フランクフルト学派‐何ゆえにナチスは台頭したか

フランクフルト大学の社会学研究所に集まった錚錚たるたる面々が深刻に考えをめぐらしたのは、ナチスが台頭したことの理由を探るためでした。ドイツ人はいたって真面目な人が多く、真面目だということは理性的であるとも言え、なぜそんな理性的な国民性でありながら、ナチスのような不逞の輩と変わらないグループに心酔し、積極的に支持したのかということは、なおざりにできない重大な問題であったわけです。

特にフランクフルト学派の第一世代は実際に第二次世界大戦を経験し、目を背けたくなる残虐な現象を見聞した世代であり、ということは同時に祖国が廃に帰するのを目撃した人々でしたから、そのような問いは大変に重いものにならざるを得なかったとしても不思議なことではありません。日本人が日本はなぜアメリカと戦争をしたのか、そういう指導者の登場をゆるしてしまったのかについて自問し続けるのと同じ感じなのかも知れません。

ホルクハイマーはアドルノとともに『啓蒙の弁証法』を発表し、上のような悲惨な経験をするに至った理由として、「道具的理性」に問題があったのだと指摘します。真理や善の存在を忘れ、利得があればよしとする堕落した理性があったからではないかというわけです。アメリカのプラグマティズムに対するさや当てもないわけではないようにも思えますが、彼らによると人が道具的理性的な堕落した状態になると、ナチスのようなマインドコントロールの上手い連中が出て来た時に抵抗力を失ってしまうということになるようです。

私個人はホルクハイマーとアドルノの指摘がどの程度正しいかについて判断するほど優秀ではないのですが、ナチスに関することについては、エーリッヒフロムの『自由からの逃走』の方がよりよく説明してくれているのではないかと思えます。フロムはまず第一に、第一次世界大戦後に社会が混乱したことで若い世代が伝統や習慣、受け継がれた道徳を信用しなくなったということを挙げ、続いてワイマール的な自由という責任に耐え切れなくなり、自由から逃避したいという願望が高まった時にナチスという甘言を用いるグループに全てを預けて楽になりたいという心理が働いたと指摘しています。私にはこちらの説明の方がより説得的であるように思えます。

もちろん、ホルクハイマー、アドルノとエーリッヒフロムのどちらが優れているかを比較することが適切なのではなく、両者は交流もあって互いに補完する作用を持っていたとも思えますから、双方を総合することで、より深くナチス台頭という現象について理解できるのだと言えるのかも知れません。アドルノは「権威主義的パーソナリティ」という言葉を用い、権威に盲目的に従う人々が増えたことがナチス台頭の要因と考えましたが、これはフロムの考えにとても近いものだと言うことができるようにも思えます。

フロムは『愛するということ』という著作で1950年代のアメリカ人の恋愛結婚について、「愛がマーケットになっている」と批判しています。誰もが自分をより高く売りつけようと考え、より条件の良い相手と契約を結ぼうとしているというわけで、これは愛ではなく経済行為であるというわけです。これも大変に説得的な部分があるように思えます。『愛するということ』の英題は「The Art of Love」で、愛を実践するための指南も書かれています。尤も、結論は「自分で実践する以外にはない」という突き放した感じなのですが、確かに愛は自分で実践する以外にはありませんので、大変に深い内容と言えるようにも思います。フロムという愛とは隣人愛であり、隣人愛は実践できているようで、案外と難しいものですから、私も忘れずに努力したいと自省する際の教科書にしています。何十回も読んだので、今は手にとって読むことはなく、内容を思い出して反省するわけですが…。

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