外出中の喫煙は一切しなくなった

禁煙努力を少しづつ続けていますが、最近は外出中は一切喫煙しなくてもよくなりました。タバコとライターがポケットに入っていないことに慣れてきて、喫煙所に立ち寄りたいとも思いませんし、大学で授業をする前後もタバコの必要を感じなくなりました。

自分でもここまでこれたことには驚きです。進歩したと思い、すなおに喜びたいと思います。

問題は自宅にいるときです。自宅にいるときはどうしても気が緩んでいますし、自宅は自分の思い通りに過ごしていい場所ですから、喫煙衝動を我慢するには現状ではまだ限界を感じています。

タバコを吸いたくなったら深呼吸するか水を飲むという手段があるのですが、やはりまだ「ま、いいじゃないか」という心の声が響いてきてしまいます。それでも以前は就寝前と起床後はかなり吸いたい放題吸っていたのですが、数日前から起床後の喫煙はしなくなり、もしかしたら就寝前にリラックスしてぱーっと吸うというのも今後はなくなるかも知れません。自宅で根気が必要な作業を終えたときや食後にかなり吸いたくなり、今は我慢できずに吸ってしまっています。

ただ、タバコは一生辞められないという自己洗脳は解けつつあるように思いますから、今後は食後と作業後の喫煙衝動をいかにしてスルーするかが課題になると思います。タバコとライターは引き出しの中に入れてあって、衝動的には吸わないように工夫はしています。

アレン・カーの『禁煙セラピー』を読み、それはそれで納得できたものですから一機に量を減らすことはできましたが、まだあと一歩といったところです。喫煙の機会が極端に減りましたから、タバコを吸うとクラクラして頭痛がします。いい傾向です。以前のようにタバコを吸って気持ちが充実するということはありません。完全にタバコを吸わなくなる日は近いと信じて、取り組みたいと思います。

タバコは頭痛の原因になりますし、税金のかたまりなのです。それをしっかり自分に教え込むつもりです。タバコを吸わない方が気持ちいいのです。絶対。

タバコを吸わないと「気持ちいい」と自己洗脳する

最近はタバコをやめることばかり考えていて、どのようにすれば無理なくやめられるのかが課題になっているのですが、最終的には自分をどうやって説得できるか、というところにかかってきているように考えるようになっています。

数日前、「タバコは税金のかたまりだからな…」と思うようになり、不必要に余分な税金を払うことは頭に来ますから、タバコは税金のかたまりだと思うことは多少の効果はあるように思いました。しかし、それは喫煙することのデメリットなのであって、喫煙しないことのメリットまでは言い難し…とも思っています。金銭の面を考えれば喫煙しないことは確かにメリットなのですが、精神の面からも喫煙しないことのメリットがほしいところだなあと思っていて、なかなそこの自己説得材料を見つけることが難しいと感じていました。

で、今日なのですが、自宅で作業したりyoutubeみたりするなかで、三回くらいタバコを手に取り、「ちょっと吸わないでみよう」と思ってタバコを手放すというのをやってみたのですが、これがちょっと気持ちいいのです。「自分はタバコをそこまで必要としていない」「自分は喫煙衝動を多少スルーできる程度には強い人間だ」という自己肯定感を得られたのが大きいかも知れません。

あと、多少の矛盾をはらむのですが、脳が疲れているときにタバコを吸うと、一時的に疲労感を抑えることができますので、有効な嗜好品だということに疑いは持っていないのですが、タバコを吸わない場合もちょっと頭がすっきりするというか、それはそれでもやもやが晴れるような感覚がなくもないのです。タバコには風邪薬を飲んで風邪の症状を抑えたはいいけど、副作用で眠くなる。みたいなところがおそらくあって、タバコを吸わないでいると、喫煙のメリットは享受できない反面、副作用のようなものも絶対にないわけです。タバコを吸うとリラックスできますが、多少、頭脳がぼやっとします。頭脳をぼやっとさせて休ませるのがタバコのいいところではありますけれども、なるべく脳がぼやっとしない方がいいとも言えますし、最近は徒歩や少食、断酒などを通じて脳をしゃきっとさせることができるということへの気分の良さを知ってしまい、もっと脳をしゃきっとさせたいというようなことを追求したくなってきていますので、そうかタバコを吸わないと脳がしゃきっとするよなあ、それって気持ちいいよなあ。というようなことに気づくことができましたから、これを自分に説得材料の一つにして、自分をよく洗脳し、非喫煙者への道しるべとしたいと思います。壁には「タバコを吸わないと気持ちいい」と書いて貼ってあります。がんばります。

タバコは税金のかたまりである

現在、タバコを辞めるための理由を見つけ出しては自分を説得するということをいろいろ考えています。タバコは好きなのですが、やっぱりそろそろタバコはご時世的にやめたほうがいいだろうと思うからです。

ですが、なかなか見つかりません。一番の原因はタバコを吸うと太るという不安があって、太るくらいならタバコを吸った方がいいと思ってしまうからです。タバコのにおいはくさいという人がいますが、私はそう思わず、「良い香り」と思ってしまいます。喫煙所でもうもうと舞う副流煙も別に全然嫌だとは思いません。しかし、タバコをやめる合理的理由がほしい…そのように悶々とする中、一つ、タバコを辞めるいい理由が見つかりました。タバコは税金のかたまりだということです。原価やタバコ会社の利益、税金との割合について詳しいことは知りませんが、間違いなく、半分以上は税金で持っていかれているはずです。

生鮮食料品を買うのでさえ税金をとられる昨今、「喫煙者からはいくらでも税金とってもいいよね」という風潮には頭に来ます。きちんと納税していますから、喫煙者だからというだけで更に税金を払わなくてはいけないということは耐えがたい…と私は気づきました。

これはいい理由です。しかも法律違反するわけでもありません。そうだ、タバコは税金のかたまりなのです。喫煙者に対してのみ、不公平と思えるほどの重税が課されている。そのような差別的重税とは戦わなくてはいけない。よし、タバコを吸わないことで税金を払う金額を抑えるぞ!と私はこれから毎日唱えたいと思います。あー、やめられるのかなあ…

京都の天津神社でおみくじをひいた話

数多ある京都の神社の中で密かに人気を集めている小さな神社に天津(あまつ)神社があります。おみくじが良く当たるとの評判ですので、私も一度行ってみたいと思っており、今回の関西旅行で訪問してみました。場所は北野天満宮と平野神社の間あたりで、京都市を仮に四角い将棋盤のようなものだと仮定すれば、正面向かって右手の上あたり、要するに北西の位置にあります。

少し緊張して門をくぐったところ、人影もなくおみくじがひける場所がどこなのかもよく分からず、ちょっと怯んでしまったのですが、建物から神社の関係者と思しきおばさまが出てきてくれました。神社と言えば男性の神主さんというイメージが強いですから、おばさまが出ていらしたことに多少の驚きはありましたし、おばさまは普段着ですので、全く神社らしい印象は受けません。しかし「おみくじですね」と言われ「はい」と答えると親切な雰囲気で畳の上へあがるようにと促してくれました。

畳の敷き詰められた広間の奥に神棚があって、そこに座り二礼二拍手一礼するようにと指示を受け、その通りにすると目の前にガラガラっとふってくじを引くタイプのおみくじの箱があって、おみくじを引いてくださいと指示を受けます。おみくじの箱の隣にはお札がたんまりと積んであり、「相場は1000円以上」ということが分かるようになっています。

おみくじをひくとその言葉を紙に書き留めることができるようになっており、私も書き留めて帰りました。おみくじのお言葉は「縁ありてこそ 信仰に入りぬ よろこんで幸運を守りもらへ」というものでした。神社の方のお話によると、「縁」とは人のことであり、「信仰に入る」とは、縁のある人と人間関係を結ぶという意味なのだそうです。即ち縁のある人に対して感謝すれば、神様はますます守ってくださるということなのだと解説していただきました。大事なことは「悪縁」も縁であるということで、悪縁からも学べるとおっしゃっていただきました。「我以外、みな師なり」と言ったところでしょうか。

私個人にとっては金言です。私はブログをこつこつやるようなタイプですから、人見知りが強い、どちらかと言えば人間嫌い、嫌いな人や苦手な人に合わせていくことができません。嫌いになったらとことん忌避する傾向があります。おみくじにはそこを言い当てられたという感じがしましたので、「良く当たる」と評判の天津神社のおみくじは私にも当たっていたと思います。財布を取り出し「一万円札しかなかったらどうしよう、九千円のお釣りをくださいとはいいづらい…」とちょっと心配でしたが幸い千円札がありましたので、それをお札の束の上に追加して「ありがとうございました」とお礼を述べて立ち去りました。

私の想像になりますが、天津神社のおみくじは全て金言で、誰にでも当てはまる内容のものなのではないかと思います。人には必ず足りないものや、まだまだ人間ができていないという部分があります。そして、貪欲だったり怠惰だったり性格的にねじれていたりというのはある程度誰にでも共通するものですから、どのおみくじをひいてもそれは「当たっている」と言えるのではないかと思います。

とはいえ、だからといっておみくじにご利益がないかと言えばそういうわけでもないと思います。わざわざ京都まで足を運び、更に地図みながら歩き尋ねて神社を訪れ、慎んだ気持ちでくじをひくから心に言葉が響くのではないかと私は思います。ですので、どの言葉をひいてもそれだけの値打ちがあると思えばいいですし、どの言葉をひいても必ず人生の役に立つとも思います。いずれにせよ、私の人生の課題とも言える「人嫌い」を一発でひいたわけですから「天津神社のおみくじは当たる!」と感じました。



スキルが身につかない仕事は存在しない

よく言われていることですが、「非正規雇用でスキルが身につかない仕事に就いている人」が大手メディアでは社会問題のように語られています。私にはどうしてもそれが理解できないので、ここで反論を書いてみたいと思います。

それは、果たして雇用形態が如何にあれスキルが身につかないということがあり得るのかということです。私はアルバイトであれ、派遣であれ、必ずなにがしかのスキルが身につくと考えています。たとえばコンビニの例を考えてみましょう。最近のコンビニの店員さんはどこへ行っても親切ですから、接客のための教育が内部でかなり行われているに違いないと私は想像しています。ですので、CAとかホテルとかの仕事に就いていないとしても、コンビニで接客を学ぶことは可能です。更に、コンビニに行くとキャンペーン的なことが行われていますし、言うまでもないことですが消費者がより沢山の品物を手にするよう、関連商品を並べて置くなどの工夫がなされています。利用者である私ですら気づいているわけですから、アルバイトで働いている店員さんが気づかないはずがありません。たとえ言われた通りにやっているだけだとしても、自然と気づいてくるはずです。セブンイレブンやファミリーマートなどの大手コンビニ業者が知恵を尽くして考え抜いたマーケティング戦略の現場の最前線がアルバイトの人たちです。初めのうちは分からなくても、だんだんマーケティングに関する現場の知識が増えていきます。コンビニがどのようにして運営されているのか、仕入れ、配置など学べることが山のようにあるはずなのです。ですから、コンビニの店員さんをしている人にスキルが身につかないということは原理的にあり得ないのではないかと私には思えます。

さらに言えば、コンビニの店員さんを続けている人は社会的な信用という点で劣っていると言えるのでしょうか?もちろん一部上場企業で働いている人の方が銀行からの融資は受けやすいでしょう。しかし、コンビニの店員さんを10年続けている人がもしいるとすれば、その人はコンビニ運営の隅々まで知り抜いている人のはずですから、将来何らかの実業を始めたいという時にコンビニで店員さんをした経験が生きないはずがありません。仕事力としては当然信用があると思いますし、少なくとも「スキルが身につくとはっきり言える仕事以外はしたくない」と思ってひきこもっている人よりははるかに社会的な信用もあると考えるべきです。仮にそう考えない人がいるとすれば、それはそう考える人がコンビニの店員さんを見下しているのです。

コンビニの店員さんだけではありません。肉体労働をする人、工場で派遣労働をする人など、全ての人にそれは当てはまると思います。必ず何か学ぶことがありますし、実際に業務を経験しているということは何物にも勝る武器であると私には思えます。もちろん、今後はAIが多くの仕事を奪っていくとも言われていますから、それについてはベーシックインカムで対応すべきだと個人的には考えていますが、たとえそうであったとしてもAIに指令を出すのは人間なのです。そして今、まだAIはそこまで進化していません。今後、5年、10年先の本格的なAI時代を迎えるに当たり、AIに適切な指令を出すことができる人は、それまで何かしらの仕事をしていた人に違いありません。ここに異論のある人がいるとは私には思えません(異論があってもいいですよ♪)。

私がなぜ、このようなことをここで述べているのかというと、「非正規雇用のまま40代になってしまったロストジェネレーション」を憐れむ声がばかりが世の中に広まっており、もはや手遅れ、ごめんなさいあなたの人生はあきらめてね。的な内容のものがあまりに多いからです。

ロスジェネであろうと新卒であろうとシニアであろうと、私はあらゆる人に可能性があると信じています。もっと幅の広い、よりよい人生を得る可能性は誰にでも、充分にあるのだということを示したくて、ここで述べてみました。特にひきこもってしまった人、非正規で長くやっていて「どうせ自分は…」と思っている人に、人生は様々な可能性に満ちているということを伝えたいです。ひきこもっている人は、いきなりアルバイトはきついでしょうから、ボランティアから始めてみるのも手だと思います。半年一年続けていれば、ボランティア関係者から信頼を得られます。まじめにボランティアに長期かかわってくれる人はそう多くないので、運営サイドにとってはありがたい存在なのです。その人たちのネットワークから、やがて自分にちょうどいいアルバイトを紹介されるかもしれません。そして、ボランティア経験が評価されて簡単なアルバイトに採用され、やればやるほどスキルが身に付き、10年後、20年後にはビジネスオーナーになるというのは合理的です。不合理的でも絵に描いた餅でも空想でも妄想でもありません。

一つだけ注意しなければいけない点は人生には波があるということです。いい時と悪い時は交互にやってきます。悪い時期に入ったとき、「どうせ自分は…」と投げ出さないことです。一時撤退、戦線後退、なにがしかの潮時みたいなものはあるでしょうけれど、嫌になってしまうようなことが起きたときに退場してはいけないということだけは注意しないといけません。退場してしまえば、またゼロからのやり直しです。リングの上に上り続けること、たとえそれがどんなに小さなリングでも、どんなに安いリングでもリングの上に居続けることによって人生には次のステップが用意されていきます。私も時々嫌になって今の仕事を辞めたくなります。しかし、上に述べたような考え方を持っていますので、投げ出さずにリングにしがみつき、試合を継続しています。



「関西帝国」の復活を感じた件

桜の季節になったものですから、思い切って鎌倉、京都、奈良、更に大阪を歩きまわってみることにしました。歩くのが好きなものですから関東と関西の景勝地を一挙に見てしまおうという、わりと無駄に労力を使うことをしてみたわけです。鎌倉はともかくとして、関西をこれほどじっくりと歩いたのは10年ぶりくらいのことです。

気づいたのは関西地方はやはり値打ちのある凄い地域だということでした。かつて故中島らもさんが『西方冗土‐カンサイ帝国の栄光と衰退』で、関西地方の凋落ぶりを相当に嘆いていました。というのも、関西地方は確かに人口も多く、経済規模も大きいのですが、人の動態のようなものを見ると地縁血縁でだいたいのことが決まっていく田舎体質であり、東京への対抗意識は強いものの、東京に負けていることは分かっていて、しかしそれを認めようとせず、「関西の方がうどんがおいしい」という何の役にも立たない慰めを並べ立てて自己変革しようとしないというのがらもさんの持論であったと理解しています。

さて、今回改めて関西地方をよくよく歩いてみて、神社仏閣の見事さには目を見張るものがありました。これだけの世界遺産級の建築物が集中している地域というのは世界的にも珍しいのではないでしょうか。驚いたのは観光客の多さです。もちろん、10年前にも関西地方の観光客は多かったですが、桁が違うという印象です。着物レンタルが流行していますから、外国人の観光客が大勢、和服姿で歩いています。中国人や韓国人はもちろんですが、白人の姿も目立ちます。確かにレンタル用の着物は化学繊維でちょっと安っぽいですが、そもそも凋落する一方だった和服産業はこれでそれなりに潤っているはずです。

特に驚いたのは奈良です。以前に奈良を訪問した際には観光客はいるものの全体的にまばらであり、マニアが敢えて訪れる観光地といった印象が強いものでした。ところがどっこい、今回訪れてみると観光客がいるわいるわ、鹿にせんべいをあげるという奈良独特の体験型観光が世界の観光客に受けているらしく、国籍問わず中国人もアメリカ人もフランス人も鹿せんべいを買っています。また、個人的には奈良市街地から東のエリア、興福寺、東大寺、界隈の立派さ、見事さに感嘆せざるを得ませんでした。1000年以上も前に相当な都市整備が行われたということの斬新さのようなものを実感させられたというわけです。商店街も歩いてみましたが、10年前はゲームセンターかマニア向けの古美術の店くらいしかなかったのが、観光客向けのレストラン、ショップが立ち並び、全体に歩いている人のボリュームがぐぐっと上がっています。奈良を歩いた時、原則全員関西弁だったのが、行きかう人の話す言葉に慎重に耳を傾けてみたところ、標準語を話す人の数もなかなかなもので、かつてマニア向け地方都市だった奈良が、国際観光都市に大きく飛躍していると結論せざるを得ませんでした。

大阪は10年前とさほど印象は変わりませんでしたが、より観光客向けにカスタマイズされている感が強かったです。関西は世界の観光客を集めることで生き延びると腹をくくったと私には感じられました。考えてみれば、現代的でクールな都会的な雰囲気を大阪で味わい、ちょっと足を延ばせば世界遺産級の建築物が密集している京都があり、鹿にせんべいを食わせることができる奈良があるという意味で一回の訪日で日本のハイライトみたいなところをぐっと体験できる関西地方は観光地としては非常に恵まれた地域なのは当然のことです。以前勤めていた会社で「関西地方はもはや復興不可能なのではないか」と言っている人もいましたが。そんなことは全然ありません。世界に対する集客力という点では、関東が大都会東京+その延長線上みたいな横浜、ちょっと歴史ある鎌倉というラインナップなのに対して、大都会大阪+京都・奈良というラインナップの方が魅力的なはずです。高層ビルを見たいという人には東京よりも上海やドバイの方が魅力的に映る可能性もあり、東京ディズニーランドが無敵の集客力を誇っている時代がありましたが、今や上海にも香港にもディズニーランドがある時代で、希少性という点で相対的に凋落の兆しを見せています。一方で大阪のUSJはハリーポッターが大うけしているらしく、最近の関西は盛り上がっているらしいと聞いてはいましたが、なるほどこれは本物の波が来ていると大いに納得できました。京都・奈良の建築物の価値は半永久的に認められるでしょうから、長い目で見ると関西地方はなかなかに恵まれているわけで、その真価を発揮していると言ってもいいかも知れません。このように関西の観光産業が発展した理由としては、一つにアジア周辺地域の経済発展を無視することはできません。韓国や中国、台湾の人たちが豊かになり、ヨーロッパやアメリカの人たちよりは日本に対する知識が豊富ですから、日本へ旅行するなら関西をという発想に至りやすいのだろうと思います。もう一つの要因として関西空港の整備が進みLCCの受け入れが容易になったということもあるようです。つい最近まで関西はもうだめだと言われていましたが、ところがどっこい大復活しており、これは日本人全体にとって好ましい現象と思えます。

あと、付け足しになりますが、奈良を歩いて感じたのは、奈良が里として整備された地域であるということでした。車窓から見た印象ではあるのですが、関東地方は人の密集している地域か森林もしくは丘陵地帯なのに対し、関西地方の平地では人がまんべんなく分布して暮らしており、民家と農地がある程度均等に広がっています。自然と人間の開発が一体化した「里」が成立しているわけです。弥生時代からクールな産業であった農業を徹底して推し進めた結果の地域開発の結実と受け取ることもできますから、私はその点でも関西の底力のようなものについて考えざるを得ませんでした。

関西って凄いのね。



昨夜、眠れなかったのでお酒を飲んでしまいました…

断酒を二カ月続けた私ですが、昨夜眠れず、気分も落ち着かず、ついにコンビニへ直行し、お酒を飲んでしまいました。罪悪感や敗北感はひとしおのものがあります。タバコも遠慮なくすぱすぱ吸ってしまいました。

禁欲には波があって当然ですから、そんな日もあるよと受け流せばいいかも知れないのですが、自分との約束を守れなかったという悔しさがあります。

ただ、久々にお酒を飲んでみて、お酒まずい…という感想を持ちました。自分はお酒が嫌いなんだという意識を持つことができたことは、もしかすると長い目で見れば+に働くかも知れません。昨夜は日本酒とウイスキーを買いましたが、ウイスキーに手を付けることはなく、おつまみはナッツでしたから、直接体重に影響するという感じでもありません。でも、悔しい…。

私は睡眠導入剤を使用していて、今、わりと多めに使っているのですが昨日は「ちょっと減らしてみようかな」と思ったのがよくありませんでした。頭ぼんやりして気持ちがわるいのに眠れないという最悪の状態になってしまい、これはもう酒の力に頼るしかないと思ってしまったわけです。勢いに任せてウイスキーに手を出さなかったところは自分を褒めてやりたいところです。

とりあえずウイスキーは冷蔵庫の中にしまい込み、普段は目につかないところに「隠して」おきたいと思います。昨夜レジで買い物したときは金額の高さに驚いてしまい、そうか、自分は最近は節約できていたんだなと実感し、それ以前に夜毎お酒を飲んでいた浪費に思いを致すと冷や汗がでる気分です。ああ、後悔。まあ、二カ月飲んだ後の日本酒(五合くらい飲みましたが)ですから、ただちに健康に影響することはないとは思いますが、今後は注意したいと思います。

外出中の禁煙衝動のスルーに成功

今日は仕事がないのですが、私用で外出することになり、喫煙人生で初めて外出中一切喫煙しないというものに挑戦してみました。やってみると意外と簡単でタバコを吸いたいという衝動もほぼ起きませんでした。途中、一度カフェに入ってコーヒーを飲んだのですが、コーヒーとタバコは相性がいいもののタバコを吸いたいとは思わず、帰宅まで一切喫煙しませんでした。一か月前の私であれば絶対に考えられなかったことですから、少しずつですが、自分はタバコを吸わなくても大丈夫なのだという自信がついてきたのではないかと思います。

毎日ノルマのようにいつもの銘柄をコンビニで一箱買っていますが、若干、余り気味になってきています。いちいち一日の本数を数えるのが面倒なのでざっくりとした目安にするために毎日一箱たばこを余ってくるかどうかを試しているわけですが、今後、更に余ってくることが自分としても予想できるようになってきました。そのうち、気づいたら一日中吸ってない日がある、あー、なんだ、自分はタバコは吸わなくても平気じゃないかと思える日が来るように、一年ぐらいかけて自分を調教していこうと今は考えているところです。

以前、決心してタバコをやめたところ、激しく太ってしまい、その上、抜け毛は増える毎日がストレスに感じるという酷い目にあってしまってまた喫煙を始めたのですが、今から振り返って分析するに、タバコを突然やめたことで体が代償品を求めるようになってしまい、ついつい甘いものに頼るようになり、結果として体が糖質体質になってしまい、この体質が抜け毛につながったとド文系なりに考えています。

以上のようなことが起きてしまった背景には、自分は本当はタバコが好きで、タバコを続けたいのに、タバコを取り上げられてしまったという不満が溜まり、それを自分自身にぶつけるという自傷行為みたいな感じになっていたはずですので、今回はタバコを切り捨てるのではなく、タバコを必要としなくなる、タバコを少しずつ忘れていくというような戦略で臨んでいます。振り向いてもらえない異性を忘れる際、いっきに忘れるか少しずつ忘れていくかの違いのようなもので、私は後者が自分に向いているようです。お酒もやめてタバコもやめて、ゴルフも釣りもやらない私は何を楽しみに生きればいいのかちょっとそこがまだ見つかっていませんが、タバコはやめてしまいたいと思っていますので、当面は完全にタバコの卒業を目指したいと思います。

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脳と自慰行為の関係を真剣に考えた幸福論

六週間ほど自慰行為をやらないという実験的なことを続けていたのですが、夜毎、「今日はもうやってしまおうか、いやもう一日我慢しよう」という自己内対話がぐるぐると回り続け、ここまで思い詰めるのなら、やってしまおう、自慰をするのが普通のことだと考え、昨日、自慰をしたわけです。この六週間、心身の変化は感じてはいたのですが、その効果が断酒によって得られているものなのか、丹田呼吸法によるものなのか、それとも減煙か、自慰行為禁止かの判断がつかなくなってきており、自分の心身への変化も知りたいという思いもありました。ただ、エッチな画像の助けが必要なので、その方面の検索をかけ、画像の力を借りて行いました。動画はなんとか踏みとどまりました。まあ、こんなものかとその瞬間は思ったのですが、減煙中にもかかわらず、昨夜はすぱすぱと吸いたいだけ吸うという感じになり、今朝も吸いたいだけ吸っていることに気づきました。また、驚くべきことにだるいというか、かったるい感じがありました。もうちょっと頭の回転もちょっとだれた感じになっており、学生から外国語に関する質問を受けた際、ちょっとうまく答えられないというがっかりなことすら起きてしまいました。

見た目にも変化がありました。このところ節制を続けていることで(普段は白米もなるべく避けています)、表情に鬼気迫るものがあるというか、良くも悪くも迫力が出ていて、奥二重の目が細い二重になるという謎の現象も起きており、果たしてこれは自慰行為をしないことの効果なのかどうか疑わしく思っていたのですが、奥二重に戻っており、ああ、なるほど、いわゆるおな禁の効果は少しずつ出ていたのだということが分かりました。

心理的にも変化がありました。帰宅中、断酒したにもかかわらず、お酒が飲みたいという心境になったのです。そこは思いとどまりましたが、食事はいつもよりかなり多めでした(今日は担当するコマが3つもあったので、体力勝負ですから確かに、多めに食べる日ではあるのですが…)。

だるい、頭が鈍る、細い二重が奥二重に戻る、食べる量が増える、お酒がほしくなる、タバコの量が増える

と、マイナスなものが一挙に出てきましたから、いわゆるおな禁は効果があったのだということを、今回久々に自慰行為をやってみて知ることができました。

さて、ここで気になるのはなぜ、なぜ、そのようなことが起きるのかということです。以下はド文系の私の仮説です。エッチな画像を見て自慰行為をすると、脳の快楽系の神経に電気が走るはずです。そして快楽系の神経が刺激されると、快楽系は更に刺激を求めるようになり、「もっと、もっと」という信号を出してくるのではないかと私は推論します。お酒がほしくなったり、タバコの量が増えたり、更に食事の量まで増えたのですから、エビデンス面から見ても悪くない推論です。

ここまで考えて、私は脳そのものの機能ということに考えが及びました。即ち「不幸な人は生涯不幸である」ということの理由が分かった気がしたのです。不幸や不満を感じるとき、脳のそれに相当する部分に電気が流れ、刺激されるはずです。不幸を感じる神経系統が刺激されると、活発化し、もっと、もっと不幸を。と本人の意思とは関係なく不幸を求め、結果として不幸な人生になるのではないかと思えるのです。

快楽と幸福は別なものです。快楽の神経系統が刺激されると、脳の当該部位はより強い刺激を求めるようになり、その衝動に従い続けると最悪の場合は身を滅ぼします。一方で幸福の神経系統を刺激することがもし可能であれば、脳の幸福を感じる神経系統がより強い刺激を求めるようになり、結果として幸福な人生を得ることができるという帰結を得ることができました。

さて、オナニーの話題であるにもかかわらず、幸福を得る方法論へと話題はシフトしてきたわけですが、幸福になるためには快楽の神経系統への刺激をなるべく避ける、不幸の神経系統の刺激もなるべく避ける、幸福への神経系統を強めることを意識するべしということになります。この場合の幸福とは、美しい自然を見てそれを美しいと感じる、普通の街の光景であってもそこに幸福の種子を見つける、退屈な人間関係であっても、そこに幸福の種子を見つけるという努力を必要とするものではないかと思います。この努力を怠ると、退屈を埋めるために快楽を求め、快楽追求体質になってしまい、脳の機能の問題として無限に快楽を追及し続け、破滅するということになりかねません。宝くじで大金を当てた人が不幸になるのは、大金がいきなり転がり込んできたことで快楽系統が極端な刺激を受けてとまらなくなり、無駄にジェット機や無人島を買うという愚かしい行為に走り、野垂れ死にしてしまうということではないかとも思えます。

幸福の神経系統が極端な刺激を受けるとすれば、脳が無限に幸福を追求することになりますが、快楽の神経系統が壊れるくらいの刺激が宝くじに当たることだとすれば、幸福の神経系統が極端に刺激されることは滅多にありません。従って日々の生活の中に幸福の種子を見出していくことが幸福な人生を歩む唯一確実な方法ではないかとも思えます。ああ、お日様があって幸せ。月があって幸せ。木が葉をつけていて幸せ。などのようなことに「幸せだ」という反応を示すように自分を訓練し、突き詰めていくと家族がいて幸せ。家族がいなかったとしても孤独なら孤独の楽しみを見いだせて幸せ。今の仕事があって幸せ。仕事がなかったら自分を振り返る時間が持てて幸せ。いい人に出会うと幸せ。頭に来る人に出会ったら、世の中にはいろいろな人がいるものだと知ることができて幸せ、この程度で済んで幸せ。などなど、様々な日々の出来事にああ、幸せ、幸せという認識を持つように自分を訓練していれば、脳の幸福を感じる神経系統が刺激され続け、脳が幸福な人生を創造するということになります。ですから、いわゆるアファメーションで私は幸せだ幸せだと言い続けていると幸せになるというのは全くの嘘というわけではないわけです。私はついてる、私は運がいいと言うと運が良くなるというのも全く間違っているというわけでもなさそうに思います。おそらくは半分はアファメーションなどによって幸福を感じる脳の部位を鍛え、残りの半分は仕事をがんばるとか挑戦するとかという行動が必要なのでしょう。幸福脳を鍛えることと、行動が車の両輪というわけです。

自慰行為を六週間断ってみて、一回やってみたことで我ながら大きな気づきを得たように思います。さて一つだけ心配なのは、使わなければ機能が低下するのではないかということです。機能が低下することを私は望んではいません。真剣ですから、敢えて書きますが男性器は筋肉の部類に入るのか、内臓の部類として捉えるべきかで分かれてくると思います。もし筋肉と同じ性質を持つとすれば、歩けば歩くほど足腰が鍛えられるのと同様に、男性器も使えば使うほど機能が向上するということになります。一方で、内臓と同じだとすれば、お酒を飲めば飲むほど肝臓への負担を大きくし、極端な場合は病気になってしまいます。お酒を飲めばお酒に強くはなりますが、それはお酒に対して麻痺しているだけで、アルコールを分解する肝臓への負担が変わるわけではないでしょう。

経験的にですが、使わなければ退化するように思えます。ド文系の仮説なので、確実ではないのですが、経験的に、以前実験的に毎日のようにしていた頃のパートナーから「大きい」と言われました。毎日は使い過ぎかな…と考えていたのですが、筋肉同様に発達していたと見るべきように思えます。また、六週間全く使わないことで、小さくなったな、しぼんだかもという印象はありましたから、経験的には筋肉と同じもののように思えます。一方で、解剖学的には性器は内臓の一部として扱われるのではないかとも思いますから、私の経験だけをどこまで信じていいか、或いはおえらい専門家の言うことよりも自分の経験を信じるべきか…など、結論は出しかねるところです。

一応、最後に今後の方針のようなものを書いておきたいのですが、ストイックな生活を送ることで心身に良い効果が得られるということはかなりはっきり言えますので、これは続けたいと思っています。自慰行為についてはしばらくまたやめてみて、再び同様の効果が見られるようになってから、画像や動画に頼らず、想像力で行為をしてみてはまた違った知見を得られるのではないかと考えています。エッチな動画や画像を見ることは、依存症のリスクがあり、脳の働きを低下させる恐れがあると思いますが、想像に頼った自慰行為の場合、脳の前頭前野が鍛えられる可能性は残されています。本当にあほみたいなことを真剣に考えて書いていますが、わりと人生の奥義のようなところに近づいている気もしなくはありませんので、ご容赦願います。

禁煙のご褒美を喫煙にしてみた結果

現在、朝最初一本目は吸わないということに挑戦していますが、朝はやっぱりいろいろ考え事をしなくてはいけないことや、起床後しばらく吸わないものの、目を覚ます必要もあって、やはり午前中には何本か吸ってしまいます。とはいえ、喫煙所を意識的にスルーしてみたり、喫煙衝動を時々我慢することによって、喫煙本数は若干下がったと感じます。喫煙してもいい時には気持ちが弛緩していますので、ついつい多めに吸ってしまい、トータルの本数はそこまでは変わりません。今はそれでもいいと思っていて、自分が長時間タバコを吸わなくても大丈夫なのだという自信を持つことを優先し、敢えてタバコを吸わない時間を作るようにしています。

で、もしタバコを辞める決心したら一生タバコが吸えなくなるという飢餓感や喪失感のようなものが生まれてしまい、よけいにタバコが欲しくなるという精神衛生上よろしくない循環に入ってしまいかねませんから、何時から何時までは絶対吸わないとか、出かけている途中は絶対吸わない(仕事を除く)とかのルールを取り入れようと考えていまして、予定通り我慢できたらご褒美にタバコを吸っていいとしてみたらどうなるだろうかとも思ったわけです。今日、大量量販店にいろいろ買いに行き喫煙所もスルーして一本もたばこを吸わずに帰宅しました。当該の量販店に行って喫煙所をスルーしたのは初めてのことです。

帰宅後も別にタバコを吸いたいとは思わなかったのですが、タバコを吸ってはいけないシチュエーションでご褒美のシチュエーションに入ったわけですから、自分で自分を欺くのもよろしくありませんので、ありがたく一本吸ってみることにしました。まずいとは思いませんでしたが、おいしくもなんともありませんでした。味のないガムのような感じでしょうか。クラクラとはしませんでしたが、こんな味のないものを吸っていても意味がない、タバコを持っている手が疲れる。といったようなことを感じました。

お酒をやめた後、タバコはむしろ以前よりもおいしく感じるようになり大切に根本まで吸うようになっていて、ああ、断酒したらタバコがおいしいなあくらいに思っていましたから、ささやかながら大きな変化です。想像ですが、体内のニコチン濃度がある一定の量ある場合、時間とともにニコチンの量が下がってくるのを補給する時にはタバコがおいしいと思う反面、ニコチン濃度がどこかの閾値よりも下がってしまってしまった場合、タバコがおいしいとは思わないものなのかも知れません。今、タバコを吸いたいと言う衝動が来ていますが、一日何回か、自宅での喫煙衝動をスルーするの一環として吸わずにいます。ゆるやかに、ゆるやかにですが、こんな風なことを続けて、ブログに書いたりしているうちに、自然とタバコが必要だと思わなくなるようになればいいなあと思っている次第です。

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