BC級戦犯裁判‐岡田資中将のケース

戦後、東京裁判でA級戦犯が裁かれましたが、ほぼ同時進行、場合によっては少し遅れてBC級戦犯裁判もアジア太平洋各地で行われました。果たして戦勝国により敗戦国を裁く裁判が公平公正なものになり得るかという議論はもちろんありますが、大変に興味深いケースとして終戦時東海軍司令だった岡田資中将の裁判があります。

終戦前の半年間はアメリカ軍による絨毯爆撃、無差別爆撃が日本各地に対して行われたわけですが、民間人や民間施設に意図的な攻撃を加えることは戦争犯罪だという認識に立ち、岡田中将は撃墜されてパラシュート降下した米兵を捕虜としてではなく戦争犯罪人として裁き、死刑の宣告をして執行させたということが問題になりました。

但し、死刑の宣告を下す手続きが不公正なものであったということが問題にされました。岡田中将は1945年7月に軍律会議の略式手続きで死刑の決定をしたわけですが、死刑という重い刑に対し弁護士もつかない軍率会議をしかも略式手続きで進めてしまったということで、適正手続きを経ていないということが問題視されたわけです。

軍律会議は軍法会議とはまた違うもので、戦時下の慌ただしい中、軍司令官が行政権と司法権も掌握して軍律を定め、軍律違反者には軍司令官が判決を下すことができるという三権分立もなにもあったものではないという仕組みであり、弁護士もつきませんから、検察側はその問題を指摘し、というかその問題に絞って被告を攻撃するという方針で臨みます。

一方、ここが大変に興味深いことですが、被告と弁護人は①責任は軍司令官一人にあって、部下には一切責任がないという立場を貫き、②激しい爆撃下で略式手続きをするのが精いっぱいだった、当時としては最善を尽くしたということを主張し、③激しい爆撃下というのがどれくらい激しかったかということを立証するために、当時のアメリカ軍の爆撃が無差別爆撃で戦争犯罪に値するということを立証するという構えをとりました。

岡田中将はその裁判の時に部下に責任を押し付けることなく、自分一人が全てを引き受けるという姿勢で臨んだことから、人格的に日米関係者双方から高く評価され敬意を集めたと言われています。また、岡田中将のみが死刑判決を受け、実際の執行にかかわった部下たちが死刑判決を受けなかったことは、実質的に被告・弁護側勝利とも言える判決だったと言え、知る人ぞ知る、希少なケースであったと言えると思います。

このような実質勝利を勝ち取ることができたのは、被告・弁護側の戦略が非常にうまくヒットを当てたということがあると思います。第一に、岡田中将が自分から「全て私の責任だ」と正面から主張したことは、裁判委員(米軍の法務関係者で、事実上の判事)に対する印象を良くしたようですし、検察もその態度には好感を持ったと言われています。担当検事は判決後に減刑嘆願の文書に署名までしたそうですから、岡田中将個人に対する感情は良かったのでしょう。次に、軍律会議の略式手続きが公正だったかどうかを争点にしようとしなかったこともいい戦略だったように思います。ここは私の考えになりますが、弁護士のつかない軍律会議の略式手続きで死刑判決を下し、しかも実行するというのははっきり言ってかなり乱暴のように思えます。被告・弁護人サイドは激しい戦時下であったので、最善を尽くしたと述べつつ落ち度はあったことも認めます。その上で、戦時国際法違反になる無差別爆撃が如何に酷かったかということを証拠や証人を集めて立証し「適正手続きをとっていたとしても、極刑になっただろう」と検察や裁判委員に思わせることに成功したことです。結果としては、岡田中将の落ち度は法の適正手続きの観点から見てあまりに簡単に進め過ぎたことだけが問題で、量刑として非道なものではないという印象を与えることになりました。

それでも岡田中将に死刑判決が下りたのは、無抵抗のアメリカ兵が殺されたこと自体は事実であるため、米国世論を納得させるためだったと見ることもできますが、関係した他の被告たちが寛大な処分が下された背景には既に冷戦が始まろうとしていた時代背景も関係があったようです。終戦直後は悪の枢軸を担った日本帝国の悪い奴らに慈悲は不要という心理状態があったに違いないのですが、アメリカの立場としては新しい脅威としてソビエト連邦が浮かび上がり、その脅威が日を追って濃くなっていく中、日本の再武装を望むようになり始めており、再武装に必要な軍経験者を次々と処罰している場合ではないという変化が起きてきました。死刑判決はなるべく少なくし、死刑を宣告した後も終身刑に減刑し、将来的な釈放にも含みを残すというように方針が変化したため、BC級裁判は結審が遅いものほど寛大な判決が下るようになったようです。ここは私の想像になりますが、A級戦犯の裁判が終わり、刑が執行された後は、アメリカ世論もある程度鎮静化してさほど厳罰を望まなくなったということも大きいかも知れません。

岡田資中将の場合は減刑されることなく、刑が執行されてしまいましたが、中将本人は相当覚悟が決まっていたらしく、裁判中から日蓮宗を基礎にした仏教研究に力を入れ、自身で理論化を進めて行ったそうです。死を受け入れるために、自分なりの死生観を作り上げる必要がきっとあったのだと思います。彼の仏教理論と、スガモプリズンで教誨師をつとめた花山信勝氏の理論とは対立もあったそうですが、東京大学の教授の花山氏と対立できるだけの理論武装をしたというのはそれだけでも凄いように思います。スガモプリズンの死刑囚で間では花山氏の指導よりも岡田中将から指導を受けたいという声も少なからずあったようです。花山氏の教えが仏様にすがって極楽浄土へ行けるのだという他力本願的で慰め要素が強かったのに対し、自分がより仏陀の精神に近づけるよう精進し、刑に向き合い受け入れるという岡田中将の姿勢の方が現実に執行に直面する囚人たちの心を掴んだのかも知れません。

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