トマスモアの『ユートピア』の理想と現実

15世紀後半から16世紀前半までを生きたイングランド人のトマスモアは、その著作である『ユートピア』で、完全に理想的な世界を表現しています。それは、農業生産が完全自給の世界であり、人々の労働時間は一日6時間と定められ、都市と農村の格差を無くすために、二年ごとに都市と農村の人々を入れ替え、更には最も便利な蓄財のツールである貨幣は廃止される世界です。

以前、フランス映画で、とある地球外の文明人たちが、貨幣のような不便で人の心を濁らせる存在はすでに不要になっている生活を送っていましたが、集会場で物々交換をしていたので、「それではかえって不便ではないか…」という感想を持ってしまい、やっぱり通貨無き社会というのは難しいものなのではないかとも思えます。

もし、トマスモアの描いたような、労働時間も決まっており、一切の格差がないとすれば、それは確かにいい社会のように思えますが、人には経済と労働以外の格差も存在するため、完全に格差を消滅させることは不可能というか、それを目指すとかえって人間性を失うことにもなりかねず、経済に限定して格差をなくし、それをして理想郷だと考えるのは、私はちょっと浅はかなのではないかと個人的には思えます。また、そのような社会は変化のダイナミズムに乏しい可能性が高いように思え、結果として多様性を容認せず、環境要因の変化にももろい社会になるのではないかという気もしなくもありません。

格差はあるけど、平和でお気楽だったのが江戸時代です。武士は今日と同じ明日を生きることができることで安心して仕事をすることができます。しかも、臨時で寝ず番みたいなのはあったとしても、基本的には夕方には家に帰れるという理想的で平安な仕組みです。仮にこれについて社会主義的な批判をするとすれば、そのような安心安定は農村から搾取によって成立していたため、容認し難いということになるのではないかと思います。実際、現代人で武士のような特権階級が実際に存在することがいいと思っている人はいないでしょうから、やはり、江戸時代の武士的平安はトマスモアの理想郷とはかなりの違いがあると言えると思います。

一方、江戸時代の農村では、確かに東北地方の冷害のような深刻なことも起きたとはいえ、農村は農村で高い自治を保ち、かつ、平和で、豪農と呼ばれた家も多かったように、それなりに豊かさを享受していたのではないかと思います。ですが、農村の高い自治というものがくせもので、私の頭には『楢山節考』的な生きづらさが浮かんできてしまいます。

興味深いのは、平和主義者であったトマスモアは平和維持のための強力な軍隊の存在が必要だと考えていたことです。強制力がないと、もっとお金がほしいから一日八時間働くというけしからんという輩が出てくるとも言えますし、都会の生活が好きなので、農村に行きたがらないという人も出てくるということもあるかも知れません。理想郷を他者から狙われないための自衛という意味も当然に入るはずです。一歩間違えれば文化大革命に突入しかねない話とも思えます。トマスモアが考えていたのは、ホッブスのレヴァイアサンとか、ナウシカの巨神兵みたいな感じのものかも知れません。宮崎駿は巨神兵のような存在の必要性を認めながらも拒絶したいという矛盾と葛藤の中をナウシカで描いたのだと思いますが、最近の南スーダンPKOとか、或いは力の均衡による平和とか、パクスアメリカーナとか、いろいろな議論をはらみそうな論題ではあるかも知れません。

これは私個人の人間観にかかわることですが、やはりトマスモア的理想郷を作るためには、その社会に参加する人間に高い倫理性が求められるのではないかと思えます。市場原理主義やグローバリズム、自由経済主義のようなものは、社会主義とは逆の発想のようにも一見思えますが、市場原理主義や自由主義経済は虚偽の表示をしないなどの高い倫理性が求められる仕組みであると私は考えていて、トマスモアであろうと、アナーキズムであろうと、経済リベラルであろうと、個々人に高い倫理性が求められますので、突き詰めるとあまり違わない社会になるのではないかとも思います。

トマスモアはヘンリー八世の離婚に反対して処刑されるという、命をかけて信念を貫いた人ですが、彼自身も、高い倫理性を実践すべく日々自己を教育していたのかも知れません。

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