昭和史53‐「日華親善」言説

私が追いかけているとある情報機関の発行していた機関紙の昭和14年11月1日付の号では、表紙の裏のページに「日支親善団体共栄会」という団体が製作したポスターを学童が見ている写真が掲載されています。当該ページに書かれた説明によると、『時局南支展』に共栄会が出品したポスターだということが記されていました。

日中戦争の真っ最中に「日支親善」って、あれ?と思ってしまいますが、ここで言う「支」とは汪兆銘政権のことです。近衛文麿の「国民党を相手とせず」の声明以降、日本帝国は蒋介石政府打倒に情熱を傾ける一方で、傀儡の汪兆銘政権を正統な中国政府であると主張し、その後は同政権と日本との親善を強調する、日華親善の言説が多用されるようになります。

『時局南支展』が如何なる展覧会であったかは検索をかけてもはっきりとしたことは分かりませんでしたが、華南地方を日本軍が占領した後に、その地方が平和に発展し、親日的な社会が建設されているとの宣伝がなされていましたので、当該の展覧会もそういう趣旨のプロパガンダの類のものであろうことが想像できます。

東京外語大学の博士論文で、日本の南進論が国策化された後、台湾総督府がそれに対して重要な役割を果たしたこと、南進には広東地方も含まれていたことを研究しているものを発見したのですが、当時の帝国としては華南経営に並々ならぬ熱意を持っていたことは間違いなかったようです。

日華親善言説は台湾でも盛んに用いられていたらしく、何義麟という先生の研究によると、日華親善というある種の熱気に便乗して台湾の外で発展しようとした台湾人、一方で日華親善という言説を論拠に日本帝国支配に抵抗しようとしたグループも存在し、そのグループの人々の代表的な人物として林献堂、蔡培火のような人物の名前が挙げられています。

即ち、日本帝国としては日華親善の名の下に汪兆銘政権を使いたいと言う思惑があり、一方で同じ言説を用いて海外発展したい人々、帝国支配に抵抗したい人々に分類できるとも言え、「日華親善」という言葉は一つでも、その意味については多様な解釈が存在したことが分かります。

で、上に述べた共栄会に戻りますが、共栄会については検索をかけてもどういう人が参加していたのか、どんな活動をしていたのかということはさっぱり分かりませんでした。ただ何義麟先生の研究によると松井石根(!)を会長とする大亜細亜協会なる団体が存在し、それが台湾にも支部を構えて「日華親善」言説を流布させていったという構図があったようです。この大亜細亜という言葉も、一方では日本の帝国主義の拡張に利用したいという思惑の人もいれば、一方ではアジアの国々の親善共栄を素朴に善意で信じていた人もいたように思えますし、植民地の人たちからすれば「大亜細亜」の理想を掲げるならば、支配者と被支配者の壁をなくしてくれよと言う言葉も出てきそうな、多様な解釈が可能なように思えます。これを突き詰めていけば頭山満、宮崎滔天、孫文あたりの話まで繋がって行きそうで、知れば知るほど、考えれば考えるほど奥の深いもののように思えます。この複雑な言説の密林を前にして私はちょっと立ちすくんでしまっているのですが、めげずに追って行きたいと思います。


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