信長暗殺の真犯人

信長暗殺の真犯人については諸説あって、もう語りつくされている感もありますが、私個人としてはやはり、朝廷説が一番いいのではないかと思っています。担当者として近衛説を取ることに特に疑問はなく、それで良いように思います。

 信長は朝廷から太政大臣か関白か征夷大将軍がどれか好きなのを選んでくれと全部断ったという経緯があり、安土城に天皇を移すことを計画していたフシもあり、時の勢いも尋常ではありませんので、朝廷が自分たちの立場を揺るがせにされるという不安を現実的なものとして受け止めたとしても全く不思議ではありません。

 更に言えば、過去、朝廷の簒奪を目論んでいた可能性が取り沙汰される人物は悉く暗殺される急病で死ぬかしています。朝廷にはそういう自己保存機能が古くから準備されていていざとなったら発動するというような仕組みでもあったのではなかろうかと完全に私の推測ですが、そう思えてしまいます。それが悪いというわけではないです。天皇制は支持していますので、そのようにして天皇家が乗り切ってきたことはそれで良かったと思います。

 プラスして秀吉や家康がグルになっていたという説もありますが、それも受け入れ可能なものと思えます。みんなで知らないふりをしてポスト信長時代に入ったとしても、それくらいのことはやってもおかしくないだろうと思えます。それぞれに動機は十分にあるでしょうし、だからこそかくも鮮やかに本能寺の変が成功したのかも知れません。

 少しひっかかるのは光秀のことです。彼は本能寺の変の後に諸方面に手紙を書き、協力を要請しますが、必ずしも反応は芳しくなく、光秀は次第に孤立していきます。

 そこまでみんながグルだったのなら光秀が孤立するのは理解に苦しみますが、みんなで光秀に嫌な役割を押し付けて、最後は光秀も切り捨てるというシナリオになっていたとしたら納得できなくもありません。

 だとすれば光秀はずいぶん気の毒な立場に立たされたとも言えそうですが、以上は全て憶測でございます。

松岡洋祐の焦り

 松岡洋祐はオレゴン大学の卒業で、当時の日本人の中でもとくにアメリカを良く知る人物であったと言われます。自他ともにそのように認識していたことでしょう。
 
 その松岡は満州事変の後の国際連盟の勧告を拒否し、脱退の道を選びます。国際連盟脱退は必ずしも本人の意思ではなかったとも言われますが、日本からの訓令もあったらしく、どうしても脱退しない方向でまとめようという決心もなかったかも知れません。何故なら、国際連盟にはアメリカが参加しておらず、松岡としてはアメリカの入らない国際機関の価値はさほど高くないという判断もあったように感じられるからです。

 松岡がアメリカをどれほど重視していたかは、その後の松岡外交がひたすらアメリカに対抗できる軸を作ることに情熱を傾けていたことから理解できます。ドイツのヒットラーと手を結び、その足でソ連に行ってスターリンと中立条約を結びます。当時日の出の勢いだったヒットラーと巨大な陸戦力を持つソビエト連邦と手を結べば、アメリカも日本に顔を向けざるを得なくなるとの期待を持っていたに違いありません。ですが結果としてはアメリカが日本打倒の意をより強くする方向に進んだと見るべきで、英米協調を主軸として安定を図ってきた日本外交の明治以来の伝統から見れば、大失敗、無理ゲーと言ってもよい試みを松岡していたと見て良いでしょう。

 フランス領インドシナ進駐後に始まった対日経済封鎖を解くため、松岡はアメリカとの交渉を担当しますが、アメリカ側から忌避され、近衛内閣は松岡を外すためだけに総辞職し、第三次近衛内閣が誕生します。自他ともに認めるアメリカ通であり、国運を左右する交渉には強い決意で松岡は臨んだことでしょうから、アメリカ側に忌避されて出る幕をなくしたことは本人にとっては相当に残念なことだったでしょう。

 戦後、松岡はA級戦犯に指名され、東京裁判にも姿を現しますが、裁判の初期の段階で病没してしまいます。本人の心中にはヒットラーと手を結んだことがアメリカを本気にさせ国を滅亡に導いたという自覚は十分にあったでしょうから、最期の日々はとても辛い回想を繰り返していたのではないかという気がしてならず、責任の重い人物ではありますけど、かわいそうだなあともやはり思うのです。

昭和天皇はマッカーサーに何を言ったのか

 戦後すぐ、昭和天皇がアメリカ大使公邸でダグラスマッカーサーと会見したことは有名な話です。そこで果たして何が話し合われたのか、昭和天皇がそれについて話すことは生涯ありませんでした。昭和天皇は会見の内容は誰にも明かさないと「男と男の約束」をしたと言っていたそうです。

 一方で、マッカーサーは後に出版した回顧録で昭和天皇から戦争の責任は全て自分が負うので、他の人たちを助けてほしいという主旨の発言があったとしています。

 当時通訳をした人も同様の主旨の証言をしていますので、ほぼ間違いのないことだったのではないかと思います。

 ただ、他の人については戦犯指名が予想される重臣たちのことか、生活に窮乏する国民たちのことか、その両方かということについてはちょっとはっきりしません。

 日本側からは一切その時の発言についての情報は出て来ないのは、当時の段階で天皇が責任を認める発言をしたことが明らかになれば、戦争犯罪人指名のリストに載る恐れがあり、そのリスクを回避するために内容を秘したとする考えもあります。

 責任を認めることで人望を得ることは時代、地域に関わらず、確かにあることですし、あの段階でそれを発言する昭和天皇の腹の括り方は相当なものだとも思います。一方で英米法的司法手続きの思想に則る以上、有罪か無罪かを申し立てる際に、先に外で自分の責任を認める発言しているのは決定的に不利になるでしょう。人の道と法律論の違いとしか言えないものかも知れません。

 では果たして昭和天皇の戦争責任はどう考えるべきでしょうか。様々な研究や議論があることは承知しています。難しい問題なのでいずれ稿を改めて考えてみたいと思います。

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昭和天皇の人物像

 昭和天皇がどんな人か、何を考えていたのか、歴史的な場面で何を思い何を発言したのか、などについて多くの人が関心を持ち、これまでも議論が重ねられてきました。

 一稿で書ききれるようなものではとてもありませんが、昭和天皇の人物像について考える際のアウトラインを少し考えてみたいと思います。

 昭和天皇は立憲君主制の精神をよく理解し、立憲君主であろうと自主的にそのような在り方を目指していたと伝えられています。
 しかし一方で、田中義一首相を叱責し、その叱責を受けて田中首相が辞職するという出来事があったり、226事件の解決に積極的にイニシアチブをとったり、近衛上奏文を受け取ったときの返答、終戦の時の聖断、更には戦後の日本国憲法のアウトラインや安全保障についてマッカーサーと意見交換するなど、随所に立憲君主の枠を飛び越えて、あたかも親政が敷かれていたかのように錯覚してしまいそうな一面も見られます。
 明治天皇や大正天皇の時代でここまで深く政治に関わるということは考えられないことだったはずです。

 これは私の想像ですが、おそらく飛びぬけて頭の良い人物だったのではないだろうか、それが上に述べたような憲法上曖昧な部分が生じる事態へと発展したのではないか、という気がします。昭和天皇は頭が良いので立憲君主とは何かを理解しているけれど、頭が良いが故に政治や軍事に関心が及び、おそらくは性格の激しいところがあって、つい口出ししてしまう。憲法には天皇は政治に介入してはいけないとは書いてないので、周囲も天皇の意思を尊重せざるを得ない。といったところではなかったかとも思えるのです。

 帝国憲法では天皇は内閣の輔弼を受けるということになっており、これは事実上、内閣が仕事をし、天皇は形式上の裁可を与えるということで当時から理解されていました。美濃部達吉氏の天皇機関説が登場したのも、たとえ排斥を受けたとはいえ当時のそのような憲法の運用があったからこそのことと考えることもできます。

 昭和天皇は天皇機関説には肯定的であり、このようなあたりは大正デモクラシーの空気を吸って少年時代を過ごしたリベラルな思考の一片を知ることもできます。

 ある研究では昭和天皇は晩年、自らの戦争責任について悩み、厭世的になった時期もあったとのことですが、歴代の天皇の中でも特別悩み多き人生を過ごされたのかも知れません。

昭和天皇と東京裁判

 東京裁判には批判も多い一方で、サンフランシスコ条約では日本がその裁判の結果を受け入れるとも書き込まれているため、国際法上は有効であるとも言えるように思います。様々な視点から多くのことが語られてきた東京裁判ですが、最大の争点は昭和天皇の訴追だったのではないかと思います。

 キーナン首席検事はマッカーサーの指示で昭和天皇を訴追しないことにしていましたが、キーナン氏本人は昭和天皇訴を追するべきだと考えていたと言われています。また、ウェッブ裁判長もその立場にありながら、天皇の訴追のない裁判はある種の茶番であるとも考えていたと言われます。

 東京裁判では、裁判である以上、誰にどのような責任があり、それをどう償うのかということが明確にされなくてはいけませんが、その引き受け手が東条英機元首相であったと言ってよいでしょう。

 裏側では日本側とアメリカ側が密に連絡を取り合い、昭和天皇を訴追しないことで合意ができたため、開戦の意思決定責任一切を東条英機氏に引き受けてもらうことで話がまとまり、東条氏には弁護人から「天皇の意思に反して開戦した」と証言するように求められます。東条氏は責任は引き受ける覚悟はあったと言われていますが、逆賊になることまで引き受けることはできないと非常に苦しんだと言います。

 東京裁判が正しいのか、正しくないのかなどの議論は今も尽きず、私が生きている間にこの議論が終息することはないと思います。

 しかし、法よりも政治的な要素が濃厚で、正邪の議論をしたところで結論は決して出ないのではないかとも思えてきます。

 昭和天皇が訴追されることは日本側としても絶対に避けたかったはずですから、そこを日米間で取引が成立していたとすれば、日本にも天皇を守ることができたという意味ではそれなりに意義のあったことなのかも知れません。

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昭和天皇と田中義一首相

よく知られている事件ですが、張作霖暗殺事件は関東軍の河本大作大佐が仕掛けたものだと考えられています。
 当時の田中義一首相もそのことは把握していましたが、真相は公表しない方針を選びました。昭和天皇は公表するようにとの意思を示していましたが、田中義一首相はそれを無視。
 昭和天皇は田中義一首相を叱責し、結果、田中首相は辞任します。

 ここで議論になるのは昭和天皇が田中義一首相に対し「辞めろ」と言ったかどうかです。もし立憲君主制の理念を重視するなら、天皇が首相に辞めろというのは越権行為です。叱責しただけなら、越権行為とまでは言えないでしょう。昭和天皇は後に田中首相を叱責したことは立憲君主として不適当だったと反省したと語ったと言われています。その後、天皇は立憲君主に徹しようとしたため、太平洋戦争開戦についてはイニシアチブをとらなかった(よって責任もない)、という話になっていきます。

 さて、ここでどうでしても不思議でならないのは田中義一首相が昭和天皇に叱られて辞職してしまうことです。立憲君主制が徹底されているとすれば、何も悩むことはありません。天皇が首相を好きか嫌いかは政治の運用上、全く問題がないのです。辞める理由はどこにもありません。「陛下はお怒りなのですか?そうですか、ではがんばって信用回復に努めます」と言って涼しい顔で首相を続ければ良いだけなのです。

 ところが、田中義一首相は辞任してしまいます。天皇に嫌われていてはやりにくいでしょうけれど、辞めなくてもいいのです。この辺り、憲法上様々なことが、それまで習慣的に運営されていたものが想定外の出来事が沸き起こり、混乱し始めていたようにも見えなくもありません。

 田中義一首相の個人的な性格や人生観、当時の個人的な事情も或いは絡んでくる可能性もありますねぇ…。

小沢一郎を分析する

 90年代から2010年ごろまでの20年近く、政治に関する報道で小沢一郎氏は欠かせない存在でした。自民党の剛腕幹事長として知られ、選挙の当選請負人とまで言われ、政党を作っては壊す壊し屋としてもよく知られた人物です。

 私が気になるのは、彼はどうしても事が最終的にダメになってしまうという現象を自分から生み出しているのではないかと思える点です。特に人間関係が破綻し何もかもダメになり、一からやり直すを繰り返しているように見えます。

 自民党幹事長時代、今から思えばあの時こそ小沢氏の黄金期だったような気もしますが、彼が重用された背景には金丸信氏の強い後ろ盾があり、竹下登氏もそれを容認していたからだと言えます。しかし小沢氏は竹下氏に強く反発し、金丸信を見捨てて自民党から離脱します。小沢氏が自民党復帰を望んでいたことは、自自公連立政権期に自民党との合併を模索していたところからも分かりますが、心中、自民党が懐かしかったのではないかと私は思っています。

 小沢氏はその政治人生で多くの政治家と協力関係を結びますが、彼の協力者になった人物はたいてい、ろくな目に合っていません。小沢氏だけが悪いのではなく、相手の人物との相互作用でいろいろなことがダメになっていくのですが、悉く人生が狂っていきます。今の段階は、そして誰もいなくなったといった感が漂います。

 小沢氏は少年時代、父親と過ごしたことがほとんどなかったそうです。私も同じなので分かるのですが、父親との関係が希薄だった場合、全てではないにしても同性との関係がうまくいかなくなることが多く、寂寥感を紛らわせるために女性に依存するというパターンが生まれやすいように思います。そのような依存はあまりいい結果を生みませんので、最終的には同性からも異性からも孤立するということに立ち至ることもあるでしょう。女性であれば母親と仲良くしてそれでOKなところもありますが、男の子は母親からは飛び立たなくてはいけません。

 小沢氏が自民党から離脱して新政権を作ったとき、テレビニュースを見ながら高揚感を得たことを今も覚えています。今思えば私も青かったですが、それだけの夢を見せてくれたという意味で、同情する心も込めて、小沢氏の心理的面での分析をしてみました。

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邪馬国はどこにあったのか?

魏志倭人伝に詳しくその存在について記された邪馬台国は大きく分けて畿内説と九州説に分かれます。それぞれに根拠があり、どちらの論陣も一歩も譲らぬ構えのように見えなくもありません。最近は各地で街起こし的に邪馬台国はうちにあったとう人も多いらしく、それはそれでお祭り的で面白いとも思いますが、やはり、では実際にはどこにあったのか?というのは気になるところです。

 まず間違いなく言えることは当時の日本列島にはそれなりに広い地域を支配する王権が少なくとも三つあったということでしょう。九州、畿内、関東にはそれぞれ古墳が多く、大きな物は畿内に多いようですが、数で言えば関東の方が多いとも言えます。もし仮に邪馬台国が日本列島に本当にあったとすれば、以上の3つのうちのどれかということになります。

 地理的に有利なのは九州でしょう。なんだかんだ言って大陸文明の入り口であったことは間違いなく、魏の使節は最初に目にする九州の王権について詳しく述べるというのは自然なことのように思えます。しかし、魏志倭人伝の記述に頼れば、邪馬台国は九州に上陸してからかなり進んだ場所にあったようです。

 王権の強力さという意味では畿内かも知れません。箸墓遺跡の調査が進み、かなり遠方からも様々な人々が集まって来ていたことが確実視されていますので、王権との関係を保つために各地の実力者が定期的に箸墓を訪問していた可能性が伺えます。しかし、畿内説は魏志倭人伝で更に南へ進むと邪馬台国があると記述している部分をきっと東の方向に進んだのに南へ進んだと間違えたのだ、というちょっと強引な解釈を根拠にしています。南と東を間違えるでしょうか?当時はまだ今よりも太陽の方角を意識して移動するでしょうから、それは考えにくいのではないかと思います。畿内に強い王権があったとしても、それは邪馬台国かどうかは少し怪しいように思います。

 関東地方は多分ないでしょう。

 記述を信じるなら、南へ南へと進みます。人々は素潜りが上手く、身体に入れ墨を入れるのが習慣になっています。私は時々、当時台湾の海岸沿いで生活していたであろう、入れ墨の習慣を持っていた原住民の土地に邪馬台国があったのではないかと思うことがあります。

三島由紀夫の『憂国』をどう理解するか?

 三島由紀夫さんが226事件に取材して書いた『憂国』は、若き日本軍の将校が226事件の報を受けて「皇軍相討つ」を避けるための究極の手段として自ら命を絶つという作品です。
 読む人によっては死を美化するだけの陳腐な作品だと一蹴してしまうかも知れません。この稿ではもう少し、ほんの少しだけ深堀して考えてみたいと思います。

 題名の『憂国』が示す通り、国家を憂うが故に死を選ぶということになりますが、国家とはそもそも手に取って触ったり自分の目で見たりすることのできない存在です。それをフィクションと呼ぶこともできますが、国家は法人であるとも言え、みんなで存在することにしようと決めた、決まり事であるとも言えます。

 いずれにせよ、目に見えないものを深く憂うなどということが本当に人間に可能でしょうか?家族や恋人、或いは自分自身のことは目で見て手で触ることができるため、深く心配することは可能です。実体があると信じることができるからです。

 それ故に三島は若き将校が死を選ぶ直前、若い妻とのエロチシズム溢れる場面を濃厚に書き込んだのではないかという気がしてきます。軍隊にいる以上、一朝ことが起きれば命をすすんで捨てる覚悟が必要とされます。しかし国家は実体があるのかどうか、実感することができません。しかし、目の前の若くて美しい妻の存在は自分の五感で感じ取り、その存在を実感できます。若い将校はその実感できる妻と国家が不可分の存在であるというように認識していたと三島は言いたかったのではないかと思えなくもありません。

 「皇軍相打つ」を避けるということは、皇軍すなわち仲間もやはり存在を実感できる国家の一部であったためで、人間的なつながりと「国家」を重ね合わせたということではないかとも思います。

 仮にも戦後を生きた三島が単純な国家主義や民族主義だけで固まっていたとは考えられません。彼は彼なりに国家なるものを実感するための一つの仮説として『憂国』を書いたのではないかと私には思えます。

高橋是清のこと

 高橋是清は財政家として大変有名な人物です。少年時代にアメリカに留学したら現地で奴隷として売られてしまったものの、買い取った人が良い人で、そこのお宅に養ってもらって学校へも行かせてもらったという不思議な運を持つ人としても知られています。

 日露戦争の時はアメリカとイギリスを行脚して日本の公債を売り歩き、戦費を確保したということもよく知られています。高橋是清の地道な行脚がなければ、日露戦争では日本が勝つことはなかったのではないかと思えてなりません。

 日銀総裁を経て大蔵大臣、首相を経験し、更にもう一度大蔵大臣に任命され、最期は226事件で命を落としてしまいます。

 金融恐慌では円を発行しまくって危機を逃れた他、世界恐慌のあおりを受けた後、軍拡することで政府支出を増やし日本をデフレから脱却させ、インフレ基調になると軍縮するという経済政策をする人としてはこれ以上合理的かつ臨機応変に仕事ができた人はそうはいないという感じの人で、今も高い評価を受けている人だと理解しています。

 高橋是清は226事件で亡くなってしまいましたが、もし生きていたらどうだっただろうか?ということをふと思わなくもありません。近衛文麿が対米交渉で行き詰まり総辞職した後、重臣会議で後継首相が東条英機になりますが、もし高橋是清が生きていれば、間違いなくその重臣会議に参加していたでしょうから、持ち前の合理精神で局面打開のための全く新しい視点を持つ球を仕込んでくれたのではないか、という気がしなくもありません。

 もっとも、軍がアメリカとの戦争に積極的だったことを考えれば、早晩、どこかで命を奪われてしまい、結果は違わなかったかも知れません。

 高橋是清を神格化したり、崇拝したりすることは望ましいことではありませんが、バブル崩壊後にこんな感じの人が現れてくれていたらなあと嘆息したくなることもありますねぇ…