ニーチェ‐私は闘う人である

ニーチェが生きた時代である19世紀後半は、現代よりもより強く無神論がヨーロッパに広がった時代ではないかと思います。燃料機関の発達と自然観察の進歩により、それまで神という神秘的な存在によって司られていたであろう自然現象の多くが説明されるようになり、神の不思議な力が働いているということに疑問を持つ人が増えました。極めつけはダーウィンの進化論で「人は神によって作られたのではなく、猿かそれに似た生き物から進化したのだ」という議論が展開され、信じる人と信じない人との間で喧々諤々されたようです。アフリカや東南アジアにヨーロッパ人が入ることが頻繁になったことで、ゴリラやオランウータンのような、人間とよく似ている上に知性もある生き物が見つかったことも、彼らと人間は祖先を同じくするのではないかと感じる人も多かったはずです。スペンサーが社会進化論を言い出して本気で議論されたりということも起きます。現代であれば、量子技術の発達により自然現象があまりに緻密にできていることに驚嘆したり、通常の物理的な説明が通用しないことの壁にぶち当たったりするため、かえって神のような超越的存在がいると考えた方がなんでも説明がつくのではないのかと考える人もいるみたいなので、むしろ当時の方が、無神論は深刻だったのかも知れません。念のためにつけたしますが、私が個人が特定の宗教に肩入れしているとか、或いはその逆の無神論を信じているとか、そういうわけではありません。19世紀の後半のヨーロッパの気分のようなものについて述べたいと思い、無神論や進化論について言及してみました。

さて、そのような時代に生きたニーチェは、これはもう言い切ってしまう方がいい、ぐだぐだああでもないこうでもないと言ってないで、蹴りをつけた方がいいとして、無神論の立場を選びました。有名な言葉ですが「神は死んだ」というわけです。また彼は、キリスト教は弱者の社会に対する恨みを煽っているとし、そのような復讐感情をルサンチマンと呼び、敢然とキリスト教との決別を宣言します。

ニーチェは、神に頼らず慈悲も請わない強き人、「超人」という概念を作り出し、人は超人を目指すべきという結論に辿り着きます。超人は自分で考えて判断し、障害があれば闘う決意を持つ存在です。私の個人の印象ですが、このような人間観はアドラー心理学に近いものがあるのではないかと思います。アドラーは過去の体験は関係なく、常に明日を見て、挫けず、めげず、拗ねず、くさらず、歩くべきだと説きました。ニーチェの超人と似ているように思えてなりません。ヨーロッパの思想体系はそれぞれに複雑に絡み合っていますので、アドラーがニーチェを意識していなかったと論証することの方が難しいくらいかも知れません。

ニーチェの著名な著作に『ツァラトゥストラはこう言った』がありますが、その内容については、四月ごろにブログで書いてみたいなあとなんとなく考えています。

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