2020年中国が台湾に侵攻する説を考える

インターネットで中国、台湾、2020と検索すれば、中国がその年に台湾を侵攻するとする説でもちきりなのが分かる。中国語のブログなども参考にしてざっくりとしたことを述べると、軍拡に熱心な中国は2020年には台湾に侵攻しても他国の干渉を排除できるだけの体制を整えることができると台湾の防衛白書に書いてあるらしいのである。

仮にそのようなことが書かれてあるとしてその真実性について考えてみたい。

中国の台湾に実質的な施政権を及ぼしたいという念願は強く、最優先の国策国是になっていると言ってもいい。そのため、現在の共産党政府が存続する限り、台湾を吸収編入しようとする努力は続けられると考えていい。だとすれば問題は、①中国共産党政権が存続し続けるか ②存続し続けるとして、彼らは台湾編入をなし得るかということになる。まず①から考えたい。

中国経済の衰退の兆候は様々に見られる。しかし、現在までに破綻や衰亡のような危機的状況に至っているかといえば、そうとは言いがたい。中国経済の指標には嘘やデタラメ、インチキが多いという指摘は多いし、もしかするとそれは当たっているかも知れない。たとえばソビエト連邦が崩壊した後、彼らが相当にデタラメな数字を使って実際には火の車の経済を糊塗していたことが分かってきたため、中国共産党政府も同じ運命をたどるのではないかと言う指摘があることも確かである。しかし現状、共産党政府が崩壊する外形的な兆しはない。経済的な衰退と言っても前ほど伸びなくなったというだけであり、日本に比べれば羨ましいほどの成長力は今も備わっていると見るべきだ。あるいは帳簿が二重だったり、数字がごまかされていたり、約束の不履行が次々と明るみになるということはあり得るが、我々が生きている間に、それらの綻びが共産党政府を破綻させるに至るほどのものになるかどうかは分からないし、当面はなさそうに見える。中国共産党政府は当面存続するだろうし、台湾編入の努力は引き続き熱心に行われることだろう。

では、彼らは果たして本当にそれをなし得るかということが議論されなくてはならない。台湾が中国に吸収される日は本当に来るのだろうか?2020年に外国の干渉をゆるさないほどに強力な軍事力を整えるということは、一言で言えばアメリカよりも強くなるということだ。アメリカは今も世界の覇権国だが、近い将来中国がアメリカに取って代わるかどうかは今のところは何とも言えない。取って代わるかも知れないと思えるほどに中国は巨大である。ただ、アメリカが衰退しているわけでもない。アメリカの世界経済に対するプレゼンスが下がっているのは確かだが、アメリカ経済そのものは堅調であり、他の地域、特に中国が急速に発展したためにアメリカのプレゼンスが相対的に下がったということでしかない。そのため、アメリカが中国よりも更に強い軍事的なパワーを維持したいと考えているとすれば当面の間、それは可能だし、台湾を西側の砦として守り抜くというアメリカの姿勢が崩されることは、これも当面の間はなさそうである。

とすれば、将来的に中国かアメリカのどちらかが台湾を諦めるまでこの紛糾は続くということになり、また、どちらが諦めるかを見届けることは最終的にどちらかが勝ったかを見届けることにもなると言えそうだ。

それはある程度遠い将来のことかも知れないが、意外と近い将来にそれを占うことができそうな外交日程がある。米朝首脳会談は実現の可能性が相当に高まってきているし、本当に実現すれば米朝平和条約も雲をつかむような話ではなくなってくる。その場合は中身が問題になってくるわけだが、先日行われた南北首脳会談では朝鮮半島の非核化を目指すことが声明されており、北朝鮮が核放棄をする見返りに在韓米軍は撤退することを目指したものだと言って良い。北朝鮮のリーダーは必ずしも世間で言われているほど愚かな人間ではないことは最近になってはっきりしてきた。中国にも二度に渡って訪問しており、背後には強力な味方がついていることをアピールしたからだ。アメリカに対しては北朝鮮は甘くないというメッセージになっただろうし、中国に対しては北朝鮮は従順であるというメッセージになった。

即ち、米朝首脳会談は実際には米中の駆け引きとせめぎ合いであり、どちらが外交達者かを見極められる舞台になるはずだ。トランプ大統領が適当に折り合いをつけ、例えば限定的な核査察しか行われないのにそれを認めたり、在韓米軍も撤退とまではいかなくとも縮小することに同意したりすれば、中国は台湾に関しても同じように駆け引きができると考えるだろう。そうなれば俄然、台湾の中国への編入は現実味を帯びてくることになる。反対にトランプ大統領がかなりの強硬姿勢で完全な核査察の実現にこだわり、在韓米軍も撤退しないということで話がつくのであれば、中国は台湾に関することでもアメリカがどういう態度で臨んでくるかを予想することができるため、台湾を強引に編入することには躊躇することになるはずだ。

尤も、中国が台湾を武力的に襲撃して占領するということは考えにくい。そのような目立つやり方をすれば世界から警戒され非難されるということは議論するまでもないことだ。そのため、台湾人の自発的な統一への意思に沿うという体裁で統一を進めて行くはずである。私が当局者であれば、台湾で国民党政権が返り咲くのを待つし、国民党政権復活のために協力できることをやろうとするだろう。そして国民党政権下で躊躇なく統一の手続きを進めようと考えるはずだ。国民党の中にも統一を良しとしないグループは存在するため、そのことにも手を打たなくてはならないが、説得するか粛清するか利益誘導するかして何とかするということになるはずだ。

昨今の2020年に中国が台湾に侵攻する説は、台湾の独立を志向するグループから広められたのではないかと私には思える。蔡英文総統の二期目があるかどうかは意外と不透明で、独立派はまずは蔡英文氏の二期目の当選を確かなものにしたいからだ。2020年というリアルな時間軸は、危機感を煽ることで蔡英文氏が選挙戦で有利になることを狙っているのではないかと考えることができる。私の想像、推測、憶測である。

しばらくは米朝首脳会談の結果を待つしかなさそうだ。会談が実現するかどうかもまだ分からないのだ。直前のキャンセルもあり得るのだから。


ジュリアンアサンジ死亡説を考える

ジュリアンアサンジの「やらせ説」は以前からあった。なぜかわからないがwikileaksはヒラリー・クリントン氏に対する狙い撃ちを続け、それは確実にトランプ氏の大統領選挙での勝利に影響したと考えられているためだ。私もwikileaksの活動がなければ、あるいはヒラリー氏が勝利していたのではないかと思う。少なくともいわゆるストリームメディアのほとんどがヒラリー押しであり、トランプを泡沫扱い、または愚か者扱いしていたことは詳細に述べるまでもないことだ。馬鹿ですけべなだけのおっさんよりも、元大統領夫人で国務長官、ホワイトハウスでの経験は長くて手腕も確かなヒラリー氏の方がいいに決まっている。その上アメリカ史上初の女性大統領が登場するのだ。女性大統領が登場することに異論のある人はいないに決まっている。ヒラリー以外誰を選ぶのか?というのがそれらのメディアの主たる論調であり、メディアがここまで持ち上げる以上、ヒラリー氏が勝利すると誰もが思ったに違いない。

しかしwikileaksの活動によりヒラリー氏には裏の顔があるということが世の中に知れ渡ってしまい、私もまともにwikileaksが公開した情報を読んだわけではないが、どうもヒラリーはなかなかの食わせ物らしい、あの顔を見ろ。日本のどこかの知事と同じで自分中心な高飛車女じゃないか。という印象どうしても植え付けられてしまったのである。

アメリカではどの州が共和党を応援し、どの州が民主党を応援するかは大体決まっている。人口の多い両海岸沿いは民主党支持者が多く、広大だが人口の少ない内陸部では共和党支持者が多い。その中に揺れ動く州と呼ばれる地域が幾つかあり、それらがどちらに着くかによって勝敗が決まる。筆者が暮らしたことのあるミシガン州は比較的民主党支持者の多い地域だが、開票のニュースを見ると共和党の色に染まっており、これを見たときに私はトランプが勝ったと思った。

いずれにせよ、あれだけ馬鹿にされたおもしろいだけのおじさんを大統領に押し上げるのにwikileaksは多いに貢献した。そしてハリウッドから徹底的に嫌われた。「やらせ」を疑うのも理解できなくはない。いや、やらせだと考える方がいろいろと辻褄が合うのではないかという気すらしてくる。

現在もアサンジ氏はロンドンのエクアドル大使館に逃げ込んだままで、一歩も外に出ない生活を続けていることになっている。共和党の議員から恩赦をしてはどうかという提案が出た言われるが、wikileaksが共和党の仕込んだやらせだということの傍証のように思えなくもない。

そのアサンジ氏が死亡しているという説は現在ネットで広まっており、熱心にアサンジの死亡の手がかりを収集し分析を加えている人が多い。全く信用できない分析もあるが、鋭いところを衝いていると思わせるものもある。

たとえばwikileaksはスタッフが大幅に入れ替えられた可能性が指摘されている。これが事実だとすれば、アサンジとwikileaksが切り離されたと見ることができる。更に今年に入ってアサンジ氏に面会に訪れた友人が面会を断られるという出来事もあった。外の世界に飢えているはずのアサンジ氏が貴重な友人の面会を断るということは考えにくい。多忙ということもないだろう。最近はアサンジ氏本人によるtwitterへの投稿もなく、エクアドル大使館の窓から支援者に顔を見せることもない。インターネットを利用した情報発信も新しいものを見つけることができない。

アサンジがdead man`s switchを発動させたと言う人もいる。暗号としか思えないツイートを残しており、危機的状況に陥った彼が仲間に解読コードを知らせたというわけだ。そこまでは理解できるが、命と引き換えの保険にあたるdead man`s switchを発動させたのならば、それに相応しいだけの暴露情報がwikileaksから出されてもいいはずなのだが、そういった話はない。Wikileaksがアサンジから切り離されているとすればそういうことにはならないかも知れないが、アサンジの弁護人たちは現在も活動中なのだ。情報暴露は不可能とは言えない。アサンジ氏の弁護人が鉄道事故で亡くなったことを陰謀論のように語るサイトもあるが、彼の弁護人は複数いる。もっとも、一人亡くなったことは警告だったと受け取ることもできるかも知れないが。

イギリスの秘密機関MI5やMI6のようなところがアサンジ氏を殺害することは不可能ではないように思える。大使館は治外法権だが、ライフラインはイギリス側が握っている。アサンジを逃がさないためにあらゆる抜け穴は抑えてあるだろうし、見取り図も持っているかも知れない。以上の諸要素を考えてみると、アサンジが今この段階で生きていないとしても、それは驚くには当たらないのかも知れない。上に共和党議員による恩赦の提案について触れたが、共和党のフィクサー的存在として知られるロジャーストーン氏はアサンジ氏と食事したと知人に伝え、後に「あれはジョークだ」と言ったという。アサンジを利用し尽くした共和党にとって最早用済みになり見捨てたと見ることもできなくはない。アサンジが死んだかも知れないという可能性を示唆する情報は溢れており、一方でアサンジが生きていることを証明するものがないのであれば、死んでいると考える人が増えるのも理解できる。だが、死んだと言い切れるだけの証拠も存在しないのも事実だ。

私が不思議に思うのは、もしMI5なりMI6なりがアサンジ氏を殺害したとして、死体はどう処理されたのかということだ。朝、エクアドル大使館の職員がアサンジ氏が亡くなっている姿を発見したとして、死体を放置しておくわけにはいかない。燃やすか搬出するか、埋めるかしなければならない。死体と一緒に暮らしたいとは思わないだろうから、放置するとは考えにくい。しかし誰にも気づかれずに荼毘に付すことは不可能だし、死体を地下に埋めるというような冒涜的な行為を何も悪いことをしていない、正当な職務を遂行しているだけの職員たちはやりたがらないだろう。搬出するしかないが、搬出されたという話はない。

また、エクアドル大使館員はイギリスに対して堂々と抗議することができる。エクアドル大使館がアサンジを受け入れた理由がイギリス対する嫌がらせが目的だったとすれば、アサンジ殺害がもし事実であれば、イギリスを堂々と批判する格好のチャンスである。敷地に入ってきて殺人を行ったのである。いかなる理由があれ、正当化できるものではない。ネット上では生きている証拠が見当たらないことを理由に死亡説を採用しているところが多いが、死体の処理という現実的な問題に触れているところを見つけることはできなかった。そしてこの話題は「死体の処理はどうするのか?」に答えられなければ、完全に答えたことにはならない。

だがもし、アサンジ氏が誘拐された場合はどうだろうか。イギリス側がそれを実行することはおそらく十分に可能なはずだ。この場合、アサンジ氏は隔離されているかも知れないし、或いはどこかで殺されたかも知れないが、エクアドル大使館で死体の処理をすることは事実上不可能であるという難題が解決することになる。とはいえ、これもやはりとてつもない外交問題だ。敷地に入り込み誘拐したのである。戦争を始める理由にすらなり得る。戦争はしないだろうが、イギリスを非難する絶好の機会になることは確かだ。しかし、そのような動きはない。エクアドル大使館は彼が生きていることを前提に活動している。

このように見ていくと、アサンジ氏は共和党の仕込み、やらせだった可能性は十分にあるが、殺された可能性はそこまで高いのではないだろうかと思えてくる。ただ、生きている証拠もないのだから、いずれ本人が出てくるまでは死亡説の噂は流れ続けることになるだろう。だが、窓から顔を見せればすむだけのことをしないというのは理解できない。人間なのだから窓の外くらい見たいはずだ。やはり死んでいるのだろうか…

就職試験に有利な作文の書き方

就職試験では作文や小論文を課されることはよくある。従って、それなりにニーズがあると思うのでここで1000字前後の文章を書かなければならないという状況が生まれたと仮定し、合格しやすい文章の書き方を確認しておきたい。

まず最初に注意しなくてはならないのは、自分が今から何を書くのかということを宣言することである。就職試験では予め一定のテーマを与えられていることもあるし、自分でテーマを設定することもあり得るが、仮に自分でテーマを設定する場合は題名によって自分の書くことを宣言しなくてはならない。それはたとえば『戦艦大和の最期』でもいいし、『最近の気象変動について』でもいいし、『政治的指導者の発言の共通項』でもいいし、『湘南に遊びに行った際の注意点』でもいい。どういう題名であれ、読み手がその文章には何が書かかれているのか、自分がそれを読むことでどういう情報を得られるのかを伝えるために、宣言するのである。そのため、分かりにくすぎるものは避けるのが好ましい。一般的に誰でも知っているような名詞を用い、そこに自分は何を付け足すのかということについて説明的な文言を入れることが望ましいだろう。たとえば『戦艦大和の最期』であれば、戦艦大和は有名な固有名詞なので大抵の人は知っているだろうし、そこに「最期」という印象的な文言が加わることで、読み手は最初から戦艦大和が撃沈された様相が述べられているのだろうということが分かる。共通の趣味を持つ人にだけ読んでほしい場合は「黒い三連星」とか「サイド3」となどの一部の人しか知らないような題名を使用してもいいが、その場合にはできれば付け加える文言は一般的に使用されるものが望ましい。たとえば「黒い三連星にみる連続的攻撃の有効性に関する考察」とした場合、連続的、攻撃、有効性というのは一般的に使用される日本語であるため、何が書かれているのかを読み手は想像できる。逆に「黒い三連星のオデュッセウス」「黒い三連星のチャネリング」のような題名であった場合、オデュッセウスが何かを知っている人、チャネリングに対してイメージを持つ人は少ないので、読み手の理解度は下がる可能性があり、それだけ不利になる。どうしてもそのようなあまり知られていない文言を題名に入れたい場合はそれらの文言を手際よく本文で説明することが求められるが、1000字程度の場合、それはある種の冒険になるので避けた方がよい。根気よく長い文章を書く機会があった場合、それは書き手の人生の結晶であり書き手は命がけなのだから、題名は書き手の気に入るものであるべきだし、それについて筆者からどうあるべきかについて意見はない。その場合は思う存分にするべきだ。

さて、宣言が終わった後、書く方向性としては二つに分かれる。一つはなぜ自分がそれについて書くのかを説明するというもので、もう一つは読み手に対し、この文章は読む価値があるということを説明するというものだ。

自分がなぜそれを書くのかということを説明する場合、具体的な経験を書くのがやりやすいだろう。たとえば友人からあることを相談され、その相談に乗るうちに着想を得たとか、電車の中吊り広告を見てあることに気づいたとか、ネットでたまたま見かけたとかそういうものでもいい。自分がその文章を書くにいたった動機や事情を書けば、読み手としては納得しやすい。読み手は唐突なものを嫌う。説明を積み重ねて納得させるということは人と会話する時と同じだと思えばいい。

もう一つはこの文章には読む価値があるということを読み手に伝えるという方法だが、この場合は結論を先に述べてしまうのが効果的だと言える。たとえば戦艦大和は時代に合っていなかったとか、自然環境は引き返すことができないほど破壊されているとか、逆に自然環境の破壊はメディアが伝えるほど深刻なものではないとか、そういった類いの結論を述べるのである。この場合、続きの文章はそれの説明ということになる。付け加えるならば、上に述べたような経験を先に書く場合も引き続いて文章の結論を書くことになるため、私が上に述べた二つの方法論はどちらも説明する前に結論を述べるという点では一致している。

結論を述べた後は説得的な説明を述べる必要が生じることになる。たとえば戦艦大和が時代に合っていなかったと結論するのであれば、なぜ自分がそう結論するに至ったのかを述べなくてはいけない。この際に注意する点は積み重ねるようにして説明することである。「当時は航空技術が発達したことにより戦艦の砲撃が届かない位置から飛行機による攻撃が有効だったため、各国は戦艦よりも空母の建造に力を入れていた」というような説明が必要になる。文章の展開方法としては、空母の有効性を述べた以上は具体例を挙げなくてはいけない。書かなくてはならない文章の長さに応じて具体例は詳細に述べることもできるし、簡潔に述べることもできる。事例も長さに応じてたくさん挙げることもできれば、一つか二つで済ませる場合もあり得る。戦艦大和に限って言うならば、「戦艦よりも飛行機が優れていることは真珠湾攻撃で証明された」というのが適切なように思えるが、使用する事例を増やしたければ、レイテ沖海戦を挿入することもできるだろう。そしてそれらの事例からなぜ飛行機が戦艦よりも優れているのかを説明する必要が生じてくる。書けば書くほどなぜそうなのかを説明しなくてはならなくなるため、要するに要領よく説明することが文章の本体で果たす機能だということになるだろう。

以上までに事例をいくつか挙げれば、そろそろ結論へと文章は導かれていかなくてはならない。結論は最初に述べているため、その冒頭へと回帰していくと言ってもいい。しかし、事例を挙げた直後に結論を述べるのではない。書き手の分析を入れ込んでいくことが必要になる。その分析はその前に挙げた事例により証明され得るものでなければならないし、読み手が「なるほど」と思うものでなくてはならない。また分析的でなければならない以上、二つの以上の例を挙げた場合、その共通点を探り出すことは説得力を上げることになる。最も望ましいのは読み手に新しい気づきを提供することである。戦艦大和の例ばかりで申し訳ないが、真珠湾やレイテ沖海戦の例を見ると、「大和が有効活用できなかったことは明らかで、それでも乗組員を死に追い込んだのは、海軍の人命に対する考え方に深刻な欠如があったのかも知れない」とか「と言える」とか「と断言できる」とか「と言わざるを得ない」とか「ではなかっただろうか」などの言葉が最後に添えられることになる。この部分は分析になるため、推論を働かさざるを得ず、「かも知れない」という少し弱気な書き方でも問題はない。仮に最後の言葉が多少弱気なものだったとしても、読み手は分析に説得力があるかどうか、先に挙げた事例が分析の根拠として十分なものかどうかで判断するからだ。敢えて言えば「と断言できる」とした場合、読み手は反射的に反論の余地を探そうとするため、文章が読み手と書き手のコミュニケーションだという前提に立てば、「と断言できる」は避けた方がよく、自信を持って言える場合は「と言える」と言い切り、多少自信がない場合は「かも知れない」「ではないだろうか」とするのがいいだろう。傲慢な話し方をする人に対して反発が生まれやすいように、謙虚な文章に対しては反発は生まれにくい。ただ、忘れてはいけないのは事例が分析の根拠として正しいものであり、かつ最初に示した結論に無理なく辿り着けるものでなくてはならない。これができていなければ、最後の言葉がいかに謙虚であろうと読み手は何も学ぶものがなかったとがっかりすることになる。また読み手にとって新しい気づきを提供するという価値を生み出すためには、「時代に合っていないことに気づけば速やかに転換する必要があっただろう」とか「問題に気づけば速やかに対処しなければならないというのは、いつの時代にも当てはまる教訓だ」とか「現代のようにスピードを求められる環境では、戦艦大和の事例を教訓として自分の仕事や生き方に活かせるのではないだろうか」などのように書くこともできる。そこまで展開が及んだ場合、それは読み手にとって明日からの行動を変えようとする動機づけにもなり得るので、価値のある文章だったと判断してもらえるかも知れない。

そして結論を書くのである。この結論は冒頭と全く同じ文言を使ってもいいし、多少を気を利かせてひねった書き方をしてもいい。冒頭と同じ文言を使った場合、冒頭から事例と分析までの一貫性を保てる可能性は高くなるので、無難である。だが、一ひねりあった方がおもしろいとも言える。ここはその時になって、自分が一貫性を保ち、論理的な矛盾を起こすことなく、より気の利いた言葉を引っ張り出すことができるかということになるので、ある程度は運次第だし、その時の体調や心境にも左右される。ただ、読書量を積み重ねることで体調や心境に左右される幅は小さくなるので、読書は毎月払う保険料だと同じだと思ってこつこつ続けることが役に立つ。

筆者はすでにここまでで述べたいことの全てを述べたので、ここで文章を終わらせてもいいのだが、人が話し相手と別れる際に「さようなら」「また今度」「お元気で」という言葉を述べるのと同様、多少気の利いた「結語」を挿入することは無駄ではない。ただし、事例と分析が十分ものであれば、「さようなら」は人の心に響くが、それらが不十分な場合は響かない。事例に基づく分析が重要だということを重ねて強調し、結語としたい。


クシャナの後ろ姿

大学の授業で『風の谷のナウシカ』を二年ぶりに学生たちにみせることにした。私の世代にとってナウシカは常識の範疇に入るが、今の大学生たちにとっては古典映画の部類に入るのではないかと思えるため、ナウシカを見せることにはそれなりに意義があると思ったからだ。

どのクラスでどの映画をみせたかを考えるのが面倒なので担当しているクラス全てで「上映会」をしてみた。しばらくの間、私は映画館の映写担当者のような気分だった。何度も繰り返し同じ映画を見ることになったが、これはなかなかいい経験だった。特に自分が好きな映画なら、贅沢な経験だと言っていい。大学の教室のスクリーンで見るなら、ちょっとミニシアター並の迫力があるし、繰り返し続けて見ることで気づかなかったことにも気づくことがきる。そして好きな映画をみんなで見て、給料がもらえるのだ。これほどいいことはない。私はそれこそ神に感謝したい気持ちになった。

以前から気づいていたことだが、今回あらためてほれぼれとする心境で見たのはクシャナの後ろ姿だった。クシャナはかっこいい。そこに異論のある人はいないだろう。宮崎駿が力を尽くして天才的な頭脳と威厳のある女性を描き込み集約したのがクシャナだからだ。クシャナのイメージは烏帽子御前に引き継がれている。

クシャナの後ろ姿で印象的な場面は二つある。一つはまだ未熟な状態で孵化を待つ巨神兵をたたき起こし、迫り来るオームの群れに破壊的な光線を発射させた直後の場面。そしてもう一つは死んだナウシカがオームたちの神秘的な力により蘇生している瞬間を見上げている時だ。この二つの場面に於けるクシャナの心境はそれぞれ違っており複雑なものだが、その立場は一貫している。以下にクシャナの心境と一貫した立場を述べたい。

巨神兵を強引に孵化させ、その光線を発射させる場面では、その直後、ビキニ環礁の水爆実験を連想させる巨大な破壊が起きる。風圧でクロトワがのけぞる瞬間である。クシャナはのけぞることなく、すっくと戦車の上に立ち、火の七日間で世界を滅亡させた呪わしい破壊力を見届ける。彼女の目的は迫り来るオームを殲滅することにあるため、人が開発した巨神兵の威力に満足しているはずであり、映画の設定上彼女はオームを憎んでいるはずなので、人の力によってオームが撃退できる可能性があることにやはり満足しているはずである。そのような後ろ姿は自然を克服し、望むものを手に入れるために力を尽くす近代人を代表している。仮に現代も近代の延長線上にあるとすれば、クシャナは我々近代人の代表であり、巨神兵の破壊力は近代人の自然に対する勝利の瞬間であるとも言える。

もう一つは、ナウシカがオームの神秘的な力によって蘇生する場面だが、オームに追われ命からがら助かったクシャナとクロトワが無力そうにその様子を見上げている後ろ姿もまた、我々近代人を代表している。死んだ人間が生き返るはずがない。しかそのような常識を無視し、ナウシカが蘇生しているという、飽くまでも映画の中での出来事ではあるが、その信じがたい光景、クシャナがこれまで信じてきたものとは真逆の現象が目の前に起きているという事実に降伏せざるを得ない無力感と、同時にオームの神秘性を信じざるを得ず、死者が蘇るという無条件の感動を否定することもできず、何をどう思い、何をどうすればいいのか分からずに、ただ現象を見つめるしかない彼女の後ろ姿は、やはり人間の力を信じ、自然の神秘を信じようとしなかった近代人を代表しているのである。さらに付け加えるとすれば、見たものしか信じないという合理精神は、見たものは信じるしかないとするやはり合理的な潔さを彼女がいい意味で持っていると言えるかもしれない。

人間を自然の対立項として捉えるという発想法は多分に二十世紀的なもので、おそらく二十一世紀人は少し違った感覚を持っているはずだ。人は自然と対立するのではなく、人も自然の一部であり、自然の中で生きているという発想法は私の幼少年期の頃よりはより一般的なものになりつつあるように思える。それはおそらく私の幼少年期に於いては自然が克服すべき対象であったのに対し、現代では自然との調和へと世の中の関心事が移行したことと無関係ではないし、逆説的だが人は開発についてやれることはやり尽くしてしまったために、関心の方向が変わったのかもしれない。

映画を見て気づきを得るのは幸せなことだ。


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ナウシカは自己中心的救世主

中年男という「人類の余剰」の生きる指針

中年男は存在しているというだけで周囲に感動を与えることはできない。たとえば乳幼児は歩いているだけで周囲に感動を与える。若い女性が爽やかに笑顔を見せれば、周囲はかけがえのない貴重な瞬間を捉えたと感じるかも知れない。無知な若い男が後先考えずに冒険に飛び出すとき、その無知を笑う人がいるかも知れないが、一方で共感や声援を得ることもあり得る。

中年男性にそのような恩寵は期待できない。私もまた中年男性であるため、その屈辱は充分に知っている。中年男性は生きているというだけでは存在を許容してもらえない。はっきり言えばは生存権すら軽んじられると言ってもよい。若い女性が殺害されれば警察は捜査本部を立て、マスメディアの取材にも力が入り、加害者が逮捕されれば重罰を与えるべきだとする声が起きる。中年男性が路上で死んでいるのが発見された場合、その男性の運が良ければ新聞の社会面の隅に地味に事実関係だけが掲載されるかもしれないが、そもそも警察発表がなされるかどうかすら怪しい。中年男性が死んでも人々の心は乙女の死に比べればさほど痛まないのである。中年男性には広い意味での「エロス」、生き生きとしたライブリーフードのようなものはない。その対極の存在として認識されていることは公然の秘密であると言える。いや、秘密ではなくあからさまな事実であると言う方がより現実に即していると言えるだろう。

中年男性には威厳があると思う人がいるとすれば、それは時代錯誤である。中年男性に威厳はない。むしろ中年女性の方が威厳がある。「大阪のおばちゃん」という謎のカテゴリーの存在は、中年女性は何をやってもゆるされるということを示している。中年女性はパワーに満ちており、時には反論をねじ伏せて高笑いすることも社会的にゆるされており、要するに威厳がある。仮にこれを読む中年男性が自分の威厳を保つことによって存在価値を保とうとしているとすれば、早々に諦めるのが得策である。中年男性が威厳を保とうとしている姿は周囲にとって迷惑であり目障りである。一般的に中年男性に求められていることは、なるべく目障りにならないように周囲に影響を与えように声を潜めて静かにおとなしくしていることであり、そのようにわきまえている限りに於いて生存する権利くらいは認めてやろうという程度のものである。

中には地位や権力、名誉や財産を手にすることによってこの中年の危機を乗り越えられると思う人もいるかも知れない。それはある程度正しいが、限界がある。属する組織で地位や名誉、大きな権限があればその組織の人はかしづくかも知れない。しかしそれはあなたにかしづいているのではなく、権力にかしづいているのである。財力にかしづいているのである。名誉というメッキにひれ伏しているのに過ぎない。一歩組織の外に出てみればうっとうしいおっさんであるという目を背けたい事実に変わりはない。スーパーやコンビニで電車やバスで、自分がどちらかと言えば警戒の対象であると認めなくてはいけない。笑顔を見せれば下心がありそうで気持ち悪いと思われる。黙っていれば不機嫌そうで態度が大きくうっとうしいと思われる。泣けば馬鹿だと思われる。泣こうと笑おうと、如何に工夫しようとも扱いが変わることはない。中年男性は中年男性であるという理由だけで、敗北しているのである。

しかし、死ぬわけにはいかない。私もまた中年男性の一人として敗北感を背負って死にゆくわけにはいかない。従って、中年男性はその動かしがたい絶望的な条件下で生きる道を模索しなくてはならない。これは命のかかった難事業であるが、そうする以外に我々の生きる道はない。

では、どうするか。まず第一は期待しないことである。お店の若い女性店員があなたを素敵な人だと感じることを期待することは諦めよう。あなたはうっとうしいだけの客であり、金を払えば一刻も早く立ち去ってもらうことだけを期待されているという事実を知ろう。職場の若い女性があなたに好意を持つことも諦めよう。そのようなことは大抵の場合は起きない。例外的にそういうことは起きるかも知れない。しかし、それは例外的であるということは強調しておきたい。大学生であれば異性が自分に好意を持つ可能性に期待をかけることは正当である。あるいは三十代半ばくらいまでなら、やはり正当な期待である。女性を見つめれば女性は喜ぶかも知れない。だが、年齢を重ねればそういう期待を持つのは自分の人生が無価値であるということをより強く実感させられることになるだろう。そういう期待は捨てよう。そのような明るい楽し気な未来はない。少なくとも期待している限りは。自分が正当に扱われていないことに不満を持ってはいけない。中年男性は人間の市場価値に於いて底辺に属する。従って、如何に不当と思える仕打ちを受けてもそれは正当な仕打ちなのだと知らなければいけない。

しかし我々にはまだできることがある。それはつきなみではあるが、自分磨きである。中年男性が生存を許されているのは憲法が生存権を認めているからだと思ってはいけない。そもそも今の日本国憲法は、国家の中枢に巣食い利権を貪り、戦争をおっぱじめて世界中の人々を死に追いやったおっさんたちを無力化することを目的にして書かれたものだ。にもかかわらず中年男性が生存を許され、場合によっては発言を許されるのは、中年男性であればきっと知識や経験や見識を備えているに違いないという期待があるからである。その期待に応えることができる限りに於いて、世間様に存在していることをゆるされているのである。しかし、男は意外と幼稚なまま年齢を重ねてしまう。本音中の本音を言えば、若いころのように酒を飲んで騒ぎたいし、ナンパもしたいし、やんちゃなことをやり続けたいものだ。しかし、それは若い男に与えられた特権なのであって、20前後の男性ならば場合によっては憧れの目で見てもらえる可能性もあるが、中年男性がそれをやれば確実に軽蔑されるのである。そのため、我々は残念ながら見識を高めるための自分磨きをしなければならない。肩書はこけおどしには使えるので持っていて損はない。多少なりとも世間的にかっこいいと言われる肩書を持つ人は、神に感謝するべきだ。肩書があるだけで、多少の見識はあるだろうという前提で扱われる。肩書がなければまず見識に耳を傾けてすらもらえないということに自覚しなければならない。なので、肩書を持つ人は幸運だ。しかし、肩書だけで見識があると考えるのは世間の悪しき誤解であることは言うまでもない。肩書以上の見識を持つ努力をしなければならない。読書し、調査し、沈思黙考しなければならない。外見的には不衛生そうな衣服を着ていてはいけないし、中年太りは努力によって解決できるのだから、ダイエットは必須だと思わなくてはいけない。はげはやむを得ないが、デブはなんとかできる。酒もやめるのが賢明だし、タバコも吸わないのが賢明だ。に酔っているおっさんは殺意の対象になるし、タバコを吸うおっさんも同じである。

我々にできることは限られているが、できることは十二分にやらなくてはいけない。今与えられている職業に感謝して精進しなくてはいけない。運不運によって肩書はかっこいいとされているものからださいとされているものまで様々だが、今から全く違う世界に転職することは神業である。それより先にまず今、たまたま与えられた職業をしっかり全うすることに力を入れなければならない。そうすれば、少なくとも職場である程度の敬意を払ってもらえるようにはなるだろう。中年男は敬意を払ってもらえなければ世間の余剰でしかない。少なくとも職場で敬意を勝ち得ないのであれば、その外で敬意を得られることは絶対にないと断言してもいい。

過去、日本には何度か就職難の時代があり、或いは自分探しに走ってしまい定職を持たない中年男性は存在する。諦めてはいけない。もし今アルバイトをしているのなら、そのアルバイトでスキルを磨かなくてはいけない。スキルの身につかない仕事をしている非正規雇用という言葉には多分に嘘が含まれている。スキルの身につかない仕事はない。どんな仕事でもスキルは身に就く。誰にでもできる簡単な仕事であったとしても、経験半年と経験ゼロでは大違いだ。同じ賃金で雇うのであれば、雇い主は経験半年を選ぶに決まっている。高望みをしてはいけない。まずは選ばれなくてはいけない。自分が選ぶなどという理想を語ってはいけない。自分に選択の余地があると思ってはいけない。中年男性はそもそも生きていなくても世間は困らないという現実がある以上、選択するのは贅沢だと気づかなくてはいけない。そして、正規、非正規にかかわらず職場があることを神に感謝しなくてはいけない。ここで言う神は特定の宗教を指してはいない。神でも仏でも宇宙でも自分が信じられるものでいい。目に見えない何かに感謝しなくてはいけない。中年男性が生きていられるのは、目に見えない何かが何とかしてくれているからである。自分に価値があるというようなうぬぼれは捨てなくてはいけない。自分は無価値だというところから出発しなくてはいけない。もし今、仕事もアルバイトもしていないのであれば、条件にこだわらず、何かをしなくてはいけない。親の年金に頼って生活できているのであれば、ボランティアでもいい。私は親の年金に頼る中年ニートを軽蔑しない。そうならざるを得ないだけの事情があったのだろうと同情する。しかし、それでも何かをしなくてはいけない。たとえそれがどれほど小さな一歩であったとしても、踏み出すことは人生を変える大きな価値につながる。そして歩き続ければ気づくとステージが上がっている。人生のステージを上げようとしてはいけない。続けていれば自然にステージは上がるのだから、安心して歩けばいい。

中年男性が人生を逆転することは原則として期待できない。そして、逆説的だがそのような期待を捨てた中年男だけに次へ進む機会が与えられる。なぜなら自分が無価値だと認めている中年男は少なくともうっとうしさという点ではまだましな部類に入るため、他人があなたに機会を与えてくれる可能性はそれだけ上がるからだ。自尊心は捨ててしまおう。心の中で自尊心を保つことは大切だが、それを他人に悟らせてはいけない。自尊心に拘らない人物の方が敬意は集まりやすい。謙虚にしているだけで、あの人は良い人だと言ってもらえるのは数少ない中年男の特権である。中年男は厚かましくてふてぶてしいのが普通なので、できれば早く死んでもらいたいと世間が思っている中、謙虚な中年男性は意外な存在であり、運が良ければ賞賛される。謙虚になることは簡単なことだ。頭を低くするのは簡単なことだ。そんな簡単なことはやらない方が損だとすら言えるくらいだ。謙虚にならなくてはならない。謙虚になることは自分の能力や価値を証明することよりも簡単であり、且つ効果を見込みやすい。

神に感謝し、仕事に打ち込み、余暇は読書や勉強に充て、疲れた時は沈思黙考しよう。他人より得がしたいと思ってはいけない。中年男が得をして喜んでいる姿ほど他人が見てイラ立つものはない。誰も中年男に幸せになってほしいとは思っていない。中年男性が自分の幸福のために努力している姿ほど他人をがっかりさせる光景はない。どちらかと言えば「こんなおっさん死んでしまえばいいのに」とすら思われているのだから、幸せを望むのは以ての外である。小説でも映画でも悪い奴は大抵の場合は中年男である。読者や観客にとって受け入れやすいからだ。中年男は自分の幸福のために努力をしてはいけない。その逆をしなくてはならない。他人の幸せのために努力しなくてはならない。他人の幸せに貢献する中年男性は大勢いるし私はそういう中年男性を尊敬するが、それは当然のこととされているために、それだけで賞賛されたり尊敬されたりすると期待してはいけない。しかし、それ以外に存在を認めてもらえることはないと知らなくてはいけない。繰り返しになるが、神に感謝し、仕事に打ち込み、読書と勉強と沈思黙考によって人格を高めよう。人格を高めるということは如何に効率よくかつ適切に他人を幸せにできる能力を持つかということであり、あらゆる努力は仕事であれ読書であれ思考であれ、そのことに費やされなくてはならない。人格を高めることに終わりはない。従って、諦めている場合ではないし、くさっている場合でもない。今すぐにでもその作業に取り組まなくてはいけない。そして根気よく取り組まなくてはならない。強調するが、それ以外に中年男性が幸せになることはない。


外出中の喫煙は一切しなくなった

禁煙努力を少しづつ続けていますが、最近は外出中は一切喫煙しなくてもよくなりました。タバコとライターがポケットに入っていないことに慣れてきて、喫煙所に立ち寄りたいとも思いませんし、大学で授業をする前後もタバコの必要を感じなくなりました。

自分でもここまでこれたことには驚きです。進歩したと思い、すなおに喜びたいと思います。

問題は自宅にいるときです。自宅にいるときはどうしても気が緩んでいますし、自宅は自分の思い通りに過ごしていい場所ですから、喫煙衝動を我慢するには現状ではまだ限界を感じています。

タバコを吸いたくなったら深呼吸するか水を飲むという手段があるのですが、やはりまだ「ま、いいじゃないか」という心の声が響いてきてしまいます。それでも以前は就寝前と起床後はかなり吸いたい放題吸っていたのですが、数日前から起床後の喫煙はしなくなり、もしかしたら就寝前にリラックスしてぱーっと吸うというのも今後はなくなるかも知れません。自宅で根気が必要な作業を終えたときや食後にかなり吸いたくなり、今は我慢できずに吸ってしまっています。

ただ、タバコは一生辞められないという自己洗脳は解けつつあるように思いますから、今後は食後と作業後の喫煙衝動をいかにしてスルーするかが課題になると思います。タバコとライターは引き出しの中に入れてあって、衝動的には吸わないように工夫はしています。

アレン・カーの『禁煙セラピー』を読み、それはそれで納得できたものですから一機に量を減らすことはできましたが、まだあと一歩といったところです。喫煙の機会が極端に減りましたから、タバコを吸うとクラクラして頭痛がします。いい傾向です。以前のようにタバコを吸って気持ちが充実するということはありません。完全にタバコを吸わなくなる日は近いと信じて、取り組みたいと思います。

タバコは頭痛の原因になりますし、税金のかたまりなのです。それをしっかり自分に教え込むつもりです。タバコを吸わない方が気持ちいいのです。絶対。


BC級戦犯裁判‐岡田資中将のケース

戦後、東京裁判でA級戦犯が裁かれましたが、ほぼ同時進行、場合によっては少し遅れてBC級戦犯裁判もアジア太平洋各地で行われました。果たして戦勝国により敗戦国を裁く裁判が公平公正なものになり得るかという議論はもちろんありますが、大変に興味深いケースとして終戦時東海軍司令だった岡田資中将の裁判があります。

終戦前の半年間はアメリカ軍による絨毯爆撃、無差別爆撃が日本各地に対して行われたわけですが、民間人や民間施設に意図的な攻撃を加えることは戦争犯罪だという認識に立ち、岡田中将は撃墜されてパラシュート降下した米兵を捕虜としてではなく戦争犯罪人として裁き、死刑の宣告をして執行させたということが問題になりました。

但し、死刑の宣告を下す手続きが不公正なものであったということが問題にされました。岡田中将は1945年7月に軍律会議の略式手続きで死刑の決定をしたわけですが、死刑という重い刑に対し弁護士もつかない軍率会議をしかも略式手続きで進めてしまったということで、適正手続きを経ていないということが問題視されたわけです。

軍律会議は軍法会議とはまた違うもので、戦時下の慌ただしい中、軍司令官が行政権と司法権も掌握して軍律を定め、軍律違反者には軍司令官が判決を下すことができるという三権分立もなにもあったものではないという仕組みであり、弁護士もつきませんから、検察側はその問題を指摘し、というかその問題に絞って被告を攻撃するという方針で臨みます。

一方、ここが大変に興味深いことですが、被告と弁護人は①責任は軍司令官一人にあって、部下には一切責任がないという立場を貫き、②激しい爆撃下で略式手続きをするのが精いっぱいだった、当時としては最善を尽くしたということを主張し、③激しい爆撃下というのがどれくらい激しかったかということを立証するために、当時のアメリカ軍の爆撃が無差別爆撃で戦争犯罪に値するということを立証するという構えをとりました。

岡田中将はその裁判の時に部下に責任を押し付けることなく、自分一人が全てを引き受けるという姿勢で臨んだことから、人格的に日米関係者双方から高く評価され敬意を集めたと言われています。また、岡田中将のみが死刑判決を受け、実際の執行にかかわった部下たちが死刑判決を受けなかったことは、実質的に被告・弁護側勝利とも言える判決だったと言え、知る人ぞ知る、希少なケースであったと言えると思います。

このような実質勝利を勝ち取ることができたのは、被告・弁護側の戦略が非常にうまくヒットを当てたということがあると思います。第一に、岡田中将が自分から「全て私の責任だ」と正面から主張したことは、裁判委員(米軍の法務関係者で、事実上の判事)に対する印象を良くしたようですし、検察もその態度には好感を持ったと言われています。担当検事は判決後に減刑嘆願の文書に署名までしたそうですから、岡田中将個人に対する感情は良かったのでしょう。次に、軍律会議の略式手続きが公正だったかどうかを争点にしようとしなかったこともいい戦略だったように思います。ここは私の考えになりますが、弁護士のつかない軍律会議の略式手続きで死刑判決を下し、しかも実行するというのははっきり言ってかなり乱暴のように思えます。被告・弁護人サイドは激しい戦時下であったので、最善を尽くしたと述べつつ落ち度はあったことも認めます。その上で、戦時国際法違反になる無差別爆撃が如何に酷かったかということを証拠や証人を集めて立証し「適正手続きをとっていたとしても、極刑になっただろう」と検察や裁判委員に思わせることに成功したことです。結果としては、岡田中将の落ち度は法の適正手続きの観点から見てあまりに簡単に進め過ぎたことだけが問題で、量刑として非道なものではないという印象を与えることになりました。

それでも岡田中将に死刑判決が下りたのは、無抵抗のアメリカ兵が殺されたこと自体は事実であるため、米国世論を納得させるためだったと見ることもできますが、関係した他の被告たちが寛大な処分が下された背景には既に冷戦が始まろうとしていた時代背景も関係があったようです。終戦直後は悪の枢軸を担った日本帝国の悪い奴らに慈悲は不要という心理状態があったに違いないのですが、アメリカの立場としては新しい脅威としてソビエト連邦が浮かび上がり、その脅威が日を追って濃くなっていく中、日本の再武装を望むようになり始めており、再武装に必要な軍経験者を次々と処罰している場合ではないという変化が起きてきました。死刑判決はなるべく少なくし、死刑を宣告した後も終身刑に減刑し、将来的な釈放にも含みを残すというように方針が変化したため、BC級裁判は結審が遅いものほど寛大な判決が下るようになったようです。ここは私の想像になりますが、A級戦犯の裁判が終わり、刑が執行された後は、アメリカ世論もある程度鎮静化してさほど厳罰を望まなくなったということも大きいかも知れません。

岡田資中将の場合は減刑されることなく、刑が執行されてしまいましたが、中将本人は相当覚悟が決まっていたらしく、裁判中から日蓮宗を基礎にした仏教研究に力を入れ、自身で理論化を進めて行ったそうです。死を受け入れるために、自分なりの死生観を作り上げる必要がきっとあったのだと思います。彼の仏教理論と、スガモプリズンで教誨師をつとめた花山信勝氏の理論とは対立もあったそうですが、東京大学の教授の花山氏と対立できるだけの理論武装をしたというのはそれだけでも凄いように思います。スガモプリズンの死刑囚で間では花山氏の指導よりも岡田中将から指導を受けたいという声も少なからずあったようです。花山氏の教えが仏様にすがって極楽浄土へ行けるのだという他力本願的で慰め要素が強かったのに対し、自分がより仏陀の精神に近づけるよう精進し、刑に向き合い受け入れるという岡田中将の姿勢の方が現実に執行に直面する囚人たちの心を掴んだのかも知れません。


共和党の黒幕?ロジャーストーン

netflixのオリジナル制作ドキュメンタリーに『困った時のロジャーストーン』というのがあったので、ちょっと見ました。なるほど、アメリカの政治の世界はこうなっているのかというのがよく分かるいいドキュメンタリーフィルムです。

ロジャーストーンという人物はなんとリチャードニクソンの時代から選挙参謀として活躍し、その後はロナルドレーガンを大統領に押し上げ、最近ではドナルドトランプを大統領に仕立て上げた人物と言われており、要するに過去50年くらいの共和党大統領の誕生の背後で常に暗躍し、フィクサーとして成果を挙げてきた男ということらしいです。

で、このドキュメンタリーでは、政敵を倒すためには手段を選ばずネガティブキャンペーンを行い、政治の世界は金で動かせると信じ、勝つためにはできることは全てやるというタフさを持つ男としてロジャーストーンを描いており、視聴者に対して「これが、いわゆるワシントンの腐敗した政治家たちの黒幕ですよ」という印象を与える効果を持つものと言えます。私が感心したのはこの作品を見ることで、アメリカのロビー活動がどれくらいの影響力を発揮するかがよく分かったという点で、一般的な報道などで大統領が〇〇と発言したなどのことでは推し量りがたい良くも悪くも奥の深い世界があるのだなあとしみじみと思えたことです。裏で活躍していろいろと仕掛けをし、意中の人物を勝利させるという意味では、日本でいえば小泉純一郎さんにとっての飯島勲さん、田中角栄さんにとっての早坂茂三さんのような感じの存在と言えるのではないかなあと思います。私はロジャーストーンのような人がいることが良いとか悪いとかを論じたいわけではなくて、なるほど、そうなっているのかということをまずは受け止めたいといったところです。

ですが、ロジャーストーンという人物は裏で仕掛けをするわりにはなかなかに派手好きです。スーツも派手、舌鋒も鋭く、ボディビルディングでムキムキであり、背中にはリチャードニクソンの顔をタトゥーにして入れていて、求められれば服を脱いでそのタトゥーを見せてくれるという、かなり変わった男です。裏の人間なのに目立ちたがりみたいな感じでしょうか。飯島勲さんや早坂茂三さんもインパクトの強い人物ですから、いわゆるフィクサーと呼ばれる人たちも、それだけの仕事をするわけですから常人とは違ったオーラを放つものなのかも知れません。彼の自宅にはニクソングッズが山のように展示されていましたから、おそらくリチャードニクソンが彼の原点なのだと自覚しているのでしょう。

この作品によるとロジャーストーンはかなり早い段階からトランプ氏に目をつけていて、この男を共和党の大統領にしようと狙っていたらしいのですが、確かにこの作品で見る限り、テッドクルーズよりもトランプの方が遥かにインパクトがあり、ヒラリークリントンという大物と勝負するにはトランプ並みの破壊力がなければならなかったのかも知れません。ヒラリーさんよりトランプの方が見ていておもしろいというのは確かにありますから、おもしろいだけのおじさんを大統領にしてしまったことが吉と出るか凶と出るかはもう少し先にならなければ分からないものの、ロジャーストーンの選挙で勝てる人物を選ぶ目は相当鋭いと言ってもいいのかも知れません。

そうは言ってもクリントン大統領が登場したり、オバマ大統領が登場したりと民主党が勝っている場合もあるわけですから、ロジャーストーンが連戦連勝というわけでもなく、勝ったり負けたりを繰り返しているという意味では案外普通なのかも知れません。


死刑は廃止すべきか?それとも存置すべきか?

先日、ニコニコ生放送で死刑は廃止すべきか、それとも存置すべきかの討論番組をやっていましたから、私は熱心に視聴し、自分なりの考えをまとめたいと思いました。双方の論者に存分に自分の意見を述べてもらうという趣旨としてはさすがはインターネット、テレビではなかなかできない突っ込んだ議論がなされたと思います。

死刑については廃止すべきという論者には充分な論拠があるように思える一方で、存置すべきとする論者にも充分な論拠があるように思えますから、一概に絶対どちらかが正しいと言うことは当然できない難しい問題です。私は感情的には死刑を廃止してほしいと思っていますが、それは死刑が執行されたというニュースに触れると、どうしても気持ちが暗くなってしまうというごく個人的な感情の理由に拠ります。ですがそれは私が犯罪被害者遺族ではないから言えるのであって、もし自分が被害者または遺族になった場合、逆の感情を持つことは充分にあり得ます。

とはいえ、私は今の私を軸に考えていくしかないわけですが、被害者遺族の方が番組に熱心に「なぜ死刑でなくてはならないのか」を訴えてくれたことは、私にとって考えるための重要な材料にすることができました。個別具体的な事例については、私は猟奇的な内容を好みませんからここでは述べませんが、被害者遺族の方が訴えていたことには2つの軸があるように思えました。1つは復讐の感情です。犯人の自己中心的な動機により残虐に殺された人の遺族が復讐の感情を持つことは正当だと思います。また、社会にとってもそういう人間を葬り去りたいという動機が生まれてくることはやむを得ないのかも知れません。もう1つの軸は犯罪被害者が置いて行かれているということへの憤りでした。加害者は法律で様々な権利が守られており、法の適正手続きを経て刑が執行されることになります。それまでは生活もできますし、教戒師の人と話し合いを重ねるなどして刑を受け入れる心境になるまでの時間が与えられます。しかしながら、被害者はもちろんそのように手厚く殺されたわけではないですし、被害者遺族に手を差し伸べるということに法や社会が充分に意識しているかといえば、充分ではないかも知れません。本村弘さんは戦って戦い抜いて加害者に対し自分の納得できる刑を科すということができましたが、そこまで戦って疲労困憊しなくてはいけないということにそもそも問題があると言えるかも知れません。

できるだけ人に優しい社会にしたいとは誰もが思うことです。私もそういう社会が建設されることを望んでいます。だとすれば、死刑を廃止すべきと考える人と死刑を存置すべきと考える人の間で一致できる点は、被害者遺族へのケアやサポート、救済のための手立てをできる限り厚くすることではないかと思います。特別会計で予算を組んでそのための公的な組織を作り、重大犯罪の被害者遺族の方は一生涯苦しむことになるでしょうから、生涯をかけてサポートするような仕組みやプログラムを考えていくということにはおそらく異論が出ることはあまりないと思います。運用上の問題が出れば、その時に試行錯誤して改善すべきと思いますから、まずはそういう取り組みをするべきではないかも知れません。廃止派と存置派はこの点では一致できるはずです。

被害者遺族が最も望むことは復讐でしょうけれど、次いで望むことは加害者の真摯な反省と謝罪ではないかと思います。これもプログラムしていく。年に数回、加害者に手紙を強制的にでも書かせる。最初のうちは反省していないでしょうから、表面的な言葉になるかも知れませんが、繰り返し書いていくうちにだんだんと真実な謝罪や反省の言葉が生まれてくるようになるのではないかという気がします。日記を毎日書く人の文章がうまくなるのと同じような感じです。本村弘さんが戦った事件では加害者が死刑から逃れたくて謝罪の手紙を書き始めましたが、報道で見る限り、次第に内容に心や誠意が入り込んでいったように思いますし、それらの反省と謝罪の言葉を読んで、どうしても死刑にしなくてはならないとも言い切れない…と思った人は少なくないと思います。担当弁護士がこの事案を利用して自分の政治的主張を被告人述べさせようとしてそれまでの謝罪と反省の言葉を覆させてしまい、この事例では死刑判決が出されましたが、本村さんがその直後の記者会見で、もし謝罪と反省を覆すようなことをしなければ死刑は回避できたのではないかと話していたことを私は今も時々思い出します。そのような発言があったということは、被害者遺族である本村さんとしても、真摯な謝罪と反省の言葉を読み、心を動かされるところがあったということだと思いますし、多くの犯罪被害者の人たちにもそれはある程度、共通することなのではないかと推察します。

死刑についてはその存廃をすぐに結論することは難しいですが、被害者遺族の方たちに社会が手を差し伸べるということをでき得る限り手厚くしていくということと、加害者に謝罪と反省を徹底的に促す(教戒師のような立場の人がお給料をもらって、根気よく諭し、指導もする)ということを充分に行った上で、それでも遺族の方たちが加害者に対して死刑の執行を望むかどうかを問うてみるというプロセスがあってもいいような気がします。

法理論ということで言えば、私は法理論はド素人ですから、大したことは言えませんが、長期、場合によっては生涯、自由を奪うだけの刑(刑務所や拘置所に隔離する)を支持する立場と、死刑が存在することで社会が殺人を容認しないことを担保すると考える立場に分かれるようです。理論は大切ですが、死刑の執行は最終的には法務大臣の署名がなくてはいけませんから、政治判断に委ねられているとも言え、政治は人の心そのものです。人々が望まない政治は如何に理論的に整合性が取れていようとも、政治として成立しません。社会に参加する人の心が納得する形のものを目指す他はありません。

以上は私なりにより多くの人が納得できるあり方はないかということを考えてみた結果です。

『ファイナル・イヤー』‐オバマ大統領の壮大なイメージビデオ

オバマ政権最後の一年をカメラが追いかけ続けた『ファイナル・イヤー』は、オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないイメージビデオになっており、オバマ大統領が嫌いな人にとっては「かっこつけやがって」と別の意味で見ていられない作品と言えるかも知れません。

登場するのはオバマ氏とケリー氏、その他彼を支える周囲のスタッフたちなわけですが、マスメディアの見ていないところでカメラが回っているため、もうちょっと突っ込んだあたり、どのようにして彼らが意思決定をしているのか、どんな会話をしているのかというあたりを見ることができるのは興味深いです。ホワイトハウスの中がどうなっているのかも、僅かながら見て取ることも可能です。もちろん、見せられないところはカメラは回ってないでしょうから、歴史の評価を待たなくてはいけないとも思えます。

さて、とにかく彼らは走ります。走りながら意思疎通をしています。かっこいいの一言に尽きるいい場面が次々と出てきます。人が走る姿は見る人に感銘を与えます。なぜかは分かりませんが、人が走っている姿には何らかの感動的なものがあります。箱根駅伝をみんなが一生懸命見るのも、オリンピックのマラソンをみんなが一生懸命見るのも、なぜか分からないけど人が走るという姿に感動するからです。

で、この映画では大統領のスタッフたちが走るだけではありません。真剣な表情で議論を積み重ねる様子が撮影されています。世界の平和のために真剣な表情で議論を重ねる彼らの姿はもちろんとても絵になります。そしてなんと言ってもオバマ大統領の絵になることと言ったら文句ありません。高く評価されるスピーチ力、苦悩し、重大な決断を迫られる際の表情、どれも決まっています。

お決まり、お約束と言ってもいいですが、世界中を訪れて、人種、民族、宗教を越えてオバマ大統領が親しく話をする場面、特に子供たちとコミュニケーションする場面はこれでもかというくらいに登場します。子どもとコミュニケーションをする人はいい人と決まっているようなものですから、この映画のオバマ大統領いい人アピール大作戦は大いなる成功を収めていると言ってもいいでしょう。

シリアの深刻な問題についてはわりと突っ込んだところまでこの作品で論じていますが、一方で東アジアの難しい問題は基本的にほぼ無視。唯一、オバマ大統領が広島を訪問したところだけは丁寧に撮影されています。

そして最後の方では大統領選挙でトランプ氏が勝利する場面。民主党勝利を確信していたはずの大統領スタッフたちが文字通り言葉をなくしている様子が撮影されます。こればっかりはかっこよく撮影するわけにはいかず、同情的な雰囲気を漂わせるほかありません。

個人的にちょっと気づいたのはケリー氏がこれでもかというくらいに登場するわりにヒラリーさんが全然出てきません。この映画だけ見ると、ヒラリーっていう人、本当にいたっけ?と思ってしまうほどです。オバマとヒラリーは仲が悪いんだと主張する人の動画を見たことがありますが、意外と本当にそうだったのかも知れません。

いずれにせよ、オバマ大統領が去る前の一年を撮り続け、結果として身内で楽しむ壮大なファミリービデオみたいになっています。オバマ大統領が好きな人にとってはたまらないことでしょう。