オルセー美術館に行った時の話

オルセー美術館に行った時の話をだらっと書いてみたいと思います。

上の写真はオルセー美術館の館内の写真です。フラッシュを焚いたりしなければ館内での撮影はOKなので、決してこっそり撮ったわけではないですよ。ただ、館内の構造が分かるようなこのような写真は撮影したものの、いろいろな作品は道義的に撮影する気になれなかったので、作品の写真はないです。館内の大抵の作品は19世紀に書かれたもので著作権の期限も切れてるので、撮影してブログに投稿しても問題ないのではないかなぁと思います。よく知りません。曖昧で自信がない場合は投稿しないのが一番なのかも知れません。私は撮影していないので、作品の写真は物理的に投稿できません。

検索したらオルセー美術館の作品の画像も手に入りますし、美術館側も撮影OKとしている以上、そういうものだと、写真メディアに流出しても構わないという考えなのかも知れません。人類共通の財産だという考え方もあるでしょう。写真が世の中に出回り始めたばかりのころ、観光業の人は真剣に心配したそうです。綺麗な景色を観るために人は交通費と宿代を支払うのに、写真できれいな景色が見れたなら、わざわざ出かけないのではないかと。実際にはその逆で写真を観た人たちは本当の景色が見たいと思うようになり、もっともっと、と観光する人が増えたそうです。テレビで沖縄特集とか見たら欲求が刺激されて沖縄に行きたくなるのは今の時代も同じではないかなあと思います。

オルセー美術館の屋根は上の写真のように丸いです。なぜこんな形になっているのかというと、もともとは1900年のパリ万博に合わせて建設された駅舎だというのです。歩いて行ける距離にエッフェル塔もあり(パリ市はそんなに広くないので、大抵の場所は中心から歩いて行けますが)、エッフェル塔も1900年のパリ万博に合わせて建てられたものですから、当時、パリ市の再開発が相当に進んだことが分かります。

オルセー美術館には印象派の作品がいっぱいあります。ルーブル美術館とは主旨や方針がだいぶ違うみたいです。私は美術には詳しくないです。学生には印象派と浮世絵の関係の話をすることもありますが、しったかしているのがバレはしないかと内心ヒヤヒヤしています。なんか見たことあるなあと思うのがいっぱいあります。美術の教科書とか、〇〇展の広告の看板とかで見たことがあるというのがいっぱいです。ミレーとかゴーギャンとかゴッホとかルノワールとかそういうのがいっぱいあります。オルセー美術館の作品をきちんと全部分かるようになったら、ヨーロッパのモダン芸術検定みたいなのを受けても(そういうのがあると仮定して)一発OKなのではないかと思います。

特に印象に残ったのは特設展会場でジャポニズム展をやっていたことです。ジャポニズムといってもそんなに大げさなものではありません。19世紀の画家さんたちが作品の中にちょっと浮世絵のオマージュを入れているとかそういった感じのことです。ルノワールはたくさん女性の絵を描いていますが、踊っている女性が手に扇子を広げて持っている絵を描いたとか、モネが安藤広重の日本橋の絵をさりげなくぱくっているとかそういった類のものです。詳しい人に教えてもらえないと気づかない感じのものばかりなので、私も今挙げた例以外のことはよく知りません。

パリ滞在中にオルセー美術館には二度行きました。指定美術館入り放題のミュージアムパスみたいなのを買ったので、有効に使おうとあちこち行きまくり、高かったので元を取らねばと歩きまわった結果、行きたい美術館は大体行ってしまったので、もう一回来たという感じです。ミュージアムレストランがあって、二度ともそこで食事をしました。

その時の食事の写真です。
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特においしいわけでもなく、サービスも良くはありませんが、外のレストランより若干安いです。内装は立派なので、食事が来るまでぼんやり内装を眺めるのもなかなかいいです。

中国人の観光客がたくさんいました。観光客だけでなくパリには働いている中国人もたくさんいます。パリにはラーメン屋さんとお寿司屋さんが沢山ありますが、お店の人は大抵中国人です。わりと美味しいです。私はあまのじゃくなので中国語が分からないふりをしようかとも思いましたが、中国語を使った方が何かと話しが早いので、注文とかは中国語でやりました。相手は僕のことを香港人に思ったかも知れません。どこへ行っても香港人ぽいとよく言われます。外国に行ったら日本人と会った時の方が緊張します。

パリで食べたラーメンの写真です。作っている人は中国人ですが、けっこうおいしかったです。

パリで食べたラーメン
中国人が作ったパリで食べたラーメンです。しょうゆ味でおいしかったです。

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イギリスはEU離脱しない

今、6月21日のお昼ごろです。23日にイギリスでEU離脱を問う国民投票が実施されることで、世界中でどっちの結果が出るのかに注目が集まっています。最近までは世論調査で離脱派が優勢でしたが、今は離脱派と残留派が拮抗しており、全く読めません。また、日本人の私がとやかく言うことでもないかもしれません。あくまでも試みの思考として、どちらになるかを予想してみたいと思います。

結論としては、EU離脱はない。と私は考えるようになりました。以下にその理由を述べます。

離脱派が主として論じているのはEUへの財政負担と難民が流入してくることによる社会不安リスクです。残留派が主として論じているのは、EU離脱後の経済的なリスク、金融不安、EU残留を希望するスコットランド独立派が勢いづくことへの懸念が挙げられます。

では、どちらの方がよりリスクが高いのかと言えば、もはや論じるまでもないことですが、EUを離脱した後の経済的な打撃はイギリスが負担させられるEU財政への拠出金を遥かに上回るもので、シティよりもフランクフルトの方がより大きな打撃を受けるとは思いますが、シティも無傷というわけにはいきません。難民流入リスクがあるとは言え、シェンゲン協定に入っていないイギリスはその気になれば自国の主権で難民を入れないという選択肢を放棄しているわけではありません。更に言えば、ギリシャの財政危機などはユーロに入っているために独自の通貨政策を打てないことにも原因がありますが、イギリスはポンドを維持しているためにその心配もありません。

そのように考えてみると、財政負担以上の経済的メリットがあり、難民流入による社会不安は自国でコントロール可能なわけですから、残留した方が断然お得です。離脱派の「ヨーロッパ大陸人を食わせるために税金なんか使えるか、難民が入ってきたら社会不安になる」はある程度、幻影を煽っているようなものと思えなくもありません。

しかし、イギリス人はヨーロッパ大陸人と感性や価値観などの点で隔たりがあり、日本人と同じく島国根性もあるので、EUに入っているとどっかの国が財政破綻するとかどうとか、難民が入ってきてどうとかという面倒なことに巻き込まれるのは嫌だという発想が根強いために、感情面でのEU離脱傾向に拍車がかかっていたと見ることが妥当のように思えます。

残留派の女性の政治家が離脱派によって殺害された事件は、日本人のわれわれが聞いても大変辛いニュースです。離脱派がイギリス人の感情面に訴えかけるものであったが故に、事件による感情的な離反を直接に受けることにならざるを得ません。離脱支持率が大きく下落したのは、離脱根拠が感情に依拠していたことをよく物語っているように思います。また、難民による社会不安が論じられていましたが、このような事件が起きたことで、実際に社会不安を引き起こしているのは誰なのか?という疑念も沸いてきます。社会不安を高めているのが実は離脱派なのではないか、ということになれば、離脱派の主張は論理的に矛盾していることになります。

おそらくイギリス人は相当に迷っていると思いますが、事件によって離脱派の幻影は水をかけられた形になり、多くの人の迷いを吹っ切るという方向へと流れていくように思います。以上の理由から、投票行動としては残留派が多数を占めるという結論に達しました。予想が外れても記事を削除するとかそういうことはせず、生き恥の証にしようと思います。

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イシグロカズオ『わたしを離さないで』の赦されない愛

イシグロカズオさんの『わたしを離さないで』は文章もきれいで(翻訳者の力量ですが)、内容もいかにもジュブナイルできらきらした感じで透明感があり、何度も読み返した作品です。

舞台はイギリスのどこぞの地方都市、時代は多分近未来。完全全寮制の学校で主人公たちは暮らしています。彼らは勉強にも取り組みますし、恋愛するにことにも熱心な普通の十代の少年少女たちですが、一つだけ普通ではないのは彼らがみなクローンだということです。この設定には賛否両論あり、奇をてらい過ぎという意見もあれば、特に気にしない、おもしろかったという意見もあるようです。

いずれにせよ、彼らはある程度の年齢に達すると臓器提供専用のクローンとして誰かのために少しずつ臓器を提供し、やがて死に至ります。おそらく、批判する人にとっては「あり得ない設定で哀れを誘うな」ということなのかも知れません。

子どもたちはある程度大きくなると外出も許可されるようになり、旅行にも行けます。どのみち長生きできない運命なので、「提供者」になる前に短い人生を楽しむことには学校側もおおらかな様子です。少年少女たちは、いろいろなことが理解できる年齢になると、将来の運命を教師から聞かされ、それを受け入れていくしかないのですが、都市伝説のようにある噂が流れます。それはたとえクローン人間であっても、内面に精神があるということを認められると自由放免され、普通の人と同じように生きていける、提供者にならなくてよくなるという噂です。それはたとえば同じ施設内で暮らす男女が真実に愛に結ばれているということを理事長に認めてもらえると、愛は人の精神が存在する疑い得ない証拠と認定され、外の世界で二人で暮らすことが認められるとか、そういったものです(クローンなので、子どもは作れないという設定にはなっています)。

主人公のキャシーとトミーはその噂を信じ、理事長の住まいも割り出して、直談判に乗り込みます。トミーには描き溜めた独特の絵の束という必勝の成果物があり、その絵は精巧な機械仕掛けのネズミの絵だったりするわけですが、このような作品が描けるということは内面に精神や魂が宿っている、即ちの普通の人間と同じであるということの証明になると理事長に直訴します。しかし、優しそうな初老の女性の理事長は申し訳なさそうに、しかしきっぱりと、いかなる事情があっても施設で育った少年少女たちの運命を変更することはできないと伝えます。ここがこの物語の静かなクライマックスになっています。

このようにしてキャシーとトミーは運命からは逃れられないことを悟り、粛々とそれに従っていくということになるのですが、「クローンというあり得ない設定を持ち出されて感動できるか」という議論は確かにあり得ます。私はけっこう感動したので文句はないのですが、文句を言う人の気持ちも分からないわけではありません。人間ドラマとして成立するかということは大事なことです。

しかし、たとえば独裁政権下で自分で自分の運命を選択できない悲劇というのは実際の歴史に沢山あったわけですから、それをこの物語に擬されているという捉え方もできると思います。また、『電気羊はアンドロイドの夢は見るか?(映画版は『ブレードランナー』)』では人造人間が内蔵された電池が切れる前になんとか自分の生命を延長したいと願ってあがきますが、この作品の場合はむしろ、ロボットなのに人間的である部分が好意的に受け止められたような印象が私にはありますので、クローンが人間的な感情を持ち、運命に抵抗することに人間的な魅力を感じたり、私たち普通の人間にも運命に抵抗しようとあがくことはよくあることですから、自分を投影したり共感したり、感情移入したりできてもいいのではないかなぁと思う次第です。
スピルバーグ監督の『AI』という映画も「ロボットだから感情移入できない」ということでは成立しません。そんなこと言ったらドラえもんは…ナウシカの巨神兵は…とか言ってるとそれはそれできりがありません。

まぁ、いずれにせよ、私は原作も映画も感動しました。イシグロカズオさんの作品は好きです。半分は翻訳者の力量のおかげです。きっと。

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イシグロカズオ『忘れられた巨人』の失われた愛

おそらく6世紀ごろのブリテン島、神話と現実の境界がまだ曖昧だった時代、アングロサクソン民族が成立する少し前の時代、老夫婦が息子の暮らす村を目指して旅をする物語。夫のアクセルと妻のベアトリスは強い愛に結ばれ、互いに気づかい合い、双方を必要とし、守り合いながら旅を続けます。歴戦の戦死、奇怪な姿をする鬼たちと鬼に襲われた少年、世間から離れて暮らす修道士、あの世の島と思しきところまで舟を渡す船頭などと出会い、全ての出来事には裏があり、やがては裏の裏まで明らかになる、重厚な物語が展開されます。

読み進めるうちに気づくのは、当初は二人が強い愛で結ばれているはずに見えたのが、少しずつ実は夫の妻に対する執着心や独占欲のようなものが極度に強いのではないか?という疑念に変わっていくことです。夫は妻のそばを方時も離れることはありませんが、医療の知識を持つ修道士の診察を受ける時に妻に服を脱ぐように求めはしないかと不安になるなど、ちょっと度が過ぎているように見えなくもありません。そして息子が暮らすであろう村にはいつまでも辿り着くことがありません。ちなみに修道院の雰囲気はエーコ先生の『薔薇の名前』の修道院とちょっと似ている感じです。

人の記憶を曖昧にさせ、忘れさせてしまうドラゴンが生きている間、人間はみな過去の記憶を思い出すことができません。歴戦の戦士がドラゴンの居場所を見つけ出し、その首を打ち取ることによって人の心にかかっていた霧が晴れていくように人々は過去の記憶、特に悲しみの記憶、悲しいがゆえに思い出したくない記憶を蘇らせていきます。

アクセルとベアトリスは息子の暮らす村など存在しないことに気づき、過去の様々な経緯を思い出します。特に思い出したくなかったであろうことは、ベアトリスがほんのわずかの間、他の男性のところへ行ってしまっていたという記憶です。二人はそれを思い出し、息子が暮らす村も存在しないということを受け入れ、二人であの世と思しき島へと渡りたいと船頭に頼みます。通常、その島ではそれぞれが一人ぼっちに孤独に暮らすことになっていますが、船頭がインタビューして真実の愛で結ばれていると認められた男女だけが二人で島を渡ることを認められます。アクセルとベアトリスはめでたく真実の愛で結ばれた数少ない夫婦と認定されますが、いざいよいよというときになって夫のアクセルは妻を見捨てて船着き場を去って行き、そこで物語は終わります。それまで果たして二人は船頭から真実の愛で結ばれていると認定されるかどうかがある種の見せ場にもなっているため、私は肩透かしを食らった感じになり、そのうえでなぜそのような終わりなのかを考えさせられました。

夫のアクセルは妻のベアトリスの不貞の過去を受け入れることができなかったが故に、妻に対して異常とも思える執着を見せ、そして最後の最期で決して赦せないということを一人立ち去るということで表現しています。愛とは何かを定義することは難しいことですが、もし赦しが一つの愛の形であるとすれば、アクセルはベアトリスに執着はしていても愛してはいなかったと受け取ることもできるように思います。

イシグロカズオさんの作品は過去に『日の名残り』と『わたしを離さないで』を読みましたが、『忘れられた巨人』を含む三作品、どれもがハッピーエンドではないラブストーリーになっています。よく言われるように作家は生涯同じテーマを繰り返し書き続けるのだとすれば、イシグロカズオさんの生涯のテーマは失われる愛であるとも思えます。作家が選ぶテーマは究極にはその人の人生の忘れがたい経験と感情がベースにならざるを得ないはずですので、イシグロカズオさんはよほど大きな喪失体験をしたのではないかとの想像を禁じることができません。

人を愛するとはどういうことか、求めずに愛する、与えることで愛する、赦すことで愛するとはどういうことか、自分にそれは実践可能か、といったことは誰にとっても人生を送る上で考えなくてはいけない大きな課題だと思いますが、この作品を読むことで、自分は果たして周囲の誰か、大切な誰かを愛することができているかどうかを考えるいいきっかけにできるかも知れません。

翻訳者の腕が大きいのだろうと思いますが、文章がとてもきれいで読みやすく、端的で、それでいて刺激的です。どの作品もとても素敵で、過去にはイシグロカズオ研究をやろうかと思ったこともあるくらいです。(研究方面では右往左往しています…涙)

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『耳をすませば』の映像美と日本の近代

最近、学生に『耳をすませば』をみせたら、退屈だったらしく眠る人、退室する人続出でちょっと落ち込んでしまいましたが、個人的には久しぶりに『耳をすませば』を見て、改めてその完成度の高さに舌を巻きました。

有名な話ですが、聖蹟桜ヶ丘駅とその周辺の再現度の高さ、ここまで完璧に再現するなら実写でもいいじゃないですかと言いたくなるリアルな絵を2時間見続けるのは絵巻ものを見続けるかのような迫力があります。ただやっぱり、ナウシカとかに比べれば特に見せ場があるわけでなく、繰り返しになりますが、学生たちにとっては退屈だったのかなあ…。空の色もきれいだし、描かれる人物の姿もとてもきれいなのに。

主たるは内容は誰が誰を好きで、誰と誰がくっつくのかというありがちなメロドラマとも言えますが、やはり最近の人はのだめカンタービレみたいにコメディの要素を求めているのか、ラブコメ風でないと物足りないのかも知れません。

今回改めて観て感じたのは言葉遣いの美しさ、登場する人々の立ち居振る舞いの美しさです。月島雫は両親とお姉さんと一緒に団地で暮らす、ごく普通の市民です。お父さんは図書館で働いていて、お母さんは大学院で勉強していますから、どちらかと言えば長女が大学生で次女が中学生というお金のかかる時期に入っていますので生活的には厳しい方に入るかも知れません。しかし、小津安二郎の映画でも見ているかのような美しい言葉遣いと立ち居振る舞いには、そういうものは金銭的に裕福かどうかで決まってくるものではないのだというメッセージが込められているのかも知れません。しかも時々見せる庶民的、あるいは一般的な市民風の表情があることで、生活感が生まれ、登場人物にリアリティを持たせています。月島雫が自分の作品を書いて疲れ切って畳の上に横になる様はもしかすると原作者自身の経験をそのままに描いているような気がします。

雫の初めての作品を読ませてもらうおじいちゃんは、これもまたよく作りこまれたディレッタント風の人で、ドイツ留学から帰ってきて戦争でドイツ人の恋人と生き別れになったという設定も様になるというか、洋行帰りがいい味になっています。手先が器用で暇な毎日を送りながらも白雪姫をモチーフにした大がかりな振り子時計を三年かけて修理する依頼を多分採算度外視で請け負い、音楽にも通じています。猫の男爵の人形とか、珍しい石とか、本当に趣味の世界だけに生きる人です。

私は思いました「こういう人、いるよね。どうやって食ってるかわからないけど、趣味だけやって、やたら優雅な人」と。

私は作品を観ながら「どうぞ、好きにしてください。好きなだけ、好きなものを描いてください。私、そういうものだと思ってみますから」という感想に至ったのでした。

公開されたのは確か平成になったかならないかくらいのころですから、経済も良く、日本が今ほどカオスっていない時代のことです。今の時代から見れば、『耳をすませば』は半分時代劇のように思えなくもありません。この作品に登場する人々と街並みからは日本型近代とはどのようなものかということが炙り出されているように思います。日常を大切にし、大きすぎる夢も持たないが、自分のやりたいことには真剣に取り組む。生活様式は多分に洋風化し、おじいちゃんみたいに趣味だけで生きてきた人から西洋の香りをかぎ取り、それはそれでいいものだが、価値基準は日本人、みたいなあたりを映画を作った人は心得ていて、それを主張しているんだけれど、結果としては圧倒的なリアリティが生まれた。というような感じではないかと思うのです。

今は経済が停滞している分、たとえばおじいちゃんのような趣味だけの人を優雅なままにさせておく余裕が私たちの社会にあるかといえばちょっと微妙な気がします。21世紀の日本人を描くとすれば、もうちょっと登場人物がいろいろカオスってくるのではないかと思えなくもありません。雫のお父さんがリストラで両親は離婚、お姉さんはyoutuberで雫の好きな人はニート。一方で雫の親友の将来の夢は徹底安定志向で公務員。みたいな。確かに近代は終わり、雫の時代と比べれば、使い古された言葉とはいえ、今は十分にポストモダンと思えます。

そんな小理屈はともかく、リアリティと映像美は絶対に繰り返し見る価値があると私は今回みて改めて思ったのでした。

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イギリスのEU離脱でポンドとユーロは共倒れするのか?

イギリスのEU離脱の是非を問う住民投票が近づいています。最近の世論調査では離脱賛成派が反対派を10パーセント上回るという結果が出たこともあり、市場ではユーロ離れ、ポンド離れが始まり、要するにイギリスのEU離脱を織り込みに入っていると見られています。とはいえ、スコットランド独立の住民投票では事前の世論調査と実際の投票行動では違いが大きかったことから、本当にイギリスがEUから離脱するかどうかはまだ何とも言えません。

仮にイギリスがEUを離脱する、いわゆるBrexitが現実化した場合、イギリスのシティからヨーロッパ資本の多くが引き揚げると言われており、結果としてシティの地位下落を懸念する声もあるようですが、国際金融の古都とも言うべきシティの地位が下落するというよりも、むしろヨーロッパ大陸の金融市場の暴落の方が懸念されるのではないかという気がします。ドイツ銀行はどうにか小康を保ってはいますが、天文学的とも言える負債が解決したわけではありません。too big to failなために最後には公金まで入れてなんとかするという観測が多いですが、いずれにせよそういう爆弾を抱える大陸から切り離されたいという発想がイギリスで生まれてきたとしても、そもそも孤立主義を選ぶ傾向の強い国ですから、全く不思議ではないと言えます。

ただ、EU残留派の政治家の女性が殺害される事件が起き、犯人はブリテンファースト!と叫んでいたという話もありますので、金融面からの安全性を求める声とある種の民族主義が結合してしまっている面も否定できず、そういう面から見れば、EU離脱話はきな臭い部分も含んでいるように見えなくもありません。

本当にイギリスがEUから離脱したら果たして何が起きるのかですが、既に市場が反応しているようにユーロ、ポンド共に下落へと突っ走っている感がありますので、関係者全員が経済的に損をすることを承知でそれでもEU離脱がしたいのか?と首を傾げてしまいます(民族主義的な主張からの離脱論はここでは議論しません)。ドイツはいろいろ面倒になって、ユーロなんかやーめた。という選択をする議論も出てくることになるでしょう。となれば、イギリスEU離脱→ユーロ崩壊→EU解体→中国からの資金撤退→日本にも波及。という連鎖が起きることは十分に考えられます。日本は比較的内需主導の強い国なので、世界的なリセッションが始まりつつある今、まあ、まだ大丈夫な立場にいると言えるかもしれません。また、中国は現在、意外に底堅いという感がありますが、EU解体のあおりをどの程度吸収できるかも注目したいところにはなります。

内需特に個人消費を堅調に保つことが日本経済にとっては必須ですし、仮にBrexitが起きるとすれば、それこそ更に個人消費を堅調にして乗り切らなくてはいけませんから、消費税増税延期は正解だったと思います。今回の延期は事実上凍結なのか、減税まで持っていけるかという議論はまた別の機会にやりたいと思いますが、今年は特に何が起きるか分かりませんので、消費税増税が延期になっただけでも、まずはめでたしです。

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『戦場のメリークリスマス』と神と男(ヨノイ大尉はかわいいか?)

『戦場のメリークリスマス』はこれまでにDVDで何十回と観た映画です。リバイバル上映にも出かけたこともあります。今思えばかなり変わった映画ですが、音楽もいいし映像もきれいなので、ついつい何度も観てしまうのではないかと自分では思っています。この映画は突き詰めると異文化理解とか異文化交流くらいの軽いところがテーマなのではないかとふと思うのですが、正面切って作られるとここまで魅せられてしまうものなのかも知れません。

ヨノイ大尉とハラ軍曹は天皇は神で日本は神州だと信じています(映画の中にそういう台詞はありませんが、ヨノイ大尉の部屋の奥に『八紘一宇』の掛け軸がかかっていたりするのはそういう前提があるからでしょうし、そもそもそういう前提がないといろいろ成り立ちません)。悪霊の存在も信じているので、自決した部下が悪霊にならないようにハラ軍曹は経文を唱えますし、ヨノイ大尉が捕虜の私刑を決断した時も、悪霊になりませんようにと念仏らしきものを唱えます。経文とか念仏は仏教で、仏教は完璧な物理の論理に支えられているため悪霊が存在する余地はないのですが、日本は神仏習合なので悪霊を鎮めるために念仏を唱えます。欧米人向けに作られているので欧米人が不思議の国日本のふしぎっぷりを大サービスでみせているという印象もあります。観客の要望に応えるためかハラキリシーンもしっかりと入っていて、痒い所に手が届くとすら言っていいかもしれません。

一方で、自殺したオランダ人捕虜のために西洋人の捕虜たちが祈りを捧げ、歌を歌う場面も入れてあり、そこはとてもきれいな場面になっていて西洋人の観客なら敬虔な気持ちになれるに違いありません。

日本軍国主義を生き方で体現していたといえるハラ軍曹は最後に英語を話すようになり、物語の狂言回しの役割を負っているローレンスと英語で語り合います。ハラ軍曹が翌日の朝には戦争犯罪人として処刑されることになっており、日本人の目線で見れば戦争に負けるってのは嫌だねぇ、という感想を持つこともできますが、欧米人の観客の目線に立てば、迷信に捉われた日本兵が最後には文明を理解できるようになり、一番最後の台詞が「メリークリスマス、ミスターローレンス」ですから、キリスト教の神の恩寵をも受けながら旅立って行くという感動的な展開になっています。

日本人から見ればこれぞまさしく敗戦国民の姿なのですが、西洋人にとっては未開人が文明化されていく過程を描いていることになります。

こんな風に書くとまるで私がこの映画を批判しているみたいですが、飽きずに何十回も観ているということはやっぱりこの映画が無意識にめっちゃ好きなのに違いありません。もしかすると私は多少は東洋の神秘みたいなのを残しつつ西洋化した今の日本がかなり好きなので、この映画が根底に持つ価値観を受け入れやすいのかも知れません。いずれにせよ、上述のような日本と西洋の対比がなされている映画で、繰り返しますがぶっちゃけただの「国際交流」を深刻に描くとこういう風になるという感じだと思います。

戦場のメリークリスマスに登場する人物はほぼ100パーセントが男性です。女性はセリアズ少佐の少年時代の回想シーンで教会に来ている人の中に登場するだけです。男の世界の物語です。ヨノイ大尉とハラ軍曹とローレンスは敵と味方の違いを超えて深い友情で結ばれています。行動様式も価値観も違うためいちいちぶつかりますが、それでも俺はお前のことが好きだよという感じの関係は見ていてとても気分のいいものです。大学で人文科学をしていると会う人の8割は女性なので、男性との友情を育むことへの憧れが私の中にあり、男同士でお酒を飲むことは人生最高の喜びだとかなり本気で思っています。

ヨノイ大尉はローレンスには友情を感じますが、セリアズ少佐という捕虜には同性でありながらロマンチックな意味での愛を抱くようになります。今でこそLGBTの人たちを尊重するという価値観は世の中にかなり定着してきているように思えますが、当時はまだそういうわけではなく、当時としては思い切った内容になっているのだと思います。ヨノイ大尉は赦されざる片想いを持て余し、大声を出すわ捕虜を虐待して死人まで出すわと結構めちゃめちゃやります。そもそも部下が自決する羽目になるのもヨノイ大尉の無茶ぶりを諫めようとしたことが発端です。そんなことで自決させてしまって責任をちゃんと感じてくれよと言いたいくらいです。私は何度見ても、それは多分、私が未熟だったが故に、ヨノイ大尉の無茶ぶりが理解できず、捕虜収容所での所長の独裁的言動としか思えませんでした。しかし最近、ああ監督が表現したいのは「そんなヨノイ大尉ってかわいいよね」ということなのだなぁとようやく気づいたのです。私は個人的には全然かわいいとは思いませんし、かわいいから部下を自決に追い込んだり、捕虜から死人が出ても、ちょっとお茶目でおきゃんな感じだよねとも思いません。しかし、監督の意図がそこにあると気づいて、場面を回想すると、確かにヨノイ大尉がかわいいという目線で描かれていることがよく理解できます。えー、嘘だと思う人はもう一度ご覧あれ。

『風の谷のナウシカ』と日本とAI

『風の谷のナウシカ』は映画版と原作では随分違うのですが、原作を基本にして考えを進めたいと思います。

世界文明が滅びた後の世界でありながら、トルメキア王国はまだ比較的技術力に優れ、強大な軍事力を使ってドルク帝国へ侵攻するというのが全体の大きな枠組みですが、トルメキア王国は西欧文明を、もうちょっとはっきり言えばアメリカを象徴しています。トルメキア関係者は良いか悪いかは別にして合理的な思考によって次の行動を選択します。一方ドルク帝国はアジア的なものを象徴しています。政教一致の神聖政治が行われており、人々は皇帝(または皇弟)の神秘的な力を畏敬し、農奴のように従っています。トルメキアとドルクのどちからが優れているということはなく、トルメキアは物質主義に溺れていて、ドルクは精神主義でありながら考えるということを放棄しているようにも見えます。双方どちらにも愚かな指導者たちがいて世界を滅亡へと導いていく内容になっています。

ナウシカが暮らす風の谷は弱小の独立国ですが、トルメキアが他国と戦争する際には兵を出すとする約定があり、要するに安全保障条約を結ぶことで独立を維持することができています。そして実際にトルメキアがドルクへ侵攻するという段になって、お姫様のナウシカが城ジイたちを伴って前線へと向かっていくわけです。安全保障の代わりにトルメキアに軍事的に協力するというのは、まさしく日本の立場を象徴していると言っても良いでしょう。

この作品が一番最初に書かれたのはたしかまだ70年代で、完結したのは90年代の終わりごろです。そのため、まだ自衛隊の派遣についてかまびすしく議論された湾岸戦争もイラク戦争もなく、安保法制ももちろんありません。しかし、日本とアメリカの関係性の本質に違いはなく、原作者はそこをしっかりと見抜いた作品づくりをしたのだなあとつくづく思います。

腐海の瘴気は言うまでもなく放射線物質を象徴しているはずですが、瘴気を出し切ったら土地が浄化されるとする逆説は、不要なものや醜いものの中に、一見悪に見えるものの中に善があるという深みがあります。

巨神兵は核兵器を象徴していますが、映画版では未成熟なまま孵化したために効果を出し切れなかった一方で、原作では成熟し、完成体として人の世に現れ出てきます。単なる破壊兵器と思われた巨神兵は実は前の人類にて仕込まれていた完全知能で争いがあれば裁定して罰をくだし、人々を支配し導く神なる存在として振る舞います。言わばAIの完成形みたいなやつです。

物語の最後では世界が腐海によって浄化された後に生まれる予定の新生人類の卵をナウシカがターミネートして終わります。ナウシカが属する人類は言わばつなぎの不完全な人類で、完全に浄化された空気を吸うと血を吐いて死んでしまいます。新生人類の卵子を仕込んだ過去の文明の人たちは炎の七日間で汚染された世界を腐海で浄化し、つなぎの不完全な人類は清浄な空気で自動的に死んで、その後はきれいで純粋な新生人類が巨神兵という完全知能に導かれて平和に楽しく暮らすということをプログラムしていたのですが、卵をナウシカにターミネートされてしまうのでその目論見は潰え去ります。穢れを知らず、争い事も起こさない「きれいな人類」よりはナウシカの属する欲望にまみれて殺し合いも辞さない人類(私たち)の方がより生命の本質なのだというメッセージも入っているのかも知れません。「そしたらいずれ、世界は全部浄化されてナウシカの子孫は全滅するのでは?」という疑問を残したまま物語は終わります。でも圧巻のお話しになっています。

最後に、ナウシカがなぜ美少女なのかということについては原作者の好みに集約されるはずです。

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「橋下徹首相」のシナリオを考えてみる

私個人は橋下徹さんについて好きも嫌いもありません。今回は単に思考のゲームとして、どういう条件が揃えば橋下徹さんが首相になれるか、その条件が整う可能性はあるのかについて考えてみようかと思います。橋下徹さんが首相になりたいと思っているかどうかは知りません。一応、ご本人にはやる気があるという仮の前提を作って進めます。

まず第一に橋下さんは現在、民間人ですが、その前は保守系野党の党首でした。維新はそもそも橋下さん人気だけに依存せざるを得ない政党であると言ってもいいと思います。もちろん、大阪では今の知事や市長もがんばっていると思いますので、コツコツと支持者を集めていると思いますけれど、国政に影響を与える政党としての力を維持しようと思えば、橋下さんはどうしても必要な存在だと思います。

さて、橋下さんを頼りにしたいと思っているであろう人物に安倍晋三さんがいます。安倍さんは今度の参議院選挙で勝てば憲法改正を具体的な政治日程に乗せられると思っているはずです。一応、ことわっておきますが、憲法を改正するべきかどうかについて議論したいとは思っていません。安倍さんはそう思っているだろうということです。

安倍さんとしては、維新の議席も含んで参議院で三分の二以上の議席を獲ることができれば話を進められると考えているでしょうから、維新には期待通りに勝ってもらはなくてはいけないということになります。維新がある程度の議席を獲り、安倍さんの念願どおりに憲法改正に協力したならば、その御礼として次の衆議院選挙で橋下さんが出馬し、安倍さんから禅譲される以外に橋下さんが首相になるシナリオはないと思います。それくらいの理由がなければ、ポストの取り合いの激しい自民党内での理解は得られません。橋下さんがコツコツと首相になるために何十年も政治家人生を歩いて当選回数を積み重ねるという選択肢はあるかも知れませんが、ご本人はやりたくないでしょう。

要するに全ては今度の参議院選挙の結果次第ということになります。しかし、橋下さんが少なくとも表面的には後ろに下がった維新が参議院選挙でどれくらい勝てるでしょうか?橋下さんの引退後、維新は枚方市長選挙で勝利し、大阪府知事、大阪市長ともに維新が勝利していますが、これはある種の橋下熱がまだ残っている時期のことでした。一度退いた人が再び熱狂的な支持を得るのはそう簡単なことではありません。これは芸能人も多分、同じだと思います。個人的な考えですが、政治と芸能と恋愛で捲土重来は通常、期待できません。もちろん例外的な人は必ずいるものですが、橋下さんがその例外に入るかどうかはまだなんとも言えません。実際に復帰活動をしてみないことには手応えがあるかないかも分からないのではないかと思います。仮に多少なりとも維新の議席が延びたとしても、憲法改正に必要な議席数に届くかと言えば、かなりの大躍進を必要とします。ちょっと難しいかも知れません。

結論。橋下徹さんが首相になるためには1、「次の参議院選挙で維新がわりと勝つ」必要がある。2、しかし維新がそんなに勝てるかは微妙。つーことは橋下さんが首相になる可能性はそんなに高くないか…な?勝手なことを書いてまことに申し訳ありません…。

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バルビゾン村へ行った時の話

パリの地下鉄のバスチーユ駅から鉄道で一時間ほどのフォンテーヌブロー駅で下車し、自転車を借りて10キロほど離れたバルビゾン村へ行った時のことをだらっと書いてみたいと思います。

バルビゾン村は周知のとおり、19世紀にフランスの若手の画家たちが集まって暮らしていたことで有名で、彼らはバルビゾン派と呼ばれますが、特に有名なのは『落穂拾い』を描いたミレーではないかと思います。中学生の時に美術の教科書で『落穂拾い』をみた私は魅了されてしまい、オルセー美術館に足を運んだこともありますが、一度、フランスの田舎、それも落ち穂拾いの村を見てみたいと思ったのです。

フォンテーヌブローの街で自転車を借りた時の様子がこんな感じです。

フォンテーヌブローで借りた自転車
フォンテーヌブローで借りた自転車

で、バルビゾンまで自転車を漕いだわけですが、フォンテーヌブローとバルビゾンの間には深い森があり、人通りもほとんどなくて、昼間でもぞくっとしそうです。夜ならちびってしまいそうです。

こんな感じの森です。これがえんえんと何キロも続いているわけです。

フォンテーヌブローの森
フォンテーヌブローの森

或いはこんな感じ。

フォンテーヌブローの森
フォンテーヌブローの森 人の気配はしない

そしていよいよバルビゾン村に到着です。こんな感じの可愛い建物が並んでいます。

バルビゾン村
バルビゾン村の様子

手頃そうなレストランで食事をしてワインを飲みました。
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次にアイスクリーム
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お店の人はそんなに働き者ではなく、道行く人も特に親切なわけもありませんでしたが、そんなことは気にしない。
私は村がどこまで続くのかと自転車を漕いでみたところ、すぐに人里は切れてしまい、田園地帯が広がります。そう、これ。僕はこれが見たかったんだ。とひとりごちました。

たとえばこんな感じ

バルビゾン村外れの田園地帯
バルビゾン村外れの田園地帯

もう一枚こんな感じ

バルビゾン村外れの田園地帯
バルビゾン村外れの田園地帯

ミレーの有名な作品である『晩鐘』もこの辺りで祈りが捧げられていたのかななどと思ってみたり。お天気もよく、刈り入れの済んだ田園地帯がまた落穂拾い風に見え、とても満足したという、とある夏休みの思い出のお話でございます。

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