ヘンリー8世‐悲嘆に暮れるカリスマ



イギリスの歴史を通じ、おそらく最も有名な国王がヘンリー8世ではなかったかと思います。ウエールズ、アイルランドをイングランドの版図と結合させ、いわゆる連合王国を作り出した王であり、今に至るまでそれはイギリスのもめごとの種にいつでもなり得るという意味では、ちょっと問題のある人だったのかも知れないのですが、ヘンリー8世以降にはスコットランドの併合もありますから、我々日本人の目から見て、「現代のイギリス」の形が大体できあがったのがヘンリー8世の時代と言えるかも知れません。既に百年戦争は終わっており、イングランド王がフランス王の王位を如何に要求しようとも、それが叶う余地はもはやなくなっていたと言えますが、慣例的に、フランス王を言い張ったことは記憶されてもいいかも知れません。

ヘンリー8世の人生でヨーロッパの歴史に最も大きな影響を与えた事績は、英国教会のカトリックからの分離と言えるのではないかと思います。ヘンリー8世以前から、教会を経ずに直接に神とつながることができるという発想を持った人はいたことはいましたが、見つかり次第異端審問で火あぶりにされており、キリスト教という巨大な世界と長い歴史の中で、ヘンリー8世が初めてローマカトリックに従わないキリスト教会を設立したことは、その後、ヨーロッパがカトリックとプロテスタントとの間で宗教戦争を続けたことの始まりとも言えるものです。

ヘンリー8世の英国教会の設立はごく個人的な理由に拠っています。大変に有名な話ですが、離婚したいと考えたヘンリー8世がローマ教皇からその許可を得ることができず、揉めに揉めてヘンリー8世は破門されてしまいます。神聖ローマ皇帝が破門された時に、雪の中3日間立って謝罪し、ローマ教皇から赦しを得たというカノッサの屈辱とは反対に、ヘンリー8世は自分の裁量で教会組織を設立してしまったというわけです。そのようなことが可能になった背景には、神聖ローマ皇帝の正当性がローマ教皇によって与えられていたという原理的な問題があったのに対し、英国王は百年戦争と薔薇戦争というやっかいな戦争を経験したことで、世界の中心のバチカンとの連動制を失った辺境なりの世界を作り上げていた、或いはイギリスの事情が複雑すぎてローマ教皇が介入できなかったということがあるかも知れません。

また、ビザンツ帝国の滅亡によって始まったルネッサンスがそれなりにヨーロッパ各地へと波及していく時代でもありましたから、ローマ教皇だけが信仰の主催者や頂点に立てるわけではない、カトリックは絶対的な存在ではないとの意識がじわじわっと広がっていたことも、心理的にヘンリー8世を後押ししたのかも知れません。英国教会のミサとカトリックのミサは、その他のプロテスタントのミサと比べるとよく似ているなあという感想を持ったことがありますが、プロテスタントの人々は信仰の在り方がカトリックとは違うことをレゾンデートルにしているのに対し、英国教会の場合は、ヘンリー8世の個人的事情に拠るものですから、信仰の在り方を変えなければならない必然性という点はどうしても低くなってしまうため、組織としてはカトリックではないが、やることは大体、カトリックと同じみたいなことになったのかも知れませんん。

ローマ教皇を敵に回しても「どうだ、やれるもんならやってみろよ」という不敵な態度を見せたヘンリー8世ですが、私生活は大変に荒んだもので、おそらくは「愛」には激しい渇望があった、或いは愛とは何かがよくわからなくなってしまった人だったのではないかと思えなくもありません。当時のイングランドのテューダー朝は薔薇戦争で勝ち抜いて建設された新しい王朝であったため、ヘンリー8世はどこからも文句の出ない嫡出男子を求めていたと言われていますが、ローマ教皇を敵に回して(当時の感覚で言えば世界そのものを敵に回して)まで手に入れた2人目の妻は流産を繰り返します。3人目の妻であるジェーン・シーモアが男子を産み、その子が後にエドワード6世としてヘンリー8世の死後に王位に就くことにはなるのですが、その時の出産が原因でジェーン・シーモアが亡くなってしまいます。エドワード6世は病弱で、安心できないヘンリー8世は次々と妻を取り替えていく人生を歩むわけですが、却って無駄に王位継承権者を増やすことになり、その子どもたち、従妹たちの間での残念なことに殺し合いの歴史が展開されていくことになってしまいます。そして最後の勝利者のエリザベスは子どもを残さず、テューダー朝は絶えてしまうという意味の分からない結果へとつながってしまうわけです。もしかしたらエリザベスは自分の子孫が殺し合う場面を想像し、敢えて子孫を残さなかったのではないかとすら思えてきます。

ヘンリー8世は時に悲嘆に暮れ、時にパラノイア的にもなり、その個人の内面を想像すれば、発狂寸前の日々を送っていたのではないか、時々本当に発狂していたのではないかとも思えますが、中年期には王としての堂々とした風格と知性、教養があり、カリスマ的に尊敬されていたとも言います。天才とは他人には分からない苦労を背負い込む運命にあるものなのかも知れません。



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