イギリスのEU離脱が決まった件

今、6月24日午後2時過ぎです。イギリスのEU離脱がほぼ決まりのようです。BBCのHPを見たところ、離脱派は100万票以上の差をつけて勝利しています。グラフでは離脱派がちょうど過半数くらいです。残り票を分け合うとしても、離脱多数で決まりです。

YoutubeでBBCのライブを見ていますが、コメント欄は離脱派の勝利の凱歌で溢れかえっています。品の良くないコメントもあります。そういうコメントが書き込まれるのは世界中どこにでもあります。

先日、「イギリスはEU離脱しない」と予想しました。外しました。事前調査で残留派が僅差で有利、出口調査で残留派が4パーセントリードで、それでもやっぱり離脱派が勝つとは…。何故…どうして….。外して恥ずかしいです。自分に対して恥ずかしいです。神様と世間様に謝ります。すみませんでした。

心理的なショックで治りかけの風邪がひどくなってきました。軽く微熱も出ています。今日は夜間の学生に教えに行かなくてはいけません。個人的には寝込んだ方がいいのです。でも、こんなことが起きているのに寝込んでいられません。

BBCのYoutubeライブに拠りますが、スコットランドの独立派の人たちはさっそく、今後は独立の機会を伺うと表明しているそうです。キャメロン首相はスタンドアップコメディの主人公になった気分に違いありません。私は自分でブログに予想を書いて冷や汗をかく愚かなピエロです。

EUの終わりの始まり。エヴァンゲリオンで言えば新劇場版の二作目の最後の場面、赤城博士の「世界が終わるのよ」の台詞を聞いているような、ナウシカで言えばドルクの焦土作戦でオウムの大群が人の世界へ流れ込み、世界の終わりへと導かれていく場面を読んでいるような気分です。

偉そうに、いい気になって、「イギリスはEU離脱しない」とブログに書いた自分に対して「何様のつもりか」と問わなくてはいけません。これからもブログ続けたいので、続けるためにも今日は懺悔です。ごめんなさい。反省しています。

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池澤夏樹『マシアスギリの失脚』の孤独のダンディズム

池澤夏樹さんのマシアスギリの失脚は何度も何度も読み返しました。線を引きながら読み返し、ぼろぼろになったら新しく新潮文庫を買って線を引いて読むを繰り返し、三冊くらい買い換えましたが最近はさすがに読まなくなりました。

1980年代、旧国際連盟日本委任統治領だった太平洋地域のいずこかにある架空の島国ナビダード共和国の大統領マシアスギリは戦争中は日本軍の軍属として働き、戦後になって日本にわたり昼間は倉庫で働きながら夜は高校に通って勉強し、日本語ペラペラになって帰ってきて始めた事業がスーパーマーケット。これが当たって名士になり、政治家になってついに大統領にのぼりつめます。人口七万人の小さな島国とはいえそこは最高権力者。権力の密の味も知っていれば、それにはまりこんでしまうことの怖さも知っている男。それでも大統領はやめられない。権力の味はこたえられない。一度選挙に負けて大統領の座を政敵に譲りますが、その政敵の人物がある種の潔癖症でマシアスギリ在任中の金銭の不正を暴き出そうと動き出したのを知ると、白人の二人組に依頼して政敵を暗殺し、見事大統領に返り咲きます。

罪悪感とことが露見することへの恐怖心からほぼ眠れなくなったマシアスギリは白人二人組に対する長期の報酬の提供に神経を配りながら昼間は政治家の仕事をし、夜は愛人のもとへ通います。しかし、暗殺を証明する大事な書類を官邸に隠してあるのを誰かに盗まれると困るので、決して愛人の家には泊まらず、必ずきちんと帰宅します。しかしなかなか眠れません。蝋燭に火をつけるとリーボーと名乗る幽霊がぼわっと現れ、マシアスギリの話し相手を務めます。どこまでが本当でどこからが幻想か分からない世界。リーボーは200年前にこの島に生きていた王子様で、イギリスに留学してあっさり死んでしまいます。その後魂だけ帰ってきて今はマシアスギリの話し相手というわけです。ギリは様々な不安をリーボーに訴えますが、最後の決定的な答えは与えません。リーボーという幽霊はマシアスギリの投影に過ぎず、リーボーの返す答えは必ずマシアスギリの知っていることか、漠然とそうだろうなと思っていることかのどちらかです。ギリが知らないことを教えることはできません。ギリが自分で決心がついていないことについて、行動を示唆することもできません。最後は自分で決めなくてはいけません。

離れ小島からやってきた神がかりの若い女性がギリの秘書のようになりますが、実は彼女は神秘の島の長老たちから遣わされたスパイで、ギリが政敵を暗殺した証拠を探しに官邸に入り込んできています。大統領官邸内部はギリの好みに合わせて純和風。畳の裏に白人二人組との間で結ばれた暗殺と報酬に関する契約書が隠されているのを見つけます。その日に限ってギリは愛人の部屋で深い眠りに落ちていて、スパイが自室の畳の下を探ることを予防できなかったのです。

マシアスギリは現実政治の最高権力者ですが、国の精神的な支配者はスパイの女性がやってきた神秘の島の長老たちです。長老たちは暗殺の動かぬ証拠を手に入れて、マシアスギリを権力として認定しないと結論します。暗殺を請け負った白人二人組も『薔薇の名前』と同じ方法でやったと証言してしまいます。結果、政務は滞り、マシアスギリは権力者としての実質的な権能を行使することができません。彼は密かに一般市民に身をやつし、生まれ故郷の祭礼を見に行きます。そして最後は自家用機に乗り込んで、パイロットの隙を見て飛び降り、地上にぶつかって死んでしまいます。

自ら命を絶つという、実に壮絶な物語の筈なのに、その死はとても爽やかで、読み手はギリに感情移入するものの、あー楽になれてよかったね。綺麗に死ねてよかったね。という不思議な感想を抱きます。マシアスギリという男は半分日本人みたいな人生を送っていたものの、その魂は自分の故郷の島々を深く愛していて、命を失ったこの後は鳥になって永遠に島の周りを飛び続けるのが定めです。

権力を持つ故に秘密を抱え孤独を生きたマシアスギリはフィリピンで出会った愛人からは深い愛を受けていて、神秘の島からやってきたスパイの女性からも愛されます。やはり男は愛されなければ絵になりません。家でブログをこつこつ書いているようではいけません(私のこと)。

『マシアスギリの失脚』は間違いなくアップダイクの『クーデタ』とけっこう似ていますが、最大の違いはマシアスギリが最後に自らの命を絶つのに対して、『クーデタ』の主人公はフランスに亡命して生きる決心をすることではないかと思います。生きるか死ぬかでは随分と違います。ここで潔い死に方を選ぶことができるのは東洋的思想のおかげかも知れません。仏教では究極には生きていても死んでいても同じです。世界のエネルギーの総和に変化はありませんので、死んでも私は存在するし、生きている私は何らかの幻影にすぎません。ギリシャ哲学でもこの世界はイデアの幻影だと言っているくらいですから世界共通してこの世は幻想だと思っていいのかも知れません。本当のところは私にも分かりません。

物語が太平洋のきれいな海と島で展開しますので何度読んでも気持ちよく、最後に空を飛んで死ぬこともなんだかきれいなことのように思えてしまいますが、決してマネをしてはいけません。マシアスギリの最後の選択が正しいと思えるかどうかはそれぞれの読者次第だと思います。

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オルセー美術館に行った時の話

オルセー美術館に行った時の話をだらっと書いてみたいと思います。

上の写真はオルセー美術館の館内の写真です。フラッシュを焚いたりしなければ館内での撮影はOKなので、決してこっそり撮ったわけではないですよ。ただ、館内の構造が分かるようなこのような写真は撮影したものの、いろいろな作品は道義的に撮影する気になれなかったので、作品の写真はないです。館内の大抵の作品は19世紀に書かれたもので著作権の期限も切れてるので、撮影してブログに投稿しても問題ないのではないかなぁと思います。よく知りません。曖昧で自信がない場合は投稿しないのが一番なのかも知れません。私は撮影していないので、作品の写真は物理的に投稿できません。

検索したらオルセー美術館の作品の画像も手に入りますし、美術館側も撮影OKとしている以上、そういうものだと、写真メディアに流出しても構わないという考えなのかも知れません。人類共通の財産だという考え方もあるでしょう。写真が世の中に出回り始めたばかりのころ、観光業の人は真剣に心配したそうです。綺麗な景色を観るために人は交通費と宿代を支払うのに、写真できれいな景色が見れたなら、わざわざ出かけないのではないかと。実際にはその逆で写真を観た人たちは本当の景色が見たいと思うようになり、もっともっと、と観光する人が増えたそうです。テレビで沖縄特集とか見たら欲求が刺激されて沖縄に行きたくなるのは今の時代も同じではないかなあと思います。

オルセー美術館の屋根は上の写真のように丸いです。なぜこんな形になっているのかというと、もともとは1900年のパリ万博に合わせて建設された駅舎だというのです。歩いて行ける距離にエッフェル塔もあり(パリ市はそんなに広くないので、大抵の場所は中心から歩いて行けますが)、エッフェル塔も1900年のパリ万博に合わせて建てられたものですから、当時、パリ市の再開発が相当に進んだことが分かります。

オルセー美術館には印象派の作品がいっぱいあります。ルーブル美術館とは主旨や方針がだいぶ違うみたいです。私は美術には詳しくないです。学生には印象派と浮世絵の関係の話をすることもありますが、しったかしているのがバレはしないかと内心ヒヤヒヤしています。なんか見たことあるなあと思うのがいっぱいあります。美術の教科書とか、〇〇展の広告の看板とかで見たことがあるというのがいっぱいです。ミレーとかゴーギャンとかゴッホとかルノワールとかそういうのがいっぱいあります。オルセー美術館の作品をきちんと全部分かるようになったら、ヨーロッパのモダン芸術検定みたいなのを受けても(そういうのがあると仮定して)一発OKなのではないかと思います。

特に印象に残ったのは特設展会場でジャポニズム展をやっていたことです。ジャポニズムといってもそんなに大げさなものではありません。19世紀の画家さんたちが作品の中にちょっと浮世絵のオマージュを入れているとかそういった感じのことです。ルノワールはたくさん女性の絵を描いていますが、踊っている女性が手に扇子を広げて持っている絵を描いたとか、モネが安藤広重の日本橋の絵をさりげなくぱくっているとかそういった類のものです。詳しい人に教えてもらえないと気づかない感じのものばかりなので、私も今挙げた例以外のことはよく知りません。

パリ滞在中にオルセー美術館には二度行きました。指定美術館入り放題のミュージアムパスみたいなのを買ったので、有効に使おうとあちこち行きまくり、高かったので元を取らねばと歩きまわった結果、行きたい美術館は大体行ってしまったので、もう一回来たという感じです。ミュージアムレストランがあって、二度ともそこで食事をしました。

その時の食事の写真です。
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特においしいわけでもなく、サービスも良くはありませんが、外のレストランより若干安いです。内装は立派なので、食事が来るまでぼんやり内装を眺めるのもなかなかいいです。

中国人の観光客がたくさんいました。観光客だけでなくパリには働いている中国人もたくさんいます。パリにはラーメン屋さんとお寿司屋さんが沢山ありますが、お店の人は大抵中国人です。わりと美味しいです。私はあまのじゃくなので中国語が分からないふりをしようかとも思いましたが、中国語を使った方が何かと話しが早いので、注文とかは中国語でやりました。相手は僕のことを香港人に思ったかも知れません。どこへ行っても香港人ぽいとよく言われます。外国に行ったら日本人と会った時の方が緊張します。

パリで食べたラーメンの写真です。作っている人は中国人ですが、けっこうおいしかったです。

パリで食べたラーメン
中国人が作ったパリで食べたラーメンです。しょうゆ味でおいしかったです。



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『耳をすませば』の映像美と日本の近代

最近、学生に『耳をすませば』をみせたら、退屈だったらしく眠る人、退室する人続出でちょっと落ち込んでしまいましたが、個人的には久しぶりに『耳をすませば』を見て、改めてその完成度の高さに舌を巻きました。

有名な話ですが、聖蹟桜ヶ丘駅とその周辺の再現度の高さ、ここまで完璧に再現するなら実写でもいいじゃないですかと言いたくなるリアルな絵を2時間見続けるのは絵巻ものを見続けるかのような迫力があります。ただやっぱり、ナウシカとかに比べれば特に見せ場があるわけでなく、繰り返しになりますが、学生たちにとっては退屈だったのかなあ…。空の色もきれいだし、描かれる人物の姿もとてもきれいなのに。

主たるは内容は誰が誰を好きで、誰と誰がくっつくのかというありがちなメロドラマとも言えますが、やはり最近の人はのだめカンタービレみたいにコメディの要素を求めているのか、ラブコメ風でないと物足りないのかも知れません。

今回改めて観て感じたのは言葉遣いの美しさ、登場する人々の立ち居振る舞いの美しさです。月島雫は両親とお姉さんと一緒に団地で暮らす、ごく普通の市民です。お父さんは図書館で働いていて、お母さんは大学院で勉強していますから、どちらかと言えば長女が大学生で次女が中学生というお金のかかる時期に入っていますので生活的には厳しい方に入るかも知れません。しかし、小津安二郎の映画でも見ているかのような美しい言葉遣いと立ち居振る舞いには、そういうものは金銭的に裕福かどうかで決まってくるものではないのだというメッセージが込められているのかも知れません。しかも時々見せる庶民的、あるいは一般的な市民風の表情があることで、生活感が生まれ、登場人物にリアリティを持たせています。月島雫が自分の作品を書いて疲れ切って畳の上に横になる様はもしかすると原作者自身の経験をそのままに描いているような気がします。

雫の初めての作品を読ませてもらうおじいちゃんは、これもまたよく作りこまれたディレッタント風の人で、ドイツ留学から帰ってきて戦争でドイツ人の恋人と生き別れになったという設定も様になるというか、洋行帰りがいい味になっています。手先が器用で暇な毎日を送りながらも白雪姫をモチーフにした大がかりな振り子時計を三年かけて修理する依頼を多分採算度外視で請け負い、音楽にも通じています。猫の男爵の人形とか、珍しい石とか、本当に趣味の世界だけに生きる人です。

私は思いました「こういう人、いるよね。どうやって食ってるかわからないけど、趣味だけやって、やたら優雅な人」と。

私は作品を観ながら「どうぞ、好きにしてください。好きなだけ、好きなものを描いてください。私、そういうものだと思ってみますから」という感想に至ったのでした。

公開されたのは確か平成になったかならないかくらいのころですから、経済も良く、日本が今ほどカオスっていない時代のことです。今の時代から見れば、『耳をすませば』は半分時代劇のように思えなくもありません。この作品に登場する人々と街並みからは日本型近代とはどのようなものかということが炙り出されているように思います。日常を大切にし、大きすぎる夢も持たないが、自分のやりたいことには真剣に取り組む。生活様式は多分に洋風化し、おじいちゃんみたいに趣味だけで生きてきた人から西洋の香りをかぎ取り、それはそれでいいものだが、価値基準は日本人、みたいなあたりを映画を作った人は心得ていて、それを主張しているんだけれど、結果としては圧倒的なリアリティが生まれた。というような感じではないかと思うのです。

今は経済が停滞している分、たとえばおじいちゃんのような趣味だけの人を優雅なままにさせておく余裕が私たちの社会にあるかといえばちょっと微妙な気がします。21世紀の日本人を描くとすれば、もうちょっと登場人物がいろいろカオスってくるのではないかと思えなくもありません。雫のお父さんがリストラで両親は離婚、お姉さんはyoutuberで雫の好きな人はニート。一方で雫の親友の将来の夢は徹底安定志向で公務員。みたいな。確かに近代は終わり、雫の時代と比べれば、使い古された言葉とはいえ、今は十分にポストモダンと思えます。

そんな小理屈はともかく、リアリティと映像美は絶対に繰り返し見る価値があると私は今回みて改めて思ったのでした。



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『風の谷のナウシカ』と日本とAI

『風の谷のナウシカ』は映画版と原作では随分違うのですが、原作を基本にして考えを進めたいと思います。

世界文明が滅びた後の世界でありながら、トルメキア王国はまだ比較的技術力に優れ、強大な軍事力を使ってドルク帝国へ侵攻するというのが全体の大きな枠組みですが、トルメキア王国は西欧文明を、もうちょっとはっきり言えばアメリカを象徴しています。トルメキア関係者は良いか悪いかは別にして合理的な思考によって次の行動を選択します。一方ドルク帝国はアジア的なものを象徴しています。政教一致の神聖政治が行われており、人々は皇帝(または皇弟)の神秘的な力を畏敬し、農奴のように従っています。トルメキアとドルクのどちからが優れているということはなく、トルメキアは物質主義に溺れていて、ドルクは精神主義でありながら考えるということを放棄しているようにも見えます。双方どちらにも愚かな指導者たちがいて世界を滅亡へと導いていく内容になっています。

ナウシカが暮らす風の谷は弱小の独立国ですが、トルメキアが他国と戦争する際には兵を出すとする約定があり、要するに安全保障条約を結ぶことで独立を維持することができています。そして実際にトルメキアがドルクへ侵攻するという段になって、お姫様のナウシカが城ジイたちを伴って前線へと向かっていくわけです。安全保障の代わりにトルメキアに軍事的に協力するというのは、まさしく日本の立場を象徴していると言っても良いでしょう。

この作品が一番最初に書かれたのはたしかまだ70年代で、完結したのは90年代の終わりごろです。そのため、まだ自衛隊の派遣についてかまびすしく議論された湾岸戦争もイラク戦争もなく、安保法制ももちろんありません。しかし、日本とアメリカの関係性の本質に違いはなく、原作者はそこをしっかりと見抜いた作品づくりをしたのだなあとつくづく思います。

腐海の瘴気は言うまでもなく放射線物質を象徴しているはずですが、瘴気を出し切ったら土地が浄化されるとする逆説は、不要なものや醜いものの中に、一見悪に見えるものの中に善があるという深みがあります。

巨神兵は核兵器を象徴していますが、映画版では未成熟なまま孵化したために効果を出し切れなかった一方で、原作では成熟し、完成体として人の世に現れ出てきます。単なる破壊兵器と思われた巨神兵は実は前の人類にて仕込まれていた完全知能で争いがあれば裁定して罰をくだし、人々を支配し導く神なる存在として振る舞います。言わばAIの完成形みたいなやつです。

物語の最後では世界が腐海によって浄化された後に生まれる予定の新生人類の卵をナウシカがターミネートして終わります。ナウシカが属する人類は言わばつなぎの不完全な人類で、完全に浄化された空気を吸うと血を吐いて死んでしまいます。新生人類の卵子を仕込んだ過去の文明の人たちは炎の七日間で汚染された世界を腐海で浄化し、つなぎの不完全な人類は清浄な空気で自動的に死んで、その後はきれいで純粋な新生人類が巨神兵という完全知能に導かれて平和に楽しく暮らすということをプログラムしていたのですが、卵をナウシカにターミネートされてしまうのでその目論見は潰え去ります。穢れを知らず、争い事も起こさない「きれいな人類」よりはナウシカの属する欲望にまみれて殺し合いも辞さない人類(私たち)の方がより生命の本質なのだというメッセージも入っているのかも知れません。「そしたらいずれ、世界は全部浄化されてナウシカの子孫は全滅するのでは?」という疑問を残したまま物語は終わります。でも圧巻のお話しになっています。

最後に、ナウシカがなぜ美少女なのかということについては原作者の好みに集約されるはずです。



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バルビゾン村へ行った時の話

パリの地下鉄のバスチーユ駅から鉄道で一時間ほどのフォンテーヌブロー駅で下車し、自転車を借りて10キロほど離れたバルビゾン村へ行った時のことをだらっと書いてみたいと思います。

バルビゾン村は周知のとおり、19世紀にフランスの若手の画家たちが集まって暮らしていたことで有名で、彼らはバルビゾン派と呼ばれますが、特に有名なのは『落穂拾い』を描いたミレーではないかと思います。中学生の時に美術の教科書で『落穂拾い』をみた私は魅了されてしまい、オルセー美術館に足を運んだこともありますが、一度、フランスの田舎、それも落ち穂拾いの村を見てみたいと思ったのです。

フォンテーヌブローの街で自転車を借りた時の様子がこんな感じです。

フォンテーヌブローで借りた自転車
フォンテーヌブローで借りた自転車

で、バルビゾンまで自転車を漕いだわけですが、フォンテーヌブローとバルビゾンの間には深い森があり、人通りもほとんどなくて、昼間でもぞくっとしそうです。夜ならちびってしまいそうです。

こんな感じの森です。これがえんえんと何キロも続いているわけです。

フォンテーヌブローの森
フォンテーヌブローの森

或いはこんな感じ。

フォンテーヌブローの森
フォンテーヌブローの森 人の気配はしない

そしていよいよバルビゾン村に到着です。こんな感じの可愛い建物が並んでいます。

バルビゾン村
バルビゾン村の様子

手頃そうなレストランで食事をしてワインを飲みました。
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次にアイスクリーム
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お店の人はそんなに働き者ではなく、道行く人も特に親切なわけもありませんでしたが、そんなことは気にしない。
私は村がどこまで続くのかと自転車を漕いでみたところ、すぐに人里は切れてしまい、田園地帯が広がります。そう、これ。僕はこれが見たかったんだ。とひとりごちました。

たとえばこんな感じ

バルビゾン村外れの田園地帯
バルビゾン村外れの田園地帯

もう一枚こんな感じ

バルビゾン村外れの田園地帯
バルビゾン村外れの田園地帯

ミレーの有名な作品である『晩鐘』もこの辺りで祈りが捧げられていたのかななどと思ってみたり。お天気もよく、刈り入れの済んだ田園地帯がまた落穂拾い風に見え、とても満足したという、とある夏休みの思い出のお話でございます。



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AI時代にはBI(ベーシックインカム)を

今年はAIの話題でにぎわっています。
なんでも近い将来、AIが人間の代わりに仕事をするようになるのだそうです。

自動車の自動運転は近く産業化しそうな感じですから、そうなればバスもタクシーも無人運行ということも決してあり得ない話ではないかも知れません。既にゆりかもめは無人で運行されているということを思えば、近い将来本当にそうなるかも知れません。外国語の勉強も研究や教養以外では必要なくなるかも知れません。翻訳や通訳はAIがやってくれるようになりますから、そのような職業も必要なくなります。農業もロボットが全自動でやってくれますので、農家も必要なくなりますし、役所の手続きも自動化され、工場については言うまでもありません。ロケットも宇宙探査も火星開発も全部AIがやってくれます。スペースコロニーもモビルスーツも短期間で設計、製造してくれることでしょう。エヴァンゲリオンも無人で動くので嫌がる碇シンジを強引に搭乗させる必要もないのです。

人間がやることは「〇〇がほしい」「〇〇がしたい」という要望をAIに伝えるだけになるのだそうです。即ち、労働が必要なくなるということらしいのです。

では、そのような労働なき時代に人は幸せになれるでしょうか?2つの方向性が考えられるのではないかと思います。1つは巨大な資本と一部のスーパーエリートが高い収益を得て、残りの人は仕事も収入もない世界です。しかし、このような世界が実現しても人間が幸せになったとは言えません。そのようなことならAIが実現する必要もないように思います。そもそも大衆が消費できなければ、資本主義が持続できません。ですので、考えられるもう一つの方向性は、ベーシックインカム(BI)を導入し、仕事がなくても好きなことだけをして生きていけるという世界です。AIの発達により生産性は想像を遥かに超えて上がるらしいですから、人間が努力をして生産性を上げるということに意味はなくなります。それならば、せっかくAIが働いてくれるのですから、その果実を全員で分け合うというのは人間を幸せにする一つの方向性ではないかと思えます。

私はわりとグローバリスト的な発想が身についていて、人が努力をして成果を得、その成果を楽しむことは自然なことだと思っていましたが、AIという全く新しい条件が与えられるのであれば、無駄に人が苦労する必要はありません。そもそもどんなに努力してもAIに勝てるわけもありません。

人は政治や芸術などの人でなければできないことをやればそれでいいということになります。政治家はやりたい人が手を挙げて、オンラインで主張を訴え、有権者はワンクリックで投票。いわゆる政治資金は基本的ゼロ。芸術方面でもやりたい人が表現をして、採算は度外視というか、そもそも採算が問題にならない。

本当にそのような時代が来るのなら、気持ちも楽です。技術革新ありがとうです。一人に一台ドラえもん。日本国民全員がのび太になってもいいのです。

しかしながら、果たしてそうなるまでどれくらい待たなくてはいけないものでしょうか。ゆりかもめができたのが20年くらい前ですが、その他の地下鉄やJRや私鉄はみんな運転手さんが働いてくれています。銀行の手続きはかなり機械で済ませることができるようになりましたが、今も銀行窓口の人はいます。AIが人の知能を超える、いわゆるシンギュラリティが起きるのは2040年代と言われていますが、日々技術革新が進むこの世界で、20年以上先のことは未来学です。大学で先端技術を研究する偉い教授の先生が笑って「そんな先のことよりも、現実的なビジネスに生かすことを考えましょう」みたいなことを言うのも頷けます。どうも、働かなくてもいい時代が来ると浮かれるには、もしかするとまだ早いかも知れません。がんばろ…。




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大正時代の女性解放運動

 大正時代は女性解放のための言論が大きく発達した時代です。
 平塚らいてうなどの女性が雑誌『太陽』や『青鞜』で様々な議論を展開します。
 そこで一つ大きな論点となるのが、女性は誰と性行為をするのが正しいのか、というものです。
 当時、婚前恋愛は珍しく、結婚は親同士、家同士、ということになりますから、大抵の場合、自分の意思で相手を選ぶことができません。平塚らいてうのような人たちは好きな人を自分で選ぶことが男女関係のあり方の大原則だと主張します。現代から考えれば当然のことですが、当時としては社会秩序への挑戦たとも受け取られたようです。

 大変興味深いのは、ある女性が某雑誌に「貧困のために、お金と引き換えに処女を失った悲しみ」を訴える内容の記事を投稿した時の論争です。多くの女性論者たちがこの記事を強く批判しました。普通に読めば同情するべき点の多い内容のようにも思えるのですが、女性は性行為の相手をお金で選ぶことは最低なことだ、貧困に耐えて貞操を守らなければならない、との議論が行われました。貧困もまた女性が解放されるべき重要なテーマですが、それはそれとして、彼女の選択は許容されないとの考えが強かったようです。

 今日も女性の貧困は重要な社会的問題の一つとして論じられることがあります。このようなことは今後も論じられていくでしょうけれども、より一人でも多くの人が幸福な人生を得られるよう、それぞれに努力したいものです。

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映画『アメリカンビューティー』と中産階級

昨日、サンダース現象とアメリカの中産階級というタイトルで投稿したのですが、その続きで頭の中にあることを投稿したくなりました。

アメリカ映画『アメリカンビュティー』は、平凡な中産階級の家庭が短期間で崩壊していく様子を描いているものです。
主人公の40過ぎくらいのお父さんが会社をリストラされ、「これからは責任のない仕事がしたい」と思い、バーガーショップの店員を始めます。
お母さんは不動産の販売をしていますが、客に物件を紹介する前に「私はこの家を売ってみせる」と何度もつぶやく人で、自己啓発にはまっているとも言えますが、やはり売り上げが全ての世界だけに強いプレシャーを受けて生きていることが分かります。

お父さんがリストラされて以後、間違いなくお母さんはお父さんのことを馬鹿にするようになり、仕事場で知り合ったやり手の男性と不倫をし、不倫の最中、たまたま一緒の車でドライブスルーに行ったら窓口に自分の夫がいるという最悪の展開を迎えます。
隣には退役した海軍大佐が引っ越してきます。会う人会う人に「海軍大佐だ」と自己紹介するあたりに、かえって「海軍大佐以外に何もない男」という印象を与えてしまっています。退役海軍大佐の息子はドラッグの売人で、主人公お父さんにドラッグを売り、その家の娘と付き合います。

ある日、こういう諸々が全部ばれてめちゃくちゃになり、最後の最後のネタバレだけは避けますが、主人公の娘と海軍大佐の息子は馬鹿げた大人たちに愛想をつかし、ニューヨークへ駆け落ちすることを決心します。しかし、ティーンエイジャーでドラッグ売人ですから、明るい未来が待っているとも考えにくいという感じです。

この映画から読み取れるのは、1、中産階級を維持するのは大変だ 2、中産階級はちょっとしたほころびで何もかもダメになってしまうかもしれない 3、ダメな中産階級は子どもからも見捨てられる 4、しかしその子供も先が思いやられる

という中産階級哀歌といってもよいものです。

この映画が公開された当初、「これはアメリカの中産階級の没落を表現しているものだ」というような解説がなされていたことを覚えています。

しかし、それから10年以上たち、いよいよ日本でも他人事ではなくなってきたということを思わずにはいられません。やがて中国、台湾、香港、韓国でも同じことが語られるようになる、あるいはすでに語られ始めているかも知れないという気もします。

解決策は一つ!やはりここはAIに仕事をしてもらって、ベーシックインカム!でどうでしょう?

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サンダース現象とアメリカの中産階級

サンダース氏の陣営が総力をあげて取り組んだカリフォルニア予備選ではクリントン氏が勝利という結果になりました。時差の関係でニュージャージーの票が先に開き、クリントン氏が代議員の過半数を獲得したことで、カリフォルニアの票が開く前に民主党の大統領候補が決まったという意味では、カリフォルニアの開票への関心はさほど集まらなかったようにも見えます。

サンダース氏側としては、ニュージャージーはそもそも捨てていたので、ニュージャージーで負けても別にいいと思っていたでしょうけれど、カリフォルニアでも負けたというのは、象徴的な意味も含んで、結構、がっかりしたのではないかという気がします。

とはいえ、サンダース氏陣営は民主党大会の当日に自由に投票できる特別代議員を説得する方針で、最後まで退かない姿勢を貫くようです。

サンダース氏はアメリカの若者を中心に支持を集めていると言います。よく言われることですが、アメリカの格差社会があまりにひどいために将来の展望を持ちにくい若者たちがサンダース氏の社会主義的格差解消政策を強く支持しているそうです。サンダース氏は必ずしもルックスがぱっとするとかそういう感じではありませんが、怖い校長先生みたいな感じの見た目は無私の人という印象も与えるもので、そういうのも含んで若者の期待を得ているのかもしれません。その背景には中産階級の没落があるということなのでしょう。

中産階級の没落が語られるようになって久しいですが、昔の中産階級と今の中産階級ではかなり違ったものになっているのかも知れません。アメリカの普通で平凡な中産階級とは、芝生付きの家で暮らし、車が一台か二台あって、日曜日の午前中は教会へ行き、午後はピクニックでもして楽しむ。子どもはだいたい三人ぐらいいて、一人ぐらい出来のいい子は有名な大学に進学し、20代になれば幸せな結婚を。というイメージのものだったように思います。Back to the futureとか、そんな感じの描かれ方です。そんなに贅沢はしないけど、そこまで贅沢する必要も感じず、ちょっとくらいは高価なものも持っている。

ですが、最近つくづく思うのですが、どうもそのような中産階級は社会全体が順調に経済成長している時だけに見られる現象のようです。経済成長が順調な時は誰にも潤沢な資金がいきわたり、小貴族のような暮らしができるのですが、低成長社会に入ると一部の成功者は十分に贅沢な生活ができるものの、それ以外の人たちは来週の支払いのために今を我慢するという状態を甘受しなくてはいけなくなるというものだったのではないかと思うのです。例えば日本でいえばドラえもんののび太の家庭が日本的な中産階級のイメージで郊外に小さいけれども庭付き一戸建てを持っていて、ローンはしんどいけれど、お父さんは終身雇用の会社で働いているので大丈夫。という感じのものですが、今は日本でもそういうイメージは崩れているように思います。衣食住に満たされ、少しは贅沢もできるのが中産階級というのは特定の時代だけにもたらされた錯覚だったのかも知れません。

20世紀は中産階級と大衆消費の時代でしたが、21世紀に入ってからはだんだんとそういう感じではなくなってきました。

アメリカでも日本でもそうですが、今後はどのような社会を目指すのがいいのか、選択する必要があるかも知れません。低成長社会でも中産階級を維持するために再分配に重点を置くのか、それとも格差の存在を受け入れて、その代わりに成功者がイノベーションや設備投資で進歩を目指す社会を選ぶのか。私の受ける感覚としては再分配重視を希望する人が多いように思います。アメリカのように成功者を尊敬し、格差が存在するのは当然と考える人が多い社会でもサンダース現象が起きるのだということを思えば、日本では尚のことのように思います。

今後はAIが仕事する社会になり、人々が労働して税金を払うことによって国や社会を支えるというモデルそのものが過去のものになる可能性も出ています。私は最近は、そういうことなら、再分配重視でいいのでは?と思うようになっています。太平洋をへだてた日本人の私にまで影響するのですから、サンダース現象、おそるべしです。