村上春樹作品の読み方‐不誠実な語り手

村上春樹作品は評価が大きく分かれる。好きな人は徹底的に好きだし、嫌いな人はまた徹底的に嫌っている。私個人は村上春樹作品は嫌いじゃないけど、腑に落ちないところもあって、ちょっと考えるのに疲れてしまって最近は読まなくなった。

村上作品が好きな人はアダルティでアーバンでモダンな雰囲気、洋楽と洋酒と気の利いた言い回し、ちょっとファンタジーが入っているところや文体あたりが好きなのだと思う。私も文体が好きだ。

村上作品が嫌いな人は、主人公の男性がやたらと簡単に異性と関係を持ってしまうことに嫌悪感を持ってしまったり、リアリティのなさを感じてしまったりするのではないかと思う。自然主義小説なら、男と女のすれ違いで泣く話になるし、ロマン主義小説なら大切なただ一人の人と添い遂げるという話になる。どちらにしても男女のことは難しい…というのが近代小説のテーマになるはずなのだが、村上小説はどちらでもない。自然主義小説にしてはイージー過ぎてリアリティを感じることができないし、ロマン主義小説にしてはロマンチックではない。村上小説の主人公は「やれやれ」と疲れ切った様子、飽き飽きした様子でそういうことをするのである。そして村上ファンはその部分について議論することを避ける。だが、あんなに簡単に次々とそうなるのだから、それについて議論しない限り、ファンとアンチが理解し合えることはないかも知れない。

村上小説に於ける男女関係のイージーさについてどう考えればいいのか。ということは私にとって長年の疑問であり、なぜ村上春樹は熱心にイージーな男女関係を書き続けるのか理解に苦しむところではあった。

しかし、よーく考えてみると、おそらく村上春樹氏は潔癖症で本当はそういうことが嫌いなのである。そして、潔癖の真逆でイージーに相手をつかまえる最低な男を書き続けているのではないかということにようやく考えた辿り着いた。

たとえば『ノルウェイの森』の主人公を考えてみた場合、主人公の語りでは直子をどれほど愛しているかということが強調されているが、実際には直子を救うことはできていないし、直子が病気で療養している間も語り手の主人公は次々と相手を見つけている。そして直子が死んでしまった後、さんざん自己憐憫をした後で、性的なことに関するトラウマを抱えていると思しき女性と関係を持って、最後はショートヘアーの女の子から「で、あなたはどこにいるの?」と突き放したように言われてしまい、世界の中心で自分はどこにいるのか分からないという締めくくりになっている。要するに女性を愛しているように見えて実は浅はかで自己憐憫する最低な男、最低な男性モデルを自覚的に、こいつは最低なんだよと作者は言っているのではないだろうか。

男女が恋愛関係に発展するには、通常、それなりの手続きが必要になる。話し合い、語り合い、心境を確認し合い、互いに大切に思っているかどうか、今後も思い続けることができるかどうかを確認し合って、そういう関係になる。普通そうだと思う。真面目な恋愛とはそういうもののはずだ。

村上作品には、普通なら小説の重要なモチーフになり得る男女関係が成立するまでの手続きが省かれている。しかし、作者も現代に生きる自然人である以上、男女関係の手続きを知らないはずがない。他の作品でも主人公の男性は次々と相手を見つけて行くが、その手続きは全て省かれている。手続きがなくそういう関係になったのではなく、手続きを省いて書いていないのである。次々と相手を見つけて行く以上、そのような男は欲望の虜になっているに相違ない。その心の中を察すれば、醜いものがたち現れて来るように思える。醜い部分が存在しないのではない。書いていないのだ。村上作品の主人公の「僕」は、そういう醜い部分を読み手に知らせない不誠実な語り手であり、作者は自覚的にそうしているのである。そして読者に対し、こいつ最低なんだよ。気づいてくれるかな?こいつ、惨めだろ?

と言い続けて来たのではなかろうか。ではなぜ最低な男を書き続けたいのだろうかという疑問が湧いてくるが、村上春樹氏は父親との関係が良くなかったらしい。もしかすると最低な男のモデルは氏の父親であるかも知れない。或いは自分自身のことかも知れない。多分、両方なのではないだろうか。

一応、ファンの人に申し訳ないので、村上春樹氏が最低だと言っているわけではないことは念を押しておきたい。村上春樹氏がなぜか分からないが最低な男を書き続けていて、その理由には自己嫌悪があるのかも知れないという一応、ある程度論理的に考えた上での推論でしかない。

そのように考えると過去に読んだ村上作品のことが少し深く理解できるというか、謎が解けるのではないかという気がする。源氏物語に於ける紫式部の男に対する深い失望と、村上作品に於ける男性的なものに対する深い失望は通底するものがあるのかも知れない。



アニメ『生きのびるために』でイスラム世界を一歩深く理解できるか

ヨーロッパ資本で制作された現代のアフガニスタンを舞台にしたアニメ『生きのびるために』は、ある程度イスラム世界がどうなっているのかを理解することに資するように思える。だが一方で、この映画と現実がどれくらい近いのか、或いは遠いのかを判断する材料が私にはない。

私がこの映画を観て最も関心したのは人の動き方が近代人のそれではないということだ。歩き方、走り方、座り方が近代人としての訓練や躾のようなものを受けた人ではないということに注意深く見ることで気づくことができる。近代人の動きというのは感嘆に言うとマラソンできる走り方やそれに準じた動き方みたいなものを私は指していて、いわゆる体育の授業とかきっちりやらされているとそういう動きになるという類のものだ。作り手が意識して近代人ではない動きをキャラクターに与えたことには当然に意味がある。

この映画では女性が一人で外に出歩いただけで人間扱いされないという、西洋近代の洗礼を受けている我々には理解できない受け入れ難い現象が描かれている。しかも主人公の少女の父親が全く理由もないのに監獄に放り込まれるという文化大革命みたいなことが起きてしまう。これが果たして本当にアフガニスタンの日常なのか私には判断できないが、もし本当にそういう日常が繰り返されているのであれば、現代人として容認できない。状況は改善されなければならないし、そのためにできることがあればやるべきだ。

この映画で気づかなくてはいけないことは、主人公の少女が男装をして女性蔑視の社会で生き延び、無意味に監獄に入れられている父親を助けるという物語の展開が、我々近代人の価値観に基づいている一方で、同時に主人公は西洋化された生活を望んでいるわけではないということではないだろうか。繰り返しになるが少女の身のこなしは学校の体育の授業を受けたそれではなく、またそのような立ち居振る舞いを自然なこととして彼女は考えている。ムスリム世界にはムスリム世界のお行儀があり、彼女のその意味ではおそらくきちんと躾されているのだが、我々のそれとは違うということ、そしてそれはそれで正しいということを映画は伝えようとしている。

そのようなことを総合すると、1女性蔑視は容認できない。2しかしムスリムの生活を否定するわけではない。3普遍的な家族愛の3つの要件によってこの作品が成立しているということに気づくことができる。

さて、私はもう一つ、日本アニメをヨーロッパが追い抜いたという感想も得た。日本アニメと言えばジブリである。ジブリと言えば駿である。駿は確かに世界を驚愕させる高い品質のアニメーションを連発した。特にナウシカ、トトロ、もののけ、千と千尋が世界に与えた影響は大きい。ファンタジーであり、登場人物に感情移入しやすく、描きれいで、壮大だ。日本のアニメは世界一だと誰もが認めたに相違ない。しかし駿が『風立ちぬ』のような作品を作ったということは、もはや世界にアピールしたいという考えを捨てており、好きなことを好きなように描きたいということしか考えていないことがわかる。そして駿の次に駿に匹敵する人物は現れないだろう。100年に一人の天才が駿だからだ。とすれば、日本アニメ映画はそのピークを既に過ぎてしまっていることになる。

一方で、駿的壮大なファンタジーに対抗すべく欧米で作られた素朴なアニメはかえって観客の心を打ちやすいのではないかと思える。たとえばこの『生きのびるために』のような作品がそうだ。アニメは派手ならいいというものではないし、画面が凄ければいいというものでもない。凄い画面はCG技術でいくらでも作ることができる。むしろ、一つ一つの絵が素朴かつ真摯に作られることが大切なのではないかと私には思えた。



クラシック音楽の聴き方

今年の夏休みはショッキングなことが幾つか続いたので、映画をじっくり観たり、本をゆっくり読んだりということに時間を使うことができず、やむを得ず心境が回復するまでクラシック音楽を聴くことにした。随分時間がかかったが、現状は大体立ち直っている。

で、なぜクラシック音楽ばかりを聴いたのかと言えば、J-POPもK-POPも聴きたいような心境になれず、ロックはおろかジャズですら明るすぎて聴く気になれずに、自分の心境に合うものが聴きたいと思うと、クラシックの静かなやつを選んで聴くようになってしまった。言うまでもなくショパンである。ショパンのピアノばかり何週間も聴いていた。クラシックでショパンのピアノに浸るというのは随分ときざったい気もするが、私はピアノはもちろん弾けないし、音符も何となくしか分からない、俄かクラシックリスナーである。

で、とにかくクラシックしか聴きたくなかったのだが、心境の変化とともに、聴きたいものに変化が現れ、結果としてクラシック音楽に対してちょっとだけ理解が深まった気がするので、ここで書いておきたいと思う。

まず、繰り返しになるが、心境が思いっきり落ち込んでいる時はショパンのソフトなピアノ以外は受け入れることができない。で、少し回復して私がよく選ぶようになったのがショスタコービッチである。なんとなく暗いのだがなんとなく明るいという、どんな心境で聴いていいのか分からないのがショスタコービッチの良さである。回復期にあって、ちょっと回復したかも知れないけど、まだ自信ないという私の心境にぴったりと合った。それからしばらくして、私はラフマニノフに手を出した。ラフマニノフのピアノはわりとシンプルだが迫力がある。迫力のあるものに私が耐えられるようになったということに私は気づくことができた。

さて、クラシック音楽と言えば、普通、ベートーベンとかモーツアルトあたりが一般的且つ定番ではなかろうか。小林秀雄がモーツアルトを絶賛しているので、モーツアルトは最高に決まっているという先入観が私にあったが、モーツアルトは明るすぎることに気づいた。『アマデウス』という映画でも明るく無邪気で天才のモーツアルトが登場するが、テンションが上がっている時か、無理にでも上げたい時でないととても聴いていられない。そして、ドンジョバンニとか聴いたらなんとなく「音楽ってこんな風にデザインできるんだぜ」と彼が言っているような気がしてしまい、久石譲さんが音楽に才能は必要ないという言葉を読んだことがあるのを思い出し、「あー、音楽って基本のデザインのパターンを知っているかどうかで違って捉えられるんだろうな」という素朴だが私にとっては新しく、芸術とは才能ではなくパターンであるという個人的には革命的な格言を思いついてしまったのである。

今は充分に元気なので、ベートーベンの第九をちょうど聴きながらこれを書いている。ベートーベンは映画でモーツアルトみたいになれと教育されて、そこまで辿り着けない悩みみたいな描かれ方をしていたのだが、突き詰めるとパターン+ちょっとだけ個性なのだとすれば、別に迷ったり悩んだりする必要はないのではないかという気がした。芸術はパターンなのである。第九だって、「な、お前ら、こういうの好きなんだろ」のパターンに従っているように私には思える。

以上、素人の音楽談義でございました。



ソフィア・コッポラ監督『ロスト・イン・トランスレーション』の、わりと共感してしまう恋

ビル・マーレイがアメリカ人俳優として日本のテレビcmに出演するために招待され、新宿あたりの超高級ホテルで中期的に滞在した時、同じホテルに若いアメリカ人の夫婦も滞在しており、ビル・マーレイと若い夫婦の奥さんとが微妙な関係になっていくという、一瞬、なにそれ…と思いそうだが実はわりと共感できる爽やかな内容になっている映画だと私には思えた。

若い夫婦の旦那は優秀なカメラマンで仕事のために日本の来たのだが、忙しくて奥さんはわりと放っておかれている。しかも旦那の知り合いのモデルみたいな女の人も同じホテルに宿泊していて、仲良くバーで飲んだりするけれど、奥さんとしてはちょっとおもしろくない。

一方、ビル・マーレイは大スターで、年齢的にもいい中年のおっさんなのだが、日本滞在がそんなに忙しいというわけでもなく、結果、若奥さんとビル・マーレイが一緒にあちこちででかけたりして、だんだん怪しい関係を予想させる展開になるのだが、両者は怪しい関係になることを選ばないというところが、好印象なのである。酔っぱらった若奥さんをベッドで寝かせた時、よっぽどいろいろ考えたけど、やっぱりやめておこうというビル・マーレイの態度に好感を持たない人はいないだろう。

で、ビル・マーレイがいよいよ日本を離れるという時になって、二人はホテルのロビーで握手をして別れる。空港までのハイヤーに乗っている途中、彼は若奥さんが都内を一人でぶらぶら歩いているのを見かけてしまい、車を一旦止めさせて、後ろから声をかける。二人は強く抱きしめ合い、キスをする。キス以上の関係にはならないのだが、両者はキス以上の愛情関係があることを確認し合い、満たされた心境で本当に別れるという流れになる。既婚者が配偶者以外とキスするのは本当だったらダメなのだが、それまでのギリギリ、もう一歩踏み出しそうで踏み出さないのをジリジリと見せられている観客としては、おー、そうか。そういう形で成就したのかと祝福したい心境になってしまい、ついつい共感してしまったのである。そういう恋は、ある。

東京が舞台で、日本人もいっぱい出てくるが、全てはこの二人のすれすれの恋のだしみたいな感じに使われており、別に日本を舞台にしなくてもいい内容なのだが、おそらくソフィア・コッポラが日本で遊んだ時によほど楽しかったのだろう。「東京ライフをパリピでリア充イエーイ」感があふれている。多分、ソフィア・コッポラが同じような感じで遊んだのがいい思い出になったに違いない。

私は東京が大好きだし、東京は楽しい場所だともちろん思うが、一点のみ、ソフィア・コッポラと私の間に東京の楽しみ方に関する認識の相違がある。私と彼女の間で認識の相違があるからと言って、誰にも問題はないのだが、一応、私が個人的に所有しているブログなので、認識の違いについて述べておきたい。ソフィア・コッポラの描いたパリピでリア充でセレブな東京生活は確かに楽しいに違いない。だが、私は言いたい。東京のいいところは、金がなくても楽しいという点だ。かつて世界一物価の高かった東京は、今や先進国では最も物価の安い都市であり、にもかかわらず、最も品質の良いものが手に入る都市であり、手に入らないものはない。つまり、東京は世界一コスパの良い国なのであって、安くておいしいもの、安くていいものが溢れている。そして日本人の所得水準は世界最高ではないが、今でも世界最高級だ。こんなに素晴らしいことはない。繰り返すが、東京は金がなくても楽しいところが魅力なのである。

さて、最後にもう一つ、ビル・マーレイについて少しだけ考えたい。中年男の鑑である。ゴーストバスターズで女子大生を誘惑しようと目論む科学者の役をしていたが、以前、テレビ局スタッフを口説き落とそうとやっきになるお天気レポーターの役をしている映画を観たことがある。そして、今回は若奥様とギリギリな恋をする。要するに恋愛が似合う中年男なのだ。恋が似合う中年男はこの世で最も魅力的な存在のように私には思える。見習いたい。



赦せないことを赦せるか

随分以前に観た韓国映画で題名も忘れてしまったのだが、有名な俳優さんが出演している韓国映画が今も時々、頭の中で蘇る。主人公は若いころ警察官をしていて、結婚し、公務員を辞めて実業家になり、妻が不倫して赦せずに離婚し、事業協力者に裏切られて破産し、文無しになって自殺するという救いが全くない映画なのだが、私はどうしても時々思い出してしまい、その主人公の彼の何が人生を破滅させたのかを考え込んでしまう。

というのも彼は全く悪いことはしていない。警察官を辞めて実業家になるのは個人の自由だ。妻が不倫して離婚するのは正当な事由だ。事業協力者に裏切られたのも、裏切った方が悪い。にもかかわらず、彼は自分の人生を回復させることができなかった。なぜ、どこからこの人はおかしくなっていったのだろう、と良く考え、自分の人生の教訓にしたいというようなことを反芻するようにして考えてしまう。

ただ、彼が破滅していったことについて、私はなんとなく分かるような気がしなくもなかった。それは、彼の不倫した妻に対する態度に現れているように思える。妻の不倫は疑惑ではなく間違いなく申し開きのできない現場を押さえていて、警察官らしく現行犯で捕まえたと言える。その後、妻は泣きに泣いて赦しを請うのだが、彼はどうしても赦すことができず、妻を置いて振り返りもせずに家を出る。私には、ここがターニングポイントだったのではないかと思える。これは難しい問題で、もし自分が同じ立場でパートナーを赦すことができるかと問われれば、自信がない。赦せないかも知れない。パートナーに浮気されたことがないし、私も二股のようなことはしたことがないので心境が完全に分かるわけではないが、普通に考えて赦せないだろうし、世間的にも赦せないことは理解されるだろう。

ただ、泣いて赦しを請う人間に対し、一切の赦しを与えず、背を向けて立ち去るという軽蔑の姿勢を見せる彼の覚悟には強い攻撃性が感じられた。攻撃性は方向性の問題なので、時に他人を傷つけるし、時に自分を傷つける。彼はあの時、妻を赦さないという覚悟をすることによって、結局は自分を赦すことができず、自ら人生の破滅を招いたということができるのではないだろうか、という気がするのだ。

もちろん、そういったことは演出の問題もあるから、私の勝手な解釈で、制作者はただ単に救いのない人生を描いて観客を落ち込ませようと意図していただけかも知れない。ただし、本でも映画でも受け手の心に響かなくてはいけないので、作品には必ず制作者の人間に対する理解が入っていなくてはいけないし、そうでなくては作品は作れないとも言える。

赦し難しことを赦すというのは人によっていろいろあるだろうから、貞操の問題だけに集約されるものではないかも知れない。しかし、貞操は最も分かりやすい例だということはできるだろう。私にもひたすら赦せないと思っていた人が何人かいるが、最近、なんとなく、赦してもいいのではないかという気がしてきた。そして、ある人は言外に赦しを私に請うていたということも思い出した。あの時、私は赦しを与えないという姿勢を言外で見せた。今思えば、赦しておけばよかった。赦しを与えた時、心の傷はそれだけ苛まれなくなるような気がする。なぜなら、赦した側にとっても完全な過去になるからだ。赦しがたいことを赦すから値打ちがあるのである。そして、赦することは自分を救済することにも繋がるはずなのだ。



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伊丹万作『戦争責任者の問題』を読んで考える敗戦国民の矜持

たまたま、映画監督で伊丹万作という人(伊丹十三さんの親父さん)が『戦争責任者の問題』という文章をは1946年に発表していたことを知り、インターネットで探してみると青空文庫で読むことができたので、どういう内容のものか読んでみた。15年戦争の失敗にどのような意味を与えるかは戦後を生きる日本人にとって簡単には答えの出せない難しい問題だが、私が漠然と考えていたことと同じことが書かれてあったので、私は自分の言いたいことを代わりに言ってくれている人が70年も前にいたのだと知って驚き、感動もしたので、ちょっとここで論じてみたいと思う。

伊丹万作氏は、「自由映画人集団」が文化運動をするというから参加してみたところ、かなり実践的な政治活動グループだと悟り脱退することにしたというのが、この文章の骨幹みたいなもになると思うのだが、興味深いのはその理由である。私は自由映画人集団がどんなことをしていたのかよく知らないので偉そうなことは全然書けないのだが、要するに戦争責任者をあぶりだして徹底的に懲らしめよう、追放しようという運動をしていたらしい。で、伊丹万作氏は、戦争責任者がいるとすれば、その軽重はあるにしても日本国民全員(子どもを除く)に及ぶのだから、他人の責任を追及する前に自分の責任を反省するのが先ではないかという趣旨のことを述べている。

実は私も前からそう思っている。これは私の人生観にもかかわって来るが私以外の誰かが悪い、私以外の何かが悪い、他の何者かの責任だと言っている間、人間は成長しない。自分にも責任があると認めた時、人は自分がどのように行動するかを考え、思慮深くなり、慎み深くなり、他人の貢献するということを考えるようになるのではないかと私は思っている。そのため、一部の戦争犯罪人とか戦争責任者だけに全てを押し付けてしまうのは、日本人にとって良くないと、一人の日本人として思うのだ。敗戦国民の矜持みたいなことを私はよく考える。潔く敗けたのだから、その敗けについて反芻し、新しい未来を切り開く糧にする、みたいなことだ。

もちろん、罪の軽重はあるから、場合によっては重い刑を科せられることはあるだろうし、反省の意思を持っただけで赦されていい場合もあると思う。

東京裁判はそういう意味ではいろいろな意味で微妙な裁判だと私には思える。裁判することによっていつどこで誰が、どんな意思決定をしたのかある程度は明らかにされたと思うが、一方で裁判にかけられなかった人たち全員に対して推定無罪の効果が生まれるし、多分、当時の人々は自分は悪くない。悪いのは他の〇〇だ。と言うことによって心理的な安全を担保することができた。しかし結果として、一部の人たちだけが悪く、他の人たちは反省しなくていいという構造も生まれたように思える。

私は日本が好きだし、日本人に生まれたことを嬉しく思っているが、今日まで続く思想的対立の根底には伊丹万作氏が指摘したような内省の不在があるのではないかという気がしてならない。私はどちらか一方に与したくはないのだが、どちらにも、或いは多方面に及ぶ内省の不存在は前々から気になっていたし、私はそのような議論に疲れてしまうこともあった。だが、日本人の良いところはきちんと内省するとそこから学んで真っ直ぐに道を歩くところにあると思うし、内省は一回すればいいものではなくて常に行われるべきものだとも思うから、そういうところから議論を始めると、もうちょっと何かが融合するのではないかという気がする。私がここで述べている内省の不存在とは、丸山眞夫が指摘した「無責任の体系」とだいたい同じような意味だとも思うので、そういう意味では丸山眞夫みたいな超絶有名人が既に指摘しているのに、そこはみんながスルーするか上手に解釈を変えているのだろう。それはともかく、良い戦争などというものは存在しないと思うので、なぜ悪い戦争をしたのかについて考えることは意味があると思うし、仮にあの戦争を悪い戦争だと思わない人がいるとしても、敗けたことは事実なので何故敗けたのかを考えることも新しい発見につながるのではないだろうか。『失敗の本質』みたいなことは常に考えておいて損はない。人は失敗から学ぶのだから。



スピルバーグ監督『キャッチミーイフユーキャン』で思う、払うべきものはちゃんと払おう

スピルバーグ監督の映画は大体外さない。大体面白い。エンタテインメントと人間性へのメッセージが両方入っているので評価が極端に分かれることもないし、観れば必ず楽しめたと感じることができる。

で、『キャッチミーイフユーキャン』も面白かったのだが、私が考えたのは、デカプリオが演じている天才的な詐欺師とその父親の関係のことだった。映画の始まりの場面では、父親はロータリーのメンバーに選ばれて誇らしげにスピーチをする。「私はミルクをバターに変えた」と譬え、彼はミルクの中におぼれそうなほど絶望的な状態でもがき続け、その結果、よくかき混ぜられたミルクは固形のバターへと変化し、自分はおぼれずに立つことができたというわけだ。相当な苦労と努力をし、困難を克服した結果、彼はロータリーのメンバーという名誉を手に入れた。

しかし、妻は他の男のところへ行ってしまい、デカプリオの父親は失意に打ちのめされているにも関わらず税金を払わなくてはいけないことに頭に来て、税金を払うくらいなら逃げてやると決心し、逃げ続ける。デカプリオの父親は税務署から逃れるために職も居場所も転々とするが、実は税金さえ払ってしまえば人生をやり直すことができるかも知れないのに、彼は「税金だけは払ってやるものか」という執着心があるために人生をやり直す機会を自ら遠ざけているのだと私には感じられた。しかも税金は法律に従って払うべき市民としての義務であり、義務を果たすことが人生をやり直すための絶対的な条件なのだとこの映画では示唆されているように思える。

さて、デカプリオも喪失感は大きい。母親が別の男のもとへ去ったのである。そりゃ、喪失感は大きいだろう。しかも父親は税金逃れで逃走しているのだ。世の中に恨みや反発を感じる心情は理解できなくもない。で、たまたま彼はめちゃめちゃ頭が良かったので少しずつ詐欺の手法を覚え、偽の小切手を本物同様にゴート札みたいに量産し、口もうまけりゃ顔もいいので金も女も好きなだけ手に入れることに成功する。しかし彼の人生が真実に満たされるということはない。なぜなら彼が真実に求めていることは家庭的な愛情であり、そこが母親の出奔によって破壊されているので、どれだけ金を集めて女を集めても決定的な部分が癒えていかないし、それでもその虚しさから逃げるために彼はもっともっと派手に詐欺を続けていく。詐欺で得たお金はどれだけやってもあぶく銭であり、充実には近づかない。彼もまた、払うべきものを払わずに生きてやろうと決心した点では父親と共通していると言える。

ぐっと来るのは彼が捕まった後、偽造に精通した彼がFBIに協力することで市民生活を送ることを赦され、後には偽造防止の手法の知的財産を得てかなり高額な収入と自分の家庭を持つことができるようになったという結末である。彼はFBIに協力することを条件に懲役刑から逃れることができたが、少なくともFBIに協力するという代償を支払うことで詐欺を続ける必要がなくなり、逃げ回って虚しい贅沢をする代わりに家庭という彼が真実に求めていた愛情生活を得ることができたのだと言うことができるだろう。

これは私たちの人生にとっても教訓になる。税金に限らず、払うべきものを払ってこそ信用が得られる。そしてほしい物が手に入るように世界はできている。単に等価交換ということを言いたいのではなく、正当な努力と代償によって、自分の人生を得ることができるということをスピルバーグは言っているのではないかと私には思えた。

彼の父親がその後どうなったかについては映画では描かれていないので分からないが、多分、息子がいろいろなんとかしたのではないかと想像することはできる。父親も税金さえ払えば人生をきちんとやり直すことができるだろう。なぜそう言えるかというと、私自身が転職や病気などで人生を何度かやり直し、それでもこのような半端者が今、大学の非常勤でとにかく飯が食えるという程度にまではやってこれたので、人生は何度かはやり直しがきくものだし、実際に本気で取り組んでみれば実現可能なことはたくさんあるとしみじみと思うからだ(一度社会人になった者が大学院に戻って勉強し直して非常勤でもそういう方面の職に就けるのは奇跡的だし、非常勤だけでどうにか飯が食えるのはかなりの奇跡なのだ)。




映画『ゲッベルスと私』を観て愕然とした件

岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリーを観た私は愕然とした。ゲッベルスの「元秘書」とされる女性は、敢えて言えば平凡な人だという印象を受けたので、そのことでは愕然とすることはなかった。ただ、映画の作り手は証言と交互して様々な史料映像を挿入しており、それらの映像の凄惨さに私は愕然としてしまったのだ。

特に私が恐怖を感じたのは、アメリカ軍によるナチスが作った収容所内のガス室の検証映像だった。ガス室の壁には人の手の跡やひっかいたような跡が無数に残されていた。それらはそこで殺された人たちが最後の瞬間にもがき苦しんだか、なんとか脱出生き延びようとしたか、或いはその両方が起きたことを、しかも繰り返し繰り返し起きたことを示していた。

私は以前、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス(ヒトラーの副総統でイギリスにパラシュート降下した人物とは別人)が書き残した手記を読んだことがある。ルドルフ・ヘスはもちろん戦後に処刑されたが、人の歴史で最もたくさん人を殺した男であり、今後も、少なくとも私が生きている間に同じことをする人は現れないだろうと思う、というか思いたいのだが、私がガス室について具体的に知っていることは限られていて、ルドルフ・ヘスの手記に拠れば、シャワーを浴びるという理由で閉じ込めた人々を彼は見下ろすことができる位置に立っており、人々は彼を見た瞬間、やはり騙されて殺されるのだと知り、憎悪と怨みの叫びを上げたということらしかった。彼は何度となくそこに立ち、怨みながら死んでいく人たちを見たことになる。私のガス室に関する知識はこの程度のものでしかなかった。

今回、この映画を観て、壁に残された無数の手の跡は、当時の状況をより具体的に私に教えてくれるものになった。恐ろし過ぎて愕然としてしまったのである。

一方で、ゲッベルスの元秘書とされる女性は、ナチス政権誕生から敗戦の少し前の時期に至るまで、それなりに生活をエンジョイしていたことを話している。恋人がいて、ゲッベルスの演説にしびれ、宣伝省の給料の良さに満足していた。そしてホロコーストが行われていたことを「知らなかった」と彼女は言い切り、「私に罪はない。ドイツ全国民に罪があると言うのなら別だけれど、自分たちが選んだ政権なのだから」と述べる。民主主義の手続きを踏んでナチス政権は誕生したため、有権者全員にそれなりの責任はあると言えるが、選んだ政権が悪いことをした場合の有権者の責任は限定的で観念的なものだ。日本の首相が失政をやらかした場合に、有権者の責任を問うのは限界があるのと同じだ。

だが、この映画では、彼女のそのような証言と交互に凄惨な映像が挿入されるため、「知らなかったで済むのか?」という疑問を抱くように構成されている。知らなかったから悪くないと言うには、事態はあまりに重大すぎるからだ。アメリカ軍がドイツ市民向けに作ったフィルムも挿入されており、そこでは「知っていたのに止めなかった責任」を問うていた。私個人の想像になるが、あれほど大規模に熱心に継続的に行われていたのだから、多かれ少なかれ、憚れるようなことが行われていたことには気づくのではないだろうかと思う。現代でも自分の属する組織がどういう状況なのかということは私のような下っ端でも何となくわかることもあるし、噂も流れてくる。そのため、彼女が「知らなかった」と言い切ったとしても簡単に信じることができない。尤も、彼女の証言を嘘だと言い切るだけの証拠を私が知っているわけでもなんでもないのだが。

以下は全て私の想像になるが、彼女は何十年もの間、何度となく記憶を整理し、反芻し、自分の受け入れやすい物語を作り上げたに違いないという気がする。人は誰でもそうするので、彼女もそうせざるを得なかったに違いない。彼女は戦争が終わってから5年間抑留されていたと述べていた。その5年間は屈辱的な経験、人に話せないような酷い目に遭わされたであろうことも想像はつく。そのため、戦争が終わる前の記憶がより美化され、それなりにエンジョイできたという物語が形成されたのではないだろうか。彼女の本音は、ホロコーストに直接かかわったわけでもないし、戦争の意思決定に加わったわけでもないのに、5年も抑留されて酷い目に遭わされた。充分に責任は取った。というところにあるのではないだろうか。これはとても難しい問題で、責任がどこまで及ぶのか線引きができる人はいないだろう。そのことについては、今後、私も反芻して考えることになると思う。この映画を観てしまったら、考えないわけにはいかない。



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三島由紀夫と石原慎太郎

三田文学で石原慎太郎が文壇生活五十年を振り返るという趣旨の対談をしているのを読み、やはり三島由紀夫に関する回想が最も興味深いものだった。三島由紀夫はその是非は別としてあまりに特殊な存在であり過ぎる。

作品と文章の完成度の高さは入念であり、彼らしい完璧主義的であり、美しく、繊細且つ逞しい。三島由紀夫に関わることで『宴の後』事件というものがあるが、プライバシーの侵害で訴えられたのに対して、人間を科学的に描くという純粋な文芸表現であると彼は反論した。文芸とは人間を科学的に描く行動であるとする、彼の小説に対する信念が披歴された、ある意味貴重な事件である。

人間を科学的に描くという信念はヨーロッパの自然主義小説に由来するはずだが、果たして人間を科学的に描くということが真実に可能なのかどうか、私には分からない。フランス自然主義を模倣しようとした明治小説の自然主義スタイルについて、江藤淳は「(自然主義文芸を)やりおおせたと思っている」人々の作品だと鋭い指摘をしている。柄谷行人は田山花袋は小説に書いたことよりもっと他人に言えないことをしているはずだとこちらもかなり鋭いところを突いている。他人に言えないことは隠し抜きつつ人間の真実を描こうとすること自体に論理矛盾があり、人は誰でも他人に言えないことはあるはずだから、結局のところ、科学的に人間を描く文芸というものは存在し得ないのではないかと私には思える。

それはさておき、当該の対談では、川端康成が三島由紀夫に対して強い拒否感を持っていたと石原慎太郎は話していた。三島由紀夫の晩年の生き方は確かに常人には受け入れ難いものがある。私的軍隊なるものを組織し、自衛隊の施設に入り込み、幕僚を縛り付けて演説し、果てるという彼の動きには理解し難いものがある。もし共感する人がいるとすれば、それはその人の自由なので、私は否定しない。いずれにせよ、石原慎太郎の対談している内容に拠れば、三島由紀夫が自決する直前のころ、そういう彼に川端康成が拒否感を持っていたというのは初めて読んだ。どちらかと言えば両者の絆が強いという物語の方が流布していると私は理解していたから、意外だと言えば意外だったが、考えてみれば確かに私的軍隊を持つ小説家を受け入れ難い存在だと思ったとしても不思議ではない。大岡昇平も三島由紀夫の新宅に呼ばれた際、悪趣味だと思ったが言えずにいたという趣旨のことを話しているのを読んだことがあるので、三島由紀夫は周囲との人間的距離感に苦しんだに違いない。苦しむが故により言動が過激になったのではないだろうか。

三島由紀夫が自決して果てた後、川端康成は現場を見たという。石原慎太郎も現場まで行ったが、現場そのものは見ずに立ち去ったそうだ。以後、川端康成は三島由紀夫の亡霊を見るようになり、後を追うかのようにして自ら命を絶っている。石原慎太郎は対談で見なくてよかったという感想を述べていた。私ももし、現場に立ち入る権利を持つ人間だったとしても見たくない。私は小説について作者の人生や背景というものをあまり考えず、作品そのものと対話することをより重視するのがいいと思っているが、今回の石原慎太郎の対談を読むことで、私は三島由紀夫という人の心の中を少しは想像することができるようになったし、過去に読んだ三島作品を思い出し、彼がどういう心境でそういうものを書いたのかについて想像することもできた。やはり作品理解には作者の人生と背景を知ることの重要性は否定できない。

三島由紀夫はその過激な人生と精緻な文章力によって、常人には測りがたい内面を持つ人という印象がどうしても強い。そのため、私は三島由紀夫理解は自分には一生できないだろうと思って諦めているところがあったのだが、今回のことで多少は相対的に見ることができるようになったと思えるし、その点は有益だった。



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イタリア詩人、ジャコモ・レオパルディの近代

19世紀イタリアにジャコモ・レオパルディなる詩人が存在したことについて、東洋人の我々の中で知っている人はほとんど居ないだろう。私も最近になって知ったのである。イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じていた彼はそれら古典の教養を存分に生かしながら、新しい時代のための詩を書いた人物であるらしい。その作風は悲観的だが、ある程度無視論的な響きを持ち、それだけある程度自由主義的な響きを持っていたそうだ。当然、ナポレオン戦争と関係があるし、長い目で見れば社会主義とも関係があると言えるだろう。

ナポレオン戦争に影響を受けた芸術家として個人的にぱっと思い当たるのはベートーベンだ。第九交響曲の『歓喜の歌』は王侯貴族のためではなく一般のドイツ人のために書かれたもので歌詞もイタリア語ではなくドイツ語で書かれている。ちょっと前の世代のモーツアルトがドイツ語で戯曲を書くことについては相当揉めたらしいのだが、ベートーベンがドイツ語の楽曲を作るということで揉めた話というのは聞いたことがない。もしかするとちょっとはあったのかも知れないが、ベートーベンのドイツ語歌曲はわりとすんなりと受け入れられた。

モーツアルトとベートーベンの違いは生まれた時代の違いに拠る。モーツアルトはフランス革命とナポレオン戦争の最中に活躍したが、ベートーベンの時代にはナポレオン戦争は一応だいたい終わっていて、タレーランが戦争に敗けても外交で勝つという巧みな政治活動を行った時期と大体重なる。

さて、ベートーベンはともかく、レオパルディである。レオパルディは神なき時代の救いなき悲観主義を描いたらしいのだが、もう一つ重要な点として国民を描こうとしたという点は見落とされるべきではない。ナポレオン戦争は各地で国民意識を覚醒させるという効果をもたらした。フランス軍はもちろん自由平等博愛の普遍的理念で押しまくったわけだが、たとえばドイツのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という演説で民族主義を説いて歩いたように、ナポレオンに対する反作用としてヨーロッパ各地で民族と国家というものが強く認識された時代でもある。

ここで注意しなければいけないのは王侯による支配と国民国家は全く別のものであるということだ。たとえばドイツ語圏で乱立した王侯国家は国王の私有物であり、軍は国王の私有財産によって傭兵が雇われて機能した。それに対して国民国家では、国民はその国の人間だというだけで国家の戦争に対して責任を負う。21世紀の現代人の我々にとって、それは必ずしも正しいこととは言えなくなっているが、当時は王侯貴族の支配から脱却し、国民または市民による共和政治の理想がヨーロッパ社会に広がり、その旗頭がナポレオンだった。

レオパルディはそのような時代の空気を思いっきり感じて生きたイタリア人詩人であったため、国民という言葉にロマンを与えたと言われている。レオパルディ流の国民国家という近代との接点であると言えるだろう。私はイタリア語もラテン語もギリシャ語もできないので、一般的な解説に+して私の個人的な見解を述べることしかできないのだが、ナポレオン戦争を境にロマン主義的国家主義がヨーロッパに広がったことは事実であり、レオパルディはその新しい思潮を胸いっぱいに吸い込んだに違いないことは想像できる。彼は古典的なローマカトリックや王侯支配に対するアンチテーゼとして「国民」を重視し、国民を中心とした社会づくりを夢見た。残念なことに30代半ばで病死してしまったため、彼は国民という概念の行くつく先に普仏戦争が起きたことを見ることはできなかったし、それがエスカレートした結果としての第一次世界大戦を見ることもなかった。古典的な支配体制を崩すために国民という概念を創造することに彼は役立ったかも知れないが、その結果を見ることはなかったことが良かったのか悪かったのか。

ただ、彼個人は潔癖で真面目で勤勉で生き方ば不器用だったらしい。ちょっと私に似ている。どこが似ているのかというと、勤勉であるにもかかわらず、それがすぐにお金に直結しないところである。お金に関するセンスさえあれば、レオパルディも私も勤勉にお金を儲けていたのではないかと思わなくもない。フランスのロートレックみたいに…一応付け足すが、ゴーギャンは遊びたいだけなので、勤勉でもなければお金のセンスも持ち合わせていない。ただの付言になってしまいましたが….あ、ゴッホもか…