夏目漱石の『文芸の哲学的基礎』‐分かりやすい明治小説解説

夏目漱石が東京美術学校で行った『文芸の哲学的基礎』という講演は、明治小説とはどういうものかを理解する上でわかりやすいのではないかと最近は考えています。一般に日本近代文学に思想的支柱を与えたのは坪内逍遥で、それを最初に実践したのは二葉亭四迷だと言われます。そのこと事態は間違いではないというか、特に否定するべき要因はありません。ただ、坪内逍遥の『小説神髄』を呼んだ際の印象としては、この人は本当に小説とか文学とかそういったことを理解しているのだろうか…という素朴な疑問でした。人間の真実を描くとしてその範をシェイクスピアに求めていますが、やっぱり坪内逍遥が東京帝国大学でシェイクスピアの講座で単位を落としたことがトラウマになってやっきになって取り組んでみたものの、わかったようなわかっていないような…という印象を拭うことができません。また、二葉亭四迷の『浮雲』は、言文一致を目指し、更に「恋」を描こうとしましたが途中で挫折していますし、言文一致の範を江戸落語の口調に求めたためか冗長で中身がなく、退屈でとても読んでいられません。なるほど落語とは聴くものであって読むものではないという違った意味で感心してしまうような次第になってしまいます。

やはり、小説ってなんすか?と尋ねるならば、永遠の巨人とも呼ぶべき夏目漱石においでいただくのが相応しいのかも知れません。もちろん、現代小説と夏目漱石が直接リンクするとも考えにくく、漱石は今後も読まれ続けるでしょうけれどそれは源氏物語のように教養の一環として読まれ続けるであろうということであって、村上春樹さんと夏目漱石がリンクしてるとか、大江健三郎さんと夏目漱石がリンクしてるとかそんな風には思いません。

そうは言っても、明治小説という日本文学の一ジャンルに対して「あっしには関係のねえことでござんす」と言い切るだけの勇気がありませんから、漱石先生のこともちびっとは勉強しようと思うわけです。そして漱石先生が何を考えて小説を書いていたのか、つきつめれば明治人が小説とは如何なるものかについてどう捉えていたのか、もっと言うと、明治小説とは何かを理解する上で、漱石先生の『文芸の哲学的基礎』は大変に適したテキストなのではないかと思えてなりません。

漱石先生は言います。人間は実在しないと。私も、このブログを読んでくれている人も実在しないというのが漱石先生の立場です。しかし「こころ」はある。この心なるものが幻影なのか実在するのかは議論の分かれるところでしょうけれど、漱石先生が人間は実在しないが心はあると言ったのは、ヨーロッパの観念論哲学を前提とし、更に仏教的「無」の双方から考察した帰結としての人間観、世界観ではないかと思えます。ヨーロッパ哲学では人も物も実在しないが神を感知するために心を神は与え給うたということになるわけですが、仏教では心も夢みたいなものですから、全てをつきつめれば完全な無に到達するわけで、小乗仏教がその真理に近づくことで安心立命を得ようとするのに対し大乗仏教はせいぜいいい夢みましょうぜ、旦那となるわけです。いずれにせよ、漱石先生はヨーロッパの哲学のこともよく知っているし、東洋の哲学のこともよく知っているという稀有な大先生ですがら、そういうのを全て勘案して、当該の講演では心はあると言うことになったのだと思います。心も存在しないと言うことも不可能ではないですが、小説は心を書く手段なわけですから、心もないと言ってしまうと「文芸の哲学的基礎」も何もあったものではない、小説を書く意味もなくなってしまうという点で不都合なので、職業的な信念として先生は心は存在することを前提に講演を進めます。

で、いろいろ短縮して、小説は何を表現する手段なのかということに漱石先生は言及します。ある人は「人間の真実」が書かれていれば小説として成立すると考えるかも知れない。だけれど、ある人は「美」がなければ読むかいがないと思うかも知れない。またある人はヒロイズムが描かれることでカタルシスを得るという娯楽としての役割を小説に期待するかも知れないという風に小説に含まれる要素を先生は分類的に示し、何を書き、何を書かないかの取捨選択が迫られるという趣旨のことをお話しになっていらっしゃいます。

さてさて、これは意外と難しい問題です。人間の真実ってなんなんですか?から始まって美しいの定義ってあるんですか?ヒロイズムと自己満足はどこが違うんですか?と疑問が満載になってしまいます。人間の真実を描こうとするならば、田山花袋先生のような「若い女の子大好き」的自然主義で事足りるかも知れません。しかし、そこは漱石先生です。いろいろ必要だというわけです。人間の真実を描きつつ、美しいもの、例えば恋心を挿入しつつ可能ならヒロイズムを、自己満足的に陥らない程度に上手にヒロイズムをといろいろご注文があるわけで、少なくとも漱石先生はそういった自分の自分自身に対する小説とはかくあるべしという要求に応えようと非常に努力していらっしゃったことが分かるわけです。例えば『二百十日』のようにほぼ世間話に明け暮れながらも金持ちは華族様たちへの嫉妬を描きつつ、最後はちゃんと嵐に遭うというクライマックスも設けられているわけです。『こころ』の場合も、親友を地獄のどん底に突き落として自分だけ幸せになった罪悪感から死を選ぶという流れも、恋の美しさと欲望の醜さ、罪の意識に苛まれ死を選ぶという醜さとある種のけじめ、それを知った語り手が列車に飛び乗るというクライマックス。「先生」「高等遊民」という堕ちたヒーローなどなど。人間の本質は醜い!などと言って憂鬱にひたっているようではまだまだですし、革命的ヒロイズムにひたっているだけではお話にはならないというわけですね。このご講演の記録(現代に残っているのは先生によってある程度加筆修正されたもの)は、漱石先生がどういう考えで小説を書いていたのか、そして明治小説とは何かということの理解に大きな助けになると私は思う次第です。簡単に結論すると、私小説的自然主義はつまらないけど、人間の本質から離れたヒロイズムも意味はなく、私小説的要素を含みつつ読者を満足させるカタルシスへと至る様々なものが統合されていい小説になるという、そういうところに行きつきます。この講演の記録を読めば、漱石先生の小説もよりよく理解できるでしょうし、明治小説もより深く理解できるはずで最終的には現代の文芸に対する理解も深める手がかりにできるかも知れません。


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