地域だということでした。かつて故中島らもさんが『西方冗土‐カンサイ帝国の栄光と衰退』で、関西地方の凋落ぶりを相当に嘆いていました。というのも、関西地方は確かに人口も多く、経済規模も大きいのですが、人の動態のようなものを見ると地縁血縁でだいたいのことが決まっていく田舎体質であり、東京への対抗意識は強いものの、東京に負けていることは分かっていて、しかしそれを認めようとせず、「関西の方がうどんがおいしい」という何の役にも立たない慰めを並べ立てて自己変革しようとしないというのがらもさんの持論であったと理解しています。

さて、今回改めて関西地方をよくよく歩いてみて、神社仏閣の見事さには目を見張るものがありました。これだけの世界遺産級の建築物が集中している地域というのは世界的にも珍しいのではないでしょうか。驚いたのは観光客の多さです。もちろん、10年前にも関西地方の観光客は多かったですが、桁が違うという印象です。着物レンタルが流行していますから、外国人の観光客が大勢、和服姿で歩いています。中国人や韓国人はもちろんですが、白人の姿も目立ちます。確かにレンタル用の着物は化学繊維でちょっと安っぽいですが、そもそも凋落する一方だった和服産業はこれでそれなりに潤っているはずです。

特に驚いたのは奈良です。以前に奈良を訪問した際には観光客はいるものの全体的にまばらであり、マニアが敢えて訪れる観光地といった印象が強いものでした。ところがどっこい、今回訪れてみると観光客がいるわいるわ、鹿にせんべいをあげるという奈良独特の体験型観光が世界の観光客に受けているらしく、国籍問わず中国人もアメリカ人もフランス人も鹿せんべいを買っています。また、個人的には奈良市街地から東のエリア、興福寺、東大寺、界隈の立派さ、見事さに感嘆せざるを得ませんでした。1000年以上も前に相当な都市整備が行われたということの斬新さのようなものを実感させられたというわけです。商店街も歩いてみましたが、10年前はゲームセンターかマニア向けの古美術の店くらいしかなかったのが、観光客向けのレストラン、ショップが立ち並び、全体に歩いている人のボリュームがぐぐっと上がっています。奈良を歩いた時、原則全員関西弁だったのが、行きかう人の話す言葉に慎重に耳を傾けてみたところ、標準語を話す人の数もなかなかなもので、かつてマニア向け地方都市だった奈良が、国際観光都市に大きく飛躍していると結論せざるを得ませんでした。

大阪は10年前とさほど印象は変わりませんでしたが、より観光客向けにカスタマイズされている感が強かったです。関西は世界の観光客を集めることで生き延びると腹をくくったと私には感じられました。考えてみれば、現代的でクールな都会的な雰囲気を大阪で味わい、ちょっと足を延ばせば世界遺産級の建築物が密集している京都があり、鹿にせんべいを食わせることができる奈良があるという意味で一回の訪日で日本のハイライトみたいなところをぐっと体験できる関西地方は観光地としては非常に恵まれた地域なのは当然のことです。以前勤めていた会社で「関西地方はもはや復興不可能なのではないか」と言っている人もいましたが。そんなことは全然ありません。世界に対する集客力という点では、関東が大都会東京+その延長線上みたいな横浜、ちょっと歴史ある鎌倉というラインナップなのに対して、大都会大阪+京都・奈良というラインナップの方が魅力的なはずです。高層ビルを見たいという人には東京よりも上海やドバイの方が魅力的に映る可能性もあり、東京ディズニーランドが無敵の集客力を誇っている時代がありましたが、今や上海にも香港にもディズニーランドがある時代で、希少性という点で相対的に凋落の兆しを見せています。一方で大阪のUSJはハリーポッターが大うけしているらしく、最近の関西は盛り上がっているらしいと聞いてはいましたが、なるほどこれは本物の波が来ていると大いに納得できました。京都・奈良の建築物の価値は半永久的に認められるでしょうから、長い目で見ると関西地方はなかなかに恵まれているわけで、その真価を発揮していると言ってもいいかも知れません。このように関西の観光産業が発展した理由としては、一つにアジア周辺地域の経済発展を無視することはできません。韓国や中国、台湾の人たちが豊かになり、ヨーロッパやアメリカの人たちよりは日本に対する知識が豊富ですから、日本へ旅行するなら関西をという発想に至りやすいのだろうと思います。もう一つの要因として関西空港の整備が進みLCCの受け入れが容易になったということもあるようです。つい最近まで関西はもうだめだと言われていましたが、ところがどっこい大復活しており、これは日本人全体にとって好ましい現象と思えます。

あと、付け足しになりますが、奈良を歩いて感じたのは、奈良が里として整備された地域であるということでした。車窓から見た印象ではあるのですが、関東地方は人の密集している地域か森林もしくは丘陵地帯なのに対し、関西地方の平地では人がまんべんなく分布して暮らしており、民家と農地がある程度均等に広がっています。自然と人間の開発が一体化した「里」が成立しているわけです。弥生時代からクールな産業であった農業を徹底して推し進めた結果の地域開発の結実と受け取ることもできますから、私はその点でも関西の底力のようなものについて考えざるを得ませんでした。

関西って凄いのね。


佐川氏証言で見える「財務省はチョロくない」

現在、2018年3月28日です。昨日、財務省の佐川氏が国会の証人喚問に呼ばれて証言していました。いわゆる森友問題は喧々諤々の議論が紛糾し、私は自分の意見をまとめることができずにいましたが、佐川氏の証人喚問が終わり、安倍首相夫妻の関与についてはほぼ決着がついたと思いますので、私もこういうことは言えるんじゃないかなあと考えをまとめることができましたから、以下に述べておきたいと思います。権力とは縁のない私立文系大学講師の想像です。

佐川氏は安倍首相夫妻からの圧力は一切なかったという証言で終始しました。いつ、誰が、どういう理由で文書の書き換えを行ったのかについても、刑事訴追の関係で言えないとして、一切証言しませんでした。

まず安倍首相夫妻が森友学園の希望を叶えるために権力を行使したかと言えば、客観証拠が一切なく、当該文書から削除された部分も権力の行使や圧力を証明するものではなく、籠池さんが一人、安倍首相夫妻が自分の計画に好意的だという趣旨の圧力を近畿財務局にかけたという構図にしかなりませんから、安倍首相夫妻に対する疑惑はもはやないと私は結論しました。国会総出で一年かけて議論を尽くし、証人喚問してもこの結果ですので、シロと考えるのが妥当です。殺人事件の捜査本部でもよほどのことがない限り、一年捜査を続けて全く成果が上がらなければ捜査本部は縮小に入り継続捜査扱いになるのが普通です。今回の件も同様にここまで煮詰めて客観証拠も碌な証言も得られない以上、シロとするほかありません。

とはいえ、森友学園が問題化した際、官僚サイドと政府与党サイドが一切の意見交換をしていないかと言えば、それもまた考えにくいと思います。ただし官僚サイドが必ずしも政府与党の意向に沿うとは限りません。それでも国会答弁をする中で、政府与党がどういう構えでこの問題に臨むつもりなのかは知っておきたいはずでしょうから、意見交換はあったはずです。それを圧力と見るか忖度の生起と見るかは価値観や主観の問題ですから断定はできませんが、政府与党の圧力ではなかったとしても意見交換がなかったことはないでしょうから、ここは佐川氏が一切黙ったと捉えるのが妥当ではないかと思います。

では、なぜ佐川氏は一切の圧力がなかったと言い切ったのでしょうか。佐川氏の昨日の雰囲気で感じ取れる範囲で言えば、一切自分が引き受けて一人腹を切ってことを収めるという覚悟を持っていたように思えます。特捜捜査の展開がどうなるかは分かりませんが、佐川氏なりに自分ひとりで引き受けきれるという確信めいたものがあるように思えます。仮にも官僚組織のトップクラスの人ですから、特捜捜査の手の内を全く知らないなどあり得ませんし、大阪特捜の持っている証拠と自分の知り得た情報から、それで乗り切れると読んでいるわけです。

問題は果たして佐川氏は誰に義理立てしているのかということに焦点が合わせられることになると思いますが、政治家に対して官僚がそこまで義理立てすることは考えにくいです。首相は数年、場合によっては数カ月で交代します。近い将来確実に去ることが分かっている人のために自分の人生を棒に振ってまで義理立てすることは通常ないはず。とすると、組織そのものを防衛したいというのが佐川氏の動機ではなかったかと私には思えます。確かに損な役回りにはなったけれど、人生を捧げた組織を守るためならそれでもいいと腹をくくったものと見受けられます。官僚にとってお家とは政府与党ではなく自分の所属する省庁です。

が、しかしです。私は佐川氏には全部首相夫妻が悪いことにするという選択肢もあったはずのように思えます。そのようにして組織を防衛することも可能です。財務省は悪くない、悪いのは政治家だとすることもできたはずです。なぜそちらを選ばなかったのでしょうか。想像ですよ、想像ですが、財務省は政治家の圧力に屈するような集団ではないということを示したかったのではないかと思います。財務省を防衛するという動機があったとして、誰から守るかと言えば政治家です。財務省を動かし得るグループが存在するとすれば、それは政府与党以外にはあり得ません。もし安倍首相夫妻の圧力に屈したという筋書きで証言すれば財務省はチョロいということになってしまいます。与党リフレ派が勢いを得て突き崩しにかかり、消費税の増税ができなくなるかも知れません。しかし、財務省はチョロくない、政府与党が圧力をかけても我々は屈しないということを言外に示したのではないでしょうか。言い換えれば、財務省が政治に屈する前例を残さないことを優先したとも言えます(あー、最初からそう書けばよかったのか…)。

いずれにせよ、安倍首相夫妻に関しての疑惑は大山鳴動して鼠一匹。もちろん絶対は絶対にないわけですし、意見交換がなされたに違いありませんが、今回の場合は推定無罪を適用せざるを得ません。一方で、財務省が絶対に明かさない何かがあるという点では疑惑が深まったとも思えます。それについては司法の手に委ねられるわけですから、裁判が進めば明らかになってくるかも知れません。

全て私の想像ですからね。


ハンナ・アーレントとアイヒマン



ハンナ・アーレントと言えば『全体主義の起源』という著作が大変有名です。反ユダヤ主義が如何にして台頭したかを分析し、更にそれが如何にしてナチズムと結びついたのかを大衆の心を見据えつつ分析を加えた大著です。

ナチズムによるユダヤ人迫害、ホロコーストは大変に重い問題ですから、慎みのある態度で向かい合うべき事柄です。アーレントはかくも重大な事態を招いたことの大きな要因として大衆の思考の停止を指摘しています。近代市民社会は各市民の自発的参加を前提としています。近代以前の王侯貴族が意思決定をし、大衆は搾取の対象でしかなかったのに対し、革命によって王侯貴族の支配を打破した近代市民は自らの生命財産を守ると同時に社会の秩序を維持するために政治に参加して意見を述べ、時には論争し、義務や責任の履行が求められます。

しかし「大衆」ですから数が多すぎ、政治に参加できていると自覚できるとタイプと、所詮私は小市民、何を発言しようと誰も耳を傾けてはくれないし生命の確保はできるとしても、大した財産があるわけでもないという無力感を感じるタイプに分かれていきます。無力感を感じる人たちの方が近代社会ではもしかすると多数派なのかも知れないですが、そういう人たちは思考停止に陥り、自分に代わって考えてくれる人、または分かりやすい言葉を使ってくれる指導者に導かれたいという望みを持つようになるとアーレントは指摘します。アーレントはこのようなタイプの人たちが分かりやすい言葉で方向性を指し示してくれるアドルフヒトラーに魅せられたと分析しているわけですが、この分析はエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に近いものと言っていいかも知れません。

『全体主義の起源』という大著を著した後、世界的に注目されたアイヒマン裁判が始まります。彼女もアイヒマン裁判をよく観察し『エルサレムのアイヒマン』という著作を著します。命令に従い義務を履行しただけだと主張するアイヒマンの姿は、いわば『全体主義の起源』で指摘した、思考を停止した人の個別具体的な一例であったということになるかも知れません。

彼女はアイヒマンにはたまたまアドルフヒトラーと同時代にドイツに生まれたことにより、たまたま人道に反した義務を課せられた不運があったという趣旨のことを述べ、受け取り方によってはアイヒマンの主張には一理あるという意見になるわけですが、結論としてはそれでも悪に服従したことの罪によって死刑にならなくてはならないとしています。ただし、絶対悪であるはずのナチス幹部に一理あるかのように受け取れる言論は激しい批判を浴び、彼女は多くの友人をなくしたと言われています。

現代人の価値観から言ってナチズムを肯定することはできませんし、ファシズムに加担することはできません。しかし同時に、或いは自分がアイヒマンの立場に立った場合に抵抗できるかという自問も必要なことかも知れません。日常生活の中で見て見ぬふりをして見過ごす問題は数多く存在しているかも知れず、多くの人はそれはともかく日々の自分の責務を果たすことを優先せざるを得ないのではないかと思います。私ももちろんその一人です。ナチズムを正義だと信じて行動した人が多くの人々と、現代の価値観が正義だと信じて行動する我々に大きな相違はないかも知れません。書いてるうちに堂々巡りの袋小路に入りそうになってきたので、そろそろやめておこうと思いますが、上に述べたような自問は忘れるべきではないでしょう。人は常に過ちを犯す可能性がありますが、私は正義を遂行している思った時、それが本当に正義なのかを立ち止まって考える作業をすることで少しは過ちを少なくすることができるかも知れません。アーレントの議論はナチズムという過去の出来事を扱ったものではあるものの、現代人にも直接関係するものではないかと思えます。

谷崎潤一郎『小さな王国』から、お金について考える

谷崎潤一郎の短編に『小さな王国』というものがあります。東京育ちの主人公は学者を志してはいましたが、生活のために学者に専念するわけにはいかず、小学校の教師になります。結婚し、子どもも生まれ、家族が増えていきますから、お金がどんどんかかるようになります。もちろん俸給は上がっては行くものの、物価の上昇もあって東京ではとても生活が維持できないと考えた主人公は北関東の某所で教師の職を得て移り住みます。

さて、主人公は小学校で沼倉という少年に出会います。第一印象はあか抜けない、田舎の普通の少年という感じでしたが、話しをさせてみるとそこそこ頭がいい少年だという印象を主人公は抱きます。主人公が驚愕するのは、この沼倉少年が子どもたちに対して通常ではあり得ないほどのカリスマ性を発揮し少年たちを統率しているという事実を知った時でした。しかもジャイアンのように腕力にものを言わせるわけではなく、沼倉少年は物静かに黙考して筋の通った判断をし子どもたちがそれに従うというわけで、得体の知れない、末恐ろしいような気さえさせる、本物のリーダーの資質を持っている少年だったわけです。

そういう児童が反抗的な場合は教師は手を焼くことになりますが、沼倉少年の場合はそういうわけではありません。聞き分けがよく、教室全体の雰囲気を維持することにも協力的で、少年たちは沼倉少年に服従を誓い続ける以上、彼の命じた通りに教師にとっては実にやりやすいペースで物事が進んでいきます。沼倉少年は様々な罰則を少年たちに対して宣言しており、少年たちは制裁を恐れて沼倉少年に従うわけですが、当該の罰則は沼倉少年本人をも拘束を受けるものであり、あたかも法の下の平等が沼倉少年の指導の下に生まれて来たかのようにすら見えてきます。沼倉少年はなかなかの名君主、または颯爽とした大統領みたいな立場と言っていいかも知れません。

主人公の教師は沼倉少年が協力的で助かるなあとしばしいい気分で過ごしますが、再び驚愕せざるを得ない事実を知ります。沼倉少年が独自に紙幣を発行しているというのです。同じ学校に通う主人公の息子が小遣い銭ではとても買えないようなものを時々買って帰るので、問い詰めると沼倉紙幣を使用しているのだと白状します。現物を見てみると、金額を印刷した紙に「沼倉」という判が押されており、この判が押されていれば有効というわけです。この紙幣は沼倉少年の配下の少年たちの間だけで通用するもので、大人たちには絶対内緒というルールがあり、主人公の息子はルールを破ったことになりますが、万引きしたわけではないということを証明するために洗いざらい吐露したというわけです。放課後になると配下の少年たちは某所に集まり、油屋の息子は家から油を、服屋の息子は家から服を持ってくるという感じで市場が開かれ、沼倉紙幣を使って取引が行われるというわけです。

ここまで来ればもはや国家です。主人公ははてどうしたものかと考えますが、それよりも先に自分の生活苦を考えなければならないという現実にぶち当たります。赤ちゃんのミルクが次の給料日が来る前に切れてしまうのです。主人公は沼倉少年に「先生もまぜてくれないか」と頼み、沼倉紙幣を受け取ります。そしてミルクを買いに行き、そこで、あ、俺は今なんてばかなことをしているんだろうと気づくところで物語は終わります。

この物語の面白さはいろいろなものがあって、例えば沼倉少年というある種の天才を如何に描くか、或いは意外と平凡な人生を送ってしまったと思いつつ惰性で生きている主人公に焦点を当てるかということでも違ったおもしろさが見つかるでしょうけれど、ここでは沼倉紙幣について考えてみたいと思います。

お金には実態がなく、中央銀行が適当に出している紙でしかないことは、議論の余地がありません。もちろん信用ある国家の発行する通貨には相応な信用がつくわけですが、金本位制の時代のように、完全に担保されているわけでもありません。日本円が日本で流通できるのは、みんなが10000円札という紙に価値があると合意しているからに過ぎず、これはドルであろうとポンドであろうと人民元であろうと違いはありません。そのように考えると、沼倉紙幣は沼倉少年に信用がある限り、少なくとも沼倉信者にとっては実質的に価値があると認めても一向に差し支えないのではないかという気がしてきます。もちろん、沼倉紙幣には弱点があって、それは紙幣と交換し得る物資はその紙幣共同体に参加する少年たちが家から持ってくる(言わば、輸入)に頼らざるを得ません。ましてや沼倉紙幣は大人からの信用はありませんので、円との互換性もありません。従って、闇経済化せざるを得ないという面はあります。しかし、市場が立ち、やがて自分で生産して沼倉紙幣と交換する人物が現れれば、当該の紙幣は円との互換性がなくとも信用を維持しやすくなり、更に発展すればやがては誰もが認めるようになって円でもドルでも交換できるというところまで発展したとしても、それは現実的ではないかも知れませんが論理的にはあり得るわけです。ビットコインと同じです。岡田斗司夫さんの提唱する1オカダも同じような感じだと思います。

この作品が世に出たのが1918年ですから、現代とは違い金本位制が根強く支持されていた時代です。このような時代によくもまあ、通貨は発行したもの勝ちみたいな発想の作品が書けたものだと驚くあまりですが、1917年にロシア革命が起きており、世の中には社会主義や共産主義という新しい価値観が今後どのように広がるのか、全く無視することもできないという空気があったでしょうし、アナーキズムもそれなりに流行していましたから、沼倉紙幣が発行されるという発想は、谷崎本人の脳裡にそのような新しい時代の始まり、今までとは違った未来像がふと立ちあらわれて作品化されたのかも知れません。おもしろいお話しです。人間心理という点からも、政治経済という点からも、或いは近現代史という視点からも楽しむことができると思います。
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小池百合子と石破茂と小沢一郎と渡辺美智雄と加藤紘一

2017年秋の選挙期間に突入しましたから、選挙で苦労している人に対して申し訳ないので、揶揄するでもなく、嘲笑するでもなく、真面目に小池百合子と石破茂と小沢一郎と渡辺美智雄と加藤紘一という題で考えたいと思います。

小池百合子さんは選挙後に石破茂さんの首班指名を模索したとの話が飛び交っています。私がもし石破茂さんと親しい関係であれば、断るように進言すると思いますし、多分、石破さんサイドは断っていると思います。自民党でもうあとひきなんだけれど首相になれないという人を引き抜こうとした例としてぱっと思い出すのが小沢一郎さんが渡辺美智雄さんを引き抜こうとした時のことです。一時期、渡辺美智雄さんは乗り気だったようなのですが、小沢さんとの会談予定の前日、眠れないために睡眠薬を使用した渡辺さんが朝起きれずに会談に遅刻。小沢一郎さんは予定通りに現れないのならそれまでよとピーターパンのステージを見に行ったということがありました。

小沢一郎としては渡辺派の人数が欲しかったし、渡辺美智雄さんとしては、自民党を割って出てでも首相になりたい、健康状態がよくないので今しかないという追い詰められた状態でしたが、互いに利害は一致していたとも言えます。しかし、小沢一郎がピーターパンを優先したことや、渡辺派からついてくる議員があまり多くないということで、相互の関係がぎくしゃくし始め、渡辺さんも意欲をなくし、この話はお流れになったと記憶しています。

小池百合子さんは石破茂さんに同じ手口で仕掛けたということになりますが、最近の小池さんは策士策に溺れる感が強く、今回の選挙では希望の党は必ずしも有利とも言えないようです。

さて、首相になりたくて反乱を起こした人物と言えば加藤紘一さんです。森喜朗首相の不信任決議案に賛成する構えを見せ、加藤紘一待望論が出たらそこに乗るようにして首相になるつもりだったのが、果たせませんでした。涙を拭おうともせずに自派の議員たちに敗北を告げる場面は今も鮮やかに脳裡に浮かびます。この時、「あんたが大将なんだから、あんたが行けと行けばみんな行くんだ」と励ましたのが谷垣禎一さんでした。

日本の議会制民主主義でやっかいなところは、建前では政策を同じくするものが集まって政党を作ることになっていながら、現実には権力を得るための合従連衡、個利個略が優先されてしまうことです。加藤紘一さん、渡辺美智雄さんにはある種の悲劇性がありましたが、それも政策よりも権力を優先しようとしたからとも言えます。いっそのこと党議拘束というのをなくしてしまえば、そのような悲劇も少しは減るのではないかという気がします。

リチャード・ストーリィ『超国家主義の心理と行動』の日本帝国滅亡必然説

リチャード・ストーリィなる人物はイギリス生まれの学者さんなのですが、過去、日本がなにゆえに帝国主義に邁進し、滅亡したかを実証的に研究したのが『超国家主義の心理と行動』という著作です。原文の英語のタイトルは「Double patriot」となっていますが、ここで言うダブルとは二重という意味ではなくて、二倍という意味、普通より二倍の濃さを持った愛国主義というイメージなのだそうです。

玄洋社の頭山満のような、アジア主義者が民間で広がり、彼らが軍人とつながって拡大主義が台頭するというのを延々と様々な資料を用いて述べています。『西園寺公望と政局』のような資料も用いていますので、日本人であれば彼の研究を後追いして裏取りをするのも可能と思います。

面白いのは226から日中戦争あたりの記述で、重要なファクターとして石原莞爾が登場します。226事件皇道派が一掃された後に、石原莞爾が陸軍の大物たちを裏で操り、対ソビエト戦に備えた国家構想を抱き、実現しようとしていた一方で、陸軍内部では統制派が登場し、彼らが日中戦争にのめり込んでいきます。いつ、どこで誰が何を話し合ったのかを克明に再現しており、研究というよりは取材の集積みたいになっています。

当初は民間の運動に注目していますが、後半はほとんど政治の中枢、政局のドラマで、ナチスと同盟をしたいグループとそうでないグループとの相克、昭和天皇が狂信的愛国者を嫌っていたという点で狂信的愛国者は大きな矛盾をはらんでいたが、木戸内大臣が昭和天皇さえ守ればいいという覚悟で彼らを適当にスルーしていく様子、政治家たちが暗殺を恐れて軍をコントロールできなくなる様子等々が非常に詳しく書かれています。記述は真珠湾攻撃の直前までなされていますが、日本は北進論と南進論で分裂したいたものの、北進すればソビエト連邦との戦争は必至、南進すればアメリカとの戦争は必至、どう転んでもナチス滅亡も必至だったため、対ソ戦であろうと対米戦であろうと「日本にとって破滅に終わるという点で、まったく変わるところはなかったのである」と書かれています。滅亡まで「国家主義運動は走り切った」とも書いてあるため、一旦暴走した愛国主義は滅亡まで突き進むしかなかったのだと言うことも示唆しています。

特徴を上げるとすれば、原則として東京裁判で事実認定されたことをベースにしており、そういう意味では昭和天皇に対してはあまり批判的ではなく、一方で軍や愛国主義者に対しては冷たい視線が維持されています。ヨーロッパ人が日本の軍国主義を書くとどうなるかということがよく分かる一冊と言えます。

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エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』とナチズム

アメリカは北朝鮮と戦争しない【予測】

今日は2017年9月1日です。昨日、voice of Americaの中国語版を見ていたのですが、北朝鮮のミサイルが日本の北海道を飛び越えて太平洋に落ちたこと、日本の反応、更には今後の日本の軍事力の強化の可能性などについて議論していました。

voice of Americaがアメリカのプロパガンダメディアであることは言うまでもないことですが、このメディアでこういった話題を取り上げて議論する背景には何があるのでしょうか。当該の番組では日本の軍事費が増加傾向にあること、しかし日本には憲法上の制約があること、更に靖国神社の話まで話題が及んでいました。現行憲法と過去の戦争に対する反省が日本にとって呪縛なのか歯止めなのかはともかく、軍事に関して日本にできることには限界があるということには異論のある人はあまりいないと思います。

voice of Americaを時々見る限り、わりといけいけというか、俺たち、ちょー西側、自由と民主主義を守る感満載なわけで、こういった場合はどちらかと言えばタカ派的な意見を前面に出すことが多いため、通常の感覚なら北朝鮮のミサイル発射に対して米軍はどうでるかというところに焦点を当てそうなところですが、日本の軍事力に焦点を当てているということは、アメリカ軍が本気で北朝鮮と事を構えるつもりはないということを意味しているように思えます。で、日本には上に述べたような制約があるということを確認しつつも、東アジアの自由と民主主義の価値観を守るためには日本に仕事をさせたい、日本に分担してほしいというのが当該のメッセージではなかったかと私には思えます。

北朝鮮がアメリカに直接撃ち込むという自殺行為をするとは考えられませんから、アメリカ軍が手を出さない以上、戦争にはならないと見るのが妥当ではないでしょうか。朝鮮戦争以来、アメリカでは日本の再武装を望む声は決して小さくなく、日本人は真面目ですから使い勝手のいいアメリカ軍東アジア支部として日本の軍事力を使いたいはずです。その一方で繰り返しになりますが上に述べたような制約があるわけですから、二律背反な状況が過去数十年続いていたと言ってもいいかも知れません。これから日本は北朝鮮のミサイルの重圧を受けながら生きて行くのかと思うとかなり気が重いですが、かといって戦争になれば下手をすれば数百万人のマスマーダーになってしまう恐れもあるわけで、簡単に「やっちまえ」と言う勇気も私にはありません。

いずれにせよ、短期で解決する問題ではなさそうなので、じっくりと構えて成り行きを見守るしかないようです。

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昭和史29‐総力戦と経済

とある情報機関の発行する機関紙の昭和13年9月1日付の号では、総力戦に関する国民の心構えみたいなことが書かれてあります。有名な「ガソリンの一滴は血の一滴」という言葉も入っています。

で、もう少し詳しい内容を読んでいくと、物資の節約、華美な生活の改善(たとえ結婚式でも地味にやる)、廃品のリサイクル、生産の増進、物価高騰抑制への協力(日本帝国が軍需物資を買いまくって物価高騰しているが、それではせっかく増税したり国債を売ったりして集めたお金がインフレで吹っ飛んでしまうので、国民は我慢せよ),貯蓄の奨励(金融機関に入ったお金は国債の購入に充てられる)というようなことがずらずらずらっと書かれてあります。昭和13年9月の段階でこれですから、昭和16年に入ってよくもまあ、アメリカと戦争する決断ができたものだと驚くしかありません。おそらく当局者があまりに細部にこだわりすぎるようになってしまって大局を見誤り、いわば自殺行為に走ってしまったと考えてもいいのではないかという気がします。

これまで当該の機関紙を読み進めてやたら目に留まるものとして、政府が「金」(おかねではなくて、物質としての金)を集めるのに熱心だったという点です。金本位制の神話がまだ根強かったこともあったでしょうし、実際に日本政府当局者が金が値上がりすれば売り、値下がりすれば買うを繰り返して外貨を獲得して戦費に充てていたということもあったようなので、金塊にはそれだけのパワーがあったと考えていいのかもしれません。ついでに言うとそれだけ金塊を集めていたからM資金みたいな都市伝説も生まれるというわけです。最後のページには郵便局で国債を買いましょう!という大きな広告も載せられています。飛行機の絵がいっぱい書かれてあって、当時既に戦争の主役が飛行機になっていたことが分かります。前回紹介した『海の護り』という映画でも軍艦ではなく飛行機が描かれていますから、日本軍は一部で言われいるような旧態依然とした大鑑巨砲主義に陥りすぎていたという指摘はもしかすると当たらないかも知れません。

更には国民の健康増進のために行軍の練習をさせる予定に関する記事も載っていましたから、物心両面、更には人的資源に至るまで、総力戦に邁進していたことが分かります。

どうしても理解できないのは、どうしてそこまで蒋介石と戦争したかったのかがやっぱり解せないということです。そこまでやらなければならないという必要性を感じることができません。多分、当該機関紙を最後まで読んだとしてもこの疑問は解決しないのではないかという気がします。

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東京都議会選挙は都民ファーストの会が圧勝するような気がする(予測)

ただいま、2017年の6月30日です。7月2日の東京都議会選挙の投票日まであと2日となりました。

選挙で苦労している人たちに対して申し訳ないので、あんまり辛辣な書き方や上から目線な書き方は避けたいと思いますが、なんとなく、都民ファーストの会が圧勝するような気がします。どこかのメディアがそう言っているとか、そういうことではなくて、なんとなくそう感じるのです。

というのも、私自身が都内を歩くときに街宣車が通ることに気づくと、つい「あ、都民ファーストの会かな」ということがふと頭に浮かぶのです。おそらく私だけではなく、多くの人が同じ感覚を持つのではないでしょうか。私個人が小池百合子さんを応援しているとか、していないとかいうのは関係ありません。選挙についてブログで書く以上、不公平なことはしてはいけないと思いますので、敢えてどこかに肩入れするようなことは避けたいという思いもあります。ただ、「あ、都民ファーストかな」という感覚をつい抱いてしまうということは、都民ファーストの会に対して興味津々で、応援したいかどうかは関係なく、印象がめちゃめちゃ強いということだけは確かと思えますし、強く印象に残っているということは投票行動にも影響するのではと思えます。

東京都知事選挙では小池百合子さんが勝つだろうと予想し、そのことについては個人的な満足はあるのですが、イギリスのEU離脱については予想を外し、トランプ大統領の誕生の件でも予想を外していますので、今回も戯言の範囲にはなってしまいますが、まあ、一応、予測して、近く結果が出ますから、予測を当てたか外したかを確かめたいと思います。

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