徳川慶喜と島津久光

徳川慶喜は前半生、実に多くの敵に出会い、彼はことごとく勝利したと言ってもいいのですが、彼の政治家人生でおそらく一番やっかいな存在でありながら、慶喜本人は歯牙にもかけなかったであろうという複雑な立場になる人物が島津久光です。

島津氏は久光が藩の実験を握る前の藩主だった島津斉彬の時代から幕政への参画を試みており、ある意味では傀儡する目的で擁立したのが若き日の一橋慶喜でした。慶喜は水戸徳川家出身であるため、本来なら将軍候補にはなり得ないはずですが、一橋に養子に入ったことで俄然将軍就任の可能性が膨れ上がります。そもそも彼を将軍にするために敢えて一橋に引っ張ったと言うこともできるはずです。

で、慶喜を将軍にしようとするグループが一橋派なわけですが、水戸の徳川斉昭や島津斉彬などが一橋派の支柱になっていくわけです。一方で、井伊直弼は水戸系将軍誕生絶対阻止を目指し、敢えて紀州徳川家の慶福を14代将軍に擁立しようと画策します。8代将軍吉宗以降、紀州徳川家は準本家筋みたいになっていますから、筋としてはさほど悪くはないわけですが、徳川三卿から将軍を出すことが慣例化していた当時、一橋慶喜の方が、法の秩序みたいな観点から言うと有利というちょっと複雑な状況が生まれてきます。結果としては井伊直弼が押し切って14代将軍は慶福に決まり、名を家定を改めて将軍宣下を受けることになります。一方で一橋派は粛清されます。安政の大獄なわけです。

ここで、ぐるっと歴史が変わるのは、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺され、一橋派が息を吹き返します。その時は島津斉彬が亡くなっていて、久光の息子が藩主を相続し、久光は藩父という法律的には何の根拠もないものの、島津家長という不思議な立場で幕政への介入を図っており、一橋慶喜は将軍後見職、更に同じく一橋派だった松平春嶽を政治総裁職に就けるという前例のない荒業が成された背景には久光の画策があったと言われています。

さて、そこまで慶喜に尽くした久光ですが慶喜は久光のことをてんで相手にする気はなかったようです。晩年でのインタビューでも久光のことはあまり好きじゃなかったと述べていますが、幕末の京都で慶喜が政治の中心にいた時代でも、久光に対しては冷たく当たり、酒に酔った勢いで天下の愚物と罵って、敢えて人間関係を破壊して久光の政治への介入を阻止します。久光は侮辱されたことをきっかけに慶喜を支えて幕政に参加するという方針を取りやめ、幕府を潰して島津の天下取りを目指すように方針転換します。

ここで登場するのが西郷隆盛で、隆盛は久光のことが嫌いだったようですが、それでも慶喜を倒すという一点で両者は共通しており、久光の金と兵隊、大久保利通の政治力、西郷隆盛の軍事に関する天才性が実にうまく機能して幕府打倒へと歴史の歯車が動いてきます。その後、廃藩置県で久光は大久保と西郷に騙されたと怒りまくって花火をばんばん打ち上げさせたという話は有名ですが、新政府を作った西郷と大久保も袂を分かち西南戦争に発展していくことはここで改めて述べるまでもありません。島津久光、西郷隆盛、大久保利通という個性も才能も全然違う3人が、たまたまこの時目標を一つにしたことが歴史を変え、それが終わるとばらばらになるというところに天の配剤のようなものを感じなくもありません。

いずれにせよ今回のテーマは慶喜と久光なのですが、もし慶喜が久光と人間関係がうまくいっていたとすれば薩摩藩の討幕方針が打ち出されることもなかったでしょうから、慶喜が久光を排除し続けたのは彼にとっては最大の失策と言えるかも知れません。慶喜の人生で、久光は最も軽く扱った人間の一人に違いないと私は思っていますが、そういうことが後々大きく響くというのは教訓と言えるようにも思えます。もっとも、久光は騒ぎを大きくしただけで本人が何かを成し遂げたというわけでもないように思うので、それでも幕末の最重要人物の一人なわけですから人生というものの不思議さを感じずにはいられませんねえ。

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時代劇映画『十三人の刺客』の新しいvirと古いvir

江戸時代後期、前の将軍の息子にして現将軍の弟というやたらと血筋のいい明石藩の松平のお殿様があまりに性格が残虐すぎるために老中幕閣により暗殺が決定され、旗本を中心にした13人の暗殺部隊が動員、今風に言えばkeyresolve的に実行し、見事打ち取るという映画があります。史実とある程度重なる部分があり、ある程度違う部分があるらしいので、実際の歴史はちょっと忘れて物語に集中して考えたいと思います。個人的にはお殿様がおかしな人である場合、わざわざ暗殺部隊を送らなくても幕閣と大名の家臣が結託して殿ご乱心で座敷牢という流れでOkなのではないかとも思いますが、それでは映画になりませんから、まあ、大袈裟に切ったはったになるわけです。しかし、とてもおもしろいです。

2010年の新しいバージョンでは狂気の殿様の役は稲垣吾郎さんがやってます。自分で自分が狂ってるという自覚があって、「世の中が血で血を洗う戦乱になったらいいなあ」という願望を持つような、かなりいってしまっている人です。で、幕府から密命を帯びた13人の男たちが参勤交代の行列を待ち受け、策を用いて既定のルートを通れなくしてしまい、待ち伏せして袋小路に追い込み打ち取るわけですが、稲垣吾郎は最期に「こんなに楽しい日はなかった。礼を言う」と言って死んでいきます。悪い奴もそれなりに絵になるというパターンで仕上がっています。印象に残ったのは、お家のためと命がけでお殿様を守る明石藩士の顔がほとんど画面に映らないことです。旅装をして笠を被っていますから顔が見えにくいというのはあるでしょうけれど、ばたばた殺されていく端役の人たちの個性はあんまり見えないようにしたほうが演出的にいいという判断があったのかも知れません。

新しいバージョンの刺客たちの首領は役所広司さんがやってます。

もう一つ古い1965年のバージョンがあります。時代劇の巨匠、工藤栄一さんが監督しています。この映画では凶器のお殿様は自分の命は普通の人と同様に惜しいけれど、他人の命はそうではない、ただのわがままぼんぼんという感じになってます。で、おもしろいのは13人の暗殺部隊の首領と、明石藩の重役の頭脳戦みたいなところがかなりおもしろく描かれています。まあ、ちょっと忠臣蔵の頭脳戦の描き方に近いような気がしなくもありません。というか、多分、それなりにそういったことも意識していたのかも知れません。で、大勢の明石藩士が死にゆくわけですが、わりと顔がよく映っていて、襲われる側も殿を守るために必死という感じが伝わってきます。襲われる側の気持ちもよく理解できるというか、私はそっちに感情移入してしあい、ああ、気の毒だと思いながら見入ってしまったので、非常にエネルギーを使いましたが、観る側にエネルギーを使わせるのも映画の力量ですから、凄い映画だと私は素直に思いました。日本の時代劇映画は世界を席巻し、多くの才能に影響を与えていますが、時代劇を見れば見るほどそりゃそうだ、おもしろすぎると納得します。

古いバージョンは片岡千恵蔵が首領をやってます。

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ハンナ・アーレントとアイヒマン

ハンナ・アーレントと言えば『全体主義の起源』という著作が大変有名です。反ユダヤ主義が如何にして台頭したかを分析し、更にそれが如何にしてナチズムと結びついたのかを大衆の心を見据えつつ分析を加えた大著です。

ナチズムによるユダヤ人迫害、ホロコーストは大変に重い問題ですから、慎みのある態度で向かい合うべき事柄です。アーレントはかくも重大な事態を招いたことの大きな要因として大衆の思考の停止を指摘しています。近代市民社会は各市民の自発的参加を前提としています。近代以前の王侯貴族が意思決定をし、大衆は搾取の対象でしかなかったのに対し、革命によって王侯貴族の支配を打破した近代市民は自らの生命財産を守ると同時に社会の秩序を維持するために政治に参加して意見を述べ、時には論争し、義務や責任の履行が求められます。

しかし「大衆」ですから数が多すぎ、政治に参加できていると自覚できるとタイプと、所詮私は小市民、何を発言しようと誰も耳を傾けてはくれないし生命の確保はできるとしても、大した財産があるわけでもないという無力感を感じるタイプに分かれていきます。無力感を感じる人たちの方が近代社会ではもしかすると多数派なのかも知れないですが、そういう人たちは思考停止に陥り、自分に代わって考えてくれる人、または分かりやすい言葉を使ってくれる指導者に導かれたいという望みを持つようになるとアーレントは指摘します。アーレントはこのようなタイプの人たちが分かりやすい言葉で方向性を指し示してくれるアドルフヒトラーに魅せられたと分析しているわけですが、この分析はエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に近いものと言っていいかも知れません。

『全体主義の起源』という大著を著した後、世界的に注目されたアイヒマン裁判が始まります。彼女もアイヒマン裁判をよく観察し『エルサレムのアイヒマン』という著作を著します。命令に従い義務を履行しただけだと主張するアイヒマンの姿は、いわば『全体主義の起源』で指摘した、思考を停止した人の個別具体的な一例であったということになるかも知れません。

彼女はアイヒマンにはたまたまアドルフヒトラーと同時代にドイツに生まれたことにより、たまたま人道に反した義務を課せられた不運があったという趣旨のことを述べ、受け取り方によってはアイヒマンの主張には一理あるという意見になるわけですが、結論としてはそれでも悪に服従したことの罪によって死刑にならなくてはならないとしています。ただし、絶対悪であるはずのナチス幹部に一理あるかのように受け取れる言論は激しい批判を浴び、彼女は多くの友人をなくしたと言われています。

現代人の価値観から言ってナチズムを肯定することはできませんし、ファシズムに加担することはできません。しかし同時に、或いは自分がアイヒマンの立場に立った場合に抵抗できるかという自問も必要なことかも知れません。日常生活の中で見て見ぬふりをして見過ごす問題は数多く存在しているかも知れず、多くの人はそれはともかく日々の自分の責務を果たすことを優先せざるを得ないのではないかと思います。私ももちろんその一人です。ナチズムを正義だと信じて行動した人が多くの人々と、現代の価値観が正義だと信じて行動する我々に大きな相違はないかも知れません。書いてるうちに堂々巡りの袋小路に入りそうになってきたので、そろそろやめておこうと思いますが、上に述べたような自問は忘れるべきではないでしょう。人は常に過ちを犯す可能性がありますが、私は正義を遂行している思った時、それが本当に正義なのかを立ち止まって考える作業をすることで少しは過ちを少なくすることができるかも知れません。アーレントの議論はナチズムという過去の出来事を扱ったものではあるものの、現代人にも直接関係するものではないかと思えます。

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断酒をして、瞑想をやってみた

私は躁鬱の傾向があるものですから、お酒を飲むとスパークしてとことん飲んでしまい翌日ほとほと後悔して自己嫌悪に陥り、自己嫌悪から逃れるために再びお酒を飲むという振り返ってみるとあまり酷い負のスパイラルに陥っていたのですが、断酒をしてみて気分が明るくなり、自己嫌悪からも逃れて一安心と思っていたところにふと気づいたのが、タバコとコーヒーの量が随分増えているということでした。

思うに、お酒で確かに何かを発散していた面もあり、お酒で発散しなくなった分無意識のうちにタバコとコーヒーに手が伸びているということなのかも知れません。ただ、幸いにしてまた飲みたいという欲求はないですし、飲んだ翌日の自己嫌悪はもう繰り返したくないですから、このまま飲まない人生を歩みたいのですが、タバコとコーヒーに対する自分の変化を見過ごすのも問題を先送りにすることになるなあと考え、で、たどり着いたのが「瞑想」というキーワードでした。

以前も時々思い出して瞑想するように心がけた時期もあったのですが、最近ばたばたと忙しくストレスばかりが溜まり、瞑想することすら忘れていました。瞑想は海馬の働きを活性化すると言います。意図的に脳を休ませ、結果として疲労回復、思考の発達、ストレスの軽減に良いらしいということ、自分で以前やってみて、ああ、これは確かにいいなあと思っていたのにそういったことを忘れていたのです。お酒を断つことが自分の目的と習慣になったので、そこから発想を辿り、そうだ瞑想があったと思うのはいい意味での自分の変化ですから、プラスの現象として受け入れて楽しみたいと思います。

で、少しやってみたのですが、瞑想をちっとやそっとやったところで雑念はどうしても浮かんできますし完全に何も考えないということはなかなかできません。それに3分程度やってみようと思って始めたものの、実際に3分やってみると長いと感じる…という、自分がまだまだ初歩の段階にいることに気づいたのでした。しかし、毎日10秒くらいなら瞑想にチャレンジできるのではないか、10秒は短いかも知れないがやらないよりはいいだろうとも思えました。知識提供、見解記述ブログであるにも関わらず、自己啓発的な内容の記事を入れ込んでいるわけですが、自分のブログなので、まあ、好きなことを書いていこうとも思います。最近は自己改革が自分のテーマになってきているようなので、しばらくは自己改革に取り組み、また経過などここで備忘も兼ねて積み重ねていきたいと思います。

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ヨーグルトを毎日食べると体調が良くなった

断酒は精神の安定に効果があると気づいた

飽くまで一般知識ですが、飲酒は人の心を抑うつへと誘導しやすいと言われています。もちろん反対にお酒を飲むと心が晴れやかになるという面もありますから、どちらが絶対ということはなのかも知れません。私は以前はお酒を飲んでうさを晴らすということをしていたのですが、際限なく飲んでしまうため、お酒をやめようと思い、ここしばらく全く飲まずに過ごすことができています。で、気づいたのですが、落ち込みにくくなり、葛藤することが明らかに減ってきたと感じます。

お酒を飲むと、過去の嫌なことを思い出し、あの時ああしておけば、それともこうしておけばというタラレバを考えてしまったり、取り返しのつかないことへの後悔に苛まれるということがままありました。以前はそれは自分の性格の問題かあるいは運勢の問題で、お酒を飲むこととは関係ないと考えていましたし、際限なく飲んでしまうほど自分が荒むのはそういう過去があったからだと考えていました。ただ、お酒を飲む自分がすさんでいるという自覚はあったので、そういうすさんだ自分が嫌だなあという思いがあって、健康もかなりむしばまれているに違いないという不安もあり、お酒を断ってみたのですが、以前の自分とは大きな違いがあるということに気づきました。

それは何かというと、以前は朝起きたときにまず過去の不愉快なことを思い出し、一日かけてその心境を修復し、心境修復にエネルギーを使ったのでお酒を飲むというサイクルだったのですが、お酒を断ってからは朝起きた時の心境がニュートラルなもので、特に何かを考えることもなく、あ、朝だな。起きようかという心境で一日の始まりを迎えることができたということです。このことに気づいて私は驚愕しました。嫌な気分だからお酒を飲んで忘れようとしていたのに、実はお酒を飲むから嫌な気分が増幅されているという逆の視点を手に入れた自分自身にも驚愕してしまいました。睡眠の質も明らかに違い、今の方が良質な睡眠を得ることができていると実感しています。

お酒を飲まなければお金を節約できますし、お酒で失敗することもありません。心が荒んだ醜態が人に見られることもありません。健康にもいいですし。それだけでもお酒を飲まないメリットは大いにあると思いますが、更に心理的な安定を得ることができるのであれば、もはやプライスレスといったところではないかと思います。このような心境に自分がなり得ると気づいただけでも、感謝したいような気持ちになりますねえ。

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ヨーグルトを毎日食べると体調が良くなった

レヴィ・ストロースの脱近代な『野生の思考』

最近はあまりポストモダンというような言われ方はしなくなってきましたし、構造主義という言葉も以前ほどは流行っていないと思います。とはいえ、現代人の教養みたいな感じで語り継がれ、読み継がれ、且つポストモダンの元祖というか構造主義の元祖というか、その親分みたいな超絶大御所がおなじみレヴィ・ストロースです。

彼は第二次世界大戦に従軍経験もありますから、近代の限界というものを実感として持っていた人だったと言えるかも知れません。近代は大量生産、技術革新、たゆまぬ増大、たゆまぬ成長をその大原則として持っています。大量生産と飽くなき成長は近代の持つ宿命とすら言えるかも知れません。そして現代人、または近代人は古い因習を捨ててその近代というシステムに順応し、そこを生きるということこそより価値の高いものだと信じてしまうものなのかも知れません。成長と自由経済的資本主義が近代の一方に存在するとすれば、そのもう一方に資本家を否定し再分配を重視する社会主義、共産主義が存在します。自由経済と共産主義経済のどちらがいいということではなく、どちらもそれなりに近代的な「完成」を目指して突き進むことをその宿命と信じられていたかも知れません。そしていつか完成するという前提で完成度を上げることに全力が注がれてきたとも言えるかも知れません。その過程にはファシズム、戦争、革命もあって、人間は進歩し、やがて世界は完成すると考えられていたかも知れません。

しかし、レヴィ・ストロースはそのような世界観から脱却せよというわけです。何故なら、人間は進歩しなくても、完成しなくても、生まれた時に既に完全な存在だからです。ヨーロッパの近代は確かに生産性を上げましたが、それは生産性のみに注目しているからであって、世界各地の非ヨーロッパの諸地域、諸民族もそれぞれに完全性を持っていて、儀礼や神話のようなものは前近代的で非論理的なものではなく、当然に合理性と妥当性を有しており高度に世界を認識する体系をそれぞれに持っていると彼は考えたわけですね。

もちろん、今どき、ヨーロッパ世界から発信されたものには高い価値があって、それ以外の世界から発信されたものの価値が低いと信じている人はいないでしょう。ですが、それを思想・哲学の観点から世界にばーんとぶっ放した元祖みたいな人がレヴィ・ストロースなわけですから、我々が非ヨーロッパ人であっても、だからと言って私たちの価値は棄損されないと信じることができるのも、レヴィ・ストロースの間接、直接のご利益を受けていると思っていいのではないかとも思います。日本でも戦争中に『近代の超克』が議論されたこともありましたが、実際には何を議論しているのかよく分からないというか、ヨーロッパ近代を否定するために結局は戦時中の知識人エリートはヨーロッパ近代の概念と用語しか持ち得なかったという反省点があるように思えます。その点、レヴィ・ストロースは突き抜けていたとも思えるわけです。サルトルともやり合うわけです。

もちろん、それにはヨーロッパが二度の世界大戦で疲弊したことが大きな背景にあると思います。生産性が向上した結果、人間を大量に死に追い込むこの世界はなんなのかという根本的な疑問があったに違いありません。フランスは戦勝国と言っても微妙な勝ち方で、ドゴール将軍の自由フランスが存在した一方で、ヴィシー政府はナチスと協力してイギリスと戦争していたわけですし、パリ解放の時にアイゼンハワーがいい人だったのでドゴール将軍に勝ちを譲ったという一応、戦勝国の体面はぎりぎり保ったというあたりの機微がレヴィ・ストロースをして脱近代を意識させたのかも知れません。日本ではアメリカというザ・近代に圧倒されたという実感があったでしょうから、むしろ近代信奉へと戦後は舵を切ったように思えますし、ぶっちぎりで勝ったアメリカもやっぱり俺たちの近代は正しいぜという風になっていったわけですが、フランスのそのあたりの微妙さがレヴィ・ストロースを生んだ土壌だったのかもとも思えます。

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アニメ映画『打ち上げ花火上から見るか下から見るか』は大人が見ても勉強になるはず

『打ち上げ花火上から見るか下から見るか』という作品は、私の学生が「とても良かった」と言っていたので一度見てみようと思っていたのですが、最近ちょっとチャンスがあってようやく見ることができました。

絵もきれいですし、思春期のなんとも言えない心の動きが描かれるという点では凄いなあと、さすがは岩井俊二さんだとも思うわけですが、もう一回見たいと思うかどうか、何度も見たいと思うかどうかは、なずなというヒロインにリビドーを感じるかどうかによるのではないかという気がします。

ヒロインのなずなは学校の制服、スクール水着、白いワンピースと次々と着せ替え人形のように衣装を替えていくわけですが、それぞれ違った雰囲気があり、実年齢よりちょっと大人っぽく見えるという設定もなかなかにくいものがあって、こんな感じの女の子に魅かれるという人がいれば、ばっちりはまるというか、繰り返して見たくなる、その都度、わーーーと心の中が混ぜっ返されるみたいになってとりとめをなくしてしまうのが心地よくてまた見るという循環に入ることができるのではと思います。

意地悪な見方をすれば色仕掛けに引っかかっているわけですが、映画やアニメで色仕掛けにかかるくらいどうということもありません。好きな人にはたまらないのではないかと思います。

この作品が凄いなあと思うところはターゲットをティーンエイジからヤングアダルトに絞りきり、それ以外の鑑賞者については顧慮しない、大人が見たくないのであれば見なくていいという徹底した態度ではないかと思います。なずなはお母さんの再婚に強い反発心を持ち家出することを企図します。もちろんお母さんは容赦ありません。実の親ですし、同性の親子です。なずなが何をしようと泣き叫ぼうと、引きずってでも断固家に連れ帰そうとするわけです。お母さんの再婚相手のおじさんもお母さんに協力し「悪い大人」の一角を形成しています。

で、なずなを救いたい(顕在的願望)、そしてなずなと結ばれたい(潜在的願望)と思う男子がいろいろ捨てて頑張るというわけです。私も男子の気持ちが分かりますから、そういうシチュエーションになったら頑張る以外の選択肢はおそらく存在しないでしょう。しかし、無残には男子は強大な大人の前に敗れ去ります。しかし、なんでか分かりませんが、きらきら光る球を全力で投げると「もしもあの時」に戻ってやり直すことができるというタラレバが現実化するという夢のような状況が生まれます。球さえ投げれば「もしもあの時」に戻れますから、何回でも無制限です。メルモちゃんのキャンディとかドラえもんのタイムマシンとかなんでもありな世界になるわけです。人生にタラレバはない。人生は後戻りできない。結果を受け入れ、ただ前に進むべしと私はついつい思ってしまったのですが、それは無粋な大人の考えかも知れません。

ティーンエイジからヤングアダルトの時期は「もしもあの時、ああしていれば、こうしていたら」というタラレバに強い憧れを持つものだと思います。私もヤングアダルトのころはそうでした(今はヤングではない)。そういった若い人たちだけにターゲットを絞り、その世代の人たちの心をぐわっと鷲掴みにするこの作品は、大人が見ても勉強になるのではないかと思えます。共感できるかどうかは評価が分かれると思いますが、それを越えて人の心を掴むとはどういうことかという勉強になる気がします。

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ヨーグルトを毎日食べると体調が良くなった

健康管理の目的でヨーグルトを一日一個食べるようにしてみたのですが、体調にいい効果があると実感してきましたので、ちょっとここで書いてみたいと思います。結論から言うと便通がよくなり、爽快ですからその分、体も軽やかに動けるようになったと感じるわけです。

ヨーグルトは達人になると自家製で作るとか、そういう凄い人もいますけど私は普通にコンビニやスーパーで売ってる市販のタイプを食べてます。以前、腸内環境を良くしたいと思って乳酸菌のサプリを使ってみたことがあります。ヨーグルトよりサプリの方がコスパがいいと思ったからなんですね。ですが、当該のサプリを使ってから体調が悪くなり、水便が出たりするようになってしまいましたので、あ、これは俺に合わないんだなと思ってしばらくしてやめてしまいました。

で、ヨーグルトに戻るわけですが、市販のヨーグルトについては賛否両論あるようです。というのも確かに乳酸菌を摂取するのは体にいいということで議論は一致しているようなのですが、市販のヨーグルトの場合、添加物の不安があるとか糖が入っているのが良くないとかいう意見もあるようです。私は文系人間ですから、そこについて深く立ち入った議論をすることはできないのですが、実感ベースで言うと、そういう不安要素があったとしても市販のヨーグルトを食べることで実際に体調が良くなったと感じますから、このままヨーグルト一日一個ペースでやっていこうかと思います。

ヨーグルトは安い場合は一個100円ほどで買えますが、毎日のことですから出費がちょっと…という意見があるかも知れません。私の場合、お酒を飲まなくしてその分ペットボトルの水を飲むようにしましたが、お酒とおつまみにかける出費を考えれば全然安いものです。お酒を飲む場合、1か月のヨーグルト代を1日で使ってしまいます。ましてや体調が良くなるわけですから効果的な投資と思えます。水については「コンビニのペットボトルには防腐剤が入ってるから不安」という意見を読んだことがありますが、水道水よりはもしかすると良いかも知れず、ミネラルウオーターの方がおいしいと個人的には思いますし、ペットボトルを使うと一日にどれだけ飲んだか一目瞭然ですので、私は少し迷ったもののお水を買うことにしています。それでもお酒を飲むことを思えば安い安いと思えるわけです。お酒を飲まないだけで出費も一機に減りました。ちょっと私はお酒を飲みすぎる傾向があって、相当それにお金を使ってしまっていたのです。今はそれがなくなって違いに大きく驚いています。ありがたいっすね。ということで、ヨーグルトを食べると健康にいいのではというお話でした。

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お酒をしばらくやめてみた‐替りに水を飲んでみた

この数か月、忙しくてストレスも多かったものですから、ストレス解消についついお酒に走ってしまい、慢性的に体調も悪く、睡眠の状態も良くないという悪循環にはまりこんでしまっていました。

で、疲れを癒そうとマッサージに行ってみたのですが、足も顔もむくんでるし、顔色も悪い。ストレスですか?と言われたので、「ええ、そうなんです。で、寝つきが悪くてついついお酒を飲みすぎてしまうんです」と話したところ、「お水をたくさん飲んでください。デトックスできますから。あと、お酒をしばらく飲まないのはどうですか?」と言われたものですから、そのようにしてみたわけです。

結果、睡眠の質が格段によくなり、歩いたり立ったりするのも楽で、体調はかなり改善されました。やはりお酒はほどほどにというか、できれば飲まないくらいのほうがいいかも知れません。エーコ先生の『薔薇の名前』では、修道院長が修道士たちに「ワインを飲んではならないと律さなくてはいけないところが(最近の若い奴らはなってないから)、ワインを飲みすぎてはならないと言わなくてはならない」みたいな愚痴をこぼす場面がありますが、実際に数日お酒をやめてみて、なるほど、これは飲まないほうがお得だと思うに至ったわけです。足のむくみはかなり改善し、体重も少々減ったように思います。どこかで読んだ話になってしまいますが、お酒を飲むとその分解に体力が使われるので、睡眠に必要な体力が奪われるみたいなことを読んだことがあります。お酒を飲まなければ、お金もかからないですから、財布にも体にも優しいというわけです。

ミネラルウォーターはお金がかかるし、水道水もちょっと…という考え方もあると思いますが、水はもちろん酒より安い!わけですから、ミネラルウォーターで全然オッケーなのでは?と思います。禁煙に成功した人が、たばこを吸いたくなったら水を飲むと話してくれたことがありますが、たばこよりも水の方が健康にいいことは確かでしょうから、積極的に水を飲んでその他の嗜好品は減らしていくというのが21世紀型のライフスタイルなのかも知れません。で、嗜好品を捨ててもっと水を飲もう!水こそ最高の嗜好品とも思ったのですが、仕事柄、日中、あまり水を飲みすぎると授業中にトイレに行きたくなるというできるだけ避けたい現象と向き合わなくてはいけません。私の場合は夜寝る前に、お酒の替りに水を飲むのがちょうどいいかも知れません。

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映画『ダンケルク』とゴジラ

第二次世界大戦では、前半では枢軸国側の圧倒的優位に物事が進んで行きます。近代戦争は「資本力」が物を言いますから、冷静に考えれば資本力に劣る日本・ドイツが、世界一金持ちのトップ2を争うアメリカ、イギリスと戦争して勝てるわけはないのですが、少なくとも前半に於いては気合や戦術、集中力みたいなもので枢軸国が圧倒し「もしかしたら、日独が勝つかも」という幻想のようなもの、または不安のようなもの(立場によって違うでしょう)が世界に広がっていったと言えます。

そのドイツ圧倒的優位を象徴的に示すとともに、ゆくゆくはドイツの敗北をも予言することになった戦いが、ダンケルクの戦いです。フランスのダンケルク海岸に英仏が追い詰められ、逃げ場がなくなるわけですが、ドイツ軍がじわじわと包囲網を縮小していく中、海を渡ってイギリス側へと撤退する、史上最大規模の撤退戦であったとも言えます。ドイツ軍にとっては包囲戦で、英仏軍にとっては撤退戦なわけです。

で、ダンケルクの戦いでのイギリスまでの撤退作戦をダイナモ作戦と呼ぶわけですが、映画『ダンケルク』では、この撤退戦の難しさ、厳しさ、そして最後の鮮やかな成功を描いています。この映画をみて気づいたのは、英仏にとっての敵であるドイツ兵が全く、ほぼ完全に登場しないことです(最後にちらっと物語の展開上、やむを得ず、人影程度に、個性を感じさせない程度にドイツ兵が映りますが、それだけです)。

過去、第二次世界大戦関連の映画は何度となく制作され、とりわけドイツ軍の将兵を如何に描くかというのが演出の腕の見せ所のような面があったように思います。たとえば『バルジ大作戦』では、ナチスが理想とした金髪の沖雅也みたいに顔立ちの整った将校と、彼の身の回りの世話をする老兵の姿は、それぞれに個性を持ち、人間的感情を持っていることを表現することに演出サイドは力を入れていることが、一回でも見ればわかります。ナチスの将兵は時に冷酷に、時に人間的に、時に滑稽に、場合によっては優しい人として描かれたことも少なくはありません。どのように描くかは、演出の考え方次第ですが、ナチスという強烈なイメージを残した歴史的事象であるだけに、腕の見せ所でもあったと言えます。

ですが、ダンケルクでは彼らの姿は先ほど述べたように、ほとんど描かれません。ドイツ軍の飛行機は出てきます。Uボートも話題としては出てきます。ドイツ軍の砲弾の雨あられは描かれます。そのようなメカニックなものはふんだんに描かれるわけですが、人間としては登場しません。

このような演出には、実際には見えない敵が迫っているという不安を表現するのに効果があるように思えますが、敢えて言えば、ジョーズやジェイソンのような得体の知れない存在、日本の場合で言えば人間ではない敵という意味でゴジラのような素材としてドイツ軍を使っているという見方もできるのではないかと思います。尤も、ゴジラは鳴き声に哀切が籠っており、既に指摘されているようにゴジラは南太平洋で死んだ日本軍将兵たちのメタファーと捉えられるのが一般的ですから、ゴジラが必ずしも相応しいたとえではないかも知れないのですが…。

さて、ゴジラをたとえに出すのが正しいのかどうかはともかく、私はこの映画が戦争映画として成り立つのだろうかという疑問を若干持ってしまいました。戦争映画は敵と味方がそれぞれに人間であると描くことに、ある種の見せ場のようなものがあるのではないかという気がしてならないからです。ガンダムでも人気があるのは連邦軍よりもむしろザビ家の人間関係やシャアとセイラの兄妹愛の方にあるように思えますし、『スターリングラード』では冷酷で凄腕なドイツ軍将校が最後に負けを認める際に帽子を脱いで死を受け入れるというある種の騎士道精神を挟み込んでくるわけですし、『風の谷のナウシカ』でもクシャナの人物像は大きなウエイトを占めているわけです。

そう考えると『ダンケルク』という映画は戦争映画ではなくアクション映画なのではないか、或いはある種のサイコホラーなのではないかと言う気がします。それが悪いというわけではありません。確かに見応えのある映画ですから、一回は見てもいい映画だと思います。ただ、戦争映画としてはちょっと物足りないかなあと思ってしまいます。

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