一夫一婦(モノガミー)に関する議論

一夫一婦(モノガミー)については、これまで数えきれないほどの真剣な議論がなされてきたと言える。現代社会では一夫一婦は普通のことだが、果たして本当に普通のことと言えるかどうか疑問を呈す人たちがいるからだ。

60年代のアメリカから始まったものだが、世界的に性に対する考え方が開放的になったことが大きな理由の一つだと言えるし、19世紀から広がった厳格な恋愛至上主義とも関係があると言える。

性に対する考え方が開放的になった結果、人々は生涯のうちに複数のパートナーと出会うことが普通になったが、多くの場合は結婚という制度によって人生最後のパートナーをこの相手と見定めてある種の契約関係を結ぶが、時には離婚し、契約関係を解消する。離婚は精神的にもダメージが大きいし、経済的にも大きなダメージを受けることがある。更に周囲の人間からの評価にも直結することがあるため、結婚制度そのものが人の生活にある種の足かせをかけるという考え方があるのだ。

結婚制度そのものを否定するつもりはないが、仮に結婚が「愛」を前提として結ばれる契約だとすれば、人の心はうつろいやすいため愛が失われるリスクは常に潜んでおり、仮にリスクが顕在化した場合のダメージは繰り返しになるが計り知れない。それでも一夫一婦制を守り続けますか?とする問題提起だと言ってもよい。また、厳密な恋愛至上主義者は愛を感じている時は共に過ごすが、愛が失われたと判断したら即座に別れることがより道徳的な選択であると主張する場合もある。ロジックとしては間違っていないとも言える気がする。

恋愛結婚は60年代以前から欧米中心に主流になりつつはあった。これも恋愛至上主義の一形態だった。ロマン主義が流行し、永遠の愛、生涯の愛というロマンチックな言葉を用いて結婚する理由としたのである。18世紀くらいから広がり始め、20世紀には相当に幅広く支持されるようになった。しかし社会心理学者のエーリッヒフロムは、結果として結婚が市場になってしまい、個々人は自分の値打ちをできるだけつり上げることにより、より値打ちのあるパートナーを得ようとしていると『愛するということ』で指摘した。生涯愛することを前提とするパートナーを市場価値で競い合い手に入れることが果たして「愛」なのか、とする鋭い疑問である。

ロマンチックな恋愛結婚という概念が生まれる前は結婚は家同士が主として財産や政治勢力の拡大のために行うものであり、たとえばハプスブルク帝国やブルボン王朝はそのようにして支配を拡大していった。日本でも政略結婚はよく行われたものであり、これについては説明不要であろう。

政略結婚を行うのは特権階級かとてもつもない富裕層である。彼らは結婚という手段を用いて力の維持と拡大を図ったが、それによってたとえば王や貴族、日本でも封建領主は大勢の女性を独占することができた。一夫多妻である。

一夫多妻に憧れるようなことを言う人が時々いるが、男女の数がほぼ同数であるにもかかわらず一部の男性が女性を独占するということは、残りの大多数の男性には一生女性と縁がないかも知れないということでもある。特権階級に生まれてくる自信のある人は一夫多妻に憧れても道理に合うが、これは完全に運の範疇になるので、そのような自信のある人はいないだろう。

さて、一夫一婦はヨーロッパで市民社会が確立される過程と同じ道程によって定着したと私は思うのだが、この一夫一婦制度によって、男にとっては特権階級に生まれなくても結婚できるという利点があり、女性にとっても特権階級の男性に支配されるというリスクから自由になれるという利点があったと言える。言い換えれば、ほぼ全ての普通の人にとって、結婚できるチャンスがあったという共産主義みたいな仕組みだったと言えるかも知れない。

しかし、その一夫一婦(モノガミー)はもしかするとだんだん崩れ始めているのかも知れない。離婚経験者は普通にごろごろいる時代になった。不倫は後を絶たない。ただ、離婚しない人の方が多いし、多分だが、不倫しない人の方が多い。これについては多分、としか言えないが。

少なくともアメリカの海岸沿いに住む人たちからは結婚制度そのものへの疑問が提出されており、結婚は人間を拘束し、時には抑圧する制度なのではないかと指摘する人もいるようだ。フランスでも事実婚が多いと言われるが、それが事実だとすれば結婚制度が充分に機能していないか、必要ないかのどちらかだと言えるだろう。

とすれば、あるいは結婚は必要ないかも知れない。私はここでその是非についての決着をつけるつもりはないが、人の心が揺れ動くもので、より自由を大切にしたいのであれば、結婚という制度そのものを取っ払ってしまい、その時、その時で真実に恋愛感情を持つ相手をパートナーにすることも決してナンセンスとは言い難い。私はアメリカの海岸沿いの住む人たちの意見について述べたが、アメリカの内陸部では今でも厳格に生涯一人のパートナーに倫理的な正しさを感じている人が大勢いることも確かだ。B級のアメリカ映画で保安官が地元の既婚女性たちと浮気しまくっていたという告白が、物語のクライマックスになるというのを観たことがあるが、日本の気の利いた映画ならようやく物語が始まって、さてこれからが修羅場だという程度の衝撃度しかないはずで、正直、つまらない映画だったが、それがクライマックスとして成立すると信じる人が一定程度いるのは事実なのだから、それほど一夫一婦の美しさを信じている人も多いということも忘れてはいけないだろう。

さて、これから世の中がどちらへ向かうかはなんとも言えない。過去50年ほどの人間の思想の歩みは性差別や人種差別と撤廃していくために大いに力が尽くされた歴史だったと私は思う。結婚制度を辞めてしまおうという試みは、一方において女性を家庭から解放するし、男性も家を養うという社会的圧力から解放されるかも知れない。自由奔放な性行動によって生まれてくる子供は公的な扶助や機関によって国家や地域が一緒に育てるという選択肢はもちろんあり得る。前衛的な意見を持つ人の中には、パートナーを複数、互いに共有し合うようなイメージを持っている人もいるようだ。それがいいことかどうか、私には分からないが、否定はしない。

ただ、漠然と、なんとなく思うのだが、おそらく人類が結婚という制度から自由になった結果、大勢のパートナーに恵まれる人と、生涯パートナーを得られない人に分かれるだろう。新たな格差になるような気もする。世の中が悪いとか言っても始まらないので、そこでどうやってうまく生きるかは個々人が試されるとしか言えないのかも知れない


ビューティフルマインドの逆転人生を考える

プリンストンの天才ナッシュ教授はいつのころからか統合失調症を発症し、ありもしないソビエト連邦のスパイ網の暗号コードを新聞や雑誌から読み解き始める。彼には親友もいるし国家機密級の仕事のための相棒もいる。しかし、親友も相棒も実は彼の脳が生み出した幻覚であり、彼は精神病院に強制的に入院させられることになる。

その後退院するが、毎日服用する薬の副作用で頭が充分に働かなくなり、天才的な数学者だったはずが、まったく仕事ができない日々を送るようになる。妻が仕事をし、家族の生活を支えるのだが、当然に重苦しい日々を送らざるを得なくなる。妻は時に彼の症状に付き合い切れなくなるからだ。

だが、やがて彼はかつてのライバルでプリンストンの教授になった友人に頭を下げ、社会適応のために図書館へ出入りする許可をもらうことができ、長い長い日々を図書館通いで過ごすのである。幻覚の親友と相棒はついてまわるが、彼は意を決して彼らを無視する。このまま人生を終えてもおかしくはないのだが、とある学生に質問をされ、それに答えるうちに私的なゼミのようなものを開くようになり、やがて教鞭を取るところまで社会的に回復し、最後の最後でなんと若いころに書いた論文の成果が認められノーベル賞を獲るというジェットコースターのような人生を描いた映画が『ビューティフルマインド』だ。

彼の人生を俯瞰すれば、全体として成功しているように見えるが、病気との格闘は絶望的な心境に彼を陥れたに違いなく、それ以前の経歴があまりに素晴らしすぎるからこそ、療養生活を送らざるを得ないことは堪えたに違いない。

果たして彼を救ったのはなんだったのだろうか。私は二度この映画を観たが、もし自分だったらと我が身を振り返らざるを得ない。妻が彼を見棄てなかったことは大きい。人生で最も辛い時の同伴者が彼の妻だった。そのようなパートナーがいる人は幸福だ。そして若いころ、すでに発症していたが、本人も周囲も気づいていないような時に仕上げておいた仕事が彼を社会的な復帰に大きな助けになった。

私は、私のようなコミュ障が彼と同じ境遇になった時に自分を支えてくれるパートナーを得られるかと自問したが自信はない。また、今仮にそういう境遇になった時にそれでも自分を助けてくれるだけの仕事の蓄積があるかと自問しても自信はない。

しかし、彼が彼自身を救うことができたのは、発症以前の栄光だけによるものではないことも繰り返しみると分かってくる。彼はまず、自分が病人であることを認めることにより、症状に苛まれなくなった。正確に言うと症状は続いたが、幻覚に自分の行動が影響されなくなる程度にまでコントロールできるようになった。自分が病人だと認めなければ、症状をコントロールすることもできない。彼は重篤な病人だったし、社会的な居場所を一時的には失ったが、病人だということを自覚した上で、友人に頭を下げ、じょじょに社会適応し、やがて社会復帰を果たしたという側面は否定しがたい。彼は不運な病によって人生の敗北者だと感じたかも知れないが、人生の敗北者だということを認めることにより一歩ずつ回復へと歩いて行ったのだと言える。

この作品から我々のような凡人が得られる教訓は、自分がもし何らかの理由で不愉快な立場に転落してしまった時、過去の栄光にすがろうとせず、自分の現状を素直に認め、真摯に取り組むことで、人生をやり直すことではないかという気がする。

私にも他人には言いにくい深い挫折の経験がある。そしてその挫折から今日に至るまで、苦しみ続けてきたが、一歩ずつ、社会的にも人間的にも回復を重ねて来た。そのため、ナッシュ教授の人生を完全な他人事と片付けることができない。私は挫折したばかりのころはそれを受け入れることができず、今も完全に受け入れることができているかは分からないが、少しずつ挫折を認め、挫折した自分という立ち位置を認め、そこから回復するためのプランを練り、そのプランの全てが実現したわけではないが、ある程度は実現したので再び自分の人生を歩いているという実感はある。挫折した時、挫折したことを認めることが人生をやり直す第一歩になると言えるのかも知れない。

もう一つ得られる教訓としては、人生一寸先は闇であり老若男女問わず、いつどこで何が自分の身に起きるかわからないが、それまでに積み重ねて来たものが身を助けるということが言える。ナッシュ教授は入院させられる前に学位も獲り、実績も残したことがその後の人生の回復に役立った。我々がナッシュ教授ほどの大成果を残すことは難しいかも知れないが、それでも、もしものことが起きたとき、それまでに積み重ねてきたものが自分を助けるのだとすれば、日々の行いや精進、真摯な取り組みが大切だということは言えるだろう。いつ何があるかわからないからこそ、何事にも真摯に取り組むべきだ。真摯に取り組んだことの全てにいい結果が出るとは限らないが、取り組まなければ結果は決して出ない。それに、案外、自分で気づいていないだけで、自分の取り組みはそれなりに報われているのかも知れない。


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心理的な傷から如何にして立ち直るか

心理的な傷は時間軸で言えば短期的なものと長期的なものに分けることができる。そしてその立ち直り方は消極的なものと積極的なものに分けることができる。心に傷を一切負わずに人生を終えることができる人はおそらく皆無である。私も自分の心理的な問題を解決するために様々な努力をしてきたし、現在もそれは継続中だと言える。ここでは、私なりに心理的な傷から立ち直るために実践したことや学んだこと、その効果などを手短にまとめてみたい。

まず、心理的な傷の短期的なものというのは、たとえば誰かに批判されたり、ちょっとしたことで相手の怒りを買ったり、仕事でミスをしてしまったり、飲み過ぎてしまったりして落ち込んでしまった場合のようなものを指している。そして長期的な傷というのは主として幼少年期にたとえばイジメにあったとか、虐待されたとか、或いは事故にあったなど人格形成期に於ける傷が生涯にわたってその人の心を苛むような類のものを指している。短期的な心の傷を受ける要因は主として普段は忘れるようにしている長期的な心の傷の再生みたいなできごとであるため、短期的な心の傷も突き詰めれば長期的な心の傷が起因しているということができるため、突き詰めれば長期的な心の傷を如何にして治癒させるかということが課題になる。ただし、長期的な心の傷の治癒には積極的な療法を長期間断続的に行わなくてはならないため、これを読んですぐに解決するようなものではない。場合によってはさっき傷ついたからその治癒の方法をこの記事で知りたいと思う人もいるはずであるため、先に短期的な問題、直近の問題について取り扱い、続いて長期的な解決について取り扱いたい。

短期的な問題、たとえば誰かに嫌なことを言われたり、仕事をミスをしたりという場合、消極的な治癒方法はそれなりに有効である。消極的な治癒方法とは簡単に言えば時間が解決するということだ。私の場合、激しく落ち込んだ場合も二週間もすればどうにか気力を取り戻すことができる。経験的にマックスに落ち込んでも二週間程度で回復できるため、傷つくようなことが起きても「二週間の辛抱だ」と思うことにしている。実際、数日前にちょっとここでは言えないくらいショッキングなことが起きたが(そのことについて私が悪いとはちょっと思えないようなことだった)、今は次第に回復基調に入りつつあり、個人的な経験測として「二週間もあればだいたい大丈夫」という考えがあるため、結果としては「いつまでこの苦しみが続くのか」という不安からは解放されやすく、その分、心理的な立ち直りは楽にできるようになってきた。これは最近そうなってきたのであって、何度もショッキングなことを経験するうちにようやく気付くことのできた私の心の内側での現象であると言える。短期的な問題についてはその他にとりあえず寝るとか、お酒などの嗜好品にとりあえず逃げ込むとか、週末は自宅に引きこもってyoutubeやnetflixを視聴して何も考えないようにするなど、消極的ではあるが、ある程度の積極性(お酒を飲んだり、何かを視聴したりするのでなにがしかの行動は伴っている)を持っているが、これは耐え難いと思える経験が生じたとき、自分を現実から一旦切り離すことで痛みが軽減するのを待つという方法になる。短期的な心理的な傷に対する積極的なアプローチはカウンセラーに電話するということを私個人は今でも時々やっている。心の痛みを軽減するために他人に話すということは効果があるが、友人にいちいち相談することは、度が過ぎると友人を遠ざけることになりかねないし、自分の恥ずかしい面を友人を見せる場合もあるため、私はわりと慎重である。カウンセラーであれば、他人に話せないことを話せる上に、自分との相性が合う相手であれば適切な意見交換を行うことにより、痛みをかなり軽減させることも可能だ。心理的なショックを受けた場合、私の場合、何が起きているのか理解できない、私が悪いのか悪くないのかも判断できない、原因も分からないという軽いパニックを起こすことになるのだが、いい大人が「パニックだ」と騒いでも信用を落とす以外の効果はないため、とりあえずその場はぐっと耐え、時間を見つけてカウンセラーに電話することにしている。当然後で料金を払わなくてはならないが、一時的にとはいえパニックになっている場合、それこそ死んでしまいたいと思うこともあるから、自分の生命に比べればカウンセリング費用はむしろ衣食住同様の必要経費と言ってもいいと私は考えている。死ぬより金を払う方が断然いいに決まっているからである。カウンセラーを話すことによって、自分の身に何が起きたのか、何が原因で、善処する方法はあるかということについて考えることができるようになるため、無用な危機を避けることもできる。ショッキングなことが起きれば数日間は見た目には普通でも頭の中はパニックになっているため適切な判断ができない状態になっている可能性があり、それでも仕事をしたり日常の選択をし、社会的に行動しなくてはならない。パニック状態のままそれらを遂行すれば無用に傷口を広げることも起きかねないので、私はカウンセラーに頼ることはリスクコントロールの面を有するとも思っている。著名人になればなるほどお抱えの占い師がいたり、宗教的なものに頼ったりする傾向があると聞いたことがあるが、それは、そういったことがリスクコントロールになり、例えば逆ギレするなどの本来なくていいはずのカタストロフを避けることになるのだと言える。

では、長期的な問題について考えたい。よく時間が薬というが、長期的な心理的な傷は時間では解決しない。放置しておけば生涯にわたり本人を苛み続ける。上に述べたように短期的なショックの由来も長期的な心の傷に由来しているため、明朗な人生を送るためには長期的な心の傷に対して戦略的なアプローチを考えなくてはいけない。高額なセミナーに行ってある程度良くなるという人もいるかも知れないから、完全に否定はしないが、個人的にはおそらくそういったアプローチは短期的な効果しか持たず、根源的な治癒には至らないのではないかと考えている。長期的な心の傷は、その人の認知と行動に影響する。人は心の傷によって認知と行動がある程度決定されてしまい、それを繰り返し、その人自身という人格が作り上げられていくことになる。そのため、長期的な心の傷の治癒のためには認知と行動を忍耐強く変えるように努力し、最終的には自分は別人格になるくらいの覚悟も必要になる。認知を行動を変えるというのは、たとえば「私はいつも嫌われる」という認知がある場合、それは幼少期にイジメを受けたりしたことからそういう認知が生まれるわけだが、「必ずしもそうではない」「場合によっては好かれる」という認知へと変化させていくよう自己内対話を行うことになる。この自己内対話が上手にできるようになるためにカウンセリングを利用することは有効かも知れない。自己内対話が上手にできるようになれば、自分できるためカウンセラーの力は必ずしも必要ではない。カウンセラーにはクライアントの根本的な心理的問題を解決することはできない。経験を積んだカウンセラーであればそのことはよく知っている。新人のカウンセラーはカウンセリングで人を救うことに無限の可能性を感じている場合があり、その場合はカウンセラー本人も自分の心の傷を治癒するためにカウンセリング技術に頼りたいという願望があるため、クライアントに対しても「絶対治癒できる。治癒させよう」という姿勢で臨むが、私の経験で言うと、カウンセラー本人にそのような力はない。内科医は患者に薬を投与したり安静にするよう命じることはできるが、病気そのものはその人の生命力で治癒していくのに似ている。ただし、たとえば風邪は自然治癒する可能性が高いが、心理的な傷はそうではないため、「うつは心の風邪」のような楽観視はできない。「うつは心の癌」だと私は捉えており、放置すればキルケゴールの言うように死に至る病になる場合もある。

ここまでに長期的な治癒の手段として自己内対話を上手に行うことで認知を変化させるということを述べたが、自己内対話を理屈抜きで強引に良い方向へもっていこうとするのがいわゆるアファメーションと呼ばれるものであると私は考えている。たとえば斎藤一人氏の「愛してます、ついてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、ゆるします」であったり、「私は愛と光と忍耐です」のような「天国言葉」を毎日繰り返し唱えなさいという教えは、現実が如何に望ましくないものであったとしても、強引に自分に今の現実は素晴らしいと認知させることで、即ち認知を変えることで行動が変化し、結果として人生も良くなるとする考えが基本になっている私は理解している。斎藤一人氏については賛否あると思うが、アプローチとしては正しいと言える。自己内対話によって認知を変化させることには限界があるからだ。人にはどうしても「こうとしか考えられない」という認知がある。そのため、自己内対話をどれだけ深めても突き詰めたコアな部分の認知を変化させることは難しく、そこまでで納得するか諦めるかをせざるを得ない。しかし、斎藤一人氏のようなアファメーション方式では、理屈抜きで認知を変える言葉を自分の頭に強引に押し込んでいくため、自己内対話の壁を超える可能性はある。認知が変われば行動が自ずと変わるため、得られる結果も自動的に変わってくる。高額な心理療法、たとえば前世療法や催眠療法などの手段で認知を変えることはあり得るが、アファメーションは無料でできるため、金銭的にもお得と言える。ただし、忍耐強くやらなくてはならない。コアな部分の認知は何十年も保たれ、その人の人格そのものになっているため、アファメーションもある程度のところまでいくと固い壁を破るのに相当な根気を要することになる。自我が抵抗するのだと言い換えることもできる。ではどうするかというと、私の場合、カウンセリングとアファメーションの双方を利用することにしている。カウンセリングで自分の抱える問題を整理し、アファメーションをするのである。この場合、問題の核になる部分の整理ができた状態で行うため、自我の抵抗を受けにくくなるからだ。

私の経験に基づくものだが、以上述べたことを生活に取り入れるだけでも人生は良くなるはずだし、心理的な苦しみは相当に軽減される。しかし、それだけでも完全な解決ということには至らない。人は結果を良くすることにこだわってしまうからだ。「私は人に嫌われる」という認知を「必ずしもそうではない」と変えることができたとしても、人に必ず好かれるとは限らない、嫌われることはあるし、或いは実際に嫌われているとは言えなくても嫌われたと判断せざるを得ないようなことも起きる。そのようなことはアファメーションをしていても起きるため、アファメーションには効果がないと落胆することも起きるだろう。

ここを乗り越えるのが最大の難関であると言える。「私は人に嫌われる」という認知を矯正しても嫌われることがあるため、人に好かれているという実感を得たいという効果を求め続ける限り、「やっぱり嫌われた」の堂々巡りに陥る危険がある。ここでようやく自分を別人格に変化させる、或いは昇華させるという次元の問題に取り組まなくてはならない。それは「私は人に嫌われても大丈夫」という信念を自分で創造できるかどうかということであり、これはカウンセリングやアファメーションだけで乗り越えられるかどうかは疑問である。カウンセリングは無理にクライアントを変えようとはしない。また、アファメーションは自我の抵抗に合う。また、人は自我を守りたがる。そこを越えられるかどうかは、今の私にとっても課題であるため、ここでこうすればいいという結論を出すことはできない。しかし、ここに気づくことができている以上、そのように自分を昇華させることはできるのではないかとも考えている。「私は人に好かれているか嫌われているかを問題にしない」という信念を確立することができた場合、私は純粋に他人の意見を無視して自分のやりたいことに取り組むことができるし、自分を活かした人生を実感することができるかも知れない。繰り返しになるが、そこまでたどり着くための方法論を私はまだ確立していない。ここまで来ると言語化できる方法論が存在しないため、瞑想や座禅という、ちょっとワープした手法へ移行せざるを得ないかも知れないし、過去の偉人たちの多くが瞑想や座禅にたどり着いたのも同じ理由ではないかと察せられる。

しかし、問題の整理ができていないまま瞑想をしたところで過去の心の傷から解放されるわけではない。問題は頭の中を堂々巡りするだろう。カウンセリングとアファメーションと瞑想を日常に取り入れていくことで「私は大丈夫だし他人にも愛を持って接することができる」という心境に入れるのではないかと思う。この場合、私は他人に愛されなくても大丈夫だという信念を確立しているため、他人が私を愛するかどうかは関係なく他人を愛することができるようになるはずである。ここまでくれば仙人の領域かも知れないし、一生かけて辿り着けるかどうかは分からないが、目指す価値はある。目指してみたい。真実にその領域に辿り着いた時、過去の心の傷は治癒したというよりは問題ではなくなるはずなので、結果として治癒したことになると言えるかも知れない。

不遇の時期をどう過ごすか

須田慎一郎氏の自己プレゼンテーション

最近は見なくなったんですが、ネット配信で『そこまで言って委員会』をよく見ている時期がありました。で、多分、私が最後に見た回だと思うのですが、パネラーに「自分は何に依存していると思いますか?」という緩めの質問があり、その時に須田信一郎氏が「ネオン症候群」と答えていたことに私は衝撃を受け、人生についてより一歩深く考えることになってしまいました。

ネオン症候群とは要するに夜になるとネオン街へ行きたくなってしまって自分でもコントロールするのが難しいということなのだと思いますが、須田慎一郎氏曰く、「男を磨く」ために夜の街、要するにホステスさんのいるようなお店へ行くのだということらしいのです。

それは私にとって衝撃でした、私は誘われたりして何度か行ったことはありますが、面白いとも何とも思えず、なんだかよく分からん…という心境で帰宅した思い出しかなく、自発的に行きたいとは思わないからです。ですから無駄遣いをするためにでかけるように思えてしまいます。しかし、おそらく想像ですが、客としての気合の入り方が違うのではないかという気がしました。私のような普通の人間の場合、ホステスさんと話しをして「わーきれいな人と話せてよかったな」と思わせるというのがこういうお店のサービスだと思うわけですが、須田氏の場合はそうではなく、本来、従業員として働いているホステスさんが話を合わせてくれるような場所で、客としての自分が気を使い、ホステスさんを楽しめ、結果として人間性を高めるという、そういう場所だと認識しているのではないかと私は考えました。

そのように考えると他の番組で須田氏が出て来た時のアドリブの瞬発力は夜の街で磨かれたものなのではないかという気がしてきます。須田慎一郎氏は顔はめちゃめちゃ怖いです。お会いしたことはないですが、男の私がお会いしてもびびるのではないかという気がします。しかし、彼がテレビで見せているような「おちゃめ」感、自虐もちょっとやってみる感のギャップを彼は意図的に演出していて、目の前の人の心を捉えるというストラテジーを持っているように思えます。こわい顔の人がおちゃめぶるということにどの程度の効果が見込めるのかは正確には分かりませんが、効果の上がる相手がいることは間違いないはずで、そのように思うと、自己投資として夜の街へ出かけていく須田慎一郎さんは凄い人だと私には思えてきます。

人格磨きと呼ぶべきなのか、それとも自己プレゼンテーションの訓練と呼ぶべきかは微妙なところはありますが、人間関係に於ける自己プレゼンテーションがうまくなれば、単に女性相手だけでなく、磨き込むことによって男性相手でも人の心の機微に入り込むことができるようになるのではないかと私は想像します。人格磨きという点では私は大学で学生相手にかなり揉まれています。教師は偉いから学生相手は楽だということは全然ありません。教育サービスを真剣に受けたい学生と楽に単位を取りたい学生の両方がいて、彼らはみな気まぐれで、気に入らなければ授業にも出てきません。強制できませんから、授業に来たいと思ってもらえる内容作りに私は心身をすり減らし、これは人間性の訓練であり、職業人としての試練でもあると思って努力しています。なので、須田さんも私も同じなのだと強引に結論して自分を安心させることにします。きっと他の人も、みんなそうです。職場や学校で人格磨きをして、人としても職業人としても向上の努力をしていくしかありません。いつの日か「あーむくわれたなあ」と思えるかどうか。努力しなければ思える日は来ません。がんばりまっす。


就職試験に有利な作文の書き方

就職試験では作文や小論文を課されることはよくある。従って、それなりにニーズがあると思うのでここで1000字前後の文章を書かなければならないという状況が生まれたと仮定し、合格しやすい文章の書き方を確認しておきたい。

まず最初に注意しなくてはならないのは、自分が今から何を書くのかということを宣言することである。就職試験では予め一定のテーマを与えられていることもあるし、自分でテーマを設定することもあり得るが、仮に自分でテーマを設定する場合は題名によって自分の書くことを宣言しなくてはならない。それはたとえば『戦艦大和の最期』でもいいし、『最近の気象変動について』でもいいし、『政治的指導者の発言の共通項』でもいいし、『湘南に遊びに行った際の注意点』でもいい。どういう題名であれ、読み手がその文章には何が書かかれているのか、自分がそれを読むことでどういう情報を得られるのかを伝えるために、宣言するのである。そのため、分かりにくすぎるものは避けるのが好ましい。一般的に誰でも知っているような名詞を用い、そこに自分は何を付け足すのかということについて説明的な文言を入れることが望ましいだろう。たとえば『戦艦大和の最期』であれば、戦艦大和は有名な固有名詞なので大抵の人は知っているだろうし、そこに「最期」という印象的な文言が加わることで、読み手は最初から戦艦大和が撃沈された様相が述べられているのだろうということが分かる。共通の趣味を持つ人にだけ読んでほしい場合は「黒い三連星」とか「サイド3」となどの一部の人しか知らないような題名を使用してもいいが、その場合にはできれば付け加える文言は一般的に使用されるものが望ましい。たとえば「黒い三連星にみる連続的攻撃の有効性に関する考察」とした場合、連続的、攻撃、有効性というのは一般的に使用される日本語であるため、何が書かれているのかを読み手は想像できる。逆に「黒い三連星のオデュッセウス」「黒い三連星のチャネリング」のような題名であった場合、オデュッセウスが何かを知っている人、チャネリングに対してイメージを持つ人は少ないので、読み手の理解度は下がる可能性があり、それだけ不利になる。どうしてもそのようなあまり知られていない文言を題名に入れたい場合はそれらの文言を手際よく本文で説明することが求められるが、1000字程度の場合、それはある種の冒険になるので避けた方がよい。根気よく長い文章を書く機会があった場合、それは書き手の人生の結晶であり書き手は命がけなのだから、題名は書き手の気に入るものであるべきだし、それについて筆者からどうあるべきかについて意見はない。その場合は思う存分にするべきだ。

さて、宣言が終わった後、書く方向性としては二つに分かれる。一つはなぜ自分がそれについて書くのかを説明するというもので、もう一つは読み手に対し、この文章は読む価値があるということを説明するというものだ。

自分がなぜそれを書くのかということを説明する場合、具体的な経験を書くのがやりやすいだろう。たとえば友人からあることを相談され、その相談に乗るうちに着想を得たとか、電車の中吊り広告を見てあることに気づいたとか、ネットでたまたま見かけたとかそういうものでもいい。自分がその文章を書くにいたった動機や事情を書けば、読み手としては納得しやすい。読み手は唐突なものを嫌う。説明を積み重ねて納得させるということは人と会話する時と同じだと思えばいい。

もう一つはこの文章には読む価値があるということを読み手に伝えるという方法だが、この場合は結論を先に述べてしまうのが効果的だと言える。たとえば戦艦大和は時代に合っていなかったとか、自然環境は引き返すことができないほど破壊されているとか、逆に自然環境の破壊はメディアが伝えるほど深刻なものではないとか、そういった類いの結論を述べるのである。この場合、続きの文章はそれの説明ということになる。付け加えるならば、上に述べたような経験を先に書く場合も引き続いて文章の結論を書くことになるため、私が上に述べた二つの方法論はどちらも説明する前に結論を述べるという点では一致している。

結論を述べた後は説得的な説明を述べる必要が生じることになる。たとえば戦艦大和が時代に合っていなかったと結論するのであれば、なぜ自分がそう結論するに至ったのかを述べなくてはいけない。この際に注意する点は積み重ねるようにして説明することである。「当時は航空技術が発達したことにより戦艦の砲撃が届かない位置から飛行機による攻撃が有効だったため、各国は戦艦よりも空母の建造に力を入れていた」というような説明が必要になる。文章の展開方法としては、空母の有効性を述べた以上は具体例を挙げなくてはいけない。書かなくてはならない文章の長さに応じて具体例は詳細に述べることもできるし、簡潔に述べることもできる。事例も長さに応じてたくさん挙げることもできれば、一つか二つで済ませる場合もあり得る。戦艦大和に限って言うならば、「戦艦よりも飛行機が優れていることは真珠湾攻撃で証明された」というのが適切なように思えるが、使用する事例を増やしたければ、レイテ沖海戦を挿入することもできるだろう。そしてそれらの事例からなぜ飛行機が戦艦よりも優れているのかを説明する必要が生じてくる。書けば書くほどなぜそうなのかを説明しなくてはならなくなるため、要するに要領よく説明することが文章の本体で果たす機能だということになるだろう。

以上までに事例をいくつか挙げれば、そろそろ結論へと文章は導かれていかなくてはならない。結論は最初に述べているため、その冒頭へと回帰していくと言ってもいい。しかし、事例を挙げた直後に結論を述べるのではない。書き手の分析を入れ込んでいくことが必要になる。その分析はその前に挙げた事例により証明され得るものでなければならないし、読み手が「なるほど」と思うものでなくてはならない。また分析的でなければならない以上、二つの以上の例を挙げた場合、その共通点を探り出すことは説得力を上げることになる。最も望ましいのは読み手に新しい気づきを提供することである。戦艦大和の例ばかりで申し訳ないが、真珠湾やレイテ沖海戦の例を見ると、「大和が有効活用できなかったことは明らかで、それでも乗組員を死に追い込んだのは、海軍の人命に対する考え方に深刻な欠如があったのかも知れない」とか「と言える」とか「と断言できる」とか「と言わざるを得ない」とか「ではなかっただろうか」などの言葉が最後に添えられることになる。この部分は分析になるため、推論を働かさざるを得ず、「かも知れない」という少し弱気な書き方でも問題はない。仮に最後の言葉が多少弱気なものだったとしても、読み手は分析に説得力があるかどうか、先に挙げた事例が分析の根拠として十分なものかどうかで判断するからだ。敢えて言えば「と断言できる」とした場合、読み手は反射的に反論の余地を探そうとするため、文章が読み手と書き手のコミュニケーションだという前提に立てば、「と断言できる」は避けた方がよく、自信を持って言える場合は「と言える」と言い切り、多少自信がない場合は「かも知れない」「ではないだろうか」とするのがいいだろう。傲慢な話し方をする人に対して反発が生まれやすいように、謙虚な文章に対しては反発は生まれにくい。ただ、忘れてはいけないのは事例が分析の根拠として正しいものであり、かつ最初に示した結論に無理なく辿り着けるものでなくてはならない。これができていなければ、最後の言葉がいかに謙虚であろうと読み手は何も学ぶものがなかったとがっかりすることになる。また読み手にとって新しい気づきを提供するという価値を生み出すためには、「時代に合っていないことに気づけば速やかに転換する必要があっただろう」とか「問題に気づけば速やかに対処しなければならないというのは、いつの時代にも当てはまる教訓だ」とか「現代のようにスピードを求められる環境では、戦艦大和の事例を教訓として自分の仕事や生き方に活かせるのではないだろうか」などのように書くこともできる。そこまで展開が及んだ場合、それは読み手にとって明日からの行動を変えようとする動機づけにもなり得るので、価値のある文章だったと判断してもらえるかも知れない。

そして結論を書くのである。この結論は冒頭と全く同じ文言を使ってもいいし、多少を気を利かせてひねった書き方をしてもいい。冒頭と同じ文言を使った場合、冒頭から事例と分析までの一貫性を保てる可能性は高くなるので、無難である。だが、一ひねりあった方がおもしろいとも言える。ここはその時になって、自分が一貫性を保ち、論理的な矛盾を起こすことなく、より気の利いた言葉を引っ張り出すことができるかということになるので、ある程度は運次第だし、その時の体調や心境にも左右される。ただ、読書量を積み重ねることで体調や心境に左右される幅は小さくなるので、読書は毎月払う保険料だと同じだと思ってこつこつ続けることが役に立つ。

筆者はすでにここまでで述べたいことの全てを述べたので、ここで文章を終わらせてもいいのだが、人が話し相手と別れる際に「さようなら」「また今度」「お元気で」という言葉を述べるのと同様、多少気の利いた「結語」を挿入することは無駄ではない。ただし、事例と分析が十分ものであれば、「さようなら」は人の心に響くが、それらが不十分な場合は響かない。事例に基づく分析が重要だということを重ねて強調し、結語としたい。


中年男という「人類の余剰」の生きる指針

中年男は存在しているというだけで周囲に感動を与えることはできない。たとえば乳幼児は歩いているだけで周囲に感動を与える。若い女性が爽やかに笑顔を見せれば、周囲はかけがえのない貴重な瞬間を捉えたと感じるかも知れない。無知な若い男が後先考えずに冒険に飛び出すとき、その無知を笑う人がいるかも知れないが、一方で共感や声援を得ることもあり得る。

中年男性にそのような恩寵は期待できない。私もまた中年男性であるため、その屈辱は充分に知っている。中年男性は生きているというだけでは存在を許容してもらえない。はっきり言えばは生存権すら軽んじられると言ってもよい。若い女性が殺害されれば警察は捜査本部を立て、マスメディアの取材にも力が入り、加害者が逮捕されれば重罰を与えるべきだとする声が起きる。中年男性が路上で死んでいるのが発見された場合、その男性の運が良ければ新聞の社会面の隅に地味に事実関係だけが掲載されるかもしれないが、そもそも警察発表がなされるかどうかすら怪しい。中年男性が死んでも人々の心は乙女の死に比べればさほど痛まないのである。中年男性には広い意味での「エロス」、生き生きとしたライブリーフードのようなものはない。その対極の存在として認識されていることは公然の秘密であると言える。いや、秘密ではなくあからさまな事実であると言う方がより現実に即していると言えるだろう。

中年男性には威厳があると思う人がいるとすれば、それは時代錯誤である。中年男性に威厳はない。むしろ中年女性の方が威厳がある。「大阪のおばちゃん」という謎のカテゴリーの存在は、中年女性は何をやってもゆるされるということを示している。中年女性はパワーに満ちており、時には反論をねじ伏せて高笑いすることも社会的にゆるされており、要するに威厳がある。仮にこれを読む中年男性が自分の威厳を保つことによって存在価値を保とうとしているとすれば、早々に諦めるのが得策である。中年男性が威厳を保とうとしている姿は周囲にとって迷惑であり目障りである。一般的に中年男性に求められていることは、なるべく目障りにならないように周囲に影響を与えように声を潜めて静かにおとなしくしていることであり、そのようにわきまえている限りに於いて生存する権利くらいは認めてやろうという程度のものである。

中には地位や権力、名誉や財産を手にすることによってこの中年の危機を乗り越えられると思う人もいるかも知れない。それはある程度正しいが、限界がある。属する組織で地位や名誉、大きな権限があればその組織の人はかしづくかも知れない。しかしそれはあなたにかしづいているのではなく、権力にかしづいているのである。財力にかしづいているのである。名誉というメッキにひれ伏しているのに過ぎない。一歩組織の外に出てみればうっとうしいおっさんであるという目を背けたい事実に変わりはない。スーパーやコンビニで電車やバスで、自分がどちらかと言えば警戒の対象であると認めなくてはいけない。笑顔を見せれば下心がありそうで気持ち悪いと思われる。黙っていれば不機嫌そうで態度が大きくうっとうしいと思われる。泣けば馬鹿だと思われる。泣こうと笑おうと、如何に工夫しようとも扱いが変わることはない。中年男性は中年男性であるという理由だけで、敗北しているのである。

しかし、死ぬわけにはいかない。私もまた中年男性の一人として敗北感を背負って死にゆくわけにはいかない。従って、中年男性はその動かしがたい絶望的な条件下で生きる道を模索しなくてはならない。これは命のかかった難事業であるが、そうする以外に我々の生きる道はない。

では、どうするか。まず第一は期待しないことである。お店の若い女性店員があなたを素敵な人だと感じることを期待することは諦めよう。あなたはうっとうしいだけの客であり、金を払えば一刻も早く立ち去ってもらうことだけを期待されているという事実を知ろう。職場の若い女性があなたに好意を持つことも諦めよう。そのようなことは大抵の場合は起きない。例外的にそういうことは起きるかも知れない。しかし、それは例外的であるということは強調しておきたい。大学生であれば異性が自分に好意を持つ可能性に期待をかけることは正当である。あるいは三十代半ばくらいまでなら、やはり正当な期待である。女性を見つめれば女性は喜ぶかも知れない。だが、年齢を重ねればそういう期待を持つのは自分の人生が無価値であるということをより強く実感させられることになるだろう。そういう期待は捨てよう。そのような明るい楽し気な未来はない。少なくとも期待している限りは。自分が正当に扱われていないことに不満を持ってはいけない。中年男性は人間の市場価値に於いて底辺に属する。従って、如何に不当と思える仕打ちを受けてもそれは正当な仕打ちなのだと知らなければいけない。

しかし我々にはまだできることがある。それはつきなみではあるが、自分磨きである。中年男性が生存を許されているのは憲法が生存権を認めているからだと思ってはいけない。そもそも今の日本国憲法は、国家の中枢に巣食い利権を貪り、戦争をおっぱじめて世界中の人々を死に追いやったおっさんたちを無力化することを目的にして書かれたものだ。にもかかわらず中年男性が生存を許され、場合によっては発言を許されるのは、中年男性であればきっと知識や経験や見識を備えているに違いないという期待があるからである。その期待に応えることができる限りに於いて、世間様に存在していることをゆるされているのである。しかし、男は意外と幼稚なまま年齢を重ねてしまう。本音中の本音を言えば、若いころのように酒を飲んで騒ぎたいし、ナンパもしたいし、やんちゃなことをやり続けたいものだ。しかし、それは若い男に与えられた特権なのであって、20前後の男性ならば場合によっては憧れの目で見てもらえる可能性もあるが、中年男性がそれをやれば確実に軽蔑されるのである。そのため、我々は残念ながら見識を高めるための自分磨きをしなければならない。肩書はこけおどしには使えるので持っていて損はない。多少なりとも世間的にかっこいいと言われる肩書を持つ人は、神に感謝するべきだ。肩書があるだけで、多少の見識はあるだろうという前提で扱われる。肩書がなければまず見識に耳を傾けてすらもらえないということに自覚しなければならない。なので、肩書を持つ人は幸運だ。しかし、肩書だけで見識があると考えるのは世間の悪しき誤解であることは言うまでもない。肩書以上の見識を持つ努力をしなければならない。読書し、調査し、沈思黙考しなければならない。外見的には不衛生そうな衣服を着ていてはいけないし、中年太りは努力によって解決できるのだから、ダイエットは必須だと思わなくてはいけない。はげはやむを得ないが、デブはなんとかできる。酒もやめるのが賢明だし、タバコも吸わないのが賢明だ。に酔っているおっさんは殺意の対象になるし、タバコを吸うおっさんも同じである。

我々にできることは限られているが、できることは十二分にやらなくてはいけない。今与えられている職業に感謝して精進しなくてはいけない。運不運によって肩書はかっこいいとされているものからださいとされているものまで様々だが、今から全く違う世界に転職することは神業である。それより先にまず今、たまたま与えられた職業をしっかり全うすることに力を入れなければならない。そうすれば、少なくとも職場である程度の敬意を払ってもらえるようにはなるだろう。中年男は敬意を払ってもらえなければ世間の余剰でしかない。少なくとも職場で敬意を勝ち得ないのであれば、その外で敬意を得られることは絶対にないと断言してもいい。

過去、日本には何度か就職難の時代があり、或いは自分探しに走ってしまい定職を持たない中年男性は存在する。諦めてはいけない。もし今アルバイトをしているのなら、そのアルバイトでスキルを磨かなくてはいけない。スキルの身につかない仕事をしている非正規雇用という言葉には多分に嘘が含まれている。スキルの身につかない仕事はない。どんな仕事でもスキルは身に就く。誰にでもできる簡単な仕事であったとしても、経験半年と経験ゼロでは大違いだ。同じ賃金で雇うのであれば、雇い主は経験半年を選ぶに決まっている。高望みをしてはいけない。まずは選ばれなくてはいけない。自分が選ぶなどという理想を語ってはいけない。自分に選択の余地があると思ってはいけない。中年男性はそもそも生きていなくても世間は困らないという現実がある以上、選択するのは贅沢だと気づかなくてはいけない。そして、正規、非正規にかかわらず職場があることを神に感謝しなくてはいけない。ここで言う神は特定の宗教を指してはいない。神でも仏でも宇宙でも自分が信じられるものでいい。目に見えない何かに感謝しなくてはいけない。中年男性が生きていられるのは、目に見えない何かが何とかしてくれているからである。自分に価値があるというようなうぬぼれは捨てなくてはいけない。自分は無価値だというところから出発しなくてはいけない。もし今、仕事もアルバイトもしていないのであれば、条件にこだわらず、何かをしなくてはいけない。親の年金に頼って生活できているのであれば、ボランティアでもいい。私は親の年金に頼る中年ニートを軽蔑しない。そうならざるを得ないだけの事情があったのだろうと同情する。しかし、それでも何かをしなくてはいけない。たとえそれがどれほど小さな一歩であったとしても、踏み出すことは人生を変える大きな価値につながる。そして歩き続ければ気づくとステージが上がっている。人生のステージを上げようとしてはいけない。続けていれば自然にステージは上がるのだから、安心して歩けばいい。

中年男性が人生を逆転することは原則として期待できない。そして、逆説的だがそのような期待を捨てた中年男だけに次へ進む機会が与えられる。なぜなら自分が無価値だと認めている中年男は少なくともうっとうしさという点ではまだましな部類に入るため、他人があなたに機会を与えてくれる可能性はそれだけ上がるからだ。自尊心は捨ててしまおう。心の中で自尊心を保つことは大切だが、それを他人に悟らせてはいけない。自尊心に拘らない人物の方が敬意は集まりやすい。謙虚にしているだけで、あの人は良い人だと言ってもらえるのは数少ない中年男の特権である。中年男は厚かましくてふてぶてしいのが普通なので、できれば早く死んでもらいたいと世間が思っている中、謙虚な中年男性は意外な存在であり、運が良ければ賞賛される。謙虚になることは簡単なことだ。頭を低くするのは簡単なことだ。そんな簡単なことはやらない方が損だとすら言えるくらいだ。謙虚にならなくてはならない。謙虚になることは自分の能力や価値を証明することよりも簡単であり、且つ効果を見込みやすい。

神に感謝し、仕事に打ち込み、余暇は読書や勉強に充て、疲れた時は沈思黙考しよう。他人より得がしたいと思ってはいけない。中年男が得をして喜んでいる姿ほど他人が見てイラ立つものはない。誰も中年男に幸せになってほしいとは思っていない。中年男性が自分の幸福のために努力している姿ほど他人をがっかりさせる光景はない。どちらかと言えば「こんなおっさん死んでしまえばいいのに」とすら思われているのだから、幸せを望むのは以ての外である。小説でも映画でも悪い奴は大抵の場合は中年男である。読者や観客にとって受け入れやすいからだ。中年男は自分の幸福のために努力をしてはいけない。その逆をしなくてはならない。他人の幸せのために努力しなくてはならない。他人の幸せに貢献する中年男性は大勢いるし私はそういう中年男性を尊敬するが、それは当然のこととされているために、それだけで賞賛されたり尊敬されたりすると期待してはいけない。しかし、それ以外に存在を認めてもらえることはないと知らなくてはいけない。繰り返しになるが、神に感謝し、仕事に打ち込み、読書と勉強と沈思黙考によって人格を高めよう。人格を高めるということは如何に効率よくかつ適切に他人を幸せにできる能力を持つかということであり、あらゆる努力は仕事であれ読書であれ思考であれ、そのことに費やされなくてはならない。人格を高めることに終わりはない。従って、諦めている場合ではないし、くさっている場合でもない。今すぐにでもその作業に取り組まなくてはいけない。そして根気よく取り組まなくてはならない。強調するが、それ以外に中年男性が幸せになることはない。


外出中の喫煙は一切しなくなった

禁煙努力を少しづつ続けていますが、最近は外出中は一切喫煙しなくてもよくなりました。タバコとライターがポケットに入っていないことに慣れてきて、喫煙所に立ち寄りたいとも思いませんし、大学で授業をする前後もタバコの必要を感じなくなりました。

自分でもここまでこれたことには驚きです。進歩したと思い、すなおに喜びたいと思います。

問題は自宅にいるときです。自宅にいるときはどうしても気が緩んでいますし、自宅は自分の思い通りに過ごしていい場所ですから、喫煙衝動を我慢するには現状ではまだ限界を感じています。

タバコを吸いたくなったら深呼吸するか水を飲むという手段があるのですが、やはりまだ「ま、いいじゃないか」という心の声が響いてきてしまいます。それでも以前は就寝前と起床後はかなり吸いたい放題吸っていたのですが、数日前から起床後の喫煙はしなくなり、もしかしたら就寝前にリラックスしてぱーっと吸うというのも今後はなくなるかも知れません。自宅で根気が必要な作業を終えたときや食後にかなり吸いたくなり、今は我慢できずに吸ってしまっています。

ただ、タバコは一生辞められないという自己洗脳は解けつつあるように思いますから、今後は食後と作業後の喫煙衝動をいかにしてスルーするかが課題になると思います。タバコとライターは引き出しの中に入れてあって、衝動的には吸わないように工夫はしています。

アレン・カーの『禁煙セラピー』を読み、それはそれで納得できたものですから一機に量を減らすことはできましたが、まだあと一歩といったところです。喫煙の機会が極端に減りましたから、タバコを吸うとクラクラして頭痛がします。いい傾向です。以前のようにタバコを吸って気持ちが充実するということはありません。完全にタバコを吸わなくなる日は近いと信じて、取り組みたいと思います。

タバコは頭痛の原因になりますし、税金のかたまりなのです。それをしっかり自分に教え込むつもりです。タバコを吸わない方が気持ちいいのです。絶対。


タバコを吸わないと「気持ちいい」と自己洗脳する

最近はタバコをやめることばかり考えていて、どのようにすれば無理なくやめられるのかが課題になっているのですが、最終的には自分をどうやって説得できるか、というところにかかってきているように考えるようになっています。

数日前、「タバコは税金のかたまりだからな…」と思うようになり、不必要に余分な税金を払うことは頭に来ますから、タバコは税金のかたまりだと思うことは多少の効果はあるように思いました。しかし、それは喫煙することのデメリットなのであって、喫煙しないことのメリットまでは言い難し…とも思っています。金銭の面を考えれば喫煙しないことは確かにメリットなのですが、精神の面からも喫煙しないことのメリットがほしいところだなあと思っていて、なかなそこの自己説得材料を見つけることが難しいと感じていました。

で、今日なのですが、自宅で作業したりyoutubeみたりするなかで、三回くらいタバコを手に取り、「ちょっと吸わないでみよう」と思ってタバコを手放すというのをやってみたのですが、これがちょっと気持ちいいのです。「自分はタバコをそこまで必要としていない」「自分は喫煙衝動を多少スルーできる程度には強い人間だ」という自己肯定感を得られたのが大きいかも知れません。

あと、多少の矛盾をはらむのですが、脳が疲れているときにタバコを吸うと、一時的に疲労感を抑えることができますので、有効な嗜好品だということに疑いは持っていないのですが、タバコを吸わない場合もちょっと頭がすっきりするというか、それはそれでもやもやが晴れるような感覚がなくもないのです。タバコには風邪薬を飲んで風邪の症状を抑えたはいいけど、副作用で眠くなる。みたいなところがおそらくあって、タバコを吸わないでいると、喫煙のメリットは享受できない反面、副作用のようなものも絶対にないわけです。タバコを吸うとリラックスできますが、多少、頭脳がぼやっとします。頭脳をぼやっとさせて休ませるのがタバコのいいところではありますけれども、なるべく脳がぼやっとしない方がいいとも言えますし、最近は徒歩や少食、断酒などを通じて脳をしゃきっとさせることができるということへの気分の良さを知ってしまい、もっと脳をしゃきっとさせたいというようなことを追求したくなってきていますので、そうかタバコを吸わないと脳がしゃきっとするよなあ、それって気持ちいいよなあ。というようなことに気づくことができましたから、これを自分に説得材料の一つにして、自分をよく洗脳し、非喫煙者への道しるべとしたいと思います。壁には「タバコを吸わないと気持ちいい」と書いて貼ってあります。がんばります。


タバコは税金のかたまりである

現在、タバコを辞めるための理由を見つけ出しては自分を説得するということをいろいろ考えています。タバコは好きなのですが、やっぱりそろそろタバコはご時世的にやめたほうがいいだろうと思うからです。

ですが、なかなか見つかりません。一番の原因はタバコを吸うと太るという不安があって、太るくらいならタバコを吸った方がいいと思ってしまうからです。タバコのにおいはくさいという人がいますが、私はそう思わず、「良い香り」と思ってしまいます。喫煙所でもうもうと舞う副流煙も別に全然嫌だとは思いません。しかし、タバコをやめる合理的理由がほしい…そのように悶々とする中、一つ、タバコを辞めるいい理由が見つかりました。タバコは税金のかたまりだということです。原価やタバコ会社の利益、税金との割合について詳しいことは知りませんが、間違いなく、半分以上は税金で持っていかれているはずです。

生鮮食料品を買うのでさえ税金をとられる昨今、「喫煙者からはいくらでも税金とってもいいよね」という風潮には頭に来ます。きちんと納税していますから、喫煙者だからというだけで更に税金を払わなくてはいけないということは耐えがたい…と私は気づきました。

これはいい理由です。しかも法律違反するわけでもありません。そうだ、タバコは税金のかたまりなのです。喫煙者に対してのみ、不公平と思えるほどの重税が課されている。そのような差別的重税とは戦わなくてはいけない。よし、タバコを吸わないことで税金を払う金額を抑えるぞ!と私はこれから毎日唱えたいと思います。あー、やめられるのかなあ…


京都の天津神社でおみくじをひいた話

数多ある京都の神社の中で密かに人気を集めている小さな神社に天津(あまつ)神社があります。おみくじが良く当たるとの評判ですので、私も一度行ってみたいと思っており、今回の関西旅行で訪問してみました。場所は北野天満宮と平野神社の間あたりで、京都市を仮に四角い将棋盤のようなものだと仮定すれば、正面向かって右手の上あたり、要するに北西の位置にあります。

少し緊張して門をくぐったところ、人影もなくおみくじがひける場所がどこなのかもよく分からず、ちょっと怯んでしまったのですが、建物から神社の関係者と思しきおばさまが出てきてくれました。神社と言えば男性の神主さんというイメージが強いですから、おばさまが出ていらしたことに多少の驚きはありましたし、おばさまは普段着ですので、全く神社らしい印象は受けません。しかし「おみくじですね」と言われ「はい」と答えると親切な雰囲気で畳の上へあがるようにと促してくれました。

畳の敷き詰められた広間の奥に神棚があって、そこに座り二礼二拍手一礼するようにと指示を受け、その通りにすると目の前にガラガラっとふってくじを引くタイプのおみくじの箱があって、おみくじを引いてくださいと指示を受けます。おみくじの箱の隣にはお札がたんまりと積んであり、「相場は1000円以上」ということが分かるようになっています。

おみくじをひくとその言葉を紙に書き留めることができるようになっており、私も書き留めて帰りました。おみくじのお言葉は「縁ありてこそ 信仰に入りぬ よろこんで幸運を守りもらへ」というものでした。神社の方のお話によると、「縁」とは人のことであり、「信仰に入る」とは、縁のある人と人間関係を結ぶという意味なのだそうです。即ち縁のある人に対して感謝すれば、神様はますます守ってくださるということなのだと解説していただきました。大事なことは「悪縁」も縁であるということで、悪縁からも学べるとおっしゃっていただきました。「我以外、みな師なり」と言ったところでしょうか。

私個人にとっては金言です。私はブログをこつこつやるようなタイプですから、人見知りが強い、どちらかと言えば人間嫌い、嫌いな人や苦手な人に合わせていくことができません。嫌いになったらとことん忌避する傾向があります。おみくじにはそこを言い当てられたという感じがしましたので、「良く当たる」と評判の天津神社のおみくじは私にも当たっていたと思います。財布を取り出し「一万円札しかなかったらどうしよう、九千円のお釣りをくださいとはいいづらい…」とちょっと心配でしたが幸い千円札がありましたので、それをお札の束の上に追加して「ありがとうございました」とお礼を述べて立ち去りました。

私の想像になりますが、天津神社のおみくじは全て金言で、誰にでも当てはまる内容のものなのではないかと思います。人には必ず足りないものや、まだまだ人間ができていないという部分があります。そして、貪欲だったり怠惰だったり性格的にねじれていたりというのはある程度誰にでも共通するものですから、どのおみくじをひいてもそれは「当たっている」と言えるのではないかと思います。

とはいえ、だからといっておみくじにご利益がないかと言えばそういうわけでもないと思います。わざわざ京都まで足を運び、更に地図みながら歩き尋ねて神社を訪れ、慎んだ気持ちでくじをひくから心に言葉が響くのではないかと私は思います。ですので、どの言葉をひいてもそれだけの値打ちがあると思えばいいですし、どの言葉をひいても必ず人生の役に立つとも思います。いずれにせよ、私の人生の課題とも言える「人嫌い」を一発でひいたわけですから「天津神社のおみくじは当たる!」と感じました。