【自己訓練】不満は言わない

不満を言わないことこそ、特にやるべき自己訓練と私は思っています。人はついつい愚痴や不満を言いたがります。しかし、聴かされている方はたまったものではありません。人の不幸は密の味で始めのうちは聴いてくれる人はいるかも知れませんが、そういう人はすぐに飽きて聴いてくれなくなってしまいます。それどころか、「ここだけの話」をあちこちで話して歩いて回る可能性すらあります。

一方で、仏心で耳を傾けてくれる人がいないわけではありません。そういう人も、やはり何度も聴いているうちに疲れてきてあまり聴きたくなくなってきます。ところが愚痴や不満はおもしろいもので、言えば言うほど更に言いたくなってくるという不思議な心理作用を催します。ですが、上に述べたように愚痴や不満は言っているうちにだんだん聴いてくれる人がいなくなるという恐ろしい副作用があるわけです。

もう少し述べるなら、愚痴や不満を言っていると、そのこと事態が自身の心理に影響してきます。言えば言うほど私には愚痴や不満を言わなければならないできごとがたくさんあるという信念が強化され、現実が愚痴や不満を言うにふさわしいものに見えていきます。これこそ警戒すべき負のループです。愚痴や不満を言いたくなる→言う→人が回りからいなくなる→ますます愚痴や不満を言いたくなるという悪い連鎖に入ってしまいます。

生きていれば愚痴を言いたくなることもあります。不満を言いたくなることもあります。時には、虐げられていることや自分の権利が侵害されていることに対して堂々と不満をぶつけるということも必要です。しかし、自分の権利のために戦う時は戦略的に不満を言うのであって、だらだらと言いつのるのとはわけが違います。

人生をよりよくする自己訓練として不満を言わないということを私も心掛けるようにしています。

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エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』とナチズム

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』はあまりに有名すぎて私がここでどうこう言うまでもないことかも知れません。「社会心理学」という分野にカテゴライズされてはいますが、基本的にはフロイトやアドラーの近代心理学の基礎を踏まえ、それを基にドイツでナチズムが勃興した理由を考察している超有名な著作です。

内容の大半はサディズムとマゾヒズムに対する一般的な説明に終始しており、まさしく心理学の解説書みたいな感じですが、サディズムとマゾヒズムが対立項として存在するのではなく、同時に同一人物の内面に存在するとする彼の指摘は我々が普段生きる中で意識しておいた方がいいことかも知れません。

曰く、サディズムを愛好する人物は相手から奪い取ることに満足を得ようとすると同時に、権威主義的であるが故により高位の権威に対しては進んで服従的になり、自らの自由を明け渡すというわけです。ですので、ある人物は自分より権威のある人物に対しては服従的なマゾヒストであり、自分より権威の低い(と彼が見做した)人物に対してはサディストであるということになります。人はその人が社会的にどの辺りの地位に居ようと、権威主義的である限り、より高次なものに対して服従し、より低次と見做せるものに対しては支配的になるということが、連鎖的、連続的に連綿と続いていることになります。

この論理は私にはよく理解できます。誰でも多かれ少なかれ、そのような面はあるのではないでしょうか。権威は確かに時として信用につながりますが、権威主義に自分が飲み込まれてしまうと、たとえサディズム的立場に立とうと、マゾヒスト的立場に立とうと、個人の尊厳と自由を明け渡してしまいかねない危険な心理構造と言えるかも知れません。

フロムはアドルフ・ヒトラーを分析し、彼自身が大衆の先導をよく心得ていたことと同時に権威に対して服従的であったことを明らかにしています。イギリスという世界帝国に対するヒトラーの憧憬は、チェンバレンがズデーデン地方問題で譲歩した際に、軽蔑へと変化します。なぜなら如何に抗おうととても勝てないと思っていた相手に対して持っていてマゾヒスト的心理が、相手の譲歩によって崩れ去り、なんだ大したことないじゃないかと意識が変化してサディズム的態度で臨むようになっていくというわけです。

自由都市はドイツ発祥です。ですから、本来ドイツ人は自由と個人の尊厳を愛する人々であるはずですが、第一次世界大戦での敗戦とその後の超絶なインフレーションと失業により、絶望し、他人に無関心になりヒトラーというサディストが現れた時、喜んでマゾヒスト的に服従したともフロムは指摘しています。ドイツ人のような自由と哲理の伝統を持つ人々が、自ら率先してナチズムを支持し、自由を明け渡し、文字通り自由から逃走したことは、単なる過去の奇妙かつ異例なできごととして片づけることはできず、如何なる人も状況次第では自由を明け渡し、そこから逃走する危うさを持っていることがこの著作を読むことによってだんだん理解できるようになってきます。

私はもちろん、自由と民主主義を支持する立場ですから、フロムの警告にはよく耳を傾けたいと思っています。簡単に言えば追い詰められすぎると自由から逃走してしまいたくなるということになりますから、自分を追い詰めすぎない、自由から逃走する前に、自分の自由を奪おうとする者から逃走する方がより賢明であるということになるのかも知れません。

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【自己訓練】きれいな景色を見に行く

人はついつい努力し過ぎになってしまいます。オフィスや自室でこつこつと仕事をして、ああ、俺は今日もがんばっている…と満足します。努力すること、こつこつと仕事をすることは悪いことではありません。尊いこととすら言っていいかも知れません。

しかし、それだけでは疲弊してしまいます。自分自身のメンテナンスのためにも時にはオフィスや自室を離れて美しい景色を見に行くことは、よりよい人生を得るために有効ではないかと思います。美しい景色を見ている間はタスクを忘れ、心配事を忘れ、美しい景色を堪能するべきです。心配事や心労をほんの少しの間だけでも忘れることも自己訓練です。よりよい人生を得るための自己訓練と思って、時には美しい景色を見に出かけることをお勧めします。

ハワイや沖縄、オーストラリアのようなところへ行くのもいいですが、もうちょっと近場で伊豆に行ったり江の島に行ったりするだけでも心が洗われるのではないかと思います。関西圏なら和歌山や那須海岸、京都・奈良もいいでしょう。関東でも関西でもないという人でも、近くに美しい公園や海岸、山があるのではないかと思います。一日休んで近場でいいので美しい景色を見に行く、これだけで仕事の能率は上がるのではないかと思います。ぜひ、自分に美しい景色を見ることを許可して心身の休息を与えるべきです。

私の場合は一番いいのは江の島で、次に伊豆、時々沖縄に行って心身の疲労を癒すよう心掛けています。現代人はどうしてもストレスフルな生活を送らざるを得ません。しかし、モーレツ社員は20世紀モデルです。21世紀は自分が精神的に安らぎ、他人にもその安らぎを分け与えていく時代と、私は本気で思っています。そのためにも是非、美しい景色を見に行く時間を持つようにしたいものです。

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【自己訓練】勉強する(学校の勉強とは限らないが、学校の勉強でも良い)

知識は力です。経験値も大切ですが、勉強して新しい知識を脳にインプットすることは自己訓練として大変有益なことだと思います。もちろん、単に知識だけを蓄積してもそれはあまり意味がありません。しかし、知識と経験値を組み合わせることにより叡智に達することが可能になると言えます。ですから、どんなことでもいいので勉強するべきです。

それは英語の勉強かも知れません。コンピューターのプログラミングかも知れません。人文科学かも知れません。社会科学かも知れません。物理かも知れません。会計、統計かも知れません。どのようなものであれ、新しい知識を取り入れていくということを毎日少しだけ時間を取り、勉強することは是非、お勧めしたいことです。人間生きているだけでも確かにいろいろなことが勉強になります。仕事に関する知識、知見は仕事をしなければ手に入れることができません。それは即ち経験値として蓄積され、人生の糧になります。しかし、それにプラスして読書などを通じて知識を増やすことにより、繰り返しになりますが叡智となり、ひらめきを生みやすくなり、人生のピンチの時にふといいアイデアが生まれたり、人生がうまく行っている時は周囲の人を幸せにするために何ができるかを考えて何かを思いつくためのよすがになり得ます。

誰でも日常をがんばって生きていますが、更にプラスして知識を得ることにより、人生の幅を広げていくというわけです。考え方によっては直近で必要なわけでもないことを勉強することは無駄なのでは?と思う人もいるかも知れません。目の前のことに集中し全力を尽くすだけで精一杯という人も多いでしょう。ですが、人生は掛け算です。小さな心がけで他分野の知識を蓄積することが時にブレークスルーするために有効ではないかと思います。

どんなものでもいいと思いますし、好きな分野かそれに近いものでいいと思います。勉強しましょう。そしてより幅の広い、更にステップアップしやすい人生にアクセスしていきましょう。

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【自己訓練】ハンガーコントロールを心掛ける

現代人は怒ってはいけません。特に声を荒げて怒鳴る、テーブルを叩いたりして怒りを表現するなどのことは厳として慎まなければいけません。どんなに自分が正しいことを言っているとしても、声を荒げた時点で、敗けが確定です。

そのために、自己訓練としてハンガーコントロールをすることは現代人にとって必須のスキルと言ってもいいのではないかと思います。何か頭にくるようなことがあって、カーっと血が上り、声を荒げたいという衝動は数秒で収まると聞いたことがあります。ですから、怒りを感じて声を荒げたくなったら、数秒、黙してとにかくなんとかそこをスルーするのです。それで人生が変わってくるのが現代です。

とはいえ、我慢ばかりしていては怒りが心中にたまり続け、ついには自分でも抑えきれなくなってしまうかも知れません。それで声を荒げてしまっては、それまでの我慢が水の泡です。どうすれば平和的に相手に自分の言いたいことを伝えるか、それが勝負のしどころ、試案のしどころです。冷静に論理的に相手に理解できる言い方で話すということがうまくできるようになればなるだけ、ハンガーコントロールをしやすくなります。怒らなくても自分の言いたいことを伝えることができるという自信がつく分、心境的に安心できますから、爆発しなくてよくなるのです。

釈迦はたとえ話でいろいろな人に説法をしたとされていますが、相手によって話す内容を変えたそうです。相手に分かるたとえ話をするようにしていたため、毎回内容が異なってくるというわけです。人を見て法を説けという言葉がありますが、相手目線がきちんと把握できるようになれば、その場その場で適切な伝達内容を考えることができるようになるのではと思います。

そう思うと、お釈迦様は人間観察の天才だったのかも知れませんねえ。

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【自己訓練】目下の人にも礼儀正しい

礼儀正しくすることは自己訓練ですが、目上の人にだけ礼儀正しいのでは単なる保身にしか見えなくもありません。礼儀正しいというその矜持こそが美しいというかかっこいいと思えますから、常に礼儀正しくありたいものです。

とすれば、礼儀正しくする相手は目の上の人だけに対してではなく、目下の人にも礼儀正しくありたいものです。もちろん、礼儀正しさの度合いというものには差があるかもしれません。しかし、目下の人にもきちんと挨拶をする、会釈をする、話をする時は姿勢を正しくしてきちんと目を見て話す。場合によっては敬語を使う。そういったことを積み重ねることによって品格みたいなものが磨かれていき、声望へもつながっていくのではないかと思います。

お説教的な感じで言いたいのではなくて、そうする方がお得だということ私は思います。目下の人にも礼儀正しい人は人間的にも成熟している人だと思ってもらえます。そのように思ってもらえるということを知っていて、お得だと思って実践する人が真実に成熟している人と言えるのではないかと私は思います。たとえ自分の得のためだとしても礼儀正しく接してもらえれば相手も気分がいいですから、悪いことは何もありません。

しかも誰にでも礼儀が正しいというのお得なうえに楽なのです。相手との上下関係によって態度を変えるのはその都度距離感みたいなものを考えないといけませんから疲れます。そのようなことはせず、誰にでも礼儀正しいと考えなくていいので楽なのです。

疲れている時はついつい礼儀正しくできません。そういう時こそ自己訓練と思って、更に礼儀正しさを追求するというのもより人間的に成長するためにはいいのではないかと思います。もっとも、無理は禁物なので、疲れすぎている時は、休憩を有するべきかも知れないですが。

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【自己訓練】約束を守る

約束を守るというのは、人間関係の基本と言えば基本ですが、稀にしれっと約束を破る人がいます。あれはいけません。生きていれば、しれっと約束を破ってしまった過去を持つ人もいるのではないでしょうか。私にもいくつか身に覚えがあり、思い出すたびにちょっと心境が暗澹たるものになってしまいます。約束を破ることは、その時は自分の都合を優先して出し抜いたみたいなことになりますけど、結果的には自分を責めることになり、罪悪感を抱えることになりますから、よりよい人生を送るためには決してお勧めできることではありません。しかも当然に周囲の評価は下がります。悪い評判が広がることもあり得ます。ですから、約束を守ることはむしろ自分に誓いを立ててでも遂行するべきことではないかと思えます。

もちろん約束を守る努力をして守れなかったということはあるでしょう。そういう場合、相手にきちんと事情を説明して謝罪するという態度が必要です。言い訳を並べ立てて「私は悪くない」と言い張ることもできます。しかし、実際に約束を守れなかったという結果が厳にあるわけですから、その結果に対してはやはり責任があるというものです。謝罪をするべきときに誤魔化して謝罪しないという場合もあります。ですが、むしろすっきりと謝罪するべきです。運が良ければ、きれいな謝罪によって相手の好感度が高まり、むしろ以前よりも人間関係が良好になるということすら期待できます。人間関係をより良好にすることを狙って謝罪するのは謝罪の価値がありませんし、それを狙っていると思われると謝罪の意味は失われます。

ですから、堂々と正面きって頭を下げて謝るという姿勢がベストなのではないかと思います。もちろん、自分のせいではない不可抗力で約束した通りにできなかったということはあり得ます。そういう場合は、不可抗力であったということを正直に言いましょう。そして、結果として約束を守れなかったことをやはり一言謝罪するのです。そこまでやれば、大抵の場合は赦してくれます。悪い評判が立つと言う心配も軽減されます。

いろいろ言い出せばきりがありませんが、とにもかくにも、約束を守る。どんな些細なことでも約束を守るということを自分に誓いを立てでも実行すべきと思います。逆に言えば、できないことはできないとはっきり言う、守れない約束はしないということでもあると言えますから、そういう人こそ信頼されるというものです。私もかくありたいと思い、日々努力しています。

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【自己訓練】約束の時間を守る

日本人は時間に厳しいことで世界的にも有名です。多分、ドイツ人と日本人が一番時間に対して厳格なのではないかと思います。もちろん、5分、10分遅れたからって大勢に影響ないじゃないと思う人もいるかも知れませんが、約束の時間になっても相手が現れないと不安な心境になりますから、待たされる側の心理的な負担は実に大きいわけです。ですから、約束の時間にはきちんと現れる、遅くとも一分前にはそこにいる。できれば5分前、なんなら10分前にはそこに来ているというのが理想です。

相手に対して心理的なストレスを与えないという配慮の結果ですから、相手は自分を尊重してくれたと感じますし、通常、その場合は自分も尊重してもらえ、互いの関係性がより和やかになり、交渉事などもよりスムースに進むことはわざわざここで言うまでもないほどです。

しかし、私の知っている人でもいつも5分程度遅れてくる人が来ます。私は内心「5分くらい、目くじらを立てることではなし。という気持ちと、私をバカにしているのか」という気持ちがせめぎあいます。自然、その人に対する評価も私の内面でせめぎあうことになりますから、大事な時、クリティカルなポイントでその人に白羽の矢を立てるということは選択肢から外れていきます。特に5分程度の時間のルーズさはちょっと早めに出かければいいだけの話なので、そんなに負担になるようなことはありません。これこそ是非実践すべき自己訓練です。約束の時間を守るということをよく自分にも言い聞かせ、こんなくだらないことで自分の評価を落とさないように気を付けたいものです。

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人生、生きていれば得をしたいと思うものです。私ももちろん、得をしたいです。ですが、得をしようとしすぎる人はかえって得をすることができません。他人がそれを阻むように世の中はなっています。これは人の心の自然な動きなので、もはや法則と言ってもいいかも知れません。

私が得をしようとして交渉に臨めば、相手は自分の防衛に入りますから、結果として与え合うという美徳が生まれてきません。私がちょっとくらい損してもいいという態度で臨めば、相手は防衛に入りませんし、与え合うという美徳が生まれて来る余地があります。

もちろん、相手がちょろく儲けてやろうと思っている場合「ちょっとくらい損してもいい」という態度は危険かも知れません。ただし、そのような場合は、多少の損を覚悟で損切することが賢明です。見極めて損切するのです。ちょろく儲けてやろう、あなたを食い物にしようと思って近づいてくる人はさほど人生で出会うわけではありません。多少は損をしてもいい、要するに譲歩の余地が大きいという姿を見せて交渉事に臨めば、人生で出会う大抵の人とは与え合うという関係性を築くことができるのではないかと思います。

「得をしたい」という欲求の強さは、要するにおいしい話に飛びつきたいという心理現象ですから、そういう心理状態の時には食い物にされる場合が増えてしまいます。損してもいいやと思っていると経験的に意外とそんなに損しないものです。

というわけで、「得をしたい」と人はついつい思ってしまいますが、損して得取れです。得をしたいというのは甘え、甘さですから、それを矯正するための自己訓練と思います。ちょっと意識するだけで、少しずつ人生に良い果実がもたらさられるのではないかと思います。

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家族は時としてうっとうしいと感じる場合があります。相手も遠慮がありませんから、他人や友達にはとても言えないような暴言を言ってくることもあります。ちょっとした癖がゆるせなくなってくるということもあります。性格破綻者がいてめちゃめちゃしてくるということもないわけではありません。こんな家棄ててやる!と一度も思わなかった人はいないのではないでしょうか。家族は身近過ぎるが故にありがたみが分からなくなりがちです。ですが、だからこその自己訓練の一環です。

ただし、家族はやはり大切なものです。家族がいないのは寂しい人生です。もちろん、その寂しさをぐっと受け入れて生きるダンディズムみたなものがないとは言えません。生涯独身が悪いとも思いません。生涯未婚率が今後も高まっていくとすれば、「家族がいないと寂しいよ」という言葉は時に強迫性すら伴います。ですから、家族がいないと絶対にだめだとまでは言うべきではないと思います。家族がいない人も幸福になれるというのが理想の社会と思います。

とはいえ、家族がいて、家族の仲が良いのであれば、更に良いのはまず間違いのないことと言えるとも思えます。未婚の人、未婚で生涯を過ごすつもりの人は、親を大切に思うということは今後の人生で後悔のないようにするうえで大切なことなのではないかと思います。もちろん、親から虐待を受けたという人もいますから、親孝行=絶対的な善とまでは言いません。記事タイトルにあるように、できる範囲でやればいいのだと思います。

結婚している人であれば、配偶者を、子どものいる人はその子を大切にするということがやはりより良い人生を得るための重要な要素のように思えます。

だからといって離婚を絶対にしてはいけないとは言いません。どうしても別れざるを得ない場合もあるでしょうし、お子さんがいる場合は親権の問題も出てきます。親権が得られなかった側は、子どもを大切にするにしてもどうしても限界が生じます。

ですから、より良い人生を送るために家族を大切にすることは是非伝えたいことではありますけれど、できる範囲でやれてそれでいいと思います。実際に会うことがほとんどないという場合、心の中で時に大切に思い出すということだけでも、より感情面で豊かな人生を送ることができるのではないかと思います。

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