チリ映画『盲目のキリスト』で人と信仰の関係を考える

南米の荒野の若い男は、人の内面に神が宿っていると説いて歩く。教会の権威を否定し、個人のレベルで信仰を維持できるという発想法はルターの宗教改革に似ているが、いわゆる神秘主義的なもので、南米のようにカトリックの勢力が強い地域ではおそらくそれなりに挑戦的な説法と言えるはずだ。

映画で撮影された南米の荒野に暮らす人々は貧しい。とことん貧しい。贅沢はもちろん存在しないが、美しいものも存在しないし、知恵とか教養とかそういったものとも無縁な生活を送っているようにも見える。この映画に『母をたずねて三千里』のようなエスパニョールなメルヘンはない。だが、愛は存在する。神が内面に宿っていると主張する男の話に耳を傾け、人々は彼をイエスのように信仰し、奇跡を見せてほしいと頼む。だが彼には親切心で人を助けることができるだけで、奇跡を起こすことはできない。ただけが人や病人、そして美しくない女性に寄り添うことだけをコツコツとやり続ける。物理的な奇跡は決して起きないが、寄り添われたことにより人の心には救済がもたされるし、それには彼が愛を分け与えた以外の理由は存在しない。ただ、観衆は南米の荒野をイスラエルやヨルダンの荒野に重ね合わせ、実際のイエス・キリストも本当はこのような青年だったのではないかという想像を膨らませることはできる。

何かに似ていると思い記憶を辿ってみたところ、遠藤周作先生の『イエスの生涯』のイエス像にそっくりだ。『イエスの生涯』(『死海のほとり』でもオッケー)のイエスも、弱い人、貧しい人、病める人に寄り添い、ともに涙を流すことができるだけで、つまり愛を分け与えることができるだけで、奇跡を起こすことはできない。時に民衆は奇跡を起こすことのできないただの社会不適合者に怒りを覚え、石以って追い出そうとすることもある。

或いはクリストファー・マーレイ監督は『死海のほとり』から想を得てこの映画を作ったのではないかとすら思えてくるほどに両者はよく似ている。

『福音書』に描かれるイエスは十字架にかけられることによって使命を全うし、人類の罪を贖うが、この時イエスが奇跡を起こして助かることができなかったのと同じように、この映画の主人公の青年も、奇跡を起こそうと試み挫折感を味わい、そして彼なりに復活する。聖書のイエスは3日後に生き返るが、映画の主人公は父と再会し、神がかりではない普通の人間としてその後の人生を生きることを決意するという流れになっている。

彼は裸足で荒野を歩いていたが、終盤で靴を履くことにより普通の人間として生きることを選んだことが明白に示されていると言えるだろう。
この映画では貧しい人、すさんでいる人が信仰を求め、救いを求める姿が描かれるが、信仰とは即ち普通の人間として生き、壮大な理想のためにではなく身近な人々を愛することで見出すことができるというメッセージがあるように思える。

人文科学を突き詰めると、人とは何かを考えることに向き合わざるを得ないが、私は『ファニア歌いなさい』と合わせて観ることで、より深くそれについて考えることができるのではないかと思えた。『ファニア歌いなさい』では、近代ヨーロッパの文明世界で生きる人が、どのようにして精神が破壊されていくかを描こうとしている。一方で『盲目のキリスト』ではそのような文明や叡智から見放されたように見える、或いは文明の周縁に追いやられたように見える人の精神が如何にして再生されるかを描こうとしている。

神がかりの青年が奇跡を起こせず挫折した時、彼にイエスの物語を説く人物が現れるのだが、そのイエスは我々がよく知っている、繰り返し語られたベツレヘムのイエスではなく、映像に映し出されるのはアメリカ原住民の人々の衣装をまとった人々とイエスの姿だ。伝統的なイエス像にとらわれず、人それぞれ自由に救世主のイメージを抱くことができるという制作者の意図を感じられるが、もしかすると救世主はやはり人の心に自由に宿るもので、魂の救済は自分次第なのかも知れない。




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