映画『ダンケルク』とゴジラ

第二次世界大戦では、前半では枢軸国側の圧倒的優位に物事が進んで行きます。近代戦争は「資本力」が物を言いますから、冷静に考えれば資本力に劣る日本・ドイツが、世界一金持ちのトップ2を争うアメリカ、イギリスと戦争して勝てるわけはないのですが、少なくとも前半に於いては気合や戦術、集中力みたいなもので枢軸国が圧倒し「もしかしたら、日独が勝つかも」という幻想のようなもの、または不安のようなもの(立場によって違うでしょう)が世界に広がっていったと言えます。

そのドイツ圧倒的優位を象徴的に示すとともに、ゆくゆくはドイツの敗北をも予言することになった戦いが、ダンケルクの戦いです。フランスのダンケルク海岸に英仏が追い詰められ、逃げ場がなくなるわけですが、ドイツ軍がじわじわと包囲網を縮小していく中、海を渡ってイギリス側へと撤退する、史上最大規模の撤退戦であったとも言えます。ドイツ軍にとっては包囲戦で、英仏軍にとっては撤退戦なわけです。

で、ダンケルクの戦いでのイギリスまでの撤退作戦をダイナモ作戦と呼ぶわけですが、映画『ダンケルク』では、この撤退戦の難しさ、厳しさ、そして最後の鮮やかな成功を描いています。この映画をみて気づいたのは、英仏にとっての敵であるドイツ兵が全く、ほぼ完全に登場しないことです(最後にちらっと物語の展開上、やむを得ず、人影程度に、個性を感じさせない程度にドイツ兵が映りますが、それだけです)。

過去、第二次世界大戦関連の映画は何度となく制作され、とりわけドイツ軍の将兵を如何に描くかというのが演出の腕の見せ所のような面があったように思います。たとえば『バルジ大作戦』では、ナチスが理想とした金髪の沖雅也みたいに顔立ちの整った将校と、彼の身の回りの世話をする老兵の姿は、それぞれに個性を持ち、人間的感情を持っていることを表現することに演出サイドは力を入れていることが、一回でも見ればわかります。ナチスの将兵は時に冷酷に、時に人間的に、時に滑稽に、場合によっては優しい人として描かれたことも少なくはありません。どのように描くかは、演出の考え方次第ですが、ナチスという強烈なイメージを残した歴史的事象であるだけに、腕の見せ所でもあったと言えます。

ですが、ダンケルクでは彼らの姿は先ほど述べたように、ほとんど描かれません。ドイツ軍の飛行機は出てきます。Uボートも話題としては出てきます。ドイツ軍の砲弾の雨あられは描かれます。そのようなメカニックなものはふんだんに描かれるわけですが、人間としては登場しません。

このような演出には、実際には見えない敵が迫っているという不安を表現するのに効果があるように思えますが、敢えて言えば、ジョーズやジェイソンのような得体の知れない存在、日本の場合で言えば人間ではない敵という意味でゴジラのような素材としてドイツ軍を使っているという見方もできるのではないかと思います。尤も、ゴジラは鳴き声に哀切が籠っており、既に指摘されているようにゴジラは南太平洋で死んだ日本軍将兵たちのメタファーと捉えられるのが一般的ですから、ゴジラが必ずしも相応しいたとえではないかも知れないのですが…。

さて、ゴジラをたとえに出すのが正しいのかどうかはともかく、私はこの映画が戦争映画として成り立つのだろうかという疑問を若干持ってしまいました。戦争映画は敵と味方がそれぞれに人間であると描くことに、ある種の見せ場のようなものがあるのではないかという気がしてならないからです。ガンダムでも人気があるのは連邦軍よりもむしろザビ家の人間関係やシャアとセイラの兄妹愛の方にあるように思えますし、『スターリングラード』では冷酷で凄腕なドイツ軍将校が最後に負けを認める際に帽子を脱いで死を受け入れるというある種の騎士道精神を挟み込んでくるわけですし、『風の谷のナウシカ』でもクシャナの人物像は大きなウエイトを占めているわけです。

そう考えると『ダンケルク』という映画は戦争映画ではなくアクション映画なのではないか、或いはある種のサイコホラーなのではないかと言う気がします。それが悪いというわけではありません。確かに見応えのある映画ですから、一回は見てもいい映画だと思います。ただ、戦争映画としてはちょっと物足りないかなあと思ってしまいます。

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