赦せないことを赦せるか

随分以前に観た韓国映画で題名も忘れてしまったのだが、有名な俳優さんが出演している韓国映画が今も時々、頭の中で蘇る。主人公は若いころ警察官をしていて、結婚し、公務員を辞めて実業家になり、妻が不倫して赦せずに離婚し、事業協力者に裏切られて破産し、文無しになって自殺するという救いが全くない映画なのだが、私はどうしても時々思い出してしまい、その主人公の彼の何が人生を破滅させたのかを考え込んでしまう。

というのも彼は全く悪いことはしていない。警察官を辞めて実業家になるのは個人の自由だ。妻が不倫して離婚するのは正当な事由だ。事業協力者に裏切られたのも、裏切った方が悪い。にもかかわらず、彼は自分の人生を回復させることができなかった。なぜ、どこからこの人はおかしくなっていったのだろう、と良く考え、自分の人生の教訓にしたいというようなことを反芻するようにして考えてしまう。

ただ、彼が破滅していったことについて、私はなんとなく分かるような気がしなくもなかった。それは、彼の不倫した妻に対する態度に現れているように思える。妻の不倫は疑惑ではなく間違いなく申し開きのできない現場を押さえていて、警察官らしく現行犯で捕まえたと言える。その後、妻は泣きに泣いて赦しを請うのだが、彼はどうしても赦すことができず、妻を置いて振り返りもせずに家を出る。私には、ここがターニングポイントだったのではないかと思える。これは難しい問題で、もし自分が同じ立場でパートナーを赦すことができるかと問われれば、自信がない。赦せないかも知れない。パートナーに浮気されたことがないし、私も二股のようなことはしたことがないので心境が完全に分かるわけではないが、普通に考えて赦せないだろうし、世間的にも赦せないことは理解されるだろう。

ただ、泣いて赦しを請う人間に対し、一切の赦しを与えず、背を向けて立ち去るという軽蔑の姿勢を見せる彼の覚悟には強い攻撃性が感じられた。攻撃性は方向性の問題なので、時に他人を傷つけるし、時に自分を傷つける。彼はあの時、妻を赦さないという覚悟をすることによって、結局は自分を赦すことができず、自ら人生の破滅を招いたということができるのではないだろうか、という気がするのだ。

もちろん、そういったことは演出の問題もあるから、私の勝手な解釈で、制作者はただ単に救いのない人生を描いて観客を落ち込ませようと意図していただけかも知れない。ただし、本でも映画でも受け手の心に響かなくてはいけないので、作品には必ず制作者の人間に対する理解が入っていなくてはいけないし、そうでなくては作品は作れないとも言える。

赦し難しことを赦すというのは人によっていろいろあるだろうから、貞操の問題だけに集約されるものではないかも知れない。しかし、貞操は最も分かりやすい例だということはできるだろう。私にもひたすら赦せないと思っていた人が何人かいるが、最近、なんとなく、赦してもいいのではないかという気がしてきた。そして、ある人は言外に赦しを私に請うていたということも思い出した。あの時、私は赦しを与えないという姿勢を言外で見せた。今思えば、赦しておけばよかった。赦しを与えた時、心の傷はそれだけ苛まれなくなるような気がする。なぜなら、赦した側にとっても完全な過去になるからだ。赦しがたいことを赦すから値打ちがあるのである。そして、赦することは自分を救済することにも繋がるはずなのだ。

関連記事
不遇の時期をどう過ごすか
心理的な傷から如何にして立ち直るか

伊丹万作『戦争責任者の問題』を読んで考える敗戦国民の矜持

たまたま、映画監督で伊丹万作という人(伊丹十三さんの親父さん)が『戦争責任者の問題』という文章をは1946年に発表していたことを知り、インターネットで探してみると青空文庫で読むことができたので、どういう内容のものか読んでみた。15年戦争の失敗にどのような意味を与えるかは戦後を生きる日本人にとって簡単には答えの出せない難しい問題だが、私が漠然と考えていたことと同じことが書かれてあったので、私は自分の言いたいことを代わりに言ってくれている人が70年も前にいたのだと知って驚き、感動もしたので、ちょっとここで論じてみたいと思う。

伊丹万作氏は、「自由映画人集団」が文化運動をするというから参加してみたところ、かなり実践的な政治活動グループだと悟り脱退することにしたというのが、この文章の骨幹みたいなもになると思うのだが、興味深いのはその理由である。私は自由映画人集団がどんなことをしていたのかよく知らないので偉そうなことは全然書けないのだが、要するに戦争責任者をあぶりだして徹底的に懲らしめよう、追放しようという運動をしていたらしい。で、伊丹万作氏は、戦争責任者がいるとすれば、その軽重はあるにしても日本国民全員(子どもを除く)に及ぶのだから、他人の責任を追及する前に自分の責任を反省するのが先ではないかという趣旨のことを述べている。

実は私も前からそう思っている。これは私の人生観にもかかわって来るが私以外の誰かが悪い、私以外の何かが悪い、他の何者かの責任だと言っている間、人間は成長しない。自分にも責任があると認めた時、人は自分がどのように行動するかを考え、思慮深くなり、慎み深くなり、他人の貢献するということを考えるようになるのではないかと私は思っている。そのため、一部の戦争犯罪人とか戦争責任者だけに全てを押し付けてしまうのは、日本人にとって良くないと、一人の日本人として思うのだ。敗戦国民の矜持みたいなことを私はよく考える。潔く敗けたのだから、その敗けについて反芻し、新しい未来を切り開く糧にする、みたいなことだ。

もちろん、罪の軽重はあるから、場合によっては重い刑を科せられることはあるだろうし、反省の意思を持っただけで赦されていい場合もあると思う。

東京裁判はそういう意味ではいろいろな意味で微妙な裁判だと私には思える。裁判することによっていつどこで誰が、どんな意思決定をしたのかある程度は明らかにされたと思うが、一方で裁判にかけられなかった人たち全員に対して推定無罪の効果が生まれるし、多分、当時の人々は自分は悪くない。悪いのは他の〇〇だ。と言うことによって心理的な安全を担保することができた。しかし結果として、一部の人たちだけが悪く、他の人たちは反省しなくていいという構造も生まれたように思える。

私は日本が好きだし、日本人に生まれたことを嬉しく思っているが、今日まで続く思想的対立の根底には伊丹万作氏が指摘したような内省の不在があるのではないかという気がしてならない。私はどちらか一方に与したくはないのだが、どちらにも、或いは多方面に及ぶ内省の不存在は前々から気になっていたし、私はそのような議論に疲れてしまうこともあった。だが、日本人の良いところはきちんと内省するとそこから学んで真っ直ぐに道を歩くところにあると思うし、内省は一回すればいいものではなくて常に行われるべきものだとも思うから、そういうところから議論を始めると、もうちょっと何かが融合するのではないかという気がする。私がここで述べている内省の不存在とは、丸山眞夫が指摘した「無責任の体系」とだいたい同じような意味だとも思うので、そういう意味では丸山眞夫みたいな超絶有名人が既に指摘しているのに、そこはみんながスルーするか上手に解釈を変えているのだろう。それはともかく、良い戦争などというものは存在しないと思うので、なぜ悪い戦争をしたのかについて考えることは意味があると思うし、仮にあの戦争を悪い戦争だと思わない人がいるとしても、敗けたことは事実なので何故敗けたのかを考えることも新しい発見につながるのではないだろうか。『失敗の本質』みたいなことは常に考えておいて損はない。人は失敗から学ぶのだから。

スピルバーグ監督『キャッチミーイフユーキャン』で思う、払うべきものはちゃんと払おう

スピルバーグ監督の映画は大体外さない。大体面白い。エンタテインメントと人間性へのメッセージが両方入っているので評価が極端に分かれることもないし、観れば必ず楽しめたと感じることができる。

で、『キャッチミーイフユーキャン』も面白かったのだが、私が考えたのは、デカプリオが演じている天才的な詐欺師とその父親の関係のことだった。映画の始まりの場面では、父親はロータリーのメンバーに選ばれて誇らしげにスピーチをする。「私はミルクをバターに変えた」と譬え、彼はミルクの中におぼれそうなほど絶望的な状態でもがき続け、その結果、よくかき混ぜられたミルクは固形のバターへと変化し、自分はおぼれずに立つことができたというわけだ。相当な苦労と努力をし、困難を克服した結果、彼はロータリーのメンバーという名誉を手に入れた。

しかし、妻は他の男のところへ行ってしまい、デカプリオの父親は失意に打ちのめされているにも関わらず税金を払わなくてはいけないことに頭に来て、税金を払うくらいなら逃げてやると決心し、逃げ続ける。デカプリオの父親は税務署から逃れるために職も居場所も転々とするが、実は税金さえ払ってしまえば人生をやり直すことができるかも知れないのに、彼は「税金だけは払ってやるものか」という執着心があるために人生をやり直す機会を自ら遠ざけているのだと私には感じられた。しかも税金は法律に従って払うべき市民としての義務であり、義務を果たすことが人生をやり直すための絶対的な条件なのだとこの映画では示唆されているように思える。

さて、デカプリオも喪失感は大きい。母親が別の男のもとへ去ったのである。そりゃ、喪失感は大きいだろう。しかも父親は税金逃れで逃走しているのだ。世の中に恨みや反発を感じる心情は理解できなくもない。で、たまたま彼はめちゃめちゃ頭が良かったので少しずつ詐欺の手法を覚え、偽の小切手を本物同様にゴート札みたいに量産し、口もうまけりゃ顔もいいので金も女も好きなだけ手に入れることに成功する。しかし彼の人生が真実に満たされるということはない。なぜなら彼が真実に求めていることは家庭的な愛情であり、そこが母親の出奔によって破壊されているので、どれだけ金を集めて女を集めても決定的な部分が癒えていかないし、それでもその虚しさから逃げるために彼はもっともっと派手に詐欺を続けていく。詐欺で得たお金はどれだけやってもあぶく銭であり、充実には近づかない。彼もまた、払うべきものを払わずに生きてやろうと決心した点では父親と共通していると言える。

ぐっと来るのは彼が捕まった後、偽造に精通した彼がFBIに協力することで市民生活を送ることを赦され、後には偽造防止の手法の知的財産を得てかなり高額な収入と自分の家庭を持つことができるようになったという結末である。彼はFBIに協力することを条件に懲役刑から逃れることができたが、少なくともFBIに協力するという代償を支払うことで詐欺を続ける必要がなくなり、逃げ回って虚しい贅沢をする代わりに家庭という彼が真実に求めていた愛情生活を得ることができたのだと言うことができるだろう。

これは私たちの人生にとっても教訓になる。税金に限らず、払うべきものを払ってこそ信用が得られる。そしてほしい物が手に入るように世界はできている。単に等価交換ということを言いたいのではなく、正当な努力と代償によって、自分の人生を得ることができるということをスピルバーグは言っているのではないかと私には思えた。

彼の父親がその後どうなったかについては映画では描かれていないので分からないが、多分、息子がいろいろなんとかしたのではないかと想像することはできる。父親も税金さえ払えば人生をきちんとやり直すことができるだろう。なぜそう言えるかというと、私自身が転職や病気などで人生を何度かやり直し、それでもこのような半端者が今、大学の非常勤でとにかく飯が食えるという程度にまではやってこれたので、人生は何度かはやり直しがきくものだし、実際に本気で取り組んでみれば実現可能なことはたくさんあるとしみじみと思うからだ(一度社会人になった者が大学院に戻って勉強し直して非常勤でもそういう方面の職に就けるのは奇跡的だし、非常勤だけでどうにか飯が食えるのはかなりの奇跡なのだ)。

映画『ゲッベルスと私』を観て愕然とした件

岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリーを観た私は愕然とした。ゲッベルスの「元秘書」とされる女性は、敢えて言えば平凡な人だという印象を受けたので、そのことでは愕然とすることはなかった。ただ、映画の作り手は証言と交互して様々な史料映像を挿入しており、それらの映像の凄惨さに私は愕然としてしまったのだ。

特に私が恐怖を感じたのは、アメリカ軍によるナチスが作った収容所内のガス室の検証映像だった。ガス室の壁には人の手の跡やひっかいたような跡が無数に残されていた。それらはそこで殺された人たちが最後の瞬間にもがき苦しんだか、なんとか脱出生き延びようとしたか、或いはその両方が起きたことを、しかも繰り返し繰り返し起きたことを示していた。

私は以前、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス(ヒトラーの副総統でイギリスにパラシュート降下した人物とは別人)が書き残した手記を読んだことがある。ルドルフ・ヘスはもちろん戦後に処刑されたが、人の歴史で最もたくさん人を殺した男であり、今後も、少なくとも私が生きている間に同じことをする人は現れないだろうと思う、というか思いたいのだが、私がガス室について具体的に知っていることは限られていて、ルドルフ・ヘスの手記に拠れば、シャワーを浴びるという理由で閉じ込めた人々を彼は見下ろすことができる位置に立っており、人々は彼を見た瞬間、やはり騙されて殺されるのだと知り、憎悪と怨みの叫びを上げたということらしかった。彼は何度となくそこに立ち、怨みながら死んでいく人たちを見たことになる。私のガス室に関する知識はこの程度のものでしかなかった。

今回、この映画を観て、壁に残された無数の手の跡は、当時の状況をより具体的に私に教えてくれるものになった。恐ろし過ぎて愕然としてしまったのである。

一方で、ゲッベルスの元秘書とされる女性は、ナチス政権誕生から敗戦の少し前の時期に至るまで、それなりに生活をエンジョイしていたことを話している。恋人がいて、ゲッベルスの演説にしびれ、宣伝省の給料の良さに満足していた。そしてホロコーストが行われていたことを「知らなかった」と彼女は言い切り、「私に罪はない。ドイツ全国民に罪があると言うのなら別だけれど、自分たちが選んだ政権なのだから」と述べる。民主主義の手続きを踏んでナチス政権は誕生したため、有権者全員にそれなりの責任はあると言えるが、選んだ政権が悪いことをした場合の有権者の責任は限定的で観念的なものだ。日本の首相が失政をやらかした場合に、有権者の責任を問うのは限界があるのと同じだ。

だが、この映画では、彼女のそのような証言と交互に凄惨な映像が挿入されるため、「知らなかったで済むのか?」という疑問を抱くように構成されている。知らなかったから悪くないと言うには、事態はあまりに重大すぎるからだ。アメリカ軍がドイツ市民向けに作ったフィルムも挿入されており、そこでは「知っていたのに止めなかった責任」を問うていた。私個人の想像になるが、あれほど大規模に熱心に継続的に行われていたのだから、多かれ少なかれ、憚れるようなことが行われていたことには気づくのではないだろうかと思う。現代でも自分の属する組織がどういう状況なのかということは私のような下っ端でも何となくわかることもあるし、噂も流れてくる。そのため、彼女が「知らなかった」と言い切ったとしても簡単に信じることができない。尤も、彼女の証言を嘘だと言い切るだけの証拠を私が知っているわけでもなんでもないのだが。

以下は全て私の想像になるが、彼女は何十年もの間、何度となく記憶を整理し、反芻し、自分の受け入れやすい物語を作り上げたに違いないという気がする。人は誰でもそうするので、彼女もそうせざるを得なかったに違いない。彼女は戦争が終わってから5年間抑留されていたと述べていた。その5年間は屈辱的な経験、人に話せないような酷い目に遭わされたであろうことも想像はつく。そのため、戦争が終わる前の記憶がより美化され、それなりにエンジョイできたという物語が形成されたのではないだろうか。彼女の本音は、ホロコーストに直接かかわったわけでもないし、戦争の意思決定に加わったわけでもないのに、5年も抑留されて酷い目に遭わされた。充分に責任は取った。というところにあるのではないだろうか。これはとても難しい問題で、責任がどこまで及ぶのか線引きができる人はいないだろう。そのことについては、今後、私も反芻して考えることになると思う。この映画を観てしまったら、考えないわけにはいかない。

関連記事
ハンナ・アーレントとアイヒマン
シンドラーとファニア

三島由紀夫と石原慎太郎

三田文学で石原慎太郎が文壇生活五十年を振り返るという趣旨の対談をしているのを読み、やはり三島由紀夫に関する回想が最も興味深いものだった。三島由紀夫はその是非は別としてあまりに特殊な存在であり過ぎる。

作品と文章の完成度の高さは入念であり、彼らしい完璧主義的であり、美しく、繊細且つ逞しい。三島由紀夫に関わることで『宴の後』事件というものがあるが、プライバシーの侵害で訴えられたのに対して、人間を科学的に描くという純粋な文芸表現であると彼は反論した。文芸とは人間を科学的に描く行動であるとする、彼の小説に対する信念が披歴された、ある意味貴重な事件である。

人間を科学的に描くという信念はヨーロッパの自然主義小説に由来するはずだが、果たして人間を科学的に描くということが真実に可能なのかどうか、私には分からない。フランス自然主義を模倣しようとした明治小説の自然主義スタイルについて、江藤淳は「(自然主義文芸を)やりおおせたと思っている」人々の作品だと鋭い指摘をしている。柄谷行人は田山花袋は小説に書いたことよりもっと他人に言えないことをしているはずだとこちらもかなり鋭いところを突いている。他人に言えないことは隠し抜きつつ人間の真実を描こうとすること自体に論理矛盾があり、人は誰でも他人に言えないことはあるはずだから、結局のところ、科学的に人間を描く文芸というものは存在し得ないのではないかと私には思える。

それはさておき、当該の対談では、川端康成が三島由紀夫に対して強い拒否感を持っていたと石原慎太郎は話していた。三島由紀夫の晩年の生き方は確かに常人には受け入れ難いものがある。私的軍隊なるものを組織し、自衛隊の施設に入り込み、幕僚を縛り付けて演説し、果てるという彼の動きには理解し難いものがある。もし共感する人がいるとすれば、それはその人の自由なので、私は否定しない。いずれにせよ、石原慎太郎の対談している内容に拠れば、三島由紀夫が自決する直前のころ、そういう彼に川端康成が拒否感を持っていたというのは初めて読んだ。どちらかと言えば両者の絆が強いという物語の方が流布していると私は理解していたから、意外だと言えば意外だったが、考えてみれば確かに私的軍隊を持つ小説家を受け入れ難い存在だと思ったとしても不思議ではない。大岡昇平も三島由紀夫の新宅に呼ばれた際、悪趣味だと思ったが言えずにいたという趣旨のことを話しているのを読んだことがあるので、三島由紀夫は周囲との人間的距離感に苦しんだに違いない。苦しむが故により言動が過激になったのではないだろうか。

三島由紀夫が自決して果てた後、川端康成は現場を見たという。石原慎太郎も現場まで行ったが、現場そのものは見ずに立ち去ったそうだ。以後、川端康成は三島由紀夫の亡霊を見るようになり、後を追うかのようにして自ら命を絶っている。石原慎太郎は対談で見なくてよかったという感想を述べていた。私ももし、現場に立ち入る権利を持つ人間だったとしても見たくない。私は小説について作者の人生や背景というものをあまり考えず、作品そのものと対話することをより重視するのがいいと思っているが、今回の石原慎太郎の対談を読むことで、私は三島由紀夫という人の心の中を少しは想像することができるようになったし、過去に読んだ三島作品を思い出し、彼がどういう心境でそういうものを書いたのかについて想像することもできた。やはり作品理解には作者の人生と背景を知ることの重要性は否定できない。

三島由紀夫はその過激な人生と精緻な文章力によって、常人には測りがたい内面を持つ人という印象がどうしても強い。そのため、私は三島由紀夫理解は自分には一生できないだろうと思って諦めているところがあったのだが、今回のことで多少は相対的に見ることができるようになったと思えるし、その点は有益だった。

関連記事
縄田雄二『一八二七年の幻燈文学』と映画

イタリア詩人、ジャコモ・レオパルディの近代

19世紀イタリアにジャコモ・レオパルディなる詩人が存在したことについて、東洋人の我々の中で知っている人はほとんど居ないだろう。私も最近になって知ったのである。イタリア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語に通じていた彼はそれら古典の教養を存分に生かしながら、新しい時代のための詩を書いた人物であるらしい。その作風は悲観的だが、ある程度無視論的な響きを持ち、それだけある程度自由主義的な響きを持っていたそうだ。当然、ナポレオン戦争と関係があるし、長い目で見れば社会主義とも関係があると言えるだろう。

ナポレオン戦争に影響を受けた芸術家として個人的にぱっと思い当たるのはベートーベンだ。第九交響曲の『歓喜の歌』は王侯貴族のためではなく一般のドイツ人のために書かれたもので歌詞もイタリア語ではなくドイツ語で書かれている。ちょっと前の世代のモーツアルトがドイツ語で戯曲を書くことについては相当揉めたらしいのだが、ベートーベンがドイツ語の楽曲を作るということで揉めた話というのは聞いたことがない。もしかするとちょっとはあったのかも知れないが、ベートーベンのドイツ語歌曲はわりとすんなりと受け入れられた。

モーツアルトとベートーベンの違いは生まれた時代の違いに拠る。モーツアルトはフランス革命とナポレオン戦争の最中に活躍したが、ベートーベンの時代にはナポレオン戦争は一応だいたい終わっていて、タレーランが戦争に敗けても外交で勝つという巧みな政治活動を行った時期と大体重なる。

さて、ベートーベンはともかく、レオパルディである。レオパルディは神なき時代の救いなき悲観主義を描いたらしいのだが、もう一つ重要な点として国民を描こうとしたという点は見落とされるべきではない。ナポレオン戦争は各地で国民意識を覚醒させるという効果をもたらした。フランス軍はもちろん自由平等博愛の普遍的理念で押しまくったわけだが、たとえばドイツのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という演説で民族主義を説いて歩いたように、ナポレオンに対する反作用としてヨーロッパ各地で民族と国家というものが強く認識された時代でもある。

ここで注意しなければいけないのは王侯による支配と国民国家は全く別のものであるということだ。たとえばドイツ語圏で乱立した王侯国家は国王の私有物であり、軍は国王の私有財産によって傭兵が雇われて機能した。それに対して国民国家では、国民はその国の人間だというだけで国家の戦争に対して責任を負う。21世紀の現代人の我々にとって、それは必ずしも正しいこととは言えなくなっているが、当時は王侯貴族の支配から脱却し、国民または市民による共和政治の理想がヨーロッパ社会に広がり、その旗頭がナポレオンだった。

レオパルディはそのような時代の空気を思いっきり感じて生きたイタリア人詩人であったため、国民という言葉にロマンを与えたと言われている。レオパルディ流の国民国家という近代との接点であると言えるだろう。私はイタリア語もラテン語もギリシャ語もできないので、一般的な解説に+して私の個人的な見解を述べることしかできないのだが、ナポレオン戦争を境にロマン主義的国家主義がヨーロッパに広がったことは事実であり、レオパルディはその新しい思潮を胸いっぱいに吸い込んだに違いないことは想像できる。彼は古典的なローマカトリックや王侯支配に対するアンチテーゼとして「国民」を重視し、国民を中心とした社会づくりを夢見た。残念なことに30代半ばで病死してしまったため、彼は国民という概念の行くつく先に普仏戦争が起きたことを見ることはできなかったし、それがエスカレートした結果としての第一次世界大戦を見ることもなかった。古典的な支配体制を崩すために国民という概念を創造することに彼は役立ったかも知れないが、その結果を見ることはなかったことが良かったのか悪かったのか。

ただ、彼個人は潔癖で真面目で勤勉で生き方ば不器用だったらしい。ちょっと私に似ている。どこが似ているのかというと、勤勉であるにもかかわらず、それがすぐにお金に直結しないところである。お金に関するセンスさえあれば、レオパルディも私も勤勉にお金を儲けていたのではないかと思わなくもない。フランスのロートレックみたいに…一応付け足すが、ゴーギャンは遊びたいだけなので、勤勉でもなければお金のセンスも持ち合わせていない。ただの付言になってしまいましたが….あ、ゴッホもか…

ウッディ・アレン『マンハッタン殺人ミステリー』のニューヨークの中間層よりちょっと上の人々

大学生のころ、ウッディ・アレンが大好きだという女子が何人かいた。私は何作か試し見てみたことがあるが、別におもしろいとも何とも思わなかったし、なぜ、ああまで女子がウッディ・アレンの作品に心を奪われるのかよく分からなかった。なんでさえない中年おじさんが主役を演じる映画が楽しいのか、長年の謎だったと言える。

最近になってウッディ・アレンの『マンハッタン殺人ミステリー』をみて。ああ、なるほど。そういうことかと私は理解することができた。彼女たちはウッディ・アレンのニューヨーカーな生活に憧れを感じていたのだ。正確に言うと、ニューヨークの中間層よりちょっと上の生活をしている人々のアーバンでアダルティでライトだけど知的生活という感じのものだ。

この映画のストーリーそのものは別に大したことはない。火曜サスペンス劇場と大差ない程度のミステリーで、日本の洗練された『このミス大賞』ほどに験算されたものからはほど遠い(従ってストーリーのあらすじは割愛する)。

しかし、この作品の重点はストーリーの展開にあるのではなく、登場人物の知的で洗練されていてユーモアのセンスもちょっとはあるという生活を表現することにあると言える。というかウッディ・アレンの映画は大体全部そうだと言ってもいい。それが悪いというわけではなくて、そうだったのか。それが女子を惹きつけていたのかということに気づき、驚いているのである。

主人公のウッディ・アレンは出版社の編集者で、従って作家たちと仲がいい。夜はオペラに映画にミュージカルとお洒落で知的な生活を送っている。「殺人ミステリー」なので、一応、本当に殺人事件は起きるのだが、それは言わばそのようなニューヨーカーの様々な生活の一局面に於けるちょっとしたアクシデントや思い出話みたいなものだと言っていいのかも知れない。

そういう意味では村上春樹作品とよく似ている。ハルキストは作品のストーリー展開に期待しているのでもなければ、エンディングに感動するわけでもない。ハルキ作品を読んでいる間、その洒脱な雰囲気に耽溺できることを楽しんでいるのであり、できれば自分もそんな風な生活を送りたいと夢想して楽しんでいる。ハルキ作品をよく読めば、父親との葛藤が通底していることが分かるが、読者にとってそれはあまり重要ではなく、洒脱に適度な努力で最大の効果を得る主人公たちの人生をみて楽しんでいるのだから(例えば『ねじ巻き鳥クロニクル』では、主人公は念力で敵を倒すと。なんとお手軽なことか)。

ウッディ・アレンも同じである。彼の作品は雰囲気だけを提供していると言っていいが、その雰囲気に浸り切ることを楽しむ人は一定の割合でこの世に存在するのである。ウッディ・アレンの何がいいのか理解できたという意味で、今回この作品を観たことは価値があったと思う。

繰り返しになるが中間よりちょっと上の生活がミソである。あんまりいい生活をしていると、ドナルドトランプと同じような人種だと思われてしまう。かと言ってニューヨークでミドルクラス以下の生活は多分、あまり絵にならないので観客を魅了することはできない。『レオン』のような例外はあるが、あの作品はナタリーポートマンで引っ張っている作品なので参考にはならないように思う。後は『ミーンストリート』や『ゴッドファーザー』のようなパターンもあるので、映画に於けるニューヨークの描かれ方は一つの研究的視点にはなり得るかも知れない。

私は一度だけニューヨークを旅行したことがあるが、確かに「これが世界で一番有名な都市か…」というため息のようなものはあった。ただ、怖かったので夜間は外出せず、食事は主としてやたらと高いホットドッグだったので、そんなにいい想いはしなかった。個人的にはロンドンに行った時の方が印象はいい。

まあ、それはともかく、ウッディ・アレンは中年男の生き方としていい見本になる。ウッディ・アレン方式であれば、中年男は存在価値を認めてもらえる可能性は残されている。私もウッディ・アレンを見習おうと思う。

ギリシャ神話のカロンとイシグロカズオ

ギリシャ神話にカロンという神様と人間の間みたいな男がいる。彼はコイン1枚であの世への渡し舟を出すことを請け負っており、ある人物のあの世に行って帰って来るためにコイン2枚を口に含んで塔から飛び降り自ら命を絶ち、しかも帰って来るためのもう1枚のコインも持っていたので見事生還するというエピソードもある。生きている者は追い払われあの世への舟を出してもらえない一方、古代ギリシャではカロンにきちんとあの世へ送ってもらうために死者を弔う際に船賃としてコイン1枚を副葬する習慣もあったそうだ。どうしてもあの世へ行かせろという強情者も出てくるため、そういった時はカロンはかなり難しい立場に追い込まれることもあるという。

さて、三田文学でイシグロカズオに関する特集が組まれているのを読んだのだが、そこでニール・アディスンという人のイシグロカズオ研究の論文が掲載されており、このカロンについても触れられていた。イシグロカズオの作品にカロンが出てくるというわけである。イシグロカズオの『忘れられた巨人』では、愛し合う老夫婦が共にあの世(と思しき場所)へ渡る舟に乗りたいと船頭に頼み込む。仮にこの船頭がカロンだとすれば、通常人間は同時に死なない(夫婦でも先にどちらかが死ぬのが通常だ)ため、一度の船出には1人しか乗り込むことができない。しかし、夫婦の愛情が強く結ばれていると船頭が確信を得た場合にのみ、2人で一緒に舟に乗ることができるのである。船頭は夫婦を別々に「面接」し、彼は当該の夫婦が確かに真実の愛によって結ばれていると確信し、2人同時の乗船を認めるのである。

さて、私は『忘れられた巨人』での船頭があの世へのおくりびとだということについては理解していたが、カロンだとは気づかなかった。単にギリシャ神話に対する知識が浅かったので、知らなかったにすぎないのだが、ニール・アディスンという人の論文を読んで、よくよく考えてみた結果、愛し合う夫婦が一緒にあの世へ向かう死者の旅路を進むとすれば、それは心中しか考えられない。イシグロカズオは『忘れられた巨人』で、老夫婦が心中の決心をする心の動きを描いたのだと言うことができるだろう。

だが、様々な解釈があり得るとは思うが、妻が舟に乗り込みいざいよいよ出発という段になって夫は舟に乗り込まず、そのままどこへともなく立ち去ってしまう。仮に2人が心中を決意し合った仲だとすればぎりぎりのところで相手でだけを死に追い込み、夫は生き延びるという裏切り行為をしたと理解することもできるだろう。或いは無理心中をして、自分だけ死にきれないというパターンなのかも知れない。妻は何十年も前に不義を行ったことがほんの短期間あり、中世以前イギリスというまだアングロサクソン民族が成立する前の独特な神話的な作用が効果を持つという設定になっているから、彼らはその苦しい記憶を忘れていることができたのだが、その効果が失われた途端に夫はそれを思い出し、妻との心中という選択肢を放棄したとも言えるかも知れない。この場合、人それぞれの価値観にもよるが、不義に対する不寛容な夫を責めることもできるかも知れないし、不義に対する最終局面での復讐も尤もだと考えることもできるかも知れない。愛する人が不義をするというのは人生に絶望したくなるほどの苦しみに違いないので他人がどうこう言うことではないが、小説や文芸を読むのは「自分がその立場だったとすれば」と考える材料にすることが醍醐味だとも言えるため、自分だったらどうだろうと考えてみるのも自己理解につながり人生をより豊かにすることができるかも知れない。尤も、現代人の考えから行けば、不義は赦しがたいが心中しようと言って騙して相手だけ死なせるというのもかなりの大である。離婚するのが正解だということになるかも知れない。

海を見に行っていろいろ考えた話

今年の夏、初めて海を見に行った。海はいつ見てもいいもので、夏でも冬でも美しい。だが、やはりどちらかと言えば夏と海は相性がいい。私は海水浴をしなくなったが、夏と言えば海水浴が頭に刷り込まれているため、夏と言えば海になる。

今回は世界一クールなグーグル社様から広告の一時配信停止という通知を受けてしまい、心理的なショックを癒す目的で、取り敢えず海へ出かけてみようかと思い、電車に乗って出かけていった。一応、私の名誉のために付け加えておくが、広告の一時配信の理由は広告を自己クリックしたということなのだが、私は自分で書いた記事をクリックしたことはない。ただ、広告とオリジナル記事を並べて挿入する仕組みになっているユニット上に於いて、自分の記事をクリックするのも自己クリックとカウントされるという仕組みに気づいていなかったことに起因している(長々と自己弁護ですみません)。個人的な経験から言えば、落ち込むようなことが起きるとだいたい復活するのに二週間くらいかかる。ただ、二週間以内には大抵の場合、次の落ち込むようなことが起きるので、だいたい日々落ち込みながら暮らしているのだが、今回は心理的ショックがヘビーだったので、海を見ることで自分を癒してみることにしたのだ。

太陽は禍々しいほどにまぶしかった。カミュは『異邦人』で太陽がまぶしかったからというだけで殺人を犯すという理由なき殺人を描いたが、私にはそれは単に不良の言い訳にしか思えない。従って私は今日、どんなに暑くても我慢して悪いことは一切しなかった。潔癖には自信がある。親からは性格が堅苦しすぎるとよく言われたが、社会人になってみたらちょっと堅苦しいくらいでちょうどいいという結論に私は達したので、他人はそれぞれ好きにやればいいと思うが、私は潔癖で通すことにしている。

いずれにせよ、太陽に焼かれながら私はたくさん歩いた。波間は眩しかった。そしてよく考えた。このブログをどうしていこうかと。続けることはもちろん続ける。今まで通り、自由に私の好きなことを書く場所として存続させ続けたい。だが、現代心理学では深層心理がその人の人生を形成することは常識になっている。従って、繰り返しになるが、世界一クールなグーグル社様からの広告の一時配信停止というお達しが来たのも、私の深層心理がそれを招いたののではないかと私は考えた。流行の言い方で言えば引き寄せの法則が働いたのである。なぜ、そのような引き寄せの法則が働いたのかと言えば、私に「わー、最近はアクセスが増えてきて嬉しいなあ。収入も増えてきて嬉しいなあ。もっと、もっと、増やしたい」という欲望が強まり、執着する心が生まれ、結果として執着に相応しい出来事が起きたのだと海を眺めつつ汗だくになって軽くふらついていた私は考えた。

人は何を選び、何を行動するかを自分で決めなくてはならない。私は自分のブログに愛着はあるが、やはり仕事をしなくてはいけない。私の場合、仕事とは大学で講義をすることだが、もう一つ、論文を書くというのも仕事のうちに入る。博士論文を書こうと私は改めて決心した。太陽がまぶしいという理由で人を殺している場合ではない。太陽がまぶしかったから、私は博士論文を書きます。

世界一クールな会社であるグーグル社様から広告配信一時停止の通知を受けた話

私のブログはグーグル社様から広告配信を受けています。心理的な衝撃は大きいのですが、運命を粛々と受け入れる以外にはないと心境の整理をしているところです。「自己クリック」をしたとの通知が来たのですが、私は潔癖なところがあって、絶対にそんなことをしていないという自信がありましたから、理解に苦しみました。

いろいろと調べてみたのですが、関連広告ユニットと呼ばれる広告タイプに対する私の考えが甘かったということが分かりました。関連広告ユニットとは、広告と自分の作成したコンテンツの記事とが並んで表示されるという、便利でナイスでさすがな広告ツールなのですが、私は関連広告ユニットに表示される自分の作成したコンテンツへのクリックをよくやっていました。自分のコンテンツの記事をクリックするわけですから、いわゆる広告料ほしさに誘惑に負けてしまう人がやってしまう自己クリックとは全く性質が違うものだと私は考えていました。実際に私のクリックで不正に支払わなければならない広告主の方はいらっしゃらないわけですから。

しかし、当該のユニットを設置した場合、自分のコンテンツをクリックしただけでも、不正な自己クリックと認定されるとの仮説に至ったわけです。もちろん仮説ですので、真実の理由は不明なのですが、他に理由も見当たりませんので、多分、これだと思います。前科者になってしまったわけなので、心理的な落ち込みは強いのですが、これから一か月、長い一か月は自分を見つめるのにちょうどいいかも知れません。

私がブログを行う理由は複数あります。一つは自分が自由に情報発信できる場所がほしかったから。反社会的なことはもちろん書くつもりはないですが、日常の研究や講義をするに当たり、ふと気づいたこと、論文にするほどでもないこと、でもちょっとおもしろいなと思ったことをどこかに発表したいので、自分のブログで発表できれば他人様に迷惑をかけることなく、自分にとっても自己実現の一部にできると思ったわけです。もう一つは、現実生活とは別に自分の心のよりどころみたいなところが必要で、お金持ちの人でしたらぱーっと気晴らしするとかできるんでしょうけれど、私の場合はそういうわけにもいかないので、ここが私の家、居場所。みたいな感覚もあります。これは始めてから気づきました。あー、ここは僕の秘密基地だ。いい感じ。みたいに思っていたわけです。3つめには文章力の向上というのもあります。大学の教師が仕事ですから、読み書きはそのまま仕事に直結します。ただ、やはり毎日のようにブログを書くというエクストラなライティングトレーニングが積んだことは、本業の論文にもいい影響を与えています。私にとっては訓練になるし、ブログを読みに訪れてくれる人にとってはほしい情報が手に入るので、ウィンウィンでいいじゃないと思っていました。そして最後にやはり収益も私は求めています。ぎりぎりかつかつですので、やはりもう少し余裕のある生活がしたい。そのために頼りたいというものはもちろんあります。

ただ、潔癖症ですから、自分でクリックしたりとか、友達にクリックを頼んだりとか、ブログに「ここをクリックしてください」とかは一切やっていません。性格的にそういうのができないんです。私は記事を書き続けて興味のある人に読んでいただく、その中から興味のある人だけ広告をクリックしていただければいいという信念で今までやってきました。

ですので今は、自分の秘密基地が前科者になってしまったというショックと、収入源としてあてにして育てて来たのに…という心理的な落ち込みと両方あって、辛いので、では私がきっちりお金を払って所有しているこのドメインのこのブログで心情を吐露しようと思い、ここに書いてみた次第です。

一か月の停止ですので、その後、どんな風になるのかは分かりません。ですが私は誓います。自己クリックのようなばかげたことは今までも意図的にしたことはないし、今後もやりません。広告クリックはたまたま訪れてくれた方が関心を持った広告に対して、自分の意思でクリックするという原則を今までも貫いてきましたし、今後もつらぬきます。

あー、一か月つらいな….とはいえ、夏休みの時期で良かったです。学期中だったら授業の準備に追われながら、この心理的ショックにも対応しなくてはいけません。明日は海でも見に行きますかね。さて、諸君、前を向こう。立ち上がり歩くんだ。博士論文も書かなくてはならないのだ。