第一次西園寺公望内閣

西園寺公望という人物をもし、簡単にまとめて表現するならば「開明的なお公家さん」というのが適切かも知れません。戊辰戦争では実際に戦線に立ったという経験を持ち、若いころは軍人志望でしたが、後にフランス語を勉強し、パリにも10年ぐらい留学してお金も充分にもらった上での楽しい前半生を送ります。フランスで自由主義的な空気に触れたことで、社会主義的な傾向を持っていた人という印象も多少は受けますが、イギリス型立憲君主制を理想としていたと言われています。

帰国した後はぶらぶらしたり、新聞社の立ち上げに乗っかったりなどしていますが、やがて伊藤博文に見出され、おそらくはフランス語の翻訳・通訳が助かるというのも大きく働いたと思いますが、政治の世界に入って行きます。伊藤博文が立ち上げた立憲政友会の創設メンバーの一人であり、日露戦争中は長州閥の桂太郎内閣に協力しますが、日露戦争が終わった後にいわば見返りとして次の首相の座を得ます。政治家として原敬を育てますが、原敬はわりと性格が激しかったため、西園寺に詰め寄るということもあったらしく、途中から西園寺と原敬は険悪な雰囲気になったとも言われています。

第一次西園寺内閣は主たる仕事は日露戦争後のいわば新秩序の形成で、日露協約、日仏協約を結ぶことで幕末以来の不平等外交を実質的に終わらせたというのは注目に値すると言っていいかも知れません。既に保護国化していた大韓帝国に対しては韓国統監の権限強化を認めさせる第三次日韓協約を結んでおり、日本の帝国主義を一歩進めたという面もあったとすることも可能かも知れません。

当時は日露戦争の戦勝で日本の帝国主義が自信を持ち始めていた時期と重なるため、韓国を日本の植民地にするべきだという意見も出始めており、伊藤博文は保護国の状態で結構という立場で、西園寺公望としてはそのバランスをとるのに苦慮せざるを得なかったという面もあったことでしょう。

山県有朋が西園寺公望のリベラル志向を警戒して西園寺下ろしを始めたことに気づくと、西園寺はさっさと首相を辞めてしまいます。後ろ盾になってくれたであろう伊藤博文が韓国統監になって中央政治との距離があったことも陰に陽に影響していたかも知れません。

政権は再び桂太郎に移り、第二次桂太郎内閣が組織されますが、当面は西園寺と桂がキャッチボール風に政権をやりとりする桂園時代が続くことになります。

西園寺公望は政党政治の確立に積極的でしたが、昭和に入ると政党政治に絶望するようになっていき、自らの手で政党政治を終わらせていきます。


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