アマンダ・ノックスのケースについて考える

有名な事件なので、ここで詳しく述べる必要はないかも知れないが、ワシントン大学に入学した後にイタリアのペルージャへ留学したアマンダ・ノックスという女性の留学先でのルームメイトが惨殺された事件で、アマンダとそのボーイフレンドが起訴され、有罪判決を受けたものの、後に無罪になり、最高裁でも無罪が確定した事件で、未だに真犯人はアマンダ・ノックスなのではないかと考えている人も多いようなので、私も考えてみることにしてみた。

結論から言えば、アマンダ・ノックスは真犯人ではないと思う。以下にその理由を述べる。まず、彼女が真犯人だということを示す物的証拠がないという点が大きい。被害者のDNAが付着したナイフがアマンダのボーイフレンドの自宅のナイフから発見されたが、付着しているDNAの分量はごく僅かで、料理をする時に指を切る程度にすら至らないもので、致命傷を与えるに足る充分なものではなかったことが挙げられることと、その他多く採集されたDNAが検察の不手際により「汚染」されてしまっていると認定され、物理的な証拠が一切認められなかったということがある。

しかし、DNA検査は諸刃の剣でもある。検査方法によって違う結果が出る場合があることは、過去の裁判の歴史を見ると、わりとよくあることのように思えるし、おそらくは科学者の「腕」によっても検査結果が違ってくる恐れもあるため、DNAがよほど完璧な状態で保存され、絶対に間違いなく犯行時にその場にいて、犯行をすることによって付着したものだと言い切れるものでない限り、却って怪しい。むしろ、DNA検査が導入されたが故に、DNAによる犯行の説明が不十分だとの理由で釈放された「真犯人」は過去に大勢いるのではないかという疑問すら持ってしまうほどだ。

従って私はDNA鑑定の観点から、アマンダ・ノックスが真犯人ではないというわけではない。Netflixでアマンダ・ノックスのケースを担当した検察官のインタビューを見たが、彼は彼女の話す内容に信ぴょう性が低かったことやリアクションが怪しかったことから、犯人ではないかとの疑いを強めたと述べていたが、これは自ら自分が自白偏重主義者であり、「リアクションが怪しいと犯人」という先入観で捜査していたことをも告白しているのと同じであり、残念ながらその検察官を高く評価することはできない。また検察サイドはアマンダ・ノックスが複数人の男性とセックスパーティを行っており、そこに被害者が帰ってきたので参加するよう誘ったが拒否したので殺したという筋読みをしているが、わざわざ「セックスパーティへの参加の強要」という、どちらかと言えばあまり起きなさそうな出来事を犯行の動機に結び付けており、当日、セックスパーティがされていたかどうかすら証明されておらず、やはり検察の筋読みの甘さが気になってしまう。

ここまでで科学的な面と自白偏重・見込み捜査という捜査手法の問題から、アマンダ・ノックスのケースについて考えてみたが、続いて、唯一真犯人の一人だとされて有罪判決を受けたプエルトリコ系の男性について考えてみたい。この男性は、被害者の女性とある程度の仲だったと見られているが、彼は、彼がトイレに行っている間に反抗が行われ、戻ってみるとアマンダ・ノックスが逃走するシルエットが見えたと証言している。この証言の信用性は低い。Netflixのドキュメンタリーでみることができた当時の現場の映像を見れば、事件が起きた時、犯人と被害者は相当にひどく揉み合ったことが一目瞭然である。凄惨な血痕が部屋中に散らばっており、これは被害者が流血しながらも頑強に抵抗していたことを示すものだ。犯行は一瞬にして行われたのではなく、場合によっては何時間にもわたる壮絶な戦いになっていたかも知れない。その時に「トイレに行っていたので犯行の瞬間は見ていないが、戻ってみるとアマンダ・ノックスのシルエットが見えた」というのは普通では考えにくい。激しい殴り合いや揉み合いの音がある程度の長さ続いたのだから、すぐに現場に向かうことができるはずである。尚、この男性は現場に複数の指紋が発見されており、事件とのつながりを疑う向きは少ない。本人は現在も無実を主張しているとのことだ。私見だが、プエルトリコ系の男性は、マスメディアがアマンダ犯行説で熱を帯びている様子を知り、アマンダに犯行をなすりつけようとしたのではないだろうか。「アマンダが犯行をしているところを見た」とまで言ってしまうと公判で再現しなければならなくなるため、かえって不都合であり、アマンダが逃げる後ろ姿を見たで押し通そうとしたのではないかという気がする。

アマンダ・ノックスは事件が起きた時はボーイフレンドと過ごしていたという。これは第三者が見ていなければアリバイとしては弱いが、若い男女が誰にも知られずに部屋で過ごすというのは普通にあることなので、不自然さを疑わなければならないような類のこととも思えない。

以上なことを総合的に勘案すると、事件解決を焦った司法当局が「セックスパーティに参加しないので殺した」という強引な設定を作り出し、アマンダに執拗に手を変え品を変えて質問をし、やはり強引に矛盾点を作り出し、「アマンダの証言は信用できないから黒」ということに仕立て上げようとしたのではないかという気がしてならない。

直接証拠も状況証拠も不十分なのだから、無罪が妥当ではないだろうか。私見です。


プライベートライアンと捕虜の問題

スピルバーグの『プライベートライアン』という映画では、主要な話題の一つとして捕虜をいかに処遇するかという問題が描かれている。

何度か観れば気づく(一回観ただけで気づく人もいるかもしれない)のだが、降伏の意思を示したドイツ兵、または戦闘意欲を失ったと見られるドイツ兵に対し、躊躇なく銃弾が浴びせられ、殺される場面が複数回映画の中で登場する。それは画面の端の方で起きていたり、短い時間しか割かれていないため、見落としがちなことだと思うのだが、作り手は当然、意識して気づく人には気づくようにそれを入れ込んでいると私は思っている。

単にそのようにさりげなく入れこまれているだけではなく、ライアン二等兵を探しに行く小部隊が敵と遭遇し、銃撃戦の末に一人のドイツ兵を捕虜にする場面がある。部隊員たちは戦闘直後で戦友を失ったこともあり気が立っていて、ドイツ兵に対する強い殺意を持っており、自分の墓穴を掘らせるということまでしている。自分のための墓穴を掘らせるのは、捕虜に対する侮辱行為とも言えるので、この段階で既に国際法違反の疑いは濃厚なのだが、墓穴を掘らせるということは、その後の処刑を暗示するのに充分であり、それもまた国際法違反になるはずだが、もし本当に命を奪えば疑いなく国際法違反である。しかし、小部隊と捕虜一人なのだから、密かに始末したとしてもバレる可能性は低い。先に述べたように感情的には激しい憎悪を抱いているのだから、展開としてはこのまま殺すのだろうか?という疑問を持ちつつ観客はことの推移を見守ることになるのだが、通訳として参加していた兵士が隊長のトムハンクスに国際法の順守を強く主張し、トムハンクスもそれも確かに言えているという感じで処遇に悩む姿が描かれる。現実的な問題としても数名の小部隊なのだから捕虜を管理する能力を備えているわけではなく、前進しなければならない任務も負っているため、捕虜の後送も現実的ではないし、捕虜が自分で歩いて連合軍の後方の基地へ向かい投降することは考えにくい。戦友が殺されたことへの憎悪がある一方で、捕虜は命乞いをしており、命乞いをする捕虜の命を奪うことは、人間的感情の面からも受け入れがたい。という悩ましい状況に陥るのである。

結果、トムハンクスは捕虜の解放を決心し、目隠しをしてこのまま1000歩まっすぐ歩いてここから立ち去れという指示を出し、命からがら助かった捕虜は言われた通りにして姿を消す。だが、当該のドイツ兵は改めてドイツ軍に復帰し、トムハンクスの部隊と交戦する。このドイツ兵は頑強な兵士として描かれており、なかなかに強く、トムハンクスの部下も倒すし、銃撃でトムハンクスをも倒す。国際法の順守を訴えた通訳兵とも遭遇するのだが、ドイツ兵にとっては命の恩人でもあるので、通訳兵のことは見逃し、彼は戦闘を続行する。戦況的にはドイツ軍優位で進むように見えるのだが、終盤になって連合軍の航空戦力が応援に駆け付け、ドイツ兵は抗戦不可能を悟り、降伏する。通訳兵はそもそも戦闘に参加するだけの勇気がなく、隠れていたのだが、この時になってドイツ兵の前に銃を向けて登場する。ドイツ兵は命を助けてもらった恩義があるので、親愛の情を見せようとするのだが、彼がトムハンクスを倒すところを物陰から見ていた通訳兵は、そのドイツ兵を撃ち殺す。既に投降の意思を見せている以上、明白な国際法違反であり、戦争犯罪だ。

だが、映画の全体の構成から言えば、命を助けたドイツ兵が隊長のトムハンクスを倒したのだから、「弱虫」の通訳兵が勇気を振り絞ってついに自分の意思で立ち上がり、隊長の仇をとったことがある種のクライマックスとして描かれている。

このような映画の構成から我々は何を読み取ることができるだろうか。複数回登場する、無抵抗のドイツ兵の殺害場面には一切の情けは感じられない。そしてそれを批判する論調も映画からは感じ取れない。また、命乞いをするドイツ兵が結果としてトムハンクスを倒したという事実は、情けをかけた相手に仇で返されたとも言え、通訳兵が飛び出して来てそのドイツ兵を倒すことが英雄的な場面として描かれているということを考えれば、私には結論は一つしかないもののように思える。即ち、ドイツ兵と言えば国際法的にも認められた正規の兵士とも言えるが、ナチスまたはその協力者である。そして、ナチスに情けは一切無用という問答無用の信念をスピルバーグが持っているということではないかということだ。ドイツ兵に国際法は無用ということだ。

スピルバーグはユダヤ人で、幼少年期には収容所から生還した人から腕に刻まれた囚人番号の入れ墨を見せられるなどの経験をして育ったと読んだことがある。そのため、ナチスを批判的に描くことには積極的であり、決して情けをかけようとはしない。たとえばインディジョーンズでドイツ兵はわりとよく登場するが、彼らが人間的な要素を持っているという描写は絶対にないし、インディジョーンズ本人も彼らは殺してもいいという確信を持っていると言ってもいいように思える。『シンドラーのリスト』では、ナチス党員でありながらユダヤ人の命を救ったシンドラーを顕彰している面はあると言えるが、道楽で人助けをしたことへの後悔を号泣するという形で表現しており、たとえシンドラーであっても完全に免罪されるとは言い難いという思いがスピルバーグの内面にはあるのではないだろうかと私には思える。

もちろん、私もナチスドイツには賛成しないし、ホロコーストは当然に批判されなくてはならないし、それは徹底批判されて当然であるとも思う。なので、スピルバーグの作品作りに異論はない。先日『ターミナル』を観て、私は爆笑し、感動した。スピルバーグは天才だと思った。『ターミナル』もまた、主人公は亡国の民である。スピルバーグの作品を掘り下げて考えれば、常にそこに辿り着いていくのかも知れない。日本はナチスと同盟していたことがあったが、『太陽の帝国』では日本人を人間的に描いてくれているので、そういったことには感謝したい。


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シンドラーとファニア

シンドラーとファニア

ナチスによるホロコーストに関する映画はたくさんある。ただ、今後の世界に語り継がれ、観続けられる映画をその中から選ぶとすれば『シンドラーのリスト』と『ファニア歌いなさい』ではないかと思える。二つの映画はともにホロコーストを糾弾することを目的とした映画だが、作り方は全く違っている。『シンドラーのリスト』では恐ろしい場面は多く登場するが、『ファニア歌いなさい』ではそのような場面はそう多くはない。しかし、映画を観た後により強い恐怖が頭の中に残るのは、『ファニア歌いなさい』ではないかという気がする。

『シンドラーのリスト』は分かりやすい。スピルバーグはナチスに対して容赦がない。一切の敬意を払う必要がないと彼はきっと考えているはずだし、『プライベートライアン』では降伏の意思を示したドイツ兵が殺害される場面が複数回あるが、スピルバーグが意図的に入れていることは間違いないと確信できるし、それが国際法違反だとしても、だからどうした?という彼の意思を感じる。ナチスは国際法によって守られる必要すらないと確信しているのではないかと私は思う。そのため、インディジョーンズも含んで、スピルバーグの描くナチスは単純であり、分かりやすく、簡単に言うと敢えて幼稚に描いている。いい年をした大人であっても人間的成熟ができておらず、総じて愚か者である。だからなのか、『シンドラーのリスト』には文脈がある。ナチスの人間に聡明さや成熟、人間的な愛情、そういったものは一切ない。ナチス党員もシンドラーも幼稚な人間である。ただ、シンドラーに限ってはホロコーストからユダヤ人を救ったという功績があることは認めるので、ある程度免罪する。ただし、映画の最後で号泣しなければならない。ざっくりとにはなってしまったが『シンドラーのリスト』には、そういう文脈があるので、観客はこの映画が何を言いたいのか理解することができる。

一方の『ファニア歌いなさい』にはそういう文脈がない。あらゆるステレオタイプが破壊されているので、観客は誰に感情移入していいのかも分からなくなっていく。強制収容所に入れられている人間の中にも碌でもないのがいて、小さな利益のために平気で人を裏切る。しかし、そのような心理が働いてしまうことが観ている側にとっても全く理解できないわけではない。強制収容所に入れられていた人たちは被害者であることに違いはないが、被害者の中でも加害者になる側を選ぶ人間が出てくる。この段階で、すでに二時間余りの長さの映画としては難解になってくる。描かれるドイツ人の姿もこの映画をより難解にしている。女性ナチス将校は、囚人から幼い子供を奪い、その子を慈しみ、愛し、育てようとする。この段階で既に難解である。ナチスの医者も登場するが、真面目であり、教養人であり、そして普通のおじさんである。アイヒマンを連想しなくもないが、ドイツという豊かな音楽と哲学を育んだ教養深い人々の住む国で、ナチスが台頭したという事実が如何に難解なことなのかをこの映画は敢えて描こうとしたのではないかとも思える。従って、台詞のやりとりにはそれぞれ意味はあるに違いないのだが、総じてバラバラであり、まとまっておらず、登場人物たちはただ、頭に浮かんだことをそのまま口に出しているだけで、正しいまとまりのある意味を持った言葉のように受け取ることができない。観続けるに従い、意地の悪いクロスワードパズルの答え合わせをしているような心境になってくる。若い女性たちが栄養視聴で痩せ細り、頭を剃られ、楽器の練習をしたり、お葬式をしたりする姿は異様であり、これが実話に基づいているということを思い出し、改めて恐怖が深まる。収容所に入れられている人たちに人間性と狂気の両方があるのと同様、入れる側のドイツ人にも人間性と狂気の両方がある。しかもそれは相互に描かれるのではなく、同時に描かれる。一緒くたになっていて、作品は観客に苦しむことを要求している。私も苦しみながらこの映画を観た。私は日本人なので、自分の祖父母の世代がアドルフヒトラーと同盟していたことを残念に思う。その残念さが加わることで、私の混乱は深まったし、映画が終わった時、私は自分が愕然としていることに気づいた。

『シンドラーのリスト』を観れば涙が出る。『ファニア歌いなさい』は愕然とする。もし、いい映画の条件の一つが、観客に考えこませることだとすれば、『ファニア歌いなさい』の方がいい映画なのかも知れない。もちろん、二つの映画作品に優劣をつけることは好ましいことではないのは当然なのだが、私の文章力ではこのようにでもしなくては自分が受けたショックを整理できないのだ。

私は最近、何度か繰り返し『この世界の片隅に』を観て、その都度愕然とした。なぜ愕然とするのか自分でもよく分からなかったのだが、繰り返し観ることで、多少は整理ができてきた気がするので、機会を見つけて書いてみたい。


一夫一婦(モノガミー)に関する議論

一夫一婦(モノガミー)については、これまで数えきれないほどの真剣な議論がなされてきたと言える。現代社会では一夫一婦は普通のことだが、果たして本当に普通のことと言えるかどうか疑問を呈す人たちがいるからだ。

60年代のアメリカから始まったものだが、世界的に性に対する考え方が開放的になったことが大きな理由の一つだと言えるし、19世紀から広がった厳格な恋愛至上主義とも関係があると言える。

性に対する考え方が開放的になった結果、人々は生涯のうちに複数のパートナーと出会うことが普通になったが、多くの場合は結婚という制度によって人生最後のパートナーをこの相手と見定めてある種の契約関係を結ぶが、時には離婚し、契約関係を解消する。離婚は精神的にもダメージが大きいし、経済的にも大きなダメージを受けることがある。更に周囲の人間からの評価にも直結することがあるため、結婚制度そのものが人の生活にある種の足かせをかけるという考え方があるのだ。

結婚制度そのものを否定するつもりはないが、仮に結婚が「愛」を前提として結ばれる契約だとすれば、人の心はうつろいやすいため愛が失われるリスクは常に潜んでおり、仮にリスクが顕在化した場合のダメージは繰り返しになるが計り知れない。それでも一夫一婦制を守り続けますか?とする問題提起だと言ってもよい。また、厳密な恋愛至上主義者は愛を感じている時は共に過ごすが、愛が失われたと判断したら即座に別れることがより道徳的な選択であると主張する場合もある。ロジックとしては間違っていないとも言える気がする。

恋愛結婚は60年代以前から欧米中心に主流になりつつはあった。これも恋愛至上主義の一形態だった。ロマン主義が流行し、永遠の愛、生涯の愛というロマンチックな言葉を用いて結婚する理由としたのである。18世紀くらいから広がり始め、20世紀には相当に幅広く支持されるようになった。しかし社会心理学者のエーリッヒフロムは、結果として結婚が市場になってしまい、個々人は自分の値打ちをできるだけつり上げることにより、より値打ちのあるパートナーを得ようとしていると『愛するということ』で指摘した。生涯愛することを前提とするパートナーを市場価値で競い合い手に入れることが果たして「愛」なのか、とする鋭い疑問である。

ロマンチックな恋愛結婚という概念が生まれる前は結婚は家同士が主として財産や政治勢力の拡大のために行うものであり、たとえばハプスブルク帝国やブルボン王朝はそのようにして支配を拡大していった。日本でも政略結婚はよく行われたものであり、これについては説明不要であろう。

政略結婚を行うのは特権階級かとてもつもない富裕層である。彼らは結婚という手段を用いて力の維持と拡大を図ったが、それによってたとえば王や貴族、日本でも封建領主は大勢の女性を独占することができた。一夫多妻である。

一夫多妻に憧れるようなことを言う人が時々いるが、男女の数がほぼ同数であるにもかかわらず一部の男性が女性を独占するということは、残りの大多数の男性には一生女性と縁がないかも知れないということでもある。特権階級に生まれてくる自信のある人は一夫多妻に憧れても道理に合うが、これは完全に運の範疇になるので、そのような自信のある人はいないだろう。

さて、一夫一婦はヨーロッパで市民社会が確立される過程と同じ道程によって定着したと私は思うのだが、この一夫一婦制度によって、男にとっては特権階級に生まれなくても結婚できるという利点があり、女性にとっても特権階級の男性に支配されるというリスクから自由になれるという利点があったと言える。言い換えれば、ほぼ全ての普通の人にとって、結婚できるチャンスがあったという共産主義みたいな仕組みだったと言えるかも知れない。

しかし、その一夫一婦(モノガミー)はもしかするとだんだん崩れ始めているのかも知れない。離婚経験者は普通にごろごろいる時代になった。不倫は後を絶たない。ただ、離婚しない人の方が多いし、多分だが、不倫しない人の方が多い。これについては多分、としか言えないが。

少なくともアメリカの海岸沿いに住む人たちからは結婚制度そのものへの疑問が提出されており、結婚は人間を拘束し、時には抑圧する制度なのではないかと指摘する人もいるようだ。フランスでも事実婚が多いと言われるが、それが事実だとすれば結婚制度が充分に機能していないか、必要ないかのどちらかだと言えるだろう。

とすれば、あるいは結婚は必要ないかも知れない。私はここでその是非についての決着をつけるつもりはないが、人の心が揺れ動くもので、より自由を大切にしたいのであれば、結婚という制度そのものを取っ払ってしまい、その時、その時で真実に恋愛感情を持つ相手をパートナーにすることも決してナンセンスとは言い難い。私はアメリカの海岸沿いの住む人たちの意見について述べたが、アメリカの内陸部では今でも厳格に生涯一人のパートナーに倫理的な正しさを感じている人が大勢いることも確かだ。B級のアメリカ映画で保安官が地元の既婚女性たちと浮気しまくっていたという告白が、物語のクライマックスになるというのを観たことがあるが、日本の気の利いた映画ならようやく物語が始まって、さてこれからが修羅場だという程度の衝撃度しかないはずで、正直、つまらない映画だったが、それがクライマックスとして成立すると信じる人が一定程度いるのは事実なのだから、それほど一夫一婦の美しさを信じている人も多いということも忘れてはいけないだろう。

さて、これから世の中がどちらへ向かうかはなんとも言えない。過去50年ほどの人間の思想の歩みは性差別や人種差別と撤廃していくために大いに力が尽くされた歴史だったと私は思う。結婚制度を辞めてしまおうという試みは、一方において女性を家庭から解放するし、男性も家を養うという社会的圧力から解放されるかも知れない。自由奔放な性行動によって生まれてくる子供は公的な扶助や機関によって国家や地域が一緒に育てるという選択肢はもちろんあり得る。前衛的な意見を持つ人の中には、パートナーを複数、互いに共有し合うようなイメージを持っている人もいるようだ。それがいいことかどうか、私には分からないが、否定はしない。

ただ、漠然と、なんとなく思うのだが、おそらく人類が結婚という制度から自由になった結果、大勢のパートナーに恵まれる人と、生涯パートナーを得られない人に分かれるだろう。新たな格差になるような気もする。世の中が悪いとか言っても始まらないので、そこでどうやってうまく生きるかは個々人が試されるとしか言えないのかも知れない


昭和天皇とマッカーサーの関係をよくよく考えてみた

非常に有名な話だが、マッカーサーは昭和天皇と初対面の時にその人柄に感動し、昭和天皇は日本の再建に必要な人物だと確信したという。私も以前はその話を信じていた。それを否定するべき材料を見つけることができなかったからだ。しかし、最近は違った考えを持つようになってきたので、ここである程度整理しておきたい。

まずマッカーサーが昭和天皇の人柄に感動したという話についてだが、天皇からの対談の申し入れがあった際、マッカーサーは「不安を感じた」とされている。昭和天皇が命乞いに来るのではないかと思ったし、そのようなことは自分の一存では決められないとも思ったからだ。そして、世界征服を企んだ人類の敵をわざわざ助ける義理もないとも言えるかもしれない。しかし、実際に会ってみると昭和天皇からは「自分の身はどうなってもいいから国民を救ってほしい」と言われ感動したのだということになっている。

だが、この話の出どころはマッカーサーの回顧録による。昭和天皇は生涯、実際に何が話し合われたかについては口外しなかった。とすれば、この話は当事者の一方からのみ出た話で、裏付けがとれる類のものではないと言えなくもない。日米双方に通訳者がついていたため、通訳者の証言も残っているが、その証言は大筋ではあっているが微妙な違いがある。もちろん、通訳はある程度意訳しなければならない場合が多いため、微妙な差異があっても不思議ではないのだが、通訳にはそもそも守秘義務があるため、そこで知り得たことを話すことはゆるされない。そのため、裁判などで宣誓した上で証言するならばともかく、そうでない場合、どの程度通訳証言を信用するべきかは難しい問題になる。

また、そもそも「自分はどうなってもいいから他の人を助けてほしい」というのは美談過ぎる。果たしてそのようなある種の自己犠牲的精神論だけでマッカーサーがころっといってしまい天皇を熱烈に支持するようになったという話は、関係者に都合よくできすぎているのではないかという気がしてならないのである。当時、多くの人が昭和天皇はドイツのファシストと同様に罰せられなくてはならないと考えていたはずだし、仮にどれほど人間的に魅力があったとしても起訴すべき訴因があるとすれば、いい人だからという理由だけで責任を免除するということは考えにくい。

そのため、私は初対面で両者は全く違った話が行われたのではないかと考えるようになった。具体的に何が話し合われたかは証明不可能だが、その後の歴史の展開を見ると、多少の想像は可能だ。まずマッカーサーは大統領選挙に出馬する意欲を持っていた。そのためには日本占領に成功することが絶対に必要だと考えていたことは間違いない。マッカーサーが最も不安に感じたのは果たして最近まで頑強に抵抗していた日本人が意のままに動くかどうか分からないという点にあったのではないだろうか。当時のアメリカ人であれば、天皇が日本人に対して神秘的な影響力を持っていると考えていても不思議ではないし、マッカーサーの立場であれば、もはや戦争の決着がついた後、わざわざ天皇を訴追して日本人がどういう反応を示すかを心配するよりも、天皇には責任がないことにして占領に利用することを優先したとしても不思議ではない。一方、昭和天皇は天皇家の存続を確保することに主眼があったに違いない。天皇家さえ存続すればたとえば日本が領土を削られたり、国際法上敗戦国として不利な地位に置かれたりしたとしても、いわゆる国体は保持できる。そのためにマッカーサーの支持を取り付けることは必要だっただろうし、譲歩できる部分はいくらでも譲歩する覚悟はあったはずだ。

要するに天皇を保全し、天皇の協力のもとでアメリカ軍による日本占領を完遂するということで両者の利害は一致していたのであり、ある程度の下交渉が行われた上で、初対面の際にそれを確認し合ったということが真相なのではないかと私には思える。

ただし、それを大っぴらに口外することは両者にとって不利である。マッカーサーは世界に対して昭和天皇を訴追しない理由を明らかにしなくてはならなかったし、昭和天皇も日本の半永久的占領と引き換えに国体護持を図ったということは憚られる。そのため、マッカーサーは昭和天皇の美談を創作し、通訳もそれで口車を合わせることになり、昭和天皇は沈黙を貫いたのだとすれば、筋は通る。マッカーサーは天皇を訴追すれば日本国内で叛乱が起き、100万の軍隊が必要になるとワシントンに脅しをかけた。昭和天皇はラジオで人間宣言を放送し、国民感情の慰撫に努めたというわけだ。

それが正しいことだったかについては賛否あるかも知れない。マッカーサーの個人的な政治的野心と、昭和天皇のやはり国体護持という政治的目標が合致して占領政策が行われ、その後日米安保が結ばれたのだとすれば、納得できないと言う人もいるかも知れない。私個人は立憲君主制を支持しているので、天皇家が存続したことは圧倒的敗戦の事実の前では戦争で敗けて交渉で実を獲ったとも言えるので、これでも良かったと思う。果たして天皇が訴追された際、本当に日本国中で叛乱の嵐が吹き荒れたかどうかは疑問だが、そうなってもおかしくはなかったので、ある程度穏便に物事を進めることにはなったと思うし、日本の再建にはよりよい効果があったと思う。もちろん、価値観の問題があるので、飽くまでも私は個人はそう思うということに留めたい。マッカーサーは大統領にはなれなかったが、それは私の知ったことではない。


ビューティフルマインドの逆転人生を考える

プリンストンの天才ナッシュ教授はいつのころからか統合失調症を発症し、ありもしないソビエト連邦のスパイ網の暗号コードを新聞や雑誌から読み解き始める。彼には親友もいるし国家機密級の仕事のための相棒もいる。しかし、親友も相棒も実は彼の脳が生み出した幻覚であり、彼は精神病院に強制的に入院させられることになる。

その後退院するが、毎日服用する薬の副作用で頭が充分に働かなくなり、天才的な数学者だったはずが、まったく仕事ができない日々を送るようになる。妻が仕事をし、家族の生活を支えるのだが、当然に重苦しい日々を送らざるを得なくなる。妻は時に彼の症状に付き合い切れなくなるからだ。

だが、やがて彼はかつてのライバルでプリンストンの教授になった友人に頭を下げ、社会適応のために図書館へ出入りする許可をもらうことができ、長い長い日々を図書館通いで過ごすのである。幻覚の親友と相棒はついてまわるが、彼は意を決して彼らを無視する。このまま人生を終えてもおかしくはないのだが、とある学生に質問をされ、それに答えるうちに私的なゼミのようなものを開くようになり、やがて教鞭を取るところまで社会的に回復し、最後の最後でなんと若いころに書いた論文の成果が認められノーベル賞を獲るというジェットコースターのような人生を描いた映画が『ビューティフルマインド』だ。

彼の人生を俯瞰すれば、全体として成功しているように見えるが、病気との格闘は絶望的な心境に彼を陥れたに違いなく、それ以前の経歴があまりに素晴らしすぎるからこそ、療養生活を送らざるを得ないことは堪えたに違いない。

果たして彼を救ったのはなんだったのだろうか。私は二度この映画を観たが、もし自分だったらと我が身を振り返らざるを得ない。妻が彼を見棄てなかったことは大きい。人生で最も辛い時の同伴者が彼の妻だった。そのようなパートナーがいる人は幸福だ。そして若いころ、すでに発症していたが、本人も周囲も気づいていないような時に仕上げておいた仕事が彼を社会的な復帰に大きな助けになった。

私は、私のようなコミュ障が彼と同じ境遇になった時に自分を支えてくれるパートナーを得られるかと自問したが自信はない。また、今仮にそういう境遇になった時にそれでも自分を助けてくれるだけの仕事の蓄積があるかと自問しても自信はない。

しかし、彼が彼自身を救うことができたのは、発症以前の栄光だけによるものではないことも繰り返しみると分かってくる。彼はまず、自分が病人であることを認めることにより、症状に苛まれなくなった。正確に言うと症状は続いたが、幻覚に自分の行動が影響されなくなる程度にまでコントロールできるようになった。自分が病人だと認めなければ、症状をコントロールすることもできない。彼は重篤な病人だったし、社会的な居場所を一時的には失ったが、病人だということを自覚した上で、友人に頭を下げ、じょじょに社会適応し、やがて社会復帰を果たしたという側面は否定しがたい。彼は不運な病によって人生の敗北者だと感じたかも知れないが、人生の敗北者だということを認めることにより一歩ずつ回復へと歩いて行ったのだと言える。

この作品から我々のような凡人が得られる教訓は、自分がもし何らかの理由で不愉快な立場に転落してしまった時、過去の栄光にすがろうとせず、自分の現状を素直に認め、真摯に取り組むことで、人生をやり直すことではないかという気がする。

私にも他人には言いにくい深い挫折の経験がある。そしてその挫折から今日に至るまで、苦しみ続けてきたが、一歩ずつ、社会的にも人間的にも回復を重ねて来た。そのため、ナッシュ教授の人生を完全な他人事と片付けることができない。私は挫折したばかりのころはそれを受け入れることができず、今も完全に受け入れることができているかは分からないが、少しずつ挫折を認め、挫折した自分という立ち位置を認め、そこから回復するためのプランを練り、そのプランの全てが実現したわけではないが、ある程度は実現したので再び自分の人生を歩いているという実感はある。挫折した時、挫折したことを認めることが人生をやり直す第一歩になると言えるのかも知れない。

もう一つ得られる教訓としては、人生一寸先は闇であり老若男女問わず、いつどこで何が自分の身に起きるかわからないが、それまでに積み重ねて来たものが身を助けるということが言える。ナッシュ教授は入院させられる前に学位も獲り、実績も残したことがその後の人生の回復に役立った。我々がナッシュ教授ほどの大成果を残すことは難しいかも知れないが、それでも、もしものことが起きたとき、それまでに積み重ねてきたものが自分を助けるのだとすれば、日々の行いや精進、真摯な取り組みが大切だということは言えるだろう。いつ何があるかわからないからこそ、何事にも真摯に取り組むべきだ。真摯に取り組んだことの全てにいい結果が出るとは限らないが、取り組まなければ結果は決して出ない。それに、案外、自分で気づいていないだけで、自分の取り組みはそれなりに報われているのかも知れない。


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ナウシカは自己中心的救世主

『風の谷のナウシカ』は、全身に満ちた愛情を全力で発揮する救世主のような人物として描かれている。映画版と漫画版では内容にかなりの違いがあるが、ナウシカが救世主としての役割を負っているという点で共通している。フィクションであるからこそ可能なことなのかも知れないが、映画でも漫画でも、ナウシカが博愛を全力で実践していることには感動できるし、だからこそ私も繰り返しナウシカを繰り返しみてきた。

だが、同じ作品を観続けていると、違った見方もしたくなってくるものでもある。新しい発見は気づきがあるからこそ、繰り返し見ることができるのだとも言える。最近、改めて数回ナウシカをみ、かつ漫画を読んだこんで、ナウシカの博愛は実はエゴイズムの発露なのではないかという視点を持つようになった。

というのも、ナウシカは特別な苦行も修養もしているわけではないからだ。イエスは山中に40日籠り、悪魔の誘惑に打ち勝つことで救世主としての目覚めを得た。仏陀は苦行を否定したが、それは実際に自分で苦行を行い、苦行は無駄だと悟ったからだ。近代日本で言えば西郷隆盛島津久光に島流しにされている間に漢籍などを読み自己教育をして鋼の精神力と常人とはかけ離れた才気を発揮し人望を集めるようになった。

ナウシカにはそのような自己変革の機会はない。物語が始まった時からナウシカは既に天才的に風に乗ることがうまく、生得的な才能として人間以外の生き物とコミュニケーションをとることができ、人を限りなく愛するという哲学も最初から持っている。

そのように思うと、ナウシカが生まれつき救世主的なのはなぜかと言う疑問が湧いてくる。修練や自己訓練によって会得したものでないとすれば、ナウシカは単に生まれ持った本能に従って生きているだけであり、たまたま本能が救世主的だったと結論しなくてはいけないのではないかと思えた。

修練や思考を経て会得したものではないため、ナウシカは自分の判断でかなりのことをやってしまっている。例えば怒りに任せて人を殺してしまう場面は映画でも漫画でも描かれている。ナウシカが風の谷を離れなくてはなった時、自分の判断で地下の植物園の水を止め、植物たちに枯れて死にゆく運命を与えいている。そしてこれはネットでもよく言われていることだが、漫画版では腐海によって浄化され、ナウシカたちも同時に滅亡するようプログラムされており、その後、完全に汚れのない新生人類が生まれてくることになっていたはずなのが、ナウシカは自分の感情の赴くままに新生人類の卵を破壊している。仮に全ての命に愛を与えることを彼女が自己教育によって自分に課している義務なのだとすれば、新生人類の破壊するという行為はできないだろう。しかし、彼女はそうではなく、感情のまま突っ走るだけであり、かつそれでも失敗しないだけの運動神経の持ち主であるからこそ、あたかも慈愛と才能に満ちた人物に見えるのであり、救世主に見えるのである。

だが、それが宮崎駿の設定ミスだとも思えない。原作者は最初からナウシカは究極のエゴイストだということを自覚的に設定していたのではないかという気もする。映画でも漫画でも人を殺した後、自分が怒りに任せて何をするか分からないという台詞が挿入されている。つまり原作者は最初からナウシカは倫理で行動しているのではなく感情で行動しているのだと明確に描いているのだと言える。

だが、これをして、なんだ、ナウシカってただの自己中なのか、興ざめだな。ということにはならない。ナウシカが救世主であるという位置づけに変化は起きない。映画でも漫画でもナウシカは現生人類にとっての救世主としての位置づけに変化はない。イエスはユダヤ教の教会である種の破壊行為を感情的に行ったが、救世主は神の預言を授けられている存在であるため、感情に従って突き進むことにより人類を救うことができるのだと言うこともできる。

また、ナウシカの内側には神の預言者たる救世主としての一面と同時に新生人類を抹殺する悪魔の一面の両方が存在すると考えれば、むしろナウシカが相矛盾する性格を一人で抱える普通の人間なのだと考えることができれば、作品理解が更に深まるというか、作品を通じて世界や人間をより深く理解することの糸口になるかも知れない。『カラマーゾフの兄弟』では、無垢で誠実なミーシャが修道院長から修道院の外の世界を生きるよう命じられる。ドストエフスキーの計画では俗世に出たミーシャは黒いキリストになる予定だったという。おそらく『悪霊』はミーシャの俗世版だと言えるはずだ。


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心理的な傷から如何にして立ち直るか

心理的な傷は時間軸で言えば短期的なものと長期的なものに分けることができる。そしてその立ち直り方は消極的なものと積極的なものに分けることができる。心に傷を一切負わずに人生を終えることができる人はおそらく皆無である。私も自分の心理的な問題を解決するために様々な努力をしてきたし、現在もそれは継続中だと言える。ここでは、私なりに心理的な傷から立ち直るために実践したことや学んだこと、その効果などを手短にまとめてみたい。

まず、心理的な傷の短期的なものというのは、たとえば誰かに批判されたり、ちょっとしたことで相手の怒りを買ったり、仕事でミスをしてしまったり、飲み過ぎてしまったりして落ち込んでしまった場合のようなものを指している。そして長期的な傷というのは主として幼少年期にたとえばイジメにあったとか、虐待されたとか、或いは事故にあったなど人格形成期に於ける傷が生涯にわたってその人の心を苛むような類のものを指している。短期的な心の傷を受ける要因は主として普段は忘れるようにしている長期的な心の傷の再生みたいなできごとであるため、短期的な心の傷も突き詰めれば長期的な心の傷が起因しているということができるため、突き詰めれば長期的な心の傷を如何にして治癒させるかということが課題になる。ただし、長期的な心の傷の治癒には積極的な療法を長期間断続的に行わなくてはならないため、これを読んですぐに解決するようなものではない。場合によってはさっき傷ついたからその治癒の方法をこの記事で知りたいと思う人もいるはずであるため、先に短期的な問題、直近の問題について取り扱い、続いて長期的な解決について取り扱いたい。

短期的な問題、たとえば誰かに嫌なことを言われたり、仕事をミスをしたりという場合、消極的な治癒方法はそれなりに有効である。消極的な治癒方法とは簡単に言えば時間が解決するということだ。私の場合、激しく落ち込んだ場合も二週間もすればどうにか気力を取り戻すことができる。経験的にマックスに落ち込んでも二週間程度で回復できるため、傷つくようなことが起きても「二週間の辛抱だ」と思うことにしている。実際、数日前にちょっとここでは言えないくらいショッキングなことが起きたが(そのことについて私が悪いとはちょっと思えないようなことだった)、今は次第に回復基調に入りつつあり、個人的な経験測として「二週間もあればだいたい大丈夫」という考えがあるため、結果としては「いつまでこの苦しみが続くのか」という不安からは解放されやすく、その分、心理的な立ち直りは楽にできるようになってきた。これは最近そうなってきたのであって、何度もショッキングなことを経験するうちにようやく気付くことのできた私の心の内側での現象であると言える。短期的な問題についてはその他にとりあえず寝るとか、お酒などの嗜好品にとりあえず逃げ込むとか、週末は自宅に引きこもってyoutubeやnetflixを視聴して何も考えないようにするなど、消極的ではあるが、ある程度の積極性(お酒を飲んだり、何かを視聴したりするのでなにがしかの行動は伴っている)を持っているが、これは耐え難いと思える経験が生じたとき、自分を現実から一旦切り離すことで痛みが軽減するのを待つという方法になる。短期的な心理的な傷に対する積極的なアプローチはカウンセラーに電話するということを私個人は今でも時々やっている。心の痛みを軽減するために他人に話すということは効果があるが、友人にいちいち相談することは、度が過ぎると友人を遠ざけることになりかねないし、自分の恥ずかしい面を友人を見せる場合もあるため、私はわりと慎重である。カウンセラーであれば、他人に話せないことを話せる上に、自分との相性が合う相手であれば適切な意見交換を行うことにより、痛みをかなり軽減させることも可能だ。心理的なショックを受けた場合、私の場合、何が起きているのか理解できない、私が悪いのか悪くないのかも判断できない、原因も分からないという軽いパニックを起こすことになるのだが、いい大人が「パニックだ」と騒いでも信用を落とす以外の効果はないため、とりあえずその場はぐっと耐え、時間を見つけてカウンセラーに電話することにしている。当然後で料金を払わなくてはならないが、一時的にとはいえパニックになっている場合、それこそ死んでしまいたいと思うこともあるから、自分の生命に比べればカウンセリング費用はむしろ衣食住同様の必要経費と言ってもいいと私は考えている。死ぬより金を払う方が断然いいに決まっているからである。カウンセラーを話すことによって、自分の身に何が起きたのか、何が原因で、善処する方法はあるかということについて考えることができるようになるため、無用な危機を避けることもできる。ショッキングなことが起きれば数日間は見た目には普通でも頭の中はパニックになっているため適切な判断ができない状態になっている可能性があり、それでも仕事をしたり日常の選択をし、社会的に行動しなくてはならない。パニック状態のままそれらを遂行すれば無用に傷口を広げることも起きかねないので、私はカウンセラーに頼ることはリスクコントロールの面を有するとも思っている。著名人になればなるほどお抱えの占い師がいたり、宗教的なものに頼ったりする傾向があると聞いたことがあるが、それは、そういったことがリスクコントロールになり、例えば逆ギレするなどの本来なくていいはずのカタストロフを避けることになるのだと言える。

では、長期的な問題について考えたい。よく時間が薬というが、長期的な心理的な傷は時間では解決しない。放置しておけば生涯にわたり本人を苛み続ける。上に述べたように短期的なショックの由来も長期的な心の傷に由来しているため、明朗な人生を送るためには長期的な心の傷に対して戦略的なアプローチを考えなくてはいけない。高額なセミナーに行ってある程度良くなるという人もいるかも知れないから、完全に否定はしないが、個人的にはおそらくそういったアプローチは短期的な効果しか持たず、根源的な治癒には至らないのではないかと考えている。長期的な心の傷は、その人の認知と行動に影響する。人は心の傷によって認知と行動がある程度決定されてしまい、それを繰り返し、その人自身という人格が作り上げられていくことになる。そのため、長期的な心の傷の治癒のためには認知と行動を忍耐強く変えるように努力し、最終的には自分は別人格になるくらいの覚悟も必要になる。認知を行動を変えるというのは、たとえば「私はいつも嫌われる」という認知がある場合、それは幼少期にイジメを受けたりしたことからそういう認知が生まれるわけだが、「必ずしもそうではない」「場合によっては好かれる」という認知へと変化させていくよう自己内対話を行うことになる。この自己内対話が上手にできるようになるためにカウンセリングを利用することは有効かも知れない。自己内対話が上手にできるようになれば、自分できるためカウンセラーの力は必ずしも必要ではない。カウンセラーにはクライアントの根本的な心理的問題を解決することはできない。経験を積んだカウンセラーであればそのことはよく知っている。新人のカウンセラーはカウンセリングで人を救うことに無限の可能性を感じている場合があり、その場合はカウンセラー本人も自分の心の傷を治癒するためにカウンセリング技術に頼りたいという願望があるため、クライアントに対しても「絶対治癒できる。治癒させよう」という姿勢で臨むが、私の経験で言うと、カウンセラー本人にそのような力はない。内科医は患者に薬を投与したり安静にするよう命じることはできるが、病気そのものはその人の生命力で治癒していくのに似ている。ただし、たとえば風邪は自然治癒する可能性が高いが、心理的な傷はそうではないため、「うつは心の風邪」のような楽観視はできない。「うつは心の癌」だと私は捉えており、放置すればキルケゴールの言うように死に至る病になる場合もある。

ここまでに長期的な治癒の手段として自己内対話を上手に行うことで認知を変化させるということを述べたが、自己内対話を理屈抜きで強引に良い方向へもっていこうとするのがいわゆるアファメーションと呼ばれるものであると私は考えている。たとえば斎藤一人氏の「愛してます、ついてる、嬉しい、楽しい、感謝してます、幸せ、ありがとう、ゆるします」であったり、「私は愛と光と忍耐です」のような「天国言葉」を毎日繰り返し唱えなさいという教えは、現実が如何に望ましくないものであったとしても、強引に自分に今の現実は素晴らしいと認知させることで、即ち認知を変えることで行動が変化し、結果として人生も良くなるとする考えが基本になっている私は理解している。斎藤一人氏については賛否あると思うが、アプローチとしては正しいと言える。自己内対話によって認知を変化させることには限界があるからだ。人にはどうしても「こうとしか考えられない」という認知がある。そのため、自己内対話をどれだけ深めても突き詰めたコアな部分の認知を変化させることは難しく、そこまでで納得するか諦めるかをせざるを得ない。しかし、斎藤一人氏のようなアファメーション方式では、理屈抜きで認知を変える言葉を自分の頭に強引に押し込んでいくため、自己内対話の壁を超える可能性はある。認知が変われば行動が自ずと変わるため、得られる結果も自動的に変わってくる。高額な心理療法、たとえば前世療法や催眠療法などの手段で認知を変えることはあり得るが、アファメーションは無料でできるため、金銭的にもお得と言える。ただし、忍耐強くやらなくてはならない。コアな部分の認知は何十年も保たれ、その人の人格そのものになっているため、アファメーションもある程度のところまでいくと固い壁を破るのに相当な根気を要することになる。自我が抵抗するのだと言い換えることもできる。ではどうするかというと、私の場合、カウンセリングとアファメーションの双方を利用することにしている。カウンセリングで自分の抱える問題を整理し、アファメーションをするのである。この場合、問題の核になる部分の整理ができた状態で行うため、自我の抵抗を受けにくくなるからだ。

私の経験に基づくものだが、以上述べたことを生活に取り入れるだけでも人生は良くなるはずだし、心理的な苦しみは相当に軽減される。しかし、それだけでも完全な解決ということには至らない。人は結果を良くすることにこだわってしまうからだ。「私は人に嫌われる」という認知を「必ずしもそうではない」と変えることができたとしても、人に必ず好かれるとは限らない、嫌われることはあるし、或いは実際に嫌われているとは言えなくても嫌われたと判断せざるを得ないようなことも起きる。そのようなことはアファメーションをしていても起きるため、アファメーションには効果がないと落胆することも起きるだろう。

ここを乗り越えるのが最大の難関であると言える。「私は人に嫌われる」という認知を矯正しても嫌われることがあるため、人に好かれているという実感を得たいという効果を求め続ける限り、「やっぱり嫌われた」の堂々巡りに陥る危険がある。ここでようやく自分を別人格に変化させる、或いは昇華させるという次元の問題に取り組まなくてはならない。それは「私は人に嫌われても大丈夫」という信念を自分で創造できるかどうかということであり、これはカウンセリングやアファメーションだけで乗り越えられるかどうかは疑問である。カウンセリングは無理にクライアントを変えようとはしない。また、アファメーションは自我の抵抗に合う。また、人は自我を守りたがる。そこを越えられるかどうかは、今の私にとっても課題であるため、ここでこうすればいいという結論を出すことはできない。しかし、ここに気づくことができている以上、そのように自分を昇華させることはできるのではないかとも考えている。「私は人に好かれているか嫌われているかを問題にしない」という信念を確立することができた場合、私は純粋に他人の意見を無視して自分のやりたいことに取り組むことができるし、自分を活かした人生を実感することができるかも知れない。繰り返しになるが、そこまでたどり着くための方法論を私はまだ確立していない。ここまで来ると言語化できる方法論が存在しないため、瞑想や座禅という、ちょっとワープした手法へ移行せざるを得ないかも知れないし、過去の偉人たちの多くが瞑想や座禅にたどり着いたのも同じ理由ではないかと察せられる。

しかし、問題の整理ができていないまま瞑想をしたところで過去の心の傷から解放されるわけではない。問題は頭の中を堂々巡りするだろう。カウンセリングとアファメーションと瞑想を日常に取り入れていくことで「私は大丈夫だし他人にも愛を持って接することができる」という心境に入れるのではないかと思う。この場合、私は他人に愛されなくても大丈夫だという信念を確立しているため、他人が私を愛するかどうかは関係なく他人を愛することができるようになるはずである。ここまでくれば仙人の領域かも知れないし、一生かけて辿り着けるかどうかは分からないが、目指す価値はある。目指してみたい。真実にその領域に辿り着いた時、過去の心の傷は治癒したというよりは問題ではなくなるはずなので、結果として治癒したことになると言えるかも知れない。

不遇の時期をどう過ごすか

須田慎一郎氏の自己プレゼンテーション

最近は見なくなったんですが、ネット配信で『そこまで言って委員会』をよく見ている時期がありました。で、多分、私が最後に見た回だと思うのですが、パネラーに「自分は何に依存していると思いますか?」という緩めの質問があり、その時に須田信一郎氏が「ネオン症候群」と答えていたことに私は衝撃を受け、人生についてより一歩深く考えることになってしまいました。

ネオン症候群とは要するに夜になるとネオン街へ行きたくなってしまって自分でもコントロールするのが難しいということなのだと思いますが、須田慎一郎氏曰く、「男を磨く」ために夜の街、要するにホステスさんのいるようなお店へ行くのだということらしいのです。

それは私にとって衝撃でした、私は誘われたりして何度か行ったことはありますが、面白いとも何とも思えず、なんだかよく分からん…という心境で帰宅した思い出しかなく、自発的に行きたいとは思わないからです。ですから無駄遣いをするためにでかけるように思えてしまいます。しかし、おそらく想像ですが、客としての気合の入り方が違うのではないかという気がしました。私のような普通の人間の場合、ホステスさんと話しをして「わーきれいな人と話せてよかったな」と思わせるというのがこういうお店のサービスだと思うわけですが、須田氏の場合はそうではなく、本来、従業員として働いているホステスさんが話を合わせてくれるような場所で、客としての自分が気を使い、ホステスさんを楽しめ、結果として人間性を高めるという、そういう場所だと認識しているのではないかと私は考えました。

そのように考えると他の番組で須田氏が出て来た時のアドリブの瞬発力は夜の街で磨かれたものなのではないかという気がしてきます。須田慎一郎氏は顔はめちゃめちゃ怖いです。お会いしたことはないですが、男の私がお会いしてもびびるのではないかという気がします。しかし、彼がテレビで見せているような「おちゃめ」感、自虐もちょっとやってみる感のギャップを彼は意図的に演出していて、目の前の人の心を捉えるというストラテジーを持っているように思えます。こわい顔の人がおちゃめぶるということにどの程度の効果が見込めるのかは正確には分かりませんが、効果の上がる相手がいることは間違いないはずで、そのように思うと、自己投資として夜の街へ出かけていく須田慎一郎さんは凄い人だと私には思えてきます。

人格磨きと呼ぶべきなのか、それとも自己プレゼンテーションの訓練と呼ぶべきかは微妙なところはありますが、人間関係に於ける自己プレゼンテーションがうまくなれば、単に女性相手だけでなく、磨き込むことによって男性相手でも人の心の機微に入り込むことができるようになるのではないかと私は想像します。人格磨きという点では私は大学で学生相手にかなり揉まれています。教師は偉いから学生相手は楽だということは全然ありません。教育サービスを真剣に受けたい学生と楽に単位を取りたい学生の両方がいて、彼らはみな気まぐれで、気に入らなければ授業にも出てきません。強制できませんから、授業に来たいと思ってもらえる内容作りに私は心身をすり減らし、これは人間性の訓練であり、職業人としての試練でもあると思って努力しています。なので、須田さんも私も同じなのだと強引に結論して自分を安心させることにします。きっと他の人も、みんなそうです。職場や学校で人格磨きをして、人としても職業人としても向上の努力をしていくしかありません。いつの日か「あーむくわれたなあ」と思えるかどうか。努力しなければ思える日は来ません。がんばりまっす。


シンドラーはなぜ号泣しなくてはならなかったか

スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』は、あまりに安易に人がナチスに殺害される場面が連続して続くため、観客はそれが実話に基づいているだけに驚愕せざるを得ない。人命があまりにも軽く扱われていたこと、一部の人間をただ、それその人がその人であるという理由だけで死に追い込まれたこと、人間に対する罪の重みに考えさせられるし、日本人の観客であれば自分の祖父母の世代はこの連中と手を組んでいたという目をそむけたくなるような事実にも向き合わなくてはならない。

そのよう深刻な映画作品の中で、救いになるのはシンドラーという男の存在である。軽妙な会話とウイットに富み、金持ちで、敗戦へまっしぐらという絶望的な時代状況の下で贅沢な暮らしを楽しみ、女性にもてる。羨ましいご身分であり、その気楽な感じに安心感をついつい持ってしまうのだが、そのように彼が軽快に人生を楽しんでいるにもかかわらず、1000人を超すユダヤ人を強制収容所から救い出し、死の恐怖から解放したという人間としての功績もまた賞賛に値するものである。しかも、強制収容所から救い出す理由が軍需工場の強制労働者が必要だと言う偽悪的なものであるために、シンドラーからは偽善の嫌らしさを感じることもない。様々な意味で完璧な主人公だ。

しかし、映画の最後のあたりでシンドラーは号泣することになる。シンドラーが号泣したことについては、「興覚め」という意見もあったし、私もそう思った。果たして何故に、スピルバーグはシンドラーに号泣させたのだろうか。ナチスのユダヤ人迫害を憎むスピルバーグの立場からすれば、明るく楽しくユダヤ人の命を救ったシンドラーを、そのまま明るく楽しい人生を軽妙に生きる男として最後まで描いてもさほど問題はないはずのように思えてならなかった。

しかし、スピルバーグはシンドラーに号泣させることにした。私はその理由について何年も考え続けてきたが、最近改めて見直して、シンドラーは号泣しなければならなかった、シンドラーの号泣は二つの意味で必然であると考えるようになった。以下にその理由を述べる。
まず、シンドラーにとって人を救うことは道楽だった。道楽であろうと何であろうと人を救うことは賞賛すべきことだし、別に道楽でやってもいいではないかとも思えるが、シンドラーはナチスのユダヤ人迫害に対して、一人の分別のある人間であれば、敢然と戦わなくてはならなかったはずである。道楽でやるということは無理してまでは救わなかったとも言える。人の生き死にを神でもない人間が道楽で、自分のできる範囲でリストアップするという行為の恐ろしさに彼は気づかなくてはならなかった。彼はユダヤ人を工場労働者として連れてこさせるために金品を用いたが、それは徹底したものではなかった。彼はしっかり自分が贅沢できるだけの資金は残しておいたし、楽しい人生を犠牲にしてまで人助けをするつもりはなかった。そしてそれは罪深い。人の命を救助する際、それは道楽ではなく自分の存在を危うくさせることがあったとしても、それでも覚悟を持って尚取り組むべき「正義の戦い」でなければならない。シンドラーはそれをしなかった。映画として完結するためには、シンドラーはその罪深さに気づく必要があったに違いない。シンドラーが身に着ける様々なぜいたく品をナチスの担当者に渡せば、もっと救えたのである。金品よりも遥かに大切なものをシンドラーは救うことができたはずである。そのことに、敗戦が決まってから、もはやそうしなくてもよくなってから彼は気づいた。言い方を変えるならば気づくのが遅すぎたのである。スピルバーグはシンドラーを評価しながらも、気づくのが遅かったということの罪を糾弾している。そのため、シンドラーは興味深い男ではあっても英雄にはなれないのである。
 だが、単に糾弾の対象にするためにシンドラーが号泣する場面を挿入したというわけでもないと私は思う。シンドラーの人間的成長も描かれなければならなかったのではないかと私には思える。シンドラーは道楽で人助けをして悦に入っていたが、人助けは道楽でするものではない、もっと真剣に覚悟を決めてやるべきものでなくてはならなかったということに敗戦を迎えてから気づいたシンドラーにできることは号泣することしかなかったのである。しかし、たとえそれがユダヤ人を助けるという意味では遅すぎたとしても、一人の人間の魂の向上という点から見れば遅すぎるということは決してあり得ない。この作品はファシズムが特定の人間を迫害することの犯罪性を糾弾するだけでなく、同時にシンドラーという一人の男の人間的成長という二つの目的を持って制作されたと考えることができる。

それ故、スピルバーグのシンドラーに対するまなざしは決して冷徹なものではない。たとえ道楽とはいえ、ユダヤ人の救済に努力した男としてそれなりに賞賛しているし、更に人間的な成長の瞬間を迎えたのだから、その点に於いてシンドラーを祝福しているとも言えるのである。人が、その人の行動や考え方を変化させる瞬間に立ち会う時、それはたとえ日常生活でもある種の感動を伴うことがある。ナチスドイツの犯罪性を糾弾しつつ、シンドラーという男の成長物語も描いたスピルバーグはやはり言うまでもないが天才なのである。