『銀河鉄道の夜』と近代

最近、ようやく1985年公開のアニメ映画『銀河鉄道の夜』を観て、今までこの作品を観ていなかったことを大いに後悔し、かつ、観ていなかった自分のことを恥ずかしいとすら思います。ため息が出るほど素敵な作品です。

ごくごく個人的なことですが、私には宮沢賢治に対して「暗い…暗すぎる…」という思い込みがあり、宮沢賢治は日本のファンタジーの大家、死後高く評価されたという意味ではゴッホみたいな壮絶な天才であるにも関わらず、「現実が辛いから、ファンタジーに行ったんでしょ」的な偏見が私の中から抜けず、宮沢賢治が好きだという人に出会うと、内心「へぇw」と思う程度に傲慢でしたが、今回、『銀河鉄道の夜』をアニメ作品で観て、自分の偏見は間違っていた、この映画を作った人はもちろんえらいが、原作者の宮沢賢治もめちゃめちゃえらいと考えを改めざるを得ませんでした。私が悪かったです。反省します。謝罪もしたいくらいです。

主人公のジョバンニのまっすぐな目、真摯な動き、善良な表情など、どれをとってもジョバンニに好意を抱かないわけにはいかず、クラスメイトたちがジョバンニをからかう中で、ただ一人、ジョバンニに対して優しさと愛情をもって接するカムパネルラに憧憬と尊敬の念を抱かざるを得ず、久々に凄い作品を観てしまった、感動してしまってではないか…。と大いに驚いたのでありました。

私が個人的に注目すべきと思うのは、作品の中には古典的近代の記号がちりばめられていることです。家に帰ってスイッチをひねれば電灯に明かりが入るというのは現代人にとっては普通のことですが、宮沢賢治の時代では、それ以前とは全く新しい時代が始まったことへの感動や驚き、それが西洋と一緒に入ってきたという事実に対する畏怖・畏敬で全体が構成されているとすら思えます。天文学の知識ももちろんですが、病気のお母さんのために買って帰るパンと角砂糖、そして牛乳。これらは西洋人が日本人にもたらした新しい食生活のスタイルであり、パンを食べれば脚気が治るという、当時の日本人にとっては驚愕の栄養失調からの回復方法であり、牛乳を飲めば元気になれるという半分神話みたいなことが浸透しつつあった時代です。時代的に若干のずれはあるものの、19世紀の後半にスペンサーの社会進化論が多いに流行り、福沢諭吉の弟子が日本民族改造論みたいなものをぶちあげて、肉とパンを食べれば西洋人みたいになれるぞというアホみたいなことが喧伝されていた時代の名残が、20世紀の初頭を生きた宮沢賢治の時代にはあって、そういうもの、古典的に、科学は万能と信じられた新時代の扉が開いた時代です。ヨーロッパで言えばニーチェであり、日本で言えば宮沢賢治と言ってもいいかも知れません。

そうは言ってもニーチェが東洋的無神論をその思想の支柱に据えようとしたのに対し、宮沢賢治はヨーロッパ伝来のキリスト教への憧れを隠そうとはしていなかったように思えます。ただし、宮沢賢治本人は仏教への帰依が厚かったとも言われています。宗教はいろいろなタイプがありますが、長く残っている宗教は大抵の場合、その土地土地で人の心を安らかに救済することを役割として背負っていますから、宗教について真剣に考えたいという人、そういう方面に探求心がある人は、遠藤周作さんのように仏教にもキリスト教にも深い理解を持つようになっていくものなのかも知れません。

『銀河鉄道の夜』のタイタニック号に関する部分は素直に泣けます。アニメ作品の中で、荘厳な音楽と一緒に崇高な場面に仕上げた制作者の方に対しては素直に尊敬いたしますとしか言えません。

遠い銀河をどこまで行くかも分からない、延々と旅が続くかのような錯覚が起きる作品ですが、考えてみれば銀河鉄道999と似通う部分があり、原作、アニメ、松本零士さんの漫画が相関関係にあると見て、おそらくそうは外れてはいないでしょうし、もうちょっと言えば、千と千尋で省線列車みたいなものに乗る場面にも共通するものを感じます。

大変に見事な作品であり、観なければ損とすら思える一押しであります。

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