善良なものについて‐私の前半生

私は善良なものが好きだ。というより、善良でないものが嫌いだという方が正確だ。ある意味では潔癖症で、それはおそらく父親がかなり本格的なならず者だったことと姉が不良好きだったこと、母が父親以外の男性と性行為をしているのを目撃したことあたりに原因があるのではないかと思う。

で、まず私がどれくらい善良でないもに対して潔癖症かというと『サザエさん』を見て嫌な気分になる程度に潔癖症なのである。サザエはカツオを叱る際に耳を引っ張るが、耳を引っ張るのは暴力だ。カツオは草野球で近所の家のガラスを良く割るが、少年法によって守られているとはいえ器物損壊である。ワカメのパンツ丸出しなのもはっきり言って作者の意図が理解できない。もしサザエさんファミリーが古き良き日本の家庭モデルだと位置づけるとすれば、日本の古き良き家庭像はかなり野蛮なものだとすら思える。サザエさんには、人間は多少不届き不埒でおっちょこちょいでも人間だものいいじゃない、というメッセージがあると思えるが、姉だから弟の耳を引っ張っていいとか、少年だから近所のガラスを割っていいというのは私には甘えに見えてしまうのである。ワカメが少女だからパンツ丸出しでもいいというのも甘えであり、広い意味での色仕掛けであり気持ちが悪い。同じ理由で本当に申し訳ないのだが『となりのトトロ』も気持ちが悪いと思ってしまう。

私の父はほとんど家にいなかったので、父の記憶は希薄だが、帰って来ると酒を飲んで暴れて母を殴り、何度も家のガラスを割り、家を燃やそうとしたこともある。父はギャンブル狂で常にやくざの借金取りに追われていた。パチンコにも入り浸りで私は父にパチンコ店まで迎えに行くよう言われたことがあり、怖くてパチンコ店に入ることができず後で革靴で蹴られたことがある。おそらくその反動のようなものがあって、私は暴力とか暴言の雰囲気のするものは一切受け付けることができなくなってしまった。『名探偵コナン』が殺人事件を娯楽にしていることすら私には受け入れにくい。言うまでもないがギャンブルはパチンコ、麻雀を含めて一切やらない。

北野武の『菊次郎の夏』はやくざ者でギャンブルが好きで口も悪いが実は少年に対して思いやりあふれる態度で接する心優しいおじさんだったという映画だが、私のような性格の人間から見ると口が悪い時点でドン引きである。マーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』ですらはっきり言うとドン引きである。若者のロンリーさと音楽のセンスの良さが評価されているということになっているが、暴言吐き放題に憧れや郷愁は感じない。そういう人は本物を見たことがないからではないかと私は想像している。任侠映画が好きな人も本物との縁がないから憧れるのではないかと私は思う。北斗の拳も気持ち悪い。ヒデブという意味不明な最期の言葉とともに人間が破裂する場面が毎回出てくる作品の何がいいのか分からない。ここまで言わなくてもいいかも知れないが、ワンピースも本音で言えばアウトだ。暴力に対して暴力で対抗し勝利するという価値観そのものを受け入れることができない。不良少年もので大人は分かってくれない的なものも理解不能である。もうちょっと言うと『エデンの東』のようにお父さんに分かってもらえないから悲しいも意味不明である。私は父に理解されたいと思ったことは一度もないし、そんなことの前に暴れないでほしいといつも思っていた。

姉は思春期のころ不良な男子が好きだった。不良というのは未成年なのにタバコを吸ったりお酒を飲んだりシンナーを吸ったりバイクを盗んだりして女の子の心をときめかせる存在だとここで簡便に定義しておく。もし更にエレキギターが弾けてスポーツ万能で何故か分からないがお金を持っていたら完璧である。私は物静かに読書をしていれば満足できる少年期を過ごしていたので、姉にとってはそれが非常に不満だったらしく私はよく読書している行為そのものを批判された。読書を禁止されたこともあった。もっと不良ぽくなれというのである。もっとチャラく、もっとコワくなれと要求されるのである。で、家にいないで外へ行けと言われるのだが、外へ行ってもやることがない。野球やサッカーをすればいいではないかと言う人もいるかも知れないが、私はバットもグローブもサッカーボールも買ってもらったことがないし、私がほしいのは本だけだったから外へ行かされても困るのである。自然、趣味は立ち読みになった。そのようなわけでまことに申し訳ないのだが尾崎豊には全く共感できない。盗んだバイクで走りだしたり、学校のガラスを割って回ったりすることになぜ共感するのだろうか。それはやはり本物を見ていないからではないかと思えてしまう。バイオリンとピアノを習いたかったが、そういったことはやらせてもらえなかった。私はそういった姉の圧力に迎合するためにタバコだけは覚えた。そして時代は大嫌煙時代となり、これはミスチョイスだった。

趣味で暴力を連想させる者は全部嫌いだ。たとえばハードロックとかヘビーメタルも嫌いだ。普通のロックでも嫌いだ。「どうだ、俺、社会に染まってないぜ」アピールがおめでたすぎる。私の場合は家庭に社会性がなかったので社会に染まれなかった。「社会に染まらない俺」アピールをする人は社会性のある生育環境に恵まれていたのだろう。私はXJapanですら理解できないし、Bzですら好きになれない。あー夏休みを歌っていたグループがあったが(名前忘れた)、それも好きではない。姉がそういうのが好きだったので私はますますドン引きすることになってしまった。あー夏休みのグループがTシャツの袖を撒いていることについても「は?」だった。更にまことに申し訳ないのだが姉はビートルズにもはまっていて中高生の時期は毎晩ビートルズをステレオで聴いていたためビートルズも御免である。少年期に夜毎ビートルズを聴かされ続けた私は二度とビートルズは聴きたくない。ごく個人的な見解で本当に申し訳ないのだが、ビートルズのビジネスモデルはおニャン子クラブのそれと同じだと私は思っている。毎晩おニャン子クラブを大音量で聴いている兄を持った経験のある人がもしいれば、その気持ち悪さを理解してもらえるのではないだろうか。チャラいものも全般的に理解できない。もうちょっと遡ればプレスリーがいるが、はっきり言ってダサいと思う。私だけだろうか。前髪はもちろん上げるのではなく下げる方が好きだ。メガネは角ばったものよりも丸いフレームの方が好きだ。強さやデキル男をアピールするものよりも静かに知性をアピールするようなものを私は愛する傾向にある。矛盾するかも知れないがサザンは大好きだった。湘南は大好きだ。ついでになるが横浜のランドマークタワーから関東平野と相模湾を見るのも大好きだ。

ただし、私は聖人のようになりたいわけではないし修道士のような生活に憧れるわけでもない。恋愛にも関心がある。ただ母が父以外の男性と性行為をしているのを目撃したからではないかと思うのだが、性生活に関して何が正しくて何が正しくないのかよく分からない部分が私の内面にはある。性について考える部分が破壊されている。

いずれにせよ、そういう少年だったので私がひそかに願っていたのは学者か物書きになることだった。但し、これも関係者の方々には実に申し訳ないと思うのだが新聞と週刊誌は嫌いだった。殺人事件の話題が大嫌いだったし、セックススキャンダルについても私は他人に関心がないので、それらの情報はノイズでしかなかった。将来学者になりたい、そのために大学院に進んで博士号を獲りたいと母と姉に話したことがあったが猛反対されやむを得ず就職することにし、せめて出版社に行きたかったが週刊誌と漫画を読む習慣がなかったことは出版社志望にとっては痛手だった。文芸をやる出版社でも週刊誌に向かない人材はダメなのである。真剣な社会科学系の書籍をコツコツと作っている出版社も存在するので、そういったところに就職できなかったことは私の能力不足であり、そういう会社に入社した人のことは心から尊敬している。結果として私は新聞記者になった。新聞社の筆記試験に通る程度には勉強したし、新聞は毎日発行されているので駅の売店で時々買って拾い読みしておけば面接対策はわりと簡単だったから入れたのだ。新聞社に入ってサツマワリをした結果、私は警察の捜査手法については多少詳しくなったし、刑法や刑事訴訟法にも多少詳しくなった。それまで推理小説は全くおもしろいと思わなかったが、その醍醐味は分かるようになったし、事件の筋読みは我ながらいい線をつけるようになったと思う。裁判の傍聴を趣味にする人の気持ちも理解できるようになった。しかし他人の不幸でアドレナリンが出るという職業の性質は好きになれなかった。やはり学者になりたかった。

年齢的にも心理的にも大人になって、私は学者の道にハンドルを切ることにし新聞記者の道はやめることにした。従って私の学者人生は周回遅れか二周遅れくらいである。早いうちに博士号をとった人から見れば終わっている存在に見えることだろう。だが大学院に進み、非常勤講師という立場ではあるが大学に使ってもらえるようになり、紆余曲折もあったがようやく博士論文にも取り掛かることができている。目の前の一応の目標は博士号の取得で、その後のことはそれからまた考えようと思っている。

所得という点で見れば新聞記者と大学の非常勤講師では比較にならない。それでも仕事で本を読み、映画がみれる生活は幸福だ。本を読むことを批判されないことの安心感に共感してくれる人がいるかどうか分からないが、本を読むことが仕事になるのである。私は今の境遇のありがたみを噛みしめている。再出発組であるにもかかわらず、それでギリギリ生活できているのだから、この業界の中では実は私はかなり運がいいと思う。ちょっと話題がずれるが三田文学という雑誌が好きだ。ストイックに洗練されたディレッタントを追求するスタイルは私がそもそも憧れていたものだった。装丁がきれいで紙質も手になじむ。季刊なので追われるように読まなければならないというわけでもないからじっくり読める。三田文学という雑誌は本にしか興味を示さなかった私にとってのフロンティアになった。文芸誌をあれもこれもと読むだけの時間はないので、我ながら三田文学の定期購読はいいチョイスだと思っている。

就職活動と新聞社の仕事で長く本を読まなかったことが今は大きな後悔になっている。だがその後悔も時間を経るに従い小さくなってきている。今は毎日本が読めるからだ(業界を知らない人のために、一応、但し書きをつけるが、新聞記者に本を読む時間はない。新聞記者は人に会って情報を取ることを要求される職業なので、24時間ネタ元に食いつくことだけを考えなくてはいけない。本を読んでいると「さぼっている」と批判される)。

恐る恐る始めたブログだが最近は少しはアクセスも増えてきたので継続は力なりという言葉の意味を実感している。で、このブログの目的は私の個人的なことを語ることではないのだが、一度ばーっとはきだしたいという心境になったので、今回書いてみることにした。独自ドメインで有料サーバーを使っているので、わがままなことを書いたことはゆるしてほしい。感情をそのまま書いているので多分しっちゃかめっちゃかな内容になっていると思う。申し訳ない。

スコセッシ監督『タクシードライバー』の運命の分かれ道

マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』では、ニューヨークの若きタクシー運転手をロバート・デ・ニーロが演じている。デニーロは大統領選挙の候補者の事務所で働く女性をナンパし、デートに連れ出すことに成功するが、結局のところはフラれてしまい、自分がもてないことを世の中のせいにする、よくある若者のように銃を購入し、それを使用するチャンスを伺おうとする。そして一旦は彼をふった女性の勤務先の大統領選挙候補者の演説場所まで出かけるが、政治家のボディガードに目をつけられてしまい慌ててその場を逃走する。

このシークエンスと並行しつつ、デニーロと12歳の少女との出会いが進行していく。12歳の少女の役はジョディフォスターが演じていて、びっくりするくらいかわいいのだが、映画では家出した彼女は体を売ることで生計を立てており、彼女を買いたい場合は仲介人を通さなくてはならない。仲介人とそのボス、そして彼女の生活の場兼サービスの提供場であるホテルの経営者が絡んでおり、要するに彼女はそのような悪い奴らに食い物にされているという構図になる。

政治家の暗殺を諦めたデニーロはジョディフォスターを救出することに目標を変更し、仲介人とそのボス、そしてホテルの経営者を撃ち殺し、ジョディフォスターはめでたく実家へ帰ることになる。彼女の両親からはデニーロに感謝の手紙が届き、彼は3人も殺害しているにもかかわらず、少女を救出するという英雄的な動機による行動であることから免責され、以前と同様にタクシードライバーの職を続けるという流れになっている。

さて、ローティーンの少女を利用した管理売春はゆるされる行為ではない。まず管理売春がゆるされないし、ローティーンの少女にそれをやらせているということもゆるされない。当然、そんな奴らは罰せられなければならないと言えるだろう。だがここで、敢えて比較衡量してみたいのだが、果たしてローティーンの少女の管理売春を終わらせるという行為と3人の男に対する裁判なしのリンチ死刑はつり合いのとれるものだろうかということだ。感情的なことを言えば、家出娘を食い物にする3人の男たちが殺されても全く心は痛まない。よくやったデニーロということになるし、そういう前提で映画も作られている。しかし、ちょっと冷静になった場合、本当に3人も殺しておいて無罪放免でいいのかという疑問が私には残る。もちろん、映画に法理法論を持ち込んでも仕方がないので、飽くまでも考える材料としてではあるが。

あと疑問に残るのは、デニーロは闇の組織の人間を3人殺しているのだから、組織から報復を受けないのだろうかという疑問も私の内面では何度も浮上した。ニューヨークで以前の通りに生活していたら、殺されるのではないだろうか。

ついでに言うと、デニーロは3人殺した後にジョディフォスターの部屋で警察に発見されるのだが、破壊力の強いマグナムみたいなのを持ってローティーンの女の子の部屋にいる男であれば、問答無用で現場で警官に撃ち殺されるのではないだろうかという疑問も残るのである。

もちろん映画なので、そのような疑問を持つことにもしかするとあまり意味はないのかも知れない。だって映画なんだから。ではこの映画の一番の考えどころは何かと言えば、女性にフラれて世の中に恨みを持った男が銃を購入した後の、銃の使い道である。デニーロが最初に考えたことは政治家の暗殺だった。幸いなことにボディガードに目をつけられて現場を逃げ去るということで彼はそのような明白な犯罪を犯さずに済んだのである。もしボディガードがちょっと抜けているような場合であれば、彼はその犯行を成し遂げただろうし、その後は確実に逮捕されるかその場で撃ち殺されるかのどちらかになっていたはずである。繰り返しになるが彼は幸運にもその犯行に失敗し、次のターゲットとして選んだのがローティーンの少女を食い物にする悪いやつらで、デニーロは英雄になることができた。スコセッシ監督は禍福は糾える縄の如しというようなものを描きたかったのかも知れない。デニーロが犯罪者になるか英雄になるかは紙一重だったのである。突き詰めれば政治家のボディガードがたまたま優秀だったという一点にかかっていたとも言えるだろう。

ショーン・ペンの出ている『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画と『タクシー・ドライバー』が私にはダブって見える。ショーン・ペンの場合、空港の職員が優秀ではなかったので銃を持ったまま飛行機に乗り込み、そこで犯行を犯した彼は撃ち殺されてしまう。デニーロがショーン・ペンみたいな末路を迎える可能性もあったわけで、私には『リチャード・ニクソン暗殺を企てた男』という映画は、『タクシー・ドライバー』のデニーロがもし途中で方向転換しなかったらどうなっていたかを描こうとしたのではないかという気がするのである。デニーロもショーン・ペンも人生が思うようにいかず世の中を恨んでいるという点で一致しているし、銃を手に入れて世の中に復讐してやろうと考えるところまでも一致している。しかし、ショーン・ペンの方は運悪く途中まで目論見通りに進んでしまったので撃ち殺され、デニーロは幸運にも最初から目論見通りにいかず、英雄になったというわけだ。教訓としては、人生にはいろいろなことがあるし、世の中を恨みたくなるようなこともあるかも知れないが、だからと言って他人を傷つけるようなことを考えたり、実行しようとするのはよした方がいいということになる。デニーロも運が悪ければどこかの段階で殺されていたかも知れないのだ。世のため人のため、真面目に誠実に生きていれば、きっといいことがあるはずだ。


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スタンフォード監獄実験で証明されたものは何か

スタンフォード大学で行われた有名な心理実験。学生アルバイトを集めて適当に看守役と囚人役に分け、看守役が囚人役に対して激しい罵倒を浴びせたり、理不尽なお仕置きをしたりを続けた場合、看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくという仮説を証明しようとした。一般に、看守役の囚人役に対する暴虐な態度があまりに酷く、予定の二週間を大幅に繰り上げて実験は終了したが、見かねて中止しなければならないほどに看守はより看守らしく、囚人はより囚人らしくなっていくことが証明されたとされている。

ナチスドイツがユダヤ人に対するホロコーストをなぜ成し得たか、なぜ起こり得たかについて考察手掛かりになるとも理解されているだろう。

だが、私はこの監獄実験について多少の情報を集めてみた結果、看守がより看守らしく、囚人がより囚人らしくなるということは全く証明されなかったのではないかと思える。なぜなら、囚人役はあまりに耐え難い場合はドロップアウトすることが認められ、ドロップアウトしない囚人役はアルバイト料をもらうために囚人役を続けていたに過ぎず、看守が看守に徹し、囚人が囚人に徹することができた理由は、繰り返しになるがアルバイト料をもらえるという相応の理由があったからだ。

たとえある人物が有罪判決を受け、自分もその罪を認めている場合、監獄に閉じ込められることには相応の理由があるということを本人も理解しているため、囚人らしい行動を要求された場合、それに応じるだろう。囚人役の学生がアルバイト料のために囚人役をするのと同じである。看守も仕事である。

従って、この実験はナチスドイツがホロコーストを成し得た理由の証明にはならないのではないかと私は思う。ホロコーストの犠牲者は、相応の理由がないにもかかわらず、犠牲になった。ホロコーストの実行者は相応の理由がないと知りつつ、実行したのだから、スタンフォード監獄実験では説明のつかない全く異質な現象だったと考えるべきなのではないかと私には思える。

翻って言うと、スタンフォード監獄実験は、相応の理由がなければ人は囚人に徹しないということを証明したと言うこともでき、ナチスドイツのホロコーストは全く次元の違う視点を持たなければ説明できないということを証明したのではないだろうか。私が過去に見聞した範囲で言えば、ホロコーストという現象の一端を一番よく説明しているのは『ファニア歌いなさい』という映画だと思う。繰り返しみたいとはとても思えないトラウマ映画なため一回観ただけの感想にはなるが、別次元で人が壊れていく様子が描かれていると感じられた。私見です。



「お会計は私が」の効果は絶大である

最近、外国の著名な大学の教授が来ると言うので、巡りあわせが重なり、私と友人の詩人の女性の二人で空港まで教授をお迎えすることになった。

一応、先に述べておくが、その女性は既に結婚していてお子さんもいるため、決して私のガールフレンドではない。旦那さんの収入がいいため、詩人という高等遊民ができる恵まれたご婦人であるとは言える。私と彼女との関係は、いわば職業上の同盟者のようなものだ。

それはともかく、その日は教授を空港でお迎えし、こっち側の偉い人と引き合わせて会食し、適当に街を案内して夕方には解散というわりとシンプルなものだったのだが、そのための調整にはかなりのエネルギーを要した。気楽に終われるのが一番だが、気まずく終わることだけは避けなくてはならないため、その教授がご機嫌麗しくお過ごしになることがその日の私の至上命題であった。

一緒に出迎えた人妻の詩人はなかなかの美人なため、教授は彼女が会食に同席していることに相当な満足を得たらしく、その後のご案内の際もタクシーで私が助手席に座り、教授と彼女が二人後ろに座るというシチュエーションで推移した。教授は私のような財力も名声も権力もない半端な男には興味はもちろん湧かないし、会食中も「私は特に君と同席したいとは思っていないし、私には君に対して親愛の情を示す理由は特にない」と私に対して思っていることも露骨に態度や表情から見て取れた。私の方も教授に対して親愛の情を示す理由は特になかったのでお互い様なのだが「ご機嫌麗しくお過ごしいただく」至上命題はなかなかに重く、私にも好感を持ってもらえたという実感を得れば、その命題を解決できたとも感じられるだろうから、どうすればいいかということについて食事しながらも考えを経めぐらせた。

結果として私が選んだのは、あらゆる場面でのお会計を私がするというものだった。当初教授は「いやいや、私もお金を持ってきているから大丈夫だ」と言っていたが、私が「いえ、大丈夫です」とお会計し続けた。そして、それはおそらく彼の胸に響くものがあったらしく、ある瞬間から突如、私に対しても親愛の情を示してくれるようになり、融和的で和やかにその日は解散になった。彼の年収は私の何倍もあるに違いないのだが、にも関わらず懸命に財布を開き続ける姿に男として感動したのかも知れない。

私が支払ったお金は永遠に帰ってこないかも知れないが、いい思い出を作るための投資であったと思えば、数千円単位の出費はどうということはない。今後、どうしても教授に頼まなければならないことが生じた場合、私が門前払いされることもないように思える。権威や権力のある男性にとって、権威も権力もない男性は虫けらと同じに見えるのかも知れないが、「お会計は私が」という最後の手段が残されていることを実感した一日だった。



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一夫一婦(モノガミー)に関する議論

一夫一婦(モノガミー)については、これまで数えきれないほどの真剣な議論がなされてきたと言える。現代社会では一夫一婦は普通のことだが、果たして本当に普通のことと言えるかどうか疑問を呈す人たちがいるからだ。

60年代のアメリカから始まったものだが、世界的に性に対する考え方が開放的になったことが大きな理由の一つだと言えるし、19世紀から広がった厳格な恋愛至上主義とも関係があると言える。

性に対する考え方が開放的になった結果、人々は生涯のうちに複数のパートナーと出会うことが普通になったが、多くの場合は結婚という制度によって人生最後のパートナーをこの相手と見定めてある種の契約関係を結ぶが、時には離婚し、契約関係を解消する。離婚は精神的にもダメージが大きいし、経済的にも大きなダメージを受けることがある。更に周囲の人間からの評価にも直結することがあるため、結婚制度そのものが人の生活にある種の足かせをかけるという考え方があるのだ。

結婚制度そのものを否定するつもりはないが、仮に結婚が「愛」を前提として結ばれる契約だとすれば、人の心はうつろいやすいため愛が失われるリスクは常に潜んでおり、仮にリスクが顕在化した場合のダメージは繰り返しになるが計り知れない。それでも一夫一婦制を守り続けますか?とする問題提起だと言ってもよい。また、厳密な恋愛至上主義者は愛を感じている時は共に過ごすが、愛が失われたと判断したら即座に別れることがより道徳的な選択であると主張する場合もある。ロジックとしては間違っていないとも言える気がする。

恋愛結婚は60年代以前から欧米中心に主流になりつつはあった。これも恋愛至上主義の一形態だった。ロマン主義が流行し、永遠の愛、生涯の愛というロマンチックな言葉を用いて結婚する理由としたのである。18世紀くらいから広がり始め、20世紀には相当に幅広く支持されるようになった。しかし社会心理学者のエーリッヒフロムは、結果として結婚が市場になってしまい、個々人は自分の値打ちをできるだけつり上げることにより、より値打ちのあるパートナーを得ようとしていると『愛するということ』で指摘した。生涯愛することを前提とするパートナーを市場価値で競い合い手に入れることが果たして「愛」なのか、とする鋭い疑問である。

ロマンチックな恋愛結婚という概念が生まれる前は結婚は家同士が主として財産や政治勢力の拡大のために行うものであり、たとえばハプスブルク帝国やブルボン王朝はそのようにして支配を拡大していった。日本でも政略結婚はよく行われたものであり、これについては説明不要であろう。

政略結婚を行うのは特権階級かとてもつもない富裕層である。彼らは結婚という手段を用いて力の維持と拡大を図ったが、それによってたとえば王や貴族、日本でも封建領主は大勢の女性を独占することができた。一夫多妻である。

一夫多妻に憧れるようなことを言う人が時々いるが、男女の数がほぼ同数であるにもかかわらず一部の男性が女性を独占するということは、残りの大多数の男性には一生女性と縁がないかも知れないということでもある。特権階級に生まれてくる自信のある人は一夫多妻に憧れても道理に合うが、これは完全に運の範疇になるので、そのような自信のある人はいないだろう。

さて、一夫一婦はヨーロッパで市民社会が確立される過程と同じ道程によって定着したと私は思うのだが、この一夫一婦制度によって、男にとっては特権階級に生まれなくても結婚できるという利点があり、女性にとっても特権階級の男性に支配されるというリスクから自由になれるという利点があったと言える。言い換えれば、ほぼ全ての普通の人にとって、結婚できるチャンスがあったという共産主義みたいな仕組みだったと言えるかも知れない。

しかし、その一夫一婦(モノガミー)はもしかするとだんだん崩れ始めているのかも知れない。離婚経験者は普通にごろごろいる時代になった。不倫は後を絶たない。ただ、離婚しない人の方が多いし、多分だが、不倫しない人の方が多い。これについては多分、としか言えないが。

少なくともアメリカの海岸沿いに住む人たちからは結婚制度そのものへの疑問が提出されており、結婚は人間を拘束し、時には抑圧する制度なのではないかと指摘する人もいるようだ。フランスでも事実婚が多いと言われるが、それが事実だとすれば結婚制度が充分に機能していないか、必要ないかのどちらかだと言えるだろう。

とすれば、あるいは結婚は必要ないかも知れない。私はここでその是非についての決着をつけるつもりはないが、人の心が揺れ動くもので、より自由を大切にしたいのであれば、結婚という制度そのものを取っ払ってしまい、その時、その時で真実に恋愛感情を持つ相手をパートナーにすることも決してナンセンスとは言い難い。私はアメリカの海岸沿いの住む人たちの意見について述べたが、アメリカの内陸部では今でも厳格に生涯一人のパートナーに倫理的な正しさを感じている人が大勢いることも確かだ。B級のアメリカ映画で保安官が地元の既婚女性たちと浮気しまくっていたという告白が、物語のクライマックスになるというのを観たことがあるが、日本の気の利いた映画ならようやく物語が始まって、さてこれからが修羅場だという程度の衝撃度しかないはずで、正直、つまらない映画だったが、それがクライマックスとして成立すると信じる人が一定程度いるのは事実なのだから、それほど一夫一婦の美しさを信じている人も多いということも忘れてはいけないだろう。

さて、これから世の中がどちらへ向かうかはなんとも言えない。過去50年ほどの人間の思想の歩みは性差別や人種差別と撤廃していくために大いに力が尽くされた歴史だったと私は思う。結婚制度を辞めてしまおうという試みは、一方において女性を家庭から解放するし、男性も家を養うという社会的圧力から解放されるかも知れない。自由奔放な性行動によって生まれてくる子供は公的な扶助や機関によって国家や地域が一緒に育てるという選択肢はもちろんあり得る。前衛的な意見を持つ人の中には、パートナーを複数、互いに共有し合うようなイメージを持っている人もいるようだ。それがいいことかどうか、私には分からないが、否定はしない。

ただ、漠然と、なんとなく思うのだが、おそらく人類が結婚という制度から自由になった結果、大勢のパートナーに恵まれる人と、生涯パートナーを得られない人に分かれるだろう。新たな格差になるような気もする。世の中が悪いとか言っても始まらないので、そこでどうやってうまく生きるかは個々人が試されるとしか言えないのかも知れない。

ビューティフルマインドの逆転人生を考える

プリンストンの天才ナッシュ教授はいつのころからか統合失調症を発症し、ありもしないソビエト連邦のスパイ網の暗号コードを新聞や雑誌から読み解き始める。彼には親友もいるし国家機密級の仕事のための相棒もいる。しかし、親友も相棒も実は彼の脳が生み出した幻覚であり、彼は精神病院に強制的に入院させられることになる。

その後退院するが、毎日服用する薬の副作用で頭が充分に働かなくなり、天才的な数学者だったはずが、まったく仕事ができない日々を送るようになる。妻が仕事をし、家族の生活を支えるのだが、当然に重苦しい日々を送らざるを得なくなる。妻は時に彼の症状に付き合い切れなくなるからだ。

だが、やがて彼はかつてのライバルでプリンストンの教授になった友人に頭を下げ、社会適応のために図書館へ出入りする許可をもらうことができ、長い長い日々を図書館通いで過ごすのである。幻覚の親友と相棒はついてまわるが、彼は意を決して彼らを無視する。このまま人生を終えてもおかしくはないのだが、とある学生に質問をされ、それに答えるうちに私的なゼミのようなものを開くようになり、やがて教鞭を取るところまで社会的に回復し、最後の最後でなんと若いころに書いた論文の成果が認められノーベル賞を獲るというジェットコースターのような人生を描いた映画が『ビューティフルマインド』だ。

彼の人生を俯瞰すれば、全体として成功しているように見えるが、病気との格闘は絶望的な心境に彼を陥れたに違いなく、それ以前の経歴があまりに素晴らしすぎるからこそ、療養生活を送らざるを得ないことは堪えたに違いない。

果たして彼を救ったのはなんだったのだろうか。私は二度この映画を観たが、もし自分だったらと我が身を振り返らざるを得ない。妻が彼を見棄てなかったことは大きい。人生で最も辛い時の同伴者が彼の妻だった。そのようなパートナーがいる人は幸福だ。そして若いころ、すでに発症していたが、本人も周囲も気づいていないような時に仕上げておいた仕事が彼を社会的な復帰に大きな助けになった。

私は、私のようなコミュ障が彼と同じ境遇になった時に自分を支えてくれるパートナーを得られるかと自問したが自信はない。また、今仮にそういう境遇になった時にそれでも自分を助けてくれるだけの仕事の蓄積があるかと自問しても自信はない。

しかし、彼が彼自身を救うことができたのは、発症以前の栄光だけによるものではないことも繰り返しみると分かってくる。彼はまず、自分が病人であることを認めることにより、症状に苛まれなくなった。正確に言うと症状は続いたが、幻覚に自分の行動が影響されなくなる程度にまでコントロールできるようになった。自分が病人だと認めなければ、症状をコントロールすることもできない。彼は重篤な病人だったし、社会的な居場所を一時的には失ったが、病人だということを自覚した上で、友人に頭を下げ、じょじょに社会適応し、やがて社会復帰を果たしたという側面は否定しがたい。彼は不運な病によって人生の敗北者だと感じたかも知れないが、人生の敗北者だということを認めることにより一歩ずつ回復へと歩いて行ったのだと言える。

この作品から我々のような凡人が得られる教訓は、自分がもし何らかの理由で不愉快な立場に転落してしまった時、過去の栄光にすがろうとせず、自分の現状を素直に認め、真摯に取り組むことで、人生をやり直すことではないかという気がする。

私にも他人には言いにくい深い挫折の経験がある。そしてその挫折から今日に至るまで、苦しみ続けてきたが、一歩ずつ、社会的にも人間的にも回復を重ねて来た。そのため、ナッシュ教授の人生を完全な他人事と片付けることができない。私は挫折したばかりのころはそれを受け入れることができず、今も完全に受け入れることができているかは分からないが、少しずつ挫折を認め、挫折した自分という立ち位置を認め、そこから回復するためのプランを練り、そのプランの全てが実現したわけではないが、ある程度は実現したので再び自分の人生を歩いているという実感はある。挫折した時、挫折したことを認めることが人生をやり直す第一歩になると言えるのかも知れない。

もう一つ得られる教訓としては、人生一寸先は闇であり老若男女問わず、いつどこで何が自分の身に起きるかわからないが、それまでに積み重ねて来たものが身を助けるということが言える。ナッシュ教授は入院させられる前に学位も獲り、実績も残したことがその後の人生の回復に役立った。我々がナッシュ教授ほどの大成果を残すことは難しいかも知れないが、それでも、もしものことが起きたとき、それまでに積み重ねてきたものが自分を助けるのだとすれば、日々の行いや精進、真摯な取り組みが大切だということは言えるだろう。いつ何があるかわからないからこそ、何事にも真摯に取り組むべきだ。真摯に取り組んだことの全てにいい結果が出るとは限らないが、取り組まなければ結果は決して出ない。それに、案外、自分で気づいていないだけで、自分の取り組みはそれなりに報われているのかも知れない。



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心理的な傷から如何にして立ち直るか

心理的な傷は時間軸で言えば短期的なものと長期的なものに分けることができる。そしてその立ち直り方は消極的なものと積極的なものに分けることができる。心に傷を一切負わずに人生を終えることができる人はおそらく皆無である。私も自分の心理的な問題を解決するために様々な努力をしてきたし、現在もそれは継続中だと言える。ここでは、私なりに心理的な傷から立ち直るために実践したことや学んだこと、その効果などを手短にまとめてみたい。

まず、心理的な傷の短期的なものというのは、たとえば誰かに批判されたり、ちょっとしたことで相手の怒りを買ったり、仕事でミスをしてしまったり、飲み過ぎてしまったりして落ち込んでしまった場合のようなものを指している。そして長期的な傷というのは主として幼少年期にたとえばイジメにあったとか、虐待されたとか、或いは事故にあったなど人格形成期に於ける傷が生涯にわたってその人の心を苛むような類のものを指している。短期的な心の傷を受ける要因は主として普段は忘れるようにしている長期的な心の傷の再生みたいなできごとであるため、短期的な心の傷も突き詰めれば長期的な心の傷が起因しているということができるため、突き詰めれば長期的な心の傷を如何にして治癒させるかということが課題になる。ただし、長期的な心の傷の治癒には積極的な療法を長期間断続的に行わなくてはならないため、これを読んですぐに解決するようなものではない。場合によってはさっき傷ついたからその治癒の方法をこの記事で知りたいと思う人もいるはずであるため、先に短期的な問題、直近の問題について取り扱い、続いて長期的な解決について取り扱いたい。

短期的な問題、たとえば誰かに嫌なことを言われたり、仕事をミスをしたりという場合、消極的な治癒方法はそれなりに有効である。消極的な治癒方法とは簡単に言えば時間が解決するということだ。私の場合、激しく落ち込んだ場合も二週間もすればどうにか気力を取り戻すことができる。経験的にマックスに落ち込んでも二週間程度で回復できるため、傷つくようなことが起きても「二週間の辛抱だ」と思うことにしている。実際、数日前にちょっとここでは言えないくらいショッキングなことが起きたが(そのことについて私が悪いとはちょっと思えないようなことだった)、今は次第に回復基調に入りつつあり、個人的な経験測として「二週間もあればだいたい大丈夫」という考えがあるため、結果としては「いつまでこの苦しみが続くのか」という不安からは解放されやすく、その分、心理的な立ち直りは楽にできるようになってきた。これは最近そうなってきたのであって、何度もショッキングなことを経験するうちにようやく気付くことのできた私の心の内側での現象であると言える。短期的な問題についてはその他にとりあえず寝るとか、お酒などの嗜好品にとりあえず逃げ込むとか、週末は自宅に引きこもってyoutubeやnetflixを視聴して何も考えないようにするなど、消極的ではあるが、ある程度の積極性(お酒を飲んだり、何かを視聴したりするのでなにがしかの行動は伴っている)を持っているが、これは耐え難いと思える経験が生じたとき、自分を現実から一旦切り離すことで痛みが軽減するのを待つという方法になる。短期的な心理的な傷に対する積極的なアプローチはカウンセラーに電話するということを私個人は今でも時々やっている。心の痛みを軽減するために他人に話すということは効果があるが、友人にいちいち相談することは、度が過ぎると友人を遠ざけることになりかねないし、自分の恥ずかしい面を友人を見せる場合もあるため、私はわりと慎重である。カウンセラーであれば、他人に話せないことを話せる上に、自分との相性が合う相手であれば適切な意見交換を行うことにより、痛みをかなり軽減させることも可能だ。心理的なショックを受けた場合、私の場合、何が起きているのか理解できない、私が悪いのか悪くないのかも判断できない、原因も分からないという軽いパニックを起こすことになるのだが、いい大人が「パニックだ」と騒いでも信用を落とす以外の効果はないため、とりあえずその場はぐっと耐え、時間を見つけてカウンセラーに電話することにしている。当然後で料金を払わなくてはならないが、一時的にとはいえパニックになっている場合、それこそ死んでしまいたいと思うこともあるから、自分の生命に比べればカウンセリング費用はむしろ衣食住同様の必要経費と言ってもいいと私は考えている。死ぬより金を払う方が断然いいに決まっているからである。カウンセラーを話すことによって、自分の身に何が起きたのか、何が原因で、善処する方法はあるかということについて考えることができるようになるため、無用な危機を避けることもできる。ショッキングなことが起きれば数日間は見た目には普通でも頭の中はパニックになっているため適切な判断ができない状態になっている可能性があり、それでも仕事をしたり日常の選択をし、社会的に行動しなくてはならない。パニック状態のままそれらを遂行すれば無用に傷口を広げることも起きかねないので、私はカウンセラーに頼ることはリスクコントロールの面を有するとも思っている。著名人になればなるほどお抱えの占い師がいたり、宗教的なものに頼ったりする傾向があると聞いたことがあるが、それは、そういったことがリスクコントロールになり、例えば逆ギレするなどの本来なくていいはずのカタストロフを避けることになるのだと言える。

では、長期的な問題について考えたい。よく時間が薬というが、長期的な心理的な傷は時間では解決しない。放置しておけば生涯にわたり本人を苛み続ける。上に述べたように短期的なショックの由来も長期的な心の傷に由来しているため、明朗な人生を送るためには長期的な心の傷に対して戦略的なアプローチを考えなくてはいけない。高額なセミナーに行ってある程度良くなるという人もいるかも知れないから、完全に否定はしないが、個人的にはおそらくそういったアプローチは短期的な効果しか持たず、根源的な治癒には至らないのではないかと考えている。長期的な心の傷は、その人の認知と行動に影響する。人は心の傷によって認知と行動がある程度決定されてしまい、それを繰り返し、その人自身という人格が作り上げられていくことになる。そのため、長期的な心の傷の治癒のためには認知と行動を忍耐強く変えるように努力し、最終的には自分は別人格になるくらいの覚悟も必要になる。認知を行動を変えるというのは、たとえば「私はいつも嫌われる」という認知がある場合、それは幼少期にイジメを受けたりしたことからそういう認知が生まれるわけだが、「必ずしもそうではない」「場合によっては好かれる」という認知へと変化させていくよう自己内対話を行うことになる。この自己内対話が上手にできるようになるためにカウンセリングを利用することは有効かも知れない。自己内対話が上手にできるようになれば、自分できるためカウンセラーの力は必ずしも必要ではない。カウンセラーにはクライアントの根本的な心理的問題を解決することはできない。経験を積んだカウンセラーであればそのことはよく知っている。新人のカウンセラーはカウンセリングで人を救うことに無限の可能性を感じている場合があり、その場合はカウンセラー本人も自分の心の傷を治癒するためにカウンセリング技術に頼りたいという願望があるため、クライアントに対しても「絶対治癒できる。治癒させよう」という姿勢で臨むが、私の経験で言うと、カウンセラー本人にそのような力はない。内科医は患者に薬を投与したり安静にするよう命じることはできるが、病気そのものはその人の生命力で治癒していくのに似ている。ただし、たとえば風邪は自然治癒する可能性が高いが、心理的な傷はそうではないため、「うつは心の風邪」のような楽観視はできない。「うつは心の癌」だと私は捉えており、放置すればキルケゴールの言うように死に至る病になる場合もある。

ここまでに長期的な治癒の手段として自己内対話を上手に行うことで認知を変化させるということを述べたが、自己内対話を理屈抜きで強引に良い方向へもっていこうとするのがいわゆるアファメーションと呼ばれるものであると私は考えている。たとえば斎藤一人氏の「愛してます、ついてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、ゆるします」であったり、「私は愛と光と忍耐です」のような「天国言葉」を毎日繰り返し唱えなさいという教えは、現実が如何に望ましくないものであったとしても、強引に自分に今の現実は素晴らしいと認知させることで、即ち認知を変えることで行動が変化し、結果として人生も良くなるとする考えが基本になっている私は理解している。斎藤一人氏については賛否あると思うが、アプローチとしては正しいと言える。自己内対話によって認知を変化させることには限界があるからだ。人にはどうしても「こうとしか考えられない」という認知がある。そのため、自己内対話をどれだけ深めても突き詰めたコアな部分の認知を変化させることは難しく、そこまでで納得するか諦めるかをせざるを得ない。しかし、斎藤一人氏のようなアファメーション方式では、理屈抜きで認知を変える言葉を自分の頭に強引に押し込んでいくため、自己内対話の壁を超える可能性はある。認知が変われば行動が自ずと変わるため、得られる結果も自動的に変わってくる。高額な心理療法、たとえば前世療法や催眠療法などの手段で認知を変えることはあり得るが、アファメーションは無料でできるため、金銭的にもお得と言える。ただし、忍耐強くやらなくてはならない。コアな部分の認知は何十年も保たれ、その人の人格そのものになっているため、アファメーションもある程度のところまでいくと固い壁を破るのに相当な根気を要することになる。自我が抵抗するのだと言い換えることもできる。ではどうするかというと、私の場合、カウンセリングとアファメーションの双方を利用することにしている。カウンセリングで自分の抱える問題を整理し、アファメーションをするのである。この場合、問題の核になる部分の整理ができた状態で行うため、自我の抵抗を受けにくくなるからだ。

私の経験に基づくものだが、以上述べたことを生活に取り入れるだけでも人生は良くなるはずだし、心理的な苦しみは相当に軽減される。しかし、それだけでも完全な解決ということには至らない。人は結果を良くすることにこだわってしまうからだ。「私は人に嫌われる」という認知を「必ずしもそうではない」と変えることができたとしても、人に必ず好かれるとは限らない、嫌われることはあるし、或いは実際に嫌われているとは言えなくても嫌われたと判断せざるを得ないようなことも起きる。そのようなことはアファメーションをしていても起きるため、アファメーションには効果がないと落胆することも起きるだろう。

ここを乗り越えるのが最大の難関であると言える。「私は人に嫌われる」という認知を矯正しても嫌われることがあるため、人に好かれているという実感を得たいという効果を求め続ける限り、「やっぱり嫌われた」の堂々巡りに陥る危険がある。ここでようやく自分を別人格に変化させる、或いは昇華させるという次元の問題に取り組まなくてはならない。それは「私は人に嫌われても大丈夫」という信念を自分で創造できるかどうかということであり、これはカウンセリングやアファメーションだけで乗り越えられるかどうかは疑問である。カウンセリングは無理にクライアントを変えようとはしない。また、アファメーションは自我の抵抗に合う。また、人は自我を守りたがる。そこを越えられるかどうかは、今の私にとっても課題であるため、ここでこうすればいいという結論を出すことはできない。しかし、ここに気づくことができている以上、そのように自分を昇華させることはできるのではないかとも考えている。「私は人に好かれているか嫌われているかを問題にしない」という信念を確立することができた場合、私は純粋に他人の意見を無視して自分のやりたいことに取り組むことができるし、自分を活かした人生を実感することができるかも知れない。繰り返しになるが、そこまでたどり着くための方法論を私はまだ確立していない。ここまで来ると言語化できる方法論が存在しないため、瞑想や座禅という、ちょっとワープした手法へ移行せざるを得ないかも知れないし、過去の偉人たちの多くが瞑想や座禅にたどり着いたのも同じ理由ではないかと察せられる。

しかし、問題の整理ができていないまま瞑想をしたところで過去の心の傷から解放されるわけではない。問題は頭の中を堂々巡りするだろう。カウンセリングとアファメーションと瞑想を日常に取り入れていくことで「私は大丈夫だし他人にも愛を持って接することができる」という心境に入れるのではないかと思う。この場合、私は他人に愛されなくても大丈夫だという信念を確立しているため、他人が私を愛するかどうかは関係なく他人を愛することができるようになるはずである。ここまでくれば仙人の領域かも知れないし、一生かけて辿り着けるかどうかは分からないが、目指す価値はある。目指してみたい。真実にその領域に辿り着いた時、過去の心の傷は治癒したというよりは問題ではなくなるはずなので、結果として治癒したことになると言えるかも知れない。



赦せないことを赦せるか
不遇の時期をどう過ごすか

須田慎一郎氏の自己プレゼンテーション

最近は見なくなったんですが、ネット配信で『そこまで言って委員会』をよく見ている時期がありました。で、多分、私が最後に見た回だと思うのですが、パネラーに「自分は何に依存していると思いますか?」という緩めの質問があり、その時に須田信一郎氏が「ネオン症候群」と答えていたことに私は衝撃を受け、人生についてより一歩深く考えることになってしまいました。

ネオン症候群とは要するに夜になるとネオン街へ行きたくなってしまって自分でもコントロールするのが難しいということなのだと思いますが、須田慎一郎氏曰く、「男を磨く」ために夜の街、要するにホステスさんのいるようなお店へ行くのだということらしいのです。

それは私にとって衝撃でした、私は誘われたりして何度か行ったことはありますが、面白いとも何とも思えず、なんだかよく分からん…という心境で帰宅した思い出しかなく、自発的に行きたいとは思わないからです。ですから無駄遣いをするためにでかけるように思えてしまいます。しかし、おそらく想像ですが、客としての気合の入り方が違うのではないかという気がしました。私のような普通の人間の場合、ホステスさんと話しをして「わーきれいな人と話せてよかったな」と思わせるというのがこういうお店のサービスだと思うわけですが、須田氏の場合はそうではなく、本来、従業員として働いているホステスさんが話を合わせてくれるような場所で、客としての自分が気を使い、ホステスさんを楽しめ、結果として人間性を高めるという、そういう場所だと認識しているのではないかと私は考えました。

そのように考えると他の番組で須田氏が出て来た時のアドリブの瞬発力は夜の街で磨かれたものなのではないかという気がしてきます。須田慎一郎氏は顔はめちゃめちゃ怖いです。お会いしたことはないですが、男の私がお会いしてもびびるのではないかという気がします。しかし、彼がテレビで見せているような「おちゃめ」感、自虐もちょっとやってみる感のギャップを彼は意図的に演出していて、目の前の人の心を捉えるというストラテジーを持っているように思えます。こわい顔の人がおちゃめぶるということにどの程度の効果が見込めるのかは正確には分かりませんが、効果の上がる相手がいることは間違いないはずで、そのように思うと、自己投資として夜の街へ出かけていく須田慎一郎さんは凄い人だと私には思えてきます。

人格磨きと呼ぶべきなのか、それとも自己プレゼンテーションの訓練と呼ぶべきかは微妙なところはありますが、人間関係に於ける自己プレゼンテーションがうまくなれば、単に女性相手だけでなく、磨き込むことによって男性相手でも人の心の機微に入り込むことができるようになるのではないかと私は想像します。人格磨きという点では私は大学で学生相手にかなり揉まれています。教師は偉いから学生相手は楽だということは全然ありません。教育サービスを真剣に受けたい学生と楽に単位を取りたい学生の両方がいて、彼らはみな気まぐれで、気に入らなければ授業にも出てきません。強制できませんから、授業に来たいと思ってもらえる内容作りに私は心身をすり減らし、これは人間性の訓練であり、職業人としての試練でもあると思って努力しています。なので、須田さんも私も同じなのだと強引に結論して自分を安心させることにします。きっと他の人も、みんなそうです。職場や学校で人格磨きをして、人としても職業人としても向上の努力をしていくしかありません。いつの日か「あーむくわれたなあ」と思えるかどうか。努力しなければ思える日は来ません。がんばりまっす。

就職試験に有利な作文の書き方

就職試験では作文や小論文を課されることはよくある。従って、それなりにニーズがあると思うのでここで1000字前後の文章を書かなければならないという状況が生まれたと仮定し、合格しやすい文章の書き方を確認しておきたい。

まず最初に注意しなくてはならないのは、自分が今から何を書くのかということを宣言することである。就職試験では予め一定のテーマを与えられていることもあるし、自分でテーマを設定することもあり得るが、仮に自分でテーマを設定する場合は題名によって自分の書くことを宣言しなくてはならない。それはたとえば『戦艦大和の最期』でもいいし、『最近の気象変動について』でもいいし、『政治的指導者の発言の共通項』でもいいし、『湘南に遊びに行った際の注意点』でもいい。どういう題名であれ、読み手がその文章には何が書かかれているのか、自分がそれを読むことでどういう情報を得られるのかを伝えるために、宣言するのである。そのため、分かりにくすぎるものは避けるのが好ましい。一般的に誰でも知っているような名詞を用い、そこに自分は何を付け足すのかということについて説明的な文言を入れることが望ましいだろう。たとえば『戦艦大和の最期』であれば、戦艦大和は有名な固有名詞なので大抵の人は知っているだろうし、そこに「最期」という印象的な文言が加わることで、読み手は最初から戦艦大和が撃沈された様相が述べられているのだろうということが分かる。共通の趣味を持つ人にだけ読んでほしい場合は「黒い三連星」とか「サイド3」となどの一部の人しか知らないような題名を使用してもいいが、その場合にはできれば付け加える文言は一般的に使用されるものが望ましい。たとえば「黒い三連星にみる連続的攻撃の有効性に関する考察」とした場合、連続的、攻撃、有効性というのは一般的に使用される日本語であるため、何が書かれているのかを読み手は想像できる。逆に「黒い三連星のオデュッセウス」「黒い三連星のチャネリング」のような題名であった場合、オデュッセウスが何かを知っている人、チャネリングに対してイメージを持つ人は少ないので、読み手の理解度は下がる可能性があり、それだけ不利になる。どうしてもそのようなあまり知られていない文言を題名に入れたい場合はそれらの文言を手際よく本文で説明することが求められるが、1000字程度の場合、それはある種の冒険になるので避けた方がよい。根気よく長い文章を書く機会があった場合、それは書き手の人生の結晶であり書き手は命がけなのだから、題名は書き手の気に入るものであるべきだし、それについて筆者からどうあるべきかについて意見はない。その場合は思う存分にするべきだ。

さて、宣言が終わった後、書く方向性としては二つに分かれる。一つはなぜ自分がそれについて書くのかを説明するというもので、もう一つは読み手に対し、この文章は読む価値があるということを説明するというものだ。

自分がなぜそれを書くのかということを説明する場合、具体的な経験を書くのがやりやすいだろう。たとえば友人からあることを相談され、その相談に乗るうちに着想を得たとか、電車の中吊り広告を見てあることに気づいたとか、ネットでたまたま見かけたとかそういうものでもいい。自分がその文章を書くにいたった動機や事情を書けば、読み手としては納得しやすい。読み手は唐突なものを嫌う。説明を積み重ねて納得させるということは人と会話する時と同じだと思えばいい。

もう一つはこの文章には読む価値があるということを読み手に伝えるという方法だが、この場合は結論を先に述べてしまうのが効果的だと言える。たとえば戦艦大和は時代に合っていなかったとか、自然環境は引き返すことができないほど破壊されているとか、逆に自然環境の破壊はメディアが伝えるほど深刻なものではないとか、そういった類いの結論を述べるのである。この場合、続きの文章はそれの説明ということになる。付け加えるならば、上に述べたような経験を先に書く場合も引き続いて文章の結論を書くことになるため、私が上に述べた二つの方法論はどちらも説明する前に結論を述べるという点では一致している。

結論を述べた後は説得的な説明を述べる必要が生じることになる。たとえば戦艦大和が時代に合っていなかったと結論するのであれば、なぜ自分がそう結論するに至ったのかを述べなくてはいけない。この際に注意する点は積み重ねるようにして説明することである。「当時は航空技術が発達したことにより戦艦の砲撃が届かない位置から飛行機による攻撃が有効だったため、各国は戦艦よりも空母の建造に力を入れていた」というような説明が必要になる。文章の展開方法としては、空母の有効性を述べた以上は具体例を挙げなくてはいけない。書かなくてはならない文章の長さに応じて具体例は詳細に述べることもできるし、簡潔に述べることもできる。事例も長さに応じてたくさん挙げることもできれば、一つか二つで済ませる場合もあり得る。戦艦大和に限って言うならば、「戦艦よりも飛行機が優れていることは真珠湾攻撃で証明された」というのが適切なように思えるが、使用する事例を増やしたければ、レイテ沖海戦を挿入することもできるだろう。そしてそれらの事例からなぜ飛行機が戦艦よりも優れているのかを説明する必要が生じてくる。書けば書くほどなぜそうなのかを説明しなくてはならなくなるため、要するに要領よく説明することが文章の本体で果たす機能だということになるだろう。

以上までに事例をいくつか挙げれば、そろそろ結論へと文章は導かれていかなくてはならない。結論は最初に述べているため、その冒頭へと回帰していくと言ってもいい。しかし、事例を挙げた直後に結論を述べるのではない。書き手の分析を入れ込んでいくことが必要になる。その分析はその前に挙げた事例により証明され得るものでなければならないし、読み手が「なるほど」と思うものでなくてはならない。また分析的でなければならない以上、二つの以上の例を挙げた場合、その共通点を探り出すことは説得力を上げることになる。最も望ましいのは読み手に新しい気づきを提供することである。戦艦大和の例ばかりで申し訳ないが、真珠湾やレイテ沖海戦の例を見ると、「大和が有効活用できなかったことは明らかで、それでも乗組員を死に追い込んだのは、海軍の人命に対する考え方に深刻な欠如があったのかも知れない」とか「と言える」とか「と断言できる」とか「と言わざるを得ない」とか「ではなかっただろうか」などの言葉が最後に添えられることになる。この部分は分析になるため、推論を働かさざるを得ず、「かも知れない」という少し弱気な書き方でも問題はない。仮に最後の言葉が多少弱気なものだったとしても、読み手は分析に説得力があるかどうか、先に挙げた事例が分析の根拠として十分なものかどうかで判断するからだ。敢えて言えば「と断言できる」とした場合、読み手は反射的に反論の余地を探そうとするため、文章が読み手と書き手のコミュニケーションだという前提に立てば、「と断言できる」は避けた方がよく、自信を持って言える場合は「と言える」と言い切り、多少自信がない場合は「かも知れない」「ではないだろうか」とするのがいいだろう。傲慢な話し方をする人に対して反発が生まれやすいように、謙虚な文章に対しては反発は生まれにくい。ただ、忘れてはいけないのは事例が分析の根拠として正しいものであり、かつ最初に示した結論に無理なく辿り着けるものでなくてはならない。これができていなければ、最後の言葉がいかに謙虚であろうと読み手は何も学ぶものがなかったとがっかりすることになる。また読み手にとって新しい気づきを提供するという価値を生み出すためには、「時代に合っていないことに気づけば速やかに転換する必要があっただろう」とか「問題に気づけば速やかに対処しなければならないというのは、いつの時代にも当てはまる教訓だ」とか「現代のようにスピードを求められる環境では、戦艦大和の事例を教訓として自分の仕事や生き方に活かせるのではないだろうか」などのように書くこともできる。そこまで展開が及んだ場合、それは読み手にとって明日からの行動を変えようとする動機づけにもなり得るので、価値のある文章だったと判断してもらえるかも知れない。

そして結論を書くのである。この結論は冒頭と全く同じ文言を使ってもいいし、多少を気を利かせてひねった書き方をしてもいい。冒頭と同じ文言を使った場合、冒頭から事例と分析までの一貫性を保てる可能性は高くなるので、無難である。だが、一ひねりあった方がおもしろいとも言える。ここはその時になって、自分が一貫性を保ち、論理的な矛盾を起こすことなく、より気の利いた言葉を引っ張り出すことができるかということになるので、ある程度は運次第だし、その時の体調や心境にも左右される。ただ、読書量を積み重ねることで体調や心境に左右される幅は小さくなるので、読書は毎月払う保険料だと同じだと思ってこつこつ続けることが役に立つ。

筆者はすでにここまでで述べたいことの全てを述べたので、ここで文章を終わらせてもいいのだが、人が話し相手と別れる際に「さようなら」「また今度」「お元気で」という言葉を述べるのと同様、多少気の利いた「結語」を挿入することは無駄ではない。ただし、事例と分析が十分ものであれば、「さようなら」は人の心に響くが、それらが不十分な場合は響かない。事例に基づく分析が重要だということを重ねて強調し、結語としたい。


中年男という「人類の余剰」の生きる指針

中年男は存在しているというだけで周囲に感動を与えることはできない。たとえば乳幼児は歩いているだけで周囲に感動を与える。若い女性が爽やかに笑顔を見せれば、周囲はかけがえのない貴重な瞬間を捉えたと感じるかも知れない。無知な若い男が後先考えずに冒険に飛び出すとき、その無知を笑う人がいるかも知れないが、一方で共感や声援を得ることもあり得る。

中年男性にそのような恩寵は期待できない。私もまた中年男性であるため、その屈辱は充分に知っている。中年男性は生きているというだけでは存在を許容してもらえない。はっきり言えばは生存権すら軽んじられると言ってもよい。若い女性が殺害されれば警察は捜査本部を立て、マスメディアの取材にも力が入り、加害者が逮捕されれば重罰を与えるべきだとする声が起きる。中年男性が路上で死んでいるのが発見された場合、その男性の運が良ければ新聞の社会面の隅に地味に事実関係だけが掲載されるかもしれないが、そもそも警察発表がなされるかどうかすら怪しい。中年男性が死んでも人々の心は乙女の死に比べればさほど痛まないのである。中年男性には広い意味での「エロス」、生き生きとしたライブリーフードのようなものはない。その対極の存在として認識されていることは公然の秘密であると言える。いや、秘密ではなくあからさまな事実であると言う方がより現実に即していると言えるだろう。

中年男性には威厳があると思う人がいるとすれば、それは時代錯誤である。中年男性に威厳はない。むしろ中年女性の方が威厳がある。「大阪のおばちゃん」という謎のカテゴリーの存在は、中年女性は何をやってもゆるされるということを示している。中年女性はパワーに満ちており、時には反論をねじ伏せて高笑いすることも社会的にゆるされており、要するに威厳がある。仮にこれを読む中年男性が自分の威厳を保つことによって存在価値を保とうとしているとすれば、早々に諦めるのが得策である。中年男性が威厳を保とうとしている姿は周囲にとって迷惑であり目障りである。一般的に中年男性に求められていることは、なるべく目障りにならないように周囲に影響を与えように声を潜めて静かにおとなしくしていることであり、そのようにわきまえている限りに於いて生存する権利くらいは認めてやろうという程度のものである。

中には地位や権力、名誉や財産を手にすることによってこの中年の危機を乗り越えられると思う人もいるかも知れない。それはある程度正しいが、限界がある。属する組織で地位や名誉、大きな権限があればその組織の人はかしづくかも知れない。しかしそれはあなたにかしづいているのではなく、権力にかしづいているのである。財力にかしづいているのである。名誉というメッキにひれ伏しているのに過ぎない。一歩組織の外に出てみればうっとうしいおっさんであるという目を背けたい事実に変わりはない。スーパーやコンビニで電車やバスで、自分がどちらかと言えば警戒の対象であると認めなくてはいけない。笑顔を見せれば下心がありそうで気持ち悪いと思われる。黙っていれば不機嫌そうで態度が大きくうっとうしいと思われる。泣けば馬鹿だと思われる。泣こうと笑おうと、如何に工夫しようとも扱いが変わることはない。中年男性は中年男性であるという理由だけで、敗北しているのである。

しかし、死ぬわけにはいかない。私もまた中年男性の一人として敗北感を背負って死にゆくわけにはいかない。従って、中年男性はその動かしがたい絶望的な条件下で生きる道を模索しなくてはならない。これは命のかかった難事業であるが、そうする以外に我々の生きる道はない。

では、どうするか。まず第一は期待しないことである。お店の若い女性店員があなたを素敵な人だと感じることを期待することは諦めよう。あなたはうっとうしいだけの客であり、金を払えば一刻も早く立ち去ってもらうことだけを期待されているという事実を知ろう。職場の若い女性があなたに好意を持つことも諦めよう。そのようなことは大抵の場合は起きない。例外的にそういうことは起きるかも知れない。しかし、それは例外的であるということは強調しておきたい。大学生であれば異性が自分に好意を持つ可能性に期待をかけることは正当である。あるいは三十代半ばくらいまでなら、やはり正当な期待である。女性を見つめれば女性は喜ぶかも知れない。だが、年齢を重ねればそういう期待を持つのは自分の人生が無価値であるということをより強く実感させられることになるだろう。そういう期待は捨てよう。そのような明るい楽し気な未来はない。少なくとも期待している限りは。自分が正当に扱われていないことに不満を持ってはいけない。中年男性は人間の市場価値に於いて底辺に属する。従って、如何に不当と思える仕打ちを受けてもそれは正当な仕打ちなのだと知らなければいけない。

しかし我々にはまだできることがある。それはつきなみではあるが、自分磨きである。中年男性が生存を許されているのは憲法が生存権を認めているからだと思ってはいけない。そもそも今の日本国憲法は、国家の中枢に巣食い利権を貪り、戦争をおっぱじめて世界中の人々を死に追いやったおっさんたちを無力化することを目的にして書かれたものだ。にもかかわらず中年男性が生存を許され、場合によっては発言を許されるのは、中年男性であればきっと知識や経験や見識を備えているに違いないという期待があるからである。その期待に応えることができる限りに於いて、世間様に存在していることをゆるされているのである。しかし、男は意外と幼稚なまま年齢を重ねてしまう。本音中の本音を言えば、若いころのように酒を飲んで騒ぎたいし、ナンパもしたいし、やんちゃなことをやり続けたいものだ。しかし、それは若い男に与えられた特権なのであって、20前後の男性ならば場合によっては憧れの目で見てもらえる可能性もあるが、中年男性がそれをやれば確実に軽蔑されるのである。そのため、我々は残念ながら見識を高めるための自分磨きをしなければならない。肩書はこけおどしには使えるので持っていて損はない。多少なりとも世間的にかっこいいと言われる肩書を持つ人は、神に感謝するべきだ。肩書があるだけで、多少の見識はあるだろうという前提で扱われる。肩書がなければまず見識に耳を傾けてすらもらえないということに自覚しなければならない。なので、肩書を持つ人は幸運だ。しかし、肩書だけで見識があると考えるのは世間の悪しき誤解であることは言うまでもない。肩書以上の見識を持つ努力をしなければならない。読書し、調査し、沈思黙考しなければならない。外見的には不衛生そうな衣服を着ていてはいけないし、中年太りは努力によって解決できるのだから、ダイエットは必須だと思わなくてはいけない。はげはやむを得ないが、デブはなんとかできる。酒もやめるのが賢明だし、タバコも吸わないのが賢明だ。に酔っているおっさんは殺意の対象になるし、タバコを吸うおっさんも同じである。

我々にできることは限られているが、できることは十二分にやらなくてはいけない。今与えられている職業に感謝して精進しなくてはいけない。運不運によって肩書はかっこいいとされているものからださいとされているものまで様々だが、今から全く違う世界に転職することは神業である。それより先にまず今、たまたま与えられた職業をしっかり全うすることに力を入れなければならない。そうすれば、少なくとも職場である程度の敬意を払ってもらえるようにはなるだろう。中年男は敬意を払ってもらえなければ世間の余剰でしかない。少なくとも職場で敬意を勝ち得ないのであれば、その外で敬意を得られることは絶対にないと断言してもいい。

過去、日本には何度か就職難の時代があり、或いは自分探しに走ってしまい定職を持たない中年男性は存在する。諦めてはいけない。もし今アルバイトをしているのなら、そのアルバイトでスキルを磨かなくてはいけない。スキルの身につかない仕事をしている非正規雇用という言葉には多分に嘘が含まれている。スキルの身につかない仕事はない。どんな仕事でもスキルは身に就く。誰にでもできる簡単な仕事であったとしても、経験半年と経験ゼロでは大違いだ。同じ賃金で雇うのであれば、雇い主は経験半年を選ぶに決まっている。高望みをしてはいけない。まずは選ばれなくてはいけない。自分が選ぶなどという理想を語ってはいけない。自分に選択の余地があると思ってはいけない。中年男性はそもそも生きていなくても世間は困らないという現実がある以上、選択するのは贅沢だと気づかなくてはいけない。そして、正規、非正規にかかわらず職場があることを神に感謝しなくてはいけない。ここで言う神は特定の宗教を指してはいない。神でも仏でも宇宙でも自分が信じられるものでいい。目に見えない何かに感謝しなくてはいけない。中年男性が生きていられるのは、目に見えない何かが何とかしてくれているからである。自分に価値があるというようなうぬぼれは捨てなくてはいけない。自分は無価値だというところから出発しなくてはいけない。もし今、仕事もアルバイトもしていないのであれば、条件にこだわらず、何かをしなくてはいけない。親の年金に頼って生活できているのであれば、ボランティアでもいい。私は親の年金に頼る中年ニートを軽蔑しない。そうならざるを得ないだけの事情があったのだろうと同情する。しかし、それでも何かをしなくてはいけない。たとえそれがどれほど小さな一歩であったとしても、踏み出すことは人生を変える大きな価値につながる。そして歩き続ければ気づくとステージが上がっている。人生のステージを上げようとしてはいけない。続けていれば自然にステージは上がるのだから、安心して歩けばいい。

中年男性が人生を逆転することは原則として期待できない。そして、逆説的だがそのような期待を捨てた中年男だけに次へ進む機会が与えられる。なぜなら自分が無価値だと認めている中年男は少なくともうっとうしさという点ではまだましな部類に入るため、他人があなたに機会を与えてくれる可能性はそれだけ上がるからだ。自尊心は捨ててしまおう。心の中で自尊心を保つことは大切だが、それを他人に悟らせてはいけない。自尊心に拘らない人物の方が敬意は集まりやすい。謙虚にしているだけで、あの人は良い人だと言ってもらえるのは数少ない中年男の特権である。中年男は厚かましくてふてぶてしいのが普通なので、できれば早く死んでもらいたいと世間が思っている中、謙虚な中年男性は意外な存在であり、運が良ければ賞賛される。謙虚になることは簡単なことだ。頭を低くするのは簡単なことだ。そんな簡単なことはやらない方が損だとすら言えるくらいだ。謙虚にならなくてはならない。謙虚になることは自分の能力や価値を証明することよりも簡単であり、且つ効果を見込みやすい。

神に感謝し、仕事に打ち込み、余暇は読書や勉強に充て、疲れた時は沈思黙考しよう。他人より得がしたいと思ってはいけない。中年男が得をして喜んでいる姿ほど他人が見てイラ立つものはない。誰も中年男に幸せになってほしいとは思っていない。中年男性が自分の幸福のために努力している姿ほど他人をがっかりさせる光景はない。どちらかと言えば「こんなおっさん死んでしまえばいいのに」とすら思われているのだから、幸せを望むのは以ての外である。小説でも映画でも悪い奴は大抵の場合は中年男である。読者や観客にとって受け入れやすいからだ。中年男は自分の幸福のために努力をしてはいけない。その逆をしなくてはならない。他人の幸せのために努力しなくてはならない。他人の幸せに貢献する中年男性は大勢いるし私はそういう中年男性を尊敬するが、それは当然のこととされているために、それだけで賞賛されたり尊敬されたりすると期待してはいけない。しかし、それ以外に存在を認めてもらえることはないと知らなくてはいけない。繰り返しになるが、神に感謝し、仕事に打ち込み、読書と勉強と沈思黙考によって人格を高めよう。人格を高めるということは如何に効率よくかつ適切に他人を幸せにできる能力を持つかということであり、あらゆる努力は仕事であれ読書であれ思考であれ、そのことに費やされなくてはならない。人格を高めることに終わりはない。従って、諦めている場合ではないし、くさっている場合でもない。今すぐにでもその作業に取り組まなくてはいけない。そして根気よく取り組まなくてはならない。強調するが、それ以外に中年男性が幸せになることはない。