映画『イーダ』のおばさんの罪と罰

ポーランド語の映画『イーダ』は、修道院でつましく禁欲的な生活を送るイーダという若い女性が元検察官で裁判官の親戚のおばさんに呼び出され、修道院長の許可を得てイーダは世俗の世界を見て、考えようによっては人間的な成長をし、修道院の世界へと帰っていくという作品だ。

イーダが実はユダヤ人で、家族の大半がナチスのホロコーストによって失われたという事実と、イーダが酒とたばこと男を覚えてそれでも修道院への生活へと帰っていくというシークエンスに注目してしまう作品なため、おばさんのことが少し霞んでしまうが、そもそもイーダが酒とたばこと男を試してみるのもおばさんに影響されてのことなので、作品理解の上で絶対に外せないのがこのおばさんの存在だと言える。

おばさんは超絶エリートで検察官を経て裁判官にまで上り詰めるが、酒浸りでたばこはいつもふかしているし、男癖も悪い。なぜかくも社会的に成功した人物がそんなだらけた生活に堕ちてしまっているのかについては大きく二つの理由が存在する。一つはホロコーストの結果、息子が行方不明なことと、政治犯を二度死刑に追い込んだことが彼女を苛んでいる。

彼女はイーダを連れて息子の行方を確認する旅をするが、やがて詳細が明らかになり、息子の遺体が埋められた場所も確認し、生きているとも死んでいるとも知れなかった息子がやはり、予想されたこととは言え、死んでいたことがはっきりし、自ら死を選ぶ。もし、息子の死を確認したことからの絶望感により彼女は死を選んだのだと考えるのだとすれば、それは少しだが作品理解が充分だとはおそらく言えない。彼女は政治犯を二度、死に追い込んでいる。息子が生きていないことを確認した後、彼女はおそらく自分が死に追い込んだ政治犯と息子にどのような違いがあるかを考えたのではなかろうか。息子が死んだ理由はユダヤ人だからという意外にはない。言うまでもないことだが、ユダヤ人であることは罪ではないし、ホロコーストは正当化できない。だが、政治犯の場合も、果たしてそれが死に値する罪だっただろうかと言えば、考え方の問題に過ぎないので、死罪は比較衡量の観点から言っても重すぎるに決まっている。つまり、理不尽な死を与えられたという意味で彼女の息子と政治犯は共通しているのである。彼女は、息子に死を与えた者は決して赦されないと考えたに相違なく、その帰結として政治犯に死を与えた自分も赦されざる罪を犯したと認識し、自らを裁き、死を宣告し、また自らそれを執行したのである。彼女は自分の息子を死に追い込んだものを非難する権利を担保するために、自分が政治犯を死に追い込んだ罪を引き受けたのだとも言える。そう思うと、この作品はイーダが主人公ではあるが、むしろおばさんの心境をどれだけ想像できるかによって理解が違ってくる作品なのだと言うことができるだろう。

おばさんが自ら命を絶った後、イーダはおばさんの来ていた服を着て、酒とたばこと男を試してみる。ホロコーストの結果、家族を失ったという点ではイーダもおばさんも間違いなく被害者なのだが、おばさんがずっとそうしていたように、酒とたばこと男でその心の苦しみから逃れ得るものなのかどうか、実験してみたと捉えるのが正しいのではないかと思える。そして彼女は酒とたばこと男のような享楽的な手段では解決できないと結論し、修道院の生活へ戻る方を選んだと説明できるのではないかと私には思えた。




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