スキルが身につかない仕事は存在しない

よく言われていることですが、「非正規雇用でスキルが身につかない仕事に就いている人」が大手メディアでは社会問題のように語られています。私にはどうしてもそれが理解できないので、ここで反論を書いてみたいと思います。

それは、果たして雇用形態が如何にあれスキルが身につかないということがあり得るのかということです。私はアルバイトであれ、派遣であれ、必ずなにがしかのスキルが身につくと考えています。たとえばコンビニの例を考えてみましょう。最近のコンビニの店員さんはどこへ行っても親切ですから、接客のための教育が内部でかなり行われているに違いないと私は想像しています。ですので、CAとかホテルとかの仕事に就いていないとしても、コンビニで接客を学ぶことは可能です。更に、コンビニに行くとキャンペーン的なことが行われていますし、言うまでもないことですが消費者がより沢山の品物を手にするよう、関連商品を並べて置くなどの工夫がなされています。利用者である私ですら気づいているわけですから、アルバイトで働いている店員さんが気づかないはずがありません。たとえ言われた通りにやっているだけだとしても、自然と気づいてくるはずです。セブンイレブンやファミリーマートなどの大手コンビニ業者が知恵を尽くして考え抜いたマーケティング戦略の現場の最前線がアルバイトの人たちです。初めのうちは分からなくても、だんだんマーケティングに関する現場の知識が増えていきます。コンビニがどのようにして運営されているのか、仕入れ、配置など学べることが山のようにあるはずなのです。ですから、コンビニの店員さんをしている人にスキルが身につかないということは原理的にあり得ないのではないかと私には思えます。

さらに言えば、コンビニの店員さんを続けている人は社会的な信用という点で劣っていると言えるのでしょうか?もちろん一部上場企業で働いている人の方が銀行からの融資は受けやすいでしょう。しかし、コンビニの店員さんを10年続けている人がもしいるとすれば、その人はコンビニ運営の隅々まで知り抜いている人のはずですから、将来何らかの実業を始めたいという時にコンビニで店員さんをした経験が生きないはずがありません。仕事力としては当然信用があると思いますし、少なくとも「スキルが身につくとはっきり言える仕事以外はしたくない」と思ってひきこもっている人よりははるかに社会的な信用もあると考えるべきです。仮にそう考えない人がいるとすれば、それはそう考える人がコンビニの店員さんを見下しているのです。

コンビニの店員さんだけではありません。肉体労働をする人、工場で派遣労働をする人など、全ての人にそれは当てはまると思います。必ず何か学ぶことがありますし、実際に業務を経験しているということは何物にも勝る武器であると私には思えます。もちろん、今後はAIが多くの仕事を奪っていくとも言われていますから、それについてはベーシックインカムで対応すべきだと個人的には考えていますが、たとえそうであったとしてもAIに指令を出すのは人間なのです。そして今、まだAIはそこまで進化していません。今後、5年、10年先の本格的なAI時代を迎えるに当たり、AIに適切な指令を出すことができる人は、それまで何かしらの仕事をしていた人に違いありません。ここに異論のある人がいるとは私には思えません(異論があってもいいですよ♪)。

私がなぜ、このようなことをここで述べているのかというと、「非正規雇用のまま40代になってしまったロストジェネレーション」を憐れむ声がばかりが世の中に広まっており、もはや手遅れ、ごめんなさいあなたの人生はあきらめてね。的な内容のものがあまりに多いからです。

ロスジェネであろうと新卒であろうとシニアであろうと、私はあらゆる人に可能性があると信じています。もっと幅の広い、よりよい人生を得る可能性は誰にでも、充分にあるのだということを示したくて、ここで述べてみました。特にひきこもってしまった人、非正規で長くやっていて「どうせ自分は…」と思っている人に、人生は様々な可能性に満ちているということを伝えたいです。ひきこもっている人は、いきなりアルバイトはきついでしょうから、ボランティアから始めてみるのも手だと思います。半年一年続けていれば、ボランティア関係者から信頼を得られます。まじめにボランティアに長期かかわってくれる人はそう多くないので、運営サイドにとってはありがたい存在なのです。その人たちのネットワークから、やがて自分にちょうどいいアルバイトを紹介されるかもしれません。そして、ボランティア経験が評価されて簡単なアルバイトに採用され、やればやるほどスキルが身に付き、10年後、20年後にはビジネスオーナーになるというのは合理的です。不合理的でも絵に描いた餅でも空想でも妄想でもありません。

一つだけ注意しなければいけない点は人生には波があるということです。いい時と悪い時は交互にやってきます。悪い時期に入ったとき、「どうせ自分は…」と投げ出さないことです。一時撤退、戦線後退、なにがしかの潮時みたいなものはあるでしょうけれど、嫌になってしまうようなことが起きたときに退場してはいけないということだけは注意しないといけません。退場してしまえば、またゼロからのやり直しです。リングの上に上り続けること、たとえそれがどんなに小さなリングでも、どんなに安いリングでもリングの上に居続けることによって人生には次のステップが用意されていきます。私も時々嫌になって今の仕事を辞めたくなります。しかし、上に述べたような考え方を持っていますので、投げ出さずにリングにしがみつき、試合を継続しています。

「関西帝国」の復活を感じた件

桜の季節になったものですから、思い切って鎌倉、京都、奈良、更に大阪を歩きまわってみることにしました。歩くのが好きなものですから関東と関西の景勝地を一挙に見てしまおうという、わりと無駄に労力を使うことをしてみたわけです。鎌倉はともかくとして、関西をこれほどじっくりと歩いたのは10年ぶりくらいのことです。

気づいたのは関西地方はやはり値打ちのある凄い地域だということでした。かつて故中島らもさんが『西方冗土‐カンサイ帝国の栄光と衰退』で、関西地方の凋落ぶりを相当に嘆いていました。というのも、関西地方は確かに人口も多く、経済規模も大きいのですが、人の動態のようなものを見ると地縁血縁でだいたいのことが決まっていく田舎体質であり、東京への対抗意識は強いものの、東京に負けていることは分かっていて、しかしそれを認めようとせず、「関西の方がうどんがおいしい」という何の役にも立たない慰めを並べ立てて自己変革しようとしないというのがらもさんの持論であったと理解しています。

さて、今回改めて関西地方をよくよく歩いてみて、神社仏閣の見事さには目を見張るものがありました。これだけの世界遺産級の建築物が集中している地域というのは世界的にも珍しいのではないでしょうか。驚いたのは観光客の多さです。もちろん、10年前にも関西地方の観光客は多かったですが、桁が違うという印象です。着物レンタルが流行していますから、外国人の観光客が大勢、和服姿で歩いています。中国人や韓国人はもちろんですが、白人の姿も目立ちます。確かにレンタル用の着物は化学繊維でちょっと安っぽいですが、そもそも凋落する一方だった和服産業はこれでそれなりに潤っているはずです。

特に驚いたのは奈良です。以前に奈良を訪問した際には観光客はいるものの全体的にまばらであり、マニアが敢えて訪れる観光地といった印象が強いものでした。ところがどっこい、今回訪れてみると観光客がいるわいるわ、鹿にせんべいをあげるという奈良独特の体験型観光が世界の観光客に受けているらしく、国籍問わず中国人もアメリカ人もフランス人も鹿せんべいを買っています。また、個人的には奈良市街地から東のエリア、興福寺、東大寺、界隈の立派さ、見事さに感嘆せざるを得ませんでした。1000年以上も前に相当な都市整備が行われたということの斬新さのようなものを実感させられたというわけです。商店街も歩いてみましたが、10年前はゲームセンターかマニア向けの古美術の店くらいしかなかったのが、観光客向けのレストラン、ショップが立ち並び、全体に歩いている人のボリュームがぐぐっと上がっています。奈良を歩いた時、原則全員関西弁だったのが、行きかう人の話す言葉に慎重に耳を傾けてみたところ、標準語を話す人の数もなかなかなもので、かつてマニア向け地方都市だった奈良が、国際観光都市に大きく飛躍していると結論せざるを得ませんでした。

大阪は10年前とさほど印象は変わりませんでしたが、より観光客向けにカスタマイズされている感が強かったです。関西は世界の観光客を集めることで生き延びると腹をくくったと私には感じられました。考えてみれば、現代的でクールな都会的な雰囲気を大阪で味わい、ちょっと足を延ばせば世界遺産級の建築物が密集している京都があり、鹿にせんべいを食わせることができる奈良があるという意味で一回の訪日で日本のハイライトみたいなところをぐっと体験できる関西地方は観光地としては非常に恵まれた地域なのは当然のことです。以前勤めていた会社で「関西地方はもはや復興不可能なのではないか」と言っている人もいましたが。そんなことは全然ありません。世界に対する集客力という点では、関東が大都会東京+その延長線上みたいな横浜、ちょっと歴史ある鎌倉というラインナップなのに対して、大都会大阪+京都・奈良というラインナップの方が魅力的なはずです。高層ビルを見たいという人には東京よりも上海やドバイの方が魅力的に映る可能性もあり、東京ディズニーランドが無敵の集客力を誇っている時代がありましたが、今や上海にも香港にもディズニーランドがある時代で、希少性という点で相対的に凋落の兆しを見せています。一方で大阪のUSJはハリーポッターが大うけしているらしく、最近の関西は盛り上がっているらしいと聞いてはいましたが、なるほどこれは本物の波が来ていると大いに納得できました。京都・奈良の建築物の価値は半永久的に認められるでしょうから、長い目で見ると関西地方はなかなかに恵まれているわけで、その真価を発揮していると言ってもいいかも知れません。このように関西の観光産業が発展した理由としては、一つにアジア周辺地域の経済発展を無視することはできません。韓国や中国、台湾の人たちが豊かになり、ヨーロッパやアメリカの人たちよりは日本に対する知識が豊富ですから、日本へ旅行するなら関西をという発想に至りやすいのだろうと思います。もう一つの要因として関西空港の整備が進みLCCの受け入れが容易になったということもあるようです。つい最近まで関西はもうだめだと言われていましたが、ところがどっこい大復活しており、これは日本人全体にとって好ましい現象と思えます。

あと、付け足しになりますが、奈良を歩いて感じたのは、奈良が里として整備された地域であるということでした。車窓から見た印象ではあるのですが、関東地方は人の密集している地域か森林もしくは丘陵地帯なのに対し、関西地方の平地では人がまんべんなく分布して暮らしており、民家と農地がある程度均等に広がっています。自然と人間の開発が一体化した「里」が成立しているわけです。弥生時代からクールな産業であった農業を徹底して推し進めた結果の地域開発の結実と受け取ることもできますから、私はその点でも関西の底力のようなものについて考えざるを得ませんでした。

関西って凄いのね。


昨夜、眠れなかったのでお酒を飲んでしまいました…

断酒を二カ月続けた私ですが、昨夜眠れず、気分も落ち着かず、ついにコンビニへ直行し、お酒を飲んでしまいました。罪悪感や敗北感はひとしおのものがあります。タバコも遠慮なくすぱすぱ吸ってしまいました。

禁欲には波があって当然ですから、そんな日もあるよと受け流せばいいかも知れないのですが、自分との約束を守れなかったという悔しさがあります。

ただ、久々にお酒を飲んでみて、お酒まずい…という感想を持ちました。自分はお酒が嫌いなんだという意識を持つことができたことは、もしかすると長い目で見れば+に働くかも知れません。昨夜は日本酒とウイスキーを買いましたが、ウイスキーに手を付けることはなく、おつまみはナッツでしたから、直接体重に影響するという感じでもありません。でも、悔しい…。

私は睡眠導入剤を使用していて、今、わりと多めに使っているのですが昨日は「ちょっと減らしてみようかな」と思ったのがよくありませんでした。頭ぼんやりして気持ちがわるいのに眠れないという最悪の状態になってしまい、これはもう酒の力に頼るしかないと思ってしまったわけです。勢いに任せてウイスキーに手を出さなかったところは自分を褒めてやりたいところです。

とりあえずウイスキーは冷蔵庫の中にしまい込み、普段は目につかないところに「隠して」おきたいと思います。昨夜レジで買い物したときは金額の高さに驚いてしまい、そうか、自分は最近は節約できていたんだなと実感し、それ以前に夜毎お酒を飲んでいた浪費に思いを致すと冷や汗がでる気分です。ああ、後悔。まあ、二カ月飲んだ後の日本酒(五合くらい飲みましたが)ですから、ただちに健康に影響することはないとは思いますが、今後は注意したいと思います。


外出中の禁煙衝動のスルーに成功

今日は仕事がないのですが、私用で外出することになり、喫煙人生で初めて外出中一切喫煙しないというものに挑戦してみました。やってみると意外と簡単でタバコを吸いたいという衝動もほぼ起きませんでした。途中、一度カフェに入ってコーヒーを飲んだのですが、コーヒーとタバコは相性がいいもののタバコを吸いたいとは思わず、帰宅まで一切喫煙しませんでした。一か月前の私であれば絶対に考えられなかったことですから、少しずつですが、自分はタバコを吸わなくても大丈夫なのだという自信がついてきたのではないかと思います。

毎日ノルマのようにいつもの銘柄をコンビニで一箱買っていますが、若干、余り気味になってきています。いちいち一日の本数を数えるのが面倒なのでざっくりとした目安にするために毎日一箱たばこを余ってくるかどうかを試しているわけですが、今後、更に余ってくることが自分としても予想できるようになってきました。そのうち、気づいたら一日中吸ってない日がある、あー、なんだ、自分はタバコは吸わなくても平気じゃないかと思える日が来るように、一年ぐらいかけて自分を調教していこうと今は考えているところです。

以前、決心してタバコをやめたところ、激しく太ってしまい、その上、抜け毛は増える毎日がストレスに感じるという酷い目にあってしまってまた喫煙を始めたのですが、今から振り返って分析するに、タバコを突然やめたことで体が代償品を求めるようになってしまい、ついつい甘いものに頼るようになり、結果として体が糖質体質になってしまい、この体質が抜け毛につながったとド文系なりに考えています。

以上のようなことが起きてしまった背景には、自分は本当はタバコが好きで、タバコを続けたいのに、タバコを取り上げられてしまったという不満が溜まり、それを自分自身にぶつけるという自傷行為みたいな感じになっていたはずですので、今回はタバコを切り捨てるのではなく、タバコを必要としなくなる、タバコを少しずつ忘れていくというような戦略で臨んでいます。振り向いてもらえない異性を忘れる際、いっきに忘れるか少しずつ忘れていくかの違いのようなもので、私は後者が自分に向いているようです。お酒もやめてタバコもやめて、ゴルフも釣りもやらない私は何を楽しみに生きればいいのかちょっとそこがまだ見つかっていませんが、タバコはやめてしまいたいと思っていますので、当面は完全にタバコの卒業を目指したいと思います。

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脳と自慰行為の関係を真剣に考えた幸福論

六週間ほど自慰行為をやらないという実験的なことを続けていたのですが、夜毎、「今日はもうやってしまおうか、いやもう一日我慢しよう」という自己内対話がぐるぐると回り続け、ここまで思い詰めるのなら、やってしまおう、自慰をするのが普通のことだと考え、昨日、自慰をしたわけです。この六週間、心身の変化は感じてはいたのですが、その効果が断酒によって得られているものなのか、丹田呼吸法によるものなのか、それとも減煙か、自慰行為禁止かの判断がつかなくなってきており、自分の心身への変化も知りたいという思いもありました。ただ、エッチな画像の助けが必要なので、その方面の検索をかけ、画像の力を借りて行いました。動画はなんとか踏みとどまりました。まあ、こんなものかとその瞬間は思ったのですが、減煙中にもかかわらず、昨夜はすぱすぱと吸いたいだけ吸うという感じになり、今朝も吸いたいだけ吸っていることに気づきました。また、驚くべきことにだるいというか、かったるい感じがありました。もうちょっと頭の回転もちょっとだれた感じになっており、学生から外国語に関する質問を受けた際、ちょっとうまく答えられないというがっかりなことすら起きてしまいました。

見た目にも変化がありました。このところ節制を続けていることで(普段は白米もなるべく避けています)、表情に鬼気迫るものがあるというか、良くも悪くも迫力が出ていて、奥二重の目が細い二重になるという謎の現象も起きており、果たしてこれは自慰行為をしないことの効果なのかどうか疑わしく思っていたのですが、奥二重に戻っており、ああ、なるほど、いわゆるおな禁の効果は少しずつ出ていたのだということが分かりました。

心理的にも変化がありました。帰宅中、断酒したにもかかわらず、お酒が飲みたいという心境になったのです。そこは思いとどまりましたが、食事はいつもよりかなり多めでした(今日は担当するコマが3つもあったので、体力勝負ですから確かに、多めに食べる日ではあるのですが…)。

だるい、頭が鈍る、細い二重が奥二重に戻る、食べる量が増える、お酒がほしくなる、タバコの量が増える

と、マイナスなものが一挙に出てきましたから、いわゆるおな禁は効果があったのだということを、今回久々に自慰行為をやってみて知ることができました。

さて、ここで気になるのはなぜ、なぜ、そのようなことが起きるのかということです。以下はド文系の私の仮説です。エッチな画像を見て自慰行為をすると、脳の快楽系の神経に電気が走るはずです。そして快楽系の神経が刺激されると、快楽系は更に刺激を求めるようになり、「もっと、もっと」という信号を出してくるのではないかと私は推論します。お酒がほしくなったり、タバコの量が増えたり、更に食事の量まで増えたのですから、エビデンス面から見ても悪くない推論です。

ここまで考えて、私は脳そのものの機能ということに考えが及びました。即ち「不幸な人は生涯不幸である」ということの理由が分かった気がしたのです。不幸や不満を感じるとき、脳のそれに相当する部分に電気が流れ、刺激されるはずです。不幸を感じる神経系統が刺激されると、活発化し、もっと、もっと不幸を。と本人の意思とは関係なく不幸を求め、結果として不幸な人生になるのではないかと思えるのです。

快楽と幸福は別なものです。快楽の神経系統が刺激されると、脳の当該部位はより強い刺激を求めるようになり、その衝動に従い続けると最悪の場合は身を滅ぼします。一方で幸福の神経系統を刺激することがもし可能であれば、脳の幸福を感じる神経系統がより強い刺激を求めるようになり、結果として幸福な人生を得ることができるという帰結を得ることができました。

さて、オナニーの話題であるにもかかわらず、幸福を得る方法論へと話題はシフトしてきたわけですが、幸福になるためには快楽の神経系統への刺激をなるべく避ける、不幸の神経系統の刺激もなるべく避ける、幸福への神経系統を強めることを意識するべしということになります。この場合の幸福とは、美しい自然を見てそれを美しいと感じる、普通の街の光景であってもそこに幸福の種子を見つける、退屈な人間関係であっても、そこに幸福の種子を見つけるという努力を必要とするものではないかと思います。この努力を怠ると、退屈を埋めるために快楽を求め、快楽追求体質になってしまい、脳の機能の問題として無限に快楽を追及し続け、破滅するということになりかねません。宝くじで大金を当てた人が不幸になるのは、大金がいきなり転がり込んできたことで快楽系統が極端な刺激を受けてとまらなくなり、無駄にジェット機や無人島を買うという愚かしい行為に走り、野垂れ死にしてしまうということではないかとも思えます。

幸福の神経系統が極端な刺激を受けるとすれば、脳が無限に幸福を追求することになりますが、快楽の神経系統が壊れるくらいの刺激が宝くじに当たることだとすれば、幸福の神経系統が極端に刺激されることは滅多にありません。従って日々の生活の中に幸福の種子を見出していくことが幸福な人生を歩む唯一確実な方法ではないかとも思えます。ああ、お日様があって幸せ。月があって幸せ。木が葉をつけていて幸せ。などのようなことに「幸せだ」という反応を示すように自分を訓練し、突き詰めていくと家族がいて幸せ。家族がいなかったとしても孤独なら孤独の楽しみを見いだせて幸せ。今の仕事があって幸せ。仕事がなかったら自分を振り返る時間が持てて幸せ。いい人に出会うと幸せ。頭に来る人に出会ったら、世の中にはいろいろな人がいるものだと知ることができて幸せ、この程度で済んで幸せ。などなど、様々な日々の出来事にああ、幸せ、幸せという認識を持つように自分を訓練していれば、脳の幸福を感じる神経系統が刺激され続け、脳が幸福な人生を創造するということになります。ですから、いわゆるアファメーションで私は幸せだ幸せだと言い続けていると幸せになるというのは全くの嘘というわけではないわけです。私はついてる、私は運がいいと言うと運が良くなるというのも全く間違っているというわけでもなさそうに思います。おそらくは半分はアファメーションなどによって幸福を感じる脳の部位を鍛え、残りの半分は仕事をがんばるとか挑戦するとかという行動が必要なのでしょう。幸福脳を鍛えることと、行動が車の両輪というわけです。

自慰行為を六週間断ってみて、一回やってみたことで我ながら大きな気づきを得たように思います。さて一つだけ心配なのは、使わなければ機能が低下するのではないかということです。機能が低下することを私は望んではいません。真剣ですから、敢えて書きますが男性器は筋肉の部類に入るのか、内臓の部類として捉えるべきかで分かれてくると思います。もし筋肉と同じ性質を持つとすれば、歩けば歩くほど足腰が鍛えられるのと同様に、男性器も使えば使うほど機能が向上するということになります。一方で、内臓と同じだとすれば、お酒を飲めば飲むほど肝臓への負担を大きくし、極端な場合は病気になってしまいます。お酒を飲めばお酒に強くはなりますが、それはお酒に対して麻痺しているだけで、アルコールを分解する肝臓への負担が変わるわけではないでしょう。

経験的にですが、使わなければ退化するように思えます。ド文系の仮説なので、確実ではないのですが、経験的に、以前実験的に毎日のようにしていた頃のパートナーから「大きい」と言われました。毎日は使い過ぎかな…と考えていたのですが、筋肉同様に発達していたと見るべきように思えます。また、六週間全く使わないことで、小さくなったな、しぼんだかもという印象はありましたから、経験的には筋肉と同じもののように思えます。一方で、解剖学的には性器は内臓の一部として扱われるのではないかとも思いますから、私の経験だけをどこまで信じていいか、或いはおえらい専門家の言うことよりも自分の経験を信じるべきか…など、結論は出しかねるところです。

一応、最後に今後の方針のようなものを書いておきたいのですが、ストイックな生活を送ることで心身に良い効果が得られるということはかなりはっきり言えますので、これは続けたいと思っています。自慰行為についてはしばらくまたやめてみて、再び同様の効果が見られるようになってから、画像や動画に頼らず、想像力で行為をしてみてはまた違った知見を得られるのではないかと考えています。エッチな動画や画像を見ることは、依存症のリスクがあり、脳の働きを低下させる恐れがあると思いますが、想像に頼った自慰行為の場合、脳の前頭前野が鍛えられる可能性は残されています。本当にあほみたいなことを真剣に考えて書いていますが、わりと人生の奥義のようなところに近づいている気もしなくはありませんので、ご容赦願います。


禁煙のご褒美を喫煙にしてみた結果

現在、朝最初一本目は吸わないということに挑戦していますが、朝はやっぱりいろいろ考え事をしなくてはいけないことや、起床後しばらく吸わないものの、目を覚ます必要もあって、やはり午前中には何本か吸ってしまいます。とはいえ、喫煙所を意識的にスルーしてみたり、喫煙衝動を時々我慢することによって、喫煙本数は若干下がったと感じます。喫煙してもいい時には気持ちが弛緩していますので、ついつい多めに吸ってしまい、トータルの本数はそこまでは変わりません。今はそれでもいいと思っていて、自分が長時間タバコを吸わなくても大丈夫なのだという自信を持つことを優先し、敢えてタバコを吸わない時間を作るようにしています。

で、もしタバコを辞める決心したら一生タバコが吸えなくなるという飢餓感や喪失感のようなものが生まれてしまい、よけいにタバコが欲しくなるという精神衛生上よろしくない循環に入ってしまいかねませんから、何時から何時までは絶対吸わないとか、出かけている途中は絶対吸わない(仕事を除く)とかのルールを取り入れようと考えていまして、予定通り我慢できたらご褒美にタバコを吸っていいとしてみたらどうなるだろうかとも思ったわけです。今日、大量量販店にいろいろ買いに行き喫煙所もスルーして一本もたばこを吸わずに帰宅しました。当該の量販店に行って喫煙所をスルーしたのは初めてのことです。

帰宅後も別にタバコを吸いたいとは思わなかったのですが、タバコを吸ってはいけないシチュエーションでご褒美のシチュエーションに入ったわけですから、自分で自分を欺くのもよろしくありませんので、ありがたく一本吸ってみることにしました。まずいとは思いませんでしたが、おいしくもなんともありませんでした。味のないガムのような感じでしょうか。クラクラとはしませんでしたが、こんな味のないものを吸っていても意味がない、タバコを持っている手が疲れる。といったようなことを感じました。

お酒をやめた後、タバコはむしろ以前よりもおいしく感じるようになり大切に根本まで吸うようになっていて、ああ、断酒したらタバコがおいしいなあくらいに思っていましたから、ささやかながら大きな変化です。想像ですが、体内のニコチン濃度がある一定の量ある場合、時間とともにニコチンの量が下がってくるのを補給する時にはタバコがおいしいと思う反面、ニコチン濃度がどこかの閾値よりも下がってしまってしまった場合、タバコがおいしいとは思わないものなのかも知れません。今、タバコを吸いたいと言う衝動が来ていますが、一日何回か、自宅での喫煙衝動をスルーするの一環として吸わずにいます。ゆるやかに、ゆるやかにですが、こんな風なことを続けて、ブログに書いたりしているうちに、自然とタバコが必要だと思わなくなるようになればいいなあと思っている次第です。

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本の選び方を価格から考える

仕事柄、読書はせざるを得ない日々を送っています。そして仕事柄、おもしろくもなんともない本もコツコツ読んでいかなくてはいけません。いわゆる学術書はぶっちゃけおもしろくないものが多いです。そしてそういう本に限っておもしろくありません。専門家が専門家に読ませる本になりますから、公文書みたいに事実関係や研究成果を緩急つけずにづらづらと書いてあるというものが大半です。この手の書籍は他の専門家から下手に突っ込まれないように用意周到にしつつ、場合によっては資料・史料を換骨奪胎して使用しているため、読者の悦びみたいなものとはちょっと違う感じになってしまうわけです。学者にとっては学術論文はノルマみたいなものですから、売れる売れないに関係なく、そういったものを出し続けなくてはいけません。文章力のない人が、研究成果を出すためだけに書いているものもあります。

この手の書籍には特徴があります。べらぼーに高いわけです。6000円とか8000円あたりならまだいい方で、場合によっては一万円というのも存在します。専門家は他の専門家の書籍を読まないわけにはいきませんから、どんなに高くても固定した購買層がいるというのが背景にあり、一方で非専門家にとっては役に立ちませんから、価格を下げる必要もありません。この手の高額書籍はまず間違いなく退屈です。専門家としてやっていきたい方は我慢して忍耐の精神で読まなくてはいけませんが、そうでない人にとっては、本音を言えばほぼ無価値と言えますし、もっとぶっちゃけると勉強になることが書いてあるとも限りません。先行研究が延々と紹介され、マニアックな資料を分析し、社会にとってはどうでもいい「発見」を公表する場合が多いですが、そんな些細なことはどうでもいい…と思うことが多いです。もしかすると私の修行がまだまだ足りないだけで、もっと道を究めればそういった些細なことにもわくわくできるのかも知れませんが、私はまだそこまで人間ができていません(すみません)。4000円以上の本はだいたいおもしろくないと思っていいでしょうから、読書の悦びに浸りたいという方はそれより下の価格帯のものを選ぶことをお勧めします。4000円以上の本は大抵の場合は大学の図書館に入れてもらうことを想定していますから、よほどのことがない限り個人が自分の資金で買うことを想定していません。

で、4000円より下の価格の書籍の場合、学者以外の人にも読んでもらえることを想定する場合が多いです。3800円とかの価格帯であれば、専門家+一般でそれなりに詳しい人も注目するような内容になっていると見込むことが可能です。3200円なら文章力+内容の深さの双方が入魂されていると見ることができます。2000円から3000円代の書籍であれば、出す側も満を持しており、普通の読者にとっても読み応えのある内容が期待できます。この価格帯で勝負する場合、編集者の方も相当にエネルギーを使っているはずで、専門家からの突っ込みも回避しつつ一般読者からの支持も得られるものを目指しているわけですから、狙い目ではないかと思います。もちろん、3500円とかの本はやっぱりちょっと高いので、大学の図書館か、大学じゃなくても市民図書館で借りられるはずですから、そういったところで無料で借りるのもいいと思います。本は人類の共有財産ですから、お金持ちじゃなくても無料で本が楽しめる社会がよりよい社会だと信じています。

さて、それよりもうちょっと安い価格帯の場合はどうでしょうか。2000円前後のような本ですね。このような場合は専門家よりも一般読者にアピールしたいという感じになっていると思います。一般の読書が好きな人に向けた本という感じです。単行本で1800円とか2200円とかありますが、そういった本がもっとも読書愛好家に支持される内容のものが多いのではないかと思います。たとえば著名な小説家の書かれた新作であったり、ノンフィクションでも社会の関心事の高い事件に関する独自ネタみたいな感じのもので、文章力が鍛え抜かれた人たちが登場するエリアですから、読み応えはばっちり。電車の中やカフェ、自宅でくつろいで本の世界に入り込んで楽しみたいという人に向けたものが多いように思います。長く読み継がれるのもこの価格帯のものが多いのではないかと考えています。

さて、もう少し価格帯が低い場合はどうでしょうか。1600円より低い感じで1000円までの価格帯のものです。いわゆる「新書」が多いです。ソフトカバーの本が中心になるのではないかと思います。ソフトカバーだから悪いとは思いません。本はハードカバーの装丁を見るのも楽しいものですが、そこをソフトカバーにしてより低い値段で多くの人に読んでもらえることは価値あることのように思います。ただし、この価格帯の場合は素人向けのやさしい内容のものが多くなってくるように思えます。全てとはいいませんが、『〇〇だけが知っている〇〇』『本当は〇〇な〇〇』的な本の題名だけが目立ち、読んでみると似たり寄ったりで内容が必ずしも充分とは言えず、ちょっとがっかりする場合も多いです。たとえば書き出しが「突然ですが、もし〇〇は〇〇だとしたら、あなたは信じますか?」的なものであれば、私個人としてはその段階で読む気をなくしてしまいます。素人向けですから、自分が素人だと思う分野のことで、ざっくりと大体のことが分かればいいという程度であれば、これでもいいかも知れません。売る側も薄利多売を狙ってきますので、内容の濃さよりもその時、その時で短期的にぱーっと売れて忘れられていくことが前提みたいになってますから、読む側もそういうものだと思って読むべきものかも知れません。もちろん全ての書籍がそういうわけではなくて、真摯な書籍もたくさんあると思いますから、例外は当然あります。有名な俳優さんが真摯なエッセイを書き、それを購入しやすい金額に設定しているという場合ももちろんあるでしょう。俳優さんやタレントさんであれば、売れやすいため入魂の作品であっても薄利多売を狙えるということもあると思います。

さて、それより安い場合はどうでしょうか。実は意外と狙い目だったりします。コンビニで売っていたりする薄い本などですが、意外にも知らない分野のことを簡潔にまとめてくれていたり、へえと思う豆知識が書かれていたりする上にお値段が安いわけですから、お得感もかなりあります。ただし、本の世界に浸りたいという人が満足できるものではなくて、隙間時間を潰すのにちょうどいいかな的な読み捨て風のものが多いですから、そういうものだと思って読むべきかも知れません。当たりはずれが大きいので、人によって評価が分かれるところでしょう。

一応、例外を言うと、文庫本は別になります。そうでない場合もありますが、文庫は人類の財産である名作を安く提供するという社会貢献の目的で売られているものと理解しています。出版社が社会奉仕のために低価格で名作を提供してくれているのが文庫ですから、感謝して手に取るというのが読書のお作法ではなかろうかと思ったりもします。

では最後にインターネットのサイトはどうでしょうか。有料メルマガや有料会員のためだけのサイトもありますから、そういったところは、それぞれ付加価値の高い情報を提供しているのだと思いますが、このサイトのように無料の場合はどうでしょう。この世界は玉石混交ですねえ。参考になるサイトもあれば、そうでないサイトもあります。本にはできないけど、世の中に問いたいというサイトもありますし、単なるお遊びみたいなサイトもあります。自分のブログは「お遊び」に入ると思っています。独自ドメインとレンタルサーバーで年間数千円ですから、道楽しているつもりでやっています。道楽にお付き合いしてくさる方には感謝しておりますので、どうぞごゆっくり。


読書中の喫煙衝動をスルーする

無理のない禁煙を目指しつつ、少しずつ喫煙チャンスを減らしていこうと考えているところなのですが、現在、外出中の喫煙所一つスルーは無理なくできており、自宅にいるときも何回か喫煙衝動をスルーすることができるようになってきており、まあ、少しは効果があるかなあと思っているところです。

で、気づいたのですが、私は読書中に全然タバコを吸わないという事実でした。あんまり長く読むともちろんタバコを吸いたくなるのですが、隙間時間の短時間の読書中は喫煙したいと思いませんし、自宅で読書をしている時も喫煙を忘れています。これは我ながらなかなかいい、おつな発見です。

自宅では、ついつい「他人に文句を言わせない自分の聖域」という考え方になってしまい、タバコを吸いたくなるとスルーするのが難しくなってしまうのですが、読書中タバコを吸いたいと思わないということに気づいた以上、休日など自宅で過ごす際に読書時間を増やせばある程度、喫煙欲求が抑制されるという帰結になります。読書はその行為そのものが脳にいいというド文系の私なりに仮説を立てているのですが、本は有料ですから、得られる情報の量も濃厚なものが多いです(はずれもありますが…)。と考えると、今まで以上に読書に勤しむことで、喫煙欲求は制御できる上にインプットの質と量も上がるという一石二鳥の効果が狙えるとも思えてきました。現在、自己洗脳中です^^。

お酒を飲まなくなったので、飲酒中にタバコが吸いたくなるということがありません。これは我ながらヒットです。

一番難しいのはPCに向かっている時で、PCでは仕事もしますから、PCに向き合いつつタバコを吸うというのが条件反射になっており、他にもyoutubeを視聴する時のような休憩中も自然とタバコに手が伸びます。PCで仕事をする時にタバコを吸わないというのは、まだ私にとってはハードルが高い(頭脳を使う時はタバコがほしくなりやすい)のですが、youtube視聴中の時や、ネットで適当に検索をして時間を潰すような時に喫煙欲求をスルーできることが次の目標ではないかと考えています。

大学で授業をする直前の時間と直後はどうしてもタバコを吸ってしまいます。授業する目は精神統一のために喫煙し、授業後は頭の中がグルグルしていますので、リラックスするために今はタバコを必要としています。おそらく授業前後が最後の関門になると思いますが、自分にはタバコは必要ないと信じることができるようにすることで、少しずつタバコを減らしてその生活に慣れてゆき、その関門も突破したいと思います。


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自宅での喫煙衝動も時々スルーしてみる

現在、無理のない禁煙に挑戦中です。以前やめたときは20キロ太って抜け毛が増えたために、これではデメリットの方が大きすぎると思い喫煙を再開しました。ですので今回は「無理のない」を絶対条件にしています。

喫煙は現状では習慣化されているわけですから、当然タバコは吸いたくなります。外に出たときは一回だけ喫煙所をスルーするルールを試しているところですが、自宅は他人にとやかく言われる筋合いはありませんから、いくら吸おうと私の自由です。喫煙者にとって自宅は聖域とすら言うことができるかも知れません。で、その聖域での喫煙習慣が最終的には消えていかない限り、タバコを辞めることはできません。そこで、自宅で時々でいいので喫煙衝動が起きた際に敢えてスルーするというのを始めてみようと思ったわけです。

次第に慣れてくれば、自分にはタバコはそんなに必要ないと脳が感じるようになり始め、やがて別に吸っても吸わなくてもどちらでもいいと思うようになり始め、やがて自分には必要ない、と感じるようになれば、タバコはお金がかかるし社会的圧力も強いから、もう吸わなくていいやとなるというのをロードマップとして描いています。このロードマップは突然頭に浮かんだというよりは最近になって禁煙を真面目に考えるようになり、できることから始めようとしてからだんだん思い浮かんできたものですから、何事もまずは少しでいいのでやってみるという好例かも知れません。

今はお酒もやめてエッチな動画や画像も検索しなくなっているので、おそらくは脳のストレス耐性が上がっており、タバコをちょっとぐらい我慢する程度のことなら、さほど苦痛ではなくなってきたというのも大きいと思います。依存症はやめやすいものからやめていき、一番やめにくいのを最後の挑戦にするというのは鉄板ルールと言えるかも知れません。

タバコを吸う量は若干減ったように思わなくもないですが、それでも現状では一日一箱買っています。タバコが切れる恐怖心や渇望感を持たないようにするためです。エッチなDVDや雑誌は「もう見ない」と決めてからも棄てていないのですが、自分にとって必要ないと思うと改めて開きたいとは全然思いません。タバコもおそらく同じようなもので、これは私の場合ということですが、タバコが自分に必要ないと納得すれば、タバコの山が目の前にあろうとも吸いたいとは思わないだろうという戦略です。以前は禁煙するには、覚悟を決めて灰皿もライターも棄てなくてはいけないと考えていたのですが、渇望感が増すばかりで精神衛生上よくありません。それよりもタバコが自宅にいっぱいあって(吸うペースが下がっても買うペースが一定なら、必然的に自宅にあるタバコの量は増えていく)、タバコに充分囲まれているという安心感からタバコを手放すという心理的な手順を踏めるのではないかと今は思います。

一度でも喫煙衝動をスルーすることができれば、「あ、大したことないな」と思えるということが分かってきましたから、少しずつ喫煙衝動をスルーする機会を増やしていきたいと思います。

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喫煙所を一か所だけスルーしてみる

私は大体一日ひと箱吸うのですが、社会的圧力が強いので近い将来タバコはやめなくてはいけないと思っています。お酒は簡単にやめられましたし、エッチな動画や画像を検索するのも簡単にやめられたのですが、禁煙のハードルは高く、半日タバコを吸わないだけでもかなり消耗します。「自分がタバコを必要としている」という思い込みさえなくせばやめられると言う推論を立て、どのようにして自分に学習させていくかが課題になっています。

朝最初の一本を吸わないというのは減煙にはある程度の効果があると思いますから、今、それを実践中ですが、それにプラスして生活空間で出会う喫煙所を一か所だけスルーするというのも始めてみることにしました。

私は禁煙スペースではもちろんタバコを吸いませんから、日常生活での吸う場所は自宅か職場までにある喫煙所と職場にある二か所の喫煙所に限定されています。フルで吸う時は自宅で吸った後、途中の喫煙所で吸い、続いて職場で吸い、場合には喫煙所でコーヒーを飲みながら至福の時間を過ごす、または考え事をする時間に充てるわけですが、そのうち一か所でいいのでスルーするというのを取り入れてみようと思うわけです。というか昨日からそれを始めてみました。仕事の流れの関係で結果としては二度喫煙チャンスを失ったので、当初の計画よりもタバコの量を減らすことができたと考えることもできます。

しばらくは一日に一度は喫煙チャンスを棄てるという行動によって、自分に大してタバコは必要ない、タバコはなくても大丈夫なんだと理解させる自己教育をするつもりです。私の性格は自分でよく分かっているつもりなので、タバコが必要ないと納得すればタバコを見ても吸いたいとは思わないはずです。お酒をやめた後、コンビニでお酒を見てもほしいとは思いませんから、同じような感じになることを目指したいと思います。自宅の灰皿は机の上に置いてありますし、タバコも切らさないようにしています。タバコがないことへの飢餓感を持つことの方が禁煙にはよくありません。今はわりとストイックモードに自分のマインドがセットされていますので、もしかするとだんだん量が減っていき、そのうちタバコのことを忘れてしまうかも知れません(願望)。