昭和史51‐映画法と文化映画

日中戦争が深刻化していく中、国家総動員の方針の一環として「映画法」というものが制定されました。各映画会社に娯楽映画ではなく、戦争協力のための映画作品を制作させることを目的として制定されたもので、プロパガンダの一環と言えます。映画法に基づいて制作される映画のことを教育映画、または文化映画と呼ぶようになるのですが、このようなプロパガンダの手法はナチスドイツのそれを真似たものだと言われています。

文化映画として有名なものには東宝映画文化映画部の『上海‐支那事変後方記録』というものがあるようなのですが、この他に同映画会社で円谷英二を責任者とする特殊技術課というものを設置し、ミニチュアを使用した『海軍爆撃隊』という作品も作られたようです。戦後のウルトラマンやゴジラの日本ならではの特撮映画の原点が、国家総動員の精神に基づく映画法という文化統制政策にあったというのはなかなか興味深いことではないかという気がします。

私が追いかけている資料の昭和14年10月1日付の号では、台湾総督府臨時情報部が東京芸術映画社に委託して文化映画『広東』という作品の制作を計画していることを宣伝しています。東京芸術映画社なるものが存在していたことは確からしく、同映画会社が文化映画(プロパガンダ映画)の制作を終戦まで続けていたことも事実のようなのですが『広東』という作品を制作したかどうかについては検索をかけても全くヒットせず、どんな映画なのかはさっぱりわかりません。当該の宣伝では、広東地方に関する地理的な説明、同地方に於ける抗日運動の「侮り難し」状況と、それゆえに華南地方を日本が抑えることがいかに重要かを強調し、次いで「皇軍」の「果敢なる」様子と同地方の復興(戦争で荒廃したが、日本軍の占領後は復興が進んでいると言いたいのだと想像します)を紹介する内容の映画だったようです。

文化映画『広東』なるものは検索には引っかからなかったものの、芸術映画社と中華電影公司が共同で製作した記録映画『珠江』という作品は存在したようです。珠江は香港とマカオの間の広大な河川領域のことで、もしかすると当初『広東』というタイトルで制作する予定だったのが、途中から『珠江』というタイトルに変更されたのかも知れません。ただ、この『珠江』なる映画がどんな映画なのかはとんと分かりませんでした。中華電影公司という映画会社は、汪兆銘政権が50%出資し、満州映画協会が25%、残りは民間の映画会社が出資した合資会社だったようです。劉吶鷗という台湾出身の人物がこの映画会社に関係していましたが、1940年に上海で暗殺されるという悲劇的な運命を辿っています。リー・アンの『色・戒 ラスト・コーション』に近い感じなのかも知れません。芸術映画社は終戦後に一旦解散となり、その後復活の可能性を探るも断念して消滅、中華電影公司も日本のプロパガンダに協力していた会社ですから、終戦と同時に消滅しています。

映画は椅子に座ってリラックスした状態でみるものですが、文化映画の一端を探ってみると非常にスリリングのものだったようです。

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