谷崎潤一郎『陰影礼賛』と自己嫌悪

谷崎潤一郎の著作である『陰影礼賛』は、西洋化に対する憎悪と日本文化に対する潜在的な自己嫌悪に満ちた文章ではなかろうかと私には思える。

冒頭、谷崎は和風の憚り(お手洗い、トイレ、御不浄のこと)を例に挙げ、その明媚なところを礼賛する。西洋的な真っ白な御不浄には和風のそれの持つ味わいにどうしても欠けるというわけである。

それに引き続いて谷崎は日本の伝統芸能、食器、建築などに陰影がどれほどの演出効果を果たしているかを力説しているが、読者としてはなぜ最初にお手洗いの話を読まされなければなかったのかがどうしても頭から離れなくなってしまう。いかなる文章であれ、大抵の場合、文章の冒頭がその文の命であるとすれば、谷崎には谷崎なりに御不浄から話を始めなければならない理由があったに違いない。

果たして、何故に谷崎は御不浄から話を始めたか。一つの見方として、谷崎は御不浄から能、伝統芸能、食器に至るまで遍くその美意識が通底しているということを言いたかったのかも知れないと言うこともできる。だが果たしてそれだけだろうか?

たとえば『春琴抄』では春琴は目が見えないという不完全さを持っているが、不完全であるが故に他人にはまねのできないコケティッシュさを持ち合わせ、あやしげに人を魅了する人物として描かれている。春琴抄を読んで彼女の容貌を想像し、そのコケティッシュさがおそらくは自分の想像を超えるであろうと思われてため息をついた人は多いはずだ。だが春琴は最後、何者かによって就寝中に熱湯を顔にかけられ、その妖しい美しさを失う。

『細雪』の雪子と春琴はある面でよく似ている。雪子は美しいが行き遅れの「年増」であり、最後はわざわざ書く必要があるとは思えないのに、雪子が何度となく腹をこわす場面で終わっている。これは『痴人の愛』にも共通する女性像だ。『痴人の愛』に登場するナオミはコケティッシュな可愛い美少女だが、前半から着ている服の襟首に垢がたまるなどの描写があり、彼女が決して神などではなく人であるということが暴露されている。しかも成長するに従い世間を知るに従って、慶応義塾の学生と浮気をし、更には外国人の恋人を渡り歩く。この段階で当初の偶像は完全に破壊されているが、主人公の譲治はそれを承知で彼女を養い続けるのである。痴人とはアホを意味するから、まさしくアホな譲治が浮気女のナオミから離れることができずにいるという物語になっている。

さて、陰影礼賛に戻りたいが、『春琴抄』『細雪』『痴人の愛』で見てきたように、谷崎には美しい偶像を破壊したいという衝動があることには議論の余地はないと思える。しかし『陰影礼賛』ではまず美しく書いて後で堕落させるといういつものパターンではなく、最初から御不浄を書き、それを賞賛するというやり方を用いている。平たい言葉を用いるならば、その絶望感はより深刻なものだと言わなくてはならない。日本文化を後から堕すのではなく、最初から堕すのだから実は他の作品に登場する彼が愛してやまない女性たちよりも更に救い難い惨状に日本文化は立ち至ってしまったとする嘆きを彼が書いているように思えてならないのだ。

日本文化は彼と直結していたに価値観に相違ないから、彼は自己嫌悪の表現として、日本文化を御不浄の描写から始めたのである。日本文化が堕落してしまったのは西洋文明の恩恵を不覚にも受けてしまったからであると谷崎考えていたに違いない。その西洋への憎悪の表現として最後のくだりでは西洋文明が生活に入り込んだことを象徴する室内装飾を敢えて全部剥ぎ取りたいという衝動に駆られる心境を、著者は告白しているのだから。

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